「文化政策」とは何であったか?(下)

 1つ前の記載で教養学部(文化科学研究科)で1999年に生じた「文化政策騒動」がどんなものであったかを述べてみた.この記載では当時の文化科学構想をどのように評価すべきであるかについて,私見を述べたい.

文化政策構想の何が変だったか?

 文化政策構想は1999年5月に最初に阿部学部長から見せられたときから,私は止めて欲しいと思っていた.その最大の理由は「やりたい人がやるのはよいけど,他の人を巻き込まないでよ」ということである.「文化政策」という,私が入りようがない看板の下に入れといわれたら,私の立場はない.「文化構造」とか「文化環境」といった,何のことかわからない漠然とした看板であれば,中に社会学グループがあることもある,と思われるだろう.しかし「文化政策」という狭い内容の看板の下に多様な領域の人を包摂するというのは,土台無理な話である.
 文化政策構想は,上記の点を除いても支持すべきものとは私には思えなかった.その理由を書いてみよう.

 第1に,「文化政策」という看板を掲げても教養学部の構成では商売にならないとしか思えなかったことである.
 埼大の政策科学研究科は,毀誉褒貶はともかく,商売としては成功例と目された.だから埼大から独立した大学として再出発できたのである.しかし同じことは教養学部にはできない.政策科学研究科(独立研究科)は,私が知る埼大時代は,2つのプログラムで商売をしていた.正式名称は忘れたが,国内プログラムとASEANプログラムと呼んでおこう.両方とも,学生はお役人であり,普通の学生ではない.ASEANプログラムはASEAN諸国の偉い方のお役人を受け入れる.たぶん政府経由での派遣だろう.国内プログラムは主に日本の地方公務員が学生である.ASEANプログラムの方は政府経由で受入れができていたと思うのであるが,国内プログラムの方は,県庁が大学院で学ばせるために職員を休ませないといけないので,学生定員の確保は難しかった.当時の自治省(2001年から総務省)官僚だった教授が年中各地の県庁を回って学生の呼び込みに奔走していた.自治省の高級官僚であれば県庁には強い権力を持っていたと思うが,それでも学生の確保は困難だった.
 政策科学研究科には「〇〇政策」という講座ないし授業科目が並んでいたが,その「〇〇」は特定の省庁に対応していた.金融政策なら金融庁ないし大蔵省,科学技術政策なら科学技術庁に対応し,かなりの数,その対応する省庁の方を教授陣として受け入れていたのである.いくつもの省庁が政策科学研究科に中に縄張りを持っていたようなものである.文科省(・文化庁)に対応する授業科目の1つとして「文化政策」があった.当然,人気のない政策科目である.
 それでも,いろんな「〇〇政策」の授業が並んでいれば,少しは履修する学生もいるかも知れない.が,政策としては相対的に重要度の低い文化政策だけで教養学部の院が店を開いて,誰が来るというのか? 学部卒の学生は,通常,学士課程で学んだ科目で院の進学を目指す.学部で政策を,まして文化政策を学んだ普通の学生などほとんどいない.お役人でも,わざわざ文化政策を学ぶために大学院に来る方は,いても希だろう.そういう希人がいるなら,まず英米の大学院に行く.教養学部の先生が県庁回りなどして学生を呼べる訳がない.
 「文化政策士」といった国家資格があるとか,専門職公務員の試験に文化政策という種目があるなら別であるが,そうではない.仮に文化政策に携わりたいと思う場合でも,まず公務員になることが優先である.公務員になるためなら法学や経済学を学ぶのが早く,文化政策を学んで公務員になりやすい訳ではない.

 第2は,その点は詳しく存じ上げないのだが,おそらく案らしい案が例の人事投票までに出来ていなかったように思えてならない.
 確か秋頃と思うが,私は当時の岡崎学部長に面会を申し入れて面談したことがある.「文化政策構想を進めるなら私を大学院担当から外してくれないか?」とお願いに行ったのである.文化政策を掲げた専攻で私が設置審を通るとは思えなかった.通ったとしても文化政策の看板の下で商売するのは本意ではない.
 ただ,その折は岡崎先生からあまりお言葉はなかった.担当から外れることはできない,という返事があっただけである.「教養学部の講座は修士講座であるから,在職する限り修士を担当することが前提になっている」ということか? といったことを私の方からお尋ねした.そうだ,という返事だったように思うが,正確なお言葉はなかったかも知れない.
 このときの面談結果は私には意外だった.これこれこういう訳だから,文化政策専攻になっても,あなたは今まで通りの授業をやっていればよいのだよ,といった返事をしてなだめられるだろうと私は予想した.そのようにいって欲しかったのである.私が不安を覚えていたのは,文化政策専攻に入ることになったらどうする必要があるか,ないかがハッキリしなかったからでもある.
 今から思えば,岡崎先生は私に説明をしなかった訳ではなく,何がどうなるか,まだ分からなかっただけではないか,という気がする.文科省から何かいわれればそれで決まるけれども,具体的な授業科目群構成を検討するところまで行っていなかった(でもそうはいえない),ということだったかも知れない.

 第3に,今から眺めると,文化政策構想は実現するための資源を時の学部執行部から与えらえていなかった,そのために潰れるべくして潰れた,というのが真相ではないか,という気がしてくる.つまり,学部教員の半分(おそらく半分以上)を擁することになる文化政策専攻に,新ポストを2つまでしか与えようとしなかった,という点である.ハッキリいって当時の教養学部教員に,まともに文化政策を担当できる(その実績を示せる)方はいなかった.では新規2ポストで文化政策専攻ができるかというと,まあ無理だったろう.それで文科省がOKというのかも知れないが,外部に公表する(例えば入試説明会で説明する)のはあまりに恥ずかしい.

 第4に,文化政策の推進においては学部内の「縦のライン」が奇妙であると映った.学部内に確か「改革推進委員会」という組織があり,そこに推進を主張する方々が集まっていた.ただ通常の将来計画委員会は別にある.私には頭が2つあるように見えた.その光景はなんとも不思議だった.
 改革推進委員会といった組織が将来計画委員会とは別途にあるとすれば,実務的な作業を行うWGのようなものであるはずだろう.判断は学部長と将来計画委員会が行い,実務的な作業を改革推進委員会がやる,同委員会は判断はしない,というのであれば「縦のライン」はすっきりする.が,両方の委員会が判断をしていたような感じがあった.
 例えば,私は2014年に再び学部長になり,人社研の設置の作業をした.2014年の2月と3月に,4月からの次期学部長予定者という立場で,次期三役+α(権先生や松原先生)で経済学部との間で人社研の内部規程類の協議をし,設置のための作業は主に4月5月に行った.その間,とりまとめは三役+αで行っており,その他の方々には,各自の個人調書の作成をお願いする以外はほとんど作業をして頂いていないと思う.実務的な作業は三役+αで行っており,実は実務のほとんどは事務方(ほぼ高松事務長)が行った.文科省との折衝も経済学部長と私+αが担っている.部内の縦のラインは単純明快だった.だから一層,文化政策の折になぜあんな格好のラインで話が進んでいたのか,不思議である.
 
文化政策構想の功

 私は文化政策構想にはネガティヴな気持ちを持っていた.しかし後から振り返ると,文化政策構想には功があったような気がする.よくいえば学問的,悪くいえば浮世離れした教養学部の中に実践的志向を持ち込んだことである.文化政策構想そのものは潰れたけれども,その「精神」は継承された.つまり,2001年度の修士改組で文化環境専攻を作ることで実践的志向が教養学部の中に導入された.
 このときに出来た実践的志向は,2007年,私が副学部長のときに案を取りまとめた大学院GP(当初の呼び名は「学院教育改革支援プログラム」)の「人文学諸領域の職業的スキルアップのために」の中で一応の形になった.このGPでは6つのプログラム(「日本語教育プログラム」,「埋蔵文化財保全教育プログラム」など)を設定した.三浦先生に多くのプログラムを発案してもらったことが印象に残っている.
 そのGPがなんじゃといわれればそれまでではあるが,2004年に大量削減を喰らって気分が落ち込んだ教養学部の気分を明るくするための公共事業としては役立ったのである(その後に私が仕掛けた公共事業の予算がグローバル事業だった).一時ではあるが贅沢ができた.
 当時,多くの地方国大の人文系では,地域貢献という形で実践的志向を持ち込んだと思う.埼大教養学部は,職業的なスキルアップという形で実践的志向を表面に出すことになった.その実質は問われてよいが,同じ方向での努力は今後も必要になる情勢だろうと私は思う.

文化政策構想時点で積み残した問題

 功があれば罪もあるのが普通であるが,文化政策構想には罪はない.構想が実現しなかったからである.しかし文化政策構想の後に出来た新たな3専攻体制は,後から考えると問題を残していたようにも思える.
 1996年発足の3専攻体制から新たな文化環境研究専攻を含む2001年発足の3専攻体制に移行するとき,誰が文化環境専攻に入るかは教員の希望で決めるしかなかった.この点で問題が生じていたのであるが,その点に気づくのは少し後のことである.
 問題とは,第1に同じ領域の教員が院の別専攻に属することが生じたこと,第2に院の専攻間の志願者のバラツキの問題が顕在化したことである.
 1番目の問題について.教養学部の領域構成は学士課程の構成が基本であり,学士課程では同じ領域は同じコース(後に専修-専攻)に収まっていた.しかし院の専攻所属は,文化環境研究専攻を作ったときに個人の希望で決まったから,学士課程では同じコースの教員が院の別専攻に属することが生じた.そのため,大学院での分野構成が分かりにくくなっていた.例えば,ある先生が外国に出るのに同じ分野の先生に指導教員をお願いするという場合,新たな指導教員は別専攻になる,といったことが生じた.すると学生を転専攻させないといけない.転専攻自体はよいとしても,特定専攻に入学したはずなのに教員の都合で学生の専攻名が途中で変わることになるから,学生にとっては割り切れない思いが残る.履歴書に説明を要することになりかねない.ただ,この点は相対的に小さい問題だった.
 2番目の問題はそれ以前にも存在したが,顕在化したのは私が最初に学部長(研究科長)になった2008年だった.その頃中期評価と認証評価の作業が入ったけれども,文化構造研究専攻で定員不充足であることが強く指摘されてしまった.
 実はその指摘が出るまで,教養学部執行部は研究科全体で定員を充足していればよいという認識だった.文化構造研究の充足率は前から低かったが,日本アジア専攻の特に日本語教育部分で多くの入学者を受け入れていたので,研究科全体は学生を充足していたのである.が,定員充足率は定員を定義する専攻別で算出される,と分かった.いわれてみれば理屈である.評価で現れた問題点はこの問題だけではなかったけれど,この問題が一番大きかった.私はこの問題の対処に追われることになった.
 当時私が調べたことの記憶では,文化科学研究科発足当時と2008年当時では,修士の定員も志願者数も同じであり,以前は問題はなかった.しかし2点で変化が生じていた.
 まず,以前は定員を充足させなくてよいという認識だった.定員より少ない入学者を受入れ,他は「レベルに達していない」といって入学させなかったのである.「こんな学生を入学させると苦労する」といういい方がよくなされていた.しかし2008年当時になると,定員は充足させることが求められたのである.
 もうひとつの変化は,志願者数自体は変わらなかったが,日本人学生,特に学部進学者の受験比率が落ち,留学生比率が増えたことである.だから関口学部長時代に,院アドミッション委員長だった加地先生の進言で,それまで外数だった留学生入学者を内数に変えていたのである.
 留学生(多くは中国出身者)はそれまで基本的に日本語を学んできた学生である.だから多くの留学生はそのまま日本語分野を受験した.また,そういっては悪いが,日常的に馴染みのある事柄を扱う分野,例えば社会学やメディアといった分野で受験した.留学生は,ドイツ語を学んだ上にドイツ文学に親しむ必要のあるドイツ文化とか,政治経済の基礎的な勉強が前提になる国際関係論は,まず受けられない.
 この問題に対して私がとったのは2つの弥縫策だった.第1は,文化構造研究専攻の先生方には入試で合格者を出すよう促すことである.第2は,他専攻におられた同一分野の先生に文化構造専攻に移るようお願いしたことである.
 第1の弥縫策に対しては,教員側から当初,強い抵抗があった.当時,レベルに達さない学生を落すことが正義だったからである.何度も入試判定で教員側から拒否された.しかし私も諦めずにいい続けた.次第に,入学者を増やすようになってきた.第2の弥縫策もある程度は実現した.その結果,「文化構造研究の充足率はV字回復した」という趣旨の報告書を書くことができ,評価をなんとかクリアした.
 その間,「できない学生は取りたくない」といって「文化構造研究専攻の定員を減らすように申請しろ」と私に迫る先生もいた.しかし自ら学生定員減を申請することは白旗を上げるに等しい.自ら白旗を上げることは学外,学内政治への考慮から出来なかった.
 実は17大学人文系学部長会議の17大学の人文系の中で,教養学部修士の学生定員は群を抜いて多かった.しかも他大学の場合,そういっては申し訳ないが,志願者と合格者と入学者の数はほぼ同じ,つまり受験した学生はほとんど入学させていたのが実態なのである.しかも,埼大の場合は留学生の日本語受験資格N1を維持していたが,結構多くの大学はN2だった.つまり,東京という大きな人口を抱える場所に隣接していたがために,埼大は結構贅沢なことをいえたのである.

問題の根源

 問題の根源は明らかだった.この程度の学生定員で3専攻は多過ぎるのである.その意味で問題は1996年から始まっていた.どのように専攻分けをしても,3専攻の各々で正確な定員管理をすることは難しい.1専攻にするのがベスト,悪くても2専攻であるべきだった.しかし文科省に申請すれば設置審を課せられて面倒になる可能性があった.申請時に文科省から面倒な宿題を課される恐れもあった.だから設置をいじることは私は避けたかった.
 しかし,望まぬことであったが,設置申請をする機会が,私が再び学部長になった2014年に訪れた.経済学研究科と統合して人社研を設置することを学長から課せられたときである.この人社研設置には私は最後まで抵抗したが,予算も通ってしまったので抵抗しようがなかった.そのとき,残念ながら設置はするけれども積年の問題を少しでも解決する方向で考えた.都合よく,教養学部教員が入るのは2専攻だった.
 その際,上記の問題への対処として私は2点を発案し,教授会と全学から了承を得た.第1は,学部5専修に対応する5つのコースを修士課程に作ることである.そのことによって,学部と院との関係を整理したかった.ただし日本史,東洋史の先生の所属など,一部には例外は出た.
 第2は,新研究科の研究組織を常識的な学問分野,つまり科研費領域区分で定義したことである.このときの学問分野は米国大学であればdepartmentの名称に相当する.この研究組織は当面は利用する目算はなかったけれど,次に述べるように,将来的な展開の中で整合的な組織を作るときには利用される可能性があると思えた.
 研究組織を科研費分野で定義することを提唱したとき,時の山口理事(次期学長)と加藤理事から即座に支持があった.ご両名とも私と同じ目算を抱いたのかもしれない.

 このブログでも論じたことがあるが,日本の大学制度は米国に比べると奇妙で複雑な点があると私は思う.ここで論じた文化政策騒動などは,その奇妙さから生じたのではないか,という気がしている.
 米国の普通の大学は,研究分野ごとに department があり,その department が学士課程プログラム(Undergraduate program)や大学院教育プログラム(Master/Ph.D. program)を提供する.deparnment は日本の制度では研究組織(の単位)といえるだろう.だから,学士課程と大学院とで性格が乖離することは原則としてないと思う.
 ところが日本の場合,大学(の部局)は教育課程として設置される.しかも,大学(学士課程)と大学院とが法令上別になり,学士課程と大学院とでそれぞれ別個の設置を経る.だから学士課程と大学院とで異なったことをやるという変異が生じる余地が出てしまうように私は思う.
 米国の流儀なら,文化政策を大学でやるとすれば,そのようなdepartmentを新たに作るか,特定のdepartmentを持たない学際的な教育プログラムとして文化政策プログラムを発足させるか,という選択になるだろう.少なくとも既存の教育プログラムやdepartmentの性格に影響が出ないだろう.しかし日本の場合,学士課程の設置を考えずに院の設置する余地が出てしまうから,その結果学士課程が維持できるのか,という懸念が生まれてしまう.文化政策騒動という奇妙な出来事は,この日本の大学制度の奇妙さから生じたことではないか,という気がするのである.

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「文化政策」とは何であったか?(上)

 1つ前の記載で「文明動態研究センター」について書いた.その頃のことは私は覚えていなかったけれど,当時のメールや日記が残っているので,ある程度のことは再現できた.過去の出来事に対する人の記憶は歪む.私の場合も例外ではない.やはり同時進行で残した記録を見ないと実際のことは分からない.
 2000年の同センターについて記録を調べるにあたって,その前年1999年の日記なども眺めた.1999年とは,埼大教養学部が「文化政策」の問題で揺れた年である.だからついでにその「文化政策」についても語ってみたくなった.やはり日記等を眺めると,私が記憶していた,と思っていたことがやや違っていることを実感した.
 「文化政策」の問題とは,教養学部の大学院(今の人社研の前の文化科学研究科)を「文化政策」を中心にまとめようとする動きがあったことを指す.この件は,1999年の2月に教養学部と経済学部が合同の博士課程構想を文科省に持って行った(らしい)ことから始まり,同年の12月20日にとある人事が教授会で否決されたことで終わった,ある意味異様な騒動である.
 当時,私は,教授会には出席していたけれども,実は在籍時間は短かった(教授会が長過ぎたのだ).だから公式の話はあまり知らないのが本当の所である.いまだによく分からないことが多い.ただ,どんな話であったかという点を日記などに残した当時の記録から分かる範囲で書いてみたい.あくまで私が残した記録からの経緯であり,別の人は別の像を描いて不思議はない.

私の目に映った文化政策騒動始末

 どの程度正確か分からぬが,私が人づてに聞いた話では,1999年の2月に経済学部と教養学部で,合同の博士課程構想というのを文科省に持っていって相談したらしい.そのときに「博士課程以前に修士課程を何とかしなはれ」といわれたらしい.教養学部は,私が着任した1980年代当時から,日本文化を中心に据える方針があった.だから博士課程構想も日本文化中心と私は思っていた.しかしなぜか「文化政策」をやるんだ,という方向性で学部の執行部は考えているらしい,という話を漏れ聞いていた.
 修士課程を「文化政策」中心にする,という話は,公式には,5月19日の臨時教授会(以下,研究科委員会も教授会と書いておく)で出てきた.その2日前に私は当時の阿部学部長に呼び出され,その案をいきなり見せられて意見を聞かれた.そのときが「文化政策案」の初見である.修士課程を文化政策専攻と国際ナントカ専攻にする案だった.もともとは2つのプログラムを導入する案で考えていたが,2つの専攻にする,ということだった.私は文化政策専攻に属するらしい.唐突なので驚いた.「文化政策なんて需要がないでしょう」と答えたと日記には書いてある.
 実は文化科学研究科は1996年にそれまでの2専攻(社会文化論/言語文化論)を3専攻(文化構造研究/日本・アジア研究/国際文化研究)に改組している.その完成年度が1998年であるから,1999年にまた改組をいい出すのは常識的ではないのである.
 5/19の臨時教授会でこの案が説明された.さして反対論はなかったが,冷めた意見がかなり出た.その2日後の教授会で条件付きでこの案は承認された.条件とは,専攻の中に従来型のコースを作る,ということだった.

 詳しいことは省略するけれども,この文化政策案はその後も夏から秋にかけて何かの節目には審議され,その都度承認されていたと思う.ただし変更があり得るという付帯条件が付いていたので,その「承認」の意味は人によって解釈があった.
 ただ,時間の経過とともに学部内では冷めた空気が広がったように思う.最初の5月の教授会では,挙手で反対したのは私一人だった.反対のように話していた人も反対できなかった,といっていた.時間の経過とともに反対できない雰囲気は薄まったと感じた.次の要因が働いたように思う(私の見方である).
 第1に,博士課程設置と文化政策の話の関係が曖昧になってきたことである.当初は博士課程設置のために文化政策,という話であったけれど,夏休み前の文化省折衝では「ドクターのない研究科の意義」を文科省の担当官が口にしたという話が,公式にも非公式にも流れて来た.だから博士課程設置とは違う方向の話になっているという感触が強くなった.
 第2は,文化政策の主導者の先生方が次々と転出するための割愛を申請し始めたことである.おそらく,その年は転出する人数が教養学部史上最も多かったように思う.転出する方の多くが文化政策の賛同者であり,特に大きかったのは最も中心の人物だった先生と,「改革派」評議員の先生が転出することが伝わったことである.普通,転出を表明したら学部改組の話からは身を引くと思うのだが,転出する身でありながら「改革」を主張する,という一風変わった光景が生じた.当然,白け始める人が増えたのである.
 第3は,文化政策というポストの新規採用教員の人事が,転出者が出る中で同時に進んだことである.経緯は分からぬが,文化政策推進者がある方を採用するつもりだという情報が流れた.前の年まで文科省高等教育局のポストにいた方である.ついでにいえばその方は政策科学研究科の教員歴もある.文化政策推進者側から「その方が文科省ともパイプになってよい」という発言があったことが伝わった.反発も出た.
 そんな中で,人事委員会から最終的に教授会に提示された候補者がまさにその方だった.そこで,なんか変な背景のある話ではないか,という憶測が広がった.また,転出者が出たことからその後任人事をどうするかが議論になった.後任が取れない部署があるなかで,なんでその人事を進めなければならないのかという恨みのこもった意見まで流れるようになった.

 かくして,当初は反対できない雰囲気であったものが,段々と不満をいう人が増えてきた.また,学部上層部でも,文化政策のために使うポストは多くて2つ,という判断があるという噂が流れ,後に学部長や将来計画委員長がそのことを会議で確認する発言をするようになっていた.学部の上部の会議(将来計画委員会など)でも,その人事の投票結果によって今後の方針を考え直すような合意になったという話が伝わった(真偽は分からぬが,その後の経過を見るとその通りになった).
 そんな訳で,文化政策に関する学部の判断は,政策科学ポストの人事の投票の一点にかかるようになった.文化政策の人事の投票結果がどうなるかは私は no idea だったが,根回しがあるのは存じていた.だから否決になるという観測をいう人もいた.問題の投票は12月20日の,編入試験1日目の後の教授会で行われた.
 投票の結果,この人事は否決された.票数を私は日記に記していた.最も多かったのが「×(反対)」,次が「〇(賛成)」,次が「白票」である.反対と白票を合わせると賛成のちょうど倍だった.人事の表決では白票は×と同じである.社会科学系を中心に強く反発した人たちが反対,推進論者が賛成,眺めていて白けた人たちが白票だったと思う.
 文化政策騒動はこの投票で終わったといってよい.私の関与もこの時点で終わった.加藤先生(後の加藤理事)が動き出したので彼の剛腕に任せるだけだった.
 新たな改組案が出てきた.これまでの3専攻のうち「国際文化研究専攻」を「文化環境研究専攻」とし,これまで文化政策を叫んでいた人たちのやりたそうなことを「文化環境研究専攻」にまとめる,ということだった(しかし文化政策の推進者が必ずしも文化環境研究専攻に入った訳でもない).旧「国際文化研究専攻」の構成員で文学系などの方々は「文化構造研究専攻」に移る,という案である.
 この案は妥当な落し処だった.文化政策に反対した人も,別に文化政策を止めさせようとした訳ではない.社会学などを含め,多くの分野が文化政策専攻に入る,という無理を止めて欲しかっただけである.また「日本・アジア研究専攻」が残ることで,日本研究を中心に博士課程構想を進めるという従来路線も継承できた.しかも1専攻の名称変更で済むので,設置審を通すという面倒さも回避できた.この1999年はこの件でずっと争いがあったけれど,普通のやり方をしていれば,夏頃にこのような落し処で落ち着いていたように思う.

時代背景

 大げさにいうなら,教養学部の文化政策騒動は,いくつかの要因が歴史的に偶然重なった時期に生じたといえるように私は思う.要因とは次の3つである.

 第1は,その時期は国立大学で博士課程設置の可能性が高かったときであり,それゆえに設置熱が高まったことである.1990年から2000年までの間に,国立の上位大学の大学院の補強がはかられた.具体的には旧7帝大と東工大,一橋が,その(ほぼ)全部局を大学院重点化し,それに伴う予算措置を得た.この重点化により,法人化を前に上位大学は下駄を履かせてもらったような所がある.その9大学に東京医科歯科あたりを加えたのが,公式の,元祖重点化大学だったような気がする(いろんな重点化大学がその後定義され,現在は指定国立大学法人が公式の重点化大学の地位になっているように思う).
 重点化大学が出現すると,それ以下の大学も大学院の充実を追うようになってきた.その場合,博士課程を持つことが大きな目標になっていった.定員が充たせる(広義の)理系は早くから博士課程を持った.ちなみに埼大の理工が博士課程を設置したのは1989年である.遅れて,定員を充たせる文系部局は博士課程設置に動くようになった.埼大の近隣で調べてみると,千葉大の文学系が博士課程を設置したのが1995年である.1996年には学芸大に埼大・千葉大・横国大が加わる形で連合大学院の博士課程が出来た.形の上では,埼大の文系では教育学部が最初に「上に博士課程がある」格好になった.埼大と同じ新制大学の横国大は,1999年,つまり文化政策騒動の年に経済と経営の研究科で博士課程を設置している.だから新制の地方国大の文系では最初かも知れない.横国が設置したということは,同時期に埼大にもチャンスがあっただろう.実際,2002年には埼大の経済が,2003年には教養学部が,博士課程を設置した.宇都宮大学の国際学研究科は,2004年に修士定員を10名増やし(その結果,埼大教養と同じくらいの定員30名となった),続く2007年に博士課程を設置している.つまり30名規模の修士定員を持ち,充足させている文系部局は,新制大学でも博士課程設置の目はあったというべきである.文化政策騒動はそんな状況の中で生じた一コマだったろう.

 第2は中央省庁の再編の時期と重なったという要因である.この当時は中央省庁の再編が検討され,その結果2001年に再編がなされ,文部省と科学技術庁が統合されて文部科学省が発足した.文化庁はもともと文部省の外局であり,引き続き文化庁を文科省の外局にするのが文科省の考えだった.そのために文化政策という言葉を使い始めた,ということは,1999年当時,私が調べて認識したことである.だから,その時期,文科省は文化政策という言葉をさかんに使ったと思う.
 ちなみに,1999年当時私がネットで調べると,桜美林大学が文化政策の名を冠する課程をもっていた(と私の記録にはある).ただし今調べると,ない.たぶんどこかで止めたのだろう.また,2000年に発足した静岡文化芸術大学は,まさに文化政策学部を作って発足した(今もある).ただ,以後の展開を見れば,喉元を過ぎれば文科省も文化政策という言葉を特段有難がらなくなったかも知れない.

 第3は,当時,埼大にはまだ政策科学研究科があったことである.政策科学研究科では少なくとも1995年には文化政策を教えており,現在も政策科学大学院大学では2人の文化政策担当教授がおられる.文化政策人事で話題になった方も政策科学研究科で助教授をされていたらしい.政策科学研究科は埼大から独立し,政策科学大学院大学を1997年に発足させているが,同大学院大学が学生を受け入れたのは2000年からであり,埼大の政策科学研究科が廃止になったのは2001年である.つまり実際には1999年当時,政策科学研究科は埼大に存在していた.
 政策科学研究科は,吉村先生という方が永代の研究科長だった(一時,文部省OBの有名教授が研究科長だったときもある).吉村先生には毀誉褒貶があるが,おおまかにいえば埼大はいろんな意味でお世話になっている.ちなみに,教養学部は1977年の文化科学研究科(修士)を発足させた.新制大学の文系としては異例の早さであり,経済学部が研究科を作るのは1993年,つまり理工が博士課程を設置する後なのである.文化科学研究科を設置できたのは教養学部が偉かったからでなく,政策科学研究科を発足させるときに,ついでに文化科学研究科も吉村先生に作って頂いた,というのが実際だろうと思う.理工が理研と連携する際にもお世話になったと聞いている.だから,法人化とともに就任された田隅学長は,吉村先生に埼大の顧問をお願いしている.
 文化政策騒動があったときは政策科学が埼大に関与する最後の時期だった.そのことがこの問題の1つの偶然的要因だったように思う.政策科学研究科が変なことをしたという意味ではない.しかし政策科学研究科は教員や,特に事務方上層部が頼りにすることはあるから,展開によっては意見を聞かれることもあり得る.それがなくても,政策科学研究科という「成功例」がぶら下がっているということは,何がなくても影響力を及ぼす余地はあっただろう.
 ちなみに,教養学部の哲学領域は文化政策推進者が多かったように思うが,哲学の方々の多くは東大文学部哲学科のご出身であり,偶々吉村先生の後輩であったことは,何かの縁であったかも知れない.

 この文化政策構想にいかなる問題があったか,どのような功績があったかについて,次回で述べたい.

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文明動態研究センター

研究センター案の記憶

 在職中のちょうど2000年の頃と思う.私は「文明動態研究センター」という企画を考えたことがある,と記憶している.その時は埼大教養学部の研究のあり様について,私なりに真面目に考えた時だったように思う.ただ,私にも詳しいことの記憶は今はない.
 そのセンター案がどんな案だったかと思い,古いファイルのストックを探してみた.私のことであるから,企画書のようなものを残しているだろうと思った.
 しかしどうも,企画書のファイルは見つからなかった.いろいろ調べてみるとメールの中でそのセンターに言及している文章があった.断片的に残った同センター案の痕跡を並べてみると次のようなものだった.

■名称と研究領域

〇名称:文明動態研究センター
(Saitama Univ. Center for Civilization Dynamics、SUCCD:サクシード)
〇趣旨
 ここで文明と呼ぶのは、人間の社会的活動、文化的活動、およびそれらを支える科学技術体系を含めた総体である。文明は空間的な広がりの中にあるだけでなく時間的には歴史の中で進化する。この研究センターは文明に関わる広範な人文・社会事象を多面的な視覚から研究することを目的とする。

〇領域
(1)比較文明研究(Comparative Studies of Civilizations)
様々な文明は人類を通じた共通性と文明の独自性によって彩られている。そうした文明の共通性と独自性を、文化的、社会的諸側面に焦点を当てながら、必要に応じて理工学の研究者、技術者の協力を得つつ、比較の視点で研究することを目的とする。
(テーマ例示)「芸術など表象文化」、「アンデス」、「芸術コンテンツのマルチメディア・プロジェクト」、「考古学」、「中国古代研究」など

(2)国際日本研究(Japanese Studies in International Perspectives)
特に日本という文明の社会的、制度的、文化的基盤を実証的あるいは理論的に解明することを目的とする。
(テーマ例示)「日本の哲学思想」、「制度の日本的特質の研究」など

(3)制度情報解析(Socio-Informational Studies of Institutions)
文明の存立を可能ならしめる社会制度の機能や成立基盤を学際的に研究する。従来の計量的・数理的手法はもとより、コンピュータによる計算アプローチの導入を促進する。
(テーマ例示)「医療経済学」、情報科学関連、Artificial Society(コンピュータシミュレーション)」、「制度の経済学(ゲーム理論とか社会的選択理論を含む)」、「動物行動学、生態学との協力に基づく社会の基本メカニズムのシミュレーション研究」など

(4) 社会動態解析(Socio-Dynamics Studies)
文明の成立・変容は様々な社会変動の過程を通して生まれ、また文明特有の社会問題を伴う。そうした社会変動の過程を分析するとともに、社会問題に対する有効な政策対応を科学的に解明することを目指す。
(テーマ例示)「政策関連の研究」、「人権問題」、「都市計画」、「環境・開発問題」、「紛争解決」など

■業務

 研究機関は次を業務とする。
(1) 研究
 上記の4部門ごとにいくつかの研究プロジェクトを行う。

(2) 研究アイディアの集約
 当研究機関は研究プロジェクトを推進しながら、同時に次の期間に行うプロジェクトの候補となるような研究のアイディアを開発する業務を行う。第1に応募されたプロジェクトの候補について担当者のワークショップを開設し、研究のアイディアの促進をはかるとともに、その将来性を評価する。第2に、学内外の研究会と連絡をとりつつ、その研究会と当機関との研究上の交流をはかる。

(3) 研究成果の普及
 研究成果の普及は当機関の中心的な業務である。第1に研究成果は機関名・研究員制度等を明示した上で学会誌に投稿することを義務とする。第2に成果を研究所の報告書としてまとめることに加え、単行本への企画を支援する。第3に研究成果に基づく、研究者向け、および市民向けのセミナーを定期的に開催する。第4に、当機関の研究成果はプロジェクトの進行に合わせてすべてインターネット上の当機関サイトにおいて公開する。プロジェクトの事後評価もすべて公開する。著作権上の問題がない限り成果をダウンロードできるようにする。

(4) 独自の資料の収集
 埼玉大学が資産とすべき歴史的な資料の収集に努める。資料収集の長期的な方針は運営委員会で別途作成する。資料は市民の閲覧に供するとともに、インターネット上の当機関サイトにおいて概要を公開する。

■ 運営組織

〇運営委員会:
・内部委員と外部委員。(7名程度、任期3年程度で毎年一部ずつ入れ替える)
・機能:研究所の予算、人事
〇事務局:
・常勤事務員(補助職員、派遣職員)、1~2名
〇研究交流室(セミナーコーディネイター、レセプショニスト)
〇情報公開室(情報公開)
〇資料室

■ 運営方針

 当機関は大学改革への積極的な意欲に基づき、大学組織の現状での硬直性を克服することを目的として設立するものである。この目的のために次の運営方針を掲げ、状況に応じ柔軟に研究を進めつつその業務を遂行しようと考える。

・萌芽的アイディアの支援
・学際性
・流動性
・開放性(外部委員による審査委員会)
・競争性
・潜在的研究戦力の活用

〇萌芽的アイディアの支援
 日本の研究状況に現状で必要なことは新たなアスペクトに基づく研究を立ち上げることである。新たなアスペクトを生み出し国際的な研究の流れに影響を与えるような成果を生み出さない限り、日本が研究面で尊敬を集めることは難しい。そのために、当機関は萌芽的なアイディアの発掘に努め、そのプロジェクトを積極的に推進することをその方針とする。

〇 学際性
 革新的な研究の方向性は学際的な研究の協力によって、相互に未知の発想が出会うことによって生み出される。そのため、当機関は学際的な研究を積極的に評価することにより、研究プロジェクトに新たな刺激を与えることを方針とする。


〇 流動性
 現状の大学組織の問題点の1つは人員の流動性の低さである。流動性の低さは研究者の研究への動機づけを抑制する可能性があるとともに、研究上のアイディアの交流をも抑制してしまう。研究への高い動機づけを維持しつつ斬新なアイディアを生み出すためには人員の流動性は不可欠である。当機関では研究プロジェクトを短期的に評価しつつ、柔軟に人員を交代することを方針とする。研究部門の設定や当機関の方針自体も5年ごとに見直して行く。

〇 開放性
 研究水準を維持・促進し適切な流動性を確保するためには、機関が絶えず外部の評価に反応することが必要になる。当機関では研究プロジェクトの評価・採択を外部委員を含めた審査委員会に委ねるとともに、継続的に研究内容を公開することを方針とする。また、埼玉大学外の研究者の参加を積極的に促進する。

〇 競争性
 研究活動の活性化のためには競争原理の導入が不可欠となる。当機関では、研究プロジェクトの採択や資源配分には実績と将来性に基づく徹底した競争原理を審査委員会において採用し、「持ち回り」ないし「平等主義的」な研究プロジェクトの採択は極力排除することを方針とする。

〇 潜在的研究戦力の活用
 活発な研究活動の展開のためには、若く、新鮮なアイディアに富んだ人材の活用が望ましい。当機関ではそのため、十分な能力を持ちながら現状では十分な活動の場が得られない研究者層、すなわちポスドク、オーヴァードクターを、独特の研究員制度によって活用することを考える。この研究員制度は単に当機関の生産性を高めるだけでなく、日本の研究状況の活性化にも貢献するものと見込まれる。

同センター案を出した状況

 上記のセンター案記載は,2000.5.7に私が永田先生に送ったメールにあった記載の切り貼りである.メールの表題は「追加・修正個所の提案」であるから,この記載以前の原案があったのだと思うが,原案のファイルは出て来なかった.
 メールを調べると私の思い込みが不正確であったことが分かった.まず,私は「文明動態センター」という案を出して,西村先生から誉められたと記憶していた.しかしメール記載を調べると,1996年に「文明動態研究科」という研究科名称を考え,西村先生から誉められた,と載っていた.だから上記のセンター案を出す前に,当時の文化科学研究科という名称に替えて「文明動態研究科」という名称を(どこかで)提案し,西村先生から誉められた,ということがあったのだと思う.
 このセンター案のメールであるが,直接メールをやり取りした相手は永田先生と加藤先生に限られていた.永田先生が入るのは,彼が企画を考えるのが好きだったからだろう.当時,兵藤学長の下で副学長だった加藤先生が入っていたのは,全学で研究センターを作ることを模索する動きがあったためだろうと思う.
 「文明動態研究センター」というコンセプトは,教養学部がやっていることを研究面で押し出すためのコンセプトだった.教養学部が好きな「文化」ではなく「文明」にしたのは,その方が含むものが大きいからである.「文化」はどうしても,文学系の人の発想を代表してしまう.中心に置きたかったのは人類学だった.上記で想定した研究領域の設定も,教養学部的に売り物になる部分をどのように表現するか,という思考の結果だったはずである.しかし加藤先生からは「領域は重要ではない,仕組みが重要」というコメントがあった.だから,仮に全学で進めることになるときは,私が想定した研究領域はすっぽり抜かれることになったかも知れない.結局,埼大の研究機構の,少しだけ金が出て部屋を提供するという月並みなプロジェクト制度の中に,このセンター案のアイディアは消えていったのだろう.
 2000年というタイミングは,教養学部で「文化政策騒動」があった直後である.2000年の3月頃には修士課程の改組計画の骨子が決まり,2001年度には実際に改組した.また2001年度には教養教育の問題が全学で浮かび上がり始め,私もかかわるようにかった.同時に,2001年度からは教養学部の学部組織をコース制から専修制(当初は学科制)に切り替える作業が入り,私は将来計画委員長になって2003年度までに専修制を取りまとめた.2001年度の末には群玉統合の話が持ち上がった.2002年度には教養学部に博士課程を作る話が文科省から舞い込み,実際に博士課程を2003年度に設置した.そういう慌ただしい中で一瞬ヒマが生じたときの出来事だった.

どこに夢があったか?

 このセンター案に夢を感じたのは,その少し前にオランダのハーグ近郊 WassenaarにあるNIASキャンパスで,とあるConferenceがあり,出席したことによる.NIAS(Netherlands Institute for Advanced Study in the Humanities and Social Sciences)の本拠はアムステルダムらしいが,ハーグとライデンの間にあるワッセナーにも小ぎれいなキャンパスがあったのである.いろんな分野の方が研究のために滞在していて,感じが良かった.そういうNIASのような環境を身近に作れないかと考えたのが,私の直接の動機だった.
 その頃は博士課程の設置を巡って経済学部と教養学部がつまらない意地を張り合っていた頃である.博士課程を作れれば体面は良いのかも知れないが,私には魅力のない話に映った.旧帝大なら博士課程にある程度優秀な学生が集まるけれども,埼大では無理と思えたのである.旧帝の場合,確かに,院生を組織することで研究を進めることができる.ただ,理系は別と思うが,また分野によって異なるかも知れないが,埼大の場合,博士課程を持っても自分の研究にはプラスになるとは思えなかった.自分が研究する環境を作ることの方に夢が持てたのである.
 当初は教養学部で研究機関を作れないかと私は思ったのであるが,結局は無理だった.埼大の立場と規模では無理なのだろうと思った.私が当時の群玉統合が良いと思った理由の1つは,大学の規模が大きくなることで,研究機関を作る余力が出来るのではないかと思ったことがある.
 大学らしくあるためには,研究に専念できる機関を持ち,ある程度の時間そこに属する可能性を持てるようにすべきなのではないか? そのような研究機関を持つことで,大学としての独自性も発揮できるようになるのではないか?

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大学の「内部統制システム」とは何かの冗談か?

 国立大学で「内部統制システム」が出来た,という話をどこかで見かけた.いや,大学で「内部統制」なんて言葉を使うかね,と一瞬疑った.念のためググってみると,いろんな国立大学で内部統制システムの規程というのが出て来る.埼大サイトを見てみると,規則の最後に「内部統制システム運用規則」というのが載っていた.ああマジなんだ,と知って驚いた.
 埼大のその規程は今年の3月18日の制定とある.ちゃんとは調べていないが,他の国立大学でも制定日は同じ頃だったような気がする.つまり,文科省が内部統制システムの規程を作れといい,仕方なしにみんな揃って作ったんだろう.
 埼大のその規程を眺めても,何のことかはよく分からなかった.要は,法令・規則通りにやることを監視する体制を作れということのような気がする.法令や規則は遵守するのが当たり前であり,監事もいる.だから,いまさら内部統制はないだろうと思えた.遵守の確認は業務の中で行うのが当たり前のはずである.
 要は綱紀粛正しろ,という「気合」の問題だったのだろう.気合であるなら「綱紀粛正宣言」でもよかったろうが,それではあまりに漫画みたいなので,内部統制システムを明示して「気合」を示すことになったんだろうな,と思えた.

 それにしても呆れた.内閣府の骨太の方針では,国立大学は自律的な組織にする,国との新たな契約関係を構築する,と書いてあった.だから内閣府的には,国立大学は国とは独立に動く組織であることを目指すことにしたと私は理解した.でも文科省は違う.
 以前にもこのブログで書いたが,文科省はクレムリン型の共産主義官庁である.日共から送り込まれた役人も多いだろうし,チュチェ思想の方々も多いと思う.しかしこの「内部統制」という言語感覚には驚く.この言葉,「内部統制と粛清」とか,「内部統制とシベリア抑留」などと使うノリではないか? 大学は「馬鹿馬鹿しいから止めませんか?」といえなかったのか? せめて「もう少しエレガントな言葉を選べませんか?」といえなかったものか?
 文科省文書で内部統制システム関連を検索してみると,「相互監視」とか「通報しやすいような内部通報制度」といった事項が載っている.それって,密告による監視体制そのものではないの? 恐れ入る.
 社会心理学の以前の知見から想像するに,「内部統制」などという言葉を顕現化すると,規則遵守への内発的動機づけは低下しますよね.すると監視がかかりにくい所で違反行為が多くなり,そのことによってさらなる監視強化が導かれる.相互監視,密告,統制強化という増幅的なサイクルに入って行く….ほっほっほ.

 たぶん国立大学は,埼大を含めて,内部統制システム規程を作って気合を見せた.けれども実質は何もしないだろう.それで健全なのだが,年1回の無用な形式的会議を増やしたのは無駄だったように思える.

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入学式中止と聞いて妄想するあれこれ

 私のカミさんに近所の小学校と中学校から「入学式への配慮のお願い」といった趣旨の紙が回ってきた.カミさんは民生委員をしているので,例年,入学式などには一応声がかかる(行っていないと思うが).今年は,入学式を縮小して実施するので,配慮(要するに遠慮)願いたい,という内容である.コロナ禍で入学式も新入生だけでやるようだった.
 埼玉大学の入学式はどうなっているかな,とふと思って埼大サイトに入って入学式の記事を探した.中止とあった.えっ,マジ? 意外だった.さいたま市は感染数が多いとはいえ,蔓延防止措置の対象地域でもないから,大事をとるなら縮小して実施する,くらいだろうと思った.
 入学式なんてものは実質的な意味はないのは私もよく分かっている.海外の大学で入学式なんてやることはあまりないだろう.だから廃止してもよいだろうと私は思う.しかし実施する建前になっている以上,何か格好をつけるものと思えた.特に今年は大学のスケジュールを正常化する(必ずしも以前に戻る,ではない)意思を見せるべきだろう.そのためには,入学式をやってみるのもメッセージ性があるように思えた.

 念のため,埼大の近隣にある国立大学の入学式がどうなったか,ネットで検索してみた.次のごとく,どこも入学式を実施していた.

宇都宮大学:入学者を学部で2分して開催,院は別開催 宇都宮文化会館
茨城大学:新入生代表の参列による小規模式典,ライブ配信 水戸キャンパス講堂
群馬大学:2分して開催 ALSOKアリーナ
千葉大学:新入生のみ参加の式典,ライブ配信 千葉ポートアリーナ
筑波大学:新入生のみ,2分して開催 大学会館講堂 ライブ配信

 まあ,埼大的には,例によって,上記の大学は何れも田舎の大学であり,都心に位置する埼大は違う,といい出すかも知れない.そこで東京の有名どころをついでに検索してみた.次である.何れも,何らかの形でしっかり実施している.東大は日本武道館でやるって,ええっ,金あるなぁ.

東大:新入生のみ 日本武道館 ライブ配信
東工大:新入生代表のみ 東工大蔵前会館 ライブ配信
一橋大:学部別開催 昨年度入学生も対象 兼松講堂 ライブ配信
早稲田大学:分散開催 早稲田アリーナ

 目立った大学は入学式をする中で埼大が中止にしたというのはどういう事情があったのか? という点について私の中で自動思考が働いた.自動思考は自動的であって,私の意思で生じたことではないから許して頂きたい.
 
1.Hグループの貧乏
 実は追加で検索してみて,入学式を中止したことが分かったのは,お茶大と横国大だった.埼大,横国,お茶の水と並べると,何れも文科省の財務分析上のHグループに属する.Hグループというのは,領域特化がなく,資源をもらえる学部(医系)がなく,学部数も多くない国立大学のグループである(残余概念といってよい).このグループの大学は,見た目に増して金がない.すべての国大には必要な予算が手当されている建前とは思うが,予算の規模が小さければ糊代がないので資金を捻出する余力がない.だから貧乏感が強い.金がないと,教員数以上に職員数が下がる.また,単純に入学式のための支出に制約が出ることもあるかも知れない.

2.労力の制約
 金がないことで労力に余裕がなくなる.例えば1-2月の入試志願者数は,普通の大学では即日公表するのであるが,私が見た東日本の国大の中では,埼大だけが即日公表が出来ていなかった.やりくりが苦しいのだろう.確かお茶大も職員数が少なかった.新学期で労力を使う時期に,新たな方式で実施する手配を出来る状態ではなかったかも知れない.
 私も経験したことがあるが,労力に制約があるとき,なんだかんだとやるべきことが時間的に後ろ倒しになり,会計上の問題で年度末前後が忙しくなることがある.だから入学式などは止めたくなるかも知れない.東大などは金余りのはずだから,何とでもなるのである.

3.会場使用料が出せない
 もろにお金の問題もあるかも知れない.例えばコロナ対応で入学式を分散開催すると,会場の使用時間が長くなるから使用料も跳ね上がるかも知れない.長い使用時間で予約していなかったので,後から時間の追加が難しいこともあるだろう.Hグループというと,入学式を実施した茨大と宇大も同様であるが,この両大学については会場の使用料が安いかも知れず,茨大は自前の会場で小さくやっている.

4.合意が取れない
 学長の決定権が強ければクリアされるけれども,そうではなく,合意を時間内に取ることができなかった,ということもあるかも知れない.まあ例えば,新入生の学部別の代表を決めるには,教授会決定でなければならないなどといい出す人もいるかも知れず(入学者を決める訳でないから法令上は学長=事務方が代表を決めるのは可と思うが),その教授会が時間内に開けない,といったポテチンな事情もあるのかも知れない.

 みんなビンボが悪いのやぁ.ただ,以上の自動思考はみんな外れているだろうなぁw

 コロナが気になるなら野外でやってもよかったかも知れないですよね.換気は万全.雨天順延で実施するときは花火を上げる.学長が出てきて「わしが学長の江田島平八である」で終わる.

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授業対面中心6割

日経の記事

 1週間ほどの前(3/24)の日経の記事に「6割の大学で対面授業 新年度,正常化手探り」という記事が載った.記事を見ると「主要大学30校」を日経が調査した結果だという.主要大学30校とは,
  国立:旧帝,筑波,一橋,神戸,東工
  公立:東京都立,大阪府立,国際教養
  私立:早慶上智,MARCH,東海,学習院,日本,関関同立,近畿
である.そのうち,「対面中心」が18,「遠隔中心など」が3,「半々」が9だったという.30大学中18大学が「対面中心」との回答だったから「6割」ということのようだ.
 「対面中心」とはどういうことかと疑問に思うが,記事では,「授業に占める対面の目安」が9割が立命,近畿,関学,8割が都立,府立,関大,上智,7割が早稲田,明治,というから,各大学は授業数の比率(の目標値だろうと思うが)を答えたようである.詳細は書いておらず,真偽は分からない.「ほんまかね?」と思った.いうだけタダで気合で目標値をいっただけじゃね?という気もするが,根拠はない.

埼大は?

 日経がこの種の調査をするときは埼大は入らない.今回もそうだった.では埼大はそんなもんかね,という興味で埼大サイトに入ってみた.「【受験生の皆様へ】令和3年度の授業について」というページが出てきた(http://www.saitama-u.ac.jp/exam_archives/2021-0122-1349-9.html).「対面授業の開講数も増やす」,「令和3年度の授業は対面授業と遠隔授業の両方で実施されます」と,控えめな表現をしている.正直だなぁと思った.さらにリンクを辿ると「【入学予定者・在学生各位】令和3年度第1・第2ターム及び前期の開講科目一覧表の公表について」というページが出てきた(http://www.saitama-u.ac.jp/news_archives/2021-0316-1034-9.html).
 このページの内容を見ると,埼大では対面授業と遠隔授業が混ざっているようであり,上記の日経的分類だと「半々」になるように想像する.授業の数だと英語など語学が多いはずであり,それらは原則対面なので,数でいうと少なくとも半分は対面が確保されているだろう,と私は想像した.
 大学でのコロナ対応が難しいのはクラスの規模が多様だからだろう.小中高校であればクラスの規模が固定されているから,対応は単純にできる.しかし大学の場合,小さいクラスもあるが大きなクラスもある.学生の席間の距離をとって授業を行うとすると,ある程度大きなクラスは教室が確保できるかどうかが分からない.遠隔授業が多くなるのは,そうした教室の確保の問題があるのだろうと想像する.だから大きくなると分かっているクラスは遠隔で実施するしかないのだろう.
 埼大の全学開講部分の授業形態は合理的に見える.少人数で行える語学のような授業は一律に対面にしているし,人数が多くなりそうな基盤科目はオンデマンドで統一している.対面と遠隔を混ぜるなら遠隔をオンデマンドにするのが正しいと思える.同じ日に対面授業と遠隔授業が入った場合,登校して対面授業に出て,遠隔は自宅に戻ってから各自の都合に合わせて受けられるのが楽である.対面とオンライン授業が同じ日にあると,面倒なことになるように思える.その意味で授業形態は考えて設定されていると感じる.
 ただ,学部開設授業の方はどうなっているのか,あまりよく分からない.
(余計な話であるが,埼大でいう「ハイフレックス」の意味がよく分からない.ネットで調べると「ハイフレックス」とは,対面授業をオンラインでも送信し,対面かオンラインかは受講者が決める場合のようである.例えば京都大学https://www.highedu.kyoto-u.ac.jp/connect/teachingonline/hybrid.php)ただ,埼大の資料ではハイフレックスを「対面と遠隔の組み合わせにより、隔週で交互に授業を受講」としている.1週目は対面,2週目は遠隔,3週目はまた対面… ということだろうか?)

学部の違いが面白い

「開講科目一覧表の公表について」のページに掲載された学部別の授業形態も念のため眺めてみた.学部によって差があるな,という印象を受けた.そこで,文字列検索を使って(授業形態の欄以外の記載は除いて),授業形態の分布をとってみた.この集計はいい加減な面がある.例えば教養学部のアカデミックスキルズの授業は対面であるが,その数はハッキリしないのでカウントから外した.同様に他学部でも同様の授業は表に並んでいないことがある.だから以下の分布は正確は期し難い.ただ,大勢では各学部の特徴は出ていると思う.
 授業形態の学部ごとの分布は次のグラフのようになった.縦軸は授業数であり,授業の比率にはあえてしなかった.経済学部については昼間と夜間主の合計である.
(なお,この集計をした時には教育学部のデータが掲載されていなかった.4/1になって教育学部のデータが掲載されたけれど,追加集計は面倒なので教育学部は除く.)

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 まず教養学部は,最も学生数が少ない学部であるにもかかわらず授業数が最も多い.教養学部は多品種少量生産の学部なのである.人文系は実は領域がかなり異なる多数の少数派分野の集合体であり,それぞれが体系的であろうとするなら,授業数が多くならざるを得ないのである.理学部とともに対面授業が多い.しかし対面以上に,オンデマンドではなくオンラインの授業が多い.たぶん,であるが,パワポを使ってプレゼンのような授業をするならオンデマンドになるように思う.オンラインの授業というのは,対面で前の方で教員がボツボツ話しているという授業を,オンラインでそのまま流すことが多いのだろう.私の在職中の印象では,教養学部の先生の授業は吉田松陰が長々と孟子の講釈をするような授業が多かった.良くも悪くも古式ゆかしい文化なのである.ネットを介してなお授業の発想が変わらないのである.
 ただ,同じ日に対面の授業とオンラインの授業があると学生は辛いんじゃないの,なんでオンラインをオンデマンドにしないの,と思う.

 経済学部は,教養学部より学生数がはるかに多いにもかかわらず授業数が少ない.実は経済学部は教員の授業負担の半分が「ゼミ」であり,そのゼミが授業形態の表には(一部を除いて)入っていないからだろう,と想像する.ゼミというのは,指導の学生以外は触れることはない.そのゼミの割合が高いために,みんなが受講できる授業は少なくなる.結果,普通の授業については,1つの授業当たりの学生数が多くなる,ということである.この格好は私大文系で一般的といえる.普通の授業では(悪くいうと)芋を洗うような授業をし,他方で濃密な「ゼミ」を配して埋め合わせる.
 教養学部の教員は国立の文学部出身者が多いと思う.国立の普通の文学部は基本構造は似ており,学生指導は複数教員が属する「研究室」で行う.指導教員を決めるとしても,原則,みんなで指導するのであり,個人ゼミにはしない.だから経済学部的な(ないし私大の法経的な)ゼミは,教養学部の先生方の多くは感覚として分からないだろう.国立文学部出身の私も同様である.このゼミというのは,うまく行けば生産的な家内工業のようになるかも知れないが,下手するとタコ部屋とか蟹工船とかサティアンのようになるんじゃないの,という気もしている.
 教養学部と経済学部は,同じ文系とはいっても,カルチャーはかなり異なるのである.
 グラフの分布を見ると理学部は最も古式ゆかしいと見える.最も対面中心であり,コロ禍にあっても伝統的な授業形態を頑なに維持しようとしているのかも知れない.ある面で教養学部と似ている.

 工学部はハイフレックスという形式が際立って多い.理学部と同様に対面にしてもよいけれど,コロナ感染状況に応じてオンラインに切り替える可能性を考慮してハイフレックスが多くなっているのかも知れない.理学部に比べて工学部は学生数がかなり多いはずであるが,授業数は理学部とそれほど変わらない.とすると1授業当たりの学生数が理学部より多く,その分,コロナ感染を理学部以上に気にする必要があるのかも知れない.

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四国の国立5大学

四国地域大学ネットワーク機構

 教育系のサイトに,四国の国立5大学(徳島大,鳴門教育大,香川大,高知大)が一般社団法人として「四国地域大学ネットワーク機構」を設立したというニュースが載っていた.この機構を,最近文科省が創設した「大学等連携推進法人」としてこれから申請するという.

一般社団法人四国地域大学ネットワーク機構
https://www.kagawa-u.ac.jp/files/6516/1603/2667/114.pdf
大学等連携推進法人
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/daigakurenkei/index.html
https://www.mext.go.jp/content/20210226-koutou01-000011127_003.pdf

 四国の国立大側が掲示している情報を見ると,5大学で連携の教員養成課程を作るのがこのネットワーク機構の主目的らしい.しかも実技系の科目で連携することが話の中心らしいから,しみじみ考えるとしょぼい.その他の設立目的も書いてあるが,連携推進法人を作らないとできない話ではない.このネットワーク機構を法人登録した場所が徳島県鳴門市なので,中心は鳴門教育大学ということだろう.
 この連携推進法人から始まって四国5大学が統合に向かうその端緒であるなら,この話は大きい.しかし当面は大きな話ではないだろう.
 以前,国立大の地域統合はどこで生じるか,という点が時折話題になった.私の主観では,地域統合があって不思議がないと思えたのは北海道,北東北,東海,四国,九州である.そのうち,北海道では北見工大,帯広畜産大,小樽商大がアンブレラ統合をした.東海では名大と岐阜大がアンブレラ統合をした.そして四国でこの程度の連携に進むことは何も不思議はなかった.本来はアンブレラ統合をしてよいのである.

共同教育課程には限界がある

 教員養成課程としては,群馬大学と宇都宮大学が共同教員養成課程を作っている.その共同教員養成課程で従来の教育学部の資源を(あくまでその気になればの話だが)全学化することができる.次の展開にも使えるし,大学の規模の適正化をいわれたときの削減分に使えるかも知れない.
 実は埼大を含めて北関東4大学(4U:茨城大,宇都宮大,群馬大,埼玉大)の大学院レベルで協議したとき,工学系の共同教育課程は検討されたことがある.私も文化科学研究科長として協議には出席していた.が,結局はダメだった.当時の法令では(今も基本は同じと思うが),共同教育課程は連携先で取得すべき単位要件があり,その数字があくまで2大学間の連携を前提としていたのである.4Uでやった場合,必要単位が多くなり過ぎた.その一事でその件はそれ以上検討する必要がない,と私はすぐに割り切った.
 四国の国大が使う連携による教育課程の枠組みは,共同教育課程よりは柔軟なようである.四国国大側の資料によると,当面は実技系の科目の融通が中心かも知れないけれど,その気になれば各大学が教育学部を維持しつつ,かなりの教員の削減も可能なようである.特に5大学での連携となると,この枠組み以外は使えないのだろう.
 教員養成課程だけのこの連携は,小さい話といえばそれまでではあるが,その小さい話でも当の大学にはメリットはかなりあるだろう.まず中心になるだろう鳴門教育大学は四国の教員養成のハブのようになるので,存在感を確保できる.国立大学に規模適正化の要請があっても,そのままの存続が保証されるかも知れない.他の4つの複合型大学についていえば,当面の教育学部の規模は持続させるとしても,将来的には,その気になればかなり縮小できる.各大学とも,1つの新学部程度は捻出できるかも知れず,規模削減が求められればそのときに教育学部分を削減すればよいのかも知れない.少なくとも何もしない場合よりは,将来の選択の幅は大きくなる.

埼玉大学は踏んだり蹴ったりかも知れない

 私が教養学部長だった期間,17大学人文学部長会議に出ていると,四国の学部長さんからは「埼玉大学は何をやっても学生が来るでしょう.我々の所はそもそも人口が小さいから大変です.」といったことをいわれた.差し障りのないように,「いや,埼玉は強い私大との競争が大変なんですよ.」と答えていたように思う.差し障りがあってよいなら,もっと他のいい方もできたかも知れない,と今は思う.
 何がいいたいのかといえば,四国の国大は保護された立場にあるのである.だから状況としては四国の方が恵まれているかもしれないな,と思う.
 下の表に四国4県と埼玉県の人口を示す.四国4県の人口の合計は380万程度である.人口最大の愛媛県ですらさいたま市くらいの人口しかない.高知県,徳島県に至っては,私が今住んでいる田舎市の5つ分しかない.対して埼玉県は1県で四国全体の1.89倍,つまり倍近くの人口がある.

県名 人口(2015)
徳島県    755,733
香川県         976,263
愛媛県      1,385,262
高知県         728,276
四国合計      3,845,534
埼玉県      7,266,534

 埼玉県の人口は倍近くなのに,四国には国立大学が5つある.鳴門教育大を除けばすべて医学部を持っている.四国の国立5大学と埼玉大学の学生数と教職員数を下の表に示す.埼玉県唯一の国立大学である埼玉大学の学生数(学部+院生)は,四国5大学の学生数の27%に過ぎない.教職員数では,埼大は四国5大学の8%に過ぎないのである.教職員数でこれだけ差があるのは,四国の4大学がすべて医学部を持っていることによる.しかし医学部がなくても,学生数くらいの差があるのである.

  学部学生数 院生数 教員数 職員数
徳島大学           5,579             1,459           1,011            1,439
鳴門教育大学              400                600              138                 99
香川大学           5,318                692              601            1,316
愛媛大学           7,533             1,060              820            1,322
高知大学           4,605                558              685            1,072
四国国大合計         23,435             4,369           3,255            5,248
埼玉大学           6,305             1,316              455               216

 何がいいたいかというと,四国は埼玉に比べると過剰に国立大学が手当されているのである.埼玉の感覚でいうと,四国の国立大学は1つでよい.
 四国選出の議員なら,四国は私大が出店しないから国立大学が必要だというかも知れない.しかし時間順序を考えれば,四国は私大がないから国立大学が手当された訳ではない.国立大学の方が先にあったのだから,四国で私大が少ないのは国立大学が過剰に存在していて出店できなかっただけのことである.対して埼玉県では,国立は規模が小さい埼玉大学しかないから過剰に私大が生まれた.需要があれば埼玉大学の規模を拡大できた訳ではない.結果として埼玉県は一様に私大志向になり,特に埼玉大学は強力な東京の私大との競争を余儀なくされた.価格(授業料)差のある理系はよいが,文系だと価格差は小さいから,価格で保護されている訳ではない.結果として四国の国大の方がぬくぬくと商売が出来ているというのが実態ではなかろうか?
 もし国立大の規模縮小が日程に上がるなら,埼玉は人口比で国立大が措置されていない点をもって縮小に抵抗してよいように思える.

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デジタル活用高度化プラン

 文科省が「デジタルを活用した大学・高専教育高度化プラン」を公募し,採択機関をこの3/11に決定したというニュースを見かけた.趣旨は大学等の教育におけるDX(Digital Transformation)の促進である.コロナ禍で遠隔授業が導入されたことをきっかけにして多くの大学で教育設備を充実する必要があったのだろう.どれどれと思って文科省の当該サイトを眺めてみた.次である.
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/sankangaku/1413155_00006.htm
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/sankangaku/1413155_00008.htm
この件は小さい話であるが,今の文科省の大学への温情をよく示しているように思えた.

プランの公募

 この時期にお金を配るというのは予算が余ったからかと私は最初思った.以前,グローバル事業に採択された時の初年度の年度末に追加配分が来たことがあったからである.しかし文科省サイトの資料を見ると,令和2年度の第3次補正予算に滑り込ませた予算のようである.補正予算ならコロナ禍で困窮する学生への補助を予算化するもののように思えたけれど,コロナ禍で大学は遠隔授業への投資が必要になったろうから,まあこういう予算もありか,と思った.
 2020年の12/23に第1回の公募説明会をしている.だからアナウンスをしたのは12月の初め頃なのだろう.第2回目の公募説明会が2021年の1/14で,公募期間が1/15~2/1,採択結果の公表が3/11と慌ただしい.しかも,事業は3月中に実施する必要がある.たぶん採択の内示は3/11より前にあると思うが,それにしても3週間で金を使えというのが凄い.面白いのは,公募要領に評価等という記載があり,「事業については、必要に応じて実績等に関する調査を実施することがあります。」と書いてある.つまり,原則,評価はしないのだろう.
 この公募への申請が時間との競争であったことは想像に難くない.第1回の公募説明会から1カ月で計画案を造り,業者と接触してどの程度の金額が必要かを検討しないといけない.しかも3月中の3週間程度で予算を執行するのであるから,段取りを申請時点で業者とかなり詰めている必要がある.とはいいながら,ハッキリいえば,この手の計画は業者に丸投げしても作ってもらえるだろう.だからハードルは低い.むろん,もともとデジタルのシステムに熱心だった大学は計画が作りやすかったに違いない.

申請と採択

 申請できるプランは2種類の取り組みに分かれる.取組①「学修者本位の教育の実現」は学修管理システムの充実,取組②「学びの質の向上」は,例えば Virtual Reality を用いた実験・実習の導入などを考えていたらしい.①の方が参加しやすい.①は1億円が上限で採択は30件程度,②は3億円が上限で10件程度,という.
 申請した大学,短大,高専の総計は202機関(うち50機関が①②を両方申請)であるから,申請は多かった.国立大学の申請率は8割超と思う.
 採択されたのは取組①が44件,②が10件である.国立大は17大学が採択された(うち7大学は①②両方で採択).
 国立大を見ると,

①と②で採択:北大,東海国立大学機構(名古屋大,岐阜大),神戸大,広島大,山口大,九州大,熊本大
①だけで採択:北海道教育大,宇都宮大,東大,東京学芸大,山梨大,滋賀医大,奈良先端大,鳥取大,岡山大,九州工大

である.ご近所の宇都宮大も頑張っている.東北地方で採択がないのが目を引く.
 国公私立の採択校を眺めると,(東大を除いて)トップの大学はもらっておらず,ちょっと引いて追いかける位置にある大学がもらっているような気がする.よくいえば改善の余地があるところにお金が出ているような気がする.

裏がある?

 なんか裏があるのかな,という気がしないではない.教育上のDXを担う企業は,会食はしないとしても,少なくともお役人個人とはよく交流しているだろう.大学の実態は文科省より,そういう企業の方が分かっているだろう.だから,ちょっとお金が無くてDXを進められない,少しお金が出ると助かる大学がある(結果として企業も助かる)という情報が文科省に伝わっていて,文科省もこのプランを進めたのかも知れない.採択をする事業委員会の委員にも,そういう企業とお付き合いがありそうな方が入っているように思う.ただ,企業にしても委員の先生方にしても,不正をしたということはないだろう.文科省が大学の事情を直に知る術は限られている.関連の企業の知見がないと,文科省も動けないという事情がある.その点は,入試に関して文科省がベネッセと近かったことと似ている.ベネッセも決して不正をした訳ではないはずである.
 ただ,関連の企業はこの予算配分で儲けたんだろうな,とは思う.

埼大はどうだったのか?

 埼大がこのプランでどうしたかは存じ上げないが,自動思考で私の中で想像は生じてしまう.国立大学の申請率は高いので,埼大が申請しなかったということはないだろう(もし申請していなければかなり問題).宇大は通したけれど,埼大は通らなかった.ある意味順当である.教育上の競争的資金を,埼大はずっと取れずにいる.
 私の在職中の観測では,全学で資金を取ろうとするとうまくプランを作れないのである.全学の所でつまづいてしまう.そうだよねと思う方も多いだろう.以前,競争的資金を部局中心で進めていた時には,結構取れていたと思う.財務の西袋さん(旦那の方)が取りまとめていた頃の話である.私も大学院GPやグローバル事業などで計画をまとめて採択されたけれど,その頃,工学部の方でも大学院GPなどをいろいろ取っていた.しかし全学でプランをまとめる時代になって,取れなくなったような気がする.そこは何とか考えた方がよい.

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グローバル教育大学ランキング

こういうランキングがあった

 iPadでgoogleのブラウザを使ったら「グローバル教育に力を入れている大学ランキング2020(全国編)」という記事が配信された.「大学通信online」というサイトである.
https://univ-online.com/article/education/15733/
 実施した機関から考えて気にするようなランキングではないと思うが,一応目を通した.このランキングは全国の進学校2000校の進路指導の先生の回答から集計している.回答の詳しい手続きは書いていない.5校上げてもらって1位であれば5ポイント,2位なら4ポイント,などとしてポイントを加算するようである.
 ぶっちぎりの1位が国際教養大,2位が国際基督教大,3位が上智大,ということであるから,まあ順当な気がする.
 国立大学を取り上げて上位から並べると,東京外語大,東大,千葉大,東北大,九大,阪大,筑波大と名古屋大(同順位),京大,広島大,宇都宮大,岡山大と熊本大(同順位),神戸大,金沢大,九州工業大学の順である.
(最後の「九州工業大学」は「九州大学」の表記ミスではないかという気がするが,根拠はない.九州工業大学は良い大学であるが,九大はスーパーグローバルに入っている.)

風評ベースのランキング

 一応順当な結果を出しているように見えるが,このランキングの出し方には疑問がある.
 第1に,調査の仕方や集計の方法をこの記事ではハッキリ書いていない.全国2000の進学校にアンケートを出したというが,回収率が明記されていない.2000から回答があれば総ポイントは2000x(5+4+3+2+1)=30000である.しかしぶっちぎり1位の国際教養大のポイント894は数字が小さすぎる.各高校から5位で指名されてもポイントは2000ないといけない勘定になる.おそらく回収出来たのは多くて半分だろう.
 第2に,ポイントは進路指導教員間のreputationである.進路指導をしているといっても大学の中身は分からないだろう.このランキングは進路指導の先生方がどう思っているかの評価であり,世間の風評を再現するだけである.そのようなランキングだと割り切って見る必要がある.なぜこのランキングの算出法をとったかというと,この会社にとって最も安上がりな方法だったからだろう.客観指標を調べるのはかなり面倒である.ポイントの出し方の検討も必要になる.
 THE(Time Higher Education)の日本版の大学ランキングで用いる国際性の指標は,外国人学生比率,外国人教員比率,日本人学生の留学比率,外国語で行われる講座比率という4つの客観指標である.THEのような客観指標を用いるれば結果は変わって来るだろう.この風評ランキングでポイントの分布が上位に固まっているのは,風評ランキングである所以である.結果として,実態は別にしてスーパーグローバルに指定された大学が上位になっている.
 第3に,この風評ランキングで信用できるのは上位10大学程度ではないかと思う.トップの国際教養大学が894ポイントとして,10位の関学は81ポイントである.その辺まではまあよいが,例えば35位の宇都宮大学は18ポイントである.18ポイントということは,このポイントシステムでは,宇都宮近くの6つの高校の進路指導の先生が宇都宮大学を3位に上げれば得られる点数である.この辺になるとどういう経緯でポイントが得られたか分からない.

埼大の考えるべきこと

 いろんな会社がいろんな大学ランキングを出している.その結果をいちいち気にするのはアホらしい.けれども,埼玉大学もこうしたランキングから汲み取るべき事柄もあるのではないか,という気もする.
 このランキングでは埼玉大学はランキング外だった.宇都宮大学はランキングに入っているけれども,私の予想では,国際化の実質では埼玉大学が宇都宮大学より悪いということはないだろう,と思う.だから汲み取るべき事柄とは,宇都宮大学がランキング入りして埼大がランキング外であるのはなぜか,と考えることだろう.
 第1に思うのは,宇都宮大学は「国際学部」という学部を持っている点である.つまり「国際」を外目にも明らかにしている.同じく国際を冠した学部を持っている千葉大は国立大学の3位に入っている.ある分野で認知されるためにはやはり部局を持っていることが大きい.その点をあらためて考えてもよいのではないか.埼大が今さら国際の学部を作ることはないだろうが,例えばAIとかデータサイエンスというなら,どうするか,という話である.
 第2に思うのは,このポイントシステムで宇都宮大学が18ポイントを取ったのは,おそらく近隣の高校で義理で入れてくれた所が数校あったということではないか? このポイントシステムでは10ポイント取れば最下位でランクインしたのであるが,10ポイントとは,例えば4位で入れてくれる高校が5校あれば取れる.その5校が埼大には存在しなかったことが問題なのである.
 まあそうだろうなぁ,と私も思う.田隅学長の頃,受験者確保のために高校に挨拶回りをすることになり,その挨拶回りの仕事が副学部長だった私に回ってきたことがある.例えば浦和市立高校に資料を持って私は行ったのであるが,玄関先で追い返されて終わった(トホホ).まあ,近隣の高校による埼大への扱いもそんなものだったのである.今さら同じことをやっても仕方ないと思うけれども,やはり,近隣でご贔屓にしてくれる高校があるようでないと,ダメなんじゃないの,という気がする.埼玉県に入り込め,というのが田隅学長の頃の目標だったのであるが,何らかの形で高校に接近するプロジェクトを,例えば事務方で立ち上げてくれてもよいのではないの?(教員はどうせダメ),という気がしている.埼玉は人口が多い.米国の州の中でも真ん中くらいになるだろう.その埼玉を地盤に出来れば強いのであるが….
 第3に,reputationという要素はTHEの場合も入っている.だから,もしランキングを気にするなら,地域内での評判を超えて,いろんな側面でのreputationを考えないといけない.ただ,前の山口学長はランキングを上げることに関心をお持ちだったので(現体制については存じ上げない),ランキングを上げる方法も検討していて不思議ではない.ただ,今の埼大の構造のままでは特に手はないのかも知れない.
 とまあ,以上のように宇都宮大学との対比でいくつか考えてみた.ただ,宇都宮大学は埼大と同様に,良い大学である.また,最近,宇大は埼大よりはいろんな手を打てている.別記事で触れるかも知れないが,最近の「デジタルを活用した大学・高専教育高度化プラン」にも採択された.そんな活動の差がこの「グローバル」にも現れているという方もおられるかも知れない.

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国立大学法人法改正 2021

 数日前,googleサイトに入ると国立大学法人法改正のニュースが私に配信された.私の閲覧履歴からAIが判断し,私にそのニュースを配信したのだろう.同じニュースをいくつかの新聞サイトが記事にしていた.ちなみに,日経の記事(3/2)のタイトルは「選考会議の学長影響力を排除 国立大学法人法の改正案」だった.朝日なども同じようなタイトルであったように思う.日経の記事では,「一部の国立大では同会議に現職学長が委員として参加したり、教授ら学内の委員が過半数を占めたりするケースがあり、学長の権限が肥大化しかねないと指摘されていた。」と書いてある.また,大学ジャーナルonlineというサイトの記事では,「学長選考会議に選考後の職務執行状況をチェックする機能を持たせ、学長の暴走をストップさせる役割を任せる」という表現も見える.このように書くと,改正の趣旨は「学長の権限肥大化」や「学長の暴走」を止めることだと読める.
 この改正の件は3/2の文科大臣記者会見でも萩生田大臣から説明があったのを,私はYouTubeで見ていた.私の記憶では「選考会議の学長影響力を排除」などの論点はなかったと思う.文科省サイトの大臣会見の記事を確認しても,「学長選考会議に学長の職務執行の状況について報告を求める権限を追加することや監事の体制を強化することなど」とはあるが,「選考会議の学長影響力を排除」,「学長の権限肥大化」,「学長の暴走」といったニュアンスの話はない.記者から出た質問も北海道の3国大の統合についてだけだった.
 念のため,文科省サイトに入って今回の国立大学法人法改正の資料を見てみた.結論を先にいえば,今回の改正のポイントは上記メディア記事とはややズレている.
https://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/detail/mext_00013.html
 
 改正の要綱に従って述べるなら,改正の趣旨は次の1)~5)である.

1) 中期計画に基づく年度計画・評価を廃止する.代わりに中期計画に改善措置を追記する.
 メディアでは触れられていないのだが,この1)が普通の教員には大きい.明かな改善である.私は在職中,年度計画とそのための評価作業が無駄としか思えなかった.たぶん国立大学の教職員は喜んでいるだろう.「共通の成果指標に基づく相対評価」と「重点支援評価」があれば,既に中期評価は意味がない.内閣が出した骨太の方針は国立大学の評価の簡素化を目指すと書いている.「共通の成果指標に基づく相対評価」の導入と年度評価の廃止は,その動きの結果だろう.

2) 学長選考会議を学長選考・監察会議とすること.
2-1) 監事は学長の不正等を学長選考・監察会議に報告する.
2-2) 学長選考・監察会議に学長は加えない.理事を加えるときは評議会選出枠に含める.
2-3) 学長選考・監察会議は学長に職務遂行状況の報告を求めることができる.

 文科大臣が会見で述べた「学長選考会議に学長の職務執行の状況について報告を求める権限を追加することや監事の体制を強化することなど」にあたるのがこの2)である.上記メディアもこの2)をもって「学長の権限肥大化」や「学長の暴走」を止める動きを文科省がした,といったのだろう.
 ただ,このメディアの解釈は妄想に近い.この2)は法人法にある考えの中で条文でハッキリしないところをあらためて明記しただけと思える.
 まず,学長選考会議が学長を選考するだけでなく監視もすることは,これまで通りである.埼大でも学長選考時期以外では選考会議は学長の評価をしていた.あらためて「学長選考・監察会議」と改称したのは名称を実態に合わせただけである.法人法では,学長を監視するのは監事と選考委員会であり,2-1)と2-3)は選考会議と監事の関係を明文化したのだろう.
 2-2)は選考会議に学長を加えないとしている.大学の人事選考では,普通,前任者を選考会議に加えることはしない.加えていた大学があったのかも知れないが,例は希だろう.2-2)も本来入れるべき条項が抜けていたので明文化しただけと思える.理事は学長が選任するから,理事が選考に入れば現学長の意向が及ぶかもしれない.が,2-2)は理事が選考会議に入ることを禁じていない.入れてもよいが,あくまで教員側の員数に入れろ(外部委員を少なくするな)ということである.
 注意すべきは,学長選考・監察会議や監事が学長を監視することの意味である.第1に,学長選考・監察会議や監事の学長監視は学長に権限が集まることとセットであり,学長に裁量があることを前提にしている.それが国立大学法人法の建付けであることにメディアは気づいていない.第2に,学長を監視するのは同会議や監事の仕事であって教員や教授会の仕事でないことである.教員の「何とかを考える会」が学長の裁量に介入することは,法人法は考えていない.メディアの妄想は法人法の建付けを理解しないところから発生しているように見える.

 上記1),2)以外の改正点は次の3つである.今はコメントを要さないと思う.何れも結構な話である.

3) 複数大学法人設置の監事および指定大学法人の理事の員数の増加(省略)
4) 国立大学法人による出資の範囲の拡大(省略)
5) 国立大学法人の統廃合
・国立大学法人北海道国立大学機構(小樽商大,帯広畜産大,北見工大)
・国立大学法人奈良国立大学機構(奈良教育大,奈良女子大)

 やはりメディアの書くことで状況を理解するのは無理だなぁ,とあらためて思った.

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一歩踏み込んだ関大の遠隔授業アンケート分析

 2020年度はコロナ禍のため,日本全国で遠隔授業が一気に普及した.これまで,一般には特殊な状況でしか適用されなかった遠隔授業が短期間のうちに実施に移されたのであるから,大変なことである.米国であれば随分前からオンラインの授業が教育の中に組み込まれ,大学教員はオンライン授業の経験をある程度はしていることが多かったと思う.が,その点で遅れていた日本が短期間のうちにこれほどの実施率を達成したのであるから,革命的なことが起こったといってよいように思う.2つのこと,第1にこの経験から何を汲み取るか,第2に汲み取ったことをいかに実施して行くか,が大学の革新にとって重要なのだろうと思う.
 遠隔授業が実施されてほどなく,多くの大学で,実施した遠隔授業を評価するためのアンケート調査を実施していた.このブログの2020/08/07の記載で,いくつかの大学が公表したアンケート調査の結果に触れた.対面授業と遠隔授業にはそれぞれ別の長所と短所があるけれども,遠隔授業がなかなか優れた授業形態であるという結果が出ていたように思う.

 その後も遠隔授業に関するアンケート分析は続いており,いくつか公表されている.例えば埼大は前期までの授業経験を前提にしたアンケート結果の分析を,FDの一環として公表しているのに気が付いた.教養学部の松原先生が教育推進室長の肩書でアンケート結果をもとに講演しており,ああ頑張っているなぁと思った.きめの細かい分析結果を述べておられる.指摘された注意事項は遠隔授業を円滑に行うための有効なアドヴァイスになるはずである.

 最近,関西大学が公表したアンケート結果が一歩踏み込んだ内容であることが注意を引いた.
関西大学 2020年度秋学期実施「対面授業に関する学生アンケート」(ダイジェスト版)

 このアンケートでは,遠隔授業と対面授業を並列的に調べている.遠隔授業と対面授業それぞれの長所と短所は従来のアンケートで示されたこととたぶん変わらないだろう.しかし,対面授業より遠隔授業の方が学生の満足度は高いのである.そして講義科目については,何らかの形の遠隔授業の方を学生が望んでおり,特に受講者50名以上だと遠隔授業,特にオンデマンド配信授業が圧倒的に好まれている.逆に対面授業が好まれるのは実習,演習,実技科目,ということになる.
 この報告書では,「教育」について次のように総括している.

・遠隔授業によって対面授業が相対化され、そのあり方が問われることとなった。
・知識伝達・習得であれば遠隔授業が効果を発揮し、対面授業ではそれ以外の資質・能力の育成に寄与しうる授業デザイン(双方向性の確保、アクティブラーニングの推進等)が求められる

 この総括を見て私は「ああ,踏み込んだなぁ」と感心した.遠隔授業をより良くやりましょう,ではなく,遠隔授業のその次を考えているように見える.やるなぁ,と思った.
 遠隔授業の利点が大きいことは,昨年8月に私が眺めたアンケート分析の中でも,慶応SFCの分析が強調していた.しかし慶応SFCはITに長じた特殊なキャンパスである.関大のような普通の,大きな私立大学が上記の総括のような認識を持つことの意味は,より大きい.
 重要なのは,遠隔授業の大幅な導入によって,従来の国立大学の教育における潜在的な優位性が霧散しかねないことである.国立大学は教員当りの学生数が少ないというその単純な事実によって,教育面で潜在的な優位性を持てた(顕在的な優位性であったかどうかは国立大学によるだろう).ある意味,国立大学の教育成果は高くて当然だったのである.ところが,仮に私大で知識伝達型の講義を遠隔授業に移行した場合,この優位性は消えるだろう.私大でも演習,卒論などは教員当たりの学生数を制限しているので,演習,卒論には実質的な問題はないのである.
 では国立大学は次の一手を考えているだろうか?

 コロナ禍による遠隔授業の導入は日本の大学にとって大きな経験だった.その経験を活かした一手を打って来る大学が出て来るだろう.その一手によって後の大学の勢力図が変わって来ることもあるかも知れない.

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国立大学の評価は合理的になって来た

 ネット検索をしていたら,財務省による文教・科学技術関連の資料(2020/10/16付)に出会った.次である.

参考資料:文教・科学技術 

 この資料の28-56ページが国立大学に充てられている.この資料が提供する数字は文科省が出す資料にも出ているとは思うが,財務省の資料だとコンパクトにまとまっているから便利である.
 この資料を見ると,国立大学に対する「評価に基づく配分」は比較的に合理的になったように思う.「比較的」とは,私が在職していた2017年以前の状況との比較である.私が在職している当時から,国立大学への予算配分は評価による建前だった.ただ,予算が関わるから真剣に対応するしかないのは分かるのであるが,それにしても評価への対応としてやっていたのは下らないことばかりだった.学部長だった時にも,私はあまり真面目に評価の仕事をやる気がしなかった.国立大学を保護するつもりの文科省が,どうでもよいような評価作業をさせていた,単なる改革ごっこだった,という印象を私は持っていた.しかし,2019年度から導入された「共通の成果指標に基づく相対評価」あたりから,ちゃんとした評価になったのではないか,という気がする.

共通の成果指標に基づく相対評価

 上記資料の46頁目に国立大学への予算配分の内訳が簡便な図で解説されている(下図).
04 

大きく分けると国立大学への国の予算は機能強化経費・特殊要因経費,基幹経費,重点支援評価による配分,に3分される.2019~2020年度の実績から見ると,配分額は次のような比率になっている.

機能強化経費・特殊要因経費:12%強
基幹経費:約85%
重点支援評価による配分:3%弱

要するに,全体から見るとほとんどが基幹経費であり,重点支援評価による分は極めて少ない.
 ここで,2019年度から基幹経費の1割未満の範囲が「共通の成果指標に基づく相対評価」による分となったのである.額からすると「共通の成果指標に基づく相対評価」による分は,2020年度に19年度より増えている(基幹経費の7.5%→9.1%).といっても,国立大学がもらう予算のうち,評価による分はせいぜい1割に過ぎない.
 「共通の成果指標に基づく相対評価」は財務省の言葉である.文科省サイトを調べると,同じことを「成果を中心とする実績状況に基づく配分」といっている.ただ「実績」というなら「重点評価分」もやはり実績評価であろうし,「共通の成果指標」の中には成果(outcomes)とはやや異なる要素もある.ポイントは「共通の指標」による点と(中期評価や重点支援評価は各大学が設定した目標への作業の評価である),「相対評価」による点にある.だから財務省のいう「共通の成果指標に基づく相対評価」の方がポイントを突いた表現といえる.
 「共通の成果指標に基づく相対評価」は,教育,研究,経営にわたる13の評価指標(2019年度では5つの指標)を使う.教育だと例えば「卒業・修了者の就職・進学等の状況」,研究だと例えば「常勤教員当たり研究業績数」.経営だと例えば「人事給与マネジメント改革状況」である.その各指標ごとに国立大全体の予算額を定め,各大学への配分額は±15%(2019年度では±10%)の範囲で増減することになる.
 もともと,文科省が主導した評価は妙な評価だった.まるでゆとり教育のように,目標を各大学が独自に設定するのだから,評価らしい評価にはならない.しかも,成果を出さなくても「取り組み」をしていれば評価する,式の評価であるから,結果として何のためにやっているか分からなかった.明らかに「差をつけない」ための評価方式だった.
 私の理解では,財務省は,第1に取り組みではなく成果で評価することを求めていた.第2に,メリハリがつくように共通の指標で評価することを求めていた.現在行っている「共通の成果指標に基づく相対評価」は,財務省の主張と,これまでの文科省方式の折衷のような方式であると思う.ただ,財務省の主張の方向に動いた,ということだろう.結果として,差をつけることの合理性が高まったように思える.

よく出来ている

 まず,この「共通の成果指標に基づく相対評価」という枠組みはよく出来ていると思える.教育研究に関する指標は学系別に偏差値を求め,各大学の学系人員数で加重平均をしている.だから大学間の学系構成の偏りは原則として結果を左右しない.コスト当たりTOP10%論文数などは重点支援③の大学に限定している.以前目にした研究実績の分析では,単純な論文数でも大学間に階層差があるが,上位論文となるとさらに差が大きい.だから重点支援③に限定するのは仕方ないだろう.また,経営に関する指標では重点支援類型別の比較になっている.経営面では大学間の階層化が顕著であろうから,この措置も考えたものだろうと思う.

厳しくはない

 「成果指標で相対評価をする」,「予算の増減幅は±15%」,とだけ聞けば厳しい競争を強いられるように思える.が,実際には厳しいとはいえないと思う.
 第1に,競争で増減する予算は全体の予算のほんの一部である.埼玉大学などは,歴代の学長が大学の裁量で使える分の予算がほとんどないといっていた.その意味では予算の一部が増減するだけでも深刻な事態が考えられる.けれども,一般の企業に比べればこの程度は耐えないといけない.
 第2に,増減の幅は±15%(2019年度は±10%)に限定されており,いわばヘッジをかけてもらっている.どんなに悪くても-15%で済むのである.
 第3に,±15%の増減は個別評価次元で生じることである.13の次元があり,総合的な増減幅はいわば個別次元の(加重)平均のようになる.中心極限定理から考えると,個別次元で評価のバラツキが大きくても,平均値のバラツキは小さくなる.だから結果として得る予算のバラツキは,±15%といわれて連想するよりはるかに小さくなると思う.特に2019年度で評価次元は5個だったが2020年度では13個に増えた.評価次元の増加は中心極限定理でのサンプル数の増加と同じであるから,バラツキを減らすはずである.増減幅は±10%から±15%に増えたけれども,評価次元が増えているので,総合的結果のバラツキは大きくはなっていないだろう.それでも予算減に苦しむ大学が出ることはあろうが,よほどダメな大学(か運が悪い大学)なのだから仕方ない.
 第4に,評価次元によっては重点支援類型別の評価になるので,上位大学との比較を回避できる面もある.
 このように考えると,この評価体系の中にいる限りかなり楽な商売といえるだろう.

政府が何を重視しているか?

 この評価方式では,評価次元に割り振った予算の額によって政府が何を重視しているかが分かるようになっている.2020年度の評価を見ると,最も重視されているのは「若手研究者を増やすこと」と「独自財源を確保すること」であるといえるだろう.前者は研究レベルそのものではないけれど,研究レベルのポテンシャルといえる.後者は「国立大学法人を自律的な組織にすること」であり,よく人がいうような「政府に縛られる大学」とは逆方向であることは注意してよい.
 また,経営に関する評価次元が重点支援類型ごとの評価である点も興味深い.おそらく,東大などの上位大学と埼大などの下位大学では,大学の存立基盤を同一にすることは考えていない,ということだろう.この点は米国の大学も同様だろうと思う.州立大学でも州内トップの大学と下のランクの州立大学ではおそらく別であり,下のランクの州立大学の場合は独自財源で展開するというよりは,州政府予算で運営される面が強いだろう.経営のあり方で国立大学が分化することを政府は容認しているのではないかと思える.

この状態は悪くない

 まとめるならば,「共通の成果指標に基づく相対評価」は評価すべき方式であると私は思う.2004年の法人化されて以降,私の感想としては,国立大学にはろくな評価方式がなかった.実に馬鹿なことをやって来た.法人化後15年を経て,やっと落ち着くべきところに落ち着きつつあるといってよいと思う.
 政府の中には国立大学に対して意見のあるエージェントとして3つの勢力があるように思う.文科省,財務省,そして内閣府である.文科省は国立大学が立ちゆくことを専ら考え,国立大学を保護してきた.財務省は国立大学にコスパに厳しい意見を述べてきた.ただ財務省は意地悪をしていたのではなく,国民の利益をある面で代弁していたと見るべきと思う.そして内閣府は,国力の基盤として国立大学を重視し,研究力の拡張策を考えてきたように思う.今回の「共通の成果指標に基づく相対評価」は,この3つの勢力が適度なブレンドで作り上げたように思える.評価次元は状況によって変わって来ると思うけれども,今後の基本形になるととらえるべきだろう.この結果は悪くない.どの勢力も国立大学を潰そうとは考えていないのである.
 この評価方式を眺めると,国立大学が学長を中心に運営されなければならないのは必然だと思える.同時に,一般の教員は大学の「経営ごっこ」からは離れ,教育研究に専念する存在として位置づけられることになるだろう.むろん改善すべきことはまだ多い.

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新学部設置をパスしてきた埼玉大学

 何年か前の埼大の経営評議会で新学部を設置した大学の例が話題に出た折,外部委員の中から「こんなに新学部が出来ていたのか?」,「埼大はやらないの?」といった感想が出た,という風聞があった.実際がどうかは確認していない.が,世間の人間は新組織ができることを大学の進展と見る面があるから,その種の感想が実際に出ても不思議はないと私は感じた.
 思えば,埼玉大学は不思議と,工学部を新規に設置した1963年以降,新学部を作るという流れにはならなかった.ずっと5学部体制が続いている.新制大学の中でも希な例のような気がする.

埼玉大学における経過

 新学部を作る契機は過去に,少なくとも法人化の前後に1つずつあったろう.
 1つは1990年代前半にほとんどの国立大学で教養部を廃止したときである.廃止した旧教養部の教員ポストを使って多くの「新構想学部」が出来た.宇都宮大学なら国際学部,群馬大学なら社会情報学部である.
 しかし埼大では新構想学部はできなかった.旧教養部からは構想が出ていただろうと思う.前にこのブログ内で書いたが,実は私も教養学部と教養部を一緒にして「社会情報学部」と「国際文化学部」を作るという案を作り,教授会で議論してもらったことがある.しかし賛同者はいなかった.そして全学で何の積極案もないままに,なぜか「学長裁定」で教養部教員の「分属」という案で決まった.何のプランもないまま分属を決めることに私は反対したが,「学長裁定だからしょうがないだろう」という言い方をされたものである.
 詳しくは存じ上げないが,教養学部が新構想学部に反対していたかも知れない.新構想学部はどうしても教養学部と中身がかぶるからである.ならば教養学部と教養部で2つの新学部を作るという私の案は,悪くないように思うのだが,実は教養部から人が来て欲しくなかったというのが当時の教養学部の本音だったろうと思う.他学部もそこは同様だった.
 法人化後すぐにその教養部分のポストを召し上げる(全学化する)という話になった.その全学化したポストで新学部を作るということは,理論上はあり得たろう.しかし当時の学長さんの考えは「5学部が銘々に頑張る」路線であったから,新学部という方向の話は全くなかった.全学化したポストは削減して交付金減に当てようとする一方,皆さん,全学化したポストを自分たちが使いたいという下心もあった.理工のことは分からぬが,少なくとも教養学部以外の複数の文系学部は,自分たちがポストを使わせてもらうことを期待していたようだった.
 もう1つの契機は法人化後,教員養成課程の縮小的再編が進んだことである.縮小させた分の教員・学生定員を使って新学部を作る動きがいろんな大学で起きた.埼大では法人化前の兵藤学長の頃から教育学部の削減というアイディアは全学執行部の中にあった.しかし埼大の教育学部は大きく強かったので教育学部削減は政治的に難しかった.陰のバトルの末に教育学部は学長候補としての田隅候補に寄り添う戦略をとった.その結果,法人化と同時に田隅学長が出現し,政治的に教育学部が勝利したのである.その結果生じたのが「教養部分ポストの全学化」であり,割を喰ったのが教養学部,という経過だった.
 教育学部の削減がやっと実現したのは上井学長の末期,いわゆる機能強化案が出てきたときだった.この時はさすがに,文科省が教員養成課程の縮小再編を求めていた.そこで学生定員100名を教育学部が吐き出すことになったが,対応する教員数の縮小幅が小さかったのは,やはり教育学部の強さのせいだったろうと思う.
 教育学部削減の際の学生定員と教員定員を使って新学部を作るということを多くの大学が行った.当時は文科省も埼大に国際系の新学部設置を示唆したらしい.しかし埼大の執行部は新学部を見送り,定員を理工の院に付けたのである.新学部の方向に行かなかったのは,当時の学長さんが経済学部出身であった(教養学部がからむ新学部を嫌った)からであろうと私には思えたが,証拠はない.
 なお,教育学部拠出の学生定員は(学部換算で)100名であるが,理工の院に当初付いたのは50名分だった.後の50名分は何年か後に付ける予定だった.しかし全学の会議の中で,理工の院のさらなる学生定員増は無理,という意見が出て予定の定員増は困難になった.この時点でも,50名分の学生定員を原資の1つにして新学部は作ろうと思えば作れたろう.しかし結局,この時点でも話は新学部には向かわなかった.
 つまり,考えられるあらゆる機会で新学部を作らない方向の選択をし続けたのである.確率が低い事象が起きたなぁ,と私は思ったものである.

世間の国立大学はどうなのか?

 下の表は東日本(北陸は除いた)に国立の新制大学の,法人化(2004)以降の部局設置をまとめた表である.既存の学部の上に新設された研究科は除いた.名称変更だけと思える設置も除いた.学科,専攻などの追加も省いた.千葉大は旧六で新制大学ではないが,埼大の近くなので含めた.西日本も新学部等は同様に出現しているはずである.

    表:法人化(2004)後の学部設置

大学名 設置内容
弘前大学 保健学研究科(博士)(2007) 食料科学研究所(2014) 地域共創科学研究科(修士)(2020)
秋田大学 国際資源学部(2014)
福島大学 理工学群(2004) 農学群(2019)
宇都宮大学 地域デザイン科学部(2016) (共同教育学部 2020)
群馬大学 情報学部(2021) (共同教育学部 2020)
千葉大学 国際教養学部(2016)
横浜国立大学 都市科学部(2017)
山梨大学 生命環境学部(2012)
静岡大学 光医工学研究科(浜松医大との共同教育課程,2018)
岐阜大学 連合創薬医療情報研究科(2007) 自然科学技術研究科(2017)
三重大学 地域イノベーション研究科(2009)
滋賀大学 データサイエンス学部(2017)
和歌山大学 観光学部(2008)

 法人化以降だけでも結構多くの大学で新学部が設置されている.秋田大学の新学部は旧鉱山学部(理工学部に改組)と教育文化学部の一部から作った新学部である.宇都宮大学の地域デザイン科学部は工学部の一部と教員養成課程削減で出来た学部だろう.群馬大学の場合,新設の情報学部の以前から社会情報学部があったけれど,情報工学科が学部になった点が大きいので含めた.静岡大学の新研究科は浜松医大との統合話の中で出てきた共同課程のための研究科である(もっとも静岡大学と浜松医大の統合は延期になっている.静岡大学は以前にも静岡県立大学との統合を途中放棄しているので,今回もわからん).滋賀と和歌山の新学部は経済学部からの派生である.福島大学の例は特殊な事情を反映しているのだろう.
 何れの例も,新学部はその大学が目指す方向性の表現だといえるように思う.弘前,宇都宮,山梨,岐阜,三重,和歌山大学の新学部/研究科は地域産業重視の大学の姿勢を示しているだろう.横国の新学部は同大学が都市型の大学であることの宣言であるように見える.学部を作らなければ,外部には大学が何を考えているのか,ようわからん.
 最も注目すべきは滋賀大学のデータサイエンス学部である.主導した佐和隆光が流石だった.一橋も後追いで今,ソーシャル・データサイエンス学部の計画を持っている.経済学部,特に経営の部分はAIによって駆逐されやすい職種の人材を養成している訳だから,この転換は必然に思える.埼大も同じ見識を持てるとよい.

新学部設置は望ましいのか?

 以上,新学部設置について見てきた.ここまで私は,新学部設置を望ましいことのように書いてきた.が,新学部設置が望ましいのか,部局構成は変えずにやるのがよいのか,という点については,考え方によるだろうと思う.
 ちゃんとした計画が組めるなら,という前提付きではあるが,私は新学部設置が望ましいと思っている.組織は時代とともに適応的に変わるのが当たり前だろう.新学部設置は大学にストレスをかけるけれども,ある程度のストレスの存在は大学運営にとって必要なことと思える.また,何らかの動きがあれば広がる未来も,動かなければ開かないままになるように思える.動きを作ることではじめて,「しょうもない部分」を整理できるという面もある.
 ただ,あえて変わらずに力を蓄えるのがよい,組織いじりは本質的な進歩をもたらさない,という考え方もある.また,改善すべき事項は目の前にぶら下がっており,その改善を優先すべきという考え方もあるだろう.私は自分で労力を払わないから勝手にいえるが,在職していれば,組織改編ではない点に労力を割くべきと思うかもしれない.

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筑波大学の学長選考を考える会:こ,これは…

 私はよく,YouTube で外務大臣記者会見と文科大臣記者会見を視聴する.本日,文科大臣の記者会見を観ると,最初に朝日の記者が質問した.1つは森元首相の件であるが,2つ目が筑波大学の件だった.筑波大学の件というのは先日,どこかのニュースでタイトルだけを眺めたことがあった.筑波大学が指定国立大学法人を申請する書類の中に書いた国際交流の実績人数が実際より水増しされていると,「筑波大学の学長選考を考える会」が文科省に訴えたことである.萩生田文科大臣がいうには,その訴えの書類を一昨日受け取ったので文科省が筑波大学に問い合わせたという.結局,国際交流の該当者の定義の問題だと分かったという.「考える会」の方はJASSOを経由した学生数を見ていたが,筑波大学の方はそれ以外の交流実績も加えているので,数字が違っていた,文科省の求めていたのは全国一律で筑波大学の定義でよい,ということだった.「考える会」に与している朝日の記者もそれ以上は何もいわなかった.その様子を見るとこの会見で出た文科大臣の返答は初出だったのだろう.いつものように,朝日新聞は「疑わしい」方は記事にしたけれど,「それでよい」方は記事にしないだろう.
 この「筑波大学の学長選考を考える会」というのは,昨夏あたりに学長選考方法を巡って大学当局に疑義を提示していたと思う.その代表者のようにニュースで名前が出ていた先生は,例によって文系だったと記憶している(東大でも同様である).左翼はド文系が多い.ただ,学長選考は学長選考会議で決めるものなので,教員の皆さんが関与することは制度の建前からは想定していない.学長選考について教員が株主のようなつもりでいることはただの勘違いなのである.

 あらためて「筑波大学の学長選考を考える会」なる団体がどんなんか,と思って検索してみた.その会のサイトを見て「こ,これはぁ…」と思った.サイトがプロ仕様なのである.通常,素人教員がこの種の会を立ち上げると,発起人が誰それと書いておく.しかしこのサイトは弁護士の名前しか出ていない.職業的な戦闘集団であるという印象なのだ.
 指定国立大学法人の申請書類の記載がおかしい,という話であれば,普通は大学当局に確認するだろう.たぶん今回の文科大臣の返答と同じ答えが返ってきて,そこで終わるだろう.しかし大学当局にではなく直接文科省に申し入れるというのは素人のやることとは考えにくい.
 この会の弁護士さんがどういう系統の方かと,調べなくてもわかるように思うが念のためググってみた.旧総評系の法律家団体にいる方で,その団体の関係先はいろいろある.系譜としては旧社会党系なのであるが,現状で一番影響が強いのは日本共産党のように思う.それ以上調べる必要もないか,と思った.
 不正があれば糺すのは正義であるとはいえ,筑波大学の発展を願うというよりいかに評判を落とすかに労力を使っている,という点が異様に映る.考えてみると日本の政界の野党も同じようなことをしている,ともいえる.

 こういう会が埼玉大学にないのは幸いだった.埼玉大学の組合は軟弱で,私は本城先生が退職なさるときに組合はこの先大丈夫かと思ったほどである.組合としての立場はお持ちであるが,それでも関係者は埼大の足を引っ張ることは本意ではない方々である.埼玉大学はなんだかんだといいながら程よい所で運営されているのが幸いだ,とあらためて思った.

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埼大教養学部の出願倍率を眺めて思うあれこれ

 今年の国立大学(学部)の出願期間は1/25(月)~2/5(金)だった.例年のように私は埼大教養学部の出願状況を眺めていた.国立大学の定員見直しが示唆される昨今である.定員で直接的に関係するのは入試の倍率であるから,どうしても気になるところである.
 入学定員が多く倍率が安定している前期日程だけを問題にしよう.2月5日最終日までの集計で,教養学部の出願倍率は2.4(2.37)だった.倍率は最終的に若干変わる可能性があるが,違いは僅かなのでこの数字を使う.昨年度が3.0(2.97)だったから,埼大教養の倍率は下がった.低い倍率といえる.ただ,この結果をどう見るかは要求水準によって違ってくる.あくまで上を目指そうと考えるなら(私は考えているが),この結果は失望すべき結果である.私が学部長だったときの2015年度の入試で倍率が2.4に落ち込んだとき,私はかなり焦った.ただ,世間の見方の標準に合わせて評価するなら,「今どき,まあこんなもの」というべきだろう.

こんなものさ

 まあこんなものと思う根拠を以下に書いてみよう.
 第1に,この2.4倍という数字は,最近の実績としては3年に1度生じる悪い結果なのである.埼大サイトに出ている過去の倍率(2015年度は私の手持ち資料)から,最近の教養学部一般入試前期日程の出願倍率をグラフにすると下図のようになる.このところ,2015,2018, 今年2021年と,3年に1度は2倍台の下の方に落ち込むのである.だから「あり得る範囲の出来事だ」と考えるのが普通だろう.

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 第2に,埼大教養学部と同じ人文系学部長会議に属している東日本の大学の人文系学部の前期日程倍率は次にごとくであり(ただしシステムが複雑な福島大学は除いた),今年の埼大教養学部の数字と同じくらいである.

前期日程倍率(新制地方大学)
  弘前大学 人文社会科学部 1.9
  岩手大学 人文社会科学部 2.4
  山形大学 人文社会科学部 2.1
  茨城大学 人文社会科学部 2.6
  信州大学 人文学部    2.6
  静岡大学 人文社会科学部 2.4
(参考 宇都宮大学 国際学部 2.3 )

 ついでに,格としては上の旧六の大学の倍率も書いてみよう.
  千葉大学 国際教養学部  3.8
  千葉大学 文学部     3.8
  新潟大学 人文学部    2.4
  金沢大学 人文学類    1.9
  岡山大学 文学部     2.3
  長崎大学 多文化社会学部 1.8
  熊本大学 文学部     2.4

 さらに,東日本の上位大学を書いてみれば,
  東京大学 文科Ⅲ類    3.1
  東北大学 文学部     2.7
  筑波大学 人文学類    3.3

 このように見てみると,埼大教養学部の2.4倍は,良いとはいえぬが悪いともいえない.千葉大や筑波は倍率的にも上の層にあるのだが,埼大としては,まあ,こんなものなのだ.

 第3に,受験生が集めにくくなると推薦入試に定員を振り向けることになるが,埼大教養学部は国立大の推薦定員率の標準よりやや低い水準であり,千葉大文学部とほぼ同じである.茨大などは推薦率がやや高く,宇都宮大学国際学部になるとさらに高い.だからまだ,埼大教養学部は余裕を残しているといってよいように思う.

出願期間の経過

 前期日程の埼大教養学部(定員115),千葉大学文学部(定員125),千葉大学国際教養学部(定員83)の3つにつき,出願期間内で出願倍率がどう変化したかを見てみよう.次のグラフである.

210207c2

 今年は出願期間がまる2週間あった.また,受験業界人の説明によると,今回の共通テストは事前の難化予想よりも出来がよく,思ったより点数が取れた受験生と取れなかった受験生の二山ができた,という説がある.そのため,受験生の判断が遅れたらしい.この説明の通りに,期間の第1週目では上記3学部の出願数は例年よりかなり低かった.第1週の時点では3学部とも横一線であり,一時は埼大教養の方が千葉2学部より良かったのである.ところが第2週に入って目立って差がついた.2週目に入ってからの経過は従来の出願期間の2週目のパターンとよく似ている.ただし千葉の2学部の上がる勾配は高いのに,埼大の方は上がり方が緩慢だった.過去2年間は千葉と埼玉の倍率差は1倍だったけれど,今年度はより大きな差が出来てしまった.例年そうなのだが,千葉の文学部と国際教養学部は,最終倍率が同じようであるところが不思議である.
 千葉大の方は,2学部とも,昨年ほどではないが一昨年の水準で落ち着いた.埼大教養の方は3年前の低水準に戻った感がある.この違いが何によるかは,想像はできるが根拠がない.
 2019~2021の3年度の,出願期間内での倍率の推移を次のグラフに示す.2021年度は出願期間が2日伸びたけれども,従来より1日当りの出願到着数が薄まった形である.全体のパタンは従来と変わらない.週明けの月曜の数字を見た段階で,最終倍率が2倍台の前半であることは読めた.

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千葉大との比較

 私は以前から,埼大教養学部は千葉大の文学部を戦略的なターゲットにすべきと感じていた.集客の構造が異なるので,埼大は私大と比較しても仕方ないだろうと思う.そしてなぜ,千葉大文学部は埼大教養よりよいのか? 千葉大は旧1期校,旧六であり,特に医療系の学部を全部持っている稀有な大学である.しかし大学の基盤をいえば千葉より上の大学は多い.なのに,国立の中で最も受験生を集める学部と考えられている.
 千葉大は埼大より受験市場でレベルが高いだろう.しかしよりレベルの高い大学も千葉大ほどは受験生を集めない.そこはどういう理屈か?
 根拠のない想像であるが,共通テスト受験生のうち実際に国立大に入学する層の成績分布を求めたとき,一番確率密度というか,層が厚い所に千葉大が位置しているのだろう,と思う.よりレベルが高いと受験生は固定して増えない.埼大レベルの新制国立大だと,同じ層の受験生をうまく均分して受け取るような構造になっていてやはり増えない.千葉大はその中間にあり,実際には一番層の厚い受験生を対象にし,その層に対応する国立大が首都圏内では他にない,ということではないか? だから,埼大との相違は,ごく僅かな立場の相違だけなのではないか,という気がしている.ただ,その「僅かな立場の相違」が結構厚い壁なのだろう.
 その壁を超える工夫があってよい.

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創発的研究支援事業(2020年度)

 文科大臣の記者会見のYouTube動画を見ていたら,科学技術振興機構(JST)が「創発的研究支援事業」の2020年度分の採択をした,と文科大臣がいっていた.この事業は日本の研究の落ち込みという文脈の中で,若手の研究環境が苦しいという苦情を大学側が申し立てていたことへの政府の反応だと私は認識している.財務省の言い方だと財政的支援は出来ている,ということであるが,研究の振興に重点を置く政府が果敢に措置したものであろうと思う.評価すべきだ.
 実際にどんな風に採択されたのかと,JSTサイトに入ってみた.採択された課題(と研究者)を眺めてみた.やけに旧帝大が多いなと感じた.が,この点は実態からすると必然かも知れない.私は以前に研究論文の状況をまとめた報告書を眺めてみたが,科学技術分野では国立大学が中心であり,特に旧帝を中心に上位大学の論文シェアと上位〇%論文のシェアが際立って高いことが印象に残っている.
 何となく気になったので,採択された252課題(252名)の所属機関を数えてみた.まあ,ヒマだから.
 何点か予想が外れたところはあるが,大まかには思った通りの結果だった.JSTは研究に関する情報を集積しているので,採択の判断はフェアだったろうと思う.

 まず下表は採択数を機関ごとに私が集計した結果である.

210204

 採択数が2以上の機関は33ある.日本の大学の研究力は,一般には,東大,京大,東北大の順と思われている.この表では東北大がダントツに1位であるが,意外とはいえない.大学の順番も私の偏見とは大きく異ならない.やはり旧帝では北大が崖っぷちだろうと思う.
 旧六大学の中では金沢大と熊本大が良かった.千葉大と岡山大は意外と振るわなかった.長崎と新潟は仕方がない.
 論文のシェアでは理研などの研究所,研究機構のシェアが大きかったと思うが,この採択では私の予想より低かったように思う.

 採択研究者の所属機関の種別で集計すると次のグラフのごとくである.まず全採択のうちの約半数を旧帝大等(旧帝+東工大)が占める.偏っているといえば偏っている.しかしこれが現実なのだろう.その他の国立大は全部足しても旧帝大等の約半分である.なお,埼玉大学も1件採択され,面目を保った.採択無しの国立大が多いのであるから,1件でも有難いのである.横国などはゼロである.
 私立大学は文系中心とはいえ,研究者の数は理系も多いだろうと思う.けれども採択数では振るわない.

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 この明確な階層差を受け入れた上で,埼大など「その他の国立大学」が何をビジョンとするかが問題なのだろう.常識的には2つの選択がある.第1は,研究はするにせよ教育中心に洗練して行くという道である.第2は,統合で規模を整えた上で上位に挑戦する道である.私は昔から第2を選ぶべきと思っていたが,皆さまどうなさるのか?

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埼玉大学発展・変革ビジョンw

 埼大は今何を考えているのかと思い,何気に埼大サイトを眺めてみた.「埼玉大学発展・変革ビジョン」なるものがあると知った.
http://153.127.197.67/guide/pdf/vision.pdf
 埼大サイトを検索して調べると,昨年(2020年)の9月に,教育研究評議会,経営協議会,役員会の順で承認を得て決まったようだ.実は次年度に次期中期計画を決めるはずだから,以前の通りなら,今頃は中期計画も大体は出来ていてよい.

 その「埼玉大学発展・変革ビジョン」を眺めてみた.「これ,何もしないということか?」とまず思った.

 気付いたことを4点書いてみよう.

 第1に,記載内容が「縦割り」であり,全体構想があったようには見えない.5つのミッションと5つのビジョンが書いてある.短い方のビジョンを次に書き出してみよう.

1.いかなる社会状況においても学生たちの学びの場を継続するとともに、新たな社会課題の解決の担い手となる人材を育成します。
2.新たな知の発見・創出と予測不能で激変する社会が抱える課題の解決とを目指します。
3.新たな脅威に直面する社会に寄り添い、地域社会・行政・産業界・非営利活動団体等と協働し、「知の府」として社会に貢献します。
4.国際社会の激しい変化に対応しつつ、世界各地域との知の交流を進め、国際社会に貢献します。
5.急速に進む社会変化を既存業務の変革の好機と捉えて、新たな働き方を確立します。


 この5つのミッションの各々に対応してヴィジョンが続くのである.
 この5つは,事項としては上から順に教育,研究,社会貢献/連携,国際連携,業務である.それぞれの担当理事なり副学長に振って,上がってきたものをそのまま書いているように見える.
 1世代前だと上井学長の末期に機能強化プランが出てきたけれども,そのときは山口理事(後の山口学長)の考えが色濃く反映されていた.山口学長の治世が終わった今,同じようなリーダーシップはないのだろうか.現学長の選ばれ方から考えてそうなるのかなぁ,と思わず納得した.

 第2に,この項目の並びからすると,第1優先は教育のように見える.山口学長(理事)のプランが出てきた時の雰囲気からすると,第1優先は研究だった.実際,同プランの後のバージョンでも第1戦略は「イノベーションの創出と地域活性を目指した融合科学研究・開発の推進と人材育成」である.「と人材育成」と教育も後ろに引っかけてはいるけれど,精神的な重点は研究・開発にあった.
 当時,私は研究をそこまで押し出すのは現実的でないと思っていた.けれども山口理事/学長の案には良くも悪くも志の高さがある.だから内心はまあいいかな,と思ったものである.

 第3はチャレンジする側面がほとんどないことである.際どい話を避けている.
 例えば,少し古いが,次の例は2019年に群馬大学が決めたビジョンである.「既存学部・研究科等の見直し・改組」,「新学部構想」,「新たな年俸制,教員評価導入」,「定員適正規模見直し」など,際どい話がいろいろ書いてある.というより,この程度は書くものではないか,という気がする.
https://www.gunma-u.ac.jp/outline/out006/g80909

 第4に,以上の総括であるが,「基本的に今のままです」が,この「埼玉大学発展・変革ビジョン」の行間に書かれたメッセージだろう.よくいえば「今のままですが高度化します」だろうけれど,評価があるから高度化はどのみちするのである.ただ,ビジョンとは本来,将来的に目指す大学のイメージだと思うのであるが,このビジョンを読んで今と違うイメージは浮かび上がらない.現教員の福祉を優先するならこうなる,という見本のような計画といえる.それで悪いかといわれると「まあ,いいんじゃない?」と笑って答えるしかない.やらねばならぬことは結局は避けられないのであるから,自ら頑張ってプランを書いても結果は同じかも知れない.

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旭川医大の件は鑑賞すべきレベルではないか?

 旭川医大の病院長が同学長から解任されたという件が,先日,全国紙に載った.私は存じなかったが,そのニュース以前に当の病院長が学長にコロナ患者を入院させることを提案して「受け入れるならお前が辞めろ」といわれた,という件が文春から報じられたらしい.「お前が辞めろ」の件はパワハラになる可能性があるので文科省が旭川医大に問合せを出し,書面回答を精査中,と文科相が先日の記者会見で述べていた.
 全国紙ではその後の報道はないと思うが,北海道新聞には続報も載っている.学長が変なんじゃないの,という趣旨の記事だった.
 この種のことは一般論として,誰が良いの悪いのは外部からは分かりにくい.メディアは学長専制を糾弾したがるし,コロナ患者の受入れは世間的には正義であるから,人は病院長に同情する.SNS上でも圧倒的に病院長に同情が集まっている.が,学長を支持する意見もある.実際のところは,おそらく,文科省と同医大とのやり取りの結果を文科相が説明することで,ある程度分かるのだろう.
 善悪はここでの話題ではない.私にとり,この件の注目点は旭川医大の学長側の洗練度の低さである.この洗練度の低さは鑑賞すべきレベルではないか?
 まず確認しておくべきは,旭川医大は「小さい大学」ではないことである.規模としては単科の国立医科大の標準である.令和元年度の旭川医大の財務諸表によると,(専任で)教員数は335人,職員が1011人,支出が295億円である.対応する年度で埼大は教員が540人,職員219人,支出が126億円である.教員数こそ埼大の方が大きいけれど,予算規模では旭川医大が埼大の2.34倍である.病院付きの医科大だから仕方ないが,事業規模という点では旭川医大の方がずっと大きい(旭川医大に埼大をくっつけると群馬大学の規模になる).医大であるから水準の高い人材が多いだろう.
 その立派な旭川医大にして,この洗練度の低さは目を引くレベルである.
 第1に,流布された学長のヴィジュアルが人の記憶に残るだろう.全国紙は載せないが,文春が変な写真を選んで出しているのだろう.選んだとはいえ,埼大の歴代学長さんなら,そんな写真を残していることはないだろう.
 第2に,「コロナ患者を受け入れるならお前が辞めろ」なんて,子供でもない限りいいますかね?(その言葉自体はいったと当人も認めているらしい.) 「コロナ患者を受け入れる」と「お前が辞めろ」とは筋として繋がらないから,理屈にならない.
 第3に,文春に出て変に注目されているときにわざわざ,病院長を解任するなんて,しますかね? 世間には病院長を解任したい学長は沢山いるかも知れないけれど,普通はしないでしょう.それもこんな時期を選んで.

 なんだかんだと大学は世間に話題を提供してくれる.同じくらいの洗練度で世間に話題を振り撒いたのは,体育会系?の理事長さんの件(中身は忘れたが)を提供してくれた日大さんくらいではないかと,ふと思った.

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突然の個別試験中止公表で妄想してしまう

 宇都宮大学が1/21に入試の個別試験を中止する(共通試験だけで選抜する)と公表したというニュースが朝日新聞に載っていた.宇都宮大学は「受験者の健康と安全を守ることを最優先に判断した」と説明したという.
 ええ,1/21って,1/25から出願期間だから,遅過ぎね?と思った.中止してもよいが,このタイミングは唐突に感じる.唐突であるが故に,私の中の自動思考はいろんな妄想を生み出す.以下に書くことは私の自動思考が生み出した妄想であるので,失礼かも知れないがお許し願いたい.私の自動思考は私であって私ではない.私の意思は介在していないのだ.

 まあ,栃木県はなぜかコロナで緊急事態宣言を出しているので,宇大のこの措置もあるのかも知れない.しかしコロナが流行っているといえば埼玉の方が流行っているだろう.念のため埼大サイトを眺めてみた.宇大の公表の1日後の1/22の日付で,「個別学力検査を前期日程・後期日程ともに学生募集要項のとおりで実施する予定でおります。」と書いてある.常識的である.「政府からの強い要請などにより」実施できない場合もあると書いてあるが,その点は書くまでもない.ただ,共通試験も予定通り実施した政府が今頃強い中止要請をする確率は低い.
 栃木県ってそんなにコロナが流行っているのかと栃木県庁サイトを眺めた.まあ,確かに正月頃に新規感染者は増えている.が,正月頃がピークであり,共通試験のときや,宇大が公表したという1/21頃には既にかなり沈静化している.正月頃に中止を公表するなら分かるが,正月頃はお休みしていて,後になって正月頃の資料を見て中止を判断したんだろうか? そもそも緊急事態宣言は2/7日に終わる予定である.その予定は変わることがあるとはいえ,2月後半の個別試験をやらないという判断は,普通しないだろう,という気がする.

 宇大はなぜ中止判断をこの時期に公表したのか? この点が妄想の中心である.
 実際にコロナが厳しいのかも知れない.感染者数だけなら埼玉の方がひどいと思うが,病床数に逼迫感がある,ということはあるのかも知れない.しかし受験生世代は感染があっても重症化することは希だから,何か変な気がする.
 こういうと怒られるだろうが,宇都宮(大学)ってさぁ,「首都圏」だという点にこだわるんですよね.東京の人は宇都宮を首都圏とは思わないだろうけど.そんなんで,埼玉が東京と一緒に非常事態宣言をするのに,首都圏の栃木が宣言しない訳にはいかない,とか思ったりしてね.それで,個別試験中止を宣言することで「やった,埼玉を抜いたぞ」という感覚だったりしてw

 この間,大学は遠隔授業に注力していて対面授業が低調なことに文科省も苛立っている.けれど,この点は私の率直な妄想であるが,遠隔授業で学生も教員も,大学に出向かなくてよいので,実はハッピィで,対面授業やらないでいいんじゃね,と思っているんじゃないか.特に文系の先生方はそうでしょうね.研究に実験設備を使う理工系や,現業部門と密接な医学系は大学に行くしかないだろう.しかし文系の先生って,多くは本読むだけだから,家でいいんですよね.私も在職中は通勤往復で3時間を要していました.だからオンラインでいいですっていわれたら,やったぜぃ,ラッキー,と思ったでしょうね.
 埼大もそうだけど,宇大の先生方って,実は東京辺りから通勤している人が多いですよ.通勤が大変.するとオンライン授業でハッピィ.逆に,入試やりますって,嫌でしょうね.大学まで行かないといけない.すると個別試験止めましょうといいたくなるでしょうね.だから宇大で,個別止めたいという先生方(主に文系の先生方)と,そりゃあんまりだから個別試験はやりましょうという大学本部側との攻防があったりしないか,なんて考えてしまいますよね.
 朝日新聞によると,信州大学も「2月8日以降、緊急事態宣言が引き続き出ている場合には、人文学部と経法学部で個別試験を中止し」とあった.ね.個別中止するのは人文学部と経法学部,つまりド文系.
 文系の場合,本音では個別試験をそもそもやりたくないだろう.センターだけでいいんですよ,本音は.文科省が個別ちゃんとやれというから従うだけで,どう考えてもセンター試験の方がよく出来てますもんね.
 理系は個別の中止には抵抗するような気がする.センター試験時代は数学Ⅲをセンター試験で扱わなかった.数学Ⅲを課すとすれば個別試験になる.共通試験も同じではないか? それに,理系の場合は先生方はどっちみち大学に行かないと仕事にならない分野の方が多いから,「個別止めて休もうぜ」にはなり難いような気がする.
 宇大は埼大より文系比率は低いような気がする.けれども,文系の先生方が入試で出動する比率が高いとすると(例えば英語の試験の採点などで),入試止めましょう,というのはあり得るのかなぁ,と思えてしまう.

 といろいろ書いたけれど,宇大が個別中止を決めて受験生が迷惑するかというと,まず迷惑しないでしょうね.宇大や埼大に入りたいとずっと思っていた受験生など,いるはずがないですよ.そういっては自虐的であるが,一部上位の国立大学を除けば,共通試験から合格圏とわかった大学の中から選ぶだけであり,出願時点で出願する国立大学の個別試験の対策までしている受験生はほとんどいないだろう.むしろ宇大は個別試験を止めることで,志願者が増え,入学者の共通試験の点数も上がるだろうと私は思う.そのために中止したりしてw

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大学の「ゆとり教育」?

 このブログの1つ前の記載で日経の記事「転換期の社会と大学(上)」に触れた.この「転換期の社会と大学」には既に「中」と「下」が出ている.そこで「中」を読んでみたのであるが,結構とんでもないことが書いてあったのでここで取り上げてみる.
 この「転換期の社会と大学」は上で国大協会長,中で私大(法政大)の総長,下で公立大学協会長が書いており,ちょうど国公私立大学の代表が意見を述べる形になっている. さて,その「中」を書いているのは法政大の田中優子総長である.実はこの「中」も「上」と同じように簡単な談話程度の中身であり,詰めた議論はない.それだけにかえって,考えていることが自由に出て来るのかも知れない.

田中総長の説

 田中総長は大学での真に必要な「学びのしくみ」を提言する.第1に大学は他者と関わる機会を積極的に作るべきといい,第2に教えることから学ぶことへ学生評価の視点を移すべきことをいう.ここでの力点は第2点の方にあるようだ.
 そのために次の点をあげて大学設置基準を考え直すべきという.
1) 学ぶ側に軸足を置いた単位認定の方法の開発
2) 上記1)の実質化のために卒業単位を減らす
3) 定員管理基準を「入学定員から収容定員へ」,「学部単位から大学全体へ」

大学版の「ゆとり教育」か?

 私にも異論がないのは3)である.ただ,定員管理は現状でも入学定員だけではないし,標準的な管理の単位は学部ではなく学科であるから,いっていることが不正確な気はする.
 しかしまず1)が分からない.そもそも詳しく書いていないのであるが,文面を読むと具体的には次のようなことであるようだ.従来は出席回数,試験・リポートで単位認定をしていた.この方法をやめて,学ぶ側が教員と相談しながら自分の目標と学び方を決め,その目標の達成によって単位を認定する,ということらしい(レポートの提出もないのか?).
 問題は次の2)である.1)をするために卒業単位(現状で124単位)を減らすということなのだ.
 馬鹿馬鹿しいにもほどがある.ただ,見方によってはこれって「ゆとり教育」の大学版であるから,左巻きの文科相官僚と波長が合って変なことにならないかという危惧も覚える.
 まず1)についてであるが,「学ぶ側が目標と学び方を決める」というのは,やることが望ましいけれど,基本的には授業外の勉強としてやることなのだ.私の学生時代を考えると,多くの同級生は大学の単位外で何かを勉強していた.お金のある人はアテネフランセに通いながらフランス語を伸ばす,といったことをする.金のない人は自分で文学作品とか古典を読むとか,数学のある部分を勉強するとか,である.そういう部分を卒業単位に繰り込めれば楽ではあるが,それだけでよいなら大学に通うべきではない.私学でも税金から援助が出ているのである.学びは大学で学ぶことだけではなく,大学で学ぶべきことは所定の課程である.
 2)も論外である.例えば理系だと,解析学,(線形/その他の)代数学,幾何学などでそれぞれ学年ごとに学ぶべき事項があり,その単位を合算すれば124単位にはなってしまう.それだけ教えることのない分野であるなら,大学に置く課程からは外すのが正しい.
 現実的にいうと,実は文系って,田中総長のような世界であるという実態はあるように思う.例えば私は,東大文学部社会学を卒業した.この社会学って,授業らしい授業は概論だけである(しかも駒場の概論が最もまともだった).社会学の授業は,教授が「今私が考えていること」を述べる講演のような授業なのである.本来授業で教えるべきは学界で定着した事項であるべきだが,そうではなかった.だから卒業のために単位を取る必要はあったけれど,本来的に聴く必要のある授業ではなかったように思う.基礎的な事項は受験参考書のような本で各自が勉強するしかなかった.後に英語版International Edition のSociology のテキストを見てみて,外国はちゃんとしたことを授業で扱っていると知って驚いた.
 東大文学部も心理学は理系に近かったけれど,それ以外は社会学と同じようだったかも知れない.今も同様かどうかは知らぬが,当時はそうだった.
 ただ,この点では(一部の?)文系が異常なだけである.その異常さが一部文系だけであるなら放置してよいと思うが,大学の授業一般に拡張させる訳にはいかない.田中総長がいうようにするのは理系では無理であり,まして医学系でその通りにしたら大災害である.
 法政だけが勝手に落ちてゆくのは結構と思うけれど,埼大のように有用な人材を輩出せんとする大学は真似るべきではない.

大学設置基準

 この日経記事では「上」と同様に,末尾に編集部のコメントを書いている.そのコメントには「大学像の再設計 熟議が必要に」という見出しが付く.見直すべき(かも)と編集部が書いているのは次の点だった.

(a) 単位当りの学修時間指定
(b) 校地面積,備えるべき施設
(c) 学生定員

 このうち,(c)は今の情勢で見直しになるだろう.(a)と(b)は大学設置基準の問題である.編集部は「熟議が必要」というだけだから気軽なのだろうが,そう書く前に少しは考えろといいたくなる.
 まず(a)は,実は米国の単位換算と合わせた結果であるはずだ.変えない方がよいだろう.日本だけがバカになる訳にはいかない.
 (b)についてであるが,実は(b)のような設置基準要件は,海外大学の日本進出を阻止するための非関税障壁として機能している.海外大学は日本に進出したくても良い場所で校地を取得するのが高過ぎて,日本に進出しない.気軽に変えると海外有名大学が簡単に出店できてしまい,まず被害を受けそうなのは法政大学のようなタイプの大学であろうと思う.それでいいの?(私はよいと思うが.)

追記:上記で書き忘れた点:日米間でほぼ同じなのは「単位当りの学修時間指定」だけではない.卒業単位数もほぼ同じである.だから学修時間指定や卒業単位を減らしたら,日本だけバカだと宣伝するようなものだ.

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国立大の再編はあるのか?

 1/3の日付で日経に「転換期の社会と大学(上) 国立大,将来ビジョン明確に」という記事が載った.国大協の永田恭介会長の文章である.どれどれと思ってさっと眺めてみた.詰めた文章ではなく,軽く書いた談話のようである.何となく,学内の新年の挨拶を文章にしたような文面だった.
 あえて世間に公表するような水準ではないように思えた.中身も月並みである.2022年度から第4期の中期が始まるので国立大は将来ビジョンを明確にする必要がある.国立大には研究・開発を牽引する役割,地域の核となる役割がある,と書く.今さら感が強い.上位国立大の大学院大学化(学士課程放棄)については「異論がある」と書いて拒否しているのも,従来の論点の繰返しである.

国立大再編?
 ただ一か所,私の目を引いたのは「学生定員の規模についても検討しなければならない.」とある箇所だった.数年前に出したビジョンでは,定員規模は現状のままを国大協は要望していた.しかしここで定員規模の見直しに向けて踏み込んだのか,と一瞬思った.
 しかしよく考えると「検討しなければならない」であって,「規模の見直しをしなければならない」ではない.だから,検討に前向きな立場を示したのかも知れないが,役人用語で「検討します」は「やらない」という意味である.
 同じパラグラフで,「それぞれの地域に及ぼす影響を考えると,一大学の事情だけで判断してよい問題ではない」といって,結論を出すことのハードルを上げている.その後の「例えば」で始まるセンテンスが謎である.

「例えば一つの大学がある分野の定員を減らした場合,隣接する国立大がその分野の定員を増やして補うといった方法を考える必要があるかも知れない.」

 はっ? 何の意味があるの?と,分からなくなった.
 A大学が工学系の定員を減らしたら隣のB大学はその分の工学系の定員を増やす,ということなら,総体では定員規模の変更にならない.そういうことをいっているのであれば,「見直すけれども規模は今のままです」ということでしかない.B大学の定員の増加はA大学の減少分より小さくします,少し規模を見直します,という意味なのかも知れない.最大限うがった解釈をするなら,永田会長は各大学が主とする領域を決めて特化し,隣接する国立大間で連携する形で規模の縮小を果たす,と考えているかも知れない.ただ,他大学と領域の調整をする余地があるのは新制の地方国立大(平たくいうと駅弁大学)であり,上位の大規模国立大学は他大学と領域の調整をする必要性はないだろう.
 領域の調整を国立大間でやるのであれば,国立大のグルーピングが不可欠だろう.例えば埼玉県は東京都,千葉県,茨城県,栃木県,群馬県,山梨県と境を接している.それら6都道府県と調整しますといったら,やらないといったも同じことである.例えば群馬大,宇都宮大,茨城大を同じグループと考え,それらの間で調整を行うというのが現実的だろう.できればそのままナントカ大学機構というアンブレラにするのがよい.調整に伴うポストの移動は簡単になる.ただ,国立大は抵抗するだろうw.

国立大学の定員見直しは必要なのか?
 多くの国立大学関係者と同様に,私は国立大学の定員規模縮小をする必要はないと思っている.先進国の中でパブリックな大学のシェアは,日本は低い方だろう.人為的に低くする必要はない.学生になる人口が減っても,全体では上位の方にある国立大を小さくする必要はないように思えるのである.
 大学の経営は次第に苦しくなって行く.そのとき,増え過ぎた私立大学を中心に弱小の大学が消えて行くはずである.その自然な淘汰に任せた場合,結果として国立大学は残るだろう.そういう意味では競争原理に任せればよいだけだろうと思える.そもそも産業の規模を政府が決めるというのは自由主義体制の発想ではない.政府がやるべきことは,消える大学が出て卒業に支障が出る学生へのセイフティネットを作ることくらいではないか?
 しかし政治的には競争原理では済まないかも知れない.

国立大:競争原理による淘汰に任せればよい.
私立大:競争原理は equal footing が前提だ.競争原理というなら国立大学を民営化しろ.
国立大:やはり縮小の仕方をみんなで考えましょう.

で終わる,とかねw(情けねぇ) 政治的なプロセスによって国立大学は縮小を考える他はなくなる可能性が高いような気がしてしまう.

教員の定員はどうなるか?
 上の永田会長が書いたのは「学生」定員の話だった.教員定員の方はどうなっているのか,と以前から気になる.
 現在は学生になる人口が減ることが口実になっているので,話はまず学生定員の話になる.しかし従来,教員定員と学生定員はリンクしていた.だから「学生定員」の縮小は「教員定員」の縮小を伴う,というのが普通の理解だろう.少なくとも財務省はそのようにいうだろう.
 ただ,教員の定員を総体で減らすことは研究・開発能力を縮小させることである.科学技術に賭けるしかない日本で,しかも研究のシェアの大きい国立大学の教員定数を減らすという選択はありなのか? その点は疑問に思える.
 学生が減れば教員も減るのは道理である.なら教育負荷のない研究所を従来の駅弁大学の中にも作り,研究開発の層を維持するというのは1つの選択であるような気がする.議論すべき,ないし政府と交渉すべきはその点ではないかという気がする.教育業務のない研究職であれば,勤務様態は教員の場合より窮屈だろうが,仕方ないだろう.なお,理研と同じように,大学に作る研究所の研究員には院生を指導する資格を与えるのが常識的である.地位の名称も教授,准教授ではないか?

私立大との役割分担
 永田会長の談話を載せた日経記事は最後に編集部のコメントを載せている.そのコメントで日経は,私大との役割分担の積極議論が必要と述べている.やはりこう来たか,と思わず笑った.
 読売や日経のように政府筋からの情報で記事を書くメディアが「私大との役割分担」を口にするときは,学士課程は私大に任せろ,国立大(の上位)は大学院大学になれ,という主張が腹の内と考えてよいと思う.財務省の意向だろう.むろん大学院大学と想定されるのは上位の大規模大学であり,埼大を含む駅弁大学は対象ではない.国大上位を大学院大学にしたとき,一番喜ぶのは上位私大であるけれど,埼大なども学部入学者の質が上がるという恩恵はあるかも知れない.
 先述のように,大学院大学化には国大協は拒否の態度をとっている.上記の永田会長も同様である.ただ,国大協の言い分は何れも説得的ではない.「私大なんてダメでしょう」とは,いいたくても口にできないからだろう.ただ,表の議論になったときに今の言い分では通らないので,もう少し考えた方がよさそうだ.
 このブログで私も以前に書いたことだが,国立大の大学院大学化はやめた方がよいと思っている.学士課程でも良い教育をする体制をとれるのは上位の国立大学であり,その上位国立大を学士課程から排除してわざわざレベルの低い大学に教育を任せるというのは,教育のことを考えた結果とは思えないからである.国立大学の中でも,残念ながら,上位大学の方が駅弁大学より,良い体制がとれているのである.また,海外の規模の大きい有名大学で,大学院だけの大学というのはほとんどないだろう.大学院だけのSchoolを内部に多数持つとしても,基本領域の学士課程は持つのが普通である.

役割分担論の思い出
 国立大学と私立大学との役割分担論の話に触れるたびに,私に嫌な思い出が蘇る.上井学長の末期で,実質的には山口理事が学長だった頃,機能強化案というのが出て,経済学部と教養学部には大学院中心の部局合併案が提示された.結果として害を小さくして実現させたけれども,両学部とも嫌だった.
 このとき,合併案を求める時の(公式の)学長は教養学部の三役に,私大と比べたときの国立大学の役割は何だと思うんだといって詰め寄った.三役も,そりゃ答えられる訳がなかった.学長としては,だから大学院中心に強化するんだ,といいたかったのだろう.
 しかし,国立大といっても東大や京大があり,他方で駅弁大学がある.私大の方も似たように一様ではない.それらを一緒にして国大vs私大の特色化などといって意味がある訳がない.大学院中心というのは上位大学の話である.つまらないレトリックを持ち出したものである.
 当時,文科省関係の有力者でその種の役割論を主張する人はいたのである.誰という訳ではないが,民主党政権で文科副大臣をして,その後東京の選挙区から落選したけれど,自民党に擦り寄って文科相関係者でい続けたような,まあそういう感じの方が役割論をいっていた.国立大で文系学部は要らん,転換させろといったのもそいつであり,同様に国立=理系,私立=文系の役割論を吹きまくった(文系理系の役割論はその後,経団連等が否定的な見解を出してくれたので消えたと思う).ウチの学長はそういうカスのような奴に引っかかったのだろう.やはり左翼はダメだと思ったものだ.
 国立大学をひとくくりにするのではなく,例えば財務上の分類ごとに役割を考えるのは意味があるかも知れない.実際,その方向で議論は進むだろう.ちなみに,埼大は8分類のうちの最後のHグループである.Hグループとは「中小・医無し・領域特化無し」であり,具体的には次の9大学である.

財務上のHグループ:岩手大学、茨城大学、宇都宮大学、埼玉大学、お茶の水女子大学、横浜国立大学、静岡大学、奈良女子大学、和歌山大学
(このリストで分かるように,和歌山大学から西の地方国立大学にはすべて医学部がある.)

国立大学の役割
 国立大学の役割を,設置者である国=政府でなく設置された国立大学が考えるというのは,実は奇妙なことである.国立大学が国立大学法人として設置され直したとき,国は国立大学の位置づけもしておくべきだった.上井学長の時代に全学運営会議メンバーを対象に文科のお役人の講演会/懇談会が行われた.そのときに私は,私大と比べたときの国立大学の位置づけをどう考えているか,と質問した.お役人の答えは,それぞれ設置者が違う,という,聞くまでもない内容だったので,何も考えていないんだなと実感した.
 本来なら国立大学が政府に対して「国立大学の役割とは何なんだ,お前らがいえーっ」といいたいところであるが,やはり政治プロセスの問題として,そうはいえないのだろう.

国立大:国立大の役割が何かは設置者である国,つまり政府がいえ.
政府:ほんとに政府がいっていいのか?
国立大:いえ,私たちにいわせてください(しょぼん).

という落ちになるのではないかw(情けねぇ)
 国立大学の役割を考える場合,国立大学法人法の規定に依拠する必要があるだろう.法人法は第一条で法律を設ける意義を述べているが,その意義とは「大学の教育研究に対する国民の要請にこたえるとともに、我が国の高等教育及び学術研究の水準の向上と均衡ある発展を図るため、」とある.この文言から推察すると,国民的に合意できる大学機能の最低線をバランスよく揃えることが国立大の使命のように思える.対して私大は国民的合意でなく建学の理念に基づいて設置されるはずであるから,自ずと意義は分化するだろう.最低線が国立,プラスアルファで私大,ということでいいような気がする.
 そのうえで,具体的な意義を問われれば,上記で永田学長がいったように,国立大学が総体として「研究開発を牽引する」こと,「地域の核になる」こと,と説明するしかないような気がする.
 何れ国立大学の意義や役割を言い争いの中で短く説明する破目になる.だから,短いメッセージで伝わる表現を事前に考えておくことは重要ではないかと思う.

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東大総長選考に関する日経の論評

 昨年末12/29の日経に「学長選考で浮かんだ東大の課題 世界で競う意欲見えず」という記事が載った.タイトルが挑戦的であるから興味を覚えて読んでみた.

東大の選考システム
 念のため東大の総長選考システムがどうなっているかを書いてみよう.日経と『アエラ』の記事をもとにまとめると(その程度で申し訳ない)次のような3ステップでなっているらしい.

1) 178人の代議員からなる代議員会が選挙で10名くらいの候補者を選ぶ.さらに経営協議会が推薦する2名くらいの候補者を加えて第1次候補者とする.今回は代議員会から11名,経営協議会から1名が推薦されたらしい.
2) 学長選考会議(学内教員=教育研究評議会からの8名,経営協議会からの8名からなる)が第1次候補者にインタヴューをして第2次候補者3~5名を選ぶ.今回は3名(工学系2名,医学系1名)が選ばれたらしい.
3) 第2次候補者の中から学内の意向投票によって最終的な1名の総長候補を選ぶ.

 意外と月並みな選考システムだった.言い訳めいた面が強い点は思わず笑ってしまう.よく言えば両義的な制度なのである.候補者の多くを教員(教職員?)が選び,最終的には教職員の投票に判断を投げているので,その意味では昔ながらの「大学自治型の総長選考」システムであると,教員に向けてはいえる.あくまで選考委員会が選んだ人しか最後の投票の対象にならないという意味では,選考委員会が決めていますと政府にはいえる.両方に良い顔をするための苦渋の選択なのだろう.
 今回の選考過程については,教員側がやり方の不透明さを訴えてメディアの取り上げるところとなった.それで調査委員会を立ち上げて検証した,というニュースがしばらく前にあった.検証結果は選考に問題はなかった,という差し障りのないものだった.まあ,どっちでもいいような話である.

日経の指摘
 さて,日経は以上の学長選考過程について2点を指摘していた.
 第1は選考会議議長が,外部委員として入っている前総長の小宮山氏であった点である.前総長は,形式的には「外部」に違いない.が,実態は「外部」といえないだろう.
 第2は「結局は投票頼みで学長を決めた」という点である.
 日経の趣旨は,外部者を入れた学長選考会議が主導して学長を選ぶべきであるのに,結局は昔ながらに内部者が取り仕切って内輪の投票で決めた,それでは世界の一流大学と競い合うことにはならないでしょう,という点にあるのだろう.

日経の指摘は正論であるが…
 日経の指摘はもっともである.前総長だった小宮山氏を「外部」とは,普通はいわない.また投票の通りに決めたのであればやはり内輪の世界でやっているのか,といわれて仕方ない.
 ただ私は「どっちでもいいんじゃね?」と思う.この学長選考の仕組みの中で選考委員会が主導して人選をしても,結果は同じようなものだろうし,選考委員会主導によって「世界で競う意欲」を見せることにはならないだろう.
 理由は単純である.第1に国立大学法人というのはいろんな文書を既に文科省に出しており,そこで記載したことを大きく外れる計画を新規に作れるようにはなっていない.第2に,新学長がかなりの数のスタッフを引き連れて着任する訳でもなく,結局は部局間の協議(談合)に依存せざるを得ないのだから,表向き通りの権限は学長にはない.第3に,第1次の候補者からして内部からの推薦を経るので,経営委員会からの推薦者を除けば,結局は内部志向の候補者の中からの選択になるのである.東北大学は意向投票を行わないけれども,候補者の決め方は他大学と同じであるから,意向投票を経ないからといって結果が他大学と変わることは,おそらくない.だから誰を選ぼうが,大した違いはないだろう.
 そもそも,「世界で競える」かどうかは金の問題であり,学長の人選の話ではない.新学長に相当なお金とスタッフ(やはりお金)が付かない限り,現状の国立大学で新たな展開はないだろう.
 そういう意味では,条件が今のままなら「皆さんがいいようにやればいいんじゃない?」というのが私の感想である.
 あまり表には出ないが,国立大学に対する政府筋の考えは,学長が主導権を握って大学を改革することである.教職員が意向投票をすることにはかなり否定的である.ただ,学長に期待するだけというのは考え方が間違っている.政府がすべきことはまず金を用意することであり,10兆円の研究基金(のような基金)をいかに上積みするかが最大の課題だろう.

埼大の学長選考で感じた事柄
 私は埼大にいても学長選考にはずっと関心がなく,選挙にもほとんど行かなかったように思う(よく覚えていない).私が学長選考を割と詳しく眺めるようになったのは,法人化の少し前,兵藤学長を選ぶ辺りからだった.学部長だったときには学長選考会議で実際に学長を選ぶ機会も目撃した.そんな訳で,法人化の少し前からの見聞の感想をついでに書いてみよう.

1) 外部委員の役割には限界あり
 経営協議会やら学長選考会議には半数の外部委員がおられる.現制度では,外部委員の存在はシステムの透明性を担保する重要な要素である.私が見た範囲で,埼大の外部委員の方々は非常によく,良心的に議論されていたと思う.非常に適切な指摘をされていることも多いのである.しかしやはり限界がある.どうしても,大学の中身のイメージがおありにならないと見える局面が出てしまう.あの状況だと,事務局(総務部)に説得されて終わってしまっても仕方ない.
 企業なら,業種が違っても収益を上げるという要請は一緒だから外部委員の関与に意味が大きいのだろう.京セラの会長が日航に乗り込んで経営を立て直すこともできるのだろう.ただ大学のような業種の場合,具体的な事柄に関する判断ができる外部委員の確保は難しいような気がする.上記の日経の記事でいうと,確かに小宮山氏の外部委員というのは変なのだが,では彼の代わりに本当の外部の方であれば良かったかというと,実は小宮山氏で良かったのではないか,という気もする.外部委員の確保については考えるべきことが多いのではないか?
2) 「経営」という発想はまだない
 学長はその大学の先生がなる場合が多い.大学の先生は大学の「管理」はおできになる.しかし新たなビジネスモデルを見出すような「経営」は,まず出来ないだろう.学長と理事長を分離し,経営の責任・権限を理事長に置くようなシステムが必要ではないか?先生方に経営は無理だろう.
3) 部局内序列の呪縛
 埼大の場合,教養学部には部局内序列などというものは無いのであるが,他の部局は違うな,という感触を受けたことがある.教育学部は部内序列が明確だった,と思う.問題は理工研なのである.理工で一緒か,理と工で別かはどの時点の話かによるが,理工は部内序列が明確で,序列トップ以外を学長候補にしないような雰囲気を感じた.そこが厄介なのである.
 私が間違っているかも知れないが,例えば,法人化前に選挙で選ばれながらその後で問題の申立てがあって学長を辞退された先生がおられた.A先生としておこう.そのときはA先生の出身学部の理学部がとある問題を申し立てて難色を示した.が,私には,A先生が理学部内の序列がそんなに高くないことが真の理由であるように見えた.この件は物証はなく,私の勘違いかも知れない.
 田隅学長のときの学長選考で上井先生が新学長に選出されたときのことである.その頃,工学部長だったB先生が主導して学長をどうするかの話し合いが部局長間で持たれたのである.このとき,教養学部長の関口先生や,経済学部長の上井先生は,もしB先生が学長選考に手を上げればB先生を推す意向があったと思う.しかしB先生は学長に名乗りをあげることはなく,ために候補者選びが遅れた.B先生が名乗りを上げない理由は後に理工側と候補の一本化の話し合いをする中で浮かび上がった.理工には理工の序列がある.しかし文系側は合意形成に誰がよいかと考える.その食い違いがあったのである.そのときは何とか上井先生を候補とすることで落ち着いた.しかし理工の序列問題は後に尾を引いたように思う.
 部局内の序列は部局間で合意を作る際にハードルになることもある.

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北大総長解任経過は野次馬の私にどう映るか?

 解任された北大の前総長が国と北大を相手に裁判を起こすらしい.野次馬に過ぎない私にこの件がどう見えるかを以下で書いてみたい.ことわっておけば,この件は判断し難い経過を辿っており,何が正しいかを判断する客観的な根拠を私は持っていない.北大にいれば分かるだろう情報も持ち合わせていない.私の主たる情報源は北大職組サイトである.だからこの記事でいいたいのは,「部分的な情報が私の脳内でどのような像を作ったか」であり,しかも私一人の受け取り方である.

国立大では珍しい上層部内の内ゲバ

 結構多くの大学でお家騒動,つまり上層部内の争いが起こってきたように思う.ただ,その種のお家騒動は普通は私立大学での話である.失礼ながら,起こっている大学名を見ると「まあありそうだ」と思うことが多かった.
 しかし北大は国立大,それも名門の国立大である.だから目立つ.
 国立大学で起きる騒動の多くは,経営陣=執行部と教員の間の論争であるように思う.現状の国立大学は,法人化前の「親方日の丸自主管理組織」から普通の経営体への転換期にあるだろう.従来の自主管理組織理論からすると「親方日の丸で大学は安泰という前提で学内民主主義を守る」という理屈になるが,大学法人の組織そのものの法的な在り方はむろん自主管理組織ではない.大学の経営陣が経営体としての体裁を整えようとする一方で,一部教員が自主管理組織でなければならないと叫んで対立し,左派系マスコミが自主管理派を応援する,という構図が,このところあちこちの国立大で起こってきた.
 しかし北大の例は,上層部内での内ゲバである点で,国立大学としては珍しい.

陰謀めいて見える前総長解任

 北大の総長解任の話がメディアに出たとき,私は少しネットで調べた.「陰謀で解任されたように見える」が私の第一印象だった.むろん根拠はない.そう見えてしまうというだけである.
 8月に,このブログで北大総長解任劇に言及した.この解任劇について私には理解しがたい点は次のブログ記事にまとめてある.

北大総長解任劇を見て笑うべきか泣くべきか?
北大総長解任劇は何が妄想を掻き立てるのか?


 この記載ではもっと単純にいってしまおう.前総長には約30件のハラスメントまがいの不適切行為が指摘された.既定のハラスメント処理や公益通報のルートで告発が出て,審議の結果問題ありとされ解任されたなら,「ありそうな話」で終わる.が,既定のルートを経ずに告発情報が学長選考委員会にもたらされ,既定のハラスメント処理を経ずに学長選考委員会が調査して不適切と判断して解任を決めている.だから前総長を解任する目的で選考委員会なり事務局が前総長の身辺調査をして解任に持ち込んだのではないか,という印象になる.しかも指摘された不適切行為はどれ一つとっても学長を解任するには不十分であるので,数を揃えたような印象になる.
 身辺調査結果は自然に集まったようではなく,組織的に調べた結果に見える.自然に集まるならかなりの数の告発が既定のハラスメント対応部署を経るはずである.あるいは組合に苦情が集まりそうに思う.
 もし組織的に身辺調査をするなら会計上の不正があったかどうかをまず調べるだろう.会計上の不正があれば,悪質さにもよるが,普通はそれ一つで解任できる.が,会計上の不正は見つからなかったのだろう.セクハラ,パワハラの事例があれば同様であるが,なかったのだろう.だからパワハラより要件の低い「不適切行為」を,1つではダメなので集められるだけ組織的に集めたのではないか? 事実は分からないのであるが,この経過を見るとそんな風に見えてしまう.

親方日の丸体質に見える

 この総長解任劇を見ると,その舞台である大学が大阪市役所のような親方日の丸組織であり,だからこそ外部からは理解しにくい展開になるのではないか,という印象を抱いてしまう.
 まず事務局が強そうである.国大協の資料を見ると,大学の教員数に比して職員数がかなり多い.手を付けることが無理なほど強いのではないか? そしてその強い事務局が総長解任を主導した格好になっている.大阪市役所が大阪市長に平気で対立する闇の構図を連想させる.
 全大協系(日共系)の組合も強そうなのだ.北大職組のサイトは大したものである.頻繁に記載が加わっており,活動の種類も内容の水準も高い.そして組合の質問への総長候補者の回答を見ると候補者は一様に組合の意向に忖度している感がある.総長選出の意向投票への影響力も強いのだろう.この点も親方日の丸組織の目安であるように見える.
 また,経営陣つまり理事等の配置を見ると,学長が動ける体制でもなかったように見えた.埼大であれば新任の学長は筆頭理事に自分の友軍となる教員を指名する.事務方も多少は新学長に配慮した配置になる.そうでなければ学長としては動けないからそれでよい.しかし北大前総長の場合,理事の中に味方になる人がいたようには見えない.要するにトップが思うように動くための手足がない配置になっていたように見える.それではガバナンスは伝統的な談合に委ねられるような気がする.
 以上の点は親方日の丸組織の兆候に見える.親方日の丸組織は,うまく回ればみんな仲良しの組織であろうが,一つ間違うと伏魔殿になりかねない.そんな中で前学長はもがきながら職務を遂行しようとしたかも知れない.だから事務方と諍いを起こすような結果になっているのではないか,などと私は連想してしまうのである.

退路を塞がれた前総長の意地
 
 普通,上位者を解任する場合,自発的に職を辞するように工作するのが上策である.埼大の場合も,昔,学長選挙で当選した人を学長から排除するという事態があった.その是非はおくが,その折は当選者の先生に自ら辞退して頂いていた.この方法が常道である.追い込んでしまうと窮鼠猫を噛むかも知れず,リスクも大きい.
 しかしこの総長解任劇では,前総長の退路を断って追い込んでしまったような感がある.前総長がいったん辞表を出したのに,大学側(総長代行側)がなぜか辞表を受け取らなかったのである.この点は不思議な展開なのだ.前総長は体面を保って職を辞することができなかった.恨みが残って不思議はない.
 この経緯を考えると,前総長が裁判に訴えようとする気持ちはよく分かる.人には意地というものがある.

巻き添えを食らった文科省

 私は普段,文科省をよく思わない.けれど,前総長が提訴した件では文科省は気の毒だなと感じる.文科省は北大から出た解任の申請を処理し,最終的な判断をしないといけなかった.大筋で北大の申請通りにしたのであるから,そこから先は北大が手前で尻を拭けよ,というのが本音だろう.しかし手続き上は裁判で矢面に立たざるを得ない.
 北大の解任申請後の文科相記者会見を私はよく眺めていた.文科相が気にしていたのは北大で総長が長く宙ぶらりんのままであることであり,その点を早く解消したい,ということだった.前総長の解任を認めれば北大は正常軌道に戻るけれども認めなければさらに混乱が続く訳だから,文科省としては解任する方向で調整したい動機づけが働いて不思議はない.どのみち,騒動が起きたときのトップには責任をとってもらうしかない.
 解任を決めた結果,前総長側からは文科省と北大執行部が協力したように見えたことも,仕方なかったろう.
 前総長は解任された後,文科省が解任ありきで動いたと主張している.また,前総長の下で加計学園獣医学部に否定的な発言を用意したので解任された,という趣旨のこともいっていた.
 しかし,この前総長の言は当てはまらないように思う.文科省が省として特定大学の学長を解任する工作をするというのは考えられない.天下り先が増えるのなら別かも知れないが,そんなことをする動機はない.また,加計学園の獣医学部のことは,既得権を守ろうとして既存の獣医学部はみな潰したがっており,北大ももとより反対に決まっていた.だから北大の反対など文科省には関心がなかったはずである.そもそも,本音では文科省は加計学園の獣医学部を潰したかったから,反対してくれれば内心は嬉しかったろう.
 省として文科省が公平であっても,個人レヴェルでいうと,北大にいる文科省お役人の北大事務局高官と本省の担当官とは人的なつながりがあって不思議はない.だから文科省の担当官が前総長解任の方向で動いたという可能性がないともいえない.こうした可能性は片方の当事者が文科省から来ているという事情から,どうしても生じてしまう.

北大の立場

 北大は大学の決定として前総長解任の申請をしている.だからその申請が間違っていたと今さらいうことはできない.間違いだとすれば,新総長の決定など,前総長解任後に決めたことを今から修正する術が果たしてあるのか? 混乱は長引く.文科省を裏切ることにもなる.
 裁判の場合,北大は新総長の責任で動くことになるのだろう.新総長は前総長解任には関与していないし,総長選考時点では真相解明の必要性を表明していた.それが急に,解任は適切であったという立場になれるものかどうか,その辺は見どころのように思える.ただ「解任は適切」という以外にないのが北大の立場だろう.
 裁判になって北大執行部が「解任が正しかったかどうかは調査しないと分かりません」などといい出したら,野次馬的には面白いけれど,対外的には相手にされなくなるだろう.
 北大としては第1に,新総長に旧来の立場への理解を求めるのだろう.第2に,組合などは真相究明を要求していたという事情があるから,対内的に「解任は適切」という立場の説明を再度行うことになるのだろう.前総長解任時点での総長代行が新総長になったなら,その辺はより簡単だった.

 裁判がどうなるかは私は no idea である.忘れた頃に判決が報道されるのではないかと思う.

追記(2020/12/11)

 12/10の夜になって,一部のメディアで札幌地裁での提訴のニュースが出ていた.予告通りだった.ついでに関連のニュース記事を眺めて2つの点が気になった.

 1つ目.文科大臣が記者会見で裁判について問われ,「大学との調整したので問題ないと思う.」と答えていたらしい.この大臣発言は私がネットで見ていた大臣記者会見の一幕であったかも知れない.しかしこの言い方がちょっと気になる.

 第1に,北大と調整したというけれど,北大が文科省で伝えていなかったことが出て来たらどうなのかね?

 第2に,この点が大きいが,「双方から事情を確認したので問題ないと思う」ではなく「大学と調整したので」といっているので,北大の解任を求めた側と文科省が協力しているという言い方になっている.片方にあからさまに肩入れしたようなことをいってよかったのか?

 2つ目.ある記事によれば,北大の現総長さんが解任手続きは問題がなかったと発言しているらしい.総長選挙を前にして現総長さんは候補者として調査の必要をいっていたのであるが,意外と簡単に手のひらを返してしまったな,と思って私は笑った.解任手続きが問題ないと選挙のときにいっていれば,たぶん現総長さんは選ばれなかったろう.また,解任が正しければ総長に選ばれるのはその時点での総長代行でよかったのである.北大の民度もそんなものなのか.やはり学長選びに選挙をするのは馬鹿げているのではないかと思わせる一コマだなと感じた.

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北大前総長による提訴で現総長はどうするのかw

 北大の前総長は不適切な行為を理由に6月末に解任された.その前総長が,北大と国(つまり文科省)を相手に提訴する(予定)というニュースがメディアに出た.前総長側の弁護士が記者会見しているので,まあやるのだろう.提訴するというのは前総長が予告していたことだった.けれども,本当に提訴するかどうかは私は疑問だった.エネルギーも使うしお金も使う.何よりも北大の騒動を長引かせることになるから,北大愛があれば提訴を控えることも選択だと思った.しかし提訴するという.よほど腹に据えかねたのだろう.野次馬的には面白いが,国立大学の立場からすると暗くなる話かも知れない.
 裁判となるとまず当事者間の協議があるように思う.しかし手続きの瑕疵を争うようなので,協議で折り合えるとも思えない.
 文科省は受けて立つ以外の選択はない.まさか「確かに手続きがダメでした」とはいえない.もし「ダメでした」といったら解任後に決めた事柄の始末をつけようがなくなる.組織をあげて争うだろう.
 北大は,文科省と異なった立場はとれる立場ではないだろう.何より,前総長解任は北大から文科省にお願いした形なので,解任の責任は文科省以上に北大にある.だから普通なら,北大は文科省と並んで裁判で争う立場である.普通なら.

 ここで面白いと私が野次馬的に思うのは,「現総長さんはそうするのかね?」という点である.
 現総長は前総長解任後の総長選考で選出され,文科省に承認された.だから今さら前総長が復権するような流れは嫌だろう.しかし,総長選考時では,総長代行以外の2候補者は,現総長を含め,前総長解任に至る経緯の解明の必要を口にしていたのである.3人の総長候補者に提示された北大職組からの質問には解任の真相究明に関する質問が含まれ,その質問に現総長は次のように回答している.

本件は、全体として、私を含めて北大の構成員が納得できる解明がなされていないことについて、同感です。訴訟への進展も含めて、扱いの難しい案件であることは事実です。しかし、北大の名誉、北大の一般職員の利益、北大の学生の利益が損なわれない方向で、可能な限り、全体像の調査を考えています。

 北大職組は現総長の就任後も総長解任の真相究明を現総長に求めている.現総長に真相究明の意思が本当にあるなら,就任してすぐに解明に乗り出したろう.しかし調査の件は曖昧にしている.やる気はなかったのだろう.ここで前総長による提訴の事態となった.前総長の提訴の可能性は周知のことだったから,もし現総長に手を打つ意思があれば,すぐに事情を確認するとともに,前総長と話し合うことも選択肢だったろう.しかし報道を見る限り,現総長は何もしなかったようである.
 常識的にいえば,提訴された北大は文科省とともに「解任は妥当であった」といって手続きの正当性を主張するしかない.解任が不当であるなら,現総長の選出を含め,学長解任後に大学として決定した事柄はどうするのか? そう考えれば北大は「あの解任は手続き上も正しかった」というしかない.「真相を究明します」というのは「正しいかどうか分からない」ということであるから,真相を究明しますという現学長の当初の立場と,裁判で争う北大の立場とは相容れない.
 そもそも前総長解任を申し出て文科省を引き入れながら,今になって文科省の梯子を外して自らを行司のような第三者の立場に置くことなど,文科省が許すはずはない.
 組織は,いったん外部に表明した立場は,トップが変わっても履行する責務を負う.大統領が変わったから前大統領が結んだ条約には拘束されない,などといえないのと同じである.トップを目指すなら,それまでの執行部が表明した事柄を引き継ぐ覚悟をしないといけない.仮に「前総長解任が正しいかどうか分からない」というなら,批判者の立場を貫くべきであり,トップになろうと手をあげるのは間違いだった.それでもトップに就くなら,面倒で時間のかかるプロセスを経る覚悟が必要になる.
 北大の現総長は,「全体像の調査」という総長選考時点での意向の手のひらを返し,「前総長解任は正しい」と表明することになるだろう.今後の見どころは,本当に現総長が手のひらを返すか,どの時点で手のひらを返すか,何といって手のひらを返すか,である.
 「手のひらを返す」でよいと私は思う.大学が解任の決定をしたことは今さら動かしようがない.真相は裁判で解明されるべきであり,それでまずい結果になったら組織として責任をとるだけである.

 総長選考の時点で,北大職組は3人の候補者に質問を提示している.その回答を私は以前に眺めたが,候補者はほとんど職組の質問にYesで答えているのが印象的だった.北大職組のサイトを見ると,埼大の組合に比べて北大の組合は活動量が多いと感じた.それだけ北大では組合が強いのだろう.また,意向投票の票数を見たとき,北大の教職員数の割に票数が少ないと感じた.埼大の方が投票率は高いように思う.もしそうなら,意向投票結果は組合シンパの組織票の決定力が強いことになる.それだけの観察に過ぎないが,北大の総長選考は全大協系(ほぼ日共系)の意向が反映されやすいよう見える.悪くいうと経営の独立性がないのである.
 大学の経営が教職員の意向から独立して経営の観点で行えるように改変することが,現状の大学には必要なことである.そうでなければ社会の中で大学が責任ある動きをできない.民主主義は全体の社会では必須であるけれど,組織では正義とはいえない.
 対比するなら,埼大の組合は適度な存在のあり方をしていると評価すべきかも知れない.

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今年アクセスが多かった2つの記載(Conbrio)

 このブログConbrioで今年アクセスが多かったのは次の2つである.今年はまだひと月近く残っている.が,この上位2つが抜かれることはないと思う.

1位:北大総長解任劇を見て笑うべきか泣くべきか?(8月)
http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2020/08/post-ff5b03.html
2位:埼玉大学は左翼の巣窟か?(11月)
http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2020/11/post-093833.html

 アクセス数で見るなら,このブログでは記載による差はあまりない.多いというのは,通常はアクセスしないような方のアクセスがあったからだろう.上記は題名が週刊誌的である点が共通である.

 第1位は全国初の国立大学の学長解任劇の話である.ニュースを見ながら不思議に思ったことがあった.ネットで分かる範囲のことを調べたら,やはり変な展開だと思えたために書いた.どなたがアクセスしたのかは分からない.北海道からもいつもより多くのアクセスがあったけれども,北海道から多かったとはいえない.
 こんな記載を書いたけれども,やはり「実際は何が問題だったのか?」は私には分からなかった.大学での騒動など,所詮は愚かな話であろうと思う.研究者は研究と教育に専念するのが正しい.なお,この件で総長を解任された名和前総長が,国と北大を提訴するというニュースが本日(2020/12/03)流れた.

 第2位はネットでサーフしているうちに「こんな分析は簡単にできる」と浮かび,簡単な分析をして急ぎ書いた記事である.全部の手間が2時間くらいだったろう.埼大を論じることは意図ではない.ただ煽情的なタイトルにしてみただけである.
 見込みでものをいって恐縮だが,各大学の教員の文系比率を求めれば,左翼の程度は文系比率と強く相関するだろう.私の直感では,(都会の)私大の方が国立大より左翼感が強い.文系が多いからだろう.

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知識集約型社会を支える人材育成事業

選定結果

 文科省による「知識集約型社会を支える人材育成事業」公募の選定結果が公表されたことを,リアセックの灘さんのfacebookで知った.この公募については私も気になっていて,お節介を承知で現教養学部長殿に「申請を出したら?」という趣旨のメールを以前に送っていた.頂いた返事では全学側も積極的だと聴いていた.公募の趣旨はAI・データサイエンスといったことに全学的に取り組めということと思えた.埼大もその方向を以前に検討しただろう.せっかくだから申請したらどうか?と思ったのである.
 AI・データサイエンスというかICTというかは分からぬが,その方向を全学的に目指すことは特に,教養学部のような文系学部に意味があると私は思っている.教養学部は良い教育研究をしていると思う.しかし学生の就職先を見ていた私の経験では,学んだことをそのまま生かすようなところにはほとんど就職していない.正直いって今のままでは戦力になり難く,労働市場で買い手が付きにくくなるという懸念を私は持っていた.社会の変化に応じて益々懸念が強まるように思える.
 文科省が公表した結果を見ると埼大は採択されておらず,さらに申請状況を見ると埼大は申請もしていなかった.予想の範囲であるが,あれま,と思った.
 いろんな理由が考えられようが,まあ例によって労力配分の合意が付きにくかったのかな,と勝手に思った.ただ,全学生に必修を課す体制が整えられないとしても,意欲があれば全学部の学生が参加できるプログラムは作れたろうに,という気がした.
 この事業は,金額的には大して旨味はないのは分かっている.しかしやれば実質的な意味はあるから,金額が低くてもやってみたら,と思えた.
 このような予算の公募は一時期より少なくなった印象がある.もう段々となくなるのかも知れない.はっきりいってこの種の予算は文科省によるバラマキであり,次第にバラマキをする段階でなくなるかも知れない.だからもらえるうちはもらった方がよい.多少でもお金があれば普段はできないことで冒険ができる.経験値も上がる.

結果は意外

 文科省サイトの選定結果を見てみると,私には意外に思えたことが2点あった.
 第1は,採択されたテーマが結構バラバラで,私が当初考えたAI・データサイエンスといった計画ではなかったことである.印象としては何のテーマでもよかったように見える.これだと,何かの申請で落ちた計画や,作ったけれども日の目を今まで見なかった計画をあらためて集めたような印象である.この選定でよいなら「知識集約型」なんていうなよ,と思った.題名だけを見ての判断であるが,落ちた申請の中にAI・データサイエンスの方向性を持った申請があるのが,何となく変だなと思える.
 第2は,思ったより申請が少なかったことである.特に私大については,そういっては失礼だが,ICU(落ちた)を除けば有名どころや大手の申請がない.この点は金額的な旨味が少ないことによるのかも知れない.
 印象としては,かなり盛り下がった公募だった.

文系学生の使い道

 お金がもらえないとしても,埼大はAI・データサイエンスの基礎を教えるプログラムを全学的に展開した方がよい,と私は思う.将来の人材需要は明らかであり,旧来の伝統的ホワイトカラー職種はAI(と呼ぶかどうかも問題はあるが)にとって代わられるからである.ただの文系では生きられない.従来の専門を維持しながらも,副プログラムのような学びをする必要があるだろう.
 AI・データサイエンスという言葉に比して初歩的過ぎる問題の例で恐縮だが,私の経験を1つ述べておきたい.
 教養学部では2010年頃まで,同じ授業を専修ごとに別の授業名・講義番号を付けていた.そのため,学生に登録する講義番号を間違わないように指示する必要があり,成績提出も講義番号別という不便があった.なぜそうするのかは私には長く不可解だった.当時は学務業務の主のような先生がおられ(その先生は実に公平無私な方であるのはよく理解しているが),その先生の趣味かな,と私はずっと思っていたのである.
 私が学部長になったときにカリキュラム改訂をして,同じ授業なら授業名・講義番号を一本化することを含めて,計画を教授会で通した.米国大学のカリキュラムならそうする.教授会で通した後に学務係には,忘れないように念を押してみた.
 しかし時の学務係長は「それでは卒業単位の処理ができない」という.コンピュータで卒業判定をするのに,専修別に講義番号がないと処理できない,というのである.私の常識では,コンピュータ処理でそんな問題が生じるはずはなかった.
 例えば,通常のプログラミング言語では変数に集合型がある.その集合にある対象が属するか否かを判定する関数は標準でついており,その関数がもしなければ作ればよい.だから例えば,現代社会専修の基礎科目群の授業でどの科目が卒業単位になるかは,その科目群の卒業要件の集合に科目番号を入れればよく(履修表を見ればすぐできる),どこの専修の科目であるかなど関係ない.同じことはリレーショナル・データベースでも必ずできる.
 という訳で,私と学務係長との間で,できるできないで押し問答になった.決着がつかないので,学務電算処理の神だった三浦さんに来てもらって話をきいて頂いた.三浦さんが「学部長が正しい」といってくれたのでやっと決着した.
 ということは,教養学部で同じ科目を専修ごとに科目名・講義番号を付けるという,長く続いた慣習は,実は誰かの特殊な趣味だった訳ではなく,コンピュータ処理に関する誤った認識が長く学務係で受け継がれた結果だった,としか考えられない.
 だから,まあ,プログラミングくらい知っていないとまずいよな,と私は強く思った.
 現状で伝統的なホワイトカラー職種の仕事は機械に置き換わりつつある.ここで問題は,現場の人が機械にやらせる作業をコンピュータに移行するときに,作業のシステムのイメージを持てるか,という点だろう.ネットを見ていたら,確定申告で使うe-taxは2000年頃に自分が作った,と高橋洋一がいっていた.プログラミングが得意な彼は,確定申告の作業をコンピュータにやらせるときの全体作業がイメージできたということである.彼が自分でコードを書いたかどうかは分からぬが,全体のフローチャートに当たる概念図を頭に描けた,ということである.
 日本はコンピュータへの移行がすごく遅れているけれど,その主たる原因はそのイメージが持てない者が上司であり,移行を妨げていることだろう.e-taxの場合は,学務情報の処理と同じで,利用者がデータを入力し,簡単な計算をするだけのシステムだった.が,今後は,既存データに学習機能を働かせるシステムに移行するのだろう.法律や会計の業務はコンピュータに移行しやすい部分なので,そういった伝統的な文系領域の知識を人間が実際に使う機会は少なくなる.必要なのはコンピュータや今後導入されてくるAIの作業のイメージを,現場の人が持てるかどうかになるように思う.全部外部発注,というのは無理なのである.実際のコード化は外部に委託するにしても,基本システムの大まかな設定は現場の人がやるしかない.現場にそのセンスがないと組織は機能しなくなる.
 だから,ド文系の課程でも情報系の教育をしておかないと危ないよ,と私は思う.

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「自助」批判という笑い種

 旧聞に属する話で恐縮だが,菅首相が就任時の会見で「自助」という言葉を使ったので立憲民主党の党首(枝野)などが批判するということがあった.菅首相は具体的で否定しがたい政策を並べたので,政策について批判することがなかった,そこでどうでもよいことを批判してみたのだろう.枝野氏も民主党時代に「自助」といっていたという動画がすぐに流れ,この件は笑話で終わった.自助がダメだといったら,社会主義にしてみんな仲良く貧しくなる以外にないから,自助批判というのは正気の沙汰ではない.
 ただその頃,この「自助」批判が結構あったのは事実と思う.やれやれと思って私は眺めていた.google を開いたときに私のiPadに学者の批判記事らしいのが配信された.あらためて検索してみたが,次の記事だと思う.
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/278859
記事を見ると批判しているのは埼玉大学経済学部准教授殿とあるから,重ねてやれやれと思った.おそらく,私のiPadの位置情報を使って埼玉県にゆかりの記事を配信したのだろう.後から思えば,埼玉大学は左翼10傑の面目躍如だったのかも知れないw.

 自助批判の何がおかしいのか.例えば,であるが,上記の埼大准教授殿の記事では次のようにいう.

>スローガンのメッセージをそのまま解せば、公助、つまり、
>政府の役割は限定していくので期待しないでくださいと
>いうことでしょう。

この言い方はよくあるのであるが,発想が素人過ぎる.間違っているのは政府の役割を公助に限定していることである.今日の主要な民主主義国の経済政策は雇用の確保(失業率の抑制)を最優先するのが普通だ.その普通の,当たり前のことを我が国で最初に,アベノミクスと称して明示的に行ったのが安倍政権である.だから安倍政権になってすぐに株価は上がり,雇用が上昇し,学生は就職しやすくなった.雇用の確保とは「自助する人を増やす」ことに他ならない.自助する人が増えてはじめて,ほんとうに援助を必要とする人に多くを援助できるようになる.つまり自助こそは公助の基礎である.そして自助する人を増やす経済政策をうつことが政府の最重要課題である.そうでない場合の選択肢は社会主義であるが,社会主義にするともっと悲惨であることは歴史の教訓だろう.
 ふと,ふた昔前の田隅学長のことを思い出した.田隅学長という方はいろいろ悪口をいわれた学長さんであり,実際私も散々悪口をいった.特に田隅学長の式辞がつまらないと,主に教育学部の先生方からいわれていた.教育学部では校長先生が感動的な演説をしなければならないという発想があるから,商売柄,そのような点が気になったのかも知れない.1つのエピソードは,卒業式で田隅学長が「税金をちゃんと払え」などと変なことをいっていたと揶揄されたことである.脈絡もなく式辞で税金を払えといったとすれば,そりゃ変である.
 ただ,そこは田隅学長の発言の一部を,マスコミ的に,切り出して難癖をつけたのではないか,と私は想像するようになった(根拠はない).卒業する学生に向かって,これから社会に出て自立して行ってほしい,自立していれば,税金を払うから,それで皆さんは自然と社会に貢献するのである.大事なことは志をもって自立して行くことである.頑張れ.といったことを田隅学長は述べたのではないのかな,と,私は好意的に思うようになった(齢をとって丸くなる高木).

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日本学術会議「軍学共同研究反対」のベラボー

 表題の表現には若干のウソがある.「軍学共同研究反対」といういい方は,日本学術会議が出した声明を根拠に大学・研究機関に防衛装備庁の研究費公募をやめさせるよう圧力をかけている日本共産党系の団体のいい方である.学術会議が使った言葉そのものではない.ただそれらの団体と学術会議は結果として一体で動いた訳であるので,分かりやすさのために表題のように表現にした.
 日本学術会議は「軍事的安全保障研究」に否定的な声明を出している.この声明はベラボーなものと私は思っている.私見では,ベラボーなのは 1) 科学技術政策,2) 学問の自由の侵害,3) 国民の安全への効果,4) 政治手続き,の4点においてである.

1) 科学技術政策としておかしい

 正確にはややこしいのであるが,簡単にいうと日本学術会議の立場は次のように変遷してきた.日本学術会議は終戦直後の1950年に「戦争のための研究をしない」旨の声明を出した.この声明は後に「軍事研究をしない」に変化し,「軍事」の中には「防衛」も含めることにしてしまった.そして軍民共用(Dual Use)の研究もダメとした(少なくともそのように解された)のが2017年の声明である.
 軍民共用の研究を問題にし始めたのは2015年に始まる防衛整備庁の研究費公募(安全保障技術研究推進制度)がきっかけだった.日本学術会議はこの公募への応募を禁じるように動いたのである.
 安全保障技術研究推進制度は,防衛省の予算から研究費を出す制度であるが,公募する研究テーマは軍民共用であり,しかも基礎研究だった.だから常識的には軍事研究ではない.その研究を日共系団体は「軍事研究」といって指弾してきた.しかし,実際の公募研究テーマは次のようなものなのである(ある年度の公募テーマであるが,別の年度でも感じは変わらない).「軍事研究反対」と叫ぶ方々(主としてアホな文系教員)はその辺を見ていないだろう.

(1)量子通信・量子暗号に関する基礎研究
(2)ソフトウェア耐タンパー技術に関する基礎研究
(3)意図的に組み込まれたぜい弱性に対するサイバー防護技術に関する基礎研究
(4)人と人工知能との協働に関する基礎研究

(28)革新的なモータの実現に資する基礎研究

 これを「軍事研究」というか? 科研費でも応募できるテーマである.
 学術会議会員への任命見送りの件に関し北大の事例が話題になった.軍事研究として日共系団体から非難され,研究辞退をするに至った北大の研究の話である.その研究は次の研究である.

課題名:マイクロバブルの乱流境界層中への混入による摩擦抵抗の低減
概要:本研究は、水槽実験及び数値解析を通じて、マイクロバブルコーティングによる船体の摩擦抵抗低減効果のメカニズム解明を目指すものです。
(https://www.mod.go.jp/atla/funding/kadai/h28kadai.pdf)

船体の摩擦抵抗低減というから,自衛艦にも使えようが,使途が一般の船舶と共通なのは明らかである.
 この北大の研究については,最近,ある YouTube 番組で,辞退後に科研費で採択された,という話を聞いた.調べると事実であるようだ.
(https://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/37_topics/data/00044-10101-80273001.pdf)

防衛装備庁でなくても科研費でも採択されるような普通の研究なのである.日共系団体が辞退に圧力をかけたのは,狂っている.
 最近では,筑波大学でその筋の団体が「軍事研究」だとして辞退するように圧力をかけていた件が話題になった.ターゲットになった「軍事研究」とは次である.

課題名:高強度CNTを母材とした耐衝撃緩和機構の解明と超耐衝撃材の創出
概要:本研究では,破壊緩衝現象の計算解析,実験的なナノレベルでの破壊現象の計測解析及び複合CNT材料の合成を通じ,耐衝撃緩和機構の学理的な解明を行うとともに,次世代炭素系超耐衝撃材を創出します.
注 CNT:Carbon Nano Tube(カーボンナノチューブ)
(https://www.mod.go.jp/atla/funding/kadai/r01kadai_2.pdf)

常識的には普通の基礎研究である.こういう研究がその方面の団体が「軍事研究」といってやめさせようとしていたのである.いかにアホなことか.

 理工系の方であれば経産省が安全保障貿易管理といって多くの品目の輸出規制を行っていることをご存じだろう.埼大を含め,大学はこの安全保障管理にしたがって規制をしいている.
http://www.meti.go.jp/policy/anpo/seminer/shiryo/setsumei_anpokanri.pdf
この安全保障貿易管理で輸出規制がかかる品目は実に多い.規制の1つであるリスト規制でリストアップされる品目の大カテゴリーだけ並べると次のようになる.

1.武器 2.原子力 3.化学兵器 3の2.生物兵器
4.ミサイル  5.先端素材 6.材料加工 7.エレクトロニクス
8.電子計算機 9.通信   10.センサ  11.航法装置
12.海洋関連 13.推進装置 14.その他 15.機微品目

もともと軍関係で発達したコンピュータ,原子力,計測機会,GPSを始め,分野として「工学」,「材料科学」の技術を使う品目は網羅される.規制する技術を何と定義するかによるが,「軍事につながる」という基準で考えれば,主要な科学技術の多くは含まれる.
 軍民共用がダメというならそれらの品目に関わる研究ができない.それでは日本の国力にどれだけ大きなダメージを与えることか.
 日本学術会議の声明は,科学技術政策としてあり得ない.

2) 明確な学問の自由の侵害

 学術会議と日共系団体が行った「軍事技術禁止」の方針はあきならに学問の自由,研究の自由の侵害である.なぜそんなことをしてよいと考えたのか,その神経が理解できない.
 むろん世の中にはルールがあるから,なんでも自由とは行かないこともあるだろう.しかし自由を侵害するのであれば,国民の代表が作る国会を経た法律(ないし民主的に選ばれた政府の出す政令や省令)による以外にない.日本学術会議はショートカットして各研究機関に圧力をかけるのではなく,日本共産党に頼んで「軍事研究禁止法案」を国会に提出することを考えるべきだった.
 なお,学術会議は「軍事」という点以外にも,政府が研究に介入しているとか研究が不便だという点を防衛装備庁非難の論拠として挙げている.しかし公金を使うなら中間評価があるのは自然であり,その点を持って政府の介入というのはおかしい.研究に不便があるという点は防衛装備庁も改善している点であるが,不便だからやめるかどうかは申請者本人が判断することことである.製品購入は消費者の判断であり,「この製品は不便だから買うな」というのは余計なお世話であるのと同じである.
 日共は大学等で勢力を植え付けてきた.その象徴が大学の教職員組合が全大協(ほぼ日共系)傘下であることである.彼らは,憲法上は一言もない「大学の自治」を,憲法に言及がある「学問の自由」に由来するという無理な理屈を作ってきた.「大学の自治」とは社会の大勢に自己の勢力が従わないでよいというための方便である.しかし学問の自由とは,本来は学問する個人の意思の尊重である.手段として「学問の自由」を使ってきた日共系は,学術会議の声明によって本来の学問の自由を侵害することを平気でやってしまったというべきだろう.この点は共産主義者(つまり全体主義者)の宿命だろう.

3) 平然と国民の安全を危険に晒している

 日本学術会議の声明がベラボーなのは,中国が異例の軍事費増大を背景に日本近海を脅かし,北朝鮮が日本方面にミサイルを撃って威嚇する時期に出ている点である.学術会議は日本の主権を棄損し,国民の安全を脅かして北朝鮮や中国を支援していることになる.
 学術会議は何を考えているのか?と私は以前はいぶかった.科学者は協力しないから,国民は竹槍ででも国防しろ,ということか? しかし科学者が国防に協力すべきでないとすれば,国民も国防すべきでないという結論になるしかないだろう.昔の社会党のように,学術会議は非武装中立論なのか?
 しかし,菅首相が学術会議会員の何名かの任命見送りを決めたことで,私もやっと気がついた.任命を見送られた学者がテレビに出てきて,軍事による安全保障ではなく対話による安全保障といっていたらしいからである(私はテレビを観ないので,YouTube番組による).確かに,軍学共同反対といって騒いでいる集団は「軍事による安全保障ではなく対話による安全保障」という趣旨のことをよく書いている.そして何より,日本共産党がいろんなところで「軍事による安全保障ではなく対話による安全保障」と表現している.考えてみれば,日本学術会議がいい出した「軍事的安全保障」という聴き慣れない言葉そのものが日本共産党用語だった.日共の指令で学術会議もその筋の団体も動いているということだろう.
 「軍事による安全保障ではなく対話による安全保障」といういい方は詐術的なレトリックである.詐術の核心は「軍事による安全保障」と「対話による安全保障」を排他的な選択肢であるかのようにいう点にある.国と国の関係には「対話」も「軍事」も,選択肢として常にある.いろんな選択肢があることを前提にした展開形ゲームとして国と国の関係は描ける.「侵略に対して軍事的に有効に反撃できる」という能力がなければ,対話でも主権は守れない.中国やロシアの周辺を見れば明らかである.この何十年もの間,東南アジア諸国が軍備を整えてきたのも,中国の桁違いの軍事的膨張に対処するためだった.
 「侵略に対して軍事的に有効に反撃できる」ためには,素材や機材の基礎研究を含めた科学技術の優位性が確保されねばならない.その優位性を阻止して北朝鮮や中国を利するのが学術会議の真意だろう.朝鮮戦争時に日本共産党が行った火炎瓶闘争と同じことを,学術会議やその筋の団体は今やっている.許してよいことではない.
 
4) 政治手続き

 「軍事的安全保障」研究に関して学術会議がとった手続きが,私には大変奇異なものに映る.学術会議は提言や勧告をすることを通常の業とするから,安全保障についても,意見があるなら政府に提言なり勧告をするのが普通の動き方だった.ところが学術会議は提言や勧告の形をとらずに直接研究機関に働きかけてしまったのである.
 学術会議の声明は現状で政府がとっている安全保障政策とは異なった方向性を持っている.しかも学術会議の声明がもたらす効果を得るのは,研究者に限らず国民一般である.だから学術会議は彼らの判断を実施するかどうかを国民の判断に委ねるのが良心的だった.国民の判断とは,憲法の手続きで選ばれた政府なり,国民の代表からなる国会の判断である.学術会議の意図は研究の自由を制限するものであるから,国会承認を経た法律か,最低でも政令,省令の形をとるべきだったろう.政府や自民党が取り合わないなら日本共産党に法案提出を依頼してもよかった.しかし学術会議は国民の判断を仰ぐ手続きをスキップしてしまったのである.結果として行ったことは,一般社会の判断を通らずに,日本共産党の支持勢力の多い大学等の世界で問題を処理してしまったことだった.良心があるならこのようなやり方は考え付かなかっただろう.

終わりに

 以上,4種類の観点から「軍事的安全保障」に関する日本学術会議の声明の問題点を考えてみた.この声明の扱いは国民の視点から見直されるべきだろうと私は思う.
 この文章を書きながら,あらためて,日本学術会議の問題は大学,特に国立大学の問題とパラレルであるという印象を私は抱いた.日本学術会議は身勝手な行動をした.が,考えてみると,国(したがって国民)が設置者である国立大学も,公金を使いながら内輪の教職員で勝手に運営しようとしていた,そうすることが正義だといっていた.問題の根は実は同じなのではないかと思えて来る.

 補足として付け加えたいのは,日本学術会議のこの声明は,実は内容が曖昧だという点である.この曖昧さについては,このブログの2018年の記事として書いてある.
http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2018/09/post-cadf.html
つまりこの声明を正確に読めば,「軍事的安全保障研究」を否定しているのかどうかがはっきりしない.この曖昧さは,声明をまとめる過程で意見がまとまらなかった結果かも知れないし,責任逃れの余地を残す意図があったためかも知れない.しかしこの声明は「軍事的安全保障研究」を否定するものとして受け取られており,社会的には否定する根拠として使われてきた.だからあらためて,この声明の真意が何かは何れかの機会に明確化されるべきだろうと思う.

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米大統領選

 2,3日前に私がネットに入って得た感想であるが,米大統領選につき,トランプ推し,バイデン推しの意見が日本国内で熱く飛び交い,ガラ悪くいがみ合っているように見えた.米大統領は米国民の選択の問題であるから,日本人としては静かに眺めるしかないではないか.日本は米国に強く影響されるから,気にするのはよいのだけれど,選挙権もないのにいがみ合ってまでどちらかを推すというのは滑稽なことである.
 まあそれだけ,米国は日本人にとって身近なものになっているということかも知れない.

 ただ,この奇っ怪な熱さは今回だけかというと,必ずしもそうではないように思う.ふと思い出したのは息子のブッシュ(共和党)とゴア(民主党)が争った2000年の大統領選である.あのときはフロリダで票の数え直しがあった.今ネットで確認すると,その件が決着したのは12月12日であるという.今回がどうなるか分からぬが,2000年の場合も結構長く決着がつかなかったのである.
 その間,当然米国は熱くなっていたと思うが,なぜか日本でも熱くなる向きがあった.
 ふと思い出したのであるが,ちょうどその2000年のもめ事の頃,どことは言わず日本のある大学の3年次編入試験のとある出題単位の入試問題を私は偶々眺めた.時期も今くらいだと思う.その入試問題では読むべき英文が載っていた.目を通すと,「これってゴア側の主張の文章じゃない?」フロリダの票の数え直しのときにゴア側は民主主義原理主義のような論理を展開したのであるが,まさにその文章ではないか.
 まあ,熱くなるのは分かるのだが,入試の問題に片方の主張を出すかね?
 しかしそれだけ,2000年に,熱くなる人がいたのである.

 だから,まあ,今回もしょうがないのかな?と思って笑う私であった.

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埼玉大学は左翼の巣窟か?

安全保障関連法に反対する学者の会

 表題は刺激的だが,注意を引くためである.学術会議関連でネットで検索していると,「安全保障関連法に反対する学者の会」というサイトに出くわした.そういえば,少し前に安全保障関連法がどうしたと騒いでいた時があったなぁ,と懐かしく思った.私が在職中のことと思う.集団自衛権がなんたらといっていたときだろう.私は同僚に,「個別自衛権でも集団自衛権でも,選択肢が多い方が安全は確保できるではないか」と話したのを記憶している.同法案に反対するという発想は私には理解できなかった.
 このページの中にこの会(の声明)への賛同者リストが載っていた.どれどれと見てみた.面白半分に埼玉大学関係者がどれほどいるか検索してみた.結構多かった.出て来る名前はほとんど私が認識している方であり,多くは納得できた.賛同してもよさそうなのに名前が載っていない方も多いなぁ,という気がした.
 ついでに埼大周辺の国立大学で賛同者がどれほどいるかを検索してみた.すると,周辺では埼玉大学より左翼率が高い大学がない.ということは,埼玉大学って,実は左翼の巣窟なのだろうか,と思えてきた.

「左翼率」を計算すると

 今年の2月頃に国立大学の教員数,職員数を分析した.そのときに使ったデータがファイルで残っている.データの出所は国大協が配ったパンフレットに記載された数字(教員数,職員数)である.そこで,よせばよいのに,国立大学ごとに,「安全保障関連法に反対する学者の会」への賛同者数を数え,
  左翼率 = 賛同者数/教員数×100
を計算してみた.私大もやると面白いが,教員数を調べるのが面倒なのでやめた.
 実は賛同者には名誉教授など,元職も含まれている.が,区別するのは手間なので,機械的に上記の式で左翼率を求めた.だから左翼率とは,現職教員数に占める賛同者の比率そのものではない.

 左翼率を従属変数とし,独立変数に4つのダミー変数を入れて重回帰分析を,私としてはほとんど脊髄反射的に実施してみた.4つのダミー変数とは,医学部の有る無し,技術系大学か否か(例えば何とか工業大学),教育系大学か否か,旧帝大か否か,である.左翼率に有意な説明力を持ったのは「医学部の有る無し」と「技術系大学か否か」だけだった.まず医学部のある大学は左翼率が低い.医学部や大学病院の先生が左翼にならないからだろう.また,技術系の大学は左翼率が低い.教育系大学が左翼率に有意に影響しないのは意外だった.常識的には左翼は教育学部に多い.大学名を見ると教育系の大学は左翼率上位が多いのであるが.

どこが左翼の巣窟か?

 面白半分で恐縮だが,左翼率が高い上位10国立大学を書き出すと表1のごとくである.埼玉大学は堂々,この左翼10傑の10位に滑り込んだ.

20110310_20201103233501

 1位が一橋なのは納得である.一橋は,華やかな部分もあるが,反対に僻み根性で固まっている部分も多いので,大学全体としては左翼率が高くて不思議はない.2位の東京外語大については,私にはイメージがないけれど,ド文系中心だからこの数字は納得だろう.地方国立大学で埼大より左翼率が高いのは福島,和歌山,滋賀大学であるが,この辺は失礼ながら地域的にこうなるだろう.そして理系比率が低く教育学部の比率は高い.
 埼玉大学は,総じて文系比率が高いので上位になって不思議はない.まず教育学部が大きい.また,経済学部は概して,少し前までマル経だった所が看板を掛け変えたような部分があるから,仕方ないのである.思えば埼大経済学部にはチュチェ思想の大家がおられた.実は教養学部も相当だった.

 逆に左翼率の低い右翼10傑をあげると次の表2である.体育大学,医科大学,技術系大学が並ぶ.いずれもヒマな文系とは文化が異なる.

20110310_20201105211101

注:上記の表2の「教員数」に間違って「職員数」を入れていました.修正しました.「左翼率」は同じです.

 

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盲腸としての日本学術会議

 日本学術会議と他組織との関連をネットで検索してみた.その結果として得た私の印象は次のごとくである:日本学術会議はあってもなくてもよい盲腸のような存在だろう.害がなければ放置してもよいが,炎症があるなら切除(廃止)した方がよい.政府側の受け止めはそんなところではないか?

 日本学術会議は1949年に政府機関として設置された.日本学術会議法は前年1948年の施行である.よくいわれるようにその頃はGHQの占領下であり,GHQは日本の旧体制抑制のため日本共産党を利用する考えだったろう.が,もし設置が1年遅ければ,学術会議は今日のようではなかったかもしれない.その直後に急展開があったからである.
 1950年になると米ソ対立が厳しくなり,特に朝鮮半島では北朝鮮がスターリンに南朝鮮への侵攻の許可を求めるようになった.その情勢の中で1950年5月にはGHQがレッドパージを始めた.北朝鮮の南朝鮮侵攻によって朝鮮戦争が始まったのが一月後の6月である.その年のうちに中国が朝鮮戦争に加わった.翌1951年に日本共産党の火炎瓶闘争があったのは,北朝鮮・中国軍支援のための後方かく乱だったろう.1952年には日本で破防法ができ,日本共産党は公安の監視対象になった.
 つまり日本学術会議は設置してすぐに「使えない組織」になったと見るべきだろう.
 1956年には科学技術庁ができる.科学技術庁は法令上の日本学術会議と業務がかぶった組織である.同じ1956年に,それまで日本学術会議の付置だった日本学士院が文部省の管轄に変わった.要するに政府は日本学術会議から科学技術振興機能と日本学士院とを引き離したのである.科学技術庁は2001年に文部省(文部科学省)に吸収され,一部の業務は内閣府に回った.科学技術担当相がいるのはそのためである.法的な日本学術会議の仕事は主に文部科学省と内閣府が担う体制になった.
 もう1つ重要な組織は,日本学術会議と名称が似た日本学術振興会である.日本学術振興会は昭和天皇の下賜金をもとに1932年に設立された財団法人であり,政府予算ももらって学術振興の仕事をしていた.ただ天皇由来の組織であるから,終戦後の1947年に政府予算は打ち切られている.ところが1959年から政府予算が復活し,1967年には特殊法人となった.以後,文科省の科研費業務をはじめ,学術振興のためにお金を配る仕事は日本学術振興会に移って行く.日本学術会議の10年後の見直しを決めた2003年には,日本学術振興会は独法としてあらためて設置された.海外アカデミーとの連携も担っている.近年の予算額を見ると,日本学術振興会の予算は日本学術会議の250倍以上である.お金を配る機関であるから日本学術振興会の予算額が大きいのは仕方ないが,展開によっては日本学術会議が担う仕事であったかも知れない.
 政府は日本学術会議をあってもなくてもよい組織として捨扶持を与えて存続させた,といってよい.だから盲腸なのだ.

 しかし日本学術会議は盲腸でよいという状況では次第になくなって来たのだろう,という気がする.安倍内閣以来,政府は成長戦略を考えるようになった.今の菅政権は安倍内閣がやらなかった3本目の矢に集中しているように見える.この成長戦略の中で成長の基盤と位置づけられるのが科学技術である.科学技術が従来より強く投資の対象として意識されるようになった.この点は国立大学には神風である.国立大学は,運営費交付金という形では減額になったかも知れないが,政府のお金は以前よりも投入されている(財務省報告).その是非はともかく,大学のガバナンスを政府が強くいうようになったのも,大学への投資が今後増えることと裏腹と考えるべきだろう.
 その状況の中で,日本学術会議は無害な存在だから放置すればよい,という訳にも行かなくなってきたと考えるのが自然に思える.例えば大学が軍事研究をしないのはよいとしても,軍民のDual Use の研究もしてはいけないというのはベラボー過ぎる.額面通りに解すればコンピュータもロボットもITも軍民 Dual Use に決まっているからである.また目立つところでは,学術会議がリニアコライダー計画に否定的であったことも,多くの人を唖然とさせただろう.次第に学術会議の害が認識されて不思議はない.
 盲腸を切除(廃止)する判断がどこであるか,という話ではないか?

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日本学術会議が選んでいない定番の選択肢

 例の日本学術会議の件はまだ明らかになっていないことが多い.学術会議側に焦点を当てて考えるなら,最大の謎は,山極前会長が次期会員の名簿を提出した際に学術会議側の事務局が何をしていたのか,だと私は思う.政府への提出は事務局を通しているはずであるが,そのときに事務局はどう対応したか.
 一般に,学者や大学の先生はかなりとんでもないことを考えるのが常である.そこを現実に引き戻すのが事務局の役割といえる.大学も同じだろう.私が埼大の中で見聞した範囲でも,教授会側が勝手なことを決めて後で笑話になることもあった(教養学部の話ではない).いいたいけれど,まだ10年は差し障るだろうから,やめておこう.
 前々の学術会議会長は政府側の要望に応じて委員の調整に同意していたので,事務的に考えると今回も同様であるのが自然と思う.想像に過ぎないが,今回は山極前会長が「やっちゃったぁー」という話ではないか.そのときに学術会議側の事務局はどうしてたのだろう,という点に興味が湧く.
 ともあれ,その「やっちゃったぁー」の後の学術会議側の対応はといえば,よく分からない.一見すると梶田現会長が政府に融和的であるように見えるけれども,学術会議側も内部は色々だろう.学術会議としてどうまとまるかは分からない.
 この間,学術会議側の対応が分かりにくく見えたのは,定番の反応をしていないからではないか,と私は感じた.
 私が「定番」の反応と思うのは,「差し障りがある-ない」の尺度で順序づけられる.差し障りのない方からある方に,「これが定番でしょう」と私が思うことを,茶飲み話として書いてみる.

1.当該会員の必要性を説明に行く
 採用を見送られた候補者に関して「この人はウチの組織にこういう訳で必要なんですよ」と政府に説明に行くのが,一番差し障りのない反応であり,類似の場面ではよくやることではないかと私は思う.「理由を説明しろ」は頭が高いいい方に過ぎる.人事不採用については,理由なんて何を出してもその後に押し問答になるしかない.私なら間違っても理由などいわないだろう.教員人事で不採用にする場合と同じである.問われても「優秀な方と思うが,職務に適切であるという確信を持つには至らなった」というしかない.
 今回の学術会議の件では,不採用者がいることを事前に学術会議側に事務ルートで内示していたのかどうか,私にはよく分からない.もし内示があったなら学術会議側はすぐに説明に行くべきだろう.正式決定の後に知ったとしても,欠員があるのだから,次の採用のために説明に行くことはやるべきことと思う.
 「この人が必要である理由」とは,理屈からいって学術会議法にある組織業務(次の2つ)との関連での説明になる.

第三条 日本学術会議は、独立して左の職務を行う。
一 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
二 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

学術会議は今まで,必要があるからこの人にするという発想が,そもそもなかったかも知れない.ただ,話を通すためには説明が必要なのは当たり前である.実際に説明がつく方であるかどうか,私には状況が分からないのであるが,ちゃんと説明できれば,それだけで状況は変わる.通ることもあるように思う.

2.民間の別組織を立ち上げる
 学術会議が政府機関をやめて非政府の組織を立ち上げればそれで解決,という考えは問題が出た当初から指摘された点だった.通常,別組織を立ち上げるのは差し障りのある方の反応であるが,学術会議については2003年に暫定的に政府機関とすると決めたときにも,民間に移行することが理想としていた.だから政府にとっても嫌がる理由はない.民間組織になれば首相の人事権があるはずはないので,任命が見送られた人を会員にできる.会員を自分たちで決めることが重要であるなら,例えば「日本学術協会」などと銘打った別組織に移行することは有力な選択肢である.政府としても行革の実績になるから,Win-Winではないか?
 非政府にすると政府の金を当てにできないと思うかもしれない.が,政府は補助金を出すだろう.政府機関のときと違うのは,お金が渡し切りではなく,事業別に補助金が付き,評価が入ることだろう.実質は従来と変わらないのではないか.むろん,寄付金を募るなどして財源を確保するのが正しい.

3.抗議のため辞任する
 不本意なことがあると抗議のため辞任するのは1つの定番である.が,今回は学術会議のメンバーが抗議の辞任をしたという話は聞かないのが情けない.人数が多いのである程度は出てよい.よほど会員であることに魅力があるのだろう.辞めても収入の道がなくなる人はいないと思うので,ハードルはない.
 私も気に入らないことがあって何らかの役を辞めたことは,大学内外で何度かあった.給料に影響はないから「辞めるだけタダでしょう」といわれればその通りであるが,それでも迷惑をかける方はいるので,多少のハードルはある.抗議する気持ちの強さの問題である.

4.法的な手段に訴える
 首相が任命を見送るのは法律違反であるという話はよく出る.だから違法と思えば訴訟を起こすのは定番であるが,やはりまだ生じていない.かつては家永裁判などがあった.
 法律違反云々は法解釈と法の運用指針とを混同した議論と私は思う.が,法に反すると思えば法的手段,例えば地位確認の訴訟などはできる.法律違反と思うのであれば国会などで議論するのではなく裁判所に委ねるのが正しい.

 学術会議側も内部の調整を経た政府への態度に応じて,今後,上記定番の何れかを選ぶのかも知れないなぁ,見ものだなぁ,と思っている.
 かつて明治の先人は官学に抗して自前で私学を設立する気概があった.時が経過して今は学者の皆さんは公金に頼る癖が身についてしまったかのようだ.あるいは共産主義者がすべてを公金で賄うのが正しいと考える結果なのだろうか?

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筑波大学の下克上

 先日ネットを眺めていたら,朝日か毎日か東京新聞の左派系メディアが筑波大学の学長選考について記事を書いているのを見かけた.学長選考規則を学長選考の前に変えたことに教員の有志が異議を唱えているという趣旨の記事だった.朝日などはよくこの種の記事を書く.「学内民主主義」云々を問題にしたいのだろう.私も以前なら「問題だ」といったかも知れないが,少なくとも退職した今は冷めた見方をする.そもそも教員は学長選考に承認を与える職種ではない.いまだに教授会自治の感覚で騒ぐのは,明治10年頃にちょんまげを結っているようなものだと思うのである.いい加減,昔の管理者ごっこから抜け出したらどうかと思う.
 筑波大学の学長選考に関する記事とほぼ同時期に私が目にしたのは,筑波大学が東京医科歯科大とともに指定国立大学法人に選ばれた,というニュースだった.「えっ」と思った.こちらの方が話が大きい.

 指定国立大学法人とは,ご存じのように,選ばれた上位の国立大学であり,今後政府による投資の対象になる公算が大きい.2017年に最初に選ばれたのは東大,京大,東北大の3つだった.この3つが選ばれたのは驚きではない.その頃,文科省傘下の研究所が大学の論文シェアをまとめていたのだが,シェアの大きな第1グループはこの3大学に阪大を加えた4大学だった.論文数でジニ係数を計算すればわれわれの想像以上に格差があることが分かると思うが,その一握りの上位大学である.
 指定国立大学法人はその後徐々に増え,筑波と東京医科歯科を入れて9大学になった.調べると,2018年3月に東工大と名古屋大学が加わった.阪大より名古屋大が先に入ったのはやや意外な感があったけれど,名古屋大としては欠点だった規模の小ささを岐阜大学との統合計画で乗り切ったのである.東工大も仕方ないだろう.論文上位の阪大はその数か月後に指定国立大学法人に追加された.そして2019年には一橋大学が追加された.一橋はド文系の大学なので指定する意味があるか疑問があるが,まあ世間は納得するかもしれない.その後に追加されたのが東京医科歯科と筑波である.
 東京医科歯科大学は国立大で最初に重点化大学を決めたときにも選ばれているので,順当な面もある.しかし旧帝の九大が申請して落ちたのに筑波が入ったのは下克上ではないか?
 筑波大学も,論文シェアでは第2グループの13大学に入っている.だから不思議はないともいえるが,一般には筑波と広島大がトントンと思われていたから,やはりニュースである.
 
 筑波大の学長選考話に戻そう.これまで筑波大は永田学長という方だったが,その永田学長が今回の選考の結果,引き続き学長を務めることになった.永田学長は国大協の会長にして,日本学術会議による軍民Dual Use 研究の迫害に否定的である.朝日などが永田学長を引きずり下ろしたかった理由はその点にあるだろう.しかし,筑波を指定国立大学法人にした功績は永田学長にある.指定される前提は学長のリーダーシップへの支持が学内にあることであるから,筑波大学としてはこの時期に学長を変えることができる訳がないではないか.学長選考規程を変えたのも,下心の話ではなく,指定を得るための措置の1つであるだろう.そのくらい考えてやれよといいたくなる.
 そして永田学長という方の考えを前提にすると,根拠はないが,筑波大学は今後政府の投資の対象になる可能性が高いのではないか,という気がする.その通りであれば,さらに下克上があり,日本の大学の勢力図に変動があるかも知れない.
 実は私の師匠筋の先生は,旧の東京教育大学にいて筑波大学に移ることを拒否した一人である.だから私も元来は,筑波大学には良いイメージはない.しかし,いろいろと変化があるとするなら愉しいではないか.期待してしまう.

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日本学術会議は見直すべきだろう

よく知らなかった日本学術会議

 少し前に,菅首相が日本学術会議のメンバーを何名か任命しなかったという出来事があった.その件についてはまだ議論がある.が,任命の件とは別に,日本学術会議のあり方の議論が政府で始まった.2003年に日本学術会議を政府機関にすることを暫定的に決めたらしく,10年をめどにあり方を見直すという話が元々だったという.既に17年経っている.安倍政権のときは行政改革は事実上放棄されていたが,菅内閣では行政改革がテーマになる.だから自動的に日本学術会議のあり方の見直しが進む,ということだと思う.
 私にとり,学術会議がいう「軍事的安全保障研究」の件,つまり学術会議が研究者にDual Use の安全保障技術研究をも禁止する方向で働きかけたこと以外には,学術会議が念頭にのぼることはなかった.何の団体かも認識がなかった.今回,ニュースを見て,学術会議が政府機関であると知って驚いた.学術会議は,国大協と同じように民間の非政府組織であると私は思っていた.学術会議の会員が公務員になるというのも意外だった.公務員なら,なるほど任用するかどうかの政府判断はあるだろう.
 「軍事的安全保障研究」の件では,2018年9月に,私はこのブログに次の記事(を含めて5つの記事)を書いた.学術会議は間違っているというのが私の考えである.
軍事的安全保障研究 http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2018/09/post-cadf.html
が,「軍事的安全保障研究」はこの記事のテーマではない.

日本学術会議の法令上の業務

 学術会議が何をする組織なのかを,そもそも私は知らなかった.そこで調べてみようと思った.細かいこともあるので,実際に何をやっているかは外部からは分からないことが多いだろう.まず法令上は何をすることになっているか,という点を抑えようと思った.
 「日本学術会議法」では次の第三条で主たる業務を規定している.

第三条 日本学術会議は、独立して左の職務を行う。
一 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
二 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

 なるほど,この業務(職務)ならいかにも政府機関である.ただ,この業務は明らかに文科省+学振,内閣府とかぶっている.例えばこの数年間,日本の研究論文の量と質が落ちているという議論があるが,そのための基礎的な資料まとめと分析をしていたのは文科省傘下の専門の研究機関である.この分析作業は今も続いていると思うが,この間,ある程度実態が明らかになってきた.そのような分析は専門性のある専従の研究者でなければできない.日本学術会議の出る幕は,実際になかったのではないか? 学術会議も何かしたかも知れないが,ニュースになったという記憶がない.財務省ですらものを言っているのに.
 学術会議の役割は第三条にある「独立に」にあるのかも知れないが,独立して何もできていないだろう.文科省や内閣府の作業はオープンな議論であるので,外部の意見は入ってきており,今さら独立機関の存在意義はない.

 第三条に続く次の第四条~第六条で日本学術会議に関する「できる」規定が入る.

第四条 政府は、左の事項について、日本学術会議に諮問することができる。
一 科学に関する研究、試験等の助成、その他科学の振興を図るために政府の支出する交付金、補助金等の予算及びその配分
二 政府所管の研究所、試験所及び委託研究費等に関する予算編成の方針
三 特に専門科学者の検討を要する重要施策
四 その他日本学術会議に諮問することを適当と認める事項
第五条 日本学術会議は、左の事項について、政府に勧告することができる。
一 科学の振興及び技術の発達に関する方策
二 科学に関する研究成果の活用に関する方策
三 科学研究者の養成に関する方策
四 科学を行政に反映させる方策
五 科学を産業及び国民生活に浸透させる方策
六 その他日本学術会議の目的の遂行に適当な事項
第六条 政府は、日本学術会議の求に応じて、資料の提出、意見の開陳又は説明をすることができる。
第六条の二 日本学術会議は、第三条第二号の職務を達成するため、学術に関する国際団体に加入することができる。
2 前項の規定により学術に関する国際団体に加入する場合において、政府が新たに義務を負担することとなるときは、あらかじめ内閣総理大臣の承認を経るものとする。

 この「できる」で何かをしたというニュースは,寡聞にして接したことがない.諮問であれば政府は別途専門の会議を招集して試問するだろうし,「勧告」については永く何もなかったというニュースもあった.少なくともニュースは聞いたことがない.猪口邦子はコロナ禍でも何を発信しなかったでしょう,といっている(発信しないでくれてよかったと思うが).
 ネットの記事で,学術会議の安全保障の部会?という話題があった.安全保障の専門家が全くいない,という落ちである.学術会議のメンバーはそれぞれの分野で学識は高いのだろうが,個別の問題については個別に専門家を集めて協議するしかないから,学術会議が安全保障を検討するとしたら井戸端会議のようなものでしかないだろう.

実際何をやっているか?

 日本学術会議が何を発信しているかを日本学術会議サイトで眺めてみた.

 まず日本学術会議法の第三条にある職務については,分からなかった.

 第四条にある政府からの諮問については,同サイトの「答申」が該当するのだろう.しかしこの「答申」に記されているのは3つだけであり,最後の答申は2010年のもの(「地球規模の自然災害の増大に対する安全・安心社会の構築」)である.ほとんど答申はしていないようだ.
 なお,別途「回答」というページがあり,その回答では「関係機関から審議依頼(政府からの問いかけを除く。)事項に対する回答」と記してある.この「回答」ページには2006年から2020年までで11の回答が載っている.2020年の回答はスポーツ庁からの審議依頼に基づくから政府からの試問といってもよさそうに思うけれども,区別してある.しかしそれでも数は少ない.

 日本学術会議法の第五条に基づく政府への勧告については,1949年以来数多くの勧告が載っている.しかし最近になるほど数が減り,2009年以降は2010年の勧告を最後に,絶えている.最近は勧告をまったくしていないようである.
 その他,「要望」という項目があり,この「要望」が勧告とどう違うかは分からない.同様に昔は多くの要望の記録を残しているが,2009年を最後に絶えている.

 という訳で,日本学術会議法に記載のある事項での発信は,特に近年になるほどやっていない,というのが実情のようである.
 日本学術会議法上の位置づけははっきりしないが,「提言」や「報告」というページがあり,そこではかなり多くの提言・報告が記録されている.2020年のものも多い.私に分かりそうな提言を見てみたが,まともな提言のように思える.が,これらの提言・報告は分科会でまとめたものなので,学会もしくは学会連合でまとめるべきものがほとんどであると思える.実態としては学会ないし学会連合でやったも同然だろう.

私なりにまとめると

 以上,ダラダラと書いたことを私なりにまとめると,次のようにいうべきと思う.
 日本学術会議の業務を日本学術会議法で規定するなら,日本学術会議の仕事は現状の文科省+学振,内閣府で現実に,それなりに効率的に行っており,日本学術会議が出る幕はないだろう.実際にやっている作業を見ても,日本学術会議法の通りとはいえない.
 日本学術会議の活動で意味がありそうなのは,学会ないし学会連合としての提言・報告の部分(だけ)だろう.こういう活動はあってよい,あるべきとは思うけれども,実態は,学会関係者が東京などに赴く交通費の財布として日本学術会議が使われているのが実態であるように,私には見える.今どきオンライン会議があるのであるから,わざわざ交通費を使う必要はない(それ以上に紙を印刷することはない)けれども,ある程度の交通費は政府が補助してよいのだろう.
 こう考えると,日本学術会議は学会の大連合として定義し直した方が実態に近いのではないかと思えて来る.例えば,学術会議の正規会員は,変な推薦を入れるよりも,主要学会の学会長が自動的に就任するようにした方がすっきりするだろう.会長はちゃんと選挙で選ばれる.主要学会とは,会員規模,海外学会とのつながりなどで判断すればよく,文科省なら判断できると思う.主要でない学会については,複数学会で1人の会員を出せばよいのだろう(おそらく持ち回り).だから日本社会学会や日本心理学会の長は自動的に学術会議メンバー,小学会の会長は時折回って来る,ということである.
 そのうえで,学会連合で作業する人はすべて連携会員に指定できるようにし,必要に応じて交通費を支給するよう政府が予算を措置すれば,それでよいのではないのか? 学会は政府機関ではないから,学術会議も政府機関でないのがむろん正しい.
 なんか,偉そうに書いてしまったw

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大学支援ファンド:で,地方国立大はどうなるの?

 大学の研究支援のための,最大10兆円規模のファンドを政府が作るというニュースが流れた.前々から小出しになっていた話と思う.

 政府は国立大学に対して自律的な経営体になれといってきた.でも,それ,無理なんですよね.お金ないから.予算はそれなりにもらっているけれど,予算はフローでありストックがない訳ですね.国立大学時代は毎年度ごとの予算をもらって消化していればよかった訳だから,いわばその日暮らしだった訳ですよね.以前,ある政府系の審議会の委員が,学長のリーダーシップなんていっても独自の資金がないんじゃしょうがないでしょう,という趣旨のことをいっていた.まあその通り.で,確かに東大などは受託研究費を埼大より二桁多くとっていたと思うけれども,それでも,欧米有名大学のようなストックができる訳ではない.だから今回のようなファンドを,とりあえず政府が作るしかないのだろう.米国の有名大学の収入の内訳を見ると,大学にもよるけれど,伝統ある上位大学は運用益の比率が結構高い.そうでなければ動けませんよね.
 10兆円といってもすぐにその規模になる訳でもなく,運用益を出して使う訳だからすぐに使える訳でもないだろう.何年かして少しずつ稼働するということのように思う.運用は民間に委託するのだろうし,何れは政府から独立した財団にするんだろう.
 ニュースでは,対象は東大や京大など,という書き方だった.想像であるが,法令で線引きするなら指定国立大学法人に対象を限定することになるんじゃないか,と私は勝手に思う.指定国立大学法人は入れ替えがあり得る.

 この大学支援ファンドは,日本にとっては良いことに違いない.けれども,埼大という地方国立大学に縁があった私としては,いろいろひっかかる.
 まず,数大学しか対象にならないこと.10兆円ということなら,3~5大学くらいだろう.しかしそれだと,米国に比べてトップ大学の数が少な過ぎないか? 日本は人口で,以前は米国の1/2,今は1/3くらいかも知れない.もともと,日米で指標を比べると,だいたい日本は米国の1/3~1/2だった.しかし,3~5大学くらいとなると,米国に比べてトップ大学の数が少な過ぎるのではないか?
 つまり,今考えている大学への策は,トップ大学の回りに裾野が広がる,というよりは,下位大学の累々たる屍の上にトップ大学がちょっと乗っている,という風景ではないか? 金がないから仕方ないといわれるとそれまでなのだが,トップでない大学,特に地方国立大学は放置プレイの対象にしかならないのだろうか? という思いが浮かんでしまう.ある程度のファンドは有名私大は持っていると思うが,それでも額は少ない.しかし地方国立大学は,埼玉大学基金程度のものしかないのではないか?

 今回のようなファンドを地方国立大学が作るためにはどうするのか,と考えるべきなのだろう.そのためには,規模を大きくして(つまり統合して),お金を集められる将来的な計画を提示するしかないのだろう.それと同時に,旧来の「大学の自治」風のあり方ではなく,かなり厳しい経営のあり方が大学に求められるようになるのだろう.
 地方銀行は県に1つは要らない,という記事が最近載る.その話,地方国立大学の話かといつも思ってしまう.

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なんとなくパラレル:日本学術会議と国立大学

 先日,日本学術会議会員の任命問題で話題があった.ニュースを見ると,過去に学術会議側は首相の任命権に応じる反応をしていたという.だからこの件は済だな,と感じた.
 この件の経緯の報道を見ながら,なんとなく,日本学術会議は国立大学と似ていると思えてきた.似ているのは発足時の経緯と今後のあり方についてである.

発足時の経緯:国にしがみつくことが第1だった

 私が Twitter でフォローしている高橋洋一(嘉悦大学)という人は,元財務官僚であり,2003年に学術会議のあり方を決めるときには学術会議から彼自身が陳情を受けていたと語っている.当時は民営化の検討が盛んな時期であり,学術会議も政府組織から切り離す(民営化)ことが検討事項だったようだ.国立大学と同じである.政府組織に残れば政府の権限に服することになるが,お金は国から出る.学術会議は国にしがみついてお金をもらうことの方を優先したという.つまりは,任命権は国に行ってもお金の確保を優先したのだろう.だから2003年当時の事情を思えば,首相が任命権を行使しても文句をいう話ではない.

 国立大学については,1990年代の末に,民営化を含めてあり方の議論があった.私個人は「民営化でよい」と当時は思っていた.国の干渉を受けないことの方が重要だからである.民営化しても私大になるだけの話であり,国立大学だったという看板があるのだからやって行ける,と考えた.むろん,教員数に対する学生定員は私大並みを認めてもらうことが前提である.大変かも知れないが,新しい局面に夢を持つべきではないかと思った.
 しかし国立大学関係者の大勢は,私の周囲を含めて,国にしがみつくことが強い願望だった.たぶん日本学術会議と同じような陳情をしていたのだろう.
 国立大学の独法化は免れない,という官庁経由の情報を私が聞いたのは,1999年か2000年の年末であったと思う.独法は民営化に比べるとかなり国の組織に近い.だから内心,私はがっかりしたのである.逆に多くの国立大学関係者は一安心だったろう.
 埼大でも独法化に関する全学会議ができ,教養学部からは私ともうお一方が出席して,独法化後の対応を協議していた.ただこの会議,独法化しても国立大学の現状とほとんど変わらない話ばかりしていた.実質は国立のまま形だけ独法化にするにはどうするか,と話していたのである.
 民営化を回避して独法化になっただけでも国立大学は有難かったはずである.が,その後,国立大学法人という設置形態になるという話が出てきた.国立大学法人は独法より管理が緩い.だからその間に国立大学が陳情を続けたのだろう.力になってもらったのは文科省と文教族の議員先生方である.この時点で,国立大学法人で収まったことは,国立大学にとってはかなり有難いことだったはずである.
 法人化の少し前に文科省のお役人の説明(講演?)が今の研究機構棟の7階会議室で行われた.フロアからはお定まりの,大学が政府の評価に左右されるのは大学の自治ガー,学問の自由ガーという発言もあった.そのときお役人が「学長を文科大臣の任命にしないでもいいんですよ」というと,みんな黙ってしまった.国との関係を切るというのは殺し文句だったのである.
 そんなことであるから,国立大学法人の発足の経緯を考えると,国立大学法人で収めて頂いたことには国立大学関係者は感謝しないといけない.その後,最近になって「国立大学法人化は誤りだ」という発言が時折出るのであるが,そりゃ,国立大学法人発足時の経緯を無視しているな,と感じる.
 日本学術会議と似ているのである.

今後のあり方:国にしがみつき続けるのか?

 日本学術会議については,最近,自民党の中で組織見直し論が出てきた.任命の件で悶着があったということより,2003年に学術会議を政府組織にしたとき,10年をめどに見直す,理想は欧米のアカデミー(つまり非政府組織),というまとめをしていたことによる.既に10年を過ぎており,この間見直しをしていなかったので,見直しは自然なのである.当然,政府組織から外すことも選択肢になる.
 この見直しに学術会議がどのように対応するかは面白い.橋下徹氏がいうように非政府組織にして会員の会費で費用を賄うのが正しいだろう.ただ,日本学術会議は何があっても政府のお金にしがみつくような気がする.見ものである.

 国立大学にも組織の見直しがあるかどうかは私には分からない.在職していれば何かの情報があるかも知れない.ただ何かあるかも知れないな,と思うのは次の点である.
 昨年2019年の政府の骨太の方針(「経済財政運営と改革の基本方針2019」)は,国立大学を含め,大学に多くの言及をしていたのが目を引いた.安倍内閣になってから成長戦略を考えるようになり,政府は大学,特に理系比重の高い国立大学を経済成長の基盤と位置づけるようになった.予算面でいえばこの点は大学にとって神風になっただろう.
 昨年の骨太の方針で特に私が気になったのは次の表現である.

  国は国立大学との自律的契約関係を再定義し、真の自律的経営に
  相応しい法的枠組みの再検討を行う。

 「自律的な契約関係」とは何だろう?
 勝手な想像であるが,米国型の政府と大学の関係であろうか,と思った.米国の場合,州立大学は州の産業振興や人材育成に役割を果たす.そのために予算が付く面がある(日本でも公立大学は同様かもしれない).そのように,この仕事をするからこれだけの補助を出します,という契約関係を結ぶ,ということかも知れないと思った.積算ベース(に近い金額)で予算を国立大学に出すのとは,考え方が異なる.
 今年の骨太の方針2020は,コロナ関係の対応に多くのスペースを割いているので,昨年ほどは大学に関する記述はないように思う.しかし「大学改革等」の項で次のように書いているのである.

  国立大学法人改革について、戦略的な大学経営を可能とする新たな
  法的枠組みを検討し、年内に結論を得る。国と新たな自律的契約関係を
  結ぶ国立大学法人は、…

 昨年度の骨太の方針で出た「自律的契約関係」がここでも出て来る.そして,おそらくそのような契約関係の基礎となる法整備の結論を年内に得る,と書いている.「年内」というだけ,昨年より踏み込んでいる.
 いったい何があるのだろうか? 波乱があれば嬉しいと思う私としては,期待してしまう.

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小論文試験問題を論評する

 私は受験生の時に小論文を経験したことはなく,大学教員になってからも小論文の採点をしたことがない.私の在職期間には,属していた教養学部には小論文はなかった.だから,小論文については私には実感がない.小論文試験に解答するということがどんな感じか,小論文試験の答案が実際はどんなものか,その辺の感覚がない.小論文はちゃんと採点できるものなのか,という点もよく分からない.
 前の記載で私は大学での入試採点について触れた.その記載を書いていて一番気になったのが,「正解」が想定できる学科の試験に比べて,小論文の採点というのは謎である点である.
 そこで教養学部が始めた小論文試験の問題を眺めてみた.いろいろ思う所があったので,よせばよいのにという気持ちもあるのだけれど,以下に書いてみたいと思った.

ひとつの想い出

 教養学部の試験問題を論じる前に,私のひとつの想い出を書いておきたい.20年以上前のことなので,まあいいかと思う.
 正確な年度の記憶はないが,1990年代のことである.私は全学の入試管理委員をしていた.その委員には入試問題の点検という業務があった.どのような問題を点検したかは覚えていないが,通常の学科であれば私に点検ができる訳がない.1つ覚えてるのは,某学部の小さな入試単位が出題する小論文試験の問題での出来事である.
 その問題は,世論調査(のような調査)の結果の表を解説文とともに提示し,小論文で解答を求める問題だった.気の利いた問題に思えた.けれども,設問を見て引っかかったのである.「この問題はダメではないか?」と出題者殿に私は問いかけた.よくいえたな,と思う.
 私の意見は書生的である.設問ではある現象がなぜ起きるかの解答,つまり因果関係の解答を求めていた.しかし設問で示してあるのは調査結果である.調査結果が示すのは相関関係でしかない.原則として,相関関係を示しても因果関係を知ることはできない.つまり本来は分からないことを解答で求めているのではないか?というのが私の論点である.因果関係を検証するなら実験するしかない.
 私が申し上げたことを出題者殿は理解しなかったと思う.押し問答が続いた.出題者殿としても,今さらダメといわれてそうですかと持って帰ることは,今思えば,できなかったろう.だから時間をかけたけれども,問題は手付かずで終わった.
 私の指摘が正当であったかどうかは,今の段階で,問題が目の前にないので分からない.私も,そのような議論をしたという記憶しかない.ただ,私の指摘が正しかった可能性はあるだろう.調査結果を使うのであれば,あくまで相関関係の話として論じるべきであり,因果関係に踏み込むのは正しくない.
 そのときに私が思ったのは,実際にミスがあるかどうかは別にして,可能性として,小論文にもミス,ないし不適切な設問はあり得る,ということである.
 小論文は,本音をいえば安上がりに入試問題を作る必要があるときの策である.だから小さな入試単位が自前で問題を作らなければならないときに選択されることが多かったように思う.原則として小論文なら入試ミスはない.提示した文章の中にミスがあっても責任は原著者に押し付けられる,という気楽さもある.だから気楽に作っていることもあると思うのであるが,科学の基準で問題を問い直す必要は,潜在的にはあるのだろうと思う.その検討をちゃんとしているか,という点は,私は小論文の出題に関わったことがないので,分からない.

2018年の小論文:教養学部・後期

 埼大サイトに入ると学部入試問題の原文をネット経由で閲覧できる.
http://www.cybercollege.jp/saitama/index.php
ファイルにはパスワードがかかっているけれど,ページの右上を見れば閲覧できることが分かる.
 現時点で2018~2020年度の入試問題を見ることができる.そこで,その3年度の,教養学部の後期試験の小論文試験の問題を眺めてみた.
 まず2018年度の問題である.結論を先にいえば,この問題は実によく出来ていた.
 終戦直後(1946年)に志賀直哉が書いた文章が提示される.(実際に問題文を見て頂くべきであるが,)要旨は,国語改革はできそうにない,それよりは外国語を国語にした方がよい,フランス語を国語にするのがよいだろう,という趣旨の文章である.晦渋さのない,分かりやすい文章であるのもよい.
 浅学にしてこのような文章を志賀直哉が書いていたとは私は知らなかった.読めば受験生も驚くのではないか? そして設問とは,「筆者の『国語』についての意見に対するあなたの考えを,…述べなさい.」である.この設問の書き方もよく整っている.
 この問題が優れているのは,提示した志賀直哉の文章内容があまりに荒唐無稽であり,受験者は出題者を忖度して文章内容に同意する圧力を感じないで済む点である.自由に解答できる.つっこみ処は満載であるから,書けるポイントも多い.
 私ならどう解答するか,と考えた.志賀直哉は国語を外国語(英語)にすることの利点を書いているが,コストは書いていない.だからフランス語を国語にすることのコストを書くだろう.見たところ,一番の問題はどのように(外国語への)移行期間を設定するか,どれほどの移行コストを覚悟するか,である.最終的にどうするかは価値観の問題である.価値観の問題ということは,カレーがよいかハヤシライスがよいか,という話であるから,どうすべきかと書くのは野暮な気がする.私なら,最終的には価値観の選択であると書いて終わりにするだろう.
 一瞬迷うのは,志賀直哉のいう「国語」とは「公用語」の意味なのか,という点だった.実際,複数の言語が公用語である国は多い.おそらくフランス語だけを公用語にする,という趣旨と思うが,それでよかったか?

2019年の小論文:教養学部・後期

 2019年度の問題は,貧困と「自己責任」を論じた文章を提示した問題である.私の意見を最初にいうと,私がこの問題に解答するのは難しい.
 設問は「現代の日本社会で用いられる『自己責任』という概念についてのあなたの考えを,…述べなさい.」である.文の形式は2018年度問題と同じに見えるが,2018年の設問には隙がなかった.この年度では「日本社会で用いられる」と書くが,「用いる」の主語は何なのか?
 少なくとも2つの可能性がある.1つは,「日本国民の多くが自己責任の観念を抱いている」である.もう1つは,「日本社会の制度が自己責任論を原理として成り立っている」である.どちらであるかで話は異なる.
 また,この小論文問題の難点は,解答を求めている「自己責任」の概念を文章がまともに議論していないことである.「日本社会では自己責任の観念が強い」は「意見」であり,その意見が基づくはずの「事実」を(少なくとも提示した文章では)示していない.だから受験者は「自己責任」の意味がよく分からぬままに解答を迫られるだろう.
 私見では,自己責任の1つの可能性は「成果本人帰属主義」とでもいうべき理念である.もう1つは,自己責任が貧困者への援助義務を否定するという考えである.日本社会は一方で成果本人帰属主義を基本とするが,貧困者への援助義務はある程度取り入れている.

 まず「日本社会で用いられる」が「日本国民の多くが(自己責任論を)抱いている」である場合を見てみよう.日本社会の人々は自己責任論が強いという点を述べるのに最もよく引用されてきたのは,SSM調査(Social Stratification and Mobility,日本の社会調査で最も信頼される調査の1つ)で「チャンスが平等に与えられているなら、競争で貧富の差がついてもしかたがない」という質問に対し,肯定的な回答が多い,という事実である.SSM調査のこの質問は,いわば「成果本人帰属主義」を測っている.だから貧乏なのは本人が悪いという含意も含んでいるけれど,例えば「イチローが平均的な選手より報酬が多い」を肯定するという意味もある.
 他方で,日本国民は貧困者への援助義務を否定する傾向があるという調査データもある.ただ大多数が否定している訳ではない.
 「日本社会で用いられる」が「日本社会の制度が自己責任論を原理として成り立っている」であるときの事実とは何か? まず憲法で「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を規定し,法体系で(いわば)自助,共助(近い親族による扶養義務),公助(生活保護など)を規定しているのは事実である.この小論文の文章の著者は実際にホームレスをしていたと書いてあるのであるが,この著者が本当にお金がなくてホームレスをしていたなら,役所に申し出れば住居は与えらえるはずだし,(支給金額が低いことはあるけれども)生活保護も受けられたはずである.生活保護が受けられることは義務教育で教えている.が,この著者の問題内の文章ではその点が明記されていないので,受験者はホームレスが見捨てられると誤解したかも知れない.
 なお,困窮者に対して人が冷たいように見えるのも,ある程度,仕方ない面がある点も考慮すべきだろう.私のカミさんが民生委員をしているので聴いていることであるが,行政の側から困窮者に生活保護を受けるように促すことは,クレームを引き起こすので,できない.それでも役所は,困った人が相談に来やすいように丁寧に広報している.
 さらに,貧困を問題にするなら貧困の統計を厚労省が計算して公表している.そうした統計を見ずに貧困の議論はできないだろう.

 「自己責任」の概念を受験者に論じさせるのであれば,あの小論文問題のような煽情的な文章を示すのではなく,少なくとも以上のような事実を出題者が問題の中で情報提供した上で解答を求めるべきだったように思う.事実の把握なしに貧困や自己責任の議論を求めるのは無茶である.
 私がこの試験を受けたなら何を書くだろうか? 本音を書けばよいなら「この問題はここがおかしい」と書くだろう.合格を目指すなら,出題者に忖度して「自己責任論を許さないぞぉ―」と,アベガー的に書くしかないのかな,と思う.
 この年度の小論文で提示された文章が格調が低いのも気になる.かつての教養学部の論文試験時代の文章はずっと上品だった.比べてみて欲しい.

2020年の小論文:教養学部・後期

 2020年度の問題は,若者論・世代論を語る文章を提示している.私の意見を最初にいうと,この問題で何を解答すべきか,私には分からない.
 まず,「若者」や「世代」という言葉の扱いが雑なのが気になる.特定の期間(例えば 1971-1980年)に生まれた人々の統計的集団をコーホートと呼ぶことがある.特定のコーホートが時間の経過を経ても一定の傾向があるとすれば,その傾向が「世代」の特色である.例えば若い時に黄金期に育った世代は,時間を経ても一定の消費傾向を持つ,といったことの議論があり得る.また複数のコーホートが特定の年齢階層にときに一定の傾向があるなら,その傾向が「若者」や「高齢者」などの特色である.ただ複数時点でのコーホートの傾向には年齢,世代,時代という3つの効果が混在し,そのそれぞれの効果を推定することはできないという識別問題が存在している.この識別問題は,推定式に一定の制約条件を仮定することで回避することがよくあるけれども,そうした仮定が妥当かどうかは分析時の判断である.要するに,「世代」や「若者」は分析するのが簡単ではない.
 この小論文の説明文は,「若者」や「世代」といった概念を何も考えずに互換的に使っているように見える.おそらく,この説明文は,1時点での調査結果で回答者を年齢階層に分けたときの年齢階層集団を「世代」と呼び,若年「世代」を「若者」と呼んでいるだけなのだろう.語法がやや素人くさい.
 さて,この小論文は説明文で,まず,「世代」(年齢階層)の隣接世代との相違は年齢を下るほど小さくなると指摘する.その根拠として定期的に実施された世論調査の結果を引用する.さらに,「世代」以外の分類がより重要(同質性がある)になるかも知れないと説く.
 ただ,「隣接世代との相違は年齢を下るほど小さくなる」件は,上記のコーホート分析の対象のように思える.説明文にある結論は「(本来の)世代の効果が無い」と仮定する場合のように思えるが,そのように仮定してよいかどうかは,この説明文では判断できない.また,「『世代」』以外の分類」については,引用する事実(データ)が何もない.
 この小論文の設問は「『若者』や『世代間の違い』をめぐる著者の見解に対するあなたの考えを,…述べなさい.」である.私が受験者であれば解答に困る.本音で解答してよければ次のような趣旨で書くだろう:年齢階層以外の基準で分類した方が級間分散に対する級内分散の比率は高くなるかも知れない.が,かも知れないであって,根拠は問題文では示されておらず,何ともいえない.
 これで点数がもらえるだろうか?
 私が受験生としてどうしても合格したければ,上記のようなことは書かずに,出題者に忖度して次のような趣旨で書くだろう:世代以外の要因でまとまりができつつあるという指摘によって目から鱗が落ちる思いがした.こんな素晴らしい問題を出す埼玉大学に是非入りたい.
 が,これで「800字以上」の要件を満たせすように書くためには,どうでもよいことを書き加えるしかないかも知れない.
 この小論文問題で実際にどのような答案が提出されたのか? 見てみたい.

さて

 以上,3つの小論文問題に感想を書いてみた.教養学部学部入試の小論文は,少なくとも他に推薦入試の小論文がある(私の在職中は推薦入試はやっていなかったと思う).推薦の方の3年度分の問題もついでに眺めてみた.いいたいことは多いが,書くのはやめておこう.計6つの問題を見て,良かったのは志賀直哉の問題だけだったような気がする.
 おそらく,小論文で読ませる文章はない方がよいだろう.中途半端な文章を読ませることは思考の邪魔になる.今日的な研究水準からは外れた文章もある(推薦入試の方).
 ちなみに,私が見た中では,教育学部の小論文が,読ませる文章無しの小論文である.この方がよいだろう.受験者の知的水準はより明確に出る.説明文が導く変な忖度も少ないだろう.文章付きの小論文は受験者を洗脳するようなものである.
 また,前の記載でも書いたことであるが,小論文試験のスコアと共通試験等の科目のスコアとの相関をとって,小論文のスコアの意味を推測する作業は必要だろうな,と感じる.

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大学の入試採点はどうなのか?

入試採点に厳格さが求められた

 このブログの少し前の記載(「大学入試を巡るこの1年のゴタゴタ」)で,英語民間試験の導入延期と論述式問題の見送りの判断について触れた.この2つに関しては正論が通った事例だと私は思う.英語民間試験については東大が早々に導入への疑問を表明していた.東大の検討チームの主査が副学長であったとすれば,その方は計量心理学の大家であり,チーム内には英語教育の専門家もおられただろう.だからいろんな民間試験でCEFRの段階判定をする根拠がないという指摘は学術的に正論であったと思う.論述式の件については大学入試センターで厳密な検証がなされたようだった.入試センターには同じく計量心理学やテスト理論の専門家がおられるはずであり,大臣会見の内容から推察するだけであるが,採点者間の採点の信頼性や採点結果を受験者がどれほど予測できるかを真面目に検証した様子が伺える.センター試験(共通試験)に求められる厳しい基準に照らして導入の延期や見送りを決めたのは,やはり正論が通ったケースといってよいと思う.
 想像であるが,文科省の中ではあくまで実施しようとする係官と慎重な係官がいるのが普通だろう.それを萩生田文科大臣が常識の線でまとめたとすれば,大臣には手腕があったように思う.
 ただ,この点は前の記載でも書いたのだが,論述式問題は大学の個別入試で多く行っている.同じ基準を適用して個々の大学がクリアできるか,という点は私は疑問である.センター試験(共通試験)は注目が高く非難も受けやすいから厳格に検討したけれど,個別の大学の入試は大目に見られているから非難されないだけかも知れない.
 実は入試だけではなく,大学での試験でも,論述式問題が基本である.だから,大学で実施している試験の採点はどうなのよ,という点も,センター試験の基準と対比するなら,結構難しいものがあるんじゃないか,という気がしている.

論述式の採点は内容分析と同じ

 心理学,社会学等で内容分析(Content Analysis)という手法がある.何らかのメッセージ,録画した映像などを分析するときに使う.実は論述式問題の採点は,この内容分析での評定(rating)と同じではないか,という点が私の頭をよぎった.
 内容分析について,例えば集団討議をしている人の発話を,予め決められたカテゴリー
(情報提供,相手への支持,…)に当てはめるということをするとしよう.この場合,各カテゴリーに該当させるときの目安,基準を書き出しておく.そして基準に従って評定者が特定の発話行動をカテゴリーに分類する.あるいは,政治家の発言が現実の複雑性をどれだけ認識しているかの程度を評定者が評定し記録する.この場合もその程度(段階)ごとの該当の目安をルーブリックのように事前に書き出しておく.評定の観点が複数ある場合は観点ごとのルーブリックをつくることになるだろう.このようにして評定者が対象をカテゴリーに分類したり,程度を評定する.
 こういえば,論述式問題で文章を評価することは,あるいは面接で受験者を採点することは,内容分析と同じと思える.
 この内容分析は,いったんデータを得てしまえばそこから先の分析は調査や実験と同じであり,難しいことはない.内容分析が難いのは,評定者の評定の信頼性のチェックをクリアする必要があることである.内容分析では,複数の評定者が独立に(つまり他の評定者の判断の手がかりを得ることなく)評定を行い,評定者間の評定の一致度係数なり信頼性係数を算出し,満足すべき係数が得られたときだけデータが使える.実際やってみれば分かるが,思った以上に一致しない.一致しなければデータは捨てないといけない.ひとによっては評定スコアの評定者間の合計や平均を出せばよいと思うかもしれないが,それはなしである.データが必要なら,ルーブリックのようなものを作り直し,評定者間で見解のすり合わせをした上で,再度評定をやり直す.やり直してOKになるか否かは賭けであり,保証はされない.

テストスコアの信頼性は一度検証する価値がある

 一般論であるが,試験の採点とは,データ(答案)を所与として,そのデータにテストスコアをつけることである.ここで概念的には

  テストスコア = 真のスコア + 誤差

と考えることになるだろう.つまりテストスコアには採点者による誤差が入ると考える(他はない).仮に誤差が真のスコアと確率的に独立であると仮定すれば(仮定できなければ純粋な意味での誤差ではない),

 テストスコアの変動 = 真のスコアの変動 + 誤差の変動

という関係が成り立つはずである.そして,

 テストスコアの信頼性 = 真のスコアの変動/テストスコアの変動

と考えらえる.この信頼性は,真のスコアとテストスコアの相関係数の二乗になるはずである.つまり,信頼性(つまりテストスコア変動中の真のスコアの変動)が81%(.81)であれば,テストスコアと真のスコアの相関係数(正確にはその下限)は .9 となる.
 この信頼性自体は直接測定できない(なぜなら真のスコアが分からないのであるから).が,間接的に推論する方法はいろいろある.単純には同じデータに独立した測定を繰り返してテストスコアの安定性を見ることである.その単純な代替が複数の採点者の結果を比較することである.
 入試の採点を含め,大学での試験の採点にどれほど信頼性があるかは検討してみる価値がある.仮に信頼性が劣る方法が見つかれば,他の試験方法に切り替えるべきだからである.
 入試の採点を例にすると差し障りがあるので,私が在職中に行ってきた期末試験等の採点を例にとろう.直感的に,私の採点には誤差があると思う(いや,ないはずはない).私は私なりに真面目に,時間をかけて採点していた.けれども,採点者は私だけであり,採点の信頼性の検証はできていない(された先生がおられるか).原則として採点は,問いに対するルーブリック(のような基準表)を作り,その基準に従って答案各問の回答内容を分類する.この分類は,例えば3段階であるとしよう.この3段階への分類も,私の内容分析の試行経験からすると,誤差がないとは思えない.さらに,3段階に分類しても,記述に応じて加点や減点をするけれども,その加点/減点の判断も確率的だろう.答案は私自身が見直すので独立した判断にはならない.人間の認知であるから「係留と調整」のメカニズムが働く.以前の判断結果を基準にして点数を調整するという見直ししかできないのが普通である.つまり以前の採点結果に引きずられることになり,独立した判断ではあり得ない.
 仮に複数の優秀なTAがいて,彼らに詳細な採点のルーブリックを示し,独立に採点させたらどうなるであろうか? それでも採点結果の一致はなかなか得られないと思う.
 不一致があることが問題ではない.問題はどの程度の不一致があるか,である.そこは判定者間の信頼性係数を算出する.その数値で評定がかけ離れていると分かれば,内容分析的には,この採点は使えないと判断するのである.評定結果の平均点や合計点を使えばよい,という話ではない.
 おそらく,数学の問題や英文解釈のように,「正解」がはっきりしている問題については,採点上の信頼性問題はあっても小さいだろう.だが試験には面接,小論文なども含む.これらの採点にどれほどの信頼性があるのか?

1回の入試の信頼性だけが問題ではない

 上記は1回の試験答案の採点の信頼性を問題にした.しかし入試の場合は,1回の試験の採点だけの問題でもないような気がする.
 例えば小論文試験で「理解力,論理的な考察力,記述力,表現力,主体性」の5点で評価する,と募集要項に書いていたとしよう(教養学部の例である).この場合,その5点について,採点の基準をルーブリックにすることになるだろう.この5点はある程度年度を越えて募集要項に記載されるだろうから,もし同じ受験者が受験すれば一貫したテストスコアがつかないとおかしい.ある年度の試験の高得点者は別の年度の問題でも高得点でなければおかしいのである(違うなら募集要項の記載を毎年変えないといけない).
 実は,複数回の試験に渡るスコアの信頼性は,センター試験(共通試験)ではある程度担保されている.センター試験では本試験の他に別問題で追試験をやるけれども,両者は原則同等と扱える.試験とは本来,そのようなものである.同じことが大学の個別入試問題,特に小論文や面接で担保されているか? 

 前に文科省が論述式問題の見送りを表明したとき,文科省(というより大学入試センター)はえらく真面目に検証を行った,という印象を私は抱いた.大学入試センターがあそこまでやるなら,各国立大学も,個別試験について上記のような検証を行ってもよいような気がする.

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オンライン授業の方が良くないか?

 今年度は当初から全国の大学でオンラインの授業が拡大した.この間,オンライン授業に対する学生・教員の評価がいろんなところから出ていた.私が見た限りでは,オンライン授業に致命的な欠点があるという話は見当たらない.総じて,オンラインの授業は良い,という結果になっているように思う.欠点として指摘されるのは友人ができない,課題がキツイ,といったことであるが,課題についてはきついのは結構ではないか? 利点としては移動に時間をとられない,といったことである.学生の満足度,学習時間,学習効果などの指標で,オンラインの授業は対面授業より劣っていない.
 つまりオンライン授業は思ったよりうまく稼働しているという印象を受ける.
 確かに実技系の課程では,対面授業でないとできないことが多いだろう.美術,音楽,体育などである.理系の多くも,同様の面があるかも知れない.
 ただ,座学中心の課程では,普通に授業をするよりもオンライン授業の方が良いのではないか,という気が私にはしている.埼玉大学でいえば,教養学部,経済学部,理学部(の特に数学科)などである.その他の学部も,時間的には座学が多いはずである.

 私の考えでは,オンライン授業が対面授業より優れるところは2つある.
 第1はオンライン授業が個々の学生に「特等席」を与えることである.
 教室内の着席位置と成績との関係については,欧米に昔から研究がある.簡単にいうと前方正面辺りに席を占める学生の成績が良いのである.その理由には2つの可能性がある.1つは,授業に意欲がある,ないし教員が好きな学生が教員の近くに席を占める,という可能性である.つまりできる学生が前の方に座る.原因は成績,結果は着席位置であり,そのため,できる学生が前の方にいるという相関関係が生まれる.2つ目は,学生が偶々教員の近くに席を占めることにより,教員の言うことがよく分かり,出来るようになる,という可能性である.この場合,着席位置が原因で成績が結果になる.私が読んだ文献だと,この2つの可能性はどちらもあるのである.
 一般に,学生の多くは教員から離れて着席する.教室は後ろの方から埋まって行く.この傾向は埼大教養学部でも,他大学で非常勤で授業を受け持った場合でも,所謂偏差値に関係なく妥当したように思う.遠くにいると,教員の姿や声が届く度合いも小さい.何を強調しているか,いつどんな表情でいるかも分かりにくい.
 ところが,オンライン授業では,個々の学生は一番良い席,かぶりつきの位置にいるようなものなのである.それなら教育効果は高いだろう.
 第2のオンライン授業の利点は,学生がひとりでいられることである.社会的促進/阻害の研究によれば,人は他者が傍にいると生理的な興奮があって,新たな事項の学習は阻害される.新しいことを学ぶときにはひとりでいた方がよいのである.文科省が「主体性」について,多様な人と協働して学ぶ,などということがナンセンスなのはそのためである.だから学習の効率はオンライン授業の方が高い可能性がある.

 特にこれまで大教室でやっていた授業は,オンラインにすることによって学習成果が上がるのではないだろうか? また,大教室授業とセットにすべき少人数での討論の機会も,TAをうまく使えれば,オンラインでやると良いのではないかと思う.

 オンライン授業を活用して,広い範囲に分散した多数の方々が聴講する授業を容易に構築できることも大きな可能性だろう.少人数による討論の機会を何とかすれば,これまで考えられなかった人数で講義を行うことも可能なはずである.そう考えると,大学という場所に限定されない教育機会を大学が提供する余地は大きくなるようになるように思える.
 結構なことではないか?

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教養学部における入試科目のポリティックス

 1つ前の記載で文科省の大学入試の仕切りがダメではないか,という趣旨の文章を書いた.他方で大学,部局は合理的に入試に対応したかというと,大学,部局によるだろう.私が属していた埼大教養学部について記憶を掘り起こすと,結構ドタバタしていた印象が浮かぶ.この件,有益な教訓を含む話ではないが,面白いので書いてみよう.

3つの時期

 私が教養学部に着任したのは1983年だった.だから記憶があるのは1983年からである.その1983年から現在までの間は学部入試の主たるやり方で3つに区分できる.まとめれば次のごとくである(配点については,私が持つメモの記載で分かる年度だけ書いた).

1.(少なくとも)1983年~1988年
 共通1次試験と個別試験
 個別試験は2教科:英語は必須,国語か数学の1教科選択
 配点 1986 共通1次 1000点 vs 個別 400点
    1987 共通1次 800点 vs 個別 400点
    1988 共通1次 900点 vs 個別 400点

2.1989年~1997年
 共通1次試験(1990年からセンター試験)と個別試験
 個別試験は「論文試験」
 配点 1989 共通1次 800点 vs 個別 600点
    1990 センター700点 vs 個別 500点
   その後 センター700点 vs 個別 300点

3.1998年以降
 前期日程 センター試験と個別試験,個別試験は「外国語(英語)」
      配点 センター 900点 vs 個別 300点
 後期日程 センター試験のみ (配点は?)
      2017年から センター試験と個別試験,個別試験は「小論文」
      配点 センター 1000点 vs 個別 200点

1.の時期(1988年まで)の経過

 この時期の教養学部の入試は国立文系の典型だったように思う.印象に過ぎないが,入学者数で見ると,個別での国語選択者は数学選択者の2~3倍だったろう.
 この時期,学部内の人文系の先生方はずっと,入学者に占める国語選択学生と数学選択学生の比率が気になっていたようである.教養学部の日本文化,中国文化の先生方は,国語の入試問題の作成にかかわっていたけれども,数学選択をする学生の入学を嫌がっておられた.入試の採点をする期間,途中で「数学試験の点数が高くなるようだ」という情報が入ると,国語の点数を高めにするように手配をしていたのを私は目にしていた.
 教授会でも「国語と数学の選択では,国語受験者が不利ではないか? 数学受験の学生の方が入りやすくなっているのではないか?」という意見をよく聞いた.本来データを調べて示すべきであるが,その頃はデータで示すという発想はなく,私はデータを見たことは一度もない.私は新任であるから「そんなことはデータを示してからいえよ」ともいえなかった.が,特に根拠がないままに「国語と数学の選択は不公平」ということが事実のように語られていた.
 ある先生は,「数学受験者の点数は国語より分散が高いだろう」と発言された.分散が高いから上位得点者の中で数学受験者が多くなる,ということだろう.むろんその発言にもデータが付いていなかったが,あり得る話だった.
 確かに学生の中に,「自分は共通1次の点が低かったので,(数学は得意ではないけれど)数学に賭けました」という成功談を語る者がいた.ただ「賭け」であるなら不公平ともいえない.失敗する確率も同じように高いのである.数学ができても賭けをしたくなければ国語を選んだろう.
 「国語と数学の選択は不公平」と仰る先生方は,個別試験から数学を外すように主張し始めた.この主張に対しては社会系から反論が出る.私も反論した.私の意見は,選択で不公平が生じるなら国語・数学・英語の3教科で入試をすればよい,である.私の意見に対しては,「入試の科目を増やす訳にはいかない」という主張があった(根拠は分からない).ともかく,長きにわたって数学を外すかどうかの押し問答が続いたのである.

 この時期を理解する上で重要なことの第1は,人文系(の中でも独・仏・中国コース)の先生方は学生の少なさを何とかしたかったことである.入試科目に数学があるから自分たちのところに学生が来ない,と思っておられたふしがある.
 ただ,おそらく,学生の寡多は入試科目とは関係なかったろう.
 あるとき,宮原先生(独文)が学生にコース志望についてアンケートをし,結果を教授会で報告されたことがある.そのアンケートとは,第1希望だけでなく第2(・3?)希望も聞いていた.披露された結果を私がメモで集計し直し,結果を黒板に書いて解説したことがある(出過ぎたまねを).要点は:
(1) 第1希望でも第2希望でも,人文系コースより社会系コースが多い.
(2) 社会系第1志望の学生は第2志望も社会系である.
(3) 人文系第1志望の学生は第2志望は主に社会系である.
 以上から,「どう転んでも社会系の学生が多くなる(仕方ないよ)」が結論である.おそらく,コースの受入れ学生数に上限を設けても,社会系コースにあぶれた学生は他の社会系コースに行くだけだったろう.

 重要なことの第2は,当時の教養学部教員の研究分野の分布が現在の教員の分布とは異なっていたことである.当時は「政策科学系」(大学院は政策科学研究科所属)の先生方(コースとしては「社会システム・コース」)が多かった.数えていないが,十数名から二十名くらいだったろう.政策科学のディシプリンは3本柱,政治学,経済学,数理科学(数理計画法など)である.経済学者はみな数理・計量をやり,政治学の先生も数学に強かった(というか,経済学をよくご存じだった).
 当時の学生の中には,「自分は文章を読んだりするのは嫌いだが,データをいじるのは好きだ」という学生がおり,そのような学生は政策系の先生に付くことが多かったように思う.私自身も,訳のかからぬ口先のレトリックに走るひねた学生より,データをいじるのが好きな学生の方が良かった.彼らの中には優秀な学生も多く,日銀に入ったり,京大の先生になった人もいた.
 当時の教養学部の研究分野の分布は,「教養学部」として理想的であったと今も私は思う.後に「文系原理主義」が台頭するのは,政策系の先生方がいなくなった後のことである.
 実はこの期間の後の方では政策系の教員が教養学部を出て政策科学研究科専属になる方向性が出てきた.その点が次の大きな地殻変動の下地になっただろうと思う.

2の時期:論文試験時代

 1989年から教養学部は個別試験を「論文試験」に切り替えた.論文試験とは,長めの文章を読ませて設問に回答させる試験である.「小論文」との違いは,読ませる文章が長いこと,試験時間も3時間ほどと長かったことである.
 実は個別試験を論文試験に切り替える経緯は私の記憶にあまりない.私は1986~1987年にかけての1年近く,在外研究で滞米していた.論文試験が1989年から開始とすれば,試験の概要は1987年には公表したと思う.だから私が帰国した時点では論文試験にすることの議論は既に終わり,論文試験が学部内のコンセンサスになっていたように思う.私は反対したけれど,反対してどうなる段階ではなかった.
 論文試験にすることの意味の第1は数学排除に成功したことだろう.これまでの個別試験を「国語」にするよりは,「論文試験」にした方が抵抗が少なかったのだろうと思う.
 意味の第2はより積極的なものであったかも知れない.論文試験を導入するときには教養学部内にある種の熱狂があったことを思い出す.およそ教員たる者の宿業は,自分と同じような人間を育てようとすることである.自分ができることは学生に求め,出来ないことは学生にも求めない.この点は進化の過程で自分のコピィをより増やす利己的遺伝子が繁殖することと似ている.(ちなみに,私の師匠筋の先生は,大学教授は教育で自己の劣化コピィを作ろうとする,だから本人よりバカが後を継ぐ,といっておられた.)教養学部の教員,特に人文系の教員は,難解な著作を読み込んで思索を巡らせ,最後に感想文(のようなもの)を書くことをもって研究とする.だから高校までで学ぶ科目より,まさに教養学部的な研究をすることの適性を,入試で直接求めようとしたような気がする.ある種の原理主義の台頭であったろう.
 ただ,この論文試験は,受験生にとっての国立大学受験の仕組みに反していた.受験生は基本的に,共通1次/センター試験の自分の点数を把握し,その点数で入れる可能性のあるレヴェルの大学を選ぶ.共通1次/センター試験の点数の高い学生は,個別試験を経ても自己の有利さを維持できる大学を選ぶ.だから第1に,個別試験が「論文試験」という前例のない科目名では,共通1次/センター試験の点数の良い学生にとっては不確実性が高過ぎるのである.また,埼大教養学部を受験するのに論文試験対策という,埼大教養学部受験でしか使えない対応を余儀なくされる.それでは埼大教養学部を避ける受験生が出て来るだろう.第2に,論文試験を始めた当初は個別試験である論文試験の配点が高過ぎた.これでは共通1次/センター試験の点数の高い学生は受験を避け,点数が低く一発逆転狙いの受験生を呼び込むことになるだろう.
 論文試験で受験生に読ませる文章は,当初は日本語の文章だった.が,後に英語の文章になったような気がするが,私の記憶ははっきりしない.また,論文試験への配点は後に低めに修正されることとなった.何れも反省したうえでの修正であったように思う.

3の時期:個別試験が英語になる

 1998年に教養学部は個別試験を論文試験から外国語(実質は英語)に切り替えた.切り替えのとりまとめをしたのは私である.正確にいえば,その頃,私と小川先生が交代で部内の委員長になり(当時,委員長は1年任期だった),重要事項を取りまとめた.大きな事項の第1は個別試験を外国語に切り替えたこと,第2はコース制から専修制に切り替えたことである.
 熱狂をもって開始した論文試験であったが,数年経つと疲れが出てきた.背景にあったのは高校卒業者数の減少である.教養学部の志願者数は落ちてきた.教養学部は規模が小さいので統計の数字は不安定であるが,志願倍率の落ち込みは学内の他学部や近隣県の国立大より大きかった.次第に,論文試験をやっている場合ではないのではないか,という意見が増えた.
 論文試験を止めるにあたって教授会でも議論した.論文試験支持派の反論もあった.が,論文試験にトドメを刺したのは奥本先生の発言であったように思う.「論文試験は立派な問題であり,どこに出しても恥ずかしくない.が,例えれば,立派な手術だったが患者は死んだ,である.この間に学生の質は落ちてきた.」この発言が全体の考えを要約していただろう.
 とりまとめのもう1つのポイントは,個別試験の配点を小さくすることだった.個別試験の配点が高ければ,受験者が同じでも,入学者のセンター試験の平均点は低くなる.(低くなる程度はセンター試験スコアと個別試験スコアの間の相関係数による.どれくらいの影響があるかも試算した.)私見では,入学者はセンター試験の点数が高い方がよい.センター試験は科目が多いので,数値としての信頼性(繰返し測定の一貫性)は相対的に高い.試験時間の少ない試験に大きな配点をするとスコアに占める誤差の比率は高くなる.また,入学者のセンター試験が高い方が,学部の偏差値も高く表示されるだろう.
 科目を絞るなら外国語(英語)しかないと考えた.論文試験で英語の文章を読ませていたので,英語への変更は抵抗が少なかった.また入試のスコアを分析すると,英語は他の科目の点数との相関が相対的に高い.英語ができれば,傾向としては数学や社会もできるのである.対して国語は独自の因子であり,国語ができても他の科目もできるという程度は低い.(あくまで私が担当した時点での分析であり,現時点でどうかは再度分析するのがよいだろう.)
 後期日程で個別試験は無しとした.その理由は個別試験の配点は小さい方が良いからである.

4.その後

 1998年に個別試験を変更して20年が経過している.その間,ほとんど無風状態だった.微修正はあっただろうが,内発的な入試の変更の企てはなかった.平和でよかったろう.入試に労力をかけるなら,その労力で授業の1つでも増やした方が教育にはプラスだと,私は思う.
 その間の大きな変更を1つ挙げるなら,2017年から後期日程で小論文を導入したことだろう.後期日程は個別試験をやっておらず,その点で文句をいわれる可能性はあったのであるが,私はできるだけ知らぬふりをして触れないことにしていた.しかし後期日程で志願者の(正式な表現は忘れたが)受諾率が低いことで外部的な指摘が出てしまった.合格させたのに入学しない受験者が多いのである.理由は単純で,個別試験をしていないから,他大学に決めた学生も「受験者」になってしまうからである.そのために,合格者数の決定でも不確実性を抱え込んでいたのである.だから後期受験者には大学に出てきてもらって,後期受験の意思を表示してもらう必要があった.
 私は面接をやって,受験生の顔を見て,同じ点数を付ければよいと内心は思っていた.その時は私は退職まじかな学部長であり,後期の個別試験のあり方については副学部長殿の調整に預けた.入試の委員会と協議し,面接ではなく小論文にするとの報告を受けた.面接をするより小論文の方が動員する教員数が少なくて済む,という判断理由を副学部長殿から伺った.その理由はその通りかも知れないが,教養学部の先生には論文試験をやった血脈があるから,論文試験に近いことやりたかったも知れないと私には思えた.が,配点も低く抑えてあるので問題はないかな,と思った.
 私が退職した後,私は埼大サイトで実際の小論文の問題を眺める機会があった.省力化を優先した問題だな,と苦笑した.問題がよいかどうかは,出題の年度による(暇だから後に論じるかも知れない).
 問題の見た目は実はどうでもよい.できれば,小論文の試験スコアと,センター試験の科目別スコアの相関を分析してみるとよい.小論文のスコアが多くの科目とマイルドな相関を示せば理想的である.特定科目のスコアとの相関が高過ぎるときは小論文に歪みがあるかも知れない.どの科目とも相関がないのも,また別の問題である.

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高大接続は間違っている

 6月にこのブログで「入試で主体性評価w」という記事を書いた.そのときは大学入試で主体性を評価するという話があまりに荒唐無稽に思えたのである.その思いは今も続いている.なにげに埼大の新しい入試要項を眺めたら,調査書や小論文なので主体性(など)を評価するという文言が頻出していた.えっ,どうやって評価するの?とまたも思ったものである.
 私は詳しくない分野のことなので何か書くのは気が引ける.が,私が思っている限りのことを書いてみたい.

1.「主体性」や「学力の3要素」の出現の仕方が胡散臭い

 私も経緯が分からないのであるが,知らぬ間に,「学力の3要素」なる言葉が出回っており,その3番目に「主体性(等)」が入ってきた.そのような用語法があることは私は在職中は知らなかった.
 その「学力の3要素」が何の話かとググってみると,学校教育法に行き当たる.次が同法の第三十条であるが,その2項が「学力の3要素」論の源泉らしい.

学校教育法
第三十条 小学校における教育は、前条に規定する目的を実現するために必要な程度において第二十一条各号に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
○2 前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。

上記の第三十条二項は小学校の規定である.が,第三十条二項は中学校に関する条文,高校に関する条文で「準用」と書いてあるので,小学校~高校に適用される.(むろん大学は適用外である.)
つまり,
(1) 知識と技能
(2) 思考力,判断力,表現力
(3) 主体的に学習に取り組む態度
の3つに,小学校~高校は意を用いなければならない,ということのなる.ただ学校教育法はこの3つを「学力の3要素」などとはいっていない.
 最近よくいわれる「主体性」は3番目の事項に対応しているのが分かる.しかし学校教育法では,「主体的に」は「取り組む」の修飾語に過ぎず,事項本体(被修飾語句)は「学習に取り組む態度」である.この学校教育法の記載内容は,もっともなことではある.

 次に学習指導要領である.学習指導要領も小学校~高校(など)の学校種別ごとに分かれているが,小学校~高校の箇所の総則部分で共通に,次のように書いてある.

…次に掲げることが偏りなく実現できるようにするものとする。
(1) 知識及び技能が習得されるようにすること。
(2) 思考力,判断力,表現力等を育成すること。
(3) 学びに向かう力,人間性等を涵養すること。

 学校教育法と学習指導要領に挙げられている留意すべき3事項は,内容はほぼ対応している.そして,両方の書き方を見る限り,反発したくなる内容ではない.「結構ですね」というべき内容である.

 ところがこの3事項が,入試改革,および高大連携の文科省文書になると,急に飛躍するのである.
 文科省サイトの「大学入学者選抜改革推進委託事業」の説明文(https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/senbatsu/1397824.htm)では,上記の3事項が「学力の3要素」と祭り上げられ,内容は次になる.
(1)知識・技能
(2)思考力・判断力・表現力等
(3)主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度

(1)と(2)は学校教育法などと同じと思うが,(3) が「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」となる.「主体性」まではよいが,なぜか「多様な」とか「協働して」が付加される.そして高大接続の文書(例えば https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2016/06/02/1369232_01_2.pdf)になると,(3)はさらに「主体性・多様性・協働性」と表現されてしまう.
 実は「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」にしても,中身の本体は「学ぶ態度」であり,「主体」・「多様」・「協働」は「学ぶ態度」の修飾語句であるのに,本体は消えて修飾語の3つが本体に入れ替わる.このやり方は見え透いた詐術である.

2.「学力の3要素」が分からない

2.1.主体性
 学力の3要素のうち,特に3番目(主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度)が私には分からない.
 学校教育法の「主体的に学習に取り組む態度」,学習指導要領の「学びに向かう力」は,おそらく,「学習への内発的動機づけ(intrinsic motivation)」を指すだろう.ある学科を学ぶ内発的動機づけが高いとは,その学科が好き,ということである.内発的動機づけが高ければ学習を好んで行いやすいから,学力は高まるのは理屈である.
 しかし「協働して学ぶ」とは何なのか? まず「協働」とは「複数の主体が、何らかの目標を共有し、ともに力を合わせて活動することをいう」(Wikipedia).実は「協働」は私の修論テーマだったので,長くてよければいろいろいえる.ただ,「共同」や「協同」とは異なり,「働」の字が入っているので,単なる Cooperation に Co-production のニュアンスが入ると考えるべきだろう.(cooperationは社会心理学的には「協力」.)基本は共通の目標を持って作業することである.
 協働でも共同でもよいが,人と一緒にグループで学ぶことと,競争しながら学ぶことを比較してどちらが成果があるかは,心理学の古い研究テーマである.どちらがよいとは一概にはいえない.特に,漢字や数学などの新しい事項を学ぶときは,人と一緒に学ぶことは効率が落ちる.子供に勉強部屋を持たせた方がよい所以である.確かに,セールスの仕方を学ぶなら先輩と一緒に店頭で協働するのがよいかも知れないが(学習移転があるから),小学校~高校の学びはほぼ座学であるから,人と協働して学ぶ意味があるとは一般的にはいえない.
 たぶん,「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」とは,「主体性を持って生きなさい,多様な人と交わりなさい,競争ではなく仲良く行きましょう」という複合的なことをいっているのだろう.だから「主体性・多様性・協働性」といういい方になる.ただ,それって,元来の「学習に取り組む態度」や「学びに向かう力」とはかけ離れている.私には,全体主義的な,個人の自由への介入に見える.

2.2.主体性の測定問題
 「主体性・多様性・協働性」を入試に使うことの問題は測定が操作的に解決されていない(おそらく解決しようがない)ことである.たとえば埼大の入試要項でも調査書を「主体性・多様性・協働性」の観点で総合的に評価しますという趣旨のことを書いてあるけれども,たぶん「調査書を総合的に見ますけれど合否判定には使いません」という意味だろうと私は思う.そんなことをわざわざ要項に書くのはどうかと思う(合否判断には使わないとはっきり書くのが正しい).
 仮に,例えば同点の受験者の中の一部を合格させる,という場合に,「主体性・多様性・協働性」で選ぶということはあるのかも知れない.が,その場合もどうするのか? 面接の印象で決めるなら「嘘をついたもの勝ち」の世界になる.
 調査書(ないしportfolio)の記載から点数化して比較できるようにすることを文科省(ないしその委託先)は考えていたように思う.Japan e-Portfolio の仕様を見ると,学校行事,生徒会・委員会,部活動,学校外活動,などを書くことを想定していたようである.ではそういうデータを得て,大学は活動歴記載数でも数えるのか? どの活動も同じなのはまずいから重みづけをするのか? コンクール入賞といって近所のコンクールでもショパンコンクールも同じか? 違うならどの評点を付けるのか? 団体活動はどの団体でも,例えば統一教会の布教(勧誘)活動でもよいのか? カウントすべき団体でのリストでも作るのか? いろいろ考えると面倒であるが,そもそもそんなもの数えて何になるのかが根本問題である.試しに数えてみて,カウントした指標に何の意味があるかをまず研究すべきだろう.

2.3.思考力問題
「学力の3要素」については,主体性等以外にも私には理解できない面がある.「(1) 知識・技能」と「(2) 思考力,判断力,表現力等」の関係である.私は当初,(1)と(2)は混在するものであり,例えば数学の(中級以上の)問題を解く場合も,知識も使うが,思考力を働かせて解くものだと思っていた.
 が,文科省の考えでは,数学の問題を解くような思考力は(1)に入れるのかも知れない,という疑問を感じ始めた.高大連携の文書には次のような表現があるからである.

・知識・技能を活用して、自ら課題を発見し、その解決に向けて探究し、成果等を表現するために必要な思考力・判断力・表現力等の能力(以下、「思考力・判断力・表現力等」という。)
・(2)それら((十分な知識・技能)を基盤にして答えが一つに定まらない問題に自ら解を見いだしていく思考力・判断力・表現力等の能力

 要するに大仰なことを考えているのである.例えば「ある種の環境問題」という課題を見つけて,理科(科学)の知識を使って解決を探求する,といったことを考えているかも知れない.それって,大学の工学部が研究教育することであるから,小中高校生に求めるのはそもそも無理である.
 「答えが一つに定まらない問題に自ら解を見いだしていく」というのも,意味が分からない.「自ら」という語がなぜあるかは置くとして,数学の問題でも答えが一意であるのは特殊な場合である.一意性の証明を定理として見出せれば立派な業績だろう.「答えが一つに定まらない」というけれども,解集合が空集合であったり2つ以上の解を含む場合でも,その解集合を指定できれば答えは出したことになるのである.「答えが一つに定まらない」とは,何を考えているのか? そもそも答えを出すような定式化をしていない場合を想定しているのではないか? それって,混乱しているだけの話である.

2.4.「学力」の拡張解釈
 学力の3要素という議論の別の疑問は,主体性等を「学力」に含めて論じている点である.3要素まとめて「学力」と呼ぶために(1)を「基礎学力」と呼ぶのが,高大連携から派生した文科省用語であるようなのだ.主体性等も「学力」なのだから大学も重視せよ,というのは文科省側のメッセージだろう.
 もう一つの見え透いた詐術である.常識的には,主体性等は学力を規定する要因の1つではあろうが,学力そのものではない.定義は自由であるが,世間の用法とは異なる.
 学力とは何かを概念的にいうなら,いろんな人がいろんな定義をしているから,決着のしようがない.学力は操作的に定義するしかない,と私は思う.すなわち,学力のテストと社会的に合意された試験で示された受験者のアウトプット=成績(ないし成績を出す能力)ということだろう.重要なのは学力はアウトプットであることである.一方,主体性等はそのアウトプットのためのインプットの1つである.学力はいろんな要因(インプット)で規定されるだろうが,学力そのものはアウトプットで測るしかない.運動能力にはいろんなメソッドが貢献するだろうが,運動能力自体はアウトプットで測るしかないのと同じである.
 学力を規定する要因として想定されるのは主に次だろう.第1は知能(正確には数的推論,文章理解,音楽能力,などの下位知能に分かれる).第2は体力(病弱では学力は高めにくい).第3は勤勉さ(Work Habitsといってよい).第4は学習への内発的動機づけ.主体性などはその第4相当だろう.そして,もし主体性等を学力に含めるなら,第1~第3も学力に含めないと変である.
 主体性などと分からぬことをいうのではなく,学習への内発的動機づけというのが社会的にも正しいと私は思う.生徒/学生の主体性を高めろと言われても教師は戸惑う.しかし内発的動機づけを高めることには教師は実際に,日々,意を使っている.内発的動機づけが高いとは,学科の中身を面白いと思うことであり,学科の魅力を伝える努力を教師は必ずしているからである.

2.5.議論の混乱
 上記を一言でまとめるなら,学力の3要素論は,文科省の担当官の脳内混乱が生み出した誇大な妄想のように思えるのである.

3.高大接続は間違っている

 高大接続と称して大学の入試方法を文科省が規制するのは間違いだと私は思う.

3.1.大学が従う筋がない
 文科省が大学の入試方法を規制する根拠は,入試方法が法律上ないし社会通念上不正である場合を除いて,ないだろう.
 まず学校教育の上で,大学は小中高校とは別規定である.第三十条二項は大学では準用ではない.小中高校のように「学科及び教育課程に関する事項は、…、文部科学大臣が定める。」という規定はない.第三十条二項から派生する主体性等は,必要だとしても高校までで完了して生徒が習得している(から卒業できた)はずであり,大学は新たな学びをする建前である.大学は自らの教育課程の内容を前提に,アドミッションポリシーを定めて入試を行うだけのことである.高校以下の教育内容に合わせて大学が入試をしなければならないというはないだろう.人材を送り込みたい企業に対し,大学の教育の観点はこれこれなのでその観点で採用してくれ,と大学がいうようなものである.「ふざけるな」になるだろう.
 多くの大学は高校までの教育に範囲を絞って入試問題を出題しているのは確かである.しかしこの点は学生を確保するための合理的な判断の結果である.そうでないと,上位の大学を除けば,志願者を確保できない.ただ,上位の大学(現実には東大と京大)なら,高校の授業の範囲以外で出題することも原則ありではないか.

3.2.新手のゆとり教育
 文科省は最近,新手のゆとり教育を始めているように私には見える.新たな授業の方法と称する試みはゆとり教育の継続版になるだろう.特に思考力で「答えが一つに定まらない問題に自ら解を見いだしていく」などといい出すと,当事者では答えの見つからない問題を取り上げて,とりとめもなく雑談をすることになる可能性が高い.実は同じようなことは大学でも文系の中の,特に暇な分野ではやっていそうに思う.しかし,例えば経済学のように答えを出せる演習課題を用意できる分野なら,そんな無駄なことをする必要もないだろう.理系も同様ではないか?
 ゆとり自体が悪い訳ではない.しかしゆとりや「主体性」などといって確実に知識を習得する努力が薄まるなら,かつてのゆとり教育の二の舞になるだろう.科学技術立国で行くしかない日本にとっては痛手になる.
 以前書いたことだが,私は教養学部で「ゲーム理論」の授業を持っていたとき,小学生時代からゆとり教育だった学生の世代になると急に,四則演算等の,それまでになかった間違いをする学生が増えたことが忘れられない.また解を出すのに解き方だけを暗記する学生が増え,そのために解が出せないという例も目立った.それ以前にはないことだった.日本はもともとガリ勉が少ないのであるから,ゆとり教育に走るのは止めた方がよい,と思う.
 一連の文科省の動きは,高橋洋一がいう「文系バカが日本をダメにする」例のように思えるのである.

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見どころがあった北大総長選考

 昨日(2020/9/2)に北大で総長選考会議があったらしく,その結果,意向投票で1位の候補者が順当に次期総長と決まった.前総長の解任という出来事があったため,やじ馬に過ぎぬ私にも若干の興味があった.
 しかし私には実に意外な結果だった.やはり大学の内部にいないと分からぬことが多いのだな,と思った.
 一昨日(9/1),気になって,久しぶりに北大職組サイトを眺めた.総長選考の意向投票の結果が出たようだった.リンクのあった北海道新聞の記事を眺めたら,意向投票の票数まで載っていた.結果は私には意外だった.
 候補者は3人おり,意向投票の票数の順位で1位候補者,2位候補者,3位候補者と呼んでおこう.名和前総長の解任を主導し,現総長代行である方が当然1位であると私は思った.が,総長代行殿は最下位の3位だったのである.
 総長選考会議での経過は北大サイトに出ていた.会議で合意ができなかったので選考委員が投票したという.1位候補者が6票,2位と3位の候補者がそれぞれ2票という.現総長代行殿は2票だった.この結果も私の予想とはまったく違った.

 私が予想したのは次のごとくだった.第1に,総長代行殿は意向投票でかなりの票をとるだろう.実質的に総長だったのだから,現職に近い強みがある.また,前総長の解任を全理事と進めた訳だから,その理事の方々は少なくとも出身部局の票固めはするだろう.そこに事務局票が入るのだから,かなりの票はかたいと思ったのである.
 ところが票を取れなかった.あの票だと,出身部局の票固めもできていなかったように思うし,事務局票も固められなかったかも知れない.票固めができなかったということは,動く人があまりいなかったということである.それだけ,前総長解任の件かその他の何かで,支持が得られていなかったのかも知れない.
 票が取れなくても,総長代行殿を選考委員会が選ぶという筋はあり得ると考えていた.総長選考会議は,前総長解任を推進した訳だから,総長代行を次期総長に選びたいだろう.仮に別の総長のもとで解任の件を調査する流れになると困るはずだ.だから,意向投票の結果にかかわらず,選考会議は総長代行で決める,それで終わり,と私は予想していた.投票結果と異なる候補者を選考会議が選ぶことはよくある.
 埼玉大学で,ある学長さんを選んだとき,その学長さんの得票数はぶっちぎりで1位だった.しかしそれでも,1位の候補を選ぶか,3位の現職を選ぶかで,選考会議は長々と押し問答を続けたのである.現職を推す外部委員側と教員側が同数で分かれ,最後は外部委員側のお一人が折れた.教員側は「教員の仁義」を守り,別の候補を推していた委員も選考会議では投票結果にしたがった.しかし展開によっては3位の現職が選ばれたかも知れなかった.
 ただ,まっさらな総長選考で3位候補者を選ぶことはあり得るが,いろいろあった後で,この意向投票結果で,選考会議が3位候補者を選ぶ度胸があるか,という疑問もあった.露骨にいうと,投票で下位の候補者を学長に選ぶのは,どちらかというと下位の大学である.票数が少ないのに特殊事情で選ばれました,という総長では,学内外で人に会うのも難しいだろう.だからどうするかな,と私は思っていたのである.北大は,旧帝大としては崖っぷちかも知れないが,それでも日本の国立大学システムの上位にある.だから意向投票の結果に大きく外れることはしない可能性もあると思った.
 意地悪く言うと,どうするか見ものと思っていた.
 実際に起こったことは,常識的に意向投票1位の候補者を選んだ,ということである.このことによって北大は面子を保てたというべきだろう.それ以外の結果だと惨めだったかも知れない.

 私は元来,教職員の意向投票には懐疑的な意見を持っている.極論すれば,教職員の投票で学長を決めるのは,市役所職員の投票で市長を決めるようなものだからである.ただ,今回の北大の件を見ると,意向投票はちゃんとやった方がよいのかな,と思える.選考会議での票の分布は,意向投票結果があって出たものだろう.
 かなり前,上井学長の下で長く理事をされていた加藤先生と選挙について雑談したことがある.加藤先生も私も「選挙なんて下らないよね」という考えで一致していた.しかし加藤先生が最後に仰ったのは,「しかし選挙がないと革命が起こせないね」という言葉だった.「革命」とは,文字通りの革命ではなく,執行部が間違ったときにケリをつける方法のことである.選挙という正当化の手段がないと,変なことにケリを付けたくても付けられない.そのときは私も「そうですね」と応じた.

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大学入試を巡るこの1年のゴタゴタ

 この1年間,大学入試を巡って少なくとも3つのゴタゴタのような出来事があった.昨年の9月に萩生田文科大臣が就任するのであるが,第1に,就任当日から記者会見では英語民間試験の導入についての質問が出ていた.そして,萩生田大臣が共通試験での英語民間試験導入の延期を表明したのは11月1日である.第2に,12月17日にはセンター試験での記述式問題の導入見送りを同大臣は表明した.第3に,上2者ほどは目立たないニュースだったが,入試での「主体性」の評価に使うと思われていたe-portfolio を扱う教育情報管理機構の運営許可取り消しの方向が今年の7月末に萩生田大臣から表明された(審査結果が出たのは8月7日付).
 この3件のうち3番目の「教育情報管理機構」の件の含みがよく分からなかったので,私は気まぐれで文科省サイトの大臣記者会見の記録を眺めた.ついでに英語民間試験と記述式問題についても大臣記者会見のやりとりを見てみた.眺める過程で思ったのは,これら3つの件は単なる不手際の話ではなく,より本質的な問題の表れと思えたことである.
 より本質的な問題とは,大学入試にかかわる大きな企画を文科省が仕切ることはもはやできないだろう,という点である.
 以下,問題の3件について軽く触れてみる.

英語民間試験導入の延期

 俗に英語民間試験の導入延期というが,正確には,延期したのは「大学入試英語成績提供システム」の導入である.
 まず大臣の就任直後の記者会見(2019.9.11)でも,英語民間試験の問題は記者から質問が出ている.しかしこの段階では萩生田大臣は事情も分からなかったろう.前任の大臣から引き継いだことなので,スケジュール通りにやるつもりとしかいっていない.しかし英語民間試験の件は記者会見ごとに質問が出ており,そのたびごとにこの件に関する検討作業が進んでいることが読み取れる.
 萩生田文科相が英語民間試験の導入延期を発表したのは11月1日の記者会見である.(https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1422393.htm)「現時点において、経済的な状況や居住している地域に関わらず、等しく安心して試験を受けるられるような配慮など、文部科学大臣として、自信をもって受験生の皆さんにお薦めできるシステムにはなっていない」というのが延期の理由だった.
記者からはいろんな質問が出たけれど,特に次のやり取りが面白い.

記者:…導入に向けた議論が不十分だったのか、それとも導入が決まってからの手続きが不十分だったのか、どこに問題があるというふうにお考えでしょうか。
大臣:いずれも問題があったと私は申し上げざる得ないと思います。…試験が自分の県のどこで、いつ、どの会場で行われるかを、…確定することはできない、こういう状況にありましたので…

 大臣が理由としたのは主に調整の遅れである.「文部科学省と大学入試センターを通じて民間試験の実施団体との連携・調整が十分できなかった」ことである.その点は,作業主体の範囲が拡大し従来の組織では対応できなかったことを意味する.
 と同時に,延期は前任の大臣でも判断できた,判断すべきだった,かも知れない.萩生田大臣が就任したのは9月11日であり,延期の公表までの期間は就任後2か月に足らない.

記述式問題の導入の見送り

 萩生田文科大臣が共通試験での記述式問題の導入見送り(延期ではない)を表明したのは12月17日(2019年)での記者会見においてである(https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1423073_00001.htm).記述式の件を巡っては,記者会見においてその1か月前くらいから質疑が続いていた.なお,12/17の会見での大臣発言については,文科省が別ファイルを用意して,正確な伝達をしようとしている(https://www.mext.go.jp/content/20191217-mxt_kouhou01-000003280_2.pdf).
 導入見送りの判断の理由は,簡単にいうと次の3つである.
1) 実際の採点体制を現時点で明示できない.
2) 採点ミスをゼロにはできない.
3) 自己採点と実際の採点との不一致を格段に改善することは難しい.

 特に3)については,不安な受験者からの問合せに対応せざるを得ないという問題がある.会見では「これは多分多くの皆さんが問い合わせをしてくるということになるんだと思います。そうすると現実問題として、これ、システムとしては対応がしきれないということを判断をしたのが一番の要因です。」
 この3つを理由に挙げたということは,文科省,というより大学入試センターがかなり真面目に検証したということであるように思う.評価してよいと思う.
 実はこの3点はクリアできなくても仕方ない,と私は思う.1)については,採点者になる方の都合を考えると,早めに決める訳にも行かないだろう.また2)と3)については,かなり厳密な数値基準を適用した結果であり,その基準をクリアすることは現実問題としてまず無理だと私は思う.例えば,各大学が個別試験で課す記述式問題に同じ基準を適用すれば,たぶんクリアしない.しかし,各大学は批判を受けなくても,受験者規模の大きいセンター試験(共通試験)では批判にさらされるという現実がある.

 英語民間試験と記述式問題に関して文科省が犯した誤りは何であったか? 挙げれば切りがないかもしれないが,私の念頭にのぼる第1は,上記で引用した検討を早めに行わなかったことである.もっと早い段階で延期/見送りを判断してよかった.
 より大きな第2の誤りは,英語民間試験にせよ論述式問題にせよ,導入するなら各大学の個別試験で導入することにしなかったことである.センター試験(共通試験)は受験者数が多数になるから,処理するのが無理なのである.
 例えば,数学Ⅲは,(少なくとも国立の)理系では必須であるにもかかわらず,センター試験には数学Ⅲがない.数学Ⅲは個別試験に回している.なら英語の Speaking と Writing は必要なら個別試験で課す,でもよいはずだ.また論述式は普通に個別試験に入っているから,わざわざ実施困難な共通試験で導入する必要は初めからなかった.

教育情報管理機構の「JAPAN e-Portfolio」の運営許可取り消し

 この件は上記の延期/見送りに比べて世間に認知されていない地味な話である.ただ文科省の手際を評価する上ではより直接的な事例のように思える.
 教育情報管理機構とは,2019年4月から稼働し始めた一般社団法人であり,入試における主体性評価のための「JAPAN e-Portfolio」を運営することを目的としていた.正確には,2021年4月からスタートする本格的な機関へのつなぎの性格を持っていたようである.同機構のサイトを見ると,以下が役員である.

会長 山崎 光悦(金沢大学学長)
副会長 永田 恭介(筑波大学学長)
常務理事 村田 治(関西学院大学学長)
理事 上野 淳(東京都立大学学長)
理事 郡 健二郎(名古屋市立大学学長)
理事 田中 愛治(早稲田大学総長)
監事 松岡 敬(同志社大学教授)

この顔ぶれを見ても,文科省が手配したことがすぐわかる.
 時系列的にいえば,以前より入試改革のため,いくつかの大学が参加する文科省の委託事業が続いていた.その委託事業の過程で,入試での主体性評価に関する報告書(2017.5.30付)が出て,その報告書の中で e-Portfplio の使用が示唆された(https://www.mext.go.jp/content/1397824_005_01.pdf).そして2018年度には委託事業の中で「JAPAN e-Portfolio」が稼働し始めたという.その際の参画大学は113大学,ポートフォリオを利用する生徒数は約20万人,ということだった.
 この「JAPAN e-Portfolio」を運用する団体として上記の一般社団法人教育情報管理機構が,2019年の4月から発足した.
 しかしこの機構が事業を継続するには最初から条件が付されていたのである.条件とは,かいつまんでいうと,第1に債務超過でないこと,第2に「情報銀行」(ないし同等)の認定を受けることだった.情報銀行とは経産省のフレームによる制度であり,個人情報を扱う業者にセキュリティ上の要件を課す仕組みである(https://www.meti.go.jp/press/2019/10/20191008003/20191008003-3.pdf).しかし同機構は発足初年から債務超過に陥った.債務超過になると情報銀行にも認定されない.
 以上の成り行きの中で予定通り同機構への査定が入り,継続条件を満たしていないために自動的に運営許可取り消しになったという,単純といえば単純な経緯である.
 まず今年2020年7月30日の文科大臣の記者会見で,教育情報管理機構の「JAPAN e-Portfolio」の運営許可を取り消す方向で調整する旨のアナウンスがあった(https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/mext_00081.html).正式な書類が出たのは8月7日である.

 問題はなぜ同機構がいきなり債務超過になったかだろう.
 その点については文科省も同機構も同じようなことをいっている.むろん機構の方が文科省への恨みがあると感じる文面である.

文科省の説明 https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/senbatsu/1413458.htm
教育情報管理機構の説明 https://eimo.or.jp/

 要するに,同機構が2019年に発足するにあたって,委託事業の時に獲得した113大学,生徒数20万の契約をそのまま機構に移管することを文科省は拒んだ.法令上,文科省の名で得た契約を,非営利とはいえ民間団体に引き継がせることはできなかったのかも知れない.また,同機構への加盟を促す動きを文科省は取らなかった.役所である文科省が民間団体のための動くことはできなかった,ということかも知れない.法令の解釈では文科省は誤ることはないだろう.

 つまり,文科省の要請で教育情報管理機構を発足させたにもかかわらず,法令上の適否は別にして,文科省が特段の支援活動を行わなかったために同機構は活動停止になった,といえる.しかし,ここで生じた債務は,誰の責任でどうするんだろうか?
 文科省が委託事業で得た契約を同機構に引き継がせなかったことだけが原因かというと,そうでもないと私は思う.
 同機構サイトにある2019年度の決算書を見ると,同機構は参加する大学数を300と見込んでいる.委託事業時で参加大学は113であるから,委託事業のときより飛躍的に参加大学が増えることを見込んでいたのである.また参加する生徒(高校)については,実際は25校だったが,200校を見込んでいたのである.それだけの参加があって少し黒字が出る,という皮算用だった.だから,委託事業時の契約をそのまま引き継いだとしても債務超過になるのは同じだったろう.同機構のPortfolioが有意義だという観測が急速に広まらない限り(実際は逆だろうと思うが),もともとうまく行かない計画だったように私は思う.
 決算書を見て私が気になったのは,支出に人件費が入っていないことである.上記の役員様方が実働をする訳ないから,実働はどうしたのだろうか? 委託事業費で年間440万円を計上しているが,その金額だと週二十数時間働く派遣社員を,秘書兼受付とかで,2人雇える程度ではないか? 委託業務としてどこかの組織に委託したのかも知れないが,その金額でできることはほとんどないように思える.実働がない組織だったのではないか? (システム運用費で1億1千万円を計上しているので,システム運用の実働は別にやってもらっていたろうと思う.)

 この件について文科省のどこがおかしかったかは明らかである.「学力の三要素」などと「主体性」を持ち上げておきながら,その概念も測定方法も詰めずに入試に持ち込もうとした.苦し紛れにポートフォリオで内申書(調査書)の記載のような情報を集めるという,笑い話のようなことを考えたけれども,大学が引いているのも気づかずに甘い見込みで教育情報管理機構を先走って作ってしまった.同機構サイトの記載を見ると,このポートフォリオはしごく単純なデータベースであり,どこの大学でも使っている成績処理システム程度のものである.だから先行的に稼働させて実験してみる必要があるほどの代物ではない.
 このポートフォリオについては,萩生田文科大臣自身が2月の記者会見で疑問を述べているのが面白い.

2020.02.07 文科相会見(https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/mext_00031.html)
大臣:主体性を評価することは大事なんですけど、そもそもこのPortfolio、どのくらい利用されているのか、どういう評価として使っているのかが非常に不明な点がございますので、公開の場で一回、しっかり高校や大学の関係者の皆さんともう一回話し合いをしてみようと思っているんです。といいますのは、結局、このデータ化をしても、高校は、調査書は手書きあるいはパソコンで打ったものを大学入試のときに各学校、担任の先生が作っているわけですよね。それと学校によっては二重の手間になってしまっている可能性もありますので、こういうのも含めて、いい機会ですから、しっかり見直していきたいと思います。

2020.02.21 文科相会見(https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/mext_00035.html)
大臣:そういう意味では、当初描いてきたJAPAN e-Portfolioのような電子化っていうのは、本当に有効性があるのかなというのは、ちょっと私、大臣就任以来疑問に思っていましたので、是非、だからといって止めるということではないんですけど、是非、今日から始まる会議体の中で、どうしたら評価しやすいのか、さっき申し上げたようなことを是非、皆さんで話合いをしてもらいたいなと思っていますので、その議論の行方をしばらく見守りたいと思います。

文科省は大学入試を仕切れない

 ここまでの事例は,文科省が全国規模で大学入試を仕切ることが困難であることを示している,と私は思う.
 第1に,現実に照らした判断力がない.判断力があれば英語民間試験をセンター試験(共通試験)で一律に導入するのが無理であることは,早い段階で,机上でも分かるだろう.記述式問題は個別試験に回せばよいと早めに判断すべきだったろう.「主体性」を評価に使うことの是非は別にして,ポートフォリオが広く入試で使われるという判断はすべきではなかったろう.
 第2は,作業の範囲が子飼いの大学入試センター,(国立を中心とした)各大学の範囲を超える場合は,作業の手配がトロいことである.文科省はもともと審査や審議をする組織であり,実働は仕切れない.その点は他の省庁も同じと思う.
 第3は,作業の仕切りを実効的に行う法的基盤が実はないことである.例えばポートフォリオを持ち出したとしても,そこに加盟することを文科省は強制できない.国立大学は国費をもらっているとはいえ,政府から独立した法人格を持ち,入試は各大学がアドミッションポリシーを設定して大学の判断で実施するのが建前である.私大はさらに,政府に従属する法的根拠がない.文科省が実効性を担保できないが故に,各大学も文科省の提案に乗るのは見合わせがちになる.文科省は,もともと大学を直接指揮する立場にはない,ということである.
 各大学は他大学の反応を予測しながら独自の判断をするというゲーム的な状況が続くことになるように思う.

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北大総長解任劇は何が妄想を掻き立てるのか?

 今月8/4付で私はこのブログで「北大総長解任劇を見て笑うべきか泣くべきか?」という記事を書いた.この記事はこのブログとしてはアクセスが多かった.多少は北海道からのアクセスがあったが,大多数は東京からのアクセスである.
 気を良くしたから,という訳でもないが,追加で記事を書いてみる.よく分からない点が多いために,いろいろ妄想を掻き立てられる面がある,というのがポイントである.
 なお,先日の記事を書いた時点では,北大職組が7/31期限で大学側(理事・学長選考会議・顧問弁護士・事務局)に回答を求めていた質問への回答は北大職組サイトにはなかったと思う.今見てみるとその回答が掲載されていた.回答は若干の新「事実」を含むものの,大勢では以前と変わらない,と思う.調査委員会が前総長への聴聞をしなかった理由も,前総長の辞任願を受理しなかった理由も,事実上不明のままである.

この解任は北大の総長選考を「非民主的」にした

 この点は前回の記事では書かなかったが,今回の総長解任劇は北大における総長選考の性格を変える結果をもたらしたというのが笑える展開だった.
 北大はこれまで,教職員の意向投票に従って総長を選んできたようだ.2016年の12月の日経の記事(名和氏の意向投票「勝利」の記事)では,これまで北大では意向投票の通りに総長が決まっていたと書いてあった.その記事をここでは信じておこう.そのために意向投票は1回とは決まっていなかった.想像であるが,1人の候補者が過半数の票を獲得するまで投票を繰り返した,ということかも知れない.この方式は古典的である.昔は国立大学はみなこの方式だったが,今はこのような古典的な,よくいえば「民主的な」投票を行う大学は少数派だろう.その意向投票が,今回の解任劇と並行して1回限りとなったということは,学長選考の性格が大きく変わったことを意味する.意向投票では決めない,と宣言したに等しい.実際,意向投票で1位でない候補者が選ばれることは,今の国立大学でよくあることなのである.
 私は学長選考を教職員の投票で決めることが特に望ましいとは思っていない.このブログの過去の記事でも書いてきたことである.むろん投票で決めて悪いとも思わない.まあ,どちらも「あり」だろう,と考えている.ただ組合は,どこの大学でも「民主的に決めろ」という.だから学長選考が非民主的になることに北大職組が懸念を示すことは,組合として当然の反応と理解する.
 しかし,今回の総長選考方式の変更は仕方ない程度の内容と思う.多くの地方国立大学が従っている方式に並んだに過ぎない.
 意向投票を1回やるとして,得票数の順位を教職員に知らせるけれども,票数は知らせない,という方式が一番多いような気がする.しかし票数は普通,漏れる.下から漏れることもあるし,上がリークすることもある.何れもご愛敬である.
 なぜ総長選考の方式が変わったかというと,私の想像では,誰かが陰謀を巡らした結果というより,もっと下らない理由だろう.今回の学長解任については,大学側は早い段階で文科省に「相談」(どういうステータスの相談かはともかく)をしていたと考えるのが普通だろう.そしてこの解任は,「投票で選んだ結果が失敗でした」という建前の相談である.その相談の何れかの過程で,文科省の係官から「これからの総長選考はどうするんですか?」くらいのことは聞かれて不思議はない.このとき,文科省から具体的にこうしろという指示があった,と妄想することもできようが,明示的な指示はなかったという方が尤もらしいように私は思う.明示的な指示はなかったものの,選考方式を変えろというのが文科省の意向であると忖度した大学側が,急遽変えたのだろう.
 今回の変更の案は選考委員会にかかったとすれば,現案を作ったのは事務局のはずである.埼玉大学も同様であるが,選考委員会には案を作る能力はない(あるいは,誰もそれだけの労力は払わない).事務局に他意はなく,他大学の例と同じような「たたき台」を作り,そのたたき台通りに選考会議が決めたのではないか? 教員代表も入った選考会議でそのように決めたのであれば,北大の民度もその程度であったと笑って納得すべきだろう.

私の妄想を掻き立てるいくつかのポイント

 北大の総長解任劇は理解しにくい要素がいろいろある.1つには正確な情報が出ていないことによる.むろん部外者の私が正確な情報を得るべき筋はないから,文句をいうべきことではない.しかし2つ目に,この辺が常識だろうと私が思う線から逸れている事柄が多いような気がする.だからなぜなんだろうと思いめぐらし,妄想に発展する面がある.
 後学のためになどと尤もらしいことはいわぬ.ただ単に面白いので,私がどんな妄想を抱いたかを書いてみたい.あくまで情報がないための妄想であり,真実と主張する訳でない点は注意して頂きたい.

1) 北大の事務方はお坊ちゃま/お嬢ちゃまの集団か?

 名和氏の総長解任事由とされた点が28ある.詳細は分からぬが,その項目を眺めながらツッコミをいれたくなることが少なくなかった.

 例えば航空会社のカウンターで名和氏がみっともないことをした,という指摘があった.その指摘を見たとき私に浮かんだのは「そのとき秘書は何をしていたのか?」である.
 総長が何か交渉をしようとしたなら,秘書は割って入って自分がやるといわなければならない.秘書が同行していなかったなら,同行した事務方が秘書役をするのが当然である.総長にそんなことをさせてはいけない.たぶん北大事務方が目撃していたのだと思うが,黙って見ていたのだろうか? 北大の事務方は殿様なのか?
 埼玉大学でいうなら,法人化直前に兵藤先生という学長がおられた.この方は明るく陽気な方で,私が好きな学長だった.酒が入るとやはり明るく陽気で結構なのだが,陽気すぎて迷惑と思う方もいたかも知れない.だから秘書課長の今井さんが何とかしたのである.兵藤先生は大兵であったが,今井さんも腕力があるから何とかしただろう.それが例えば,酒が入って失敗するような場面があって,それを黙って傍で見ているなんてことは,埼大の職員ならしない.まして後になって「学長はこんなひどいことをして大学の名誉を傷つけました」などと密告するとは,考えられない.

 名和氏が「なぜ迎えに来ない」といって怒った,という話もあった.似たような話かなと思った.どこかに訪問するのに,エレベータの前とかどっち側のロビーとか東の改札前とかで会う,といった約束をすることはある.もし予定した時間に来るべき人が現れなければ,私なら可能性のある場所に自分が行くか誰かを行かせるかして確認をする(自分1人しかいない場合は別).相手が目上でも目下でも同じである.なぜなら,段取りなどはいくらでも記憶違いがあるからである.名和氏の例でいうと,名和氏が現れない状況で,北大の皆さんは何もしないで待っていたのだろうか? 総長が一番重要なのだから,総長をこちらから探しに行くのは当たり前である.
 なんか,北大の事務局の方は,自分がすんげぇー偉いと思っているんじゃない?

 指摘事項で多かったのが,何かの件で名和氏が理不尽に叱責する,といった話である.例えば日本ハムの球場の件.
 ただ,業務の手順,手際について総長は正当に文句をいえる立場にある.業務のすべてに権限を持つのは学長(総長)であり,学長の指示に従うのが法人法の基本である.埼大の田隅学長は叱責を「指導」といっていた.
 私は田隅学長時代にある件について人事課長と口論をしたことがある.そのときの人事課長殿の言によれば,文書になっていなくても学長から口頭で指示があれば業務命令になるとのことだった.その言にしたがえば,業務に関しては,学長から口頭ででも指示がどこかにあれば,学長の「指導」に従うしかない.だから名和総長の「叱責」が非違行為に当たるというのが,私には分かりにくい.よほどの人格攻撃を含む場合は該当するかもしれないが,問題が名和氏の人格に起因するというのであれば,(社会心理学の帰属理論的にいうと)総長になる前の工学院長時代や,秩父セメントに務めていたときから,同様の観測が得られていたはずだろう.また,職員や役員だけでなく,教員ともトラブルを抱えていないとおかしい.
 むろん,その「現場」を見ていない私には結論は出せない.
 とはいいながら,帰属理論的にいうと,名和氏のトラブルの相手が主に職員だったことから推論するなら,原因を事務局の職員さんに帰属するのも1つの自然な推論なのである.
 ここで私の妄想が始まる.

 法人化前のことであるが,気の弱い私には珍しくある件である女子学生に私は怒った.しかしその学生は逆切れし,「親からも怒られたことはないのに,私を怒るなんて」というのである.驚いた.「そりゃ,あんたの親がおかしいんだよ」といいたかったが,むろん口にはしなかった.後日その件を誰かに話したら,それってガンダムのアムロの台詞だね,と教えてくれた.アムロの台詞とは,今ネットで探すと次である.
 「ぶったね…」
 「二度もぶった…!!」
 「親父にもぶたれたことないのに!!!」
(この後に「誰が二度とガンダムなんかに乗ってやるもんか」になる.)
私がこの件でしみじみ思ったのは,最近の子供は親から怒られたことがないんだ,ということだった.私も親から怒られた記憶は少ないが,小中学校の教師からはずいぶんとぶたれた.
 考えてみると,今の中堅の職員さんの年齢は,ちょうど上記の女子学生と同じくらいではないか? だからそういう時代になっているのかも知れない.親からも先生からも怒られたことがない.下手に叱責すると,特に文科省から出向しているお役人の場合,
 「叱責したね.2度も叱責したね.文科大臣からも叱責されたことがないのに.リークしてやる.」
 という流れになってしまうのではないか?
 まあ,文科大臣は文科省の役人を叱責できないでしょうね.怖くて.下手に叱責すると変なメモを作って朝日新聞にリークしそうですよね.

2) 北大にはDeep Stateがあるのか?

 北大総長解任の経過を眺めながら私が思ったことの1つは,名和氏は役員や事務方の上層に身内の人がはじめからいなかったのではないか,という点である.その点が不思議でならない.
 埼玉大学の場合,役員は原則,新学長が選ぶ.慣例的に筆頭理事は研究担当理事であるが,法人化以来,学長選考で最も功のあった人(通常は部局長)が研究担当理事になってきた.また事務の上層にも学長に近い人が就任することがある.事務局長が気を利かせるのだろう.身びいきの人事に見えるかも知れないが,それでよいのである.そうしないと学長は身動きができない.そうでないと,むしろ周囲とトラブルを起こすことになる.私は学部長の経験しかないが,学部の事務長は密かに,学部長の考えに合わせる努力をして下さっていた.その事務長の貢献がなければ学部長すら仕事にならない.
 一方,名和総長のときの理事の陣容を見ると,理事として入っているのは有力部局(票田の大きさや伝統的な分野序列)のトップが理事になっているように,部外者の私には見える.見たところ,名和氏の側近のように見える人がいない.理事以外の副学長(つまり大した権限がない)でその他の部局にも色を付けているように見える.部局のバランスを考えた上に有力部局を重く用いるのは,どこの大学も同様である.しかし総長側近に見える人が権限の強い所にいない点は,私は気になった.ブレーンとして総長側近がいるということはあるかも知れないが,権限のないブレーンでは具体的な動きを作ることはできない.
 この状況で,仮に名和氏が総長のときに,例えば教員の削減を減らす策を実行するのは難しいのではないか,という気がするのである.結局,周囲の役職者と摩擦を起こしやすい状況に立ち至るのではないか?
 要するに,北大は学長を中心に動くようにできていないのではないか?というのが私の妄想である.理事の陣容にしても,どのように決まったのであろうか? などと妄想する.北大内にDeep State のようなものがあり,そのDeep State が決めているという陰謀論を言い出せば,説明は簡単になってしまう.
 ふと,名和氏が文科省お役人への陳述書の中で「解任を求める組織の存在」に言及していたことを思い出す.解任事由の「証拠」として秘密裏に名和氏の音声を録音していたらしいのであるが,総長室や総長車で録音されたというのであるから,秘書室(相当部署)が一丸とならなければ無理だろう.だからDeep Stateというか,ナチスにおける親衛隊のような組織があるんじゃないの,という陰謀論を名和氏が抱きたくなるのも,無理からぬことのように感じる.

3) 大学側が名和氏の辞任願を受理しなかったのかなぜか?

 北大の展開で私が一番首をかしげるのは,2018年の12月,つまり総長選考委員会が調査を始めた次の月に名和氏が辞任願を出したのに,大学側が受理しなかったことである.普通に考えれば,名和氏が辞任願いを出せば「やったぜ」ではないか? 北大職組への回答で大学側は名和氏に辞任の意思がないと思ったと述べているのであるが,理屈にならない.もし辞任するといって名和氏が後で撤回したなら,名和氏に不利な材料が揃うだけである.だから辞表を受理しない理由はない.
 一般に会社でも,辞めて欲しい人がいても解雇することはハードルが高い.辞めさせたい社員を適性のない部署に配置換えするとか,下らない仕事しか与えない,などして,当人が自発的に辞表を出すのを待つだろう.むろん露骨にやると法に抵触する.しかし,自発的に辞表を出してくれれば一番都合が良い.
 実際,大学側が辞任願を受理せず解任手続きに進んだために,辞任してもらったときより1年半の余計な時間がかかった.また解任申立ての書類をそろえるのに,おそらく新部局を設置するくらいの手間がかかったろう.それだけの手間を本来の仕事に回せば,多くの達成が得られたはずである.
 だから大学側が辞任願を受理しなかった点は妄想を掻き立てる.
 私の妄想では,思いつく理由は2つである.
 第1は,大学側特に事務局の名和氏への憎しみが強く,簡単に辞任させては気が済まず,すべての名誉をはく奪し,いたぶり抜いて放逐することにこだわった,という可能性である.普通はこの理由はないと思うが,『財界さっぽろ』は「背後に事務局の深い恨み」というから,あり得るのかも知れない.
 第2の思いつく理由はもっと事務的な性格のものである.名和氏が辞任願を出した時点で大学側は文科省に事前相談(どのようなステータスかは別にして)を開始しており,今更引っ込められないと考えた可能性である.学長解任の申立ては全国初であり,前例がない.大学側は,どのように申立書を書くべきか,どのような資料を揃えればよいか,分からないだろう.だから普通に考えれば,問題の時点で相談を開始していただろう.文科省としても,なにせ前例がないから,解任申立てが出ればどのような段取りで処理するかが不確かだったかも知れない.法令の確認も必要になる.文科省としても内々には検討を開始して不思議はない.通常,文科省に何かを言い出せば途中でやめることはできない.「辞任願が出たからあの件は無しです」といってくれた方が文科省も実は嬉しいかも知れないけれど,文科省相談のいつもの習性で,途中で話を変えることはできないと大学側は思いこんだかも知れない.
 事前相談は,普通,このように申し出ればOKですよという感触が出るまで続く.だからこのケースでも,「これでOKですよ」の感触を得た上で解任の申立をしていると私は思う.申し立てて「これではダメです」といわれたらすべてがパーである.そんな危険を誰が冒すか?

4) 文科省の回答はなぜ1年近くを要したのか?

 もし事前に相談していれば,大学側が解任申立てを出せば文科省はすぐにOKの回答を出して不思議はない.ところが正式な解任通知まで1年近くを要した.なぜ1年もかかったのか? 文科省も,北大で総長が宙ぶらりんであるのはまずい,早く決めないといけない,と分かっていたはずである.
 なぜ1年を要したかは妄想するしかない.ただ,文科省にはこの件の会議録はあるだろうし,メモもあるだろう.資料の開示請求をすれば出て来るだろうと思える.
 以下は私の勝手な妄想である.
 一般論として,大学の申請に対する文科省お役人の反応は,担当官による.埼玉大学が何か申請した場合も,好意的な担当官もいれば冷めた担当官もいる.そんなとき,埼玉大学は好意的な担当官に抱きつく戦略をとってきたように思う.この点は立場上,仕方ない.担当官が変わったために話が全く変わってしまったという話も他大学から伺ったことがある.
 北大の件に関しても,文科省の担当官の中で,意見の相違とはいわぬまでも受け取り方の濃淡があったような気がする.一般にメディアは,大学の問題をお役人のリークの通りに記事にする.大手のメディアの記事を見ると,今回の北大の件について,大学側の立場の担当官のリークで記事を書いていたような気がする.しかしメディアによってはニュアンスが異なることもあった.リーク元が違うのだろう.その濃淡の差の調整のために,えらく時間を要したのではないか?という気がしている.

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「論理国語」の設定は進歩である

 私の家でとっている日経の紙面を見たら「高校国語の科目再編 論理と文学 分断危うい」という主張が載っていた.慶応の先生が日本学術会議の見解を称して,(高校の学習指導要領で)「文学国語」と「論理国語」を切り離したことを批判している.
 私自身は「論理国語」を設定したことは不十分ながら進歩と思った.そもそも日本学術会議(を名を使う主張はほとんど)が怪しげである.(日経にもいろいろ問題があるのであるが,ここでの論点ではない.)
 「論理国語」は学習指導要領,国語編の中に記載がある.
https://www.mext.go.jp/content/1407073_02_1_2.pdf

 教科としての国語に関する私の考えは過激である.教科として国語が存在するのはよいが,国語を入試科目にする必要はない(入試科目にすべきでない)と思っている.
 まずセンター試験の「国語」がおかしい.数学や理科,社会があれだけ細分されているのに,「国語」は「古文」,「漢文」を含めて1科目にまとまっているが不自然である.数学・理科・社会を考えれば,「古文」,「漢文」はオプション化されてよい.
 埼大教養学部は国語系の先生が昔から多く,その辺の話題も時折伺っていた.「古文」,「漢文」が「現代国語」と切り離されるとその分野が廃れてしまい,本や参考書も売れなくなる.だから古文・漢文の業界人(学者)は国語一体化に必死だという.ありそうなことである.業界人(学者)が圧力団体になっている.(同じことは他の教科・科目,例えば日本史,世界史にもいえるが,あまり害はない.)
 一般には,入試で古文,漢文は必要ないと私は思う.必要と思う分野があればオプションで入れれば良いだけではないか.以前は,理系は現代国語だけの(古文・漢文の点数抜きの)センター試験スコアを使う所があったと聞いている.まあ,そうしたいだろう.しかし現在も同じことができているのか? オプション化した方が合理的だろう. 
 センター試験の現代国語も,漢字の読み書きのような設問はよいが,それ以外は疑問に思う.設問で引用された文章の中の傍線を引いたセンテンスの意味を問う選択問題がよくある.正解とされる選択肢は確かに,私が見ても「一番もっともらしい選択」であると思う.しかし,もっともらしくなくても,他の選択肢が誤りであることを示す明確な根拠は,引用された文章内では見出せないと思えることが多い.「一番もっともらしい選択」というのは感覚の問題に過ぎず,感覚で「正解」を決めてよいのか,と疑問に思う.サイエンスであれば「もっともらしくなくても」正しいことはある.つまりは,「現代国語」の問題文自体,論理で成り立つのではなく感覚と情緒で成り立っているのではないか?

 少し前,OECD諸国での学力試験の結果が話題になったことがある.日本の生徒は科学の知識はあるが,文章の読解力が劣る,と報道された.
 この結果を私は不思議に思った.あれだけ国語の試験をやっている日本の生徒が読解力が劣るというのは不自然と思えた.そもそも,国によって言語が違うのに,読解力のスコアをどうやって比較できるのか,が疑問だった.
 そこでOECDの試験問題をネットで探して見てみたのである.試験問題のすべては分からないが,サンプル問題は見ることができた.
 私が見た限りでは,OECDの試験問題とは事実を主体とした文章を読ませる問題だった.それなら言語が違っても比較して良いかな,と思う.そして設問は,何が事実で何が書き手の意見であるかを把握することを主体にしている.
 OECDの試験問題を見て,日本の生徒ができなかった理由が分かった気がした.日本の生徒は国語に時間を費やしているけれど,要は感覚と情緒でできた文を読んで感覚と情緒で答える訓練をしている.だから,科学の知識があるのに読解力がない,という結果になってしまうのだろう,と思った.
 このOECD調査で出た問題は,最近の日本人が文章離れをしていることを指すというより,国語業界人の邪な心によって国語教育が歪んでしまったことを意味するように思える.

 かなり前,私は全学の入試管理委員をしたことがある(アドミッションセンター員はその役の後継である).その折,経緯は忘れたが,高校の国語の教科書を調べたことがある.国語の教科書の中に「文章表現」?といった題名の教科書も入っていた.その中身は『理科系の作文技術』のようなもので,これいいんじゃない,学ぶ価値がある,と思ったものである.しかしそのような教科書を採用している高校はほとんどなかったと思う.おそらく,「論理国語」とは,私がよいと思った教科書のような内容だろうと思う.
 埼大でグローバル事業を進める上で,私自身は受験したことはないが,IELTSの教程の中身を見る機会があった.Writingにおいて,文章のStyle,Structure をちゃんと訓練していることが印象的であるとともに新鮮だった.日本語も同様であるべきだ.

 上で私は,論理国語の設定を「不十分ながら進歩」と書いた.何が不十分かというと,私は国語と文学は切り離すべきと思うのである.文学は,美術や音楽の並びで科目とすればよい.文学は学ぶべきであるが,美術や音楽も学ぶべきなのである.

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また,遠隔授業あれこれ

無難に実施された遠隔授業

 今年の3月前後に,コロナ禍対応のため,多くの大学が遠隔授業をする方針を決めた.遠隔授業を大規模に実施した経験がある大学は少ないはずである.だから,全国のあちこちで混乱が生じる可能性があるのではないか?と私は思った.
 しかし実際に遠隔授業が開始された後,少なくとも私がネットを眺める限りは,遠隔授業で不都合が生じたという情報に接することはなかった.SNSでは逆に,遠隔授業,うまくやってまっせ,といった書き込みを何度か見かけた.学生の不満で目にしたのは「遠隔授業で課題が多くなった」という指摘であるが,課題が多いことは良いことである.
 少なくとも3月の時点で私も確認していたのは,東大や慶応藤沢など,人的にも能力的にも余裕がある大学が遠隔授業に関するハウツー記載をアップしていたことである.大学によっては,東大などにクレジットを付けて教員向けの遠隔授業の解説をしていた.各大学が独自に遠隔授業の方法を模索していれば混乱も生じたかも知れないが,実際は余裕のある大学が提供した知識が3月4月に一気に普及した,と見るべきなのだろう.
 埼玉大学は適度な時点で遠隔授業の導入を決めたので,余裕で対応できたのだろうと思う.

遠隔授業の評価は悪くない

 先ほど,「大学 遠隔授業 アンケート」などと入れてググってみたところ,いくつかの大学で遠隔授業への教員・学生の評価アンケートの結果を出しているのを見つけた.googleで最初の方に出てきた事例には次がある.

慶応SFC 教員・学生アンケート 
     YouTube 

茨城大学 教員アンケート  
     学生アンケート  

岡山オルガノン 学生アンケート 
  15大学(代表:岡山理科大学)

武庫川女子大学 学生アンケート 

京都外語大 学生アンケート  

高等教育コンソーシアム信州 学生アンケート(少人数)


 上記のうち,京都外語大のアンケートは授業への総合的な評価を調べていない.高等教育コンソーシアム信州の報告は,回答する学生数がきわめて少ない.
 慶応SFCの結果は,教員も学生も上級者なので,どこの大学でも参考になるという訳でもないだろう.埼玉大学からすると最も参考になるのは茨大の結果である.結果はなにやら大本営発表風で,学生も教員も遠隔授業をポジティヴにとらえていることを示す.何よりも,同じ期間(第1クォーター)での学生評価を昨年度と比較し,むしろ今年の方が良いことを示している点が大きい.
 岡山オルガノンとは岡山県の15大学のコンソーシアムのような機関で,共同で遠隔授業を提供している.中心は岡山理大,つまり朝日新聞とバカ野党が目の敵にしている加計学園である.遠隔授業を使えばこのような試みが可能になる(埼玉大学も考えたらぁ)という点が大きいだろう(高等教育コンソーシアム信州についても同様).
 武庫川女子大学の結果も,一般の大学にも共通するであろう遠隔授業の利点と欠点を浮かび上がらせているように思う.
 これらの結果を私の印象として述べるなら,遠隔授業は必ずしも「対面授業の代用」ではなく,1つの特色をもった授業形態であることだろう.その点を一番強く出しているのが慶応SFCである.だからコロナ禍だから遠隔授業を仕方なしにやるのではなく,目的に応じて遠隔授業という選択肢を選ぶべき,と考えるべきだと思う.茨城大学の教員アンケートでも,今後も遠隔授業を使うことを考えると回答する教員が多いのは,立派なものだと思う.

 私自身の経験をいうと,大学教員になって50歳くらいまではよいが,そこから先になると若い学生の前に我が身を晒すのはどうか,と感じるようになった.だから授業はネット経由にして,教員は実物を写すのではなくアバターを出せるようにできないか,と思ったものである.たぶん今なら,教員のアニメキャラを表示させて,発話に合わせて動くようにできるのではないか,と思う.だから,「今学期は,女性,アラサーで巨乳で行こう」という風にカスタマイズできるようにすると,楽しいのではないか?

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北大総長解任劇を見て笑うべきか泣くべきか?

総長解任

 北海道大学の名和豊春総長が今年2020年の6月30日付で解任された.国立大学の学長を任期途中で解任するという,記念すべき?初の事例である.この騒動は当初マスコミでパワハラによると報道されていて,多くの人は,私を含め,パワハラが原因と記憶したと思う.しかし解任を決めた文科省は「(総長の)不適切な行為を認定した」といい,「一般的なパワハラとして認定したのではない」といういい方をしている(北海道新聞等).だから最近は,この件を語るにパワハラという言葉は出ていない.一体どういうことなのか,という点が私も気になった.
 気になったので簡単にネット検索で調べられることをざっと調べてみると,話はなかなかややこしい.悪者は誰だとはなかなか判断しにくい事例だなと思う.
 まず名和総長解任に関する大まかな出来事を私が調べた範囲で時間順に書いてみると,以下のようになる.なお,2018年12月以降は理事,学長選考会議,顧問弁護士,事務局上層部は一体化して総長抜きで大学を運営しているので,理事・学長選考会議・顧問弁護士・事務局を「大学側」と呼んでおく.

2016年12月 意向投票で現職を破った名和氏が学長選考会議でも次期総長と決まる.
2017年4月 名和総長就任
2018年9月29日 学長選考会議議長,大学顧問弁護士,理事らによる,名和氏への総長辞任の働きかけが始まる.(名和氏の主張)
2018年10月 北大の顧問弁護士が理事に,名和総長の非違行為に係る通報があったという情報をもたらす(大学側の主張).
2018年11月 学長選考会議が名和総長に対する調査を開始(2019年2月まで)
2018年12月9日 名和氏が学長選考委員長に辞任願(文科相宛)を出す(受理されず)
2018年12月10日 名和氏は体調不良で休職,入院.以後,笠原理事が名和総長解任まで総長代行を務める.
2019年2月7日 退院した名和氏が復職を願い出る.2/10に役員会が拒否(拒否する法規上の根拠を私は未確認)
2019年7月10日 北大が文科省に対し,名和総長の解任を申し出る.
2020年3月16日 文科省による名和氏聴聞
2020年6月30日 文科省が同日付で名和総長の解任を通知する.

 問題が表面化したのは2018の10月,北大が文科省に総長解任の申し出をしたのが2019年7月10日である.つまり申出に8カ月強を要している.さらに文科省が解任を決めたのが2020年6月30日であるから,文科省の判断もほぼ1年を要した.この時間の長さがまず異様と感じる.
 大学側と名和氏側では言い分が大いに異なる.しかし,この件での情報発信は主に名和氏の側からなされた.朝日のような大新聞も地元ローカル紙/誌も,大学側は口を閉ざしているといういい方をしている.
 私が見た中では,北大職組(北海道大学教職員組合)のサイトが,この件で公表された情報をうまくまとめている.関心のある方は北大職組サイトをご覧になるべきだろう.基本的な資料は次の2つであろうと思う.

大学側の主張:2020.7.1付 総長解任を受けた大学側の説明
https://www.hokudai.ac.jp/news/pdf/20200701_newsDismissal.pdf

名和氏側の主張:文科省お役人への名和氏の陳述書
https://hokudai-shokuso.sakura.ne.jp/htm/20200316nawa.pdf

普通の展開とはどこが違うか?

 上記と同じ展開が例えば埼玉大学であるかといえば,ないと私は思う.
 少なくとも国立大学は公益通報やハラスメントの規則とともに処理法が決めているから,学長を含め大学構成員に何か問題があることが通報やら訴えで分かれば,その定められた規則・処理法で調査・審議され,一定の結論を得る.学長選考委員会がその通報や訴えの情報を判断に利用するときは,規則に従って処理された調査結果を受け取って判断に使うことになるだろう.例えば,東北大の以前の総長は研究不正の訴えを受けたけれども,不正の有無は大学で設けた調査委員会で審議されている.東北大では学長選考会議は登場しないけれども,学長選考会議は,もし必要なら,その定められた方式で得られた結論および調査結果を使うことになるだろう.学長選考会議は,調査をしてもよいであろうが,調査を専門とする機関ではないからである.
 しかし北大の上記の例では,大学が定めた規則は適用されていない.学長選考会議が直接調査をしている.大学が定めた規則を適用するなら,被害者とされる者と加害者とされる者から調査委員会が事情を調査し,両者の主張を対照して判断することになるだろう.しかし北大の例では大学の定めた規則が適用にならないので,加害者とされる名和氏への反論を聞くことなく結論を出したのである.
 また大学の通常の管理システムでは監事が学長に強い意見をいえる立場であるが,監事には何の情報提供もないままに,解任相当の非が学長にあったという結論を学長選考委員会が出し,解任へ動いたようである.

名和氏に何が指摘されたのか?

 名和氏が行ったと非難される行為とは何か? が当然気になる.大学側は30個の不適切行為を指摘し,うち28個を文科省が不適切と判断した.しかし具体的に何かは公表されていない.個人情報を伴うから公表は難しい面があるだろう.名和氏側の主張の中では部分的に出て来る.
 本格的な情報は大学側が文科省に提出した陳述書の中にある.その陳述書95頁を地元誌『財界さっぽろ』が入手したらしく,今年の5月号に載っている.項目だけを眺めると,大体が,総長が職員や役員を理不尽に叱責した,という話だった.
 だから判断は難しいだろうと思う.
 パワハラとは,定義にもよるが,一般的には継続的に上位者が下位者を苦しめる場合を指すと思う.ただ,指摘事項はほぼ一回起的であり,世間のパワハラの例とはちょっと違うように思える.さらに,事実認定は難しいだろう.一般には,回顧的に過去の経験を想起するとき,人はないこともあったと考え,あったことをなかったと思うことはある.法廷心理学では,本人に嘘をつく気がなくても,事実とは異なる記憶を呼び起こすことがある.証言には証拠能力の判断が付きまとい,物証が重視される所以である.そう考えると,「名和氏が足を踏み鳴らした」という陳述があったとして,名和氏が「そんなことはしたことがない」といえば,どう判断しようがあるのだろうか?

大学側の何が問題か?

 先述の北大職組サイトには,北大職組が大学側に総長解任について質問状を出している.その質問事項はよく出来ていると私は思う.北大職組はレヴェルが高い.関心のある方はその質問状に目を通すとよいと思う.
 質問は3点である.
 第1は,名和氏の問題行動をどの時点で把握したのか,という点である.大学側は当初,2018年10月に通報があって初めて知った,という説明をしてきた.一方,名和氏は9月末の時点で通報があったとして辞任を求められたと書いている.ここに説明の相違があったのであるが,大学側はあるとき9月に知ったという説明をしたのである.どうも大学側の説明にほころびが出ているのではないか,と思うのは職組だけではないだろう.この時期の問題を職組は重ねて問うている.
 第2は,学長選考会議が名和氏への弁解の聴取を行わなかったのはなぜか,という点である.この点については大学側は説得力に欠ける返事をしているので,職組は再度問いただしている.
 第3は,2018年12月に名和氏が辞任願を出したのは本当か? という点である.この辞任願の件は名和氏の発信で表に出たことであるが,確かに辞任願が出ることは出たと大学側は認めたのである.いうまでもなく,その辞任願を受理していれば,2019年の新学期には新総長を選出できただろう.大学側が辞任願を受け取らないことによって1年半が無駄になったことになる.職組は,その辞任願を誰の判断で,どのような理由で受け取らなかったのかを再度問いただしている.
 辞任願を受け取らなかったことについて,名和氏は「辞任させずに解任したかったのだろう」という趣旨の感想を述べている.また『財界さっぽろ』が《深層に事務局の「恨み」》と書くのは,こういう点を指しているかも知れない.

本当はどんな背景があったのかと妄想してしまう

 名和豊春氏の研究領域は建築工学・土木だという(Wikipedia).コンクリート関係の研究で受賞歴が多い.北大の工学院長を経て学長になっている.
 ネット検索していたら名和氏に関する2016.12.6の日経の記事に出会った.前日の北大総長選考意向投票で726票を獲得し,現職440票を上回ったという記事である.まだ選考委員会の結論が出ていない段階でこの記事が出るのは変である.おそらく建設関係の業界人が名和氏の就任を歓迎したから日経が記事にしたのだろうと思う.ちなみに,埼大の山口学長(建設)が埼大学長に決まったときにはゼネコン業界に速報メールが流れたというから,同じようなことかも知れない.
 しかし現職総長を相手にこの得票数は,大勝といってよい.ポピュリストとして総長になったといってよいのだろう.名和氏の陳述書から,大勝の理由はよく分かった.現職総長が「医学部、歯学部、小部局以外では一律14.4%、教授相当で205人の人件費を削減」する人員削減を打ち出したらしく,名和氏はその削減幅の圧縮を掲げたらしい.教員にとっては救世主に映っただろう.
 名和氏の教員削減圧縮方針はどう見ても正しい.
 私は当ブログの2月の記載で,「埼大は教職員が少ないのか?」を書いてみた.その折に計算したデータを改めて眺めてみた.上位大学を基盤とした回帰式から推定すると,北大は学生・院生数の割に教員が200名弱足りない.教員の不足数最大なのは東工大であるが,東工大が不足と出るのは医学部がなく大学病院関連の教員がないことによる.その東工大を除くと,国立の上位大学の中で北大は最も教員の不足数が多い.対して,北大の職員は300名強が過剰なのである.私の計算だけからすると,北大は職員ポストを教員に振り替えてもよい.
 ちなみに,東北大は北大より学部生が若干少なく,院生は北大よりやや多い.しかし教員数では北大は東北大より740名少ない.こう考えると,北大で当初の削減案を実施すれば,北大は研究水準で旧帝リーグから脱落しかねない.
 ここで私の念頭に浮かぶのは,教員削減の圧縮という名和氏の方針が大学内でどのような軋轢を生んだか,生まなかったのか,という点である.
 まず,当初の教員削減案を作ったのは事務局だろう.また,「医学部、歯学部、小部局以外では一律14.4%、教授相当で205人の人件費を削減」が当初案だったと名和氏は書くが,この表現の中には事務局の削減への言及がない.当初案で事務局の削減がどれほど見込まれたか? 先述のように北大の事務局人員は肥大しているから,削減分の事務局負担が多くてもよいが,実際はどうしたのか? 医学部・歯学部の削減免除はそのままにするのか? また物件費の削減はどのように見込むか? 案の作り方によっては,名和氏の教員削減圧縮の方針は大学内の既得権益に触る要素を持っている.だから学内のあちこちで軋轢を生む可能性ははらんでいるように思える.現実的には,そういった路線対立がことの本質ではなかったのか,などと私は妄想してしまう.

文科省の出向者がいることの不透明さ

 文科省が名和氏の解任を通知して以後も名和氏の発言は続いているようであり,何かのサイトには「黒幕は文科省だ」という発言もあったと書いてあった(私は未確認).文科省が組織として一国立大学の学長を辞めさせようと動くことはまずないだろう(辞めさせたい学長は沢山いるかもしれないが,お役人はリスクはとらない).
 ただ,名和氏がそのようにいいたい気持ちは分からぬでもない.
 まず,今回は5名の理事が名和氏解任に動いたのであるが,5人の理事うち2人は文科省から出向のお役人である.名和氏の被害者というナントカ部長なども文科省人事の出向者かも知れない.つまり解任に動いた当事者はかなりの文科省のお役人を含んでおり,その状況で解任の判断を文科省に仰いでいるというのは明朗といえるのか? 文科省が組織として働きかけることはないと思うけれど,文科省の判断は担当官の判断によるところが大きい.当事者になっている出向した方々とその担当官が懇意であって不思議はないのである.
 経過を眺めて私が気になったのは,2人目の出向した理事が着任したのが2018年の10月1日であり,最初に選考委員会議長が名和氏に辞任を求めたのがその2日前(名和氏の主張),また出向者2名を含めた理事が名和氏に辞任を求めに行ったのが10月に入ってからだという点である(名和氏の主張).つまり,2人目の方が来てから事態に動きがあったのは,偶然か?
 国立大学が文科省に支配されているという現実が,事実は分からぬが,不明朗な印象を与えてしまう.

学長選考は宮廷政治になってゆく

 今回の北大の件をネットで眺めながら,結末が残虐な処刑であるような前近代中国の宮廷政治を私は連想してしまった.三国志の最初の方のストーリーでいうなら,一方で名和氏は暴虐な董卓のようであるかも知れない.他方で,名和氏解任に動いた側は,陰謀を巡らす宦官集団の十常侍のようであるかも知れない.実際のところは情報がないので判断できないのであるが,いろんな連想を生む余地のある展開だなと思う.
 現実問題,権限と情報が偏在する故に,学長選びは宮廷政治になって行くのだろう.それで悪くはないのであるが,妥当な選択がなされているかのチェックが現実的にできないところが問題だろう.外部委員が関与するとしても,私の実際の見聞では,その方々は個別大学の行く末に深くコミットする訳でもないのである.例えば,埼大で学長任期を一律6年とすることに賛成された外部委員の方々の弁は,今思い出しても笑ってしまう.
 学長選びが宮廷政治になってしまっても透明性を求める方法は,大学の経営に対する発言権で法的な根拠を持つ組合を強くすることしかないのだろうと私は思う.
 ついでに申せば,北大で名和氏後の総長に立候補しているのは3名であり,総長代行をされていた理事殿が結局総長になられるだろう.そう推論する根拠はあえて書かない.

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学長が教授を選ぶ?

大分大学の話題

 先日,水害のため熊本県で大被害が出た.その次の日くらいに大分の日田でも被害が出たという報道があった.そこで大分県に関するニュースも眺めてみた.
 コロナも大変なことではあるが,水害の被害はより直接的である.私の住んでいる市は利根川が決壊しても荒川が決壊しても危なくなる.昨年の台風で利根川が決壊寸前になった記憶が新しいので,私も気になって利根川河川事務所のサイトで利根川の水位をチェックするモードになった.
 大分県のニュースを眺めていて,なぜか大分大学話が目に留まった.
 大分大学で経済学部教授会が選んだ方以外を学長が経済学部長に選んだ,という事例があった.その件に関しては少し前にこのブログでも言及した.「まあ,それはありだよ」というのが私の意見だった.
 今回目にした話は,大分大学の医学部の事例である.私が最初に目にしたのは Business Journal というサイトの記事である(信用できるサイトかどうか,未確認).

https://biz-journal.jp/2020/07/post_166153.html

 記事では,「…昨年9月の医学部の教授採用では、教授会が選んだ候補者を学長が覆し、必要な手続きも経ずに別の人物を採用した。」とある.「必要な手続きを経ずに」がその通りとすれば確かに問題である.追加で検索すると,今年1月24日付の朝日新聞にも同趣旨の記事が載っていた.

記事では判断がつかない

 ただ記事を見ながら不明点が思い当り始めた.記事の書き手が人事に関する規則を理解しているのかどうか,という点である.

 埼玉大学の例でいうと,人事に関する学部等の会議には3つがある.人事選考会議(採用すべき候補者を選ぶ),人事委員会(選考委員会が提案する人事案を教授会にかけるかどうかを判断する.機構では「人事管理委員会」),資格審査委員会(候補者の設置基準上の資格を判断する.選考とは別)である.教養学部の場合,後二者を続けて開くので,会議は2つと思う人もいるかも知れない.
 埼玉大学の場合,人事選考会議,人事委員会,資格審査委員会,教授会の順で人事の審議は進む.候補者の人選をするのは人事選考会議だけであり,その後の会議は選考会議が選んだ1人の諾否を決めるだけである.選んだ1人以外の候補者の名前は出ない.どこかで否決されれば人事選考会議をやり直す(あるいは人事選考が流れる).学部等で人事を決める場合とは,人事委員会を経て教授会の判断が出る場合である.「学部長等は…直ちに学長に上申」し,「学長は、前項の上申を経て、教員の人事を決定する」ことになっている.学長の決定はその上申を「経て」なされるのであって「基づいて」なされる訳ではない.「経て」の意味は,学長は上申に拘束されることなく決定する権限があることである.むろん埼玉大学の場合,「基づかない」決定を学長はしないと思う(人情のある大学ですから).
 というか,埼大の場合,少なくとも私が学部長/副学部長をしていたときの期間では,新規採用人事をするときは人事選考会議が結論を出した後,人事委員会・教授会に提案する前に,採用候補者の業績書類持参で学長に事前承認をもらいにいっていた.実際に学長が承認しないことはなかったが,承認しないこともあり得る,という理解だった.この程度のやり取りは多くの大学であって不思議はない.

 大分大学の事例に戻ると,上記のBusiness Journal の記事では,「教授会が選んだ」とも書いてある反面,「医学部の教授候補者選定委員会の選考、教授審査委員会の投票を経て、昨年9月の人事会議で次期教授候補者に決定していた」とある.だから教授会を経たのかどうかが分からない.また,人事会議や教授会は,その審議を経たとしても,人は選んでいないだろう.大分大学も埼大と同じではないか?
 朝日新聞の記事には新たに次の2点が書いてあった.第1に,教授任用を審議するのは教育研究評議会であり,その評議会にかかる前に元の候補者の審議は止まったらしいことである.第2に,医学部側が選んだ候補者は「教授選挙」(朝日記事では次の段落で「候補者選考投票」と書くが,同じことなのだろう)で最多票を獲得した人であり,その後学長が選んだのは同選挙で次点の人だったらしい.この「教授選挙」が教授会での選挙なのか,「人事会議」での選挙なのかがはっきりしない.朝日の記事では「その後にあった学部の人事会議でも」とあるから,投票があったのは人事会議以前の会議(つまり埼大の人事選考会議)である可能性が高い.また,学長が次点の人を選んだということは,次点の人を含めて候補者のリストが学長に示されていた可能性もある.その場合,リストに得票数が書いてあっても,最多票の人に決定したという意味にはならないかも知れない.

 この件に関する私の意見をいうと,「分からない」が正直なところである.一方で大分大学の学長は変なことをしているという可能性はある.他方で,Business Journal や朝日の記事の書き手が大分大学の人事システム(というより大学の人事システムそのもの)を理解していなかっただけ,という可能性もある.印象としては後者の可能性の方が強いのではないか.ほぼ同じ時期の出来事である経済学部長選考の件では,大分の学長さんは公式ルールの遵守を旗印に話を進めているので,その時期に公式ルールに反することを学長さんがしたとは考えにくい.ついでにいうと,大分大学のサイトには履修規則は掲載されていても人事等の管理規則は掲載されていない.すべての規則をそのまま誰でもアクセスできるようにしてある埼玉大学とは大きく違う(再度いうが,埼玉大学は透明性が高い).
 埼玉大学の場合,学部等が1人の候補者を教授会で決めて学長に上申する.学長は,規則上はその上申を拒否することもできるが,よほどのことがない限りそのまま承認する.上記のように,学長が拒否しないで済むように学長の事前承認が学部等の教授会の前に入っているのである.
 大分大学の場合,学部等が人事選考作業はするけれど,学部等の教授会は経ず,選考資料をもとに人事が評議会で審議され,学長が決定する,というシステムかも知れない.また同様に学長による事前承認の機会があっても不思議はなく,問題の事例は事前承認の時点でひっくり返っただけの話かも知れない.真相は大分大の人事規則の文面を精査しないと分からない.
(人事が教授会の事項であるか否かは微妙である.埼玉大学でも,教授会事項として人事は明記されていない.建前上は,学務系を除くと,学長から諮問されない限り教授会事項にはならない.)

 大分大学医学部のケースでは,投票で最多票を得たのは教授ポストの下の准教授の方だった.次点の方は外部の人である.私は大学院生のとき,当時のある教授から「医学部では助教授(今の准教授)を教授に上げることはしない.他から選ぶ」と聞いていた.だから今回のケースを見て,「下から選ぶこともあるんだぁ」と最初に思ったのである.
 「下からは上げない」ことには,少なくとも医学部の場合は合理性があると私は思う.第1に,他部門の教授と異なり,医学部教授は格段に権限が大きい.地方国立大学の医学部教授であれば,その診療科目について県内の頂点,ないし頂点に準ずる立場ではないか.医学部であれば営業の規模も大きい.そのような強い権限を持つポストに同じ人を長くつかせることは避けるのが正しいように思う.第2に,医学部の場合,人員の流動性の余地が大きい.人文系の教授であれば,大学を首になればなかなか行き場がないと思うが,医学部の先生方の場合,傘下の病院が多いから,普通は行き場があるのである.大学教授に人事の流動性があることは一般論として好ましいが,医学の場合,その流動性が可能なのである.
 また,最多票を得たという方は,その医学部の内部の方であるから,内部の方々による投票では外部の人より票は集まるだろう.内部,外部の人を並べて人選する場合,内部の人たちの投票で決めるのがよいのか,という問題もあるように思う.
 選考情報の流れが規則上適正であったかどうかも疑問である.記事の文面からは選考の情報が最多票だった候補者に流れていたことが予想できる.ただ同じ情報を外部候補者にも提供するとは思えない.また,記事が関係者の人権に配慮したかという点にも疑問がある.「次点なのに選ばれた人」は,記事の情報をもとに大学サイトを調べれば容易に特定できてしまうだろう.個人情報が保護されたとはいえない.
 大分大学の人事で最も重要な点は,最終的に教授になった方を選んだことが実質的に合理的であったかどうかだろう.無能な人間を学長が強引に押し込んだのなら問題であるが,その辺の検討は記事にはない.実質的な合理性を担保することは学長の責務である.

私の経験では学長は人事に口出しすべきである

 上記のように,埼大で私が学部長/副学部長をしている期間,新規の人事があるときは教授会にかける前に学長に候補者を説明し,了解を求めていた.このやり方は(おそらく)田隅学長のときにはじまり,私が副学部長だったときの関口学部長は遵守していた.私が学部長になったのは上井学長の時であり,同じやり方を上井学長も踏襲していた.
 学長に新規人事の案を持っていってひっくり返されることは,関口学部長のときも私が学部長の時もなかった.しかし時折文句をいわれた.また,関口学部長は厳しいことをいわれたこともあると聞いていた.ただ,学長からいわれることは,厳しいかも知れないけれども正論である,と私は思った.学者としてちゃんとした方が学長になっていたと思う.
 教授会とは内輪の世界,村社会である.話し合いで進める,といえばきれいごとであるが,悪くいえば談合の世界である.だから変なこともあるのである.学長から文句をいわれることがある,という点は,正論を通すためには必要だろうと私は感じていた.
 埼大教養学部は一般に実に公正に運営される学部であったが,それでも変なことはたまにあった.既に時効と思うから書くけれども,私の学部長の期間に,学部の人事選考会議が選んだ候補者を私がひっくり返したことが2度ある.むろん普通はそんなことはしない.
 1つは人事選考会議が選んだ最終候補者の報告を見て,公募で応募者が多かったのに最終候補者の業績が少なかったことが気になったときである.調べてみると,業績の多さや受賞歴から候補者と考えるべき方が少なくとも5名いたが,何れも選考から外れていた.応募者の業績は一覧表になっていたが,最終候補者の隣の応募者は,学歴と年齢が全く同じなのに業績は倍なのである.
 もう1つの事例は最終候補者の研究領域が「違うだろう」と思えたケースである.日本のある面の文化で人事をしているのに,どうして北朝鮮文学専門の人を選ぶのか? 日帝批判という点で日本とかかわっていたのであるが,日本の作家を論じるに作家(夏目)の原文も参照していない.だから候補にはならないレヴェルと思えた.むろん,領域がズレていても業績が立派ならそれでよかったかだろうし,他に人がいなければ仕方ない.が,そうではなかった.
 この2件については,まず学長に事情を説明して再選考を目指すことの了解をとった.それから選考委員に根回しした.選考委員によっては苦労した.関係者には嫌われた(人によっては尾を引いた)けれども仕方ない.選考会議には選び直して頂いた.この2つのケースとも,学長の監視下にあるということを前提にして行えたことだった.
 上記の例に限らず,私が人事選考を見てきた中では,時折,結構笑える事例もあった(書けば面白いがやめておこう).一番利害関心のある方が「この人がいい」という理屈(と膏薬)はどこにでも付くのである.誰かがいい出せば,他の人は自分の番で同様にして欲しいから「それでいいです」になる.だから,学長とは限らないけれど,利害関心の圏外にある人が一定の判断をすることは,規律を守るためには必要なことと思える.

人事のやり方は変えてよいだろう

 上記にある朝日新聞や類似のメディアの記者はしばしば,教授会自治こそが善であり,そこに介入する権力者(学長)は悪であるという図式に従っているように見える.ただそのような図式は,現実を虚心に眺めたことのない者が脳内に描いたお花畑に過ぎないだろう,と時折感じる.教授会自治で私が連想するのはゲーム理論にいうフォーク定理である.相互の不合理な行いを認め合うという慣行が,明示的な合意を経ずとも,慣例的に,部内の人にはパレート効率的な暗黙の協調(要するに談合)として生じることである.こういう慣行の世界は一面で暖かい世界であるが,考えようでは互いの顔色を見ながらいいたいこともいわぬような,窮屈な村社会なのだ.だから権限は上に任せて自分たちはもっと自由になった方がいいんじゃね,と思ったことは何度かある.
 問題は,この暗黙の協調の世界は通常はわれわれにやさしいけれど,組織の規律を徐々に棄損し,大学としてのパフォーマンスを下げてしまう点だろう.
 今日,大学にパフォーマンスを上げ,同時に人事給与マネジメントをするという「改革」が厄介な課題として押し付けられつつあるように見える.私がもし在職していれば,教員福祉の観点から,この「改革」には抵抗しようとするだろう.ただ,組織を良くするという観点からは,実はかなり必要な改革ではないかという気がする.この「改革」は部内談合とは両立しない面が多い.だから,大学の牧歌的な姿は次第に影が薄くなることは予想できることである.大変だろうが,仕方ないんじゃないか.
 話を採用人事に戻すと,一般の教員人事は通常のように学部等の人事選考の通りで問題ないはずである.学長がいちいち人事選考をすることなど,できる訳がない.しかし一般論として,場合によっては学部の判断とは異なる判断を学長(など上位者)がすることが妥当な場合もあるだろう.学長にはその権限があり,その時々の判断で人事に介入することはあってもよいのではないか,というのが私見である.むろん学長がひどいことをすることはあり得るし,上記の大分大学の事例がどうなのかは,判断するだけの情報が私にはない.
 大分大学の学長さんは,よほど強引な方と見ることもできるし,旧来の部内談合モードから法人化モードに移行するための改革者であると見ることもできる.後者であれば幸いだ.

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このブログには何処からアクセスがあるか?

 このブログはNiftyのココログというシステムに乗っている.ココログにはアクセス解析があるにはある.ただあまり使えない.特にアクセスの地域については事実上機能していない.そこで3月上旬から今までの4カ月弱の期間について,ある方法でどこからアクセスがあったかを調べてみた.ここでいうアクセスとは日ごとの訪問者数であり,1人の訪問者のPageView数は無視した.
 比率だけを書けば次のごとくだった.

埼玉大学ネット:23.1%
埼玉県    :15.0%
東京都    :29.9%
その他    :32.0%

 埼玉大学でアクセスしてもスマホを通じてアクセスすれば「埼玉県」になるだろう.また,「東京都」は埼大の教職員が自宅からアクセスした件数を多く含んでいると思う.「その他」は北海道から九州まで,国外も含む.件数からいえば神奈川,千葉が多い.ネット検索でひっかけてアクセスする「いちげんさん」が「その他」で多いだろう.

 ちなみに,であるが,同じ期間でアクセス(今度はPageView回数)が多かった記事は次である.多い順であるけれど,数はあまり違わない.記事閲覧はアップして1月くらいが多いので,3月からの観察期間にアップした記事が上位になる(つまらない結果だ).

遠隔授業あれこれ
大学によるコロナ禍対応
有馬朗人「法人化は失敗だった」の今さら
医学部のこと
改革強化推進補助金

 実はこのブログは大台の500記載目をもって終了するつもりでいた.一時頻繁に記事をアップしていたのは,早く500記載目に到達しようと思っていた時である.その500記載目は「埼大は教員・職員が少ないのか?」だった.この記事は続編をアップすることになったので,500記載で打ち止めにはならず,以後,まだ時折アップしている.この記事は510記載目である.ブログを消す必要もないので,気が向いたら時折アップする,という状態はまだ続くかも知れない.

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入試で主体性評価w

 この6月19日付で共通テストの日程が文科省から公表された.今年度は特例追試験が加わり,計3回共通テストを実施するという.ただ3回目は2/13,14 であるため,その受験者は従来の前期日程の受験に間に合うのかどうか疑問に思った.前期日程の受験日を遅らせるのかどうかと思い,埼大サイトの入試に関するページを眺めてみた.当の疑問については埼大サイトではよく分からなかった.学年暦を見ても個別入試の日にちは書いていなかった.今度の入試日程は状況を見てこれから決めるのかも知れない.

 当初の目的ではなかったが,「大学入学共通テスト記述式問題導入見送りに伴う《令和 3 年度(2021 年度)埼玉大学入学者選抜における各学部の主な変更点(予告)」の見直しについて》という長ったらしい表題の文書ファイルが目に入った.何気なく開いてみた.何の考えもなく眺めたけれど,教養学部の一般選抜・後期日程について「個別学力検査における小論文において、「主体性」についても評価します。」と出ていたので,思わずエッと思った.主体性?

 昔,学生運動華やかな頃に口角泡を飛ばして「主体性ガー」という人はいたように思うが,今どき主体性などという野暮で大仰な言葉を使う人は,特殊な思想信条か宗教に染まった人以外にいないのではないか,という気がした.なんか,チュチェ(主体)思想とか,毛主席思想活学活用頑張るぞぉ―,といった世界ではないか.意思に反して私の中で自動思考が生じた.「巨人の星」の主題歌が流れ,瞳孔がやたら大きい星飛雄馬の顔が現れて,
  真っ赤に燃える王者の印 主体の星をつかむまで~
とか.
 話を戻すが,教養学部の後期日程の小論文とは,短い文章を読ませて何か考えを書かせるという,よくある形式である.それで「主体性」を測る余地は,過去問を見る限りありそうにない(問題の格好を変えるのかも知れないが).
 文科省からの強い指導で入試の見直しが行われ,仕方なく「主体性」を書き入れたのかも知れない,と思った.けれどそうでもなさそうだ.上記文書における小論文の記載は学部別に次のごとくであり,教養学部以外は「主体性」などとは書いていない(書かない方が正解だろう).

教養学部:小論文(理解力,論理的な考察力・構成力,表現力,主体性を判定する。)
経済学部:小論文(国内外の社会に関する関心と論理的思考力,表現力を評価する。)」(前期・国際プログラム枠)
     小論文(論理的思考力,表現力を評価する。)(後期)
教育学部:小論文(社会的事象に対する関心,論理的思考力等を評価する。)
理学部と工学部:単に「小論文」

 その後,ネットで検索してみると,文科省は入試で主体性評価をしろといっているということをはじめて知った.日経ビジネスに次のような記事も出ていた.

河合薫:大学入試改革「主体性等評価」の意味不明、平等はどこへ?

 この河合氏の記事によると,主体性等の評価を検討する委託事業の報告書が出て,その報告書でベネッセのeポートフォリオの利用が示唆され,そのeポートフォリオで生徒の活動記録を残して主体性等の評価に使うことを文科省は考えているらしい.
 ただ,上記報告書を眺めると,「主体性」概念は,そもそもその内包も外延もはっきりせず,具体的な測度の提案がある訳でもなく,当然ながら測度の信頼性(測定値の一貫性,誤差の少なさ)や妥当性(現実的には基準関連妥当性)の検討とは無縁である.だから通常の学力試験や英語試験などのように入試に使い得る代物と考えるのは,少なくとも現段階では無理である.あえてやろうとすれば上記の河合氏の批判が妥当することになるだろう.

 上で主体性概念の内包と外延と書いたけれど,おそらく「主体性とは何か?」を(例えば面接者や小論文採点者間で)話し合えば,いろんな意見が出てしまうだろう.主体性とは何かを私が自問すると,思いつくのは次の2つである.第1は自己の判断が自分のアイディアに基づくことである.しかし,「自分のアイディア」を多くの大学受験者に求めるのは難しいだろう.誰かの考えに「いいね」をするくらいなら誰でもするが,自分のアイディアを持つのはある程度の研究歴か,哲学的な思索歴がないと無理だろう.第2に,主体性とは内発的な動機づけ(intrinsic motivation)だと考えることである.内発的動機づけを持って学習するなら学習の進度は高いはずである.ただ,この第1と第2は一緒にまとめて「主体性」というべきでもないような気がする.また,ビジネスで主体性を問題にするときは,単に覇気とかガッツのようなものを指しているような気がする.
 実は文科省がいう主体性とは,「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」である.だから話はさらにややこしい.「多様でない人々と協働して学ぶ態度」は主体性ではないのか? 自分一人で学ぶことは主体性にならないのか?(心理学的には,新たなことを学ぶときは他者と一緒に学ぶより一人で学んだ方が効率的である.)協働ではなく競争して学ぶときに主体性はないのか?(学習における競争と協働は古い研究テーマである) 学ばず協働するときの主体性は主体性ではないのか? いろんな人とつるんでいるときって,主体性がないときではないのか?

 例えば入試で面接を行ったとしても,私は一貫した方法で対象者の主体性を評価することは難しいように思う.面接者ごとに違った基準で判断することになり,面接室によって合格率が違ってしまう結果が起きることもあるだろう.まして小論文では,何を書かせようと,一貫した方法で,少ない誤差で,主体性を判断できるとは思えない.

 どんな学びをするかは人の内面の問題である.その内面に踏み込むことは自由主義社会にとって望ましいことではない,と私は思う.

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有馬朗人「法人化は失敗だった」の今さら

 先日(2020/5/21),『日経ビジネス』のメール配信で《「国立大学法人化は失敗だった」 有馬朗人元東大総長・文相の悔恨》という記事の記載があった.見た瞬間にオイオイと思った.読んでみたがやはりオイオイだった.今さらこの程度の議論だと,神田眞人氏のような財務官僚に理屈で負けるだろう.

 言及した『日経ビジネス』の記事は有馬朗人氏へのインタヴュー記事である.有馬朗人氏は著名な学者であり,同時に自民党選出の参議院議員として文科大臣も経験している.このインタヴュー記事で有馬朗人氏は,概ね次のようなことをいっていた.

・「文科省でも検討委員会を作って議論した結果,法人化した方が良い面があるという結論が出ました.それで私は法人化を決定したんです.」
・運営費交付金は減らさない約束だったが,無視された.
・法人化して良くなった面もある.
・東大は「経営」して生み出したお金で若手研究者を雇用している.しかし規模の小さい大学は同じことができない.だから交付金を増やす,少なくとも元に戻す必要がある.

 この議論を見ると,要するに「規模の小さい」国立大学,つまり地方国立大学の運営費交付金を増やせということなのだろう(規模の大きい大学も増やせ,といいたいのかも知れないが,その解釈だと筋が通らない).その結論には,私を含めて,特に地方国立大学関係者は賛成に決まっている.しかしあまりに月並みな議論で,今さら,である.それでなんとかなれば国大協がなんとかしている.
 私のような素人でも,有馬氏程度の議論にはすぐに反論できる.政府のお金を大学に配分するやり方は自動的な機関配分(交付金)ではなく成果による配分に重点が移っているだけのことであり,国立大学に付ける政府の予算は総額では増えている.そもそも地方国大以外の上位国立大学は,定年を延長したのに(特に中高年の)給与に手をつけていないから,自動的に若手が雇えなくなっているだけではないか.この辺は財務省の理屈である.経済政策という点では,財務省は解体した方が日本のためだと私は思うけれども,大学に対する財務省の分析は正鵠を射た面が多いように思う.
 拙見でも,大学に人を付けることがよいのかどうか,という問題はあるだろう.大学の教員数はどうしても学生数と連動するけれども,今後学生数の減が予想されるなら,国立大学の教員数を増やすことにはためらいも出るだろう.日本として研究者数を増やすのであれば(増やすべきだが),独法で研究機関を作って研究者を雇用し,その所属研究者が状況に応じて大学の研究室とジョイントの研究(および学生指導)をできるようにした方がよくないか? 独法と国大法人の違いは評価方法にあり,もし新規研究機関を大学に呼び込むのであれば,独法並みの評価方式を大学がとることを求められるのではないか?

 有馬氏のように,「交付金を増やせ」の話を「法人化は失敗」と表現することはミスリーディングだろうと私は思う.
 2年前に京大の山極総長が読売系のインタヴュー記事で「法人化は失敗」といって注目された.有馬氏は同じ線を狙ったのだろう.しかし,法人化は国立大学に法人格を与えて独自の方針をとることを可能にし,それと同時に評価を導入したことが本質である.金を減らすことは法人化そのものの話ではない.だから問題を「法人化(の失敗)」と呼ぶことには論点をぼやけさせる.元の国立大学に戻してお金をつけ,自治と称して資源配分を内部の談合に任せた場合,ろくなことは起きないだろう.
 「法人化は失敗」というと「じゃ,今の国立大学は失敗作ですか?」という話になりそうなのも気になる.「法人化は失敗」は,文科省一家の内輪の言説としては構わないけれど,世間に向かって店を出している国立大学が世間に聞かせる話として口にしてはいけないだろう.国立大学はあくまで,立派にやっている,安心して来て下さい,なのである.
 世間に向かって国立大学に金をもっとつけろというなら,「これだけの成果を上げるからお金をください」と訴えるしかないだろう.今どきは家計も企業も金は欲しいというに決まっている.その「これだけ」として何をいうか,その知恵を有馬氏らはいうべきだった.
 勝手にいうなら,「地方国立大学からノーベル賞受賞者を年平均で1人以上出します.さらに,THEの世界ランキングの100位以内に地方国立大学から5年以内に5校を入れます」といえば(信憑性があるなら),お金は出るだろう.また,「規模の小さい大学は同じことができない」というなら,規模を大きくする(統合する)ことをなぜ提唱しないのか,と思う.

 記事に載った有馬氏の議論が事実経過を正確に表現しているかどうかも気になる.どうもリア充オヤジの自慢話のように聞こえる面がある.
 まず有馬氏は「それで私は法人化を決定したんです.」という.まるで有馬氏が国立大学の法人化を決めたような書き方になっている.けれど,そりゃ変なのである.
 有馬氏は時の橋本龍太郎総理に請われて参議院選挙比例代表名簿の自民党一位に入り,1998年に参議院議員になった.続く小渕内閣で文部大臣になっている.しかしこの時期は国立大学法人化という話ではなく「独法化」だったはずである.国立大学を独法化する方向の検討が公式に始まったのは1999年の11月であり,その時点の文部大臣は中曽根弘文でであって有馬氏ではない.
 続く森内閣の2000年7月に国立大学に関する調査検討会議が発足し,その後の小泉内閣の2002年に「新しい国立大学法人」像に関するまとめが出て「国立大学法人化」が閣議決定されている.つまり独法化が国立大学法人化になったのは小泉内閣の時であり,独法と国立大学法人とは仕組みが異なるから,文部大臣としての有馬氏が「決めた」などはありそうにない.2003年に国立大学法人法の関連法が提出され採決されて,次の2004年に国立大学法人が発足している(埼大では田隅学長が就任).少なくとも埼玉大学では,国立大学法人の仕組みが学内で説明されたのは,実際に法人に移行する数か月前に過ぎなかった.その数か月前に説明(講演)に来た文部省のお役人様の脅し文句を私は今も覚えている.それくらいだから,有馬氏が文部大臣のときに国立大学法人のイメージができていたとは考えにくい.有馬文部大臣のときにあったのは独法化を含めた選択肢の検討程度だったように思う.
 インタヴューで交付金の金額を法律に書くように求めて拒否されたという逸話が紹介されていたけれど,法人法がまとまった時期を考えると,そのようなやり取りは参議院議員としての有馬氏がした可能性はあるけれど,文部大臣の時期にはあったとは思えない(有馬氏は法人化の直後まで議員だった).
 有馬氏は参議院議員として国立大学の立場のために働いたかも知れない.しかし国立大学の現状を擁護するために目立った活躍をしたのは,西岡議員など,自民党の力のある文教族議員だった.有馬氏は,法人法に交付金の金額を書き込むような未熟なことを口にしたとするなら,交渉者としては力を発揮しなかったろう.
 文部大臣として有馬氏が明確に行ったのは,自ら「ゆとり教育」を主張し,ゆとり教育を学習指導要領のスローガンに書き入れたことである.後に有馬氏は自説を官僚に曲げて利用されたと主張なさっているらしい.
 当時の有馬氏の存在意義は,政治家,というよりお役人が作ったシナリオの神輿となることだったろう.むろん神輿になれるのは大家の故であるから功績は大きいけれども,政治家・行政家としてはズレていたという気がする.

 有馬朗人氏は1990年代,自民党議員になる前に,埼大で学長候補になったことがあることを,埼大の若い方はご存じないかも知れない.当時,学長選挙で当選した理学部所属の先生に某理学部から難色が出て,おおもめにもめたのである.私の感想では異常な確執と見えたが,私は一次情報を持っていないのでここでは論評しない.その当選者の先生が学長就任を辞退し,もう一度学長選挙をすることになった.私の記憶の通りなら,そのときに工学部を中心として有馬氏を学長に推す動きがあった.他学部は知らないが,教養学部ではその動きに強く反発する先生がおられた.結果として,反有馬票が集まり,兵藤学長が選出されたのである.私も部内の流れに従い兵藤先生に投票した.
 このときはいろんな噂があった.そもそも有馬氏は学長候補となることを承認していない,という噂があった.いや,実は学長になりたがっている,という噂もあった.埼大の学長では有馬氏のプライドが許さないのではないか,という意見もあった.何が真実かはよく分からない.
 ただ,結果として兵藤学長が当選して埼大のためには良かった,と私は思う.詳述はしないが,兵藤学長は酒癖は悪いが明るく良い学長だった.上記の『日経ビジネス』の記事を眺める限り,有馬氏は自慢話が多く,法人化にせよ「ゆとり教育」にせよ,後日になってからの言い訳が多過ぎるように見える.
 
 『日経ビジネス』の有馬氏インタヴューは「東大の突破力 『知』はコロナ後の日本を救えるか」というシリーズものの1つの記事である.『日経ビジネス』はなぜ東大をそれほど持ち上げるのか,と思う点は別にして,このシリーズの中で「法人化は失敗」というのは浮いた話題だった.ページ数も他の記事より少ない.いうべきことが少なかったのだろう.現役の山極総長とは比べられない.

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大学によるコロナ禍対応

 大学の外にいる私であるが,ニュースを見ていると,今の武漢コロナ禍に対する大学の対応のニュースを見かける.なかなか興味深いと思う.この状況で埼玉大学は妥当な判断をしていると感じる.

学費問題

 多くの大学がコロナ禍で遠隔授業を決めた4月,学費減額を求める署名活動があちこちの大学で起こっている,というニュースが入ってきた.中身の詳細は大学によって異なる.が,大まかにいうと,原則入構できず施設が使えないのであるから,施設の分の学費を返還して欲しい,という要求だったと思う.むろん,授業料以外に設備費/施設費を徴収する私学の場合である.国公立に比べて学費が2~3倍なのだから,金を返して欲しいと言い出す気持ちはよく分かる.
 しかし大学は設備費を減額できないだろう.施設を学生が使えないとしても,施設を維持管理する費用はほとんど変わらないからである.蔵書や設備は揃えねばならず,ライセンス料なども大学は払わなければならない.だから学生が使わないとしても,ほぼ同じように大学は設備のために支出を余儀なくされる.
 実際,大学が学費を減免することはほとんどなかったように思う.遠隔授業のための通信費補助,といった名目で学費を若干減額する(名目上は奨学金/支援金を出すとして学費減免で清算するのかも知れない)という例があった程度と思う.この結果も仕方ないだろう.
 もちろん,学生が使用しない期間の設備経費は,大学の独自資産から支出し,学生納付金には頼らない,という判断も理屈としてはある.だからなぜ設備費を減額しないかについて,本来なら大学が学生(・父兄)に丁寧に説明する必要があるのだろう.ネットに出ていた話では,ICUなどは学生に対し,長々と説明していた様子がうかがえる.

 もっとも,学生が施設を使わないで軽減される経費は,あるにはあるだろう.例えば光熱水費である.学生が使わなければ光熱水料は下がるように思う.埼大の経験では,夏場のエアコン使用時の電気代で大学はガタガタしていた.掃除費用も下がるだろう.だからその下がった分を学生に還元することは合理的である.実際,上記のような若干の学費減額分は,そのように節約される経費の分かも知れない.
 経費問題は教職員にも存在するように思える.教職員,特に教員は,4月以後,継続的ないし断続的に自宅勤務する格好をとっているだろう.だとすると,今までは職場に負わせていた光熱水料が自宅の経費となっているはずである.だから在宅勤務で損をしている.私も退職することで,自宅の光熱水料は若干上がったような気がする.
 他方で,自宅勤務の日が増えると通勤手当がどうなるのかなぁ,などと考えてしまう.法人化後,定期券の購入確認を受けるようになるという細かさを経験したので,また細かい措置を受けても不思議ではない.週の半分程度は出勤していれば通勤手当はそのまま付くように思うが,在宅勤務の日が多ければどうなるのか?
 念のため,在宅勤務期間の通勤費がどういう扱いになるか,ネットを検索してみた.あるサイトでは,就業規則に「通勤手当は,…通勤定期券の実費を支給する」という程度しか書いていなければ,実際の出勤日数にかかわらず通勤手当を丸々支給しなければならない,とあった.
 埼大の場合どうか?「国立大学法人埼玉大学教職員給与規則」の第21条が通勤手当を規定している.通勤手当の額はその第2項にある.電車・バス通勤の場合は「その者の支給単位期間の通勤に要する運賃等の額に相当する額」,自動車通勤の場合は「次に掲げる自動車等の使用距離の区分に応じ、支給単位期間につき、それぞれに定める額 ア 片道5キロメートル未満 2,000円 …」といった表現になる.自動車通勤の場合は,出勤日にかかわらず月額が決まる書き方である.だから電車・バス通勤の場合も,釣り合い上,通勤手当はそのまま出す以外になくなるように思う.
 大学が通勤手当を過分に支払ったとしても,家計分となる光熱水料の補てんと考えるべきかも知れない.

大学による学生への経済的支援

 5月に入り,5月5日(6日更新)の日経ニュースに「コロナ禍で学費減免,対策は国立5校のみ 30大学調査」という記事が出ていた.国公立大学と私大の,学生数上位各15大学に調査した記事という.メディアによる大学の記事は不正確なことが多いが,中身を信じるなら,結果は次のように表にまとめられていた.

学費減免制度の新設・拡充:東大,九大,阪大,東北大,広島大(院生だけ)計5校
学費納付期限を猶予:明治,法政,北大など19校
現金給付・全学生:日大,東洋大,東海大など9校
現金給付・困窮学生:早稲田(10万),立命(上限9万),九大(3万)など12校
貸与型奨学金の新設・拡充:近大,関大,同志社など10校
遠隔授業の環境整備:16校

 この結果を見ると「学費減免制度の新設・拡充」が最もハードルが高いようだ.採用した5校とは何れも,多額の交付金をもらった上に自己資金を集めやすい重点支援3の大学である.規模も大きいから,対象者が学生の一部であれば資金を拠出する余裕がある.
 文科省経由で学費減免の新制度が導入されているはずなので,学費減免措置はどの大学にもある.上記の「新設・拡充」とは,その新制度以外に大学独自の学費減免制度を揃えている,ということである.おそらく,政府の新制度で対象から漏れた学生を大学独自の制度で拾う,ということだと思う.
 埼大はどうかなと思って埼大サイトを眺めてみた.「本学独自の緊急支援奨学金給付制度を始めました」と出ていたので,おお,頑張ったなと思った.立派なものである.額が大きいとはいえないが,本当に困窮しているときはその額で十分嬉しいだろう.
 私の在職中,学生の家庭事情のデータはなかった(あるいは見られなかった)けれど,直感的には経済的に苦しい家庭の学生が多いと思った.同じ思いは同僚も共有しており,たぶん,学生への緊急支援に関しては教養学部の執行部は強く推進する立場であったろうと思う.
 埼大は能力の範囲で十分にやった.が,埼大ができることはここまでと思う.次に述べるように,身銭を切って支援に乗り出すのはどうか,と私は思う.

学生の経済的支援は大学の仕事ではない

 今回のコロナ禍のことを眺めて,私は3.11の震災のときの経過をふと思い出した.あの震災があったとき,埼大では教職員に募金の呼びかけがあった.その募金が被災地に送る募金だったか,埼大生被災者のための募金であったか,記憶が曖昧である.多くの方,特に職員の方は募金されたように記憶している.
 しかし,申し訳ないが,私は募金で金を出さなかった.釈然としない気持ちがあったからである.
 つい先日,三橋貴明という経済評論家がうまく話をまとめているのを目にした.私が3.11のときに釈然としなかった気持ちをよく整理しているように思えた.
 あの震災の時,「被災者のために募金しましょう」の後,公務員給与の減額があった(国立大にも適用され,しばらく続いた).復興のために我慢しましょう,になったのである.その後,同じ流れで復興税という名目の所得税の増税があった.当時は悪夢の民主党政権であったが,その最後っ屁が消費増税の法案だった.つまり財務省は,震災を口実に所得税と消費税の増税を勝ち取ったのである.その結果が景気の低迷であり,学生も就職しにくくなった.この一連の財務省の対応により,日本経済を落ち込み,多少救われるにはアベノミクスを待つ必要があったのである(所得は上がらなかったが株価が上がったので学生は就職しやすくなった).
 三橋貴明氏のポイントは,震災の時は消費を伸ばすように税を軽くすべきだったのに,その逆をやった,このコロナ禍でも同じようなことを狙うだろうけれど,阻止しなければならない,という点である.
 上記の日経の記事もそうだが,メディアがコロナ禍での大学による支援を報じるとき,大学がそうすることが望ましいというニュアンスで述べる.特に日経は財務省の意向通りに記事を書くが,他のメディアも同様である.しかし,「学生の経済的支援は大学の仕事だよね」になることは回避する必要がある.元来が無理である.
 学生の経済的支援は社会政策である.社会政策は個々の大学の仕事ではない.地方も地方債を出せるし大学も大学債を出せるには出せる.しかしお札を刷れるのは国であるから,国債によって賄うしかないのである.現状で公明党が文科省に学生支援を申し入れているので,おそらく国による追加の学生支援措置があるだろう.また,10万円の特別給付金のように,学生を含めての給付は追加で生じるだろう.学生を助けます,ではなく,国民を広く助けますという枠組みの拡充を求めるべきと思える.高橋洋一氏がいうように,国債の追加発行をためらう事情はないのである.
 新聞に軽減税率を適用することと引き換えに,メディア(TVも新聞系列)は消費増税を容認してきた.朝日の論説委員のように,現時点でコロナ増税を言い出す人もいる.しかしここで増税になったら,日本の経済は長く落ち込む.学生の就職難の時期も長引くだろう.
 埼大が導入した支援のように,緊急避難的に一定額を給付する制度は望ましい.しかし学生支援の本道があることを大学は同時に明確に主張しておく必要があるだろう.教育国債を発行して学費を教育バウチャーとして支給する制度の導入を,この機会に国大協などが打ち出すのが正しいように思える.

コロナ経済支援に見える大学の戦略

 コロナ禍での学生への経済支援を見ながら,その支援には各大学の戦略が隠れているように思えた.18歳人口は減るので大学は学生の取り合いに入って行く.普通に考えればここで価格低下(学費軽減)がありそうであるが,一部の私大は一律に学費を下げるのではなく,優秀な学生への奨学金を拡充するという方策をとった.なるほど,一律に学費を下げるよりその方が合理的である.上位の国立大学も実は似たような対応をしている.今回の各大学の対応にはそのような戦略的側面もあるように思える.大学の規模が大きければ学生支援に回せる資源を捻り出すことは比較的に容易である上に,本音で学費を下げられる分を奨学金に回すだろう.ここで問題は,規模も小さく財源の多様化もない地方国立大学にどのような対応策があるか,ということだろう.
 この点は目前の課題ではないけれども,どのような学生支援策をとるかを地方国大の経営者は考えておく必要があるのだろうと思う.

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改革強化推進補助金

 文科省サイトにある資料をもとに,国立大学改革強化推進補助金をどこの大学がとっているかについて粗い分析(というより集計)をしてみた.以下に述べるように,重点支援3(世界)の大学は重点支援1(地域)の大学の3倍採択されている.この改革強化推進補助金は国立大学間の格差を持続させる1つのメカニズムであるといえる.

ニュースを見てふと気になった

 私のiPadはChromeを開くと最初にgoogleが配信するニュースが出て来るようになっている.確かそのニュースで,国立大学の改革強化推進補助金の採択に関するニュースが入っていた.たぶん私が大学に関するサイト情報を検索することが多いので,googleは私に大学に関するニュースを配信しているかも知れない.
 そのニュースを見ながら,ふと,国立の中でも上位の大学がその補助金を採択されやすくなっているのではないか,と感じた.そこで昨日,文科省サイトに入り,同補助金の情報を眺めてみた.

採択数のカウント

文科省サイトでは,平成24年から令和元年までの8年間の採択の情報が載っている.同補助金の採択に眺めているうちに情報を整理し集計したくなり,数時間をかけてどこの大学が何時補助金申請で採択されたかをエクセルでまとめてみた.詳しい情報は文科省サイトの公開情報では判別できないので,あくまで粗い集計である.特にもらった金額の情報は見つけられなかった.
 集計するうちに,採択数のカウントは論文数のカウントと同様の問題があることに気づいた.単著論文は1でカウントすればよいが,共著論文をどうカウントするか,である.この点については,私が以前見た文科省の研究所の扱いの通りにしようと思った.共著論文でも1人の執筆者に論文1と数えるカウント法と,共著者数で割った数値をカウントとする,という方法の2つを使うことにした.つまり,ある大学が単独で申請して採択されれば採択数はプラス1であるが,3つの大学が共同で申請して採択された場合,各大学の採択数はプラス1/3にする,という方法である.実は採択事例によっては,共同申請でも,明らかにある大学が中心であることが(直感的に)分かる場合もある.しかし今回程度の粗い調べでは形式的な確認方法がない.だから実態とはかけ離れるケースがあることは承知で,N大学で申請し採択された場合の個々の大学に帰属される採択数は1/Nと,機械的に計算することにした.
 以下の表にある「単純採択数」とは,単独申請でも共同申請でも,当該大学が関わって採択された申請の数のことである.単独申請と共同申請は区別しない.他方,「割引採択数」とは,単独申請の採択数はプラス1,N個の大学による共同申請の採択数はプラス1/Nとして割り引く採択数である.

大学ごとの採択数

 同補助金の募集のあった8年間で,単独申請ないし共同申請で採択された国立大学は56大学だった.国立大学は86あるから,65%の国立大学は何らかの形で採択された経験があることになる.採択経験のある56大学について,採択数を集計する表を作った.
 下の表1は単純採択数の大きい順に大学をソートした表である.8年間での単純採択数の最大値は4であり,北大,東大,京大がトップにある.この表でも概して有力大学が上位を占める傾向があるけれど,有力とはいえない大学も上の方にいる.表の内訳を見れば分かるように,地方国立大学が共同申請をしていることがあり,その共同申請でカウントを稼いでいるケースが多い.平成24年度の採択は連携をテーマにしたようであり,その折にカウントを稼いだ大学がカウントを多めに稼いでいるのである.
 表2は割引採択数で多い順に大学をソートした結果である.連携のカウントを割り引くので,表1では連携で上位に入った大学の順位が落ちる.表2の方が大学の実力を如実に反映する結果を示している.トップは東大と京大であり,8年間で単独で4回採択されている.オイオイといいたくなる.3位が東北大なので,上位3大学が同補助金でもトップ3なのである.上位9位までに旧帝の7大学が入り,旧帝の間に入ったのは滋賀大学と神戸大学である.神戸大学は重点支援3の大学であるから不思議はない.重点支援1の滋賀大学は単独で2回採択されているけれど,実は2回ともデータサイエンスのネタでの採択であるから,文科省によほど気に入られたのだろう.重点支援1で滋賀大学に続くのは静岡大学であるけれど,静岡大学は単独で採択された後に浜松医科大との統合がらみで共同で採択されている.20042812004282

重点支援ごとの採択数の相違
 
 表1でも表2でも,有力大学(重点支援3の大学)が採択される傾向は見て取れる.有力大学の採択されやすさは次の2つの方法で確認できる.
 第1は重点支援の3類型ごとの採択経験率を見ることである.重点支援1の地域大学は55大学あり,そのうち何らかの採択経験があるのは60%,33大学である.重点支援2(特色)の大学も,15大学あるうち,採択経験があるのは同じ60%,9大学である.しかし重点支援3(世界)では,16大学中88%の14大学が採択経験を持つ.
 重点支援3で採択されていないのは一橋大学と東京農工大である.ただ一橋大については,この間に指定国立大学法人に選定されているので,眠っている訳ではない.
 第2は,採択経験がない大学を含めて,1大学当りで平均いくつ採択されているかを計算することである.単純採択率と割引採択率の双方の数字で,重点支援類型ごとに採択数の平均を求めグラフにしたのが下の図1である.
 まず重点支援1の大学については,単純採択数で平均 0.891であり,1を割っている.単独採択に換算した割引採択率で見ると採択率平均値は半分以下の0.396になる.つまり3大学で1回の単独採択がある程度の実績なのである.重点支援2の大学も重点支援1と変わらないが,割引採択率では半分(0.5)に近づいている.
 しかし重点支援3の大学では,単純採択率で2を超えており,割引採択率でも1.8と,2に近い数字になる.つまり,単純採択率位で重点支援1の大学の2.67倍,割引採択率では4.5倍の採択経験を持っていることになる.

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補助金は大学間格差の維持装置か?

 国立大学改革強化推進補助金は補助金の1つに過ぎない.各大学が政府から得ている補助金の総体はここでの数字だけからは分からない.この補助金をとっていない大学も別の補助金をこまめに獲っている大学もある.また,新学部を設置するなど,見た目に進展のある大学も多い.
 とはいいながら,ここでの数字を見ていると,政府の補助金は,既存の大学間格差を維持,ないし拡大するための装置ではないかという,私の僻み心に火をつける結論に行き着くのである.有力大学はそもそも基盤の交付金レヴェルで優位な地位にあり(1つには大学院生の比重が高いことがある),受託研究費などが集めやすい(実際に集めている).その上で補助金まで差別的に突っ込んでいるのかよ,と思ってしまう.
 あるいは,補助金におけるこうした大学間格差はこれまでも指摘が(当然)あったかも知れない.そのせいかどうか,平成30年度からこの補助金にはわざとらしく「国立大学経営改革促進事業」という名称が付き,対象事業が地域枠と世界枠に分離された.この分離によって「地域大学にも配分する枠を確保しました」と文科省はいいたいのかも知れない.しかし,すぐに分かるように,重点支援1の地域大学は55あり(静岡大学と浜松医科大学が統合すると54大学),重点支援3の世界大学は16なのである.だからこの分離によっても採択の可能性は従来の格差の実績を継続させるだけになるだろう.しかも,重点支援2の大学が多くの場合地域枠になることを考えると,今までより悪いじゃん,という話である.
 さらに,ここで調べたのは採択数だけである.しかし1件当たりの補助金の額は(文科省サイトでは見えないのであるが),かなりの差があるだろう.
 (私の場合,議論は結局そこに行き着くのであるが)地域大学は統合して1大学の規模を大きくし,現状の重点支援3の大学に挑戦する立場を早く確保すべきではないのか,と思えてならない.

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遠隔授業あれこれ

 武漢コロナウィルス禍に対応して埼玉大学が遠隔授業を導入するというニュースを私が最初に見たのは,埼玉新聞サイトのニュースがgoogleページに配信されたときである.iPadの位置情報から私に埼玉新聞のニュースが選択的に配信されたように思う.その直前に日経か何かのサイトで群馬大学が新学期に遠隔授業をするというニュースが出ていた.最近確認すると,何時判断したかは確認していないが,茨城大学,宇都宮大学も同様に遠隔授業で新学期に対応するようだった.
 先ほどネットで見てみると,東京から遠い大学は,国立であっても,現時点で単に授業開始を遅らせる対応しかネットに出していない大学もある.ただ,ウィルス感染は何時どこで広がるか,まだ予測できない.場所はどこであれ,最初から遠隔授業を選択した方が安全・安心のような気がする.
 埼玉大学は,遠隔授業に対応できる時間的余裕をもって判断しているので,賢い選択をしたというべきだろう.単に授業開始を引き延ばすだけであれば,予定の開始時期に授業を開始できたかどうかは分からない.昨年の民間英語試験への対応についてもいえるけれど,学務系の事項については埼大は賢明な選択ができているように思う(学務系以外の情報は外からは分からない).

結構なことではないか

 今回,文科省は早々に遠隔授業の単位数の緩和を打ち出していた.その点については文科省の判断も良かっただろう.最近の文科省の判断以前にも,確か,遠隔授業のよる単位数は卒業要件の半分まで認められていたと思う.今回の「緩和」が時限的なものかどうかは分からないけれども,このウィルス禍を境に遠隔授業が普及することは,大学にとっては良いことだろう.
 私が埼大を退職した3年前までは,埼大は遠隔授業の導入は遅れていた.例えば宇都宮大学と群馬大学のように共同教育学部を作る場合,一定の遠隔授業は前提になっているだろう.国立大学によっては,茨大のように,地域の私大等と授業に関する協定を結んで遠隔授業の導入をはかるような事例もある.埼大はそのような交流をあまりしていなかっただろう.遠隔授業が授業形態の選択肢に入ることで,大学として行える事項が増えるように思える.そういう意味では,ウィルス禍がある時期だけ遠隔授業をするという頭ではなく,今後は遠隔授業を選択肢として対応するという気持ちを持つべきなのだろう.従来の一般の授業についても,遠隔授業の要素を入れる余地はあるはずなのである.
 今回遠隔授業を導入することで,失敗ないし困難に直面することもあるのかも知れない.しかし今回の遠隔授業の拡大実施によって遠隔授業の経験値は上がるだろうし,遠隔授業のシステムにどんな機能が必要か,といった知見も増えてゆくだろう.だから,ウィルス禍自体は嫌なことではあるけれど,遠隔授業の経験は有意義なものになるのではないか.

十数年前の幻の遠隔授業

 遠隔授業という言葉を聞いて古い話を思い出した.私が最初に学部長になったとき,教養学部(というより文化科学研究科)は一部で遠隔授業をやってみる可能性があったのである.当時は大学院GPで文科省から予算が付いていたので,その一部を使って大学院の遠隔授業用にテレビ会議システムの契約を何年間かしていた.
 当時,4大学(茨城・宇都宮・群馬・埼玉大学)を意味する4Uという枠組みがあった.確か関東経産局が主導した枠組みだったと思う.主に理工系の大学院の共同運用を協議する枠組みであり,私も文化科学研究科長として4Uの会合には出ていた.議題は主に理工研の話であったが,理論上は文系研究科も4Uでの協力の可能性はあったのである.
 在職中,内心で私が一番関心を払ったのは他大学と統合するか,統合はしないまでも高度な連携をすることだった.だから距離的にも近く,関口先生以来先方との顔も通じていた宇都宮大学の国際学部(国際学研究科)との間で単位互換をすることを目標に考えた.単位互換の1つの方法として遠隔授業も考えたのである.そのためのテレビ会議システムの契約だった.
 記憶では,実際にテレビ会議システムの挙動を試したところ,複数人の相手の顔をPC画面に音声とともに表示する以外に,資料ファイルの相互閲覧ができる,という程度のシステムだったように思う.今ならもっと性能は良いだろう.実は宇都宮大学にも遠隔授業の装置があるという話もあったので,実際に行ってみて確認しようしたこともある(機材がうまく動かず確認できなかった).ともかく,キープするだけならテレビ会議の契約は安かったので,契約だけは何年間かしていた.
 遠隔授業にしなくても,宇都宮の院生が埼大の授業に来ることもあるだろう,と私は思った.宇都宮の院生は(実は先生方も)東京在住の人が多い.だから宇都宮に行くよりも埼大に来ることもあるだろう,と思ったのである(ただし当時あった大宮サテライトの教室は,他部局の利用頻度が高く,使用できそうになかった).
 残念ながら,単位互換の実績はほとんど残せず,遠隔授業をすることにもならなかった.各分野に限れば授業の数は相互に乏しいにもかかわらず,相手方の授業を履修しようとする院生はほとんどいなかったのである.授業をとる機会を作るだけでは単位互換の実績は残せない,という苦い経験だけが残った.教員同士に交流があり,相互の授業が調整される必要があったけれども,そこまで人を動かす企画は作れなかった,というのが総括だろう.
 この十数年前の件はかくも間抜けな結末に終わったけれども,人的なリソースを共有化して行うべき企画は,今後もいろいろあるはずだと思う.だから遠隔授業の拡大実施を行える状態を維持することは意味のあることのように思える.

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医学部のこと

医学部の存在の大きさ
 このブログの最近の記載で国立大学の教職員数の説明を書いてみた.書いてみてあらためて印象に残ったのは医学部の存在の大きさだった.国立大学は財務構造に応じてA~Gのグループに分類される.その分類の際の1つの,しかしおそらく最も重要な要素が医学部のある無しである.教職員数を眺めていると確かに,医学部のある無しで教職員数が歴然と異なる(医学部があると教職員数は飛躍的に大きくなる).その異なり方は私の予想以上だった.今まで医学部のある無しは予算額の違いとして私は認識していたが,そこまで教職員数が異なると予算額が違うのも当然である.
 ちなみにいうと,平成30年度の財務諸表から大学の予算(経常費用で見る)を調べると,埼大は130億であるが,医学部のある群馬大学はその3.45倍の448億,信州大学は4.06倍の528億である.どんぶり勘定では,医学部1つに埼大全体の2.5倍ほどの予算がかかる.
 4つ前の記載(「埼大は教員・職員が少ないのか?」)で計算した回帰式から推定すると,埼大に医学部があるとすると教員数は897名(実際は455名)と倍近くになり,職員数は1418名,つまり6.56倍になる(医学部・医科学研究科の学生定員は他部局から捻出することを前提とする計算であり,医学部が純増なら教職員数はさらに増えることになる).つまり医学部1つが現状の埼大よりはるかに重い.医学部のある地方国立大学とは,「大学に医学部がある」のではなく,「医学部にその他の学部がおまけで付いている」という感じではないか?

埼大での医学部願望
 以前,学長に上井先生を推薦する動きに私は加わった.2008年のことである.その頃,理工研の中には医学部を作ることを説く先生がおられてその説に触れる機会があった.今回,医学部のことを考えていたら,その記憶が蘇った.
 確か2段階で医学部を埼大に作ることを目指す,という話だったような気がする.が,詳しいことは忘れた.忘れたというより,心の中でそりゃないよと思ったから,それ以上頭の中でフォローしなかったのだと思う.その医学部話は特に大きくもならずに消えた.
 医学部が欲しいという想念は亡霊のように理工研の中に常に漂っているのかも知れない.上井学長の時代が終わり山口学長が就任されたとき,私は再び学部長になって全学の会議に出ていた.そのとき,確か理工研科長(だったと思うが,山口先生の後に学長になる予定の方)が,「医学部を作りたい」だったか「医学部が欲しい」だったかの発言をされた.たぶん本音の話だったのだろうが,「あれま」と思ったものである.特定の先生の考えではなく,医学部は理工系の宿願なのかも知れない.
 
医学部は作れるか?
 埼大が医学部新設を目指すとは思わないけれども,もし目指すとすればどんなものか?
 以前の段階で私が医学部は作れないと思った理由は,単純である.医学部を増やすことは既存業界の利害を損なう.だから例によって岩盤規制がある.作ろうとしても首相でも作れない.獣医学部は医学部ほどではないにしろ,既存業界が新設の抑制を求め,文科省も強い岩盤規制を敷く.新規獣医学部を作ろうとすると石破議員のような方が既存業界のために動く.医学部ならなおさらである.
 加計学園(岡山理大)で獣医学部を作ったときには特区によって岩盤規制をかわすという名目を立てた.同様の名目を国が作ることが前提になる.名目があってもあれだけ抵抗があったのである.
 医学部を新設した最近の事例は震災と原発事故に見舞われた東北地方の復興を名目とした医学部設置である.東北地方の復興を理由に1つの医学部を東北地方に作るという閣議決定がなされたのは2013年の年末だった.そのときのメディア報道を私は今も覚えている.2014年に文科省に新医学部の構想委員会ができ,3つの応募があり,その年のうちに最終的に東北薬科大学が選定された.このときは学校法人か地方公共団体だけに応募資格があったから,国立大学法人には応募資格はない.選定された後,2015年に同大学は医学部の設置申請をして認可され,2016年に東北医科薬科大学として医学部を開設した,という経緯である.手続きは加計学園の場合と似ている.
 東北薬科大学が申請できたのは東北薬科大学病院という附属病院を持っていたからである.東北薬科大学病院は医学部開設とともに東北医科薬科大学病院となった.病院なしに申請はできない.新制の国立大学の医学部の場合も,医専の段階から医専付属病院を持っているのである.
 この事例で考えると埼大などは医学部設置の対象にならない.
 まず上の例では国立大学法人に応募資格が与えられていない.今後も同様だろう.国立大学は実質,費用を国が負担するから,国立大学を塩漬けにしている現状で,費用の高い国立大学に国が医学部を作らせる訳がない.
 ただ,国立大学でも現状の内部資源の振り替えで医学部を作ることを目指すといえばよいのかも知れない.人員を含めた既存資源を医学部に割り当てる,ということである.
 あえてそのようにしようとするとどうなるか? 群馬大学の例でいうと,医学/保健学研究科と附属病院の教員(教授から助教)の数は435名である.埼大の現在の教員数は455名である.つまり埼大の教員のほとんどの首を切って医学部教員に振り替えないと,群馬大学程度の医学部+附属病院はできない.また,現状の埼大の職員数は210-220名であるが,医学部+附属病院で職員を千名以上増やすことになる.つまり,埼大を潰したとしても医学部はできないのである.国からある程度の補助が出るとしても,埼大のすべての部局を潰した上に,埼大の予算程度の資金を毎年自己調達しないと,自己の資源で医学部を作ることにならない.
 次に問題になるのは病院を用意することである.単に病院の人員を揃える資源を確保するだけでなく,申請の時点で評価に耐える大きな病院を持っていないといけない.大学病院になるほど規模の病院はさいたま市内にも滅多にない.既存の大病院は何処かの大学病院から医者の派遣を受けているだろうから,その関係を切って卒業生もすぐに出ない新医学部と提携する,というのは無理である.病院新設で近隣の病院から医者を引き抜くことになりかねないが,そうなると地元との関係が悪くなるし,近隣の病院の医師を引き抜かないことが応募要件になっている.
 何らかの名目で新医学部設置の機会があっても,医学部が集まる東京に隣接する地域にある埼大が,選定対象になるとは考えにくい.なったとしても,埼大が申請に参入できるなら,都内の大学が参入してくるだろう.
 さらに,申請をするとすれば,地域医療をどうするかの事業構想を出して審査になるが,そんな構想は現状の埼大の教職員に作れる訳がない.結局は構想自体も丸投げして作ってもらうしかないだろう.構想を丸投げし,すべての部局を潰すということになると,医学部構想申請の過程で埼玉大学は消えてなくなるというに等しい.
 埼大が医学部新設をしやすくなる条件は次のようなことではないか? 第1に,埼玉県が大災害に見舞われ,その復興を国が目指す,といった政策目標ができることである.第2に思い切り田舎に引っ越すことである.第3に,大きな病院を事前に取得しておくことである.第4に,医学部設置とともに医学部以外はすべて潰すことを約束した上に,埼大全体のランニングコスト程度の資金を毎年,別途確保することである.埼大が国立を返上して私学になるのでもよい.が,無理な話だろう.

統合なら話は簡単
 以上は埼大に医学部を新設する場合の話である.が,医学部のある大学になればよいのであれば,医学部のある大学と統合をするのが早いし,現実的である.ただ,なら何故,群馬大学との統合をしなかったのか,田隅学長とともに統合棚上げの方に舵を切ったのか,という話だろう.群玉統合はチャンスだったのに,その辺が私には理解できない.
 医学部が重要であるなら,今からでも医学部のある大学に統合してくれるよう働きかけるしかない.正直,医学部のある大学の方が立場が強いのが現実であるから,「統合してくださるなら何でもします」と申し出る覚悟は必要だろう.

選択の問題
 私がいうことではないのだが,埼玉大学には2つの将来像があるように思う.1つは,旧帝大が存在感があるという意味において存在感のある大学となることである.リサーチユニヴァーシティであって世界ランキングにも入り,当然医学部があり,受託研究費を多く稼いで活動資金を確保し,様々な学術活動を行うような大学である.そのような大学になるということ自体に反対する人はいないだろう.私もそれで大変結構と思う.だがそのような将来像を実現するには埼玉大学単体で可能なはずはない.統合して新たな組織に参画し,その中で将来像を実現する以外にないだろう.
 もう1つの将来像とは,埼玉大学単体で,首都近郊というロケーションを活かし,無理のない範囲でユニークな大学となることである.旧制浦高の流れを汲んでいるという意味では,リベラルアーツを中心にし,プラスでエンジニアリング部門と教員養成部門を持つ,基礎的であまりお金のかからない研究(例えば数学)を中心にし,教育に力を入れてエリート教育を目指す,そういうイメージではないかと思う.埼大教養学部の先生方ならこの後者の方が好みのような気がする.
 どちらでも結構だろう.ただしやるなら遅滞なく決断をすべきであり,決断するだけの経営力が必要なんだろうなぁ,と思う.

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埼大サイトの出願状況を見ながら考えたこと

 直近の3つの記載で国立大学の教員数と職員数について粗い分析をしてみた.3つ前の記載(「埼大は教員・職員が少ないのか?」)の冒頭で「ある件をふと考えているうちに」その教職員数の分析をしてみようと思った,と私は書いた.その「ある件」とは,4つ前の記載(「今年の埼大の入試 2020」)に書いたこと,つまり埼大の一般入試の出願状況(志願状況)を出願期間中に毎日観測していたことを指している.

公表スピードの大学間格差
 今年の国立大学一般入試の出願期間は1/27(月)から2/5(水)だった.例年,その期間の夜に大学のサイトを見るとその日(まで)の出願数が公表されていた,と思う.今年も3日目の1/29(水)までは同様だった.しかし埼大のサイトでは,1/30(木)以降は当日到着分願書の数字が次の日になってから公表されるようになった.私が同時にウォッチしていた千葉大サイトでは,当日分は当日の夜(19時台)には出ていた.が,埼大では公表が1日遅れるようになった.
 記憶違いでなければ,昨年度までは埼大も千葉大同様に当日の夜には公表していたように思う.記憶違いであれば申し訳ない.
 公表される出願数は出願自体にはほとんど影響しないだろう.1/24(金)までには河合塾(など)による合格判定が受験者個人に届いているはずであり,受験者はその判定に従って出願する.国立大学が公表する出願数は出願の決め手になるとは考えにくい.
 途中の出願数が考慮されるとすれば,特に後期の定員の小さい受験単位で,倍率が例年とは大きく異なるような場合である.そのようなケースはあまりない.ただ,倍率の急変はたまにあることであり,変化の兆候は途中経過を見ても予想できる.だから,念のため確認する受験生ないし受験関係者はいるだろう.
 出願数を考慮するなら,2/1(土)と2/2(日)の週末に数字を眺めて判断し,2/3(月)には出願を出すのが普通と思う.土日は大学は動かないので,1/31(金)の段階での公表数字が早くても2/3(月)の朝まで公示されている.埼大の場合,2/3(月)の朝までは1/30の数字のままだった.
 調べてみると,私が参照した関東(東京を除く)と東北の国公立大学では,少なからぬ大学で公表が遅れていた.今までにはないことのように思ったが,勘違いであれば申し訳ない.その状況を見ながら,文科省が「働き方改革」などを進めたために一斉に残業がなくなり,いろんな大学が公表を遅らせたのか,と勝手に想像してみた.
 2/1~2/2の週末の公表状況はまちまちだった.私が気づいたところでは,規模の大きな筑波大学と千葉大は毎日,即日公表だった.だからその2大学では2/1~2/2の週末には1/31の出願数を公示していた.いくつかの大学が1/31の15時までの出願数を公示していた.中には1/31の午前中の出願数を出している大学もあった.作業が可能だったところまでの数字を何とか出したのだろう.見落としがなければ,私が参照した東北,関東(東京を除く)では,埼大と秋田大だけが1/30の数字のままだった.
 繰返しいうが,公表が遅れても実質的には問題はほとんどない.あるのは主に見栄えの問題に過ぎない.ただ,ちゃんと即日公表できる大学もある中で,埼大は最も遅れたグループだった.作業が遅れるのはそれだけ,職員の労力のやりくりが苦しいのかな,と思ったのである.

規模の経済
 今年の入試出願状況の公表の件で,私が確認した中では,公表が遅れなかったのが筑波大と千葉大である.この2つの大学は関東地方(東京を除く)では規模が特に大きい.職員数でいうと両方とも,埼大の9.2倍強である.むろんその大半は附属病院勤務だろう.しかし教員と職員との比率が埼大と同じであっても,規模の大きな大学には規模の経済が働く.つまり規模の大きな大学には余力がある.統合が望ましい理由の1つである.
 話が横に逸れて恐縮だが,群玉統合が検討されたときのことを思い出す.時の兵藤学長は統合のメリットを「余分なものを持てること」(言葉は違うかも知れない)と表現した.「余分なもの」とは誤解を与えるいい方だが,兵藤学長の言はことの本質である.何かをするための資源を捻り出す糊代を持つ,ということである.
 話を戻そう.市区町村の役所についても,小さな自治体の役所は忙しい,という話がある.自治体で行う業務の種類は人口規模にかかわらず原則同じであるが,小さな自治体では人口規模に応じて役所も小さいから,規模の経済が働かない,だから忙しい.同じことが大学についてもいえるように思う.
 上で例として出したのは入試出願状況の公開の件だった.この件は取るに足らないことかも知れない.しかし教員数にしろ職員数にしろ,規模の経済はいろんな局面で現れる可能性がある.
 例えば,私が埼大に在職していた最終年度は2016年度だったが,その頃までの何年間かは,主に教育系の競争的外部資金を文科省に申請する機会が結構あった.その期間の申請では埼大はほぼ全敗だったように思う.私はいつも比較していたけれど,千葉大はほぼ全勝だった.おそらく筑波大もほぼ全勝だったろう.戦績が埼大と筑波・千葉と異なるのは,埼大の教職員が無能だったからではないだろう.おそらく教職員個人の能力は埼大も十分に高いのである.よく勉強されている職員の方も私は随分と目にしてきた.しかし埼大では一人の方がいろんなことをやらざるを得ない.規模的に余裕のある大学では,申請テーマに専念できる教職員を作ることができる.だから筑波・千葉と埼大とでは結果としてプロとアマの違いが出てしまうように思う.
 学士課程の教養教育は,概して上位大学,特に旧帝大で体制が整っている.対して埼大の場合はいろいろと難しい.埼大で教養教育に困難が伴うことの原因の1つは(むろん原因は他にもある),余力がないこと,つまり規模からいって教養教育に出動する余裕が少ないことである.
 埼大の場合,何か1つのこと(例えば研究力強化)を一所懸命にやると,その他のことは,やってはいるのであるが成果が出るところまでは行けないような気がしていた.

私大との比較
 職員の状況については,私大との比較もあれこれ考えてしまった.私が参照した文科省の資料(平成17年時点の数字で古いのであるが)では,教員1人当たりの職員数は国立が0.61(この数字は直近のこのブログの記載で書いた分析の数字に近い),私大が0.78であり,対教員の比率では私大の方が職員が多いのである.対教員の仕事では,国立は理系比率が高く,科研費などの外部資金を獲る可能性も高いと思うので,国立大では職員の負担はこの数字よりも大きくなるように思う.
 対学生の比率でいうと,当然,学生当りの職員数は国立大が大きい.私大は教員に比した学生数が国立より多いからである.この点からいうと,学生にとっての職員によるサーヴィスは国立大学の方がよいと思える.
 ただ,私が非常勤で私大で授業をした経験からすると,必ずしも国立大の学生が恵まれているとはいえないように思う.一般に私大の方が,職員は教員や学生に親切だ,という話は脇に置いておこう.
 私大の場合,埼大の学生センターのように,学生窓口が全学部生対象で一か所にまとまっているところが多い,といわれている.比較的規模の小さい大学はそうである.実際は学部ごとに教務係オフィスが分かれているところもある.
 その教務係に当たる窓口は,多くの学生を対象とするから,さぞ多くの学生で混んでいるかと思ったが,私の観察ではそうでもない.埼大の学生センター程度ではないかと思う.それでよく持つなぁと以前は思ったが,私大の卒論指導に関わって少し分かってきたことがある.あくまで私大の文学部系学部のことであるが,埼大教養学部の専修課程くらいの教員規模の単位で,(名称は大学によるが)共同研究室のような部屋があり,おそらく非正規職員と思うが,人が複数名常駐している(人数は大学によるが,3~4人だろう).この共同研究室の職員が直接的に世話をするのは教員であり,結果として学生にも波及効果を持つ.学生センターのような大部屋の教務窓口ではできないようなサーヴィスがその部屋を中心にあるように見える.だから学生は結構恵まれた状況にあると思える.
 私は旧帝大文学部の学生だったので,このような共同研究室の存在は自明のことだった.助手がいて事務の方もいて,いろんな仕事をし,先生方の世話もし,その恩恵は学生・院生もある程度享受した.埼大教養学部に着任したとき,私が見たのは「〇階資料室」という代物だった.助手はいない.職員さんが1人おられた.人的には旧帝に比べて劣るけれども,そこは大学間格差なのだと理解した.
 私が着任した当時,その資料室職員(非正規)の給与は教員(当時は教官)の講座費から拠出していた.だから予算上1人だったのだろう.資料室職員は教員の指揮下にあったのである.しばらくして,資料室職員も大学雇用の職員であり事務方の管轄だと学部の事務長が言い出し(西村先生などは抵抗したが),資料室職員も事務方の命令系統に入った.その頃から一部で人間関係で緊張が生じたのだけれども,言い分はいろいろあるにせよ,きっかけは事務方の命令系統に入ったことである.当初の話とは違ってしまったからだろう.
 さらに時を経て,教員の周辺にあった資料室は消え,資料室は教員とは離れた場所に置かれるようになった.最近の事務の一元化で部局の事務方が縮小され,学務は学生センターに集められたのと,構造的に同じようなことが生じたように思う.かくして教員には便利だった資料室は事実上なくなったのである(学部の資料室が教員研究室の近くの一角にある場所もあり,その周辺の先生方は昔のようなサーヴィスを非公式に受けているかも知れない).
 だから,少なくとも私が退職する時点でいえば,私大の共同研究室は垂涎の存在だといえる.埼大では教員は,事務職員の本来の職務以外ではサポートは受けられず,身近な学生の世話も自分でやるしかない.同じ国立大学でも,上位大学との格差はかなり大きくなったのではないかと思う.

未来は明るいとしか思えない
 直近の3つの記載で私は埼大で職員の不足があるかどうかにつき,粗い分析をしてみた.教員は明らかに不足しており,職員にも不足はある,不足の大きさは考え方による,というのが一応の結論だった.ただ,私が「職員の不足」と表現したのはミスリーディングだったかも知れない.私の分析は,世間の大学の職員数を基準にして埼大の教職員が多いか少ないかを議論したものに過ぎない.本来の「不足」は,実際に業務に障害があるか否かで判断するのが正しいだろう.その意味で,本来は,不足云々は現職の方々が判断する以外にない.
 ただ実際に不足があるとしても,中長期的には解決できる問題かも知れない,と私は楽観的に思う.なぜなら,業務のあり方が,社会一般と共に変化するだろうからである.AIというべきかどうかは定義によるが,学習機能を組み込んだプログラムによって従来の事務作業は代替されるだろう.従来の事務作業で人間がやるべきことは減って行く.それ故に事務組織が行う作業そのものを今後どうするかを設計できる,と考えるなら,楽しいのではないかと思う.私を含め多くの方が,事務組織は教育研究活動そのものに参画し,教員とともに教育研究を担うような組織になることが望ましい,と思うのではないか?
 そういっては何だが,昔は事務方は(学生の窓口対応をされる方を除いて)学生に冷たい,という意見があった.私が埼大に着任した頃,後に学部長をされた教授の方から,「事務は学生を人間とは思っていない」と講釈を受けたことがある.私が今でも忘れないのは,学生寮に有害性を認識されたアスベストが残っているのに,その処理を後回しにする決定を事務方の上の方(ワタリの部課長さんと思う)がして,委員として教養学部から出ていた2人の先輩同僚(ともに社会科学系)が怒っていたことである.1人の先輩同僚は「事務大学め!」という言葉を吐き捨てた.もうおひと方は,基本的に倫理観が狂っている,としみじみ仰っていた.
 このような点はその後,さすがに変わっただろう.そして今後さらに良い方向に変わると考えれば楽しいではないか.研究環境も重要であるが,学生数が多いという埼大の特徴からすれば学生の成長を支援する方向に資源が使われるとよいと,私は思う.
 望ましい変化を生むためには,やはりいくつかの課題があるだろう.
 第1に,変化を作るためには「余力」が必要だという点である.よくあることだが,今の業務に手一杯であれば変化のための準備が出来ない.だからその余力を捻出することに工夫が要るだろう.
 業務のITC利用のシステム自体は,1大学に固有ではないから,少なくともいくつかの大学で共同開発し,各大学は共通のシステムをカスタマイズして使う,ということではないかと思う.だからITC利用に移行すること自体には,1大学には大きな余力を捻出する必要がある訳ではないだろう.余力をより要する作業は次のことではないかと思う.
 第2に,直感的には,既存のルール・慣行を前提にITC利用に移行するのは無理だろう,という点である.新たなシステムのために大学のルールを変えて行かないといけなくなるだろう.思い切って無駄を省くルールの模索に余力が必要になるような気がする.
 第3に,ITC利用には外部が入ることが必要であり,内部だけでやろうとすべきではないだろう.その場合,外部に依存しながらもノウハウが組織(つまり内部の人)に蓄積される工夫が必要になるように思う.
 いずれにせよ未来は明るいのではないかと思える.社会心理学のテキストにいう,The Rocky Past vs the Golden Future である.

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職員不足は深刻かも知れない

 直近の2つの記載で,国立大学の教職員数の分析をしてみた.埼大については,教員不足は大きいけれども職員不足は深刻ではない,というのが私の結論だった.
 しかしこの結論は間違いであるかも知れない,と思えてきた.なぜなら,職員数を不足した教員数を使って回帰式で推定したからである.「本来あるべき職員数」および「職員数の不足」は,「本来あるべき教員数」を前提にして推定すべきかも知れない,と思えたのである.そうでないと,教員不足に起因する職員不足分が無視されるからである(多くの場合,職員数は教員数についてくる).
 本来はより正確な計算をすべきであるが,あいにく専用のソフトがない.そこで簡便に,教員数の推定の回帰式で求めた教員数の予測値を「本来あるべき教員数」と仮定して職員数を説明する回帰式を求めてみた.職員数(s)の回帰式の独立変数の教員数を,教員数の予測値に入れ替えて計算し直し,そのうえで職員の不足数(実際の職員数-新たな職員の予測値新たな)を求めてみたのである.
 新たな回帰式とパス図を下に示す.

200219

200219_20200219224501

 教員数と教員数の予測値はそんなに違いはないので,新たな職員数の回帰式も前回とほとんど変わらない.ただ決定係数(R^2)はやや下がってしまう.
 上の回帰式から.職員過不足率を再計算してみた.教員が不足している大学については,教員不足に起因する職員不足が加わるので,職員不足率が高くなる.下の表は1つ前の記載と同様に,教員不足率(表1,前回と同じ),新たな職員不足率(表2),および合計過不足率の悪い方の10位までを載せている.

200219_20200219224502

 表2にあるように,埼大の職員不足率は-0.237に上がった.本来あるべき(というか世間並みの)職員数より1/4近く足らない,という話であるから,この数字だと深刻である.順位も14位から7位に上がる.教員不足率と新たな職員不足率を加算した新たな合計過不足率でも,埼大は5位に上がった.埼大は,教員も71名足らないが,職員も51名足らないことになる.率からいえば職員の不足の方が深刻である.つまり,埼大は教員も職員もかなり不足しているという結論になるだろう.
 面白いのは(面白いと思うかどうかは立場によるが),3つの不足大学10傑表の中で,ダントツが小樽商科大であり,福島大,滋賀大,一橋大という,旧高商(高等商業学校)を受け継いだ大学が不足上位に並ぶ点である(一橋大は大正期に高商から大学に昇進した).これらの大学は,そう言っては申し訳ないが,悪くいえば「芋を洗うような教育」の伝統の中にあり,教員数が(教員数に伴って職員数も)不足する格好になるのかも知れない.

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続・埼大は教員・職員が少ないのか?

[要約]国立大学を「大規模国立大学」と「小規模国立大学」に分けて教員数,職員数の再度の分析を行った.埼大が属する小規模大学内での推定に基づけば,埼大の教職員数の少なさは,前回の分析ほどは際立たない.

前回の分析への違和感
 1つ前の記載で国立大学の教員数,職員数について粗い分析をしてみた.その結果を埼大に適用した結論は,埼大は「教員数の少なさが深刻」,「職員数も少なめ」だった.
 前回の記載を書いてから数日を経ると,私はその分析に違和感を覚えるようになった.違和感の第1は,教員数や職員数予測値の中に不自然な値になるケースがあったことである.例えば職員数の予測値が負の値になることもあった.そのようなケースは,そもそも求めた回帰式を当てはめるのは無理な大学であるかも知れない.
 上記の点については,埼大の教職員数を予測するのに医学部のある大学や上位の大学と混ぜて分析したことの問題があるかも知れない,と思った.数字を眺める限り,医学部があると無しでは世界が違い過ぎるように思えたからである.だから下位の,というより規模の小さい大学だけで再分析を試みてみるべきと思えた.

再度の分析
 そこで再度の分析を(したくもなかったが,気になるので)やってみた.変更点は以下である.
 第1に,分析対象(国立大学のうち,大学院だけの大学を除いた82大学)を「大規模国立大学」と「小規模国立大学」に分けた.大規模国立大学とは,医科大を含めて医学部のある国立大学に東工大を加えた43大学である.小規模国立大学とはその他の国立大学である.教職員数(教員数+職員数)で見ると,大規模国立大学で一番小さいのは浜松医科大(教職員1343名)であり,小規模国立大学の中で一番大きいのは静岡大学(教職員1021名)である.
 当初,医学部のある42大学とその他の40大学に分けてみた.しかし医学部のない40大学の中で東工大は,他の医学部無しの大学と比べて教職員数が突出して大きく,また教員数と職員数の比率のパタンも他とは異質だった.そのため,「医学部のある大学+東工大」を大規模国立大学(43大学),「医学部のない大学-東工大」(39大学)を小規模大学とした.この区分は教職員数の大小の区分となっている.下の図は,横軸を教員数,縦軸を職員数とした大規模/小規模国立大学の散布図である.

200217

 第2に,対象大学を2分したことにより,回帰式の独立変数を整理した.まず「医学部の有無」の変数は対象を2分することで無意味になるので省いた.「旧帝か否か」は小規模国立大学では該当がなく,省くしかない.「技術系」の変数も大規模国立大学では東工大しかないので,省く.
 第3に,今回の分析では,結果を見ると多重共線性の問題が生じる恐れを感じた.職員数推定の時に独立変数に,相互に相関の高い教員数,学部生数,院生数が共存するためである.そこでモデルの趣旨からして,職員数の推定の回帰式では学部生数,院生数を独立変数から除くことにした.

分析結果
 今回の分析では大学カテゴリー別に回帰式を求めることになる.その結果が以下である.決定係数(R^2)からいって,まあ満足すべき結果と思う.定数項の値も前回に比べれば自然な値である.

200217_20200218224601

 下図は規模別の要因のパス図である.大まかな構造はこのパス図の方が分かりやすいと思う.

200217_20200218224602

 回帰式の定数項は,独立変数がすべてゼロでも保証される教員数・職員数に対応する.この定数項というベースに,学生数や教員数などの変数で教職員数が積み上がる.回帰式を見ると,このベースの数字が大規模国立大学が小規模国立大学よりはるかに高い.この差は医学部(したがって附属病院)のある無しに基づくと思うが,医学部だけの問題かどうかはこのデータだけでは分からない.
 教職員数を決める係数(偏回帰係数)が大規模大学の方が高いことも目に付く.学部生,院生,教員が同じだけ増えても,大規模大学の方が教員と職員の増え方が大きい.さらにパス図を見ると,小規模大学では学部生数による教員数への影響が院生数による影響よりも大きいのに対し,大規模大学では院生数の方が学部生数よりも教員を増やす要因になっていることである.つまり基盤構造からすると,大規模大学は大学院中心に,小規模大学は学部中心にできている面がある.この違いが,大規模大学に医学部があることによるのか,医学部以外の要因にもよるのかは,今のところ分からない.

過不足率
 前回同様のやり方で計算した回帰式から各大学の教員数・職員数の残差を求めた.教員数残差/教員数予測値を「教員過不足率」,職員数残差/職員数予測値を「職員過不足率」と呼ぶ.(前回の分析での「(過)不足率」は残差/現員数だった.分母を現員としたのは予測値が負になり,符号が反対になるケースがあったためである.考え方としては予測値を分母にした方が分かりやすいだろう.)
 埼大が属する小規模大学について,教員(過)不足率,職員(過)不足率の悪い方の10傑を下の表1と表2に載せる.表3は合計過不足率(教員過不足率+職員過不足率)の悪い方の10傑である.

200217_20200218225001

埼玉大学のケース
 教員不足率では,埼大は小規模大学39大学のうち,悪い方の4位である.不足率の高さは前回より緩和されている.回帰式は対象大学の集団の傾向を表すが,今回は小規模大学で推計をしているからである.偏回帰係数から考えて,今回は学生や院生が1人増えるごとの教員の増加分が小さく推計されている.
 回帰式からすると,埼大の教員は71名不足である.この不足は学部生数か院生数を減らすことで解消できる.減らすのが学部生だけなら,学部生数を現状の約80%に落とす必要がある.減らすのが院生だけなら,院生数を現状の約48%に落とす必要がある.そういう意味では結構不足しているといえるかも知れない.しかし,小規模大学はそんなもの,ともいえる.
 ちなみに,教員不足率のワーストは小樽商科大学である.世間的には一流大学である一橋大学も,埼大とあまり変わらぬ悪さである.前回書いたように,法律経済系は「芋を洗うような教育」の伝統を引きずっているからだと思う.
 職員不足率では,埼大は-0.090で悪い方の14位だった.表2には惜しくも(?)入らない.この数字で見ると,埼大の職員不足率は「まあしょうがない」と思える範囲だろう.
 埼大の職員不足率が前回の分析より緩和されているのは,回帰式の係数から考えて,教員が1人増えることによる職員の増大が0.442人で済んでいるためである(前回は0.640人であり,今回の大規模大学では0.724人である).
 実は埼大は,前回分析した82の国立大学の中で,職員数/教員数の比率が3番目に悪く,その比率は0.475だった.だから私は,元来は教員の不足より職員の不足の問題が埼大では大きいだろう,と予想していた.ちなみに,今回の小規模大学グループ39大学の職員数/教員数の平均比率は0.627であり,埼大は小規模大学の中でも低い.大規模大学での同じ比率の平均は1.630なのである.だから小規模大学で推計したので,職員不足は目立たなかったと考えられる.
 大規模大学で職員が多いことの最大の原因は,おそらく大学病院勤務の職員が多いからだろう.しかしそれだけの問題かどうかは分からない.例えば小規模大学の場合,これまで貧しさから定員削減を行い,その削減を職員に押し付けてきた,といったことは,根拠はないもののありそうなシナリオである.
 表3の合計過不足率で見ると,39大学中,埼大は悪い方の7位である.確かに悪いのであるが,一橋やお茶の水とあまり変わらないのだから,「こんなものじゃね」という気もする.

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埼大は教員・職員が少ないのか?

 ある件をふと考えているうちに,埼大は教員や職員が本当に少ないのだろうか,という点が気になった.ふと考えた「ある件」についてはここでは書かない(後日書くかも知れない).ここで書きたいのは,国立大学の教職員数に関する,私の粗い分析の結果である.
 この記載の表題を「埼大は教員・職員が少ないのか?」という設問にした.結論を先に書けば,教員についても職員についても答えは Yes である.確かに少ない.どう少ないのか? だから何なのか? について書いてみたい.

データ
 当初,この問題は簡単に答えは出せないように思えた.教員にしろ職員にしろ,いろいろ種別があり,扱いが異なるだろう.種別ごとの構成は大学の中身によって異なるから,埼大について考えても話は複雑になるように思えた.
 例えば教員については,以前は教員1人当たりの「標準学生数」が出回っていた.学部設置の際の必要教員数をはじき出すために用いられていたと思う.標準学生数からすると,教員当たりの学生数は文系と理系で異なる.同じ文系でも社会科学系,特に法律経済系は教員当たりの学生数は多くてよい.法律経済系は大教室授業が一般的であり,悪くいえば芋を洗うような教育をするのが普通だった.昔は「法経のイモ」などという人もいたのである.同じ文系でも人文系はお嬢さん大学のイメージがあった.本質的に多品種少量生産であり,教員当たりの学生数は少ないのが通り相場だったのである.理系でも分野によって(例えば医学とその他)標準学生数は細かく分かれるだろう.
 職員についても,文科省の資料では事務系,教務系,医療系,技術系(言葉は違ったと思うが)などに分かれている.それぞれの種別によっていろんな理屈があるかも知れない.ただ,現状の大学の公開情報をサイトで観ても,大学が同じ分類基準で職員を分けて表記している訳でもない.こう考えると,大学ごとの妥当な教員数や職員数のデータを求めるのは難しい,面倒な話と思えた.
 まあ,私の意図は大雑把な把握をすることであるから,ここはざっくりとした計算で済ませようと考えた.国大協が出している「国立大学法人基礎資料集」という文書の1頁目に,全国立大学の学部生数,院生数,教員数,職員数が載っている.ここは大雑把に,この数字をそのまま使ってみることにした.この資料から,各大学の教員数と職員数が学部生数,院生数とどのような関係があるかがおおまかに分かる.他に教員数・職員数に対する説明変数として,医学部がある無し,技術系(例えば工業)大学か否か,旧帝大であるか否か,の3つをダミー変数(1/0変数)として用いることにした.かなり粗い分析である.
 国立大学のうち,院生しかいない大学(例えば政策研究大学院大学)は別原理で成り立つように思えたので分析から除いた.残った82の国立大学を分析単位とすることにした.

回帰式
 まず教員数(f)を従属変数(予測すべき変数)とし,学部学生数(x1),院生数(x2),医学部あり(x3),技術系(x4),7旧帝大(x5)の5変数を独立変数として,線形重回帰分析(OLSによる推定)を適用した.次に,同じ5つの独立変数に教員数fを独立変数に加え,職員数(s)を従属変数として線形重回帰分析を実施してみた.結果の概要は次の予測回帰式である.
 私には驚くべきことに,2つの回帰式の決定係数(R2)はともに.98前後である.つまり,職員数,教員数の変動の98%程度はこの5,6の独立変数によって説明されてしまう.ということは,粗い分析と割り切って試したが,結構これで十分だったのだろう,と思えてきた.

200212

 推定したこの回帰式の意味を説明しておこう.なお,回帰式の係数に*のある係数が統計的に有意である(t検定,ps=.000).まず各国立大学の教員数は,学部学生数,院生数,医学部あり,旧帝,の4変数でほぼ決まってしまう.回帰式にある係数(偏回帰係数)から,学部学生が1人増えると教員は平均して0.05人増える.院生が1人増えると教員は0.194人増える.つまり院生の方が教員を増やす要因である.医学部があれば教員は平均的に331人増える(群馬大学の資料で見ると大学病院の医者も教授~助教のポジションのようである).7旧帝であれば教員は638人ほど多くなる.例えば東京大学は,学部生も多いが院生が多いので教員数はきわめて多い.医学部がある分も多くなる.その上に,旧帝なので教員が増えるのである(ただ旧帝は受託研究費などの自己資金が多いので,自己資金で教員を雇っているかも知れない).
 次に職員数については,有効な説明変数は教員数と医学部の有無だけだった.特に教員数による影響が強い.学部生数・院生数は職員数に直接的な効果を及ぼさない.職員数に対する学部生数・院生数の効果は,教員数を経由した間接効果になる(学生が多ければ教員が増えるから職員も増える),ということである.大雑把にいえば,職員数は教員数から割り出される,医学部があると職員が増える,という2要因でほぼ決まる.職員数については,旧帝であることによる配慮はない.
 以上の結果を要約的に図示すると次の「パス図」になる(OLSで数字を出しているのは申し訳ないが,大過はないはずである).矢印は因果的影響の存在を指す.矢印に付随する係数は標準偏回帰係数であり,数字が大きい(1.0に近い)ほど規定力が強い.*を付けた係数だけが統計的に有意である.

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散布図
 横軸を教員数,縦軸を職員数として82の国立大学をプロットした散布図が下の図である.面白いので示してみた.

200211_20200212143701

 散布図において,国立大学は左下の「医無し大学」群と医学部がある大学群とに分かれることが見て取れる.埼大は医無し大学の中の真ん中より少し教員数が多い所に位置する.医学部がある大学は教員数に幅があるが,右上の先端にあるのが東大,次が京大である(その次の2つが東北大と阪大である).
 今回改めて認識したが,総合・複合型の国立大学のうち医無し大学は和歌山大学が最西端である.西日本(和歌山より西)の総合・複合型の国立大学には,すべて医学部がある.つまり教員数,職員数が(従って予算と事業規模が)医無し大学よりはるかに大きい.それらの大学では,事業規模からすると医学部以外の学部は医学部に貼り付いているようなものであり,実体はほぼ医学部大学といってよい.それらの大学は,高知大学でも大分大学でも,地域医療の中心になるのであるから,政治的に潰せないだろう.困る人が多過ぎる.対して医無し大学の場合,自虐的に過ぎるいい方であるが,事業規模からするとゴミのようなものであり,なくなっても困る人はいないのではないか,という気がする.埼大の場合も,なくなって困るのは埼大通り商店街と,埼大出身閥を維持したい教育関係者くらいではないか? などとしみじみ考えてしまった.

教員と職員の不足率
 上記の回帰式から,大学ごとの教員数と職員数の予測値を算出できる.そして教員数と職員数について,まず残差(実測値-回帰式からの予測値)を計算した.例えば教員数の残差が正なら予測より教員数が多いことを,負なら予測より少ないことを表す.埼大については,まず教員数の残差(教員不足数)は-115.0であり,教員は予測より115名少ないことになる.82国立大学中で悪い方の9位である.職員数については,残差(職員不足数)は-47.6であり,やはり不足している.悪い方の26位である.
 しかし,残差は現員の規模が大きければ数字が大きくなるだろう.そこで,教員不足率(教員不足数/教員数)と職員不足率(職員不足数/職員数)を各大学について計算してみた.埼大の場合,教員不足率は-.253で82大学中堂々の3位,職員不足数は-.220で15位だった.つまり埼大の場合,職員も不足がちであるが,深刻なのは教員の不足である.ワースト20を下の表に載せた.

200211_20200212144501

 教員不足率が高いのは,主に,教員規模に比して院生数が多い大学である.推定した回帰式は,比喩的にいえば対象大学の全体的傾向を平均化した推定式である.その回帰式を前提にした話であるが,この式からは院生数が教員不足率に最も多く反映される.意外にもワースト1位は上位大学の一橋だった.一橋の場合,上位大学としては院生数が突出して多い訳ではないが,なにせ教員数が少ない.イモ洗いの法律経済系の発想が院生が多くなった状況でも引きずっている結果なのかも知れない.
 職員不足率は教員数が少ないと生じやすい回帰式になっている.だから不足率が高い大学は教員数に比した職員数が少ない大学である.また,有意ではないが回帰式には院生数の係数が残っており,計算上,院生数が多いと職員不足率も上がってしまう.一橋が職員不足数で見ても悪いのは,職員の比率が低いことに加えて院生数が多いことの結果といえる.

埼大ケースの評価
 埼大の場合に深刻なのは教員不足率の高さだろう.単純に教員数が少ないのである.また,学部生数との比率を考えれば院生数が多過ぎるとは見えないけれど,埼大の院生数の絶対的な多さは教員不足率を押し上げている.あくまで推定した回帰式を前提にすれば,という話であるが,埼大の教員数でこの院生数を維持して教員不足率をゼロにするためには,学部生数を約2/3に落とさないといけない.院生定員を増やすなら,その増加分の数倍の学部生を減らす必要があったのである.ただ,それでは財政が成り立たないだろう.
 大学院重点化やリサーチユニヴァーシティ志向は,それ自体は結構であるけれど,本格的に上位大学の真似をするならそれなりの基盤構造を整える必要があった.私が20年前から「統合したら」といっていたのはそれゆえである.統合すれば弱い分野が消えるだろうが,見込みのある部分は補強されるだろう.
 埼大の職員不足率が低い原因は一橋と同じである.もともと教員数に比した職員数が少ない(思えば,教職員削減の際には,昔から,職員の削減を優先してきた).その上に院生数の多さも効いている.ただ,職員不足率についていえば,悪い方の15位であるから,受忍の範囲のように思う.埼大の場合,1キャンパスに集約されているので,職員数の不足はカヴァーできるのではないかと思う.信州大学や山口大学など多くの大学が,複数の離れたキャンパスに分散している.それでは職員を減らしにくいだろう.埼大では工夫のしようはあるように思う.
 ただ,教員不足率が高いとすれば,事務方が教員をサポートしないまでも,「やさしくしてあげる」必要はありそうである.が,事務方に「やさしくしてあげる」余力が出るかどうか,という問題があるかも知れない.事務方に余力がなければ教員は踏んだり蹴ったりだろう.院生数の多さからいって,理工研の教員の負荷が大きいかも知れない.

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今年の埼大の入試 2020

 表題では「埼大の入試」と書いた.しかしここで話題にするのは私が関心のある埼大教養学部の一般入試のことである.一昨年の入試で教養学部の前期の出願倍率が2.2と低かった.そのことがあって昨年,出願期間内に毎日,教養学部の出願状況をウォッチしていた.幸い昨年度は倍率2.68に戻した.同じ流れで今年も,出願期間の間,教養学部の出願状況を眺めていたのである.
 今年の教養学部前期の最終的な出願倍率は2.92だった.昨年度よりも高く,この10年間の平均より高いと思う.惜しくも3倍には達さなかったが,良い方の結果だろう.受験者人口が徐々に減る中で,当面このくらいの倍率を維持できればよいと思う.
 教養学部の後期の出願倍率は10倍を超えたけれども,昨年度よりやや下がった.しかし後期については昨年度が高過ぎたのである.
 前期で倍率が上がって後期でやや下がったのは,実は千葉大学の文学部も同じである.千葉大の国際教養学部は,後期募集はないけれども,前期はやはりやや上がっている.だから埼大教養学部で前期で上がり後期で下がったのは,埼大教養学部の特殊要因によるのではなく,この地域,この分野で生じた構造的な効果の結果と見るのが自然のように思う.
 埼大教養学部の前期,千葉大文学部の前期,千葉大国際教養学部(前期のみ)の3つの募集単位について,出願期間内の出願倍率の変化を,昨年の当ブログと同様にグラフにしてみた.すべて倍率が同じ程度に上昇した点を除き,昨年度とほぼ同じである.千葉大の2学部とは昨年同様,倍率で1倍強の差がある.千葉大学の文学部と国際教養学部がほぼ同じカーブになっている点が面白い.

200206  

 千葉大の文学部と国際教養学部を取り上げてみたのは,この2つの学部を足して縮小したのが教養学部のようであるためである.現状では教養学部はこの2つの学部に敵わない.しかし何れは立場を逆転させなければならない.今のままの力を維持しながら埼大に賢い経営者が出現する時を待つべきだろう.

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学長による学部長選任

 茶飲み話である.昨年の11月頃と思うが,大分大学の経済学部長の選任についての記事が全国紙のウェブサイトに載っていた.複数全国紙が報道済みなので「某大学」といわないでよいだろう.経済学部教授会が学長に対しある教授を学部長に推薦した.けれど学長は別の教授を学部長に選任した,という,よくある話である.私が観た記事は,その学部長選任の話そのものではなく,その件に付随する椿事のニュースだった.その椿事というのもたわいのない話である.
 ネットでニュースを調べると,地元メディアを除くと,進歩的知識人印の左派系メディアがその件をよく報じているようだった.たぶん「けしからん話」という思い入れが,記事の書き手にあったのだろう.
 私は単純に,周回遅れの話だな,と思った.私が人文系学部長会議に出席した最後は2015年だったが,その頃既に,いくつかの地方国立大学に,学部長人選が学長によってなされた事例が紹介されていた.それから5年経つ訳だから,学部長が学長によって決まる事例は積み重ねられているような気がする.
 現状の国立大学の制度からすると,学長が学部長を自ら選ぶと決めれば,抵抗はできない.学部長を学部教員が決めることにも,学長が決めることにも,それぞれ良いところと悪いところはあるだろう.しかし外側の制度が学長の判断を優先させるようにできているから,その制度に合わせて対応する以外にない.学長が決めるという方式も,そんなに悪い訳ではないだろう.

 法人化後,大学の基本設計のコンセプトが大きく変わった,ということだと思う.以前は大学の自治という考え方があった.要は自主管理である.自主管理の理念からは平等な者が合議で決めるのが正義になる.学長や学部長(部局長)は,その平等な者たちの代表者という位置づけだったのだろう.物事の決定は委員会の合議で決め,最終的に教授会で承認して上がり,という考えだった.法人化後は変わった.大学が組織であることが前面に出るようになった.学長や部局長は「管理者」ないし「上司」であり,代表者ではない.一般に,組織において,上司を部下の選挙で決めることはないだろう(たまにそういう職場もあろうが,たぶん小さい組織である).
 この変化を良しとするか悪しとするかは考え方である.私は「まあいいんじゃない」と思う.私の在職中の経験からすると,みんなで合議して決めてロクなことはなかった.好例が教育企画室である(私が退職してから改善されたかも知れないが).特に人の処遇に関することは,規則や正義を口にしながら実は私憤を晴らしているような事例がまま見られた.具体例は挙げにくいが,私が学部長のときの部内の見聞でも,どうしてそんなアホな結論になるかが理解できない委員会決定も多かった.「上司」が権限を行使して決めることがロクでもないこともあるだろう.が,合議しても似たようなものであり,上司が決めた方が手間が省けることが多いだろう.

 学長が学部長を選んでよいと思う1つの理由は,学部長になりたい人がいないかも知れないことである.私が埼大の教養学部に着任した頃は,学部長になりたくて仕方ない人が何人かおられた.彼らの間で意地悪をし合っていたのである.しかし次第にそういう状況でもなくなった.じきに,仕方ないから自分が引き受けよう,と考える方が学部長になるようになった.岡崎先生や関口先生がそうである.その後,学部長のなり手がなく混乱が生じて私が学部長になった.私は何度か学部長に選ばれたが,事態が正常なら私が学部長になることは一度もなかったろう.
 そういう事情もあるから,学長に学部長を選ばせてあげてよいのではないか? 任命責任も学長に負わせてよいのではないか?

 上の大分大学のような事態が,私がいた教養学部でおきたらどうであろうか,などと面白がって考えてみた.学部として1人を学部長に決めたとすれば,その人以外で学長にいわれて学部長を引き受ける教員はいないのではないか,と私は思う.仁義からいって私なら引き受けない.誰も引き受けないことを前提に学長側と交渉すべきだろう.大分大学の某学部の場合,学長にいわれてホイホイと学部長を引き受ける方がおられたことが,そもそもの敗因だった気がする.

 大分大学の場合,規則の作りの問題もあったようだ.全学の規則は,学部から意見を聴くことを経て学長が学部長を選ぶことになっていたという.普通である.しかし経済学部の「教授会要項」では部内の選挙で1人を選ぶことになっていたという.メディアによる大学関連の記事はしばしば不正確である.だから大分大学の規則原文をネットで調べようとした.しかし大分大学の公式サイトには,学則と学部・研究科規則(何れも学事関連)しか載っておらず,メディアで言及された人事規則は確認できなかった.想像では,経済学部の「教授会要項」とは,大学の正式の規則ではなく内規に過ぎないのではないか,という気がする(が確認できない).
 埼大の場合は公式規則が人事面を含めてネットで公開されている.昔からである.埼大は情報の透明性という点で優れているかも知れない.
 ただ(見落としかも知れないが)埼大の場合,部局長を学長が選ぶと明記した管理の規則はないのではないか,と思えた.つまり各研究科・学部の長の選考規程しかないのではないか.これらの選考規程では選挙で研究科長・学部長の候補者を決めることになっている.大分大学では選挙は許されない.むろん埼大でも,選挙結果の「上申を経て」学長が任命する,となっている.この「経て」(「基づき」ではない)である点で学長は選挙結果と異なる人選ができる,という含みがある,という解釈なのだろう.ただここまで選考規程があると,学長が上申された人以外を任命することを想定する風でもない.埼大は結構,自主管理色が強い,部局が強い,伝統的なシステムになっているのかも知れない.

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外国語教育の放置され具合

 私が埼大を退職したのは2017年の3月である.その時点で埼大では,学士課程の共通教育部分(教養教育,外国語教育,…)は「放置されている」感があった.教養学部の立場でいえば,特に気になったのは外国語教育の放置され感だった.
 各学部の教育部分(専門教育)は何れもちゃんとした労力が投入されていたと思う.が,対照的に全学共通の部分は,原理的に共有地の悲劇に見舞われるから,強力な管理者がいない限り崩壊に向かうという,いわばテキスト通りの展開だといってよい.
 外国語教育といっても,英語と英語以外の外国語では展開が異なる.

要求が大きいのに資源はケチられた英語教育

 法人化する前の段階で,埼大の英語教育は地方国大の中でも資源が貧弱だった.単純に,1クラス当たりの学生数が多いまま(おそらく最悪)だったのである.大綱化で教養部が解体になると旧教養部部分は何れも管理問題に直面した.が,英語についてはじきに英語センターが設立され,それなりに人的資源も付いたと思う.しかし学士課程の全学生の8単位(授業時間数でいえば16単位分)を担う割には,専任の数は常に少なかった.法人化と前後して英語にCALLが導入されたのは,少ない資源で間に合わせるための方策という意味が(それだけとはいわないが)あったと思う.
 英語センター(正確には英語教育開発センター)は,乏しい資源でよく仕事をこなしたと思う.英語の授業体系をかなり整理し工夫をした.埼大の個別試験の英語の問題は他大学に比べて優れていると思うが,英語センターの先生方の貢献が大きいはずである.
 しかし,英語センターに与えらえた資源は常に過小であったと思う.例えば,ICUは英語の授業がかなり多い授業体系を持ち,教員中の英語担当教員の比率はかなり高い.多くの授業を全部専任で,責任をもってこなしている.
 グローバル事業をしている期間,教養学部は英語センターに依頼して,留学志望の学生向けの授業を拡張することをお願いしていた.英語センターにはその点で大いに貢献を願えたけれども,やはり受講者を絞らざるを得ない留学向けの英語授業を拡大するには,人的資源の面で限界があった,と実感した.今後,埼大が英語教育に,ICUの半分くらいでも力を入れるとするなら,資源の配分の仕方は再考しないといけない.ただ埼大の場合は英語への資源投入の方向には向かわないだろうな,という気がする.
 私が退職した2017年時点で,確か英語授業でCALLを止めるという話になっていた.その頃に私が懸念したのは,資源節約のためにCALLをやっていたのに,CALLをやめて資源を増やしてもらえるのか,という点だった.
 現状の英語授業がどうなっているかと思い,先日,埼大のWebシラバスを眺めてみた.英語ⅠとⅡの主流の授業は,対面授業と,授業時間外学習の e-Learning の組合せのようだった.たぶんCALLよりe-Learningの方が標準的な英語教育に近いのだろうと思う.が,CALLの時と同じ人員配置でできる体制のようであり,CALLを止めても資源は付かなかったのだろうと想像させる.主流の授業での1クラスの受講者数の上限はえらく多いのが気になる.大きな受講者数で英語教育になるのか,と疑問を感じた.
 資源がケチられている点で,埼大の英語教育の立場に改善はなかったのだろう.
 今後どうなるかも気になるところである.埼大は全学のプレゼンスが弱く,部局が強い.そこで英語センターは,昔から,「ウチのための英語をやってくれ」という依頼を受けてきた.しかし,他の方と意見が異なるかも知れないが,英語センターは個別部局の要望とは独立に英語教育の体系を維持すべきというのが私見である.英語は英語であり,違いがあるとすれば水準の上下に過ぎない.例えば英語圏大学の文学専攻に留学する場合は,通常,要求される英語水準も高くなる.単に分野別の英語であれば,部局の先生方が英語で授業をやればよいだけである.どの部局も,それはできるだろう(ただやりたくないだけである).
 私がまずいと思うのは,まあないと思うが,英語教員のポストを部局に分けてしまうようなことである.そうなると英語教育はたぶん融解して行く.かつて情報教育で各部局にポストを付けたら,部局によるが,そのポストを部局がいつの間にか別用途に使った,ということが生じた.同じことが生じるだろう.
 英語教育は強力なdepartmentにしないと運営できない,というのが私見である.

英語以外の外国語教育の放置され具合

 埼大では,英語教育は不遇であってもそれなりの専任ポストで運営されていた.だからまだよい.放置され感が決定的に強いのは英語以外の外国語(ドイツ語,フランス語,…)である.
 まず現状をいえば(私の退職時点と変わらないと仮定して),英語以外の外国語の教育のための専任ポストは皆無なのである.授業は原則非常勤ポストで運営されている.専任(教養学部教員)が授業担当することもあるが,担当する場合はその分の非常勤枠を得られる.そこで非常勤枠が欲しい場合は外国語授業を担当しているだけなのである.
 英語以外の外国語の授業もよく制御されていると思う.基本設計は,田隅学長時代,教養学部の関係教員と教育企画室(企画室長が現学長の山口先生)が協議して進めた.設計自体は結構良いのである.まず言語ごとに異なっていた授業科目名を統一して整理した.また,地方国立大学には珍しく,独仏中語以外にスペイン語,イタリア語,ロシア語,韓国語を導入した.この点は立派なものである.
 ただしその運営主体には専任ポストの裏付けがない.教養学部教員で外国語に詳しい先生が「協力」しているだけなのである.だから管理運営企画には限界がある.実際,専任教員無しで外国語教育が実施されている例は少ないように思う.将来的に協力できる教員がいなくなる可能性も排除できない.
 各外国語には英語と同じくⅠとⅡ各4単位分の授業が開講される建前であるが,私が退職する頃に,Ⅱの授業の半分2単位分の非常勤しかもらえない外国語が出て来る,という話を聞いた.そりゃないね,と思ったものである.先日,実際どうなったか,埼大のWebシラバスを見てみた.なんと,Ⅱの授業が4単位分開講されてるのはフランス語だけ,他は2単位分だけだった.まあ,Ⅱが1年で2単位分しか出なくても,次の年度のⅡの2単位をとればⅡの4単位が揃うかも知れない.しかし語学であるから,次の年度にやればよい,というものでもないだろう.
 私の立場からすると,英語以外の外国語の専任教員ポストが皆無になったというこの展開には悔いが残る.法人化前の段階で,教養学部は学部教員ポストを拠出して,全学に,英語以外用の外国語センターを設ける計画を立てていたのである.当時私は教養学部の将来計画委員長をしていて,拠出するポスト数まで委員会案として決めていた.ただ,時の教養学部執行部がすぐに動かなかった.ちょうど学長が田隅先生に代わるタイミングなので動きにくかったかも知れないが,教養学部がグズグズしている間に「教員定数の再定義」(旧教養部ポストの「全学化」)の話が出てきてしまった.この再定義を評議会で決定する前の段階で外国語センターを作る,という案が急浮上したこともあった.が,その時は在職教員を指定してセンターを作る案(しかもセンターの地位が不明確)だったので,当該教員の賛同を得られるはずもなく,流れた.あの性急な「教員定数の再定義」が,もう少し冷静な制度設計を経ていれば,状況は変わっていたかも知れないのである.
 他の国立大学の「英語以外の外国語」教育の体制がどんなものか,ネットで多少調べてみた.やはり格の低い大学の場合は,「英語以外の外国語」教育の体制は弱い.東大をはじめとした旧帝大など,上位の大学はしっかりしている.「英語以外の外国語」には大学間の格と規模の差が如実に表れてしまう.貧しい大学は外国語の部分を食いつぶしてしまうのだと思う.
 もし英語以外の外国語の教育を安定的に供給しようとするなら,センターを作ることは次
善の策であり,一番良いのは外国語授業を全学に提供することをミッションの1つとするdepartmentを作ることだろう.米国の州立大学であれば German Language and Literature(日本なら独語・独文学科)のような departmentがあり,そこが全学に当該外国語の授業を提供するだろう.格の高い大学では扱う外国語の数も増える.そういうdepartmentを持つ格好になっていれば,外国語履修者数の周期的消長はあるとしても,授業を提供する能力が保持できる.ただその格好にするためには,日本の地方国立大学の場合,複数大学を統合して規模を大きくしないと無理である.

外国語教育をどうするかは大学のコンセプトの問題

 外国語教育について簡単に書いてみた.実際,どうすべきかは大学のコンセプトをどのように設定するかの問題である.外国語教育機会が安定的に維持されることは大学らしさの1つの側面だ,大学とはそういうものだ,と私は思う.しかしそうは思わない方がおられても仕方がない.また,外国語教育を望ましいとしても,そのためにより大きな規模の組織を目指すかどうかの判断もあるだろう.
 ちなみに申せば,埼大の教養学部は,4単位だけであるが,英語以外の外国語を必修にしている.その理屈づけは,多文化への対応と理解をディプロマ・ポリシーに入れたことによる.世界共通語というツールとしての英語と,他の外国語とは位置づけが異なる.教養学部は理念として多文化への対応を必須要件と考えたのである.だが本来,大学とは,専門にかかわらず,多文化への対応と理解を学ぶべき場所ではないのか? 今の国立大学は文科省からの指示待ち・様子見の状態であり,特にすることもないのだから,その間に大学のコンセプトを考え直してよいように思う.

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旧制浦高というビジネスモデル

 1つ前の記載は埼大に潜んでいる幽霊のような2つの想念をテーマにした.「幽霊」と呼んでみたが,その想念を捨て去るべきだと言いたかった訳ではない.その点は『宣言』が妖怪と呼んだ共産主義を否定しなかったのと同じである.「2つ」と書いたが,論評したかったのは第2,つまり旧制浦高の件である.第1の方はついでに触れたに過ぎない.
 この記載では次の2点を書きたい.第1は,総合・複合型の地方国立大学はその発足の基盤に旧制高校を含んでいたか否かで大学としての格好が異なること,そして,旧制高校を基盤とする大学の特性を活かすか否かは選択であることである.第2は,活かすとすれば,埼大にとって旧制浦高は1つのビジネスモデルになるかも知れないことである.

地方国立大学の格好

 地方国立大学は戦後(1949)に設置された建前であるが,実態は戦後に大学に格上げされた専門学校の複合というべきだろう.旧帝大は戦前から(学部構成の点で)「完全体」の大学だった.いわゆる「旧六」は,戦前から官立大学であった医科大学に資源投資し,旧帝大に近い体制で発足させた準完全体の大学である(長崎大学だけは地方国大に近いような気がするが).医科大学が基軸になったのはある意味,仕方ない.医学部1つ作る予算があれば,医学部のない新制大学を複数個作れるからである.ともかく,旧帝,旧六とも,戦前から大学だった.
 それに対し,純然たる新制大学である地方国立大学は,戦前からあった師範学校,医専,工専,高商,農林学校,それに旧制高校などを県ごとに集め,大学というレッテルを貼って発足させた大学である.だからもとより「不完全体」の大学である.同じ大学でも部局によってキャンパスが離れていることが多いのは,元あった旧制の学校の敷地をそのまま使っているからだろう.埼大の場合,発足時点では師範があった常盤と浦高の北浦和で,キャンパスが2つであったと思うが,そのままでは新設する工学部の敷地が不足するから大久保地区に all-in でない one campus として移動した,という経緯だろう.
 地方国立大学は発足後に新学部が多少は付加されたと思うが,完全体というには足りない.そして全体の格好は設置時に基盤とした旧制の学校の組合せによってその姿が異なっている.視点はいろいろあろうが,私見では,大きな相違は旧制高校を基盤の1つとしたか否かである.

旧制高校を基盤としない地方国大

 旧制高校を基盤としない地方国大は実業系の学校の集合体という性格が強くなる.
 例えば群馬大学は,医専(正確にいうと群馬大学発足の1年前に医科大になっている),工専(正確には桐生高等染織学校),師範を基盤としており,旧制高校は入っていない.だから,米国の州立大学では常に中核となる College of Arts & Science 部分,つまり日本の大学だと文系や理学部にあたる学部がない.文系は教育学部にあるが,あくまで教員養成のミッションに従属するから,人文学部のような学部には相当しない.文系はおそらく,発足後にできた教養部にしかなかったろう.その教養部の解体に伴って社会情報学部ができた.しかしその社会情報学部も今後の改組で文系とは離れる部局になる公算もある.社会情報学部が残ったとしても,失礼ながら,文系は貧弱なままである.また,理学部はない.最近,工学部が理工学部を称するようになったが,実体は工学部である.
 宇都宮大学も旧制高校を基盤としていない.師範と高等農林学校から発足し,埼大と同じ頃に工学部を追加した.したがって教員養成学部を除けば,文系は教養部にしかなかったろう.教養部を解体し一部の資源を使って,埼大教養学部と中身が似た国際学部を作り,はじめて文系学部を持ったことになる.今後の財政状況によってであるが,失礼ながら,規模が小さいだけに国際学部の先行きは埼大教養学部より細いだろう.むろん理学部はない.
 横浜国大も師範と工専,それに高商(高等商業学校)を基盤としており,旧制高校は入っていない.横浜という土地柄からして高商の存在が強く,後に経済学部から経営学部が分離した(本来,経済学と経営 Business/Managementは別の生き物である).そんなわけで横国も文系のうち人文は,教養部と教員養成学部にしかなかった.横国は教養部解体後,教員養成学部のポストも使って人文色の学部を設置するだろうと私は思っていた.が,文系も都市工学のような部局の中に吸収してしまったようである.やはり大学の基本が実業系であるから,文系を活かすということにはならなかったのだろう.
 以上で例示した大学は何れも立派な大学である.宇大は地域貢献で我が国の先端をゆく.群馬大学は,医学部があることによると思うが,研究論文のシェアは埼大より上のランクに位置する.横国は重点支援①の国立大学のなかで,日本版のTHE大学ランキングでトップに位置する.とはいいながら大学の基本性格としては大まかに,不完全体の新制大学の中で,実業色を特徴とする大学と位置づけることができるだろう.

旧制高校を基盤の1つとする地方国大

 埼大は旧制浦高を基盤の1つとしている.この旧制浦高から文理学部が発足し,教養学部,経済学部,理学部に分かれた.教養学部と理学部,それに経済学部(の経済学部門)が米国流にいえば,規模が小さいとはいえ,Arts & Sciences に相当する.ただ,埼大の場合,学部規模が大きかったのは教育学部と工学部という実業系ないし職業訓練系の学部であり,この2つが政治的に強かった.工学部と理学部が理工として合体したことも大きい.だから次第に,旧制浦高が基盤であったという事実は薄れ,旧制高校を基盤としない地方国大と区別ができなくなっていった,という経緯だと思う.
 埼大の近くにある,旧制高校を基盤の1つとする地方国大は茨城大学である.茨大は旧制水戸高校と師範,工専を基盤に持ち,後に県立農科大を包摂して農学部とした.旧制水戸高校の部分は埼大同様に文理学部となり,さらに理学部と人文学部(と教養部)に分かれた.人文学部は埼大の教養学部と経済学部を合わせたような学部であり,私が教養学部長をしていた時期に人文社会科学部と名称を変えて設置し直している.つまり,ちゃんと理学部と人社系学部を持った大学なのである.
 旧制高校を基盤の1つとする地方国大の雄は信州大学だろう.信州大学は地方国大が持てそうな学部をすべて持っているように思う.旧制松本高校,師範,医専(正確には1年前に松本医科大),農林学校,工専,繊維専門学校を基盤とする.旧制高校を基盤とするから,人文学部,経法学部,理学部を持っている.基盤がいろいろあっただけに,キャンパスも沢山あって大変だろうと思う.
 旧制高校に基盤を持つ大学も,分野構成と全体規模において不完全体であることは変わりはない.しかし小なりとはいえ,中心に Arts & Sciences の部分を据えているという意味において,格好としては完全体にやや近いように思う.むろんそのことは大学の評価とは別である.

旧制高校由来の大学らしさ

 あくまで私見であるが,旧制浦高由来の大学らしさという理念は,上井学長の時期の前半,まだ川橋理事がおられる頃までは存在したと認識している.工学部出身の川橋理事がそのような理念を口にしておられたからである.しかし上井学長後半期にはその川橋理事に代わって現学長が理事になられた.その頃からこの理念は消えていったように感じている.今,旧制浦高神話は希薄になり,その存在さえ人の念頭からほとんど消えただろう.だから前の記載で私は「幽霊」と呼んだのである.
 ただ私は,この幽霊は呼び起こしてよいように思っている.米国の大学が学問の純粋領域である Arts & Sciences を中核とするように,理学,社会科学,人文学という中心が明確に存在し,それぞれの領域が互いを尊重して共存してユニヴァースをなすことが大学らしさである,という観念を私は持ち続けている.この大学らしさは,「文理融合」などとは次元が異なる.
 上井学長の前半期のことであるが,当時の執行部が他大学に連携を模索したことがある.私が伺った限りで,話の相手は,上でも書いた群馬大学と横国だった.その両大学とも,埼大との連携にあまり乗り気でなかったようだった.しかし両大学から期せずして教養学部を評価するメンションがあったと伺った.そのことによって教養学部は実体的な恩恵を受けたのであるが,その件は詳しくは書かない.
 私の想像であるが,両大学とも基本が実業系である.であるが故に人文系を保持する埼大に敬意を払う面があったのかも知れない.むろん,埼大でも人文系は実は誇れるほどの規模は持っていない.しかし輝くものがあると見えたのだろう.

旧制高校の伝統を活かすという選択

 旧制高校が発足の基盤にあった地方国大には旧制高校の伝統を(今様に)活かすという選択を,すればできる.この選択が意味を持つのは主に教育面だろう.旧制高校の伝統を活かすとは,抽象的には有効期間が長い基礎力の重視である.その基礎力重視をどのように具体案にするかは各大学の見識による.たぶん目指す方向は2つであり,第1は Critical Thinking の育成,第2はその思考を表現する技術だろう.
 旧制高校の伝統を活かすことは当然,教養教育の充実を含む.が,教養教育(General Education)とは元来,大学教育の最低ラインの表現であり,教養教育というだけでは積極性に乏しい.内閣府の骨太の方針の言葉を使えば「学部・研究科などの組織の枠を超えた学位プログラムの制度化により、広さと深さを両立した新たな教育プログラムを推進する。」という話だろう.この方向は米国の大学教育の方向性でもある.
 埼玉大学は,元来は旧制浦高を基盤としながらも,現状では最低ラインの教養教育すら維持が難しい.旧制高校の伝統を活かすとすれば,履修規則における教育モジュールの比率の見直し無しには進まない.現状では学生の所属学部(主に所属学科)の必要単位数が大き過ぎる.米国並みに修正することがまず必要に思う.大学院は専門性を追求する課程であるが,学士課程は「広さ」を前提に制度設計がなされているはずだからである.

旧制浦高というビジネスモデル

 旧制浦高は成功事例なのだろう.旧制高校がどれほどの教育をしたか,私はデータを知らず,直感的には大したことはしていないような気もする.しかし,旧制浦高が存在したのは30年弱の時間だったにもかかわらず,東京帝大をはじめとした帝大に人を送り出し,その間に知名度を得たのは確かなようである.浦和は東京に近かったから,東京志向の学生を集めてうまく回ったのではないかと思う.
 埼玉大学がうまく行くとしたら同じパタンであり,その意味で旧制浦高は埼大のとるべきビジネスモデルなのではないか,という気がした.つまり,東大をはじめとする上位大学の大学院に学生を送り出し,知名度を高める,ということである.現状でもある程度その形になっており,東大の院に行ってノーベル賞を獲った梶田先生は顕著な成功例だろう.留学に出る学生の数と同じで,ある一定のクリティカルな数を超えれば飛躍的に数字は延びるように思う.上位大学の院に行くなら埼大に入るのがセカンドベスト,という定評を得れば良い学生が集まる.上位の学生は上位大学の院に行くだろうが(今でもそうである),埼大の院に入る学生の質も上がるだろう.そうすれば,特に理系で,研究も回りやすくなるように思う.
 上井学長の末期に作った機能強化プランは修士課程を厚くする措置だった.だが同じ時期に東大や京大は同じ予算枠で学士課程への投資をしていた.手を打つなら下から始めて年度進行で上(大学院)に行くのが正しい手順だった.埼大は変なことをしたように私は思っている.今からでも,学士課程の教育に手を打つべきではないかという気がしている.

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埼大を徘徊する2つの幽霊

 『共産党宣言』のように妖怪が跋扈しているといいたいのではない.もっと幽かな想念が物陰に隠れながら生き続けている,といいたいのである.次の2つである.

 第1は,埼玉と東京を分けるのは間違いであり,(熊谷は知らず少なくとも南部の)埼玉は実は東京と一体だ,という想念である.言葉にすると馬鹿にされるので誰も言語化はしないが,無意識にそのように考える人は埼大関係者に,これまで結構おられた.だから受験者向けに「東京良いとこ,埼玉(大)においで」と平気でいえる.私は埼大に着任してしばらくの間,なぜ「東京良いとこ,埼玉(大)においで」といえるのか不思議でならなかった.埼玉であることに誇りはないのか,東京がそんなに良ければ人は東京に行ってしまうではないか,東京の人間が埼玉にどれほど冷たいかを知らないとでもいうのか,と思ったものである.
 考えてみると,東京都と埼玉県を合わせた地域が(大まかには)武蔵国であったから,東京と埼玉は不可分であるという考えには歴史的根拠があるだろう.幕府が江戸にできたことが東京とそれ以外の武蔵国を分ける転機だったのかもしれない.東京府は三多摩を主に神奈川県から編入することによって不自然に横長の行政区になった.が,縦長の行政区にすれば大宮くらいまでは東京府に入ったかも,などと私は妄想する.

 第2は,旧制浦高は旧制一高に次ぐ名門校であり,その後継たる埼玉大学(の教養学部など)は偉い,という想念である.実は旧制浦高は20番目にできた旧制高校であり,旧制のナンバースクールではない(ちなみに,私の出身県の旧制水戸高校は13番目の旧制高校という).だから旧制浦高には大した由緒はない.にもかかわらず旧制浦高が偉いという考えは,東京帝国大学の入学者数が一高に次いだことによるらしい.そりゃ,二高や三高であれば東北大や京大に行く人が多かろうから,東大進学数の多さで優秀さを測れば東京に近い浦高が偉いことになるだろう.東大を基準にするのは東京中心主義の延長なのだろう.
 私が埼大に着任した頃は旧制浦高出身の教授がおられた.旧制浦高出身者の浦高への愛着は強く,埼大も格の高い大学だという自負を持っておられたように思う.千葉大などは下に見る向きがあった.「いや,千葉大は旧の一期校だから向こうが上でしょうがないですよ」と私はいおうと思って,やめた.また,浦高は一高と一緒に東大に編入されたかも知れなかった,と仰る(事実かも知れない),当時でまだ若手だった先生もおられた.
 埼大の教養学部が,人文学部ではなくなぜ教養学部としたか,である.ある古手の先生は,「文学部にしたかったけれど,文部省は新制大学に文学部を認めなかった.仕方なく教養学部になった.」と仰っていた.が,その先生は文学の先生であり,文学部が良かったのだろう.旧制一高だった駒場は教養学部と称した.一高と一緒だという思いが教養学部という名称を選ばせたのかも知れない,と私は思った.
 
 以上,埼大に徘徊する2つの幽霊について書いてみた.読んだ方は「だから何なんだ?」と問うだろう.その答えは次の記載で書いてみたい(次回に続く).

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続・国立大学の学生定員削減は不要ではないか?

 表題の話をもう少し続けよう.国立大学の学生定員削減は,個別の見直しによって生じることはあるだろうし,あって仕方ない.私の論点は,減反政策のような計画による削減は無益だろう,という点である.

問題はまだ曖昧なままである

 国立大学の適正規模の話は,検討が叫ばれているけれども,どうなるかについて判断をする材料は今のところ出揃っていないように見える.気が付いた点を挙げてみよう.
 第1に,教員定数をどうする話かが曖昧に思う.中教審答申でいう国立大学の「規模の適正化」は,学生定員に関する議論で提示されている.大体の議論は18歳人口が少なくなる,だから国立大学の学生規模を縮小しろという話なのである.ここで,学生規模と教員規模がどうリンクするかはほとんど議論がない.常識的には学生定員と教員定員は自動的にリンクする.が,そうハッキリいわれている訳でもない.財務省サイトにも数年前に掲載したと思える国立大学に関するページがある.そのページでも,18歳人口の減少を根拠に国立大学の学生定員を再考する余地があるとしている.同時に国立大学の教員規模の縮小を考慮すべきとも書いてあるが,根拠は学生定員の縮小ではなく,法人化以後に国立大学の教員規模が上がったことである.学生規模と教員規模を直接リンクさせる書き方ではない.
 教員規模は,科学技術への影響の大きい研究者数の問題であるので,また別の考慮があり得る.が,まだ議論は出ていないように見える.
 第2に,何時までに何をどこまでやるかについてはニュースになっていない.中教審答申は2040年を目安とする考えであるから,縮減するなら2040年までに計画を完成するはずである.しかし受験市場への影響が大きい問題なので,縮小の実施もある程度の時間をかけるしかない.計画作成にも時間がかかる.だから早めの対応が望ましい.にもかかわらず時間的なスケジュールの話はまだぼんやりしているように思う.
 第3に,削減の具体的な方法に関する提案が,削減幅を含めて,ほとんど出ていない.後で述べるが,旧帝大などの上位大学が学士課程を止めて大学院大学化するというアイディアが出たことはある.実際,国立大学の規模の調整をするとすれば,この例のような方法を具体的に提示しないと進まない.が,明確な主張は出ていないように見える.
 考慮すべき要因は多数あり,誰もまだ,自信をもって主張したり予測できる段階にないのだろう.

国立大学の規模削減が無理と思う直感的な理由

 国立大学の規模の縮小ができるかといえば,困難であり,合理的でもないと,私は直感的に思う.
 第1に,国立大学への政策的な期待と規模削減とは整合的とは思えない.まず,上位の国立大学(重点支援③など)には世界に飛躍することが求められているが,世界に飛躍するためには規模を縮小したらダメだろう.下位大学(主に重点支援①)は地方での地域貢献と人集め拠点であることが政策上の位置づけであるが,地方の私立大学が今後消えてゆくことを考えると,地方国立大学の削減は政策的期待と整合的でないように思える.そもそも地方を基盤とする自民党代議士が地方の国立大学の削減を容認するだろうか? 国立大学は地方への公共投資であるから,政治的に合意が難しいように思う.
 第2に,特に科学技術の観点から,国立大学の削減は決定しにくいだろう.現状で,科学論文数に最も影響するのは研究者の数であることは分かっている.国立大学は理系中心に構成されており,したがって国立大学の規模縮小は,日本の科学技術,ひいては国力へのダメージになることは明らかである.論文数は教員数の問題であるが,教育を縮小しても科学技術の継承に難が出る.そうと分かって科学技術に国運を賭ける現政権が,国立大学の縮小に踏み切るだろうか? 踏み切るのはかなり難しいように思う.

個別の見直しによる国立大学の規模削減はあるだろう

 上記のように,素人考えであるが,国立大学の規模削減は一般的には難しいように思う.しかし,個別の課程の見直しによる削減は仕方ないことであり,当然生じるだろう.次のような場合が考えられる.
 第1に,志願が弱い課程は定員の削減はあるだろう.例えば追加募集を継続的に繰り返している学科/専攻は削減は仕方ない.また,日本語によるプログラムしかないのに入学者の外国人比率が高く,日本語要件がN1より低い課程も,学生定員を削減した方がよいだろう.おそらく地方国立大学の大学院を中心にそのような削減の余地が結構あるように思う.
 第2に,教員養成課程については削減の方向に向かわざるを得ないだろう.義務教育部分(高校もほとんど義務教育化している)は減少する生徒数と必要教員数をほぼ正確に予測できるからである.教員養成課程の大学間の共有化とともに削減は生じて行くように思う.
 第3に,実に変な話であるが,既存業界からの定員抑制要求がある分野について削減は生じやすいように思う.典型的には医学部などである.
 第4に大学付属病院も削減の対象になり得るだろう.厚労省は医療費抑制のため公的病院の再編・統合に動き出しており,大学病院も考慮の対象になっている.
 このような形で,個別の見直しによって国立大学の規模削減は,ある程度生じることは避けられないだろう.仕方ないと思う.

「計画削減」は不要である

 ここで計画削減と仮に呼ぶのは,減反政策のように,国立大学システム全体を対象として,その中から目標とする削減分を捻出する方法である.
 一般に計画削減は需給調整の社会主義手法であり,社会主義同様にまず失敗する.しかも能力のない文科省がかかわるとロクなことはないような気がしてならない.ちなみに私が最近フォローしている高橋洋一(嘉悦大教授)は昨日(2019/11/02),英語民間試験の件で次のようにツイートしていた.《文科官僚。ゆとりで間抜けをやり、大学院強化・法科大学院でオーバードクター等過剰供給、医学部や獣医学部は30-50年間認可ストップで過小供給、需給調整なん手文科官僚にできっこない。英語の民間試験でも手順がまったくダメで呆れるほど文科官僚の事務処理がトロかった》(Twitterのまま)
 国立大学の計画削減の方法を論理的に(つまり exhaustiveに)求めることは私にはできない.が,以下に思いつく方法を2つあげてみる.結論としてはどちらの方法も望ましくないか,選択困難と思える.

1) 上位国立大学の大学院大学化
 旧帝大を大学院大学化するというアイディアは私が院生の頃からあった.それだけに関係者の念頭にのぼる機会が多かったろう.例として,2018.3.22付の「経団連タイムス」に本間政雄氏(大学マネジメント研究会会長)の談話が掲載されていた.同氏は国立大学の望ましいダウンサイジングの方法を次のように例示していた.《例えば、旧七帝大や地方の基幹国立総合大学は学部を大幅に縮小し、研究に重点を置いた「大学院大学」に移行するのも1つの考え方である。》ちなみに本間政雄氏とは元文科官僚であり,京大理事や立命館の副総長などを歴任し,今は学校法人梅光学院理事長をされているという.
 重点支援③に該当する国立大学は学士課程を放棄する,というやり方の例示と思う.この考え方は流布しているはずであり,非公式にはよく話に出ているだろう.ちなみに京大の山極総長はあるインタヴュー記事でそのように話を向けられ,拒否している.
 もし上位国大が一斉に学士課程をやめれば,代わりに学士課程でのトップに躍り出るのは東京と関西のトップ私大である.埼大など東京に近い地方国大はブランド校化するチャンスになるかも知れない.
 この「上位国大の大学院大学化」は私の年頭にも何度ものぼった.利点も欠点も多数思いつくが,長くなるので詳しくは述べない.が,私は国立大学にとっては望ましくないと思う.最大の欠点は,この方法を採用した場合,国立大志願という受験準備のパターンが(医学部を除いて)壊滅する恐れがあることである.うまく行けば東大や京大に入れるから人は国立大志願を選ぶのであり,(自虐的だが)うまく行っても埼大にしか入れなければ誰も国立大志願にはならないだろう.受験生は私大志願に切り替えてしまう.埼大のビジネスモデルは下方修正した上位大学志願者を地の利を活かして拾うことにあった.その点は今後も同じだろう.国立大学は,上位が回ってくれなければ下位も回らない.
 
2) 国立大学一律削減
 国立大学の定員を一律に何%削減するというのは,ずさんな方法であるけれども,かつて交付金では一律削減だったから,ない話ではないだろう.この方法の役所側の利点は,削減後に大学組織をどうするかを大学に丸投げできることにある.
 ただ,愚かな結果になるのは目に見えている.削減枠を与えられた大学が各部局に同一削減率を割り当てるなら,まだよい.学内政治というか弱肉強食で決まる可能性の方が高いだろう.私の予想では,部局への評価とは関係なく,強い部局,例えば経営協議会や学長選考会議の外部委員に応援団委員を出せるような部局は削減を免れ,政治的に弱い,埼大なら教養学部のような学部が割を食うという結果になるように思う.

 2つの計画削減方法を例示してみた.むろん,削減は,削減に付随する措置との組み合わせでいろんな方法で生じ得る.例えば,統合を経て削減をする場合もあるだろうし,削減後に研究上足りなくなる分野を独法の研究所を設立して補う,という方法もあるだろう.しかし計画削減それ自体の方法としては,上記の2形態かその中間形態になるように思う.
 このような計画削減は,個別の見直しによる削減に比べると不合理な結果を導くように思う.私見では,最も望ましい削減は,受験市場での評価(志願倍率など)に沿って個別に見直し,それで我が国の政策要請に照らして足りない研究分野があるなら,削減した資源を使って理研のような独法の研究所を作ることではないかと思う.むろん研究所を大学に作るのも選択である.

削減を回避したいなら国立大学は何をすべきか?

 国立大学に対しては,交付金にせよ学生/教職員定員にせよ,削減の話は断続的に出るだろう.理由は単純であり,公金を使っているからである.公金を使っていなければ財務省も何もいわない.だから国立大学は,公金を使わないようにするか,使うならその合理性を示す必要に迫られる.財務省の立場は,一般市民の立場からは理解できるように思える.
 そう考えれば,国立大学が目指すべきことは,常識論で恐縮だが,次だろう.

1) 財源の多様化
 政府は国立大学の財源の多様化を求める.が,財源多様化は国立大学のためでもある.財源を多様化できるなら削減する根拠は小さくなる.財源を多様化して収入における交付金の比率を小さくすべきだろう.交付金比率が高ければ,国の財政状況が悪くなったときに大学は潰されても仕方がない.国立大学にとり,財源多様化の重要性はかなり高い.

2) 学費値上げ
 財源多様化といっても,当ブログの少し前の記載で書いたように,多様化をできる度合いは大学によって多分異なる.受託研究費を稼げる上位大学は多様化を進めるだろう.しかし下位大学は上位大学ほどの進展は見込めないような気がする.
 だから学費を値上げする以外にないだろう.埼大の場合,教員規模に比べ学生が多いので,学費を文系私大並みにするだけでかなり収入増になるはずである.
 望ましいのは文系は学費を据え置いて理系の学費を上げることである.理系は,正確には分野によるが,学生当りの標準教員数は多く算定されており,その分不採算部門であるはずだ(埼大に限らず最も採算が良いのは経済学部である).理系の場合,学費を多少上げても私大理系の学費との格差はなお大きい.埼大の場合,理系(理工系)は学費を上げるか受託研究費を増加させて全学に回すかの何れか(あるいは両方)をすべきだろう.(でもしたくないから,理工系は学長を握ることに必死になるような気もする.)
 国立大学は,国に金をくれというのではなく,例えば教育国債を発行して奨学金かバウチャーで学生を援助することを社会に訴えるべきと思う.教育国債に対しては財務省が早々と否定的な考えを表明している.しかしゼロ金利の今は教育国債を主張すべきタイミングなのである.

3) パフォーマンスの高さを分かりやすく示す
 その他になすべきことは大学のパフォーマンスが高いことを分かりやすく示すことである.財務省は国立大学のパフォーマンスが高いことを求めている.その理由は単純であり,公共的な予算の支出は一般に費用対効果で判断しているからである.だから,国立大学を維持する費用が高くても,効果(パフォーマンス)が高いことを示せばよい.たぶん,研究にせよ教育にせよ,きちんと調べれば,国立大学,特に埼大はパフォーマンスが高いだろう.その点を分かりやすく示す工夫が重要になる.
 研究のパフォーマンスを示す方法は決まっており,よくいう優秀論文の数と比率に帰着する.問題は教育のパフォーマンスが曖昧になことである.JABEE方式ですべての分野について高い教育水準が保たれていることを示すのが正道のように思える.

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国立大学の学生定員削減は不要ではないか?

 このブログの以前の記載で,国立大学の学生定員の削減があるだろうと私は書いてきた.が,その削減がどのように起こるかについては,実は私にはイメージがなかった.ではその削減がどのように生じるものかと,私の中で非意図的な自動思考が生じた.
 考えるうちに,国立大学が学生定員を削減する必要は,まったくないか,ほとんどないのではないと思うようになった.私はあくまで素人であるから,正確なことは予測できない.だからいうことは茶飲み話の範囲である.その茶飲み話として以下に私が思ったことを書いてみる.

なぜ学生定員の削減が話題になるか?

 国立大学の学生定員の削減が公式に話題になったのは,昨年,2040年の状況に対応するための昨年の中教審の答申(『2040年に向けた高等教育のグランドデザイン』)が高等教育機関の規模の適正化の必要を明記したからだろう.ただそれ以前から,大学の規模への言及は世間にあった.平成初めの18歳人口の直近のピーク時(おそらく団塊ジュニア世代)から比べると現在は18歳人口が半減している.今後も下がるのは分かっている.だから,国立大学も学生定員を少なくとも今の半分,という自民党代議士もいる.経団連の報告物にも国立大学の学生定員の縮小を論じたものがある.なぜ2040年かというと,それ以後の世代は生まれておらず,18歳人口を正確に推計できるのは2040年以前だ,という事情である.
 大学以前に,義務教育の学校の縮減に文科省も財務省も取り組んできたように思う.小学校にしても,生徒数の減少率に比べて学校数の減少率は鈍く,頭が痛いのかも知れない.学校を減らす作業が年次更新で大学に及んだと考えるのが自然だろう.

大学生はどれほど減るか?

 では大学生はどのくらい減るのか? 文科省が出している「18歳人口の減少を踏まえた高等教育機関の規模や地域配置 関係資料1」において,大学進学者は2017年に63万人であるところ,2040年には50.6万人,つまり2017年の80.3%に減ると文科省は推定している.
 この推定値は,2040年の18歳人口に「大学進学率」をかけた数字である.大学進学率は2017年時点より若干高まると推定している.
 この大学進学率という数字は,概念的に混乱した数字である.大学進学率とは,大学受験率Pと合格率Qの積P・Qであるはずであるが,PもQも大学の定員規模の関数であるはずであり(定員が大きければ受験率も上がり,合格率も上がる),そもそも大学の適正な定員規模を決めるための外生変数の値として推定できる数字ではない.ただ,私のどんぶり勘定であるが,文科省程度の進学率の上昇を見込むのは現実的だろう.これまでも大学進学率が上がっているが,その上昇は,18歳人口が減っているのに定員は減っていないことによるだろう.要するに進学率の上昇は入学しやすくなっていることを反映すると考えるのが自然であり,その状況は18歳人口の減少によって今後も継続するだろうからである.
 ここで仮に,学生定員を現状の80.3%にしなければならないとするとどうなるであろうか? 私の考えでは,今の埼大の各学部の学生定員を80.3%にしても支障はないように思う.例えば,学生定員が一番少ないのは教養学部であり,入学定員は160名.しかし3年次編入枠が30名であるので,1学年平均で175名と考えられる.その80.3%は140.5名であるから,学部としては維持できる.つまり80.3%に減る程度であれば,入学定員が100名を割る場合を除き,現状の学部の仕組みは維持できるだろう,と思う.
 しかしそもそも,この怪しげな「大学入学者」が2割減ることを,国立大学の定員削減の根拠にすることには無理がある.国立大学の志願倍率が8ガケになることはあり得ることであるが,国立大学は平均して3倍超の志願倍率を維持している.高校であれば志願倍率が1.1でも十分に維持される.
 文科省自身が18歳人口減によって階層性の低い私大の定員割れを憂慮しているはずである.定員割れが予想されるのは,(言いにくいが)より下層の大学,おそらく(言いにくいが)地方の私大である.国立大学の場合,質の悪い学生は取らないと考える場合を除き,よほどの例外を除いて定員は埋まるはずである.
 なお,現状の8割,という数字はあくまで2017年を状況を是とした数字である.平成当初のピーク時の状況を起点に考えると学生数を半分にしろ,という議論も出るだろう.しかし,現状(2017年の状況)を是とする以外に,政治的にはないように思う.
 蛇足であるが,上記の中教審答申は「2040年の都道府県における大学への進学者数、入学者数、定員充足率の国公私別の推計も併せて提示した。」と称している.中教審は文科省が作った資料をそのまま使っているようである.その資料(「大学への進学者数の将来推計について」)にも目を通してみたが,笑わせる.
 この資料では,都道府県別に入学者の推定値を求め,そこから各県の国公私立別の入学者数と定員充足率を求めている.その資料によると,埼玉県の国立大学(埼玉大学しかない)の定員充足率は86.4%であり,公立大の充足率は85.3%,私立大の充足率は国立より若干高い87.4%という.その充足率は次のように求めている.まず2017年の国公私立大学への入学者数に推定した進学率をかけて2040年の推定大学入学者数を求める.その2040年の推定入学者数を2017年の国公私立別の入学者数の比率でそのまま配分した数字を埼玉県の国公私立大学別の2040年の入学者とし,現在の定員との比をとって充足率としている.こんな変な計算をすれば充足率が下がる結果になるのは当たり前であり,計算の仕方が間違っている.
 ちなみに,同じ資料だと東京の国立大の充足率は89.7%であり,東京の私大全般より低い.まずないことである.京都の国立大の充足率は80.6%であるが,京都の国立大なら定員規模からするとほとんどが京大だろう.この程度の学生数の減少幅で京大が2割の定員割れをする訳がないではないか.
 文科省の資料は,平均して,国立大学の志願倍率が下がることを予想する根拠にはなるかも知れない.しかしこの程度の18歳人口の減少によって定員充足率が下がるというのは笑話である.文科省は本当に馬鹿ではないかと思う.

国立大学が学生定員の削減に付き合う必要があるか?

 結論を先にいえば,国立大学は学生定員の削減に付き合う必要はないと思う.
 大学生全体の数が減るといっても,全体の学生数の中で国立大学が占める比率は17.1%に過ぎない(2017年).公立大学と合わせても22.3%である.実は圧倒的に学生は私大におり,近年に学生数を増やしたのも私大である.だから国立大学が定員を削減しても,全体の削減に貢献する比率はきわめて低い.
 まず,大学生全体の中で国立を含めた公立大学の学生の占める比率は,欧米と比べると日本は極端に低い.米国は私立大学の数は多いが,多くが小規模の大学であり,学生数からすると州立が多いのである.常識的には公立の比率はもう少し高い方が望ましいバランスだろう.
 しかも国立大学は,研究にせよ教育にせよ,大学全体の中では能力が高いのである.国立は入学時にも理系(文系)でも文系科目(理系科目)を考査に課しており,公式の基準からすれば正しい教育を行っている.そこでわざわざ,能力とバランスのある国立大学の比率を下げることに合理性があるとは思えない.
 国立大学の学生定員を削減すべき根拠があるとすれば,国にとってのコストが国立大学が高いことである.ただ,問題はどういう構成で日本の大学システムを維持すべきかという問題と思う.18歳人口が減るから国立大学も横並びで減らせという問題ではない.

 このブログの次の記載で追加の議論をしてみたい.

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一方,文科省の方針文書は…

 1つ前の記載で骨太の方針2019における国立大学改革の記載に触れた.この骨太の方針2019は今年2019年6月21日の閣議決定である.その3日前の6月18日に文科省は「国立大学改革方針」という文書(概要と本文)を出している.たぶんこれから文科省はこの文書を前提に,個別に国立大学と話し合って行く,ということなのだと思う.この文科省文書と骨太の方針2019は,同時期に出た文書であるけれども,ある意味,好対照をなしている.

 文科省の文書も私はざっと眺めてみた.印象として残ったのは中身に関することではない.この文書の文章としての質の低さである.出来の悪い学生のレポートのようだ,とはいわないが,出来の良い学生なら書かないようなレポートのように感じた.ゆとり世代の文科省職員が書いたのではないか?
 第1に,この文書の序(Ⅰ これからの社会の姿及び国立大学の機能と役割)はくどくどとした文章であるのに,中盤(Ⅱ 国立大学の目指す姿と取り組むべき方向性)と末尾(Ⅲ 文部科学省の取組)はほとんど箇条書きなのである.別途概要があるのに,本文が箇条書きというのはないだろう.しかもⅡとⅢで形式も統一されていない.本来は最も重要なⅢが手抜きである.
 印象として,概要にするつもりのⅡとⅢの箇条書きに,慌てて文章をⅠとして加えたような代物である.本論であるⅡとⅢの中身を考えると,このくどいⅠは要らない.むしろ概要の方の冒頭に書いてあるこの文書の位置づけ(目標規定)をⅠとして書き入れるべきだったろう.
 第2に,ⅡとⅢをあえて分ける必要はないと思える.Ⅱが「国立大学が取り組むべき方向性」であるなら,Ⅲの「文部科学省の取組」はⅡの「方向性」の推進以外にないからである.分けるならⅡとⅢの関係性を示さないと減点だろう.私には,ⅡからⅢの事項が出て来る理由がところどころ分からない.

 中身でいうと,文科省の方針文書に書いてある事項の多くは(当然だが)骨太の方針にもある事項である.だから両者はそんなに違わないといえる.しかし違いもあるように思う.細かい話は無視して大きな点だけに着目すると,次の3点が思いつく.
 第1は,文科省の方針文書はどうしても,文科省がこれまでやって来たことを自ら評価する論調になっている.これからも同様に続けたいというニュアンスが滲み出ている.この点では「現行の『国立大学法人評価』、『認証評価』及び『重点支援評価』に関し、廃止を含め抜本的な簡素化を図り」となどとしれっといってしまう骨太の方針とは,かなり雰囲気が異なる.
 私は骨太の方針の通りにやってみることの方に希望を感じる.希望とは,教職員の福祉という観点からの希望ではなく,日本の大学システムが良くなるかどうかという視点からの希望である.例えば,中期計画などやる必要があるのだろうか? 計画は大学の執行部(学長)が変わったときに作るのがよいのではないか? また,政府からの評価は別途,政府が政策に従って決めるのがよいのではないか?
 第2は,骨太の方針は「改革」(改善か改悪かは判断であるが)への意思が強いのに対し,文科省文書の方は緩いことだろう.「こうする」という方針を示すことなくただ検討するといっている事項が多いように思う.この文書に現れる文科省の立場で「各国立大学との徹底対話」をした場合,得られる結論は国大協が出した国立大学の将来像と同じになるだろう.その意味では対話に実質的な意味はないように思える.
 第3は,骨太の方針と文科省文書では,背景となる世界観が異なることである.骨太の方針が国立大学に言及するのは,1つ前の記載で触れたように,Society 5.0 への対応と経済成長の部分である.Society 5.0 の要諦は「経済発展と課題解決」にある,と政府の文書から私は理解する.だからいずれにせよ,一番重要なのは経済成長である.経済成長があってこそ日本の社会の安定的な基盤が得られる,そのために国立大学が重要,という考えである.
 これに対し,文科省の文書では次のようにいう.「このような変化の先に我々が目指す社会は、…、持続可能でインクルーシブな社会、新しい社会の実現を目指す様々な人々が集い流動する多様性あふれる可能性に満ちた社会である。 」つまり社会の目標がinclusionや多様性になってしまう.
 まあ,inclusionも多様性も,Society 5.0 の1つの側面には入るだろう.しかし重要性の重みづけはまったく違ってしまう.
 このブログの以前の記載で私は文科省を共産主義官庁と書いたことがある.そこは文科省のカラーなのだろう.確かゆとり教育を推進した中心の元文科官僚が,ゆとり教育の目的は平等の達成だったと述べたと新聞記事に載ったことがある.ゆとり教育を始めたときにはそのような説明はなかったと思うが,文科省はそういう所なのである.だから競争によって各国立大学が強くなるという発想の今の政府とは,文科省は背景とする考えが異なる.文科省の大学改革とは,結局,ゆとり教育のような結末を迎えるのではないかという気がしてならない.むろん,この点は価値観の問題であり,国立大学の(職員はともかく)教員の多くは文科省の考えに近いかも知れない.
 資本主義と共産主義/社会主義の争いが,表向きは全く違う姿で,国立大学を舞台に展開するというのも,面白いといえば面白い.郵政事業と同じかも知れない.

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骨太の方針2019における国立大学改革記載

 今年2019年の6月21日付で閣議決定した「経済財政運営と改革の基本方針2019」,いわゆる骨太の方針には昨年度までにはない強い表現が入っていると感じた.通常,骨太の方針は経済財政諮問会議の下についているブレーンが大筋を書き,さらに各省庁が書き入れをしてできるものだと思う.だから昨年度の骨太の方針における大学改革の記載は,文科省が書いたような内容だった.しかし今年は,文科省が書かないような文が入っているように見えるのが面白い.
 今年の骨太の方針で国立大学が言及された箇所は2カ所ある.1つは「第2章 Society 5.0時代にふさわしい仕組みづくり」の中の「2-(1)-⑤大学改革等」という事項である.もう1つは「第3章 経済再生と財政健全化の好循環」の中の「2-(2)-④ 文教・科学技術」の箇所である.
 第2章での言及箇所は次のパラグラフであり,別に目立った記載ではない.

 国立大学における一法人の下で複数の大学を運営できる制度の活用推進、私立大学に
おける学部単位での事業譲渡の円滑化や合併の促進、国公私立の枠を超えた大学等の連
携を可能とする「大学等連携推進法人(仮称)」の創設など、大学の連携・統合等を進
める。

 特徴的なのは第3章の記載だろう.なお第3章で国立大学が言及されることは,国立大学はイノベーション,つまり経済成長の基盤として位置づけられていることを意味している.
 その第3章の「2-(2)-④ 文教・科学技術」には最初に「(基本的な改革)」という小項目がある.その2番目のパラグラフの第1文が次である.

イノベーション創出の中核としての国立大学法人については、指定国立大学が先導し
て、世界の先進大学並みの独立した、個性的かつ戦略的大学経営を可能とする大胆な改
革を可及的速やかに断行する。

 この文には見どころがいくつもある.第1に,国立大学は「イノベーション創出の中核」なのである.それだけ政府は国立大学を重視している.第2に,国立大学の経営は「独立した」ものであることを求めている.予算をもらって政府の方針を粛々と実行するという国営大学とはニュアンスがかなり異なる.私の直観では米国の州立大学をイメージしているように思う.第3に,改革に(文科省のような)時間稼ぎを許さず,「可及的速やかに断行」としている.この文の原案を書いた人には強い判断があるように見える.第4に,一般には国立大学の最上位カテゴリーと受け取られている指定国立大学法人は,国立大学全般を「先導」する位置づけ,つまり規制緩和における特区のような位置づけになっていることである.だから指定国立大学法人に認められた規制緩和は,文科省の考えのように指定国立大学法人に限定するのではなく,将来は全国立大学に適用することを考えているように読める.実際,後の方の規制緩和記載は指定国立大学法人に限定していない.
 続く第2文が次である.

そのため、より高い教育・研究に向けた自由かつ公正な競争を担保するため、国は国立大学との自律的契約関係を再定義し、真の自律的経営に相応しい法的枠組みの再検討を行う。

 この文は前の文の「独立した」をくり返す文であるが,「国は国立大学との自律的契約関係を再定義」というところが凄い.見方によっては,文科省に指導されるのではなく,独立して国と交渉し,契約関係を更新して行く大学,ということだろう.
 さらに第3文が次である.

その際、現行の「国立大学法人評価」、「認証評価」及び「重点支援評価」に関し、廃止を含め抜本的な簡素化を図り、教育・研究の成果について、中長期的努力の成果を含め厳正かつ客観的な評価に転換する。

 国立大学法人評価、認証評価,重点支援評価を「廃止を含め抜本的な簡素化」などと,文科省が書くはずがない.なお,財務省や経団連はこの表現に近いことはいっている.いずれにせよ,これまでの文科省のタラタラした国立大学改革を否定しているとも受け取れる文言なのである.

 骨太の方針は経済財政諮問会議から内閣に上がり,内閣で承認した方針である.その経済財政諮問会議は関連の大臣や若干の学者からなる.その諮問会議ではこのようなプランは作れる訳がない.経済財政諮問会議の下に経済・財政一体改革推進委員会があり,出席者の多くは学者である.経団連の会長も入っていた.その委員が下案を作ると思うが,知恵を出す人はもっと多くいるかも知れない.規制改革派なのだと思う.規制改革派と文科省との違いは,資本主義と社会主義の違いのようなものである.この骨太の方針の国立大学改革の記載は,文科省に対する規制改革派の苛立ちが書かせたものではないかと,私は勝手に想像した.
 むろん国立大学関係者,教職員の立場は社会主義に近いに決まっている.ただ,経済成長を求める立場からすると,この骨太の方針は是とするべきと私には思える.社会保障やインフラ維持さえ,一定の経済成長があることを織り込んだ試算で成り立っている.経済成長できるかどうかは気楽な話ではない.

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首都大学埼玉

 埼玉大学「次の6年を考える会」というブログの記事を眺めていたら,首都圏にあることが埼玉大学の武器である,という趣旨の記事が載っていた.正しいとは思うがやや苦笑した.が,今の主題はその苦笑ではない.私がある時点でふと抱いた妄想のことを思い出したことが主題である.

 昔,都知事が石原慎太郎だった頃,たぶん石原都知事の判断で都立大学が首都大学東京という名称になった.首都大学東京というのは変だという人が多かったが,私は斬新で良いと思った.それから少し後のことであるが,首都大学東京という文字列を見ながらある妄想が浮かんだのである.
 ナントカ大学〇〇として〇〇に地名を入れる表現は,ニューヨーク大学やカリフォルニア大学など,結構ある.そういう目で見たとき,東京でない首都大学があってもよいのではないか,と思えたのである.
 そう.つまり埼玉大学が首都大学埼玉になるという妄想である.埼玉だけではなんだから,横浜国大を首都大学横浜,千葉大を首都大学千葉として,東京,埼玉,横浜,千葉で首都大学リーグを作る,ということである.

 上井学長時代の初期に統合の話題がいろいろ出たことがある.当時は4U(茨城・宇都宮・群馬・埼玉大学)という枠組みがあり,その4Uも1つの考慮対象だった.しかし埼大の先生方は一様に「北は嫌だ,東京と一緒じゃなければ嫌だ」と言い続けた.当時工学部長だった今の学長も「群馬と一緒になったら偏差値が下がって学生の質が落ちる」といっていた.グループを組んだ時,首都圏にあるという武器を使えるのは北と組んだときだけである,東京方面と組んだら埼玉の立場は惨めではないか,というのが私の発想であった.が,埼大の先生方は一様に東京じゃなければ嫌だと言い続けた.
 なら首都大学埼玉なら文句はあるまい.実際,上井学長の時期,上記の首都大学リーグに近い構想を述べた方がおられたと聞いた.

 ふと浮かんだ妄想であったが,まあダメであるとすぐに悟った.
 まず公立大学全国トップを自認する首都大学東京は,わざわざ「地方」と組みたくないだろう.
 横浜国大は横浜というだけで十分アピールできる.卑屈に首都を強調する動機づけがない.
 千葉大学は,あくまで上を目指す大学であるから,格下の埼大,横国とは並びたくないだろう.

 その首都大学東京も来年には東京都立大学の名称に戻るらしい.首都大学埼玉は一瞬の妄想であった.

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パフォーマンスを上げる:国立大法人化の第三のテーマ

 ただの思い付きであるが,国立大学の法人化は3つのテーマの複合であろうと私は思う.第1と第2のテーマについては直近の2つの記載で述べてみた.この記載では第3のテーマ,つまり「パフォーマンスを上げる」について書いてみたい.

中期・年度計画と評価

 国立大学が法人化したとき,国立大学の(教育研究における)パフォーマンスが問題になっていたかどうか,私にはハッキリした記憶がない.法人化が「金の問題」と認識する人が多かったのは予算措置だけが目立ったためかも知れない.パフォーマンスが実際に問題にされ始めたのは,第1に,大学の国際評価(THEなど)で日本の大学があまり上位にならないことが話題になってから,第2に研究力の停滞が指摘され始めてからではないかと思う.
 それでも,法人化とともに国立大学に中期目標・計画や年度計画が導入され,認証評価も受けることになった.評価というからにはパフォーマンスが問題なのであるから,法人化の当初からパフォーマンスを上げることが法人化の主題であった(主題であるはずだった)のは確かと思う.
 法人化後にこの計画と評価のために国立大学は忙しくなった.私が教養学部内で学部業務に深く関わり始めたのは法人化して3年目からであり,最初の2年間についてはよく分からない.が,少なくとも3年目以降には年度計画に振り回されることになった.
 最初のうちは物珍しさがあり,「へぇ,こんなことするんだねぇ」的な感想を持ったものである.まあ確かに,やることを求められたことは必要なことだと思えた.ただ,毎年似たような項目が全学の評価センター(当時)から回って来るに及んで,段々とアホらしく思えてきた.
 本音でいえばどうでもよいような会議を何回やったとか,直す必要のない事項の見直しを問う質問に回答することが,いったい何になるのかという気がしてきたからである.しかも,示すべき「エヴィデンス」が議事録だったりするからアホかと思う.かくして,回答のしようもないけれど,やってないともいえないので,やっている振りをすることが常態となっていった.計画の達成率が何%かとか,十分に達成されたかどうかの回答をするのであるが,多くの場合,何%とか十分かどうかなど,客観的な基準がないので本来は何ともいえない.受け取るワークシートでは他部局の回答もあったので,他部局がどのように回答しているかも眺めた.私は,というより教養学部は伝統的に人間が控えめであるから,臆面もなく大本営発表のように大成果があったなどとは恥ずかしくて回答できない.が,他部局は結構,臆面がなかった.全学の評価担当とのやり取りでは,全学側は良い自己評価を示して欲しかったようだから,面倒な時にはその要望に応えたかも知れない.
 この種の計画と評価の作業への違和感が私の中で膨らんでいった.「まったく」とはいわぬまでも「ほとんど」無意味ではないか,と思った.大学のパフォーマンスを上げるために作業しているというより,「忙しく頑張ってます」ごっこをしているだけではないか,という感想を抱くようになった.

国立大学の評価に対する財務省の見解

 最近,ネットにあった財務省の資料(2018.10.24付けの「文教・科学技術」)を見ていたら,国立大学の計画-評価に対する,上で書いた私の違和感をうまく説明する表現に出くわした.国立大学が評価の指標としているのは多くの場合,「インプット指標」であり,「アウトカム指標」ではない,と財務省はいうのである.確かに,埼大の以前の年度計画のワークシートを眺めても,例えば研究について,論文を何本にしますという目標はない.研究を促進するためにどういう措置(例:重点研究テーマを支援する)を取ります,というのが目標/計画であり,その措置が生むべきアウトカムは指標にはない.(研究と教育については中期計画の報告として現況調査表をまとめるが,言い訳の色彩が強い.)
 まあたとえていうなら,小売業がどれだけチラシを配ったとか,安売りセールをどれだけやったとかを書いているようなものである.どれだけ売り上げを上げたか,利益を出したかのアウトカムを問題にしていない.おかしなことをしていたのである.
 財務省は同時に,評価が「絶対評価」(というより自己基準による評価)であり,評価結果もあいまいだ,という.私も感じていたことがそのまま書いてある.
 この資料を見ると,財務省の役人は文科省の役人より頭がいいなと思う.が,おそらく頭の問題だけではない.文科省は国立大学を慮るつもりで,競争を回避する,そして差がつかないようにする評価の方法で指導してきたのだろう.しかし,競争の回避と引き換えに,累積し肥大化した無意味な作業が国立大学を苦しめることになった.何より重要なのは,法人化してごく最近までの間,パフォーマンスそのものを上げるための努力が曖昧になっていたことだろう.インプット,例えば研究力向上のための措置は,必要ならその場の判断で経営者が決めればよいことである.
 財務省の考え方は,比較的少数の客観的なアウトカム指標を設定し,大学間で相対評価をする,ということと思う.むろん国立大学をウェイト別にしないで競争したら下位大学はひどいことになる.だから重点支援の類型内での競争になるはずである.ある意味,今年度から導入された交付金決定のための10%枠の評価は,今年度は指標が異形であったが,その方向の先駆けになるのだろう.大変かも知れないが話がシンプルになる.良い方向への変化と思う.

交付金10%の評価配分

 運営交付金の10%を評価に応じて配分する,という方式は今年度から適用されたように思う.この10%配分という記事を最初に見たとき,私は無茶ではないかと思った.予算が増えればよいが減ったときは,財源の多様化が少ない地方国大にとって影響が大き過ぎるように感じたからである.
 蓋を開けると影響は小さかった.個別の評価項目では10%のプラスマイナスがあるのであるが,評価項目全体を足し合わせた結果のばらつきは実に小さい.なるほど,誰の悪知恵か,これって中心極限定理の応用みたいな話だな,と思った.実質例年通りだったろう.
 しかし,このような形式で交付金の算定が行われると,結果は小さくても,大学はもろに政府にコントロールされることになるだろう.例えば評価項目に年俸制の導入実績とか入れられると,下位の大学は必死に年俸制を導入しようとすることになるのではないか? 当面は今年度のように,政府が求めるマネジメント改革のような項目で国立大学はコントロールされることになるのかも知れない.
 ただ,本命は財務省がいうように,教育研究を中心とした,厳選されたアウトカム指標で競争することになるんだろうな,と思う.野球選手であれば打率,打点,本塁打数,投手なら防御率と勝ち数を中心にして,おそらく重点支援の類型ごとに競争することになるのだろう.シンプルになってよいのではないか? 結果として教育研究の水準は上がって行くのではないかと思う.
 国立大学法人化のテーマは3つだろう,と私は述べてみた.が,考えてみると第1と第2は,第3のパフォーマンスとは質的に異なる.第1と第2は第3のパフォーマンスを確保するための手段という位置づけになるだろう.つまり,本来はパフォーマンスさえ上げれば第1と第2はどうでもよいことである.例えばノーベル賞をどんどん受賞する状態になれば「財務省ごときがつべこべいうな」といえるようになるのではないかと思う.シンプルでよいのではないか?

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自主財源の確保:国立大法人化の第二のテーマ

 1つ前の記載で,国立大学法人化の第一義(第1のテーマ)は自主管理組織からの脱却であったろうと記した.この記載では(私が思う)第二のテーマである自主財源の確保(財源の多様化)について触れたい.

財源の多様化は望ましい

 私はもともと,国立大学の民営化に賛成だった.理由は単純であり,「金は出せ,口は出すな」はあり得ないからである.独立した存在であるためには財源は自前でなんとかするしかない.現に今の国立大学は文科省にしがみついて(抱きついて)いるから,政府のいうことは丸呑みしている.
 個々の大学のすることを指定する能力は,国にはない.だから国立大学を独自の法人にする必要があったはずである.大学は自由な判断で競争的に動いてこそ,自らのニッチを見つけて存在感を発揮できる.そう考えれば財政基盤でも政府から自由になった方がよい,と私は思う.かつて教育関係で最も活動的だったのは予備校ではないかと私は思う.なぜかといえば,予備校は文科省の傘下になく,しかも厳しい競争を生き抜いてきたからである.国営企業や国に指導(保護)される業界は発展した試しがない.
 それでも,国立大学には運営費交付金以外でもいろんな旨味が国から出ている.だから国への依存はやめられないだろう.しかし国への依存度は低い方が望ましい.国に全面的に依存した場合,国の財政が悪化すれば大学が潰されても仕方ない.リスク分散の観点からも財源の多様化は望ましい.

埼大での印象

 2004年に法人化した際,少なくとも埼大において,私はさしたる変化は感じなかった.唯一感じたのは「金がなくなったようである」という点である.運営費交付金が効率化係数によって年々下がって行くことには誰もが危機感を覚えた.当時の学長からは矢継ぎ早に「金がない」というメッセージが出ていた.
 この状況の変化に対し,大学は節約で反応した.多少時間のラグはあったかも知れないが,大学はひどく吝嗇になった.冷房の設定温度が抑えられたのはまだよいとして(私の在職期間の大半では大学にはエアコンなどなかった),電灯が消えて廊下が暗くなったのには驚いた.そのうち通勤の定期券を見せろという話になったときには「なんとアホな」と馬鹿らしく思ったものである.学長からは「今はひたすら耐えるときだ」という趣旨の発言が伝わってきた.
 交付金削減に対して節約しか出てこなかったのは,今から思うと,文科省から法人化の意味を伝えられていなかった,あるいは伝えられていたとしても理解していなかったからなのだろう.「財源の多様化」を政府が言い続ける今日の視点で見るならば,交付金が減額されるスピードで自主財源を増やすように努めろ,ということだったように思う.
 
政府予算の問題でもないだろう

 大学の財政状況を政府のせいにするのはどうか,という気が私はしている.
 日本の政府による教育予算がOECD諸国の中で最低水準,という話を今でもいう人がいる.もともと文科省が予算獲得のためにいい始めたことである.この件に関して,私はむしろ財務省の説明の方が信憑性があるように思う.概して日本で教育予算のGDP比率が低いのは,人口構成の中で生徒・学生の年齢層の比率が低いためである.一人当りの支出のGDP比率を見るとOECDの中でも高い方になる.そもそも「教育予算」とは大学に配る金の話ではない.大学の場合,教育費に占める政府支出の比率はおそらく低いが,この点は学生の大半が私立大学に通うためだろう.国公立大学の国際比較では,学生1人当たりの政府支出は先進国の中でもダントツに高い.だから国際比較で国立大学が文句をいう筋かどうか,疑問に思う.政府の科学技術予算自体は先進国の中でも良い水準にある.政府が国立大学に出している予算は増えている.また法人化を経て上位大学に予算が集中した訳でもない.むろん,交付金とは別の補助金は,競争的であるから,上位大学が獲得しているのだろうと思う.ただ競争が悪いともいえない.
 いってみれば,法人化後,国立大学は大勢で,内部では節約に励み,外に向かっては政府に金をくれといってきた.が,政府の方は財源を多様化しろ,といっている,という構図のように思える.

財源の多様化は果たせているか?

 もともと国立大学の収入はほとんどが政府による交付金だった.学生納付金を大学の収入に数えることになったのは法人化後のことのように思う.法人化後は,大学の財源を,政府の交付金,学生納付金,受託研究収益等,寄付金,資産運用益,などで多様化することが求められている.
 国立大学の収入は交付金と学生納付金が大半であり,それ以外は取るに足らない,と私は思っていた.ちなみに平成30年度の埼大の財務諸表によると,交付金と学納金の合計額は埼大の収入の83%である.むしろ17%をよく工面できたなと思う.私が退職した頃には寄付金集めでも埼大は頑張っていた.それでも交付金と学納金が収入の大半であることは変わらない.
 が,財源の多様化の現状は大学によるようである.
 財務省の資料を見ていたら,例示の中に東大の収入の内訳が載っていた(2017年度の数字と思う).その資料によると,東大の収入は40%が運営交付金であり,運営費交付金の比率は高いものの,学生納付金は9%,研究受託収益等が学生納付金の3倍の28%,寄付金が学生納付金の2/3の6%,資産運用益が4%,その他が12%とあった.東大の場合,大学院重点化しているから,大学規模の割には学生数は少なく,学生納付金の比率が低い.また,別途,東大の財務諸表を見ると,その研究受託収益等を超える病院収入がある(財務省の資料では国際比較のために病院の収入は入れていないかも知れない).こう考えると,東大の場合,運営費交付金の比率が高い点を除けば,結構,財源の多様化はしているように思えた.
 東大の,学生納付金の3倍の研究受託収益というのは,埼大では考えにくい.そこで,埼大,茨城大学,東大の3大学につき,財務諸表から研究受託収益等(共同研究収益を含む)を調べてみた.本来なら平滑平均をとるべきであるが,面倒なので平成18年度と平成30年度の2時点だけを調べた(東大と茨大は平成16年度からの財務諸表をサイトに掲載しているが,埼大では平成18年度からの諸表なので,平成18年度を選んだ).
 その結果の要約が図の棒グラフである.図の注釈に書いたように,東大の場合は縦棒の高さを1/100にしている.同じ縮尺でグラフにすると埼大と茨大の縦棒が横線になってしまうからである(ちなみに,財務諸表の金額表記は,埼大と茨大では千円単位なのであるが,東大では百万円単位である).

190925

 図を見て感じるのは次の2点である.
 第1に,東大の棒の高さが1/100であることを考えると,東大は埼大や茨大とはまったく別種の大学だという点である.受託研究を集める基盤に差があり過ぎる.こんなに差があるとは思わなかった.
 第2に,何れの大学でも平成18年度と30年度では受託研究収益は上がっているけれども,茨大が1.8倍,東大が1.7倍に伸びたのに比べると埼大の1.3倍はやや足踏みしている感がある点である.
 埼大には受託研究で財源の多様化を果たすのが難しい要因があるのか,仮にそうだとしたら理工に投資する戦略が今後もあるのかどうか,もっと別の道を考えるべきなのか,その判断はあってよいのだろうという気がする.

財源の面では国立大学は二極に分解するのではないか?

 国立大学の財源の多様化は今後も進むのだろう.そのための学長リーダーシップであり,大学の中期目標として当該中期期間中に受託研究収益や寄付金,資産運用益を何倍にするという数値目標が入るべきだろう.
 今,内閣府を中心に国立大学の自主財源確保を促進するための制度整備,具体的には間接経費の枠組みや寄付免税などの措置が図られるものと思う(既に済んだか?).これらの制度整備によって,何れの国立大学も一定の財源多様化は進むのだろう,とぼんやりと思う.
 ただ,上で触れた,受託研究収益の格差,地方国立大と東大などの上位大学との現状での格差を考えると,自主財源のための制度整備で今後自主財源の確保を伸ばせる程度は,上位大学の方が高いと考えるのが自然のように思う.その意味では,財源の多様化の程度が高い上位大学と,学生納付金への依存度を高める下位大学に,濃淡で中間的な国立大学はあるのせよ,分化して来るのではないか,という気もする.
 ただ,そうなっても埼大を含めた下位大学の財源が苦しくなるとはいえないのではないか,埼大はハッピィになる可能性があるのではないか,という楽観的な見方を私はしてしまう.この点については,気が向いたら後日,私の素人判断を書いてみたい気がする.

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国立大法人化の第一義は自主管理組織からの脱却ではなかったか?

 少し前のこのブログで,京大の山極総長が「国立大の法人化は失敗だった」とインタヴューで述べたことに触れた.山極総長は「(国は国立大学を)単なる財政問題として処理した.国の財政が悪化している.その責任を法人化して各大学法人に押し付けたのだ.」という.この「単なる財政問題」といういい方は,私の記憶では,法人化の当初から左巻きの方々が口癖のようにいっていたことである.確かに,時間の経過からいえば,法人化後に最初に目に入った大きな出来事は運営費交付金に当時の「効率化係数」がかかるようになったことである.
 しかし,単なる財政問題として処理するのであれば,国は国立大学を民営化すればよかった(私は今も民営化すべきだと思っている).しかし国立大学は民営化の方向には行かなかった.運営費交付金は減額されても,国から国立大学に出ている支出の総額はその後も増えている(個々の大学が増えたか減ったかは別である).だから国立大学法人化とは何だったのか,簡単には割り切れない.
 私は30年以上埼大に勤務しており,在職期間の長さで見れば「国立大学時代:法人化後=2:1」である.国立大学の期間の方が長かった.しかし今50歳くらいの教員であれば,在職期間のほとんどは法人化後であり,国立大学時代はあまり記憶にないように思う.後でいうけれども,大まかには,法人化して国立大学は良くなったと私は思う.
 この法人化とは何であったかというと,実のところ複雑である.法人化後,国立大学は,様々な面で国から変化を求められた.求められた変化のどこまでを「法人化」と考えるかも難しい.在職期間中の感じからいうと,国大は次から次へと変化の求めに遭遇し,その1つ1つへの対応にばかり目が行っていたように思う.だからこの間の経過を鳥瞰することは,(他の方は知らぬが)私にはなかった.
 既に私は退職し,国立大学がどうなるかに個別的な利害がない.そこでぼんやり過去を振り返りながら,法人化後の変化はどのように図式化できるのかな,と自動思考した.

 結論を先にいえば,国立大学の法人化とは次の3つのテーマの複合ではなかったかと思えてきた.

1.自主管理組織からの脱却(経営できる組織となること)
2.自主財源を持つこと
3.パフォーマンスを上げること

この3つであるとすると,国立大学の法人化は「もっともなこと」のように思えて来る.

1.自主管理組織からの脱却

 国立大学時代は「大学の自治」という言葉をよく聞いた.みんなが口にした.しかし法人化後を見ると,「大学の自治」という言葉が発せられたのは法人化後初代の田隅学長の時代が最後だったろう.その後の実態は「大学の自治」からは明らかに遠い.国立大学は文科省にしがみついたからである.いや,実態は自治に近いかも知れないが,表立って自治という人はいなくなった.
 前にもこのブログで書いたが,「自治」とはコミュニティなどの「基礎社会」の運営に使う言葉である.しかし大学は社会への貢献を目的として作られた組織である.組織には「自治」ではなく「自主管理」というのが正しい.
 もともと日本の大学は「大学の自治」と称して,「教授会自治」をしていた.教授会は部局の範囲で存在するから,要は部局自治(部局自治管理)であった.自治の担い手に学生や職員がいないのは,古代ギリシャの民主主義が奴隷制度の上に成り立ったのと,同じではないが似ている.
 考えてみると国立大学への予算は教官当り積算校費と学生当り積算校費にプラスアルファしたものであり,全体から共通の経費(埼大では三部局経費などといったように思う)を吸い上げるとしても,予算は部局に半ば自動的に割り当てられていたように思う.国立大学(の部局)は設置を経て国が運営することになっていたから,大学としての判断はなかった訳ではないけれども,基本は部局がそのまま運営していればよかった.
 この状況で,「教授会自治」の考えが部局を他から保護したといえる.そういう事案が埼大であったとはいわないが,例えば何らかの不祥事があっても,学部の教授会が了とすればそれで済んだ.
 だから,例えば某研究科でとある問題が出たときも,時の須甲学長は何とかする意思はあったろうと思うが,部局自治の壁を崩せなかった.あの件は今なら単純なパワハラ案件であるから,部局の外から全学で処理できた可能性が高いように思う.
 教授会自治をしていた自主管理組織としての国立大学の中で(実は私立大学も似たようなものであるが)生じたのはゲーム理論にいう「暗黙の協調」だろう.互いの利害を尊重するという仁義である.この仁義はある意味で美しいけれども,いったん設置されたところの既得権益を守るということであるから,本来の経営判断とは両立しない.なすべき変化を引き起こせない.結局,本来は組織の従業員に過ぎない大学教員の福祉向上が,組織目的に優先してしまったことになる.
 大学全体だけではなく,部局の中も似たようなものである.私がいた埼大教養学部なども,もっと良い組織配列はあるのだけれども,結局は実現できない.実現させるだけの政治的資源が部局長にもないのである.
 環境に応じた望ましい変化をするためには,どうしても自主管理組織を脱却する必要があった.法人化の第一義は,その自主管理組織からの脱却であったというべきだろう.むろん,学長権限が強い現状でも,実態としては自主管理組織を脱却できたとはいえない.しかし以前よりは良くなったように思う.
 私は,最近数年間の流れの中で,埼大も新部局を作ってみるべきであったろうと思う.そう思う理由は(第1の理由ではないが),現状を変える経営判断をする経験を持つことに意義があったことである.

(続く)

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群馬大学の総合情報学部

総合情報学部

 群馬大学が理工学部の情報系と社会情報学部を合体して総合情報学部を作る,という風聞があった.風聞の通りなら入試の宣伝を兼ねて夏に群馬大学サイトにお知らせが出るであろうと思った.けれど総合情報学部に関する記事は群馬大学サイトでも見つからなかった.
 ネットでメディアの記事を検索してみたけれど,それらしい記事は見当たらなかった.唯一の例外が桐生タイムズWeb版に載った今年2月8日付の記事である.群大理工学部キャンパス地元の桐生ではローカルな関心が高かったのだろう.総合情報学部は2020年開設を予定したけれど,少なくとも1年延びる,とある.その間に教員の同意を取り付けるための話し合いをする,ということらしい.評議会,経営協議会,役員会は既に通っているとのことである.だからこの計画が覆る可能性は低いと想像する.
 念のため群馬大学の教職員組合のサイトを眺めてみた.今年3月4日発行の組合ニュースでは,2月12日の,大学執行部と組合執行部との団体交渉の議事録のようなものを載せている.詳しさからいうとまさに議事録であり,こんなものを組合がそのまま公開するというのは,埼玉大学では考えにくい.群大は組合が強いのだろう.この「議事録」の冒頭で総合情報学部に関するやり取りがある.話の骨子は桐生タイムズの記事と同じであるが,組合ニュースの方が生々しいことを書いている.簡単にいうと社会情報学部の教員が引いているようである.
 この総合情報学部のような展開はある意味,よくある話と思う.けれども,今後の国立大学ではより多く起きるだろう.また,教訓を含んだ,ある意味で典型的な事例であるように思う.だから,失礼を顧みず,ここに書いてみたいと思った.

組織としては合理的な判断のように思える

 群馬大学は既に,宇都宮大学との間で共同教育学部を設置している.両方の大学の教育学部を共同にした,ということである.たぶん,現時点では無理をせずに,双方とも基本的に今のまま,一部で資源を共有化する,という措置をとっているだろう.ただ,今後の外的環境の変化に応じて,将来的に踏み込んだ措置をとる基盤を作った,ということかも知れない.
 共同の教育学部に加え,理工学部の情報部門と社会情報学部を合体させて総合情報学部を作るということであるから,群大は動きが速い.
 計画された総合情報学部の内部組織,特徴が何かは,公式情報がないので,分からない.今の段階でこの種の学部を作るとすると,AIやデータサイエンスに対応するのだろうと思うが,正確な情報はない.ただ,AIやデータサイエンスは,政府が現在の大学システムでは賄えきれない需要を想定しているほどだから,何らかの形で対応することにはなるのだろう.
 あくまで計画がきちんとしていることが前提ではあるが,群馬大学という組織にとって,総合情報学部を設置することは合理的な判断であるように私には思える.
 桐生タイムズ記事によると,新学部の片方の当事者は理工学部の電子情報理工学科である.しかし理工学部の中身を見ると,電子情報理工学科は内部が電子電気と情報科学に分かれている.埼大工学部では情報工学科がまとまっているのに比べ,群大では情報が学科ですらないのである.また,素人考えかもしれないが,情報に関する人員が別の学科にもいるようにも見える.おそらく埼大工学部の方が内部がよく整理されているだろう.少なくとも情報分野が外に見える形にはなっていない.今後の需要を考えれば,新部局として,情報を見える形にすることは望ましいことだろう.
 もう一方の当事者である社会情報学部は,埼大教養学部よりも規模が小さい学部である.私が知る限り,この学部はかなり健闘している.私が関連する分野では,公開のセミナーなども定期的に開催し,学会経由の広報にも努めている.教育上のプログラムにも工夫がある.毎年入試の時期に私は確認しているが,少なくとも一般入試では埼大教養学部よりも良い志願倍率を維持している.
 とは言いながら,大変失礼で恐縮なのだが,旧六より下の地方国立大の,規模の小さい文系(の多い)学部は,残念ながら埼大の教養学部も含めて,国際教養大学のような強い特色を持たない限り,どうしても羊頭狗肉にならざるを得ない.実質的に良い教育研究をしていると確信するけれども,厳密に考えれば教育の分野別質保証も難しい.だから,大学内で合併をするか,大学間で共同運航する以外の終着駅はないだろう.特に学生定員の大幅削減を見込むなら,である.
 ディプロマポリシーを見ると群大の社会情報学部は情報を軸にして設置されているようであり,データサイエンスに対応する教員もちゃんとおられる.しかし人員構成や同部局サイトの卒論テーマを見ると,実態はおおまかに人文学部ないし人文社会科学部に近い.
 あくまで計画がきちんとしていることを前提として,組織の立場からは,群馬大学で総合情報学部を設置することは合理的な判断(の1つ)であるように私には見える.

人はたまったものではない

 群馬大学の事情は情報がないのでここでは論じない.以下はあくまで一般論である.既存の部署を統合して新部局を作ることは,上記のように組織にとっては望ましいことが多いと思う.しかし,望ましいのは組織の立場に立つからである.人,つまり教員の側にとってはたまったものではないこともありそうだ.特に旧の部署をただ一緒にするだけでなく,これまでにない特色を入れ込んで整理するとすると(そうでなければ新部局を作る意味もない),教育研究環境が不都合となる教員が出て来て不思議ではない.
 大学教員は設置で決まった部局の特定のポストに就くことについての審査を経て雇用されるのが建前である.だから,着任時の環境を,受忍限度を超えて変えることは,大学側の契約違反になるだろうと私は思う.埼玉大学では教員が同意を経ない配置転換をしないという労使間の合意を組合がとっているはずであり(他大学も同様かも思うが),この合意は少なくとも組合加入の教員には適用されるはずである.
 既存部局から新部局への配置換えを強いるべきでない事情は少なくとも2つある.第1は設置審査を経る場合の問題である.埼大の人社研の設置の場合,有体にいうと旧の2研究科をくっつけただけであり(だから設置審にはかからず事前伺いで済んだ),設置上の無理はない.設置審に進んだとしても当人のディシプリンで審査されるだけだったので,大きな問題はなかったろう.しかし新部局で新たな授業科目の担当を入れ込むような場合は,どうなるか,私は確認できていない.第2は,設置審査はOKとしても,新部局での課程担当が当人の専門からすると不本意なことがあることは,私自身の経験からも理解できる.
 その意味で,経営側は改組を自由に判断できる訳ではない.経営側からすればこの点は経営への拘束になるけれども,仕方ないのではないか.
 新部局を純増で作れるなら苦労はない.だが既存部局から新学部の資源を捻出するのは一般論として難しい.埼大はできないでいる.
 既存部局と多少とも関連のある部局を使って新部局を作る場合,大学という組織にとって一番効率的なのは,旧部局を廃止し教員を解雇し,新部局を作って新規に教員を雇用することである.旧部局にいた方を再雇用することもあるだろう.
 以前,アメリカの大学にいた方から聞いた話だと,アメリカではdepartmentごと潰すことがあり,その場合,テニュアがあっても教授は失職するという.そのような事例が実際にどれほどあるかは,申し訳ないが調べていない.
 しかし,そのような割り切った手法は日本の労働慣行では無理である.だとすると,無理なく(少なく)新部局を作る方法とは,同意の取れる範囲の既存部局の教員をコアにして,全学で新規ポストを捻出して作ることである.例えば全部局の退職者ポストをプールして新部局のポストにあて,時間をかけて部局にポストを「返済」する,という方法である.
 この方法を無理なく行うには3つの前提があるだろう.第1は大学全体の規模が大きい(少なくとも小さくない)ことである.規模が大きい大学であれば,1,2年分の定年退職者ポストを全学が借り上げることで新部局を設置できるだろう.定年退職者の不補充は,埼大教養学部は11年間強いられた.埼大教養学部の苦労を考えれば,1,2年の不補充など小さい不都合に過ぎない.第2は,大学執行部に,第1点を実行できるだけの力があることである.第3は,全学に広い分野をカヴァーする部局が配列されていることである.そうでないと,整理される部局に属していたけれども新部局に移らない教員の受け皿がなくなる.

学生定員の削減が改組を頻発させるだろう

 既存部局を使って新部局を作る事例は今後増えるように思う.最大の要因は学生定員の大幅削減があり得るからである.自民党の教育再生実行本部高等教育部会の主査をしていた渡海紀三朗代議士(元文科大臣)は,昨年のインタヴュー記事で「少なくとも(現状の)半分」と発言する.「半分」だと大変なことであるが,国大協が学生定員の現状維持を表明するにもかかわらず,徐々に削減に向かうことは国立大学も織り込みつつあるだろう.
 学生定員が縮小すれば,特に規模の小さい地方国立大学は存在感が低下し過ぎる.統合の方向は模索せずにはいられないし,大学内か大学間かは問わず,必然的に部局再編は付いて回る.
 私の勝手な予想であるが,学生定員を減っても,教員減を伴う予算措置になるとは限らないだろう.教員減は研究力の低下を直接もたらす.そのことは政府も避けようとするような気がする.むしろ学生と教員の比率の改善に向かわせるように思う.ただ,学生数が落ちれば学生納付金は縮小するから,埼大のように学生納付金への依存度が高い国立大学は苦しくなる可能性がある.
 上位大学では,大学院重点化で院生を増やしたことが失敗であった,という意見がある.院生が増えすぎて望ましい人材養成ができず,研究時間も削がれた,という主張である.少なくとも指定国立大学法人では学生数と予算のリンクは外してくれ,という本音も出ている.
 大学院重点化ごっこをして修士の学生数を増やした埼大の判断はどうだったのか? むろん「学生に実験キットを与えて作業させれば研究成果は出る」と主張する分野もある.埼大がそのような労働集約的な研究をしているなら,院生を増やせば研究成果は上がるのかも知れない.

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学長は4年も経つと飽きられる

疲労感

 「埼玉大学『次の6年を考える会』」というブログに久しぶりにアクセスしてみた.随分と記載が増えた,と思った.「次の6年」とは,今年が次の6年任期の学長を選ぶ年であることにちなむのだろう.このブログに書いてあることには,もっともと思うこともあるし,思わないこともある.ただ,意見が流通することは健全なことである.埼玉大学の現執行部を名指しで批判するような記載はないと思う.
 記載を眺めながらいろんな感想が浮かぶ.あくまで印象レヴェルで思うことの1つであるが,今の執行部に対する疲労感が出ていると感じる.
 まあ仕方ないのである.私の経験では,学長は特に悪い訳ではなくても,4年もすれば教職員に飽きられる.それでも,以前は4年ないし2年経つと学長「選挙」があり,その選挙がお祭りのような要素があるから,結果のいかんにかかわらずある程度気分が晴れる.そんなことの繰り返しで疲労感を回避してきたところがある.しかし今の学長さんが就任したときから実質的な「選挙」はなくなり,学長選考は別世界で行われるようになった.そのうえ今後は6年変わらないと分かっているのだから,大学運営から教職員が(初期マルクスの意味で)疎外を感じて不思議はない.

 これまで学長はある意味で救世主として現れ,4年も経つと飽きられる,ということの繰り返しだったと思う.

法人化初代学長

 法人化初の学長である田隅学長は,学長への挑戦2度目で学長に就任されたのであるが,その2度目についてはある意味で救世主として登場した感がある.
 第1の意味は,埼大を群玉統合から解放する救世主としてである.それだけ統合を嫌がる向きが多かった.田隅先生支持の理学部の先生からは,「群馬大学は医学部・大学病院の経費を埼大に押し付けようとしている.それを救うのは田隅先生だ」と何度も聴かされた.また教養学部でも,統合が嫌でこぞって田隅先生に投票したように思う.
 第2の意味は,田隅先生は「部局自決主義」宣言をされており,兵藤学長の「全学で動く」志向を否定されたところがある.内心では,部局の先生には有難かったのである.
 以上の2点だけでも,埼大の教員は田隅先生に随分と恩義があったはずであるが,喉元を過ぎるとその恩義をころっと忘れてしまった.
 第3の意味は,これまた理学部の先生から何度か聞かされたことであるが,「田隅先生は力のある方であるから,今の苦しい埼玉大学を何とかしてくださる」という趣旨のいい方だった.こういう「何とかしてくださる」という感覚は文系の教員にはまずないけれども,理系ではこういうメシア信仰が出て来る素地があるのだろう.そもそもサイエンスは,神が作り給もうた自然の秩序を解き明かすことにあるから,本質的に神がかりと隣り合わせなのかも知れない.オウム真理教に理系の人が持って行かれたのも頷ける.
 第4の意味は,大大名の教育学部が,その命運を田隅候補に賭けていたことである.
 まあ要するに,埼大全体ではないけれども,かなりの範囲の受け取り方として,田隅学長は救世主として登場されたように思う.それが4年すると飽きられたのだから,世間は冷たい.
 次期学長となる上井候補擁立に加わった私が今さらいうのも白々しいが,私は内心では学者らしい物腰の田隅先生は嫌いではなかった.魅力もある.また事績が悪かった訳でもない.ただ田隅学長では,当時の(職員は分からないが)教員側の気持ちが持たなかったのである.

法人化2代目学長

 法人化後の2代目学長は,田隅学長のような意味で救世主として現れた訳ではない.「上井学長が何とかしてくださる」とは,支持者も思わなかっただろう.その点は,上井学長は全学の話し合いの中心になる,という理解で擁立されたからである.救世主という意味があるとすれば「田隅学長からの解放者」という意味だったろう.
 少なくとも経済学部と教養学部には上井学長への(大きな)不満はなかった.だから全学も同様だろう,と当時の私は思っていた.それだけに,上井学長4年目の学長選考の折に,現状への強い不満を表明して山口候補(現学長)が現れたことにはやや驚いた.おそらく,文系では上井OK,理工系では上井は嫌,というのが大まかな分布だったように思う.
 上井不支持を表明する理工系には私は疑問を抱いた.上井学長は「全学の話し合いで行きましょう」といって登場している.だから,そんなに不満があるなら全学の会議でちゃんといってくれないと困るのである.私は,山口候補が口にした不満を,全学の会議で,山口候補から聞いたことは記憶になかった.
 ただ,上井学長の4年目当時に私が漏れ聞いたところだと,職員側から上井不支持の声が随分とあった.そんなに評判が悪いとは,私は思っていなかったのである.やはり飽きられたのだろう.
 もっとも職員側の反応も一様ではなかったように思う.山口候補に付いた職員の上の方の方とは考えが異なる職員も少なくなかったからである.
 上井学長の4年目で行われた学長選挙では上井候補が辛勝した.しかし選挙後の学長と理工の協議では,全面ではないが,理工のほぼ勝利だったように思う.そのままの流れで法人化後3代目の山口学長が生まれたのである.この結果から遡って考えると,上井学長の4年目で山口候補が勝った方が,話がすっきりしたように思えてならない.

現学長

 法人化後の3代目学長,つまり山口学長については,救世主として期待されたかどうかは私には分からない.実質的には選挙はなく,推薦の議論もあいまいだったからである.形式的には選挙もあったのであるが,候補者一人の選挙であり,山口候補以外を書くと無効になる,つまり信任投票にもならない変な選挙だった(むろん時の規程に沿った措置であり,規則上は正しい).私は無効票になるのを承知で教育学部の坂西先生の名前を書いて出した.ああいう人が学長だと嬉しいと,本音では思っていたからである.
 ただその2年前,上井学長の4年目での学長選挙の際には,本格的な選挙戦があった.そして理工の支持者からは山口先生は救世主と思われていただろうと思う.その頃,ある全学会議に出ていた同僚が私に伝えるに,会議の席上,理工の先生が「山口先生は最後の砦だ」といって持ち上げていたという.「最後の砦」という言語感覚に私は思わず失笑した.山口先生が「最後の砦」なら「既に陥落した砦」は何なんだ,とツッコミを入れたくなる.ただ投票に向けた支持のとりまとめをしていた方がそのように表現していた,ということなんだろう.やはり理系だから,メシア信仰というか,観音様を拝むようなニュアンスがある.文系,特に人文系の人は,文字通り人間中心主義だから,その種の信仰心は薄い.
 その現学長であるが,私が最後に教養学部長をしていたのは確か2015年,山口先生が学長に就任されて2年目だった.私の感触では,その時点で教員といい職員といい,少なからず「学長疲れ」が出ていたように感じた.学長2年目であるが,山口先生が理事になってからは4年目である.山口学長が理事になった当時,学長は上井先生だったけれど,実質的な学長は山口理事だと学部執行部(私は入っていない)は思っていた.あるいは,山口・加藤理事の二頭政治といってもよかった.その意味では,山口学長の2年目で「学長疲れ」があることは,「学長4年目の法則」に合致しているように思える.私が学長選考会議で学長の任期を一律に6年とすることに反対したのも,それ故である.

学長が良いか悪いかではない

 やっていることが良いか悪いかという問題でもないのだろう.学長は決済事項も多く,何がしかの癖があるから,ある程度続くとその癖に合わせるのに下の者は疲れて来る.今までは適度な間隔で「学長選挙祭り」があり,それで主に教員は気分が晴れる面があった.しかしこれからは,不測の事態を除けば学長は6年続く.しかも学長選考が教職員の気持ちとは離れたところで行われることになる.だから,それが規則上は正しいとしても,組織内の人間の気持ちは晴れない面が出て来るだろう.このようにして続く大学運営という,未体験のゾーンにこれから入って行くことになるんだなぁと,しみじみ思う.

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「新」年俸制

 今後導入される予定の新年俸制がどうなるか,という興味で感想を書いてみた.

新年俸制

 少し前に年俸制が導入されたのは2014年前後であったと思う.その時にほとんどの国立大学は年俸制を導入したけれど,適用者は一部に過ぎなかった.その後,国立大学の給与は原則年俸制にする方向で政府は動いてきたように見える.昨年の今頃は2019年度から順次,少なくとも新規採用者は年俸制にする,という話がメディアに出ていた.新たに導入される年俸制を以前のものと区別して「新年俸制」と呼ぶ人もいる.
 その新年俸制のガイドラインが,昨年の秋に出るという話があったように思う.先日ネットで検索したら,それらしい文科省の文書「国立大学法人等人事給与マネジメント改革に関するガイドライン」が今年の2月25日の日付で出ているのを見つけた.この文書が件のガイドラインかと思うが,違っていたら御免なさいである.
 ガイドラインが今年の2月頃に出たということは,各大学で本格的な議論が出るのはこれからなのだろう,という気がする.学内で議論が出ていれば,何れかの大学の組合関係のサイト記載が検索で引っかかってもよいように思えたからである.

各国立大学は新年俸制導入に動くだろう

 このガイドラインをざっと眺めてみた.第1印象として感じたのは,思ったよりラディカルさが薄いことである.
 第1に,月給制の特徴だった定期昇給を容認している.ガイドラインで例示した4つのモデルのうち最初の2つ(①と②)では,わざわざ図の基本給の部分に「毎年度昇給」という説明を入れている.「昇給の考え方」の項でも,「評価の結果によっては、昇給せずに基本給が据え置きになることを想定した仕組みを取り入れることも可能である。」という文言を入れている.つまり「普通は昇給する」ということだろう.
 第2に,退職手当を「月給制と同様、国家公務員であると仮定した場合に計算される額(「再計算の額」)としており,各国立大学には、これまでと同水準の退職手当相当額が措置される」とはっきり言っている点である.少し前まで,退職手当をどうするのかがハッキリしていなかったように思う.以前の年俸制は退職手当分を年俸に含める方式であったため実施するにも財源の確保ができず普及に制約があった.その制約を退職手当と年俸を切り離すことで解除した.この点が新年俸制の最大の特色だった.
 文科省の「悪」知恵が発揮された結果かも知れない.元来はもっとラディカルな年俸制が想定されたと思うが,文科省は普及率を確保できる,教員が受け入れやすい方式,つまり月給制に近い方式をあえて例示してきたのだろう.
 このガイドラインを見る限り,各国立大学とも,新年俸制を導入する方向で動くことになるように思う.特に,年俸制の普及の度合いが評価され,交付金に影響を与えるから,予算に釣られやすい大学は,新年俸制の導入に積極的になるかも知れない.
 組織の在り方を考えると,教員の給与システムは年俸制で統一するのが正しい.年俸制と月給制が混在するのは,人によって適用される法律が異なるようなものである.秩序感を損なう.また,2つの給与システムが並走するなら,両者のバランスを確保するのが難しい芸当になるだろう.しかしその難しい芸当をやるしかないのかも知れない.
 
新年俸制の設計

 上記のガイドラインを見る限り,新年俸制の設計の仕方にはかなりの幅があるように思う.新年俸制の外枠は全学執行部が設計し,学内諸会議の議を経,また何れかの段階で過半数代表/組合と協議することになるのだろう.どのような設計になるかは見どころのように思う.
 ただ,大きいのは外枠より,教員評価をどうするかという方だろう.教養学部の例でいうと,教育,研究,社会貢献,行政の領域ごとに教員の個人評価を行い,(月給制の下での)昇給は,領域ごとの上位者に大きな昇給枠が回るようになっていた.しかし年俸制の下では昇給の配分をどうするのか? 教員をエフォート配分で区分し,領域にウェイトをかけて評価するのか? また,私が眺めた期間でも,評価にはかなりの疑問が残ることが多かった.研究評価は単純そうに見えるが,それでも何を学術的な業績と見るかは考え方による面がある.なるべく理系の方式に集約できるとよいけれど,そうもいかないだろうし,文系の場合,分野ごとの人数が少ないから,まったく異質な分野の人を無理に共通に評価する面もあったと感じている.教育の評価も,差が出るのは主に指導学生数による部分である.しかし学生数の寡多は本人の力量よりは分野によることが多い.例えば同じ歴史学でも(少なくとも学部では)西洋史・東洋史より日本史の学生が多かった.また英語以外の外国語の修得が前提になるなど,ハードルが高い分野は,学生数は見込めない.それで給与に差ができるのはどうかと思う.
 年俸制で業績給の部分が大きくなるとすれば,(主に部局に任される部分と想像するが)評価の方法をどうするかがかなり難しい判断になるだろう.
 おそらく最も辛くなるのが部局の執行部だろう.評価の手順がどうなるかは分からないが,旧来のやり方の通りなら,部局での教員の評価結果を持って全学と交渉しないといけない.場合によっては,全学が出した結果を持って部局の教員個人と交渉,とはいわずとも理解を求めなければいけない.月給制が支配的だった時とは異質な苦労に,部局長は直面することになる可能性が高い.次第に部局長は汚い仕事になって行くような気がする.

普通の人は年俸制より月給制を選好するだろう

 新年俸制を導入する場合,何れの大学でも,少なくとも新規採用者には新年俸制が適用されるはずである.問題は月給制の教員にどのように普及させるか,という点だろう.上記のガイドラインには「本人の同意を得て適宜年俸制へ移行することを推奨することで、段階的に適用者を増加させ、将来の全面的導入を目指す。」と記している.無理はしないという現実的な立場である.
 しかし無理をして,例えば即,全員年俸制,と打ち出す大学もあるかも知れない.特に評価で予算がかかわるとすると,何としても早期に全面的導入して予算を余計に取ることを執行部が目指す大学も出るかも知れない.埼大はどうするのかな,と思う.
 もともと年俸制はこの数年間,研究力強化と一緒に語られていた.研究力を高めるなら人を増やす必要がある,つまり若い研究者を多く雇う,そのための費用を捻出する,というのが発端だったように思う.そこで財源として目に入るのが,パフォーマンスが低いのに高い給料を取っている中高年教員の給与を抑制することだった.その抑制によって,例えばテニュアなしの若手をテニュアトラックで雇えば,人数が増えた分だけは少なくとも研究力が上がる,ということなのだろう.
 だから,大学の研究力を上げることが至上であれば,年俸制によって給与を厳しく査定し,余剰で若い研究者を雇う,という方法が考えられることになる.その手をよしとするかどうかは考え方だろう.組織の立場に立てば正しい判断かも知れない.
 ただ,年俸制がよいのは組織の立場に立ったときの話である.雇用される研究者個人にとっては月給制の方が有難い場合が多いだろう.
 年俸制が嫌なのは自分の処遇に対するリスクが従来の月給制より高いことである.特別な人を除けば,人は業績評価が何時下がるか分からない.もし月給制と年俸制で得られる報酬の期待値が同じであるとすれば,そして当人の効用関数が普通にリスク回避的であれば,個人にとっての評価はリスクの少ない月給制の方が高いのが理屈である.もし年俸制になったとして,評価が高い時の収入の増加分を評価が低くなったときの報酬低下を回避するために支出できるなら(掛け捨て保険),つまり比喩的にいえばリスクへのヘッジをかけられるなら,その方が有難いはずである.月給制とは,リスクヘッジをかけたときの年俸制のようなものである.だから評価が下がることがないと確信出来たり,リスク愛好的でない限り,人は月給制を選ぶと私は思う.普通に掛け捨てで火災保険に入る私は,年俸制ではなく月給制を選ぶだろう.
 にもかかわらず年俸制が施行されるとすれば,個人が自己努力でヘッジをかけて行く方策を考えるしかない.年俸制の導入は,組織に忠誠を誓えば処遇は後から付いて来るという古典的な組織感を大きく変えることになるのだろう.

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奈良女と奈良教育大の統合

 奈良女子大と奈良教育大学がアンブレラ方式で法人統合するという話は随分前から公表されていたように思う.しかし最近になって今さらのように新聞記事になったので,どれどれと思って両大学のサイトを眺めてみた.トップから入ると法人統合の記載に行き当たらなかった.別途,統合として検索して統合に関する説明のページに辿り着いた.
 私は埼大に着任する前に1年ほど阪神間に住んでいたことがあり,奈良には時折足を伸ばした.京都は見るところが多いけれども商業化が進んでいる.それに比べると奈良は牧歌的であり,街も人間的な規模である.旅行者として眺める限り奈良には良い印象しかない.
 奈良女子のキャンパスには,何の折かは忘れたが,入ったことがある.2度あるかも知れない.よく写真で見る昔風の建物が残っていて,その建物がこの大学のシンボルになっている.埼大の黄色いモニュメント,宇大の庭園のようなものである(その3つの中では埼大のモニュメントがイマイチである).
 ただ統合としては,この2大学に私は興味を覚えなかった.両大学はもともと師範系の大学であり,同じ県にあるのに,なぜ今まで一緒にならなかったかが不思議なくらいである.
 計画を見ると,案の定だが経営統合の側面は強くは出ていない.あくまで2大学を残すという計画である.ただ,新しいことを2つやろうとしている.1つは教員養成系の連携である.この点は新鮮でも何でもない.2つ目は奈良女子の方で(女性の)工学部の設置を目指す,という点である.もともと教員養成系大学には技術や家庭科の分野があるので,居住分野などで,工学部に近い方がおられるのだろう.教員養成系の連携で工学部のための原資も捻出されるのかも知れない.女性の工学人材を養成することには新しさがある.
 もともと興味をそそらない統合話であったが,統合によって新たな部局を創出する意欲があることは積極性として評価すべきことのように思う.埼大の場合,新たな部局を作る流れは創れなかった.時代に応じて組織が形を変えることは普通と思うが,既存部局が強すぎて,新たなものを作る原資を捻出する力が経営側にないのだろう.

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学長選考会議は学長公募をなぜ嫌がったのか?

 沖縄科学技術大学院大学(OIST)がNatureのランキングで世界10位,日本1位になったといくつかのメディアが報じた.どれどれと思ってOISTのサイトを見てみた.正確にいうと,Natureの普通のランキングではOISTは高くないのであるが,(元指標の片方を)機関の規模でnormarizeした normarized rank で世界10位になった,ということであった.規模が小さい大学の場合,偶然的なアウトプットの増減で上昇したり下降する幅が大きいかも知れない.が,9位がプリンストン,11位がMIT,12位がスタンフォードであるから,大したものではあるだろう.
 東京を起点にした遠隔地で,強いミッションを持って頑張っている大学がいくつかある.このOISTもそうだし,中身は違うが秋田の国際教養大学(埼大と比較して有利な条件は何一つなかった)もそうだろう.そのような大学は気持ちとして応援したくなる.

 さて,ここで沖縄のOISTに言及したのは少し思い出があるからである.平成26年度の学長選考会議に私は教養学部長として出席していた.平成26年度であるから,学長任期を6年と決めた(私が反対した)年度の前である.その26年度に,私は「学長は公募にしたら?」といったのである.例によって賛同者はいなかったが,私のことであるから簡単には引き下がらない.話は次回に持ち越した.
 そのときにネットで検索してみた.国内で学長の公募をしている例は,なくはないが少ない.その少ない例がOISTだったのである.
 通常,公募は社会の正義であるから,公募といって「ダメ」という理屈はない.確かにナンチャッテのオッサン/オバサンばかりが応募してくることはあるだろうが,良い候補者がいなければ「該当者無し」にすればよいだけである.本気で良い人材を見つけたければやってみてよいだろう,と思った.
 しかし皆さん,嫌そうだった.普通であれば外部委員が「いいですね」といいそうに思えたが,そうではなかった.
 例によってであるが,理工応援の外部委員の方から反論が出た.理屈のない話であるから,中身は覚えていない.
 特に,私が「別に学者じゃなくてもいいでしょう」(お役人OBとか)といったらその方が顔を紅潮させて私を非難した.この方はその頃,山口学長を選挙無しで再任することを主張しておられたから,急に候補者を出されるのを嫌がっておられたのかなぁ,と後になって思った.
 最後まで賛同者はいなかったので,「まあ,公募せずとも,選考会議が広く人材を探せばよい,と考えましょう」といって公募の件を私は引き下げた.
 
 1つ前の記載でも引用した上山隆大氏は,そのインタヴューで,「(大学の)一体感を阻む学長選挙」を法人化の「齟齬」として生じたことの1つにあげていた.「選挙で勝った人は,当然,支持母体を中心にして学内行政をするから,競争的資金で取ってきたお金をどのように学内で循環させるかといった重要な議論は生まれない.」と述べる.
 実際に学長が選挙の支持母体を中心に学内行政をしたかどうかは,場合によるだろう.埼大の場合はそれほど露骨なことは少ないように思う.しかし,学長が重要ポストで遇するのは選挙(ないし選考)で功があった人であるのはずっと例外なく続いてきた.また,例えば教養学部が大幅な人員削減をくらった教員定数の再定義などは,そのときの学長さんの2度の学長挑戦で一貫して支持してきたのが教育学部であったという事情を考えないと理解しにくい.支持母体の考慮がなければ,多くの削減を出す部局の痛みを緩和する措置を考えたのではないか,と思えてならない.
 教養学部のような小さい学部は,学長選挙になってよいことはない.人数が少ないのだから,結果に影響を与えることは少ないのである.2代目学長の再選時の学長選挙で,教養学部は人数がこれこれで,まあ支持は7割程度だから,何票だな,といい,その何票で学部の重要性を認識されたという思いがあり,それで2代目学長さんにカチンと来た覚えがある.
 大学のミッションが何であるかを確認しつつ,そのミッションに適合する人材を選考会議が探すのがよいだろう.予め特定部局と結びついている方は,望ましくないだろう.
 思い出すのが,元文科省次官で,山形大学の学長になった結城学長である.結城学長を担ぎ出したのは医学部であったように思う.が,就任した後に山形の学部長さんからは「特定の部局と結びついている訳ではないのでやりやすい」という感想を伺ったことがある.だから医学部と結びついていた訳でもないのだろう(医学部はどう転んでも力は強い).お役人OBを学長に迎えるのは大学としての見識がどうか,ということは問われてよい.が,広く人材を探すことは見習うべき点もあるかも知れない.

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文科省は国大の法人化をどう考えていたのか?

 少し前の記載で上山隆大氏のインタヴュー記事に触れた.上山氏の議論はなかなか面白いと私は思う.上山氏の議論は,その少し前に山極京大総長が「法人化は間違いだった」といったことに対するコメントのような位置づけになる.法人化は間違いではないが,「齟齬があった」という表現をする.その「齟齬」の第1に上山氏があげていたのが「文科省が法人化の意味を伝えていなかった」という点である.
 文科省は「伝えていなかった」訳ではない.法人化に当たって文科省は国立大学と個別に協議したはずであり,埼大でも文科省のお役人の講演会をやり,私も聴きにいったものである.問題はおそらく,文科省が考えていた(そして国大に伝えた)法人化の意味と,文科省以外の政府機関が考えていた法人化の意味とが,同じでなかったということだろう.国立大学関係者は,私を含めて,文科省経由の説明には触れていた.文科省の説明が染み込んだ頭には,文科省以外の「改革を求める人たち」のいっていることがピンとこない面がある.その裏返しが,文科省以外の機関(省庁など)が国立大学に接したときの違和感であるかも知れない.相互に,国立大学について想定していることがそもそも違っていた,という可能性である.例えば上山氏は財源の多様化を重視する.文科省も財源の多様化をはかるようにいわなかった訳ではない.が,上山氏がいうほど重要な問題とは,国立大学の関係者は思っていなかっただろう.

 法人化の動きが出たのは2000年度より少し前の時期だった.当時は民営化を含め,国立大学に関するいろんな意見が出ていた頃である.独法化が避けられない情勢になったのは1999年だと思う.ただ当時から,独法化(後の国立大学法人化)の意味は大学では理解されていなかったように思う.
 その直後の頃から,埼大では独法部会なる会合ができた.教養学部からは評議員のお一人の他に,選挙で選ばれた私が出席していた.が,その協議の内容は私には呆れるものだったと記憶している.確か当時の副学長のお二人(ともに学内で知られた方である)が会議を仕切っていたと思う.だがそのお二人とも「呑気な父さん」のような話をしていたのである.片方の副学長さんは,独法化すると外部の人を会議に入れないといけないが,どこに入れると我々は楽か,などと話していた.おいおい,そういうもんか,と心で思った.独法化したら学長を教員の選挙で選ぶのはない,と私がいうと,もう一人の副学長さんは「学長くらいは私たちが選びたいよなぁ」と仰り,「今後も今のまま」感を漂わせておられた.そんなくらいだから,実際に独法化(法人化)する直前まで,独法化/法人化については,学内では no idea だったのではないかと思う.
 その独法化部会があった頃,教養学部では「文化政策騒動」がおきた.長くなるので説明は省略するが,この件も独法化/法人化という情報のない恐怖を前にした教養学部内のパニック反応だったといってよいだろう.博士課程がないと民営化される,すると潰れるから(民営化しても潰れることはないと思うが),マンションのローンが払えなくなる(だから「文化政策」だ)といった悲鳴が教授会でコダマしたのである(その博士課程と文化政策との関係もよく分からない).
 実態は,博士課程がないと困ることにあるのではなく,当時は法人化を前にした駆け込み的な概算要求の時期だったことが背景だったろう.だから事務局は概算要求に意欲的だった.1990年代から文科省は上位大学には大学院重点化で大盤振る舞いをしていた.その大盤振る舞いが下位の国大に下がって来たのである.だからほどなく経済学部が博士課程を設置し,教養学部も博士課程を設置し,宇都宮大学の国際学部も次の年度に博士課程を設置できた.教養学部は変なパニックを起こす必要はなかったのである.
 さて,国立大学の独法化が既定路線となったが,よく分からないうちに独法化は国立大学法人化に代わった.この法人化は,簡単にいうと独法化より管理が緩いのである.文科省としては,従来と実質的には変わらない形で収めてあげました,というところだろう.国立大学関係者は法人化で収まったことに手を合わせて感謝したはずである.だから当時の感覚がある人であれば「国立大学の法人化は間違いだ」という言葉は吐かないだろう,と私は思う.
 
 国立大学はこれまで政府に対して「金くれ」といい続けて来た.しかし国立大学法人を独法との並びで眺めるなら,独法の中には政府からの支出を受けていないものもある.公的な病院は,民間の病院では不採算の部門を多く抱えるにもかかわらず,独法化してから収支が改善されたらしく,また国立大学法人の中にあっても大学の附属病院はサービスも収支も改善しているらしい.だから独法全体を眺める立場の人たちから見ると,国立大学が「苦しいから金くれ」としかいわないのは異様に見えることは理解してよいだろう.むろん,研究と高等教育の重要性を考えれば,現状程度の政府支出が維持されるのは妥当と思う.しかし国立大学の財源を多様化することを通じて,高等教育支出を国立大学に直接渡すのではなく,(特に貧しい層向けの)奨学金に回すことが,社会の厚生にとってはより妥当であるように思う.

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リベラルアーツと教養教育

 私が直に見聞していた期間の埼玉大学では,口はともかく,教養教育を本音で大事なことだと思っている教員はほとんどいないように感じた.しかし今日,埼大教員の本音にもかかわらず,どういう訳か教養教育は大事という建前になっている.結構なことと思う.そして少なくとも私が退職まじかになった頃には,いろんなメディアにおける議論でも,埼大の中の議論,例えば経営協議会での議論でも,教養教育は大事なこととして扱われていたように思う.
 しかしいろんな話を伺いながら,教養教育とリベラルアーツをどのように定義して使っているのか,分からなくなることがよくあった.例えば「教養教育は大事だ」という発言があるとして,話が進行するうちに「リベラルアーツは大事だ」という言葉に代わることがある.つまり教養教育とリベラルアーツを同じものを指す言葉として使っている,と感じることが結構あった.
 私にとっては教養教育もリベラルアーツも,その意味は自明なものである.両者は混同しようがない,別個の概念だと思っている.私の語感が正しいという根拠はないのであるが,1つの感想として,私の語感に基づくリベラルアーツと教養教育の意味を書いてみようと思う.言葉の問題であるから論理的な正解はない.それぞれを定義して使えばよいだけである.

リベラルアーツとは純粋な学問の束を指す

 私が埼大に着任して間もない頃,米国に在外研究に出る機会があった.行った先で何かの機会に「大学でのあんたの所属は何か?」と聞かれた.日本にいると機械的に「教養学部」と答えるので,その英訳とされる Faculty of Liberal Arts と答えた.相手の方は「Liberal Arts はCollegeだろう.Department は何か?」と聞き返す.なるほど,どこに属するかはディシプリンを表す department で答えるのか,とそのときに学習した.collegeはuniversityの中の「学部」と訳するのが近いと思う.departmentは普通「学科」と訳する.しかし日本の大学の場合,米国との規模の違いがあり,学科は大ぐくりになっていて必ずしも米国流の,ディシプリンを表すdepartmentになっていない.日本ではしばしば「講座」をdepartmentと称するのはそのためである.教養学部の場合は講座も大ぐくりになっていて,返事をするのに私は迷ったと思う.何と答えたか,正確には記憶していない.
 ちなみに,埼大では,そのままdepartmentとして世界中で通るのは理学部の学科である.工学部もほぼ,通るのではないかと思う.目が当てられないのは文系であるが,少なくとも教養学部の場合は規模が小さいから仕方ない.
 言いたいことは,Liberal Arts とは,普通の用法では,College の一つの組織様式だということである.
 米国の普通の総合大学は,純粋な(応用ではない)学問領域を College of Arts & Sciences という所に集める.「教養学部」と邦訳することが多いが,「学芸学部」でもよい.この College of Arts & Sciences は,大学によっては College of Liberal Arts という.College of Liberal Arts & Sciences とも呼ぶ大学もある.物理学,化学,数学などの「理系」の学問分野がもちろん,経済学,心理学,ドイツの言語と文学,などの「文系」学問が属する.
 ちなみに,もともとはArtsは「人間が作ったものを扱う学問領域」というニュアンスがある.文学,戯曲,思想,歴史(もとは「物語」の意味だった)はみな,人間が作り,あるいは書いたものである.一方 Sciences とは,神が作り給うた秩序を扱う分野であり,物理学,化学,天文学,心理学などが属する.が,現状の意味としては,Arts は人文学(Humanities)を指すといってよい.Sciencesは所謂「自然科学」や「社会科学」が入る.心理学は日本ではしばしば「人文」に入れるが,Science なので,社会科学に入れることが多い.
 米国の州立のトップ大学であれば,そのCollege of Arts & Sciences は,日本の標準的な大学まるまる全体より大きな組織であるのが普通と思う.departmentの数が3桁になるのだから.
 この College of Arts & Sciences の外側に,実用的な,職業訓練的な学部(School)が置かれる.工学部(School of Engineering), 教育学部(School of Education),法学部(Law School,多くは大学院と思う),医学部(Medical School,大学院)である.
 このような背景を考えると,Liberal Arts(Arts & Sciences) は学問の純粋領域の束を表すと考えるのが自然である.古典的な自由七科(文法,修辞学,弁証論 (論理学),算術,天文学,幾何学,音楽学)は,いにしえのヨーロッパの上流階層エリートが学ぶ科目という意味であろうが,19世紀後半には多数の学問領域が生まれるのであるから,現状では7領域では済まない.が,その7領域の今日的な後継分野は,何れもCollege of Arts & Sciences に属するように思う(ただ実技の音楽は別だろう).なお「自由」とは,自由人が学ぶ事柄を指すと思う.職業訓練の学問は,上層エリートの目線で眺めれば奴隷の学問なのである.
 このような教養学部の基本は自由に科目を履修できるようになっている.というより米国の学士課程は一般に広く学ぶことが目的であると思う.専門は大学院,という発想で学士課程と大学院を切り分けている.日本の場合,コースワークを学士課程で行い,大学院で(実は学士課程の終わり頃から)研究室奉公をする.そこは日米の大学の大きな違いだろう.
 米国の学士課程の教育上の原則は「深さ」,「広さ」,それに「相互関連性」だろうと思う.
 「深さ」とは少なくとも1つの専攻(major)で深く学ぶということである.ただ専攻の修了要件は30~40単位と思う(授業時間数と単位数との対応は日本とほぼ同じであり,日本が米国をモデルにしたはずである).日本の場合,例えば教養の単位(語学を含む)が大綱化後は24単位程度に縮小したから,専門科目の単位要件が100単位くらいだろう.その100単位のほとんどは,入学した時点で決まった学科から取ると思う.そう考えると,米国の学士課程での専攻の単位数はずっと少なく,その分いろんな科目を取る自由があることになる.その自由の中でダブル・メジャーや副専攻を取る余地ができる.私の知り合いに,主専攻が社会学で副専攻は数学だった方もいる.日本でいう文と理を跨いで専攻とする人は結構いる.
 自由が多い履修であっても無意味な学習をする訳ではない.upper(コースナンバーで3,4年次と指定された)授業の比率に要件がかかるから,低学年用の科目の単位を集めて卒業することはできない.履修は自ずと系統だつ.また,「専門でない」から楽な単位取得ができる訳ではなく,単位取得が一般に日本より厳しく勉強時間も多いから,単位を取得すれば本人は意味があるだろう.
 「広さ」は文字通り広く学ぶことであり,仮に専攻関連の単位ばかりを取ったとしても,少なくとも(後述の)教養教育で広く学ぶことが要求される.
 「相互関連性」とは,自由に授業をとってよいけれど,例えば自分のキャリアを考えてとる授業を関連付けることが望ましい,ということだと理解する.自由に授業を選べるからアドヴァイジングが意味がある.日本の「専門課程」だと,学科の履修表で取る科目がほとんど決まり,悩みの相談は必要でも履修のアドヴァイスは必要ない場合が多いだろう.
 日本の大学の基準から考えると,こうした教養学部は「4年間の教養課程」と映るのかもしれないが,そう考えるのは浅はかである.College of Arts & Sciences は,物理学などの専門のdepartmentが多数集まり,その1つ1つが専門のプログラムを提供することで成り立っており,日本の教養部のような組織ではない.特定分野での専門性もmajorの形で保証する.そして教育の定評はむしろ米国が高い.
 私は文学部の学生だったから,Arts & Sciences の単位の取り方は自然に感じる.日本でも文学部は,小さな学科/講座/研究室が乱立し,その1つ1つはそれほど多くの授業を提供しない.学生はその中から好きな科目を取ればよい面があった,と思う.私の所属は社会学であったが,本郷の社会学の授業には(駒場に比べ)ろくなものはなく,まじめに履修はしなかった.歴史学の授業は今も記憶に残っている.お隣の心理学は動物行動学のような講座であり,生態人類学とともに理学のような雰囲気がある.数理系の授業は経済学部に取りに行った.だからかなりバラバラの授業の取り方だったように思う.まあ,埼大の教養学部と似ている.

リベラルアーツ・カレッジ

 所謂「リベラルアーツ・カレッジ」とは,College of Arts & Sciences/ College of Liberal Arts だけの(つまり実業課程を持たない)小さな大学である.主に私立で規模が小さく,少人数に徹したエリート教育をし,だから授業料は高く,多くは学士課程だけの,全寮制を基盤とした,アシスタントではなく教授がちゃんと授業を行う,教育中心の大学,というイメージである.規模が小さく,研究で名が出ないから,日本での知名度は低い.が,米国の有名人はこの種のカレッジ卒業であることが非常に多い.そこを卒業して有名大学の大学院に進学するのがよく聞くパタンである.日本のICUや国際教養大はこのようなリベラルアーツ・カレッジをモデルにしていると思う.
 よく「リベラルアーツが重要だ」と仰る人は,リベラルアーツ・カレッジのような教育を念頭に置いていると想像する.しかしリベラルアーツ・カレッジは維持にお金がかかるし,教員にとっては研究へのエフォートが低まるという欠点がある.卒業生に有名人が多いから寄付は集まるだろうが,企業との共同研究収入などは少ないだろう.
 大大学のCollege of Arts & Sciences とは規模が大きく違うが,内部の専門領域の構成の仕方は大大学のCollege of Arts & Sciences と変わりようがないと思う.
 かなり以前,埼大教養学部に,米国の有名州立大学で教え,テニュアもとった先生がおられた.彼は私が見たこともないほど優秀な方だが,私に「手作りの教育に魅力を感じる.米国のリベラルアーツ・カレッジのような.埼大教養学部はそういうことができるのではないか.」と仰ったことがある.

教養教育は大学生が持つべき最低要件の表現である

 現行の日本の大学の制度は米国の制度と似ている.先述のように1単位当りの授業時間の規定は日米でほぼ同じである.ただ日本では1セメスター週1回2単位の授業が主流で,米国では週2回3単位の授業が多いと思う.卒業単位数も日米でほぼ等しい.教養教育(General Education)の必要単位数も,米国と大綱化前の日本はほぼ同じだった(現状では日本の教養教育単位は縮小している).ただ,日本では外国語(主に英語)単位が教養教育に含まれると思うが,米国では外国語(英語以外)の単位が教養教育外となり,必修かどうかは専攻の指定によることが多いだろう.教養教育の単位中に作文(Composition)の占める単位が多いのは米国の特徴である.
 米国で単位数が多いのは,日本での「人文・社会・自然科学」単位数である.埼大ではその単位数が大綱化を経て半減した.その程度なら無くてよいと私は感じる.日本の場合,例えば「自然科学の科目中,何でも3つ」といった,スーパーの安売りのような規定になっているのが普通と思う.米国の場合,数学は最低何単位,生物/生命科学は最低何単位,という風に,細かく規定する.文系の学生が数物系科目を避ける,といったことは,普通は許さない.人文・社会科学でも重要な科目には必修要件を課す.日本の教養教育は「やりゃいいんでしょ」という感じだろう.
 教養教育の意味付けは2種類あるように思う.第1は専門課程のための準備教育だ,という意味付けである.米国の場合,Compositionが入るところは「準備教育」という面を感じさせる.ただ,writingは米国では常に重視され,専攻学生用のwritingの授業を別途準備している面もある.第2の意味付けは,大学生ならこの程度は最低知っていないといけないよね,という,最低要件の提示,である.日本では(戦前から大学であった大学の話であるが)戦前の大学予科や旧制高校が教養部になった経緯があるので,第1の面で理解している人が多いように思う.しかし第1の意味付けで行くと,例えば文系の学生は必ず「自分たちは数学とか,専門ではまったく使わないのに,なぜ履修しなければならないんだ」という不満を呼び起こす.この不満に説得的に抗弁することはできない.同じことは理系でも起きるだろう.私の考えでは,日本でも米国でも,第2の意味付けで教養教育は位置づいているはずである.

教養教育とリベラルアーツの関係

 教養教育とリベラルアーツは,既に述べたように別の概念である.が,関連はある.その関連故に両者を同義に使う人が出るのだろう.
 第1に,両方とも,学士課程教育の中で履修の「広さ」を確保するメカニズムである,という点である.そもそも学士課程は,米国はもちろん日本の大学の設置基準においても,幅広く学ぶものと規定されている.
 第2に,教養教育の科目は College of Arts & Sciences に属するdepartmentの専門科目のコースナンバーになっているのが普通である.教養教育の主たる材料は非実用的な純粋学問のリベラルアーツの科目から取っている.だから教養教育がリベラルアーツだ,というのは,間違いではない.リベラルアーツが教養教育だ,は間違いである.
 教養教育の材料をリベラルアーツから取っているのはなぜか? そのことにどういう意味があるか? この点は常に問い続けてよいだろう.それなりの歴史的経緯があるはずである.歴史を無視して意味付けを私なりにするならば,より根源的な問いを蔵しているのが純粋な学問領域だからだろう.リベラルアーツに属する専門の学問領域は,少なくともその主要な学問領域は,普段は語ることがないとしても,何れも根源的な問いを背景にしていると私は思う.私の関連領域では,ジンメル流に「社会はいかにして可能か?」でもよいし,エゴイストの間で協力はいかに出現できるか? 公共性はいかに存立できるか? でもよい.失礼だが,同じような問いを実業領域である会計学が学問として宿しているとは考えにくい(むろん会計学者が独自に深くお考えであることは大いにあると思う).

リベラルアーツが大事,とはどういうことか?

 教養教育との関連で「リベラルアーツが大事」という発言がよくあることは,この記載の冒頭で述べた.「リベラルアーツが大事」という言葉の真意は,人によって異なるだろうから,発言者に問うしかない.私は私で勝手にいうのであるが,この記載の中盤で書いたように,リベラルアーツ・カレッジのような教育が大事,という意味ではないかと私は想像している.リベラルアーツ・カレッジの要素のうち,第1に根源的な問いを持つ学問を学びつつ,第2に少人数で教授や仲間と議論しながら理解を深める,という教育である.その過程で Critical Thinking を可能にする知の技法を身につける,という考えではなかろうか?
 できるのなら,リベラルアーツ・カレッジの要素はあった方がよい.従来程度の教養教育は,例えば理系の学生にとって,刺身のつま,サンドイッチのパセリ,カレーの福神漬けのようなものに過ぎないだろう.その教養教育をより「高価な」ものにするには,リベラルアーツ・カレッジの要素を導入するのもよいだろう.
 問題は,従来の日本の大学の仕組みのままでリベラルアーツ・カレッジの要素を設定するには予算がかかることである.もともとリベラルアーツ・カレッジはお金がかかるシステムである.
 リベラルアーツ・カレッジのようなことをお考えになるのは,現状では理系が多いような気がする.そこで予算がある工業大学では,東工大のように,リベラルアーツ・カレッジのような仕組みを「横付け」で作ることができるかも知れない.が,埼大のような環境ではどうなのか,と思ってしまう.
 あまり予算をかけずにやるならば,米国の州立大学がしばしば導入しているように,一部の成績優秀学生を対象とした Honors College を作ることかも知れない.

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埼大には交付金削減を適用する必要はなかった

上山隆大氏の記事

 このブログの1つ前の記載で内閣府総合科学技術・イノベーション会議議員の上山隆大氏のインタヴュー記事を引用した.その上山氏は同じ記事の中で面白いことをいろいろいってた.まず法人化は失敗とはいえないが「齟齬」があった,という表現をする.次の点である.

・文科省が法人化の意味を伝えていなかった
・大学間,大学内の資金の偏在を考慮しなかった
・間接経費の問題を放置した
・多様な民間財源,特に寄付を集められない
・一体感を阻む学長選挙

 これらの点は1つ1つ詳しく論じても面白い.が,今触れたいのは2点目,その中の「大学間の資金の偏在」である.
 国立大学が公開した財務諸表を集計すると,法人化後,国立大学の予算額は増えている.運営費交付金は主に効率化係数をかけている時期に減ったが,その他の補助金は増えているので,総額では,政府から国立大学に配分された予算は増えているらしい.それで苦しいということがあるとすれば,「大学間の資金の偏在」,つまり上位大学は予算を伸ばしているけれども,競争的な環境の中で下位大学は苦しいままだ,ということだろう.上で「大学間の資金の偏在」というのはそのことである.
 だから上山氏は「運営費交付金を一律削減ではなく,明らかに競争的資金が集中する研究大学だけ大きく減らすという方が正しかった.」という.
 競争は重要である.しかし競争は社会の厚生のために導入するものであり,導入の仕方には設計の余地があったということだろう.競争力のない地方国立大学は淘汰してよい,という考えであれば,政府は弱ったという地方国立大学にとどめを刺すべきだろう.しかしとどめを刺さない所を見ると,地方国立大学が存続することを政府は当然視しているはずである.少なくとも安倍政権以後は,日本の経済成長のために地方の成長が必要であり,そのために地方国立大学の存在が必要だ,という立場であると思う.存続させるならちゃんと機能できる措置は必要だった.なら,地方国立大学(国大の下位大学)には交付金削減を適用すべきでなかった,ということになる.だから埼玉大学も,交付金削減の対象外であってよかった.
 交付金を削減しないと努力するインセンティヴが低下するという意見があるかもしれない.が,そのインセンティヴは,最低限の財源は押さえた上で,下位大学間での傾斜配分をすればよい,ということになるだろう.既に交付金一律削減が終わったから,今だと「削減を止める」ではなく「補填する」になる.下位大学に財源を補填する理屈づけは,重点支援の類型を使うしかないように思う.もともと,埼大が属する重点支援①の類型は旨味が用意されていない.地域振興補助のような名目で交付金の上乗せをしてくれてよいのではないか.重点支援①に旨味ができたから重点支援③の大学が①に鞍替えする,ということはないだろう.大学教員にとって一番大事なのは見栄だからである.
 下位大学には交付金一律削減を適用すべきでない,というこのシンプルな解答を,主張する人がいなかった(少なくと目立たなかった)のはなぜなのか?と不思議に思う.これまで国立大学は一丸となって「金くれ」を言い続けていた.しかし,上位大学は実は困っていないのは明らかだから,下位大学だけ金くれ,と国大協もいうべきだったのだろう.

財源の多様化と交付金

 読売教育ネットワークの記事で国立大学の財源の多様化(企業との共同研究収入などの拡張)を求める意見をいう人は多い.しかし見ながら,交付金削減を明確に主張する意見はほとんどないように感じた.財源を多様化した分,交付金を減らす,といったら,財源の多様化に向かうインセンティヴがなくなるからだろう.国立大学の交付金がどうなるかは国の財政状況によるというのが一般論と思うが,いろんな意味で交付金を減らすという方向は当面ないのではないかと思えて来る.
 財源の多様化は日本でも上位大学ではある程度進んでいる.だから次第に,財源を多様化していろんな活動をする大学と,交付金と学生納付金が主な財源のままで所定の教育課程の実施に特化する大学,という風に分化が生じるのかも知れない.よく海外の大学の財源内訳を示すグラフが出るが,そのように財源が多様化しているのは米国でも上位大学だけであり,下位大学では州からの補助と学生納付金主体で運営されているのではないか,などと想像するが,私も調べた訳ではない.
 財源の多様化に大学間で差がある状態で,何らかの事情で交付金が削減された場合,「所定の教育課程の実施に特化する大学」は財源の多様化した大学に吸収されるしか,生き残る道がないようにも思える.

国立大学の貧乏語り

 何れにせよ国立大学が本来の多様な活動を展開するためには,財源の多様化が不可欠であることは認めざるを得ない.しかし法人化後,大学が財源問題で行ったことはあまりパッとせず,中には滑稽なこともあった.
 埼大の場合の記憶であるが,まず田隅学長時代の対応はひたすら節約だった.しかし一般論として,節約で削減できる支出分は多くない.田隅学長4年目の学長選の際に田隅学長が仰ったのは「今はひたすら耐えるときだ」ということだった.その通りだとは思ったが,「暗いな」と感じたものである.田隅学長も,東大教授だったお友達学長8名くらいの連名で地方国立大の交付金削減は止めてくれというメッセージを発してくださったが,効果はなかったろう.ただ,苦しいのは地方国大と明示した点は,先見の明があったかも知れない.同じことを国大協がいってくれればよかった.
 その後の上井学長の時期は,財源が苦しいことは常に背景にあったとはいえ,田隅学長の頃に比べると財政のひっ迫感はあまり表に出なかったような気がする.上井学長が明るい人だったということもあるだろう.それと,田隅学長期に教員定数の再定義をしていたので,上井学長の期間では教員の削減をする必要はなかったのだと思う.
 上井学長の頃の政権は民主党政権であるから,今から考えるとバカバカしいこともあった.例の「仕分け」をやった頃と思うが,国立大学の予算に関してパブリックコメントを書いて出す機会ができた.それで,皆さん頑張って「国立大の予算を増やせ」というパブリックコメントを書いて出せ,という号令が学長から出たのである.私は「やってられねぇ」と思った.学長が仰ることだから教授会では「学長がこういってます.書きたい方は書いて出してください.」くらいはいったはずである.むろん私はバカバカしくて,自分では書かなかった.あのパブリックコメントがどうなったかは,覚えていない.
 その頃から,「金を出せ」といって財務省に強訴することを文科省は国立大学に非公式に促しているのではないか,と私は想像し始めた.
 確か埼大では山口学長になってからと思うが,朝日新聞に「財務省は国立大学の授業料を年間93万円に値上げすることを計画している」という記事が載った.93万円という金額は財務省が出した数字ではない.当時,財務省は15年くらいかけて国立大学の交付金額と自己収入を等しくする,というプランを公表している.そのプランにおける自己収入をすべて授業料にかぶせると授業料は年間93万円になる,という計算を文科省がして,お友達の朝日新聞にリークしたようだ.官邸筋のリークであれば読売新聞にまず載るだろうし,財務省のリークであれば日経にまず載ったろう.
 「財務省は酷いでしょ」と訴えたかったのだろうが,子供じみている.そんなことを喧伝したら,親は子供に将来国立大学を目指すよう育てることをためらうようになってしまう.国立大学の利益にならない.
 時を同じくして国立大学は「貧乏語り」をするようになった.確証はないが,文科省のお役人がそのように促したと考えたくなる.埼大の場合,埼大はお金がなくて古い設備で苦労して研究してます,貧乏貧乏,的な番組がNHKで流れたのである.そのような番組が出ると分かっていれば,埼大は止めないといけない.そんな大学に親は子供を進学させようとはしなくなるだろう.誰の判断でそんな番組を作ったのか,と不思議に思う.
 国立大学の貧乏語りはその後も続いた.先年,議員さんたち(議連)に国大協が「金くれ」のお願いをしたときも,やはり資料に貧乏語りを入れている.貧乏そうにすると金をめぐんでもらえると思ったのだろう.中には,貧乏で,一歩間違うと大惨事になりかねない建物環境にある,とまで書いた箇所もある.
 本当に危険な状況にあると把握しているなら,大学がまずなすべきことは学生と教職員を大学から退避させることである.そして金を借りてでも危険を除去するしかないではないか.金の工面はその後のことである.
 何というか,文科省にせよ文科省傘下の業界団体である国大協にせよ,財源の多様化を確かにうたってはいる.しかし力点は常に財務省に「金出せ」になっている.財源が本当に多様化すると国立大学への文科省の支配力が低下する,とでも思っているのか?
 「金を出せ」というと「改革しろ」の反応が返って来る.そこで「法人化は間違いだった」といって開き直る,という変な循環になっているように思える.
 国立大学も,「金出せ」という暗い訴えをするよりは,前向きに財源の多様化を進める時期に来ているだろう.埼大でもオープンイノベーションセンターを川橋理事が開始させたのは上井学長の時期だった.その後,それなりの進展はあると思うが,財政的な成果がいかほどかは不覚にも記憶していない.今後の伸びしろは大きいのだろうと思う.
 国立大学の学長に現時点で求められる資質は財源の多様化を実現できる,平たくいうと金をとって来る学長,ということではないかと思う.そんな話を法人化の直後に仲間うちでよくしたな,と思い出す.少なくとも節約を強いる学長とか,人事給与マネジメントに熱心になる学長よりは明るい(ただし金をとるために人事給与マネジメントを徹底する必要がある可能性はある).今さら「大学を民主的に運営する学長」,などと叫ぶとバカにしか見えない.むろん財源の多様化のために大学の構造改革も並行して求められそうに思う.

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理工の役割は金を稼いで文系に貢ぐことにある

 あえて挑発的な表題にした.真意は,「理工の役割は金を稼いで大学を養うことにある」である.「理工」は「工」に限定すべきかも知れないが,埼大では理と工が一体である建前であるから,あえて「理工」にした.

 国立大学が法人化する直前のことである.埼大では兵藤学長時代の末期である.当時の兵藤執行部は法人化を前にして,国立の諸大学の数字を調べて埼大の立場を把握しようとしていた.なにせ当時は,自分の大学の状況も正確には把握できていなかったように思う.その頃私は副学長をしていた(教養学部出身の)加藤先生の部屋を何かの用で訪れ,話の成り行きで加藤先生からその分析結果の「レクチャー」を受けたことがある.
 いろいろ調べてみると埼大には強みがない,というのが最初の結論だった.1つだけ強みになるのは,このクラスの大学としては学生数が多いことだという.学生数は収入源を表す.しかも,学生はいわば人質であるから,これだけ学生がいると国は埼大を簡単には潰せない,という.大きな銀行であれば潰れると影響があり過ぎるから,公的資金の注入による援助を受けられる,というのと同じである.なるほど,そう読むのか,とそのときに感心したものである.
 逆に埼大の大きな問題はといえば,理工が弱いことだ,という.特に外部資金が,関東甲信の他の地方大学より取れていない,ということだった.横国に負けるのは仕方ないとして,北関東の他大学にも及ばない,という.
 法人化後は,理系が弱いのはまずい.理系にはお金を稼いでもらわないといけない.法人化ということはそういうことだ.理系がお金を稼いで文系も恩恵を得る,その形にするには理工を強化しなければならない.この「理工強化」の考えは他の機会にも加藤先生から伺ったことがあった.
 上井学長期の末期に文科省に出した改革強化プランの目玉は理系の研究力強化だった.上記の加藤先生の考えからすると,この強化プランを加藤理事が推進しようとしたことは一貫性があったといえるだろう.

 上記の加藤副学長のエピソードを書いたのは,先日見たインタヴュー記事を見て同じようなことが書いてあったので思い出したためである.
 少し前のこのブログの記載で,京大の山極総長と東大の五神総長のインタヴュー記事に触れた.読売教育ネットワークというサイトに載っていたインタヴュー記事である.山極・五神総長の記事の後に,内閣府総合科学技術・イノベーション会議議員という肩書の上山隆大氏のインタヴュー記事があった.上山氏という方は上智の経済学部長や政策研究大学院大学副学長といった職を歴任した方であるが,現在は長い名前の会議の「議員」という肩書になっている.基本的には大学の改革を内閣府から推進するのが仕事であるようだ.定年退職する年齢でもないので,それだけ大学改革にコミットメントが強いのだろう.
 私は以前,この上山氏が作った人事給与マネジメント改革の資料を見て,その通りにしたら大変だろうな,と警戒心を抱いた.しかし今回の記事を眺めると,間接経費について企業側と交渉するなど,大学改革に資するいろんな仕事をされているようである.彼の主張も一面だけを見て評価すべきではなかったかも知れない,と思った.私の感覚では,大勢において正しいことをいっている.後で取り上げてもよいが,(埼大のような)競争力のない国立大学は交付金削減をしない方がよかった,ともいっている.

 このインタヴュー記事の中で上山氏は「諸外国の大学を見ていると,大学を維持するコストをしっかり計算して(間接経費を)上乗せして競争的資金をとり,研究費を取りにくい分野に充てている.日本の大学は,その程度のこともやってこなかった.…工学部や医学部は間接経費を上乗せした競争的資金を取って,大学全体を養うのが当然だと認識しなければならない」という.そして次のように続ける.(医・工は)「もともと運営交付金では赤字が出る部門で,お金を取らないければいけない.人文・社会科学系の研究者がそうした現実に反発するのは,当たり前だ.(文系は)競争的資金が取れなくても,運営費交付金で十分やってこられたからだ.」
 医や工が「運営交付金では赤字が出る部門」であるのは,設備などで予算を使うというだけではない.国立の理系の授業料は文系と同じに設定している.だから理系は私大との比較において格段に国の予算を投下している計算になる.
 埼大の場合,最も効率的な,つまり最も少ない予算使用で稼働しているのは経済学部である.だから経済学部は何もしなくても,大学への隠れた財政的貢献が大きい.田隅学長時代,そのときは経済学部長だった後の上井学長が「異論があるなら経済学部を独立採算にしてくれ」といって田隅学長に強談判したことがある.見事なものである.談判するだけの根拠があったのである.
 横道に反れるが,経済学部が効率的であるのは日本の大学の経緯に基づく根拠がある.以前,標準学生数(ないし標準教員数)という数字が出回っていた.今もそれに近い数字はあるはずであり,設置の際の学生定員/必要教員数を決める参考になっていた.その数字からすると,1教員当たりの学生数は法律系と経済・経営系が多いのである.この点は,法律・経済が少品種大量生産学部であったことによるのだろう.文学部系になると1教員当たりの学生数は少なくなる.法律・経済に比べると,細かい領域の教員を揃えなければならない.つまり多品種少量生産になるので,学生数は実態として少なめだった.しかし理系になると,文学系より格段に1教員当たりの学生数は少なくなる.財政的には非効率分野である.私学が理系に手を出しにくい根拠がここにある.単に設備費の問題ではない.
 
 この上山氏のいう大学の財政構造は,法人化前に当時の加藤副学長が法人化後の姿として想定したものと同じだろう.大学の現状は上山氏のいう状態に近づいているとはいえない.だから加藤副学長は,今から20年ほど前に,随分と先のことを見通しておられたことになる.
 上山氏のいうことが実現して行けば日本の国立大学は欧米の大学に近づいてゆくことになる.そうするように大学は努力するのが正しいと私も思う.
 埼大はじきに学長選考をするはずである.正直いって学長選挙(意向投票)など,やってもよいがやるだけ無駄である.重要なことは大学として何をするか,何を将来像とするかを選考会議の面接において選考委員が候補者に問うことである.その際に大学の財政構造をどうするか,具体的に何をするつもりかを尋ねて候補者の力量をはかることが,部局から出ている選考委員の重要な仕事だろう.大学の教職員は,選挙などやって市会議員選挙のような政治活動をするのではなく,候補者に何を問うかを選考委員と話し合うことに頭を使うべきだろう.

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大綱化@首都圏埼玉(下)

 前回の記載の続きを書いてみる.

大綱化後,法人化前

 1991年の大綱化によって法令上は専門科目や教養科目という区分がなくなったと思うが,埼大では(というか多くの大学で)学則で専門科目と教養科目,外国語科目といった区分を作ったのだろう.大綱化後,教養科目の名称は広域科目,一般教育科目,共通科目,教養科目など,いろいろ変わったように思う(名称は不正確な記憶である).以下,教養科目と呼んでおく.名称が変わったことは,手を加えようとした痕跡であるはずである.しかし実質的な向上は希だった.
 教養部があった頃から教養課程には問題があった.しかし分属で教養課程の負担が全学部に分散したことによって問題は増幅しただろう.ある意味予想通り,マネジメントに問題が出てきた.
 当時,科目の分類ごとに教養科目の「部会」を作って運営することになっていた.私は社会科学系の部会に属していたけれど,社会科学系は教養学部と経済学部にまたがり,学部間に調整などなく,学部内でも調整などない.人も変わるので,実際にどのような内容の科目が出るかも規制なく変化したと思う.また教養科目には多くの非常勤枠がついてきたけれども,枠は地理学などの旧来の科目担当者が保有・管理し,非常勤枠の調整はまずできなかった.大学からは非常勤枠の削減要請があったけれども,実際に削減の合意などとれない.部会の世話人が集まって全体の会議もあり私も社会科学系世話人として出席したこともあったが,改善を見聞した記憶はない.マネジメントがないから,したがって変化への対応もできない.
 おそらく大綱化の後に,英語については英語教育センターができた.センターを作ったのは英語教育改善の需要が高まったからだろう.いったん教育学部に分属した先生がセンターに配置換えになった.しかし英語ですら,資源配分はきわめて低いままだった.教養教育に投資する意向は全学的に低かったといえる.

教育学部による教養学部吸収案

 法人化が必至な情勢になったのは2000年前後である.その頃,兵藤学長の下で教養教育の再構築の動きがあった.教養学部出身の加藤副学長がとりまとめに動いた.2001年に拡大学長補佐会が発足し,その場で教養教育の案をなぜか私が提示することになった.同時に呼ばれて案を提示したのは教育学部である.教育学部の実力者お二人が説明にあたった.
 その時に私が提示した教養教育案については,以前,このブログで書いたので省略する.簡単にいえば私の案は,オリジナルに思われたけれど,米国の General Education と同じである.専門課程の低学年用の科目を教養科目(人文・社会・自然部分)とすること,それに加えてテーマごとの統合プログラムを作るべきこと,が骨子である.力点はディシプリンの専門性に基づいて科目を出すことにあり,統合プログラムも,環境などのテーマについて複数ディシプリンが出す科目を集めることを考えていた.全体の理念も,実はイリノイ大学@Urbana-Champaignのホームページに出ていた説明のパクリである.
 その場は教養教育に関する会合と思っていたが,生臭い場になった.教育学部側から,教育学部の教員を二分し,片方は教員養成学部とし,もう片方が教養学部を吸収して教養教育を主任務にする学部を作る,という案が出たからである.この案は教育学部教授会が承認した案ではないが,教授会に出して異論が出なかった,という説明があった.
 この案については私の手許にメモが残っている.骨子だけをいえば次のようなものである.教育学部の教員を二分し,半数は教員養成学部とする.残りの半数,つまり自然科学、人文社会、芸術・体育、ゼロ免の教員60-65名に教養学部と理系の分属教員を加え,新学部とする.新学部の名称は教養学部を避け,総合人間学部や人間未来学部などとする.研究を除けば,第1の任務が全学の教養教育,第2が教員養成の手伝いとする(自学部の学生の教育もあるんでしょ,という質問が副学長のお一人から出て,「そうだ」という返事があった).不思議と,教育学部が学生定員を割くかどうかの点は曖昧だった.私の案が授業科目も例示したのに比べ,カリキュラムの具体案はない.教養教育への提案というよりは改組案の色彩が強かった.
 この案には最初から私は拒否感を覚えた.私のプレゼンは「総合などといってディシプリンを曖昧にする教養教育であってはならない」という点から入ったが,教育学部のこの案はまさにその「総合」を売りにするものだったからである.大学教育というより総合的な人間育成をうたう小学校教育の雰囲気があった.私としては肌が合わない.ただ喧嘩をするつもりはなかったので,あくまで教養教育の側面だけで私は議論したと思う.
 私の感覚ではこの教育学部案が成り立つとは思えなかった.
 第1に,教育学部が新学部に60-65名の教員を出すというが,そうなると残りの60-65名で教員養成系学部を設置することになる.どうみても可能とは思えなかった.新学部の60-65名という数字は教養学部を呑み込むために無理に出した数字である.そして,何人出せるかはその年の夏に出る予定の教員養成系学部のあり方懇の結果待ちといって明言は避けていた.しかしあり方懇でそこまで設置基準を緩めることは考えにくかった.
 答申は遅れたのだろう.11月にそのあり方懇の答申が出て,私は文書を眺めたけれど,設置を緩めるようなことは書いていない.もし教科の教員が他学部にいてもよいように教員養成系学部の設置基準を変えた場合,同じ大学の人文学部や理学部から応援を得る形で教育学部を設置出来てしまう.そうなると,教育学部は削減対象になってしまうだろう.教員養成学部(のポスト)を設置基準で保護したい文科省が,そんな決定をするとは信じられなかった.
 第2に,センターならともかく,そもそも他学部の学生の教育を大きな任務とする学部というのは通らないように思えた.
 第3に,この学部を作ったとして,教育学部から移ってきた教員が教養科目を担当することには疑問がある.教育学部教科の教員についてはおそらく教員養成負担で手一杯になるだろう.理系の分属教員を集めるといっていたのは,少なくとも「自然科学」分野では分属教員(ポスト)で教養教育をやることを考えていたかも知れない.だから「人文社会」についても教養学部から移った教員(特に教養部から分属した教員)に教養科目をかぶせるつもりだったかも知れない.詳細が出なかったから分からないのである.
 私が心配したのは,会議に出ていた副学長さんのお一人が教育学部案に傾く発言をしたことである.ただこのときの学内情勢を考えたとき,学長や加藤副学長はこの案とは違う方向を向いていると思っていた.この会議と並行して私は加藤副学長といろいろ話をしている.兵藤学長や加藤副学長は教養学部に教養教育の中心になることを期待していたように思えた.そして幸い,兵藤学長は私の案を選択してくれた.
 教養学部が全体の教養教育の中心になるというのは,当時の教養学部の立場ではない.教養学部は,教養教育を担う何らかのセンターを作る方向で検討を進めていた.そのためにポストを放出する計画も立てていたのである.しかし,もし兵藤学長の政権がもう少し続いていたら,私も教養学部が教養教育の中心になる方向の立場を支持することもあったかも知れない.小さなセンターでは全学の部局の科目をマネジする政治力はない.また教養学部は,自然科学を除く教養科目の実態を把握する教員がいたのである.教養学部教員のメンタリティを考えると,教養学部は教養教育を公平にマネジメントできただろう.(ただし法人化後は理事の権限が強くなったので,意欲があれば理事がマネジメントをできるようになった.)
 教育学部から出た上記の案については,なぜその案を出したかは謎である.説明は事実上なかった.だから多少の想像をすることしか私にはできない.当時はゼロ免の部分をどうするかが問題になりかけていた時期である.実際,その時から5年後(法人化直後)には教育学部はゼロ免の募集を停止して教員養成への特化をしている.普通,ゼロ免をやめるとその教員/学生定員を使った新学部の話が出る.が,そのように定員を出すと使うことになるのは教養学部だと考えたかも知れない.むしろ教養学部を呑み込んで教育学部の勢力を保持し,定員削減があるなら呑み込んだ旧教養部定員分ポストから拠出しよう,ということを考えたかも知れない.実際にどうかは分からない.
 重要な点は,教養部からの分属教員ポストをいじり直すというアイディアがそのときから教育学部にはあり,その点が後の教員定数の再定義につながったことだろう.
 上記の会議があって少し時間が経過した頃,群馬大学との統合話が持ち上がった.だから学内の関心は統合に集中することになった.再び教養教育の話を大学執行部が取り上げたのは,法人化を目前にした兵藤政権の最終局面だった.私が出していた案を換骨奪胎して案にまとめ,次期の田隅学長の執行部に渡たされたはずである.

法人化後:教員定数の再定義

 法人化する前後の大学内のポリティックスの潜在的な震源は定員削減にあった.法人化後は定員削減が予算削減に形を変えたけれども,実質は同じことが続いただけである.もし統合が成立していれば,整理によって今後削減するポストの余裕も生まれたかも知れない.しかし兵藤政権の末期には統合の実現可能性は遠のいた.そこで法人化した時点では,定員削減を賄う将来的な大きな原資は,分属ポストか,教育学部の改変で捻出されるポストしかなかったのが現実だった.
 その後の学長選挙で,兵藤学長は教育学部を最も強固な支持母体とする田隅候補に敗北した.その結果が教員定数の再定義であり,教養学部は教養部からの分属ポストをすべて拠出することになった.教育学部の勝利である.分属ポストを多く持っていたことが教養学部が教養教育にかかわる唯一の最終的な根拠であったから,この再定義によって,教養学部が教養教育の中心になる可能性は消えた.
 法人化した直後の教養学部の執行部三役は,学長選挙で統合棚上げを宣言した田隅学長に投票していたのである.統合が嫌だったのだろうが,いかにも間抜けである.前学部長の岡崎先生がこの展開をあれだけ憂慮していたにもかかわらず,である.その時点になると兵藤学長が再選されても統合が実現する可能性などなかったのである.
 さて,田隅学長が就任した直後に教員定数の再定義,つまり旧教養部ポストを全学にすべて拠出するという案が出てきた.田隅学長の口から出たけれど,仕掛けたのは教育学部である.間髪を入れぬこのスピード感は,第三者的に見ると見事だった.けれど,教養学部はたまったものではない.実際に再定義が評議会を通ったのは夏のことだったと思う.反対したのは教養学部から出た評議員だけである.当時の評議会の議事録にはこの評議会での発言内容が詳細に記されている.田隅学長をはじめ,その後に学長を継いだお二人もそのときに再定義に賛成している.
 当時,全学の合意で決めたはずの分属を後でひっくり返すことが「あり」だとは信じられなかった.そんなことをした大学は他にない.
 再定義の2年後に教育学部はゼロ免を廃止した.が,このときは教育学部は何の定員も拠出はしなかったように思う.教育学部の完全勝利である.学長を押さえた効果と思う.
 この再定義の特徴は,拠出されたポストをどう使うかの計画がなかった,少なくとも表に出なかった点だろう.使い道は考えていないが金を貸せ,というようなものである.削減にどれだけ必要とか,こういう事業をします,というのははっきりせず,ともかくポストの全学化だけを早めに決めたというものである.普通はないことだと思う.後に山口学長のもとで行ったポスト削減(拠出)とは異なる.山口学長下での削減の場合,そのときの財政見通しを前提に,何年度にどれだけ削減が必要になる,という計算を基に数字を出している.
 問題は,この再定義によって教養教育に影響が出ることを全学執行部が途中まで考えていなかったことである.この再定義後もしばらく,教養教育での学部負担は分属ポスト数に基づいて行われたと思う.空きポストができなければ拠出もないから,削減は徐々にしか生じない.しかし同じ負担原則に基づく限り,10年ほどで各部局の負担義務は消滅する.だからどうするかを考えるべきだったが,考えなかった.大綱化のときと同様に,またも問題を先送りしたのである.問題を先送りしながら,後になって政治力の弱い教養学部に苦難を押し付ける,政治力のある大学部は救われる,という構図がここにある.教養学部は大量分属の受入れで苦労し,拠出でまた苦労した.定年退職者ポストの採用人事は11年間出来なかった.結果,内部の年齢構造は偏って高齢化し,必要なポストであっても補充できず,士気が低下する以外にない状況に置かれ,内部構造の問題点は拠出が終わっても残ることになったのである.教養学部は,分属を全く受け入れない方が良かった.
 なお,この再定義後,教育学部などに付いたポストがこの再定義によるポストではないか,といった風聞はときたま流れた.しかし拠出ポストをどのように使ったかについては公表されていない.学長が変わり法人化後の2代目学長の時代に,再定義で集めたポストがどう使われたかを時の大学執行部が調べたらしい.なかなか分からなかったがなんとか判明したと聞いた.ろくな使い方をしていなかった,という話があったが,正確なことろは公にはなっていない.

新たな教養教育体制:基盤教育センター

 再定義によって,それまでの教養教育の負担原則であった「分属ポスト数に基づく負担」という概念は消滅した.分属ポストがまだ残っているうちはこの負担原則を使えたが,時間の経過とともに新たな原則を決めないといけなくなったのである.この課題に取り組んだのが,法人化2代目の上井学長の下で教育担当理事をされた加藤先生だった.加藤理事はその間教育体制の整理に注力していたが,上井学長の3年目か4年目に教養教育の新たな授業開設の仕方を提案したのである.
 しかし,その提案には教養学部長だった私が強く反対した.私も加藤理事も引かず,キューバ危機のような緊迫した事態に陥ったのである.
 加藤理事の提案は部局ごとの学生数,教員数を基にした数字によっている.問題は,教養科目の人文系科目を必要とする部局の学生数が多いのに,授業を受け持つべき人文系教員数が少ないというアンバランスがあったことである.そこで加藤理事は,教養学部が人文系科目を他学部よりかなり高い比率で受け持つことを提案したのである.しかも,それまでは認められた「開放科目」(学部の専門基礎科目を教養科目としても開く)を排除し,教養専用の科目として開講する,という内容だった.
 教養学部の人文系では,一分野ごとの教員数が少ない.だからそれだけの負担をすると専門科目の方で教員に負荷がかかり過ぎる.しかし,大きな問題は,負担が多い少ないよりも教養学部の一分である.教員定数の再定義を教養学部はいやいや決められた.その時も痛みは続いていた.この再定義によって得られたただ一つのことは,教養学部が他学部より多くの教養教育負担をすることは無くなったという約束である.時の上井学長はこの再定義に賛成し,上井執行部は再定義の継続を決めている.だから,せめて負担平等の原則を守ってくれないと教養学部の一分が立たないのである.
 この件では加藤理事と私は全学運営会議で1時間を超える押し問答を繰り広げた.双方とも引く気はないのである.教養学部の教授会も拒否の意向が強く,この件で妥協するなら私は抗議して学部長を辞任すると教授会で宣言した.実際,次の全学運営会議で決められてしまい,私が学部長を辞任する可能性は高かった.私は6年の学部長在任期間のうち,ことが成らなければ辞任すると腹に決めたことが3度あり,この時が2度目である.実際に辞任する可能性は2番目に高かった.
 この間,学務部長と全学教育課の面々が教養学部長室に押し掛けるという話が伝わってきた.そんな,比叡山の強訴のようなことするか,と私は反発し,私は会わずに副学部長の山本先生に彼らとの対面を依頼し,面談は拒否する,ということもあった.
 実際にはその間も,私は加藤理事や米山学務部長と会って話している.加藤理事は教養学部が教養教育にかかわるべきという,以前からの考えをお持ちであった.私は再定義による状況の変化で,それはないと跳ね付ける.加藤先生からは,以前に上井学長になってからポストを4つ付けたではないか,という話も出る.それもそうですね,といってもよいが,私も商売であるからそうはいえない.あのポストは新しいこと(グローバル)を始めるために使え,再定義による削減の補てんには使うな,と念を押したのは加藤先生ではないか.あのポストと再定義は別であり,再定義の痛みはずっと続いている,と私は反論する.平行線だった.
 米山部長からはなぜ加藤案を呑めないのかと迫られた.何もなければ呑むが再定義があったから呑めないと答えた.再定義は教養学部の命だと,訳の分からぬこともいった.話ながら,私は再定義そのものに怒っていることに気が付いた.
 次の全学運営会議があり,私はまた押し問答をするつもりでいた.が,押し問答はなかった.加藤理事が別の案を提案したのである.この案には文句はなかった.教養学部の負担率は,端数ではやや多かったが他学部並みとなった.足らない人文科目を開設するために新たに2,3人を基盤教育センターに雇うという.ついでに開放科目も認められたが,数が抑えられれば開放科目は認められずともよかったと思う.
 この案はよくできていた.派手な案ではないから人は注目しないかもしれないが,この案はいろんな可能性を加藤理事が考えていなければ出てこない.
 この案にも欠点はある.しかしそのときの制約条件の範囲でなし得るベストであり,欠点があるのは制約条件の故である.教員定数の再定義で消滅した分属教員数という考えに変えて,単に教員数をもとに公平負担を要求して,足らざるところはセンターで補う.信州大学のように教養部相当の部局を作れない埼大の制約の中では,安定して教養教育を確保するにはこれしたなかった.ポストを付ける判断は学長や事務局長と掛け合うことを要する.それを成し遂げる政治力があったということでもある.
 大綱化が生じててから実に20年,初めて出現した大学執行部からのちゃんとした成案だったように思う.この案に辿り着くのに20年を要したことは,法人化の前はもちろん,法人化後も大学がマネジメント能力が低かったことを物語ったろう.
 山口学長の治世になって教育担当の斎藤理事がこの案を手直ししたが,マイナーな変化で本質は変わらない.
 
大綱化の経過をどう考えるか?

 埼玉大学では大綱化は教養部廃止では終わらなかった.教養部廃止はその後に教員定数の再定義という出来事を生み出し,教養教育にもう一つの負荷を与えることになった.この大綱化の経過を今思い出すと,確かに特に法人化前は国立大学にマネジメント能力がなかったと思わざるを得ない.問題を先送りして問題を処理し続けたように見える.その間,教養学部は様々な荒波に翻弄された.
 各部局内のことは部局が解決できたことが多い.実際,教養教育は低調だったが,その間に各学部で基礎教育的な措置が発達していったように思う.教養教育は大学全体の「共有地」のような性格を持つが,そうした部局を超えた問題に対する大学自体のマネジメントは,法人化後も強いとはいえないが,法人化前は決定的に弱かったように思う.そう考えると,法人化して学長権限を高める措置は仕方なかっただろう.
 大綱化の時に分属しか選べなかったのも情けなかったように思う.なぜ新部局を作る構想を持てなかったのか? また,教養教育の部分が残るのであれば,縮小してでも教養部相当の組織を作ることで解決できた問題も多い.後の教員定数の再定義のような乱暴な措置をとることもなかったのではないか?
 教員定数の再定義自体も,なぜあんなことしかできなかったのか? 再定義に先立って教養教育の体制に対する企画を作成し,再定義で全学に集まったポストで措置する,という方法がなぜ取れなかったのか? 再定義で教養学部は11年間,退職者の補充ができないという事情が続いた.しかし必要なポストは「返却」を猶予するくらいの措置をとって衝撃を緩和することが考えられなかったものなのか?
 法人化後もしばらくは法人化前のマネジメント無能状態が続いた.しかしこの間の経験値の上昇で,以前よりは大学にマネジメント能力は付いてきているように思う.だから大綱化が今の時点で起きたとすれば,もう少し考えた方策が取れたように思うのである.
 おおまかにいって,法人化は失敗だったとはいえないだろう.それ以前がひど過ぎた.良くはなっているのである.

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大綱化@首都圏埼玉(上)

 1991年に設置基準の大綱化があった.その前にも教養部をどうするかの議論が埼大の中であったと思うが,検討が本格化したのは大綱化を政府が決めた後である.
 埼大における大綱化の経緯を考えると,目先の問題回避が優先され,ちゃんとした対応はとられなかった,というのが私の認識である.法人化後の今であればもう少し考えた対応が取れたのではないか,と思う.
 以下,私の視点から,大綱化と教養部廃止の経過を書いてみる.教養部廃止については当事者の先生による記録が『埼玉大学〇〇年史』に載っており,そちらが正確かつ公式の記録である.なかなか思い入れがある良い文章だったと記憶している.ただし「正史」であるので差しさわりのある点はあまり触れていないように思えた.以下の記載は「異聞」と理解して頂きたい.

大綱化前:教養学部と教養部の合併案

 私が埼大に着任したのは1983年だった.着任して2,3年した頃,2年務めた教養学部長が再選されなかった,ということが起こった.2年務めた学部長は普通は再選されて次の2年も務める.それが再選されなかったのは特異である.
 その学部長さんは私の講座の親分であったから,何が起こったのか,と思ったものである.人から聞くと,その学部長さんは教養部と合併しようとし,それで反発を食らった,という.その情報がどこまで正しいかは分からないし,教養部との合併という案が教授会に出た記憶はない.ただ,その学部長さんに近い先生の中には教養部との合併を主張する方もおられたし,教養部のナントカ先生に来てもらえればよいだろう,といった話はその学部長さんから私も伺った覚えはある.逆に教養部との合併を嫌う先生は学部内では多かった.
 当時,教養部には私の大学時代の友人がいた.その友人とは,着任当初から教養部と教養学部との合併の可能性についてよく話していたのである.だから学部長さんが合併を進めようとしたとは私は思っていなかったが(その学部長さんは,おそらく善意から,私に政治的な話をすることは避けていた),まああり得ることと思う.少なくとも,教養学部と教養部を合併するというアイディアはどこかにあっただろう.
 当時から,教養部の中では専門学部化したいという要望は強いと聞いていた.
 教養学部は,教養部の専門学部化の出口を塞いでいる面があった.大綱化後に教養部がそのまま専門学部化するとすれば,教養学部とコンセプトが似たような学部になるしかなかったからである.だから教養部が専門学部化するなら,教養学部と合併し,教養教育負担は新学部が継承する形にするのは1つの合理的な,単純な解決法だった.
 教養部との合併自体は,私は嬉しくもないが,特段嫌でもなかった.当時,私のいた講座の周辺は絶えずゴタゴタしていたから,教養部と合併することで状況が緩和される可能性もあると感じた.それに,教養課程と専門課程を受け持つというのは,駒場と同じであるから(東大の全学生はいったん駒場の教養学部に所属し,その後に専門学部に進学するから,その点では異なる),特段嫌がることとも感じなかった.ただ,専門学部にいる先生方には,教養部に「格下げ」になる感があるのは嫌だったろう.
 仮に教養学部と教養部が合併した組織を大教養学部と呼ぶなら,この大教養学部を作ることは埼玉大学にとっては良かったろう.大教養学部であれば分属よりは教養教育の提供はより安定化した.大綱化に伴う軋轢も少なかった.仮に大綱化で教養教育の単位を減らすなら,ポストをよこせという学部もあるかも知れないが,合理的に処理できる可能性が高かったように思う.教養学部としても,駒場とは比べられないとはいえ,教養学部のコンセプトにより近い学部になったように思う.
 しかし実際は,アイディアだけはどこかにあったかも知れないが,大綱化の前に大教養学部ができるということはなかったのである.

大綱化:教養部廃止と教養部教員の分属

 設置基準の大綱化があったのは1991年である.教養部が廃止されたのは1995年の3月である.その結果,教養部教員が分属した.つまり教養部廃止となるのは大綱化から随分と時間がかかっている.
 まずいわねばならないのは,私は当時,単純に「教養課程がなくなる(教養教育の負担が消える),初年次教育も学部でやる」と思っていたことである.つまり教養教育をどうするかという問題は考えていなかった.後から考えると単なる認識不足だったけれど,そう思っていた先生は他にもおられた.教養部廃止に伴って教養課程のカリキュラムをどうするかという問題は,議論されなかった(少なくとも目立つ議論はなかった),と思う.単に教養部を廃止して教養部教員をどうするかだけが話題になったという印象である.
 大綱化が決まった後は教養学部の教授会でもどうすべきかの議論があった.私は,1992年の10月に,教養学部と教養部の教員を合わせて二分し,「社会情報学部」と「国際文化学部」を作る,という案を学部の将来計画委員会,次いで教授会に提示したことがある.その企画書のファイルが手元に残っている.案の両学部とも2学科制とし,各学部の大講座名,入試のデザイン,初年次教育の授業科目名,コースの運用方法まで書いてあり,両学部の学生定員増の概算要求をすることを盛り込んである.よくこんなものを書いたと今思う.しかし残念ながら相手にされなかった.
 良い案とはいわぬが,悪い案ではなかったろう.後から考えると,教養部廃止に伴って群馬大学が作ったのが「社会情報学部」であり,宇都宮大学が作ったのは「国際学部」だった.だから私の案は当時の常識の線だったろう.
 しかし,教養部教員定員を使って新たな学部を作るという話にはならなかった.この点は埼大の伝統だろう.かつて埼大は,医学部を作ることに手をあげなかった(らしい).最近では教育学部の縮小に伴って新学部を作ることもしなかった.結局,既存学部の得にならないことは,仮に大学にとってはプラスでも,起きないのである.
 教養部をどうするかは,全学にWGのようなものが出来て,各学部から人が出て議論していたと記憶している.最終的に出てきたのが「学長裁定」による「分属」だった.ところが,その話が教授会で説明される直前に私が聞いたのは「教養課程がなくなる訳ではない(教養教育負担は残る)」という話だった.その話を私にした先生とともに,「それなら,そもそも教養部を廃止する必要はないでしょう.」といい合ったものである.
 当時の学長さんは,話が行き詰ったので「裁定」を出したのだろうが,積極的にプランを作ったという話は伝わって来なかった.その頃は,学長は君臨するが統治せず,だったのだろう.今はそれでは済まない.
 教養課程が残るなら,教養部を残すのが普通の判断ではなかったか? 教養課程の単位を縮小するなら,教養部を縮小して残し,「余った」教員を分属させる,と考えるべきではなかったか? 何らかの形で教養部を維持することが,少なくとも教養教育の観点からは合理的であったように思う.
 この分属の件は概算要求になったと思うが,分属の意義をどう説明したのか,説明できたのか,その点は疑問である.実は文科省もどうでもよかったのかも知れない.
 分属の学長裁定を報告する教養学部の教授会で,話の筋が通らないといって私は学長裁定に反対する発言をした.そう発言をした方は少なくなかった.後の加藤理事は「学長裁定なので教授会で決をとるような危ないことをすべきでない」と発言した.が,時の学部長は「異論があるなら決をとる」といい,決をとった.決の結果,分属案を教授会で承認したのである.
 分属の学長裁定の時点で教養部のどなたがどの学部に分属するかが決まっていたかどうかは,記憶にない.後に教養学部に分属になった旧教養部教員数は27名くらいであったように思う.法人化後の全学へのポスト拠出数を考えると,少なくとも24名は確実である.
 実は分属前に教養学部の執行部が想定した分属教員数は10名だった.そのような概算要求案を学部が作ったというメモが手許に残っている.その程度なら学部の秩序が維持できる,という意味だったのだろう.しかし学長裁定によって人数は膨れた.分野別の人数も凹凸があるので,学部の組織秩序感は大いに低下した.
 また,教養科目の負担義務は分属教員に貼り付き,分属してもその責務の分の教養科目の授業負担を分属先の学部がすることになった.この授業負担原則がどの時点で決まったかについても,申し訳ないが私には記憶にない.教養部教員の分属はほとんどの国立大学で生じたことであり,授業負担原則はだいたい同じである.
 学部によっては,分属した教員その人が教養科目をずっと負担することもあったようだ.教養学部では教養科目の負担を完全に平等化した.負担を手分けし,全員が最低1コマを持つようにしたのである.私も「社会心理学入門」の教養科目を毎年担当することになった.平等化の結果,分属教員数が多い教養学部は負担義務以上の教養科目負担をすることになったと思う.

 省略して書いているつもりでありながら,長くなってしまった.次の記載で続きを書きたい.(続く)

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大綱化

 1つ前の記載で山極京大総長が「国立大学の法人化は失敗」と論じた件に触れた.私がその山極総長の弁を載せた記事を見て意外に思ったのは,法人化失敗を論じるにまず1991年の大綱化(による失敗)に触れたことである.確かに大綱化はその後の法人化の流れの先駆けになった国立大学の転換点であり,その大綱化に真っ先に触れたのは山極総長の慧眼であったかも知れない.
 大学関係者は単に大綱化と呼ぶが,正式には大学設置基準の大綱化である.この大綱化で何が変わったか,正確には存じ上げないが,大きな点は2つだったろう.第1は教養課程に関する法令上の縛りが撤廃されたことであり,その結果,多くの国立大学は教養部の廃止を自主的に選択した.第2は学部形態(名称)が緩和されたことであり,実際,教養部の廃止に伴って出来た新学部の名称は,それまでは存在しない名称を名乗ることが多かった.
 先日,Googleのブラウザを使っていたらお進めネット記載としてその大綱化に触れた記事が出て来たので,思わずアクセスしてみた.JBPressというサイトに乗った記事である.著者は法政大学キャリアデザイン学部教授の肩書を持つ児美川 孝一郎氏という教育学者である.児美川氏は日本の大学でなぜ教養部という組織ができたかを論じ(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56049?page=3),ついで大綱化により教養部が解体した事情を述べている(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56308).よくまとまった記事だと思った(まだ続きがあると思う).
 児美川氏がいうように,新制の大学は旧制高校などを含めて学士課程を定義するものだったから,その旧制高校(など)の部分が教養部となったということである.埼大は旧制浦高と師範学校が新制大学として格上げになった大学ということになる.
 ただ,ここまでの記載では児美川氏は触れていないが,大綱化前の日本の大学の教養課程は,米国の大学のGeneral Education と単位数や縛りの内訳が非常によく似ている.教養部という組織ができた経緯は旧制高校などを吸収するのに便利だったからだと思うが,教養課程のカリキュラムに対しては米国の影響が強かったはずである.

 さて,1991年度の大綱化は制度上の縛りを緩めて,大学の自主的な判断で大学に改革を求めるものだった.児美川氏が述べているように,大綱化に至る政治的な議論の中では,政府は大学に口出しするつもりはなく,あくまで大学の自治で賢明に制度を作ることを求めたのである.私の記憶でも,当時は文教族という有力議員がいて,文科省に顔を利かせていた.藤波,西岡といった議員が代表格と思う(このお二人は,それ以上は書かないが,埼大にも若干の関わりがおありだった).私の認識でも,その議員さんたちは,基本的に大学の自治を尊重する立場だったのである.
 そのように大学の自主性を認めて行った大綱化の結果が,今日的な評価では芳しくない.教養教育は縮小・衰退していった.それでよいという立場もあるだろうが,それでよいが決して大勢ではないのである.
 大綱化で自主性を認めて大学に任せたけれども賢明な判断ができなかったというこの結果は,結局,「大学に自主的にやらせてもダメだ」という考えを後押ししたかも知れない.実際,大綱化の頃と比べて政治や諸官庁は大学に口出しをすることをためらわなくなったという現状が,大学関係者の目の前にあるだろう.

 それにしても,米国の場合,教養部などもともとほとんどないと思うが,General Education は縮小もされないし衰退もしていそうにない.日本との違いは何なのか?
 いろんな言い方ができるだろう.私の言い方では2点を指摘できる.第1に,教養科目は教養部という格下の組織の教員が担当するものだという発想が根強いためだろう.だから教養部無き後の専門学部教員は真剣にやろうとはしない.米国の場合,General Education の科目は Department が出す専門科目の低学年用の科目(の中でGeneral Educationの基準に適合した科目)に過ぎない.教養科目は専門科目の中から選ぶべきだと法人化前から私が(というより教養学部が)主張していた根拠の1つがそれである.第2に,教養部解体後,教養部ポストは専門学部が吸収したけれども,その専門学部をコントロールするだけの大学のガバナンスがなかったことだろう.

 この大綱化が埼大でどのように起こり,その後いかなる経過を辿ったか,気が向いたら次あたりの記載で書いてみたくなった.

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国立大学法人化は失敗か?

 ネットでニュースを見ていたら,京大の山極総長が「国立大学法人化は失敗だ」といっているという記事があった.どれどれと思って引用元のサイトを見てみた.引用元とは「読売教育ネットワーク」(http://kyoiku.yomiuri.co.jp/sha/)というサイトである.このサイトに「異論交論」というシリーズ物の記事があり,そこでさまざまな大学関係者がインタヴューに答えている.なお,このシリーズは2019/2/9 が最終回で,既に終了している.
 山極総長の記事は2018/3/9であるから,1年以上前になる.次の回(2018/3/15)が東大の五神総長だった.両者が同じようなテーマでインタヴューに答えていた.

山極京大総長の弁

 で,まず,「国立大学法人化は失敗だ」という山極京大総長の記事を読んでみた.議論のアウトラインをまとめようと思ったが,インタヴューであるためか,議論のstructureが成り立っていない.論理展開はかなり滅茶苦茶だなぁ,と思った.筋を追うのを止め,私の主観で山極総長の主たる論点を強いて拾うと,次のようなことである.

1) 大学の大綱化(1991)から「指定国立大学法人の選定」(2017)に至るまでの国立大学に対する国の措置は失敗だった.国立大学は(財政的,時間的に)余裕がないのに多くを要求されている.
2) 文科省(だけ)を司令塔にして国立大学を運営するのがよい.
3) (京大の)学部の学生定員を減らすのは嫌だ.
4) 大学間の統合は嫌だ.連携がよい.

 1)にあるように,単に「法人化が失敗」ではなく,長い間の国の措置がダメだった,という主張である.
 大学教員が時間の浪費を迫られているという定番の議論も出て来るが,評価や申請書書きで時間を取られるというお馴染みの議論ではなく,学生の教育に手間がかかるようになった,といっている.そのことの原因が大学の大綱化(で教養部を廃止したこと)による,という筋になるかというと(たぶんその趣旨と思うのだが),大綱化との関係が書いていない.また,大綱化で教養部を廃止したのは国の求めではなく大学の判断(京大は新学部を作った)だったはずである.学生の手間がかかるのに研究高度化を求められて,やってらんねぇよ,という話であるが,では学部の学生定員を減らすかというと,3)のように,それは嫌だ,になる.

 横道に反れるが,私が大学院生だった頃,私が授業に出ていた(東大の)ある教授は,「旧帝大は大学院だけの大学になるもの手なんだよなぁ」といっていた.だから旧帝大の大学院大学化は,アイディアは1970年代からあったはずである.私が何年か前に教養学部長をしていて,人文系学部長会議に出ているとき,名物の某大学の学部長さんが「旧帝大は重点化で学部教育なんてできていない.学士課程はわれわれ地方国大に任せ,旧帝は大学院大学化しろ」というと,他の学部長さんも「そうだ,そうだ」といって盛り上がったものである.地方国大は大学院は学生確保で汲々としており,(学部に比べて)そんなに良い学生が来る訳でもないので,地方国大には学士課程を任せる,という棲み分けをしてもらえると有難い,というのが本音だったのである.

 現状で,国立大学の運営の仕方の意見は大きく,「文科省主導」対「官邸主導」に分かれるように思う.文科省は国立大学を保護しつつ自らの主導体制の維持を目指す.文科省以外の官庁や諸団体の注文も取り入れたいのが官邸である.山極総長はあらゆる情報から考えて,文科省丸抱え親方日の丸志向が強い.考えてみると,少し前に国大協(山極総長が会長)が国立大学を応援します的な議連に「金くれ」のお願いに行った際に提示した「改革します資料」は,文科省がいっていることそのまんまだった.
 それにしても山極総長の弁は,酔っ払いが管を巻いてからんでいるようないい方である.法人化が嫌な向き(国立大学教員のほとんどだと思うが)には聞いて気分が晴れるかも知れないが,その先の展望は見えない.埼大の学長がこういう方でなかったのは幸いだったように思う.

五神東大総長の弁

 山極総長の次の回に「異論交論」に出たのは東大の五神総長だった.同じようなお題でインタヴューに答えている.が,中身は山極総長とは180度近く違うのが面白い.
 五神総長の方は,「成功失敗というより,法人化は必然だった.」と切り出す.続けて「1980年代には国立大学の劣化は既に深刻だった,それがそのまま続いたら,もっと悲惨な状況になっていた.」という.(以下,都合よく切り取りでつなげるが)「日本の道路や橋,医療を含めた社会保障…パブリックなものの維持,という面では全て破綻に近い状況だ.」「日本の経済力を高める方向に動かないと,社会の共感は得られない.」
 では日本の経済力を高める方向で何かできるのかというと,全国の国立大学をつなぐ学術用の100Gのネットワークが既にあり,そこにデータを集積して(データサイエンスやAIを駆使して,ということだろう)産業の拠点にする,という.まあ,この五神先生という方はそういう方向のお仕事をされているようで,ある種売り込みもあるのだろう.
 なんというか,学術用のネットワークを利用して経済成長を引き起こせるのか,その点は私は no idea である.そうかも知れないし,違うかも知れない.ただ,私が強く思うのは,幻想でもよいから,こういうpositiveな考えをいえることが,今後の学長に必要なことではないか,という点である.
 社会心理学では,人間には positive bias という傾向があり,物事を楽観的に考える(しかし分析的な人は悲観の方に偏る)という説がある.この説を進化心理学的にいうなら,幻想でもpositiveに考えた方が結果が良かった(したがって適応性が高まった)からである,ということになる.だから,positive illusionを持つことは現実的に良い結果を導く可能性が高い.

 話が変な方向に行くけれど,なるべくなら,positive illusionを楽しい夢として語れる人を学長に選ぶとよいのだろう.そういう方はどこかにおられるだろう.過去の話であるが,例えば元理事だった教養学部の加藤先生などは,常にpositiveに考える方だったなぁと今も思う.

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日立が日立化成を売却

 日経を見ていたら「日立、ものづくり・ITに集中 日立化成売却へ」という記事があった.ああ,すごいなと思った.
 私の出身地は茨城県であるとはいえ,栃木寄りの地域だった(だから言葉も田代先生や西田先生に近い)から,もともとは日立市に馴染みがない.が,母方祖父母が水戸に住んでいたし,高校が水戸だったので,水戸方面は思春期ころから馴染みができた.日立工業高校とは相撲でよく対戦したのである.
 私が高校生だった頃,水戸の隣の勝田市(今はひたちなか市)の市長が,日立労組に逆らったために再選できなかったということがあった.つまり日立市からひたちなか市までの海岸線沿いは日立の企業城下町だったはずである.
 水戸にいた祖父は「日立といっても今は大したもんだ」といっていた.日立製作所は(記憶はあいまいだが)日立辺りにあった鉱山を基盤に銅線か何かを作っていた町工場であったと思う.それが戦中戦後を通じて成長し,私が子供の頃には大企業になっていた.私が学生だったとき(PCが売り出される前である),東大の「大型計算機センター」にあった大型計算機は日立であり,当時,旧帝大の大型計算機は日立か富士通だった.埼大に就職したとき,埼大の計算機も日立であったので,ここは東大の系列か,と思ったものである.日立が悪いのに教員が不具合を謝った,という話が出るほど,日立は埼大でも強かった.
 一時,電機メーカーが軒並み業績を悪化させたとき,日立だけは「集中と選択」をしなかったために業績悪化を免れた,という記事を見た覚えがある.その日立も,なんと日立化成を売却して再編に乗り出すという.
 まあ,これが経営なんだな,としみじみ思う.

 そういえば文科省も,学部を売りに出すことを考えるべきことを私大に通知していたはずである.学部ごと他大学に移管させる,というのは,子会社や事業部ごと売却して経営をスリム化するという企業慣行を念頭に置いたのだろう.むろん国立大は想定していない.

 私が教養学部で学部長になった頃,よく内輪の雑談で「ウチの教養学部を私大が学部ごと買ってくれないかね」と話したことがある.当時,私大にもよるが中堅以上の私大であれば,給料や研究費は埼大より若干良く,定年も長く,サバティカルなどの労働条件も悪くても同等である,という認識があった.正直いって,埼玉大学という国立大学に学部があるメリットを感じることはなかった.今All-in-One Campus などというが,個々の教員にとっては,埼大の他学部があることのメリットはほとんどない.しいて言うと人文系の先生が教育学部に同分野の方がいるのが有難かったかも知れないが,大きな要因とも思えない.
 昔からメリットとされるのは,国立は教員辺りの学生数が少ないというくらいである.ただ,私は何年か前に成城大学で非常勤で卒論を担当させて頂き,今年は中央大学で非常勤で卒論指導を担当させて頂いている.私大であるから学生が多い.とはいえ,1教員辺りの卒論の指導学生は何れも10名を目安の限度としているのである.教養学部の場合,教員1人当たりの卒論学生数は4,5名だろう.それが10名になって,気にするような手間の増があるとも思えない.むしろ10名程度が最適数ではないかと思う.
 法人化後,理系が設備の貧困を嘆いているけれども,文系の場合はそれ以前ではないかと思う.図書館には必要な書籍,雑誌類がまずない.予算額の問題より使い方の問題だろう.しょうもない雑誌のタイトルはよく見かけるが,Annual Reviewのようにimpact factorが最高の出版物ですら,私が研究費で買わなくなると大学にはないのである.大学の図書館としては考えにくい.理系のための電子ジャーナルで予算は吸い尽くされるので仕方ない面もあるが,管理もまずい.
 今は改善されたかも知れないが,在職中に私が苦労したのは,統計の授業で統計ソフトを学生に使わせたいけれど,十分な手当てができないことだった.たまに教育機構のプロジェクト経費でお金をもらって一定数インストールして凌いでいる有様だった.授業でも2人に1台の手当しかできなかった.理系ではMathematicaなどのサイトライセンスを取っているから,統計ソフトのライセンスを取る余地はないのかと,情報系の先生に伺ったけれども,そんな余地はない,という.そんな有り様の大学は,私が知る限り,私大にもない.おそらく理系で金を使うので文系に金が回らない(文系主体の私大では金が回る)というのが実態ではなかったか?
 そんなくらいだから,「教養学部は明日から私立の〇〇大学になります」といっても,多くの教員は反対しなかったろう.反対する要素があるとすれば職場がさいたま市より北に移動する場合だけだったろう.
 学部長になる前,私は前任者の関口学部長の下で副学部長をしていた.関口先生とはいろんな話をしていたが,何の話のときだったか,関口先生は「国立大学は民営化してもよかったんだよな」と仰った.「すぐに民営化するというのは無理だが,時間を置いて民営に移行するなら対応できただろう」というご意見であった.実は私はもともと,国立大学の民営化論者であるから(今もそうである),そのときはいきがあっただろうと思う.
 私や関口先生が民営化してもよいと考えたのは,むろん文系だからである.文系は国立大学にいることによる恩恵がない.その点は理系とは異なるだろう.理系は税金によって私大との大きな価格差を付けてもらっている.学生の質に及ぶ恩恵は計り知れない.理系では,当初の交付金には入っていないような設備用の予算も申請できるが,文系ではその恩恵もない.理系は国立をやめられないと思うが,文系の方は有難みは実感しにくいのである.

 さて,教養学部をどこかの私大が買ってくれる,ということがあるかといえば,現実にはないだろう.教員が欲しいとしても,欲しくない教員もいる.だから「学部ごと買う」より「個別に人を引き抜く」方が合理的である.また,学部として受け入れ難い慣行を持っている場合,学部ごと買うことにはリスクが伴う.
 買ってくれることがあるとすれば,その学部自身にブランド力がある場合,また,埼玉地方に新たにキャンパスを増設する場合,といったことではないかと思った.
 私が学部長のときに考えたのは次の2つである.買ってもらえるためには,一定のブランド力を付ける必要がある.私の学部長期に教養学部はグローバルの方向性をとった,その内心の動機の1つは買ってもらえるようにするためである.もう1つ考えたのは,埼玉県内の高校に根を張っていると買ってもらいやすかったことである.だから何とか「指定校」を作れないかと思ったが,当時の国立では無理だった.グローバル事業を始めるときに県内の高校にアンケートを送って事実上宣伝をしたけれども,その努力はその後しなくなってしまった.
 だが,「学部ごと私大に買ってもらう」という可能性は今後も捨てずにおいた方がよいだろう,と私は思う.理系は国立でなければ生き残れないが,文系はそうではない.今後,どういう展開になるかは分からないのである.特に,人事給与マネジメント改革が暴虐な様相を呈する場合(その可能性はあると思う),学部ごとどこかに退避する,ないしそれに近いことを起こすことは,現実的な選択肢かも知れない.

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静岡大学と浜松医科大学との法人統合

 静岡大学と浜松医科大とが統合するというニュースが出ていた.両大学の統合話は前からあったような気がする.21年度からというから,アンブレラではなく,以前からよくあった複合大学(医学部がないと総合大学とはいわない)と医科大との統合のケースと思う.その意味では大きなニュースではない.
 静岡大学は少し前に静岡県立大学との統合話があった.今にも統合するような話であったが,気付かぬうちに消えてしまった.学部長会議でお会いした学部長さんの話によると,県と国では事務的な仕組みが違うので無理という判断になったという.今回の浜松医科大は国立であるから,ハードルは低かったのだろう.
 静岡大学は,埼大ほどではないが,立ち位置が難しいように思う.東京からやや離れているし,名古屋大を中心にする東海地方のアンブレラに入るには,浜松はともかく静岡は違和感があったかも知れない.むろん,将来,東海のアンブレラに入る可能性がなくはないだろう.何れかのアンブレラに入るとしても,より強い立場で入れるだろう.
 素人目には静岡大学が浜松医科大を吸収するように映るかもしれない.が,予算は(ホームページに出ている平成29年度の決算書では)静岡大学が埼大の1.4倍程度の185億円,浜松医科大学が312億円である.浜松医科大学の方がかなり大きい.看護学科を含めた医学部だけの大学であるが,商売としては医学部1つの浜松医科大学の方が静岡大学より大きいのである.埼大も,もし医学部があれば予算は3倍超だろう.
 確認のため自治医科大学の予算を見てみた.信じられないほど大きかった.

 学問系統の異なる大学同士の統合であるから,おそらく,両大学は今まで通りに運営されるような気がする.統合することの意味は,調達を含めた事務処理の共通化による節約や,医工連携の促進,といったことくらいだろう.むろんその2つでも,大きい.

 埼大は,今,何か話を進めているのだろうか? 大きな決断を回避するこれまでの埼大のパタンを考えると,気が付いたときには選択肢が限られてしまうというのが,最もありそうなシナリオのように思える.

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THE大学ランキング日本版2019

 昨年も全く同時期に同じような記載をアップした.Times Higher Education(THE)の世界大学ランキング日本版の2019年版が公表されたというニュースを見かけたからである.この日本版のランキングは教育面の評価であり,研究面まで入れるとランキングは異なる.が,協賛しているのがベネッセなので,教育面の評価が主体になるのだろう.
https://japanuniversityrankings.jp/
 大まかな大学のランキングは当然ながら昨年度と同じである.1位が東大から京大に変わったとニュースでは喧伝していたが,もともと差は小さく,どちらでもよいことである.注目すべきことではない.
 埼大は昨年度が70位で今回は75位だった.この点も「変わらず」というべきだろう.
 ちなみに,重点支援①の大学だけ取り出してみたのが下の表である.大きな変化はない.

表:重点支援①の大学のランキング(100位まで)

190328

 評価次元は教育リソース,教育充実度,教育成果,国際性の4つである.詳しくは上記サイトを見て頂きたい.教育リソースとは学生の資金や教員の研究力などからなる.教育充実度は学生や高校の先生の評判である.教育成果とは企業や研究者からの教育力の評価である.国際性は留学する学生の比率や外国語による授業の比率などから算出する.サイトにも詳しくは載っていない.
 埼大の場合,総合で75位,教育リソースで88位,教育充実度で110位,教育成果が49位,国際性が93位だった.見たところ,教育成果が高く教育充実度が低いように見える.しかし,教育成果が良いといっても茨大や鹿児島大が少し上であるから喜ぶ話ではないかも知れない.教育充実度がやや低いのは,学生や高校の先生から評価されていない面がある,ということである.

 このランキングは大した指標に基づくものではない.研究力ランキングのような論文関連の客観指標によるランキングではない.指標の半分は評判であるから,世間のステレオタイプを反映した結果になりやすいといえるだろう.ランキングを上げたければベネッセに儲けさせてください,という商売になっているような気もする.しかし,埼大の場合,受験当事者からの評判が取れていない,そこを何とかすべき,といったことを教訓として汲み取るべきかも知れない.

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AI人材育成

 日経の記事を眺めていたら「政府,AI人材年25万人育成へ 全大学生に初級教育」という表題の記事が出てきた.3/29に政府の統合イノベーション戦略会議が公表するという.内閣府が記者に「豆撒き」したニュースだろう.大きく出たな,と思う.この公表には経済成長マインドを鼓吹する狙いがあるのだろう(正しいことである).記事を見るとAIに加えてデータサイエンスを入れて考えているようである.理念として標榜するのが「数理・データサイエンス・AI」である.
 最近の政府の動きを見ていると,官邸主導で必要な方策を出していく.総務省や文科省のような既得権益官庁はその邪魔をする,という構図である.
 政府の何万人計画というのは今までにもいろいろあって,たぶん達成された試しはない.しかしこの件で大きく出るのは正しいように思う.アメリカのようにバイオに投資することは,日本はしなかった.日本がAIやデータサイエンスに賭けるのは必然のように思う.やるなら,「勝利を決定づけられない兵力の逐次投入」ではダメである.
 記事の記述を見ると年25万人はまず無理のように思う.しかしそのつもりやる,ということだろう.文系学生の15%がAI人材になるという想定らしい.文系でも研究上はテキスト分析などへの応用は普及するだろうから,教養学部もその方面の人的な投資を考えてよいように思う.
 「全大学生に初級教育」というのは,対応できる大学がどれほどか,という問題があるだろう.ただ国立大学はやることになるように思う.今後の外的な環境要因の1つとして考慮するのは必要なことである.良い方向への変化になると私は思う.文系の学生でも初級教育くらいは必要である.ある程度の知識がないと通常の業務に支障が出かねない.AIでできること,できないこと,付け加えるべきモジュール,などについて判断できないからである.
 同じ日経の記事の2/27付けの記事に「AI・データサイエンスの大学院新設ラッシュ」という記事があり,東大,阪大,早稲田,関学などの例が載っている.確か立教が院を新設するという話もあった.手を打てるところは打っている.
 埼大は,グローバルを見送ったのだから,残る投資先はデータサイエンスしかないと私は思ったが,やらなかった.当然ながら挽回が必要になるだろう.工学部と経済学部がジョイントで何かするとすればデータサイエンスしかないと思ったが,そこは京大の経済学系列の滋賀大とは内訳に差があったのかも知れない.

 ふと思ったが,AIは軍事技術としてもキーになるだろう.軍事に転用できるからAI研究は認めないぞぉ,とかいうバカが出るか,その点は楽しみにすべきと思っている.

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文系を学ぶとバカになるのか?

 少し前,アマゾンで百田尚樹の『日本国紀』と一緒に,高橋洋一の『「文系バカ」が,日本をダメにする』という本を購入した.台所に置いてペラペラ目を通していた.
 高橋洋一という人は嘉悦大学教授の肩書のある,元財務官僚である.最近のニュースの解説をする評論家の中で,この人が最も良いことを言っていると私は思う.何が良いかというと,話を単純化して分かりやすく説明する点である.この方は数学がすごく出来る人だったらしい(この本に書いてある)が,話を単純化して見せるところはなるほどと思わせる.文系の人だと単純な話を複雑にして喜んでしまう.
 で,『「文系バカ」が,日本をダメにする』という題に私が興味を覚えたのは,文系の学問の中には人をバカにする要素があるのだろうか,そのことが書いてあるのではないか,と期待したからである.
 結論をいうとそういうことは書いていなかった.本の内容はかなり簡単なもので,口述筆記程度の中身である.中身に体系性はない.週刊誌の記事くらいの内容だと思う.
 それでも面白いことは書いてあった.この本で「バカ」とされるのは主に官僚,マスコミの記者である.著者が財務省役人時代の話があり,出世する官僚が専門性がなくものの理屈を知らない人であったことが縷々書いてある.高橋氏は役人時代に「ハトの豆撒き」,つまり記者に情報を提供する仕事もしていたようで,マスコミ記者がどの程度のレベルかも分かっているのだろう.高橋氏は官僚とマスコミは信用するなという人であるが,この本を読むと,ほんとに信用しない方がよいと思えて来る.
 この本の中で著者の高橋氏が称賛する「理系」的なものとは,おそらく,「自分の頭で考えること」であろうと思う.結局,「文系バカ」とは自分の頭で考える力がない人,ということに思える.
 そういわれれば,思い当ることはないではない.
 私は退職する直前の6,7年の間,なぜか「ゲーム理論」の授業を持っていた.私ができることであるから,むろん入門的な内容の範囲である.ゲーム理論は,分野では経済学者が研究することが多いけれど,本来的には数学の一種である.私はこの授業を担当することが気に入っていた.退職した次の年には埼大で非常勤の授業を1つ担当する機会があったけれど,社会心理学の授業ではなくゲーム理論を選んだくらいである.社会心理学のような体系性のない科目に比べ,ゲーム理論には体系的な美しさがあった.
 だから,私はその美しさに酔いしれて講義をできて幸せだったけれど,講義を受ける学生はつまらなかったろう.よくある話である.が,問題は,試験の成績が概して悪かったことである.グローバル・ガバナンスのように,表向き社会科学系の学生であっても,概して出来が悪かった.
 私の認識では,成績が悪くなる要因は2つあった.第1の要因は「考える」ことができていないことである.私が学生だったときの経験からして,文系の学問の試験では,できたかどうかは設問で問われた事項(例えば用語)を知っているかどうかで決まる.知っていれば,どのように表現するかについては考えるものの,答えは書ける.事項を知らなければ,考えて創作しても通常は点にならない.しかし数理系の科目の試験では,明示された条件と既知のルールを操作(演算)して答えを出さないといけない.つまり自分で考える過程が入るのである.その考える過程ができていないことを示す答案が多かった
 第2の要因は基本的な演算の間違いである.私の授業では,初歩的な微分を除けば四則演算しか使わない.その四則演算,ないし文字式の変換の基本的操作の間違えが結構あった.だから考え方は合っているのに解答が変な方向に向かう.その種の間違いの減点率は低くしていた.
 第2の要因の方の原因は,仮説は多数にのぼるが,私の想像では「ゆとり教育」の影響だろう.第2の要因は,私がゲーム理論の授業をしていた期間の最後の2,3年に強くなった.調べてみると,何れの学年もゆとり教育を経験しているものの,その2,3年の学生の学年では小学校低学年からゆとり教育があったのである.だから演算の反復訓練をする習性ができていなかったのだろう,と想像する.
 今問題にしたいのはむろん第1の要因の方である.要するに考えることが習慣になっていない学生が多かったように思う.中には暗記物として試験を受ける学生がいて,解き方のパタンだけ暗記して解答したらしい答案も見かけた.そういう答案は論述部分で説明になっていないのである.
 研究者になるような方であれば,文系理系を問わずに考える経験を積んでおられると思う.しかし普通の学生はそうではない.文系学生の場合,知っているかどうかが勝負であり,自分で考えるという過程を経験せずに点が稼げる.論述はさせているのに結局は暗記学問になる.それでは考えることをしなくなって不思議はない.
 こう考えると,極論すれば,文系の学生はその課程を通してバカになるよう訓練されているのではないか,と思えてくるのである.
 聞くところによると,埼大では新たな教養教育において,文系学生向けにも数学系の科目を重視するとのことだった.また経団連等は文系学生にも数学の知識を求める提言をしている.だから文系の課程でも入試には数学を入れることが求められるだろう,と書くメディアもある.実際どうなるかは分からないけれど,まあ結構なことではないか,と思う昨今である.例えば論理的な文を書く練習をさせるなら,数学の証明をきちんと書く訓練をするのが一番早いだろう.文系の場合,「論理性」と「説得性」を区別できていないことがよくある.

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国立大学のキャッチフレーズ

 3月初旬に偶々いくつかの国立大学のホームページを眺めた.群馬大学のページで新しいキャッチフレーズを決めた,と書いてあった.「群を抜け 駆けろ 世界を」というのがそのキャッチフレーズである.同じようなことを他大学もしているかと思って国立大学のホームページを調べてみた.
 東日本の国立大学は全部調べた.といっても東京の国立大学はスキップした.埼大の参考にならないからである.西日本については,多少見知った大学だけを拾った.その結果が次の表である.キャッチフレーズが見つからなかった大学も多い.

  表:国立大学のキャッチフレーズ
─────────────────────────
弘前大学  世界に発信し,地域と共に創造する
岩手大学  岩手の「大地」と「ひと」と共に
秋田大学  学生第一の秋田大学
東北大学  最先端の創造,大改革への挑戦
群馬大学  群を抜け 駆けろ 世界を
埼玉大学  All in On Campus at 首都圏埼玉 多様性と融合の具現
山梨大学  地域の中核 世界の人材
信州大学  Plan the NEXT
静岡大学  自由啓発・未来創成
新潟大学  真の強さを学ぶ.
岐阜大学  学び,究め,貢献する岐阜大学
三重大学  三重の力を世界へ
高知大学  地域から世界へ,世界から地域へ
島根大学  人とともに 地域とともに 島根大学
鹿児島大学 進取の気風あふれる総合大学
─────────────────────────

 正確にいうと,大学のトップページ,ないしその1つ下のページで出て来る標語らしきものを選び出した.あくまで今年3月の初旬のホームページ記載である.ホームページは結構書き換わるし,4月の新年度になるとリニューアルして変わるかも知れない.3月初旬のスナップショット,と考えて頂きたい.

いくつかのタイプ

 いくつかのタイプに分けられるように思う.
 まず地域を基盤とする重点支援①の大学であることをそのまま示した「地域型」と呼ぶべきキャッチフレーズがある.岩手大学と島根大学である.重点支援①を純心に標語に落とした感がある.
 「地域型」の1つのヴァリエーションとして「地域と世界型」と呼ぶべきタイプもある.もともと重点支援①は,地域を基盤にするだけではなく,世界的な拠点を持てる記載になっている.特に理系は「世界」を入れないと収まらないだろう.このタイプの大学は弘前大学,山梨大学,三重大学,高知大学である.
 大学のミッションを標語として表現したと思えるケースもある.「ミッション型」と呼んでおこう.上記の表では,秋田大学,東北大学,岐阜大学が該当すると,私の主観では,思える.
 記憶に残るのが,かつて就任時に物議を醸した山形大学の結城学長が「教育第一」というスローガンを掲げたことである.その頃,東北大学は「研究第一」を掲げた.好き嫌いはともかく,見事なコントラストであったと思う.秋田大学のキャッチフレーズは,その結城学長スローガンの変奏のように見える.
 岐阜大学のキャッチフレーズにも注目してよい.ご存じのように,岐阜大学は名古屋大学とアンブレラ統合の協議に入っている.その協議の覚書が岐阜大学のホームページに掲げられている.名古屋大学ホームページにもあるのだろう.その覚書を見ると,岐阜大学と名古屋大学はミッションが違うことを明記しているのである.上記の岐阜大のキャッチフレーズは何気ないように見えるが,明らかに東北大学や名古屋大学とは書くことを違えている.地域大学として教育,研究,社会/地域貢献をします,という.素直な表現といえる.
 学校の教室にはよく,その学校の校風を示す言葉を書いた額が掲げられている.かつて私が通った中学校では「力のある人間になれ」と書いてあり,高校では「至誠一貫 堅忍力行」とあった.そのような校風の表現をしているのが静岡大学,新潟大学,鹿児島大学である.このタイプを「校風型」と呼んでよいように思う.
 ここまで,私の主観で4つのタイプを想定してみた.その4つに入らないのは,上記の表の中で,群馬大学,埼玉大学,信州大学である.
 群馬大学のキャッチフレーズについては,当ブログの1つ前の記載(「法人化後の3代目学長(下)」)で取り上げた.「エースをねらえ」の宗方コーチが,岡ひろみの飛躍を願って,今わの際で「岡,エースをねらえ!」と叫ぶ,群馬大のキャッチフレーズはその叫びの雰囲気だね,と思う.地方国立大学の群から抜けだ出して世界を目指せ,ということである.ウチの学長の心の叫びでもあるだろう.だから群馬大学のキャッチフレーズは「エースをねらえ型」というべきだろう.
 信州大学の標語は,何というか,日立の Inspire The Next のパクリだろう.だから「日立型」というべきかと思う.むろん,Plan the Next,うん,悪くない.inspireという気の利いた単語を選んだところは,日立さん,ちゃんとお金をかけたんでしょうね.
 最後は埼大である.見ての通り,かなり異質である.1つの決定打がないので魅力と思えるものをいろいろ集めたのだろう.その意味では「複合型」といえる.
 ただ埼大の標語は,外部向けには意味が薄い.この種の標語は見て0.5秒くらいでその意味を把握できないとダメだろう.

埼大にどのようなキャッチフレーズがあり得るか?

 前項で並べた「複合型」以外のキャッチフレーズを埼大について作るとすればどうであろうか?
 まず「地域型」であるが,埼大としては「世界」が入らないと収まらないだろう.「地域と世界型」から選ぶなら,弘前大学,山梨大学の標語はそのまま使えるかも知れない.ただ,埼大の難しさは,単なる地域ではなく,「首都圏」を入れないと(埼大関係者の気持ちが)収まらない点である.しかし「首都圏の発展に貢献する埼玉大学」といっても信憑性はない.首都圏に比べて埼大の存在が小さ過ぎる.つまり「首都圏」としての「地域」は使いにくいのである.その点,例えば首都大学東京や横浜国立大学の場合,都市環境を扱う学部・研究科を持っているから,「首都圏」といって収まる面がある.しかし埼大は「都市ナントカ」の組織を備えていない.そう考えると,「首都圏」とか「地域」といったキーワードを埼大は使いにくいと思える.
 「校風型」も作り難い.埼大は校風などは考えたこともないはずであり,仮に作っても自分でも納得できないだろう.あえていうと,以前に埼大経済学部が「地味だけど実力派」という標語を使っていたのは,校風に近かったかも知れない(千葉大の「底力宣言」と泥臭さが似ている).しかし,そういう標語は,いってみても受験生は引くでしょうね(笑).
 素直なアプローチは「ミッション型」であり,岐阜大の標語はそのまま使えそうに思える.しかし埼大の志が高い向きは,「世界」だの何のと入れたがるだろう.
 「エースをねらえ型」もありだろう.群大のキャッチフレーズは,埼大の今の執行部はそのままOKではないかと思う(統合するのも手だろう).もろに「エースをねらえ」でもよいかも知れない.「龍の閃きとなって天を翔けろ」(るろうに剣心か?)なんて,よいかも知れない.恥ずかしくなければの話である.
 半ば冗談で書いてみたが,この種の標語は,たぶん学長ごとにできるだろう.埼大でも,学長が変われば,2年目くらいに新たなキャッチフレーズを作ることになるだろう.そのときの参考になれば幸いであるが,なる訳ないよね(汗).

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法人化後の3代目学長(下)

 3代目学長さんに関する「下」を早めに書こうと思って,延びてしまった.延びた理由は書く内容に迷いが生じたからである.当初,「中」の後の展開について書くつもりでいたが,そんなことを何のために書くか,と疑問が生じてきた.もともと「法人化後の学長」について書こうと思ったのは,「学長は,就任前と後ではやることは変わって来る,事前に学長選びに凝っても仕方ない」という点だった.ただ,3代目さんについては,私の在職中の見聞は最初の3年間に過ぎない.だから「学長が変わった」という話はしづらいのである.3代目学長さんは,6年を通してもあまり変わらないように思える.
 ともかく,書きはじめてしまったので始末をつけよう,と思った.

公平に頑張った

 3代目学長に関する「上」で私が最初に書いたのは,この学長さんは個人属性からすると最善と思えたことである.その点と矛盾することなく,少なくとも最初の3年間については,学長職をよくつとめられたと思う.見ていると「一生懸命やってます」感があった.その点は2代目さんとはやや異なる.そして,あくまで教員が見ることができる範囲の事柄について,予想よりも公平であったように思う.理工出身ではあるが,特に理工に贔屓をしたとは感じない(ただ理工は部局として力があるから,その点での配慮はあったろう).予算の配分にしろ,教員の削減にせよ,公平に行うことにつとめられたように思う.ちなみに,2代目学長さんについては,(私はそうは感じなかったが)「全学の会議には経済学部長が二人いる」という方もいた.
 学長としての説明力が一番出るのは,学内では,教員相手の会議よりは経営協議会の場である.私が直接見たのは2代目さんと3代目さんであるが,ご両所とも見事な説明力だったように思う.まず2代目さんは,外部委員と考えが異なることがあっても平然と説明を進め,差しさわりのないように相手からの了承をもらう.見ながら私は「大したもんだ」と思ったものである.3代目さんについては,この方の性格であろう,そんなことまで口にしなくてもよいと思えることまで公平に説明し,了解を求めることが何度かあったのを記憶している.
 具体的には書かないが,私は学部長をしていたので,むろん,学長とは意見が異なることは何度もあったし,気に入らないことを決められてしまったことも何度もある.しかしいずれも,大局的には小さい話である.実際に少ない人数で学長に接する場面で,3代目学長さんに嫌な思いをしたことは記憶にない.

事績としては地味だった

 ただ,学長としての事績は意外と地味だったように思う.大きな展開を導いたという印象はない.むろん,この点は初代目さんも2代目さんも同じである.
 地味だったのは仕方ない面がある.何かをするには予算が要るけれども,国立大学は「その日暮らし」であり,年度ごとにもらう交付金や補助金でやりくりするだけだからである.その点は自前の資金を持ち得る私大とは事情が異なる.
 以前,政府の参与か何かの,規制改革派の経済学者が,文科省が国立大学内の権限を学長に集中させる措置をとることを嗤う発言をしたことがある(政府が公表する議事録に載っていた).独自の財源もないのにトップ・マネジメントはあり得ない,という.まあその通りである.申請して補助金を獲得することはあり得るが,独自の構想に使えるものではない.学長は権限が強いといっても,構造的に考えて,学長が大学を運営しているとはいえても経営しているとは言い難い状況にあるように思う.
 3代目学長さんは埼大のユニークネスをどのように表現するかにかなりの認知的資源を使ったように推察する.しかし,結果としては特段にユニークな点を作れた訳ではない,と思う.「All in One Campus」といっても,すべてが揃っていないから1キャンパスに収まっているに過ぎない.複数キャンパスになっても,医学部や農学部を持っていた方が強みだったろう.「研究力」はどこの国大もアピールに努めている.「文理融合」や「グローバル」もほぼ,どの大学もいっていることである.「融合」は,ほぼ全大学が歌っており,規模が大きければその名を冠した部局を作っている.埼大の場合,「理工融合」は済んでいるので,学内部局の選択肢としては「文理融合/文工融合」しか残されていない.しかし「文理融合/文工融合」は医学や農学との融合に比べて具体的な成果をアピールするのは難しいだろう.
 むろん,学長に責任がある訳ではない.学長さんとしては手持ちの駒を使っていかに魅力的に映る表現をするかをお考えになったように思う.しかし駒に制約があるのであるから,どうしようもない.

国立大学の階層化

 法人化後の初代学長さんの時期は新たな法人化体制の初動期間であり,法人化運営の定着がテーマの時期だったろう.2代目学長さんの時期は,交付金の削減が続いたけれども,民主党政権時代と重なり,国立大学に関する考えは定まらない時期だった.対して3代目学長さんの治世は,国立大学の階層化が進行した時期と重なっている.
 むろん,国立大学の階層は法人化の前から事実として存在していた.しかし,実質はそれほど変わらないけれども,階層の意味付けが整理された時期と言ってよいように思う.安倍政権になってから大学は国力の基盤と位置づけられ,(理系の)研究力が明確に存在する国立大学の立場は安定したように思う.その安定化と同時に生じたのが国立大学の階層化であり,旧来の階層のある程度の振るい分けとともに,重点支援の形態として階層化が理屈づけられたと私は思う.
 埼大は2代目学長さんの末期に改革強化プランを文科省に採択してもらった.このプランは上の階層に入る志で作成したようであるが,国立大学の階層化の基礎データは第1期中期あたり(COEを盛んに決めていた時期)でほぼ確定しており,改革強化プランの時点で,これから研究力を強化してどうにかなるはずもなかった.他の国立大学との比較で考えて,埼大が重点支援①に入ったのは順当である.重点支援③に入れなかった悔しさをにじませて不思議ないのは,むしろ他のいくつかの国立大学だったろう. 
 つまり改革強化プランは見込み違いで決めたように思う.私個人は,そのときに別の道,つまり埼大の方向性を示す新学部の設置に動くべきであったように思う.しかし,重点支援①の地域大学の埼大にとり,この強化プランはある意味で合理的な選択であったかも知れない,と私は今は思う.あの強化プランの結果とは理工,特に工系の比重を大きくしたことだった.この結果は,地域大学としての埼大の一つの合理的な在り方かも知れない.地域産業におけるイノベーションを担うポテンシャルが高まったとすれば,という意味である.埼大が地域大学としての実を上げるとすれば,基礎研究において華やかであるというよりは,次世代の産業への貢献,そのための人材養成ということが求められるからである.
 この路線で行くとすれば,内閣府の「地方大学・地域産業創生交付金」の採択や,同じく内閣府の「日本オープンイノベーション大賞」などを狙うことで,成果を示してゆくことになると思う.ちなみに,最近の第1回「日本オープンイノベーション大賞」の最高位である内閣総理大臣賞を獲ったのは,弘前大学教員が加わったプロジェクトである(弘前大学のホームページには大きく載っていた).地域大学に徹している弘前大学がその栄誉に浴したのは医学部があるからであるが,この受賞はある意味で地方国立大学の当面の方向性を示しているだろう.

トップダウン模様

 3代目の学長の治世になって2代目のときよりもトップダウン色が強まったことは,両方で部局長をしていて私が感じたことである.3代目学長さんがトップダウン宣言をしたことはなかったと思う.強いていえば,2代目さんの4年目に3代目学長が学長選に立候補したときに,「今よりはトップダウンの方向でよい」という意見を述べられたくらいである.しかし,(法人法の本質は同じでも)学長に権限を集中する学内規則改訂を文科省が求めてきた時期であるだけに,学長にはトップダウンの方向に押される面があったろう.
 むろん3代目さんは乱暴なトップダウン判断をした訳ではない.主に合理的に判断されていた.また,ジンメルの説を引くまでもなく,一般に支配がそうであるように,支配者は被支配者(部局等)の出方を織り込んで判断する(ゲーム論では展開形ゲーム).だからトップダウンといっても一方的な権限の行使にはならず,相互作用は存在していた.典型は,部局負担を極限まで下げたノンディグリー・プログラムを学長自らが提案したことである.

細かい学長 いちいち数えた訳ではないが,学長が決めた事項は2代目学長時代より増えたと感じる.むろん組織決定は最終的には学長が決済するから,形式的には同じはずである.しかし,あえて学長が判断に手を加える格好になった事柄が多かったのだろう.
 ただ,いわゆる「トップダウン経営」というのとはニュアンスが異なる.3代目学長の下で教養学部長をしているとき,やたら細かいことまで「学長が決めた」と学部事務方から伝えられることが多かったのである.「こんな細かいことまでほんとに学長が決めたのか?」と時折,私は学部事務方に聴き返したことがある.学長の決済は経るにせよ,普通は下の者が決めて終わるようなことに「学長が決めた」という注釈がついて話を受け取ることが多かったのである.
 経営者のトップダウンとしてわれわれがイメージするのは,何に投資するといった大きな事項を経営者が決めることである.が,私が感じたのは,学長がトップダウン経営をしているというより,学長が「万能小役人」として働いているような印象だった.
 そんなことが,少なくとも一時は続いたものだから,私は冗談交じりに副学部長殿に,「癒し系の斎藤理事を学長に押せば通るのではないか?」と何度か話したことを記憶している.私の当時の目算では,教養学部を除く4学部のうち,3学部は賛成するのではないかと思えたのである.むろん冗談であり,話した副学部長殿は乗ってくれなかった(笑).斎藤理事も管理的な仕事はお嫌であったろう.
 学長が細かかったことにはいくつかの可能性があるのだろう.下から上がってきた決済を学長がひっくり返す,ということがあったというのが可能性の第1である.「学長が使われた」,つまり本部事務方(の上の方)が学長にいちいち了解を求めた上で案を定めた,という可能性が第2である.
 まあ確かに,私が3代目学長の下で教養学部長をしていた2年間に,学長に話が行ってからひっくり返った,とか,話がややこしくなった,といった感想は,教員といわず事務方からといわず,何度か耳にした.2代目学長さんのときは聞かない話であった.
 あくまで一般論であるが,上の方が細か過ぎた場合,下の者は「いかにして話を学長に持って行かないで済ませるか」を考える.そういう「適応構造」ができてしまう.3代目学長のときにそのようなことが具体的にあったとは,いわない.

本部事務上層部の権力 学長がトップダウンになると本部事務方の上層部(ただし事務局長より下)の権力行使が強くなる,というのが私の仮説である.確証のない「仮説」であり,錯覚かも知れない.単にその時々の当事者の属人的要素,つまり偶然の結果であったかも知れない.が,私はこの仮説が成り立つように思うのである.
 田隅学長はトップダウン志向が強かった,ということになっている.その頃,本部事務方の〇〇課長がひどい奴だ,といった風聞がよく流れた.私も副学部長時代,ある件で直接接触して腹を立てたことがある.2代目の上井先生はボトムアップ志向を口にしており,その間は部局の権限が強かった.典型的には予算の使途が部局裁量に任された.だから2代目学長のときは本部事務方上層部は不満を抑制していたかも知れない.3代目の山口学長になってから,本部事務方上層部が抑制を解き放った感があった.予算をはじめ,本部の縛りが強くなった.
 3代目学長の下で私が教養学部長だったとき,こうした次第を痛感したのは,人文系学部長会議の結果報告のメモを全学運営会議資料として出し,掲載を本部総務に拒否されたことである.実は事前に,学部事務と本部総務との間でもめていた.私が書いたメモを資料には付けられないという.その理由は学部事務にも分からなかった.その件が決着せぬままに全学運営会議になったけれども,会議に出ると資料は付いていない.資料を本部総務に出しているが,どうなっているんだ,と私がいう.フォームが違うとか,それまで聞いたことのない返事を本部総務が会議で述べる.そんな場合,2代目学長であれば資料(A4の1枚)をコピィして配れ,というだろう.が,そうはならない.学長は口頭でいえというが,紙で出したものは覚えていない,と私は拒否した.この件は,このブログの前の記載で書いたことである.
 タネを明かせば単純かつ愚劣なことである.私の報告には,1つの項目として,出席した17大学人文系学部長会議で文科省を非難する声明を出したことを書いている.私のメモには「声明を出した」と書いただけで,声明そのものは載せていない.が,その1項目を会議の記録に載せるのを嫌がったのだろう.実は,その件で文科省との間でもっと厳しいやり取りがあった大学もある.だから話は見え透いている.とはいえ,埼大で,学部長が資料として出したものを事務方が掲載を差し止め,それを学長が黙って見ているとは,私は思わなかった.2代目学長のときにはあり得ないことである.
 ほぼ同時期に別の件もある.どなたかの講演会を学部主催で行うと公表したが,その講演者に有罪判決が出た,と本部総務がいいがかりをつけてきた.ご丁寧に学長のお言葉が添えてあり,講演をするなら学部の責任でやれ,大学は知らん,想定問答集を持ってこい,という.想定問答集などというものを作ればそこで難癖をつけられるに決まっているから,要するに「やるな」というに等しい.この件では,「有罪判決」がネット上の1つの悪ふざけ記載に過ぎないことを私がすぐに見つけ,本部総務に通告して学長のお言葉も無視した.しかし学部教授会がやると決めた講演を本部がやめろということなど,あるか? 本部事務方がそこまで細かく検閲しているのか? やはり2代目学長の治世では考えられないことである.この講演会を大学ホームページにお知らせで載せるよう,学部事務を通じて依頼したが,やはり本部総務は拒否だった.
 大学は言論と学問の自由によって成る.だから,たとえ講演者に有罪判決が出ようと,講演を主催することは誉れであって恥ではない.
 上記の出来事があった辺りから,学内で情報統制が強くなったと感じ始めた.当ブログの以前の記載で,学長選考会議の公表されている議事録が実際の会議の様子を伝えていない,と私は書いた.実は同会議の議事録には何種類かがあり,ホームページに掲載されるのは一番記載が簡単なものなのである.
 確か評議会だったと思う.学長選考会議に関する報告があった.そのとき,ある評議員殿が学長選考会議の議事について質問をした.が,選考会議の議事については公表ができないルールだ,学長選考会議は大学とは別である,ここでは扱えない,と学長はいう.そのときに若干のやり取りがあった.選考会議と大学が別ならなぜその会議の報告になったのか,学長選考会議の事務局は大学の総務なのに(だから総務が報告しているのに),大学と学長選考会議は別だなどといえるか,がそもそも不思議であった.その場で私は iPad でネット検索すると,鳥取大学(か島根大学)の学長選考会議の議事録が出てきた.だから公表できないルールであるということはないだろう,と私は申し上げた.その件では本部が引き取って検討することになったが,学長選考委員であった私は公表できないなどと聞かされた記憶がない.その場で,学長選考会議の主査宛に情報の公開を求めるのが正しい,連絡先は埼大の総務である,と同評議員殿に私は申し上げた.同評議員殿はその通りに情報公開を求めたようで,学長選考会議の議事録が手の込んだものになったのはその情報公開請求のためである.
 考えてみると,以前は大学ホームページ上で公開する全学の会議の議事録は結構な記載がなされていた.初代学長時代は,評議会で誰が何をいったかまで書いてあった.しかし3代目学長の頃は,公表する議事録には提案の表題と,採択された旨しか書かないようになったように思う.そしていつの間にか,全学運営会議の議事録は大学のホームページには出なくなった.一番生々しい話が全学運営会議で出るからだろう.現状で,詳しく書いてあるのは(余所行きの議論が主の)経営協議会の議事録だけである.
 いずれにせよ,この情報統制の息苦しさが3代目学長さんの治世の暗黒面である.あくまで私の立場からすると,である.どなたの判断でそうなったかは存じ上げない.

トップダウンがよい領域 3代目学長の下で私が教養学部長をしていた2015年頃に事務方の再編が始まった.詳細は私にもまったく分からず,あくまで事務方の話として進んだことである.学部事務方を含め,事務方の下々がいろいろ意見を出したようであるが,私が聞いた範囲では,その方々が出した案は通らず,現状の格好になった.最終結果が出たのは私が学部長を辞めた後,私の最後の在職年度だった2016年だったろうと思う.結果として学部の事務は引き上げたような,残っているような,現在の姿が経過措置なのかどうかも,私はよく理解していない.明らかなのは教員には不便になったことであり,たぶん学生にとっても同様だろう.
 その「再編」に伴って事務手続きも変わった.記憶に残るのは,学会への出張手続きをするのがやたら面倒になったことである.
 2017年度に埼大で非常勤の授業を担当した.そのとき,教室のプロジェクタのランプが切れていた.修理を事務にお願いしたが,どのように予算を出すか,という点から検討したようで,プロジェクタが直るのに3カ月を要した.学部とは別の部署でも予算をいちいち申請する格好になるので面倒になったように言っていた.
 話を聞いた範囲では,学長がこのようにしたという人もいたし,本部総務の上の方が決めたという人もいて,実相はよく分からない.多くの人にとって自分が関わらない点で決まったようであり,その意味ではトップダウンに決まった,ということだろう.
 学務を学生センターに集約したことについても,いろんな感想を覚える.私の見た範囲で,私大では全学(ないしキャンパス全体)で学務(教務)窓口を一本化している所は多い.しかし,そういう大学には教員10数名くらいの単位で「共同研究室」のようなものがあり,複数の(たぶん非常勤ベースの)事務員がいる.実は教員も学生も「共同研究室」でサービスを受けており,一本化した学務窓口には学生はあまり行かないのである.埼大の場合,理工では事務員のいる共同研究室のようなものがまだ残っているようだったが(将来的にどうなるかは知らない),教養学部などには,ない.教養学部には資料室に事務員が残っているが,業務は別である.結果として,ある程度は教員が学務の相談窓口の代行をすることになるんだろう,と思う.
 この事務の再編のようなことをトップダウンでやる必要があったのか?とは疑問に思う.学長(ないし執行部)が,事務組織の制約条件をトップダウンに経営判断するのはよいだろう.例えば職員数を何時までに何人に減らす,といったことである.組織をどうするかは,本来,その制約条件下で利用者の満足度を最大化するような格好を決めるという,一種の最適問題になるはずである.最適の基準関数を利用者(働く事務職員を含めて)の満足度を最大化と置くならば,事務組織の格好は事務職員,教員,クライアント(学生)の合意に任せてよいのである.制約条件は充たされるのだから経営上はそれでよいはずだ.時間内に決まらない恐れがあるというなら,期限を過ぎたときに実施される(ゲーム理論にいう)交渉の不一致点を学長案で定義すればよいだけである.そうすれば最低でも学長案と同じ当事者の満足度は確保され,経営上の制約もクリアされる.

群を抜け 駆けろ世界を

 3代目学長さんに関する私の観測は最初の3年間に限られる.という前提でしいて言うなら,冒頭で書いたように,3代目学長は公平に頑張ったし,かなりの業績を上げたというべきだろう.私が退職した時点で,国立大学の中には教員の待遇面で結構ひどいことになっている大学もあったと思う.その点を考えれば埼大は平穏に運営されている方ではなかろうか.
 それでも,志が高い3代目学長さんとしては,構造的に仕方がないとはいえ,画期的な局面をもたらせなかったことに悔いがあったかも知れないと想像してしまう.
 上の小見出しにある「群を抜け 駆けろ世界を」とは,群馬大学が最近決めたキャッチフレーズである.群大サイトに載っていた.この標語であるが,見方によっては学生に対し,「そんなところで仲間と群れてんじゃねぇ,一歩踏み出して世界を目指せ」といっているようにもとれる.が,私は別の読み方をした.群を抜ける主体は群馬大学であり,「群」とは重点支援①(地域大学)の群れである.群馬大学はその群を抜けて重点支援③(世界レベル大学)を目指せ,世界ランキングをねらえ,という意味だろうと受け取った.いまわの際の宗方コーチが「岡,エースをねらえ」と叫ぶようなものである.実際,群大は(理系の)論文シェアでは埼大より上のランクであり,重点支援①に決めたものの,重点支援①に入ることに悔いを残しやすい大学の1つだと思う.
 そして,この「群を抜け 駆けろ世界を」は,3代目学長さんの心でもあるように思えた.
 少し前に人づてに,埼大では教養教育で数理・情報とグローバルを2本の柱にする,という話を聞いた.うんなるほど,それはいいですね,と思ったが,同時になにやら因縁めいたものを感じた.その2つは,埼大が部局ないし課程を作る手もあった2つのテーマ,つまり「グローバル」と「データサイエンス」ではないのか? それらを作れなかった悔いを,教養教育に刻み付けているのではないのか? そんなことをふと思った.

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国立大学が直面するかも知れないいくつかの事柄

 マスコミ報道を見ていると,結構,国立大学に関する記述は多い.報道に出ている事柄のうち,気づいたものを以下に並べてみる.国立大学にとっての外部環境と内部構造とに分けて述べる.
 ただ,昔から国立大学については報道で大変そうな話が出ていた.実際にはそれほど大きな変化はなかった.報道は,官庁が世間を誘導するためにリークした情報であることが多いためだろう.だから実際にどれほど実質的な変化があるかは分からない.

1.外的環境

1.1 学生定員の縮小
 少し前に国立大学の学生定員縮小を求める答申が出そうだ,という話があった.考えてみると学生定員縮小はずいぶん前から語られていたのに,あまり実現はしていない.今後もどうかは分からない.
 確かに18歳人口は減って行く.しかし後述の「教育無償化」のようなことがあると,入学者の人数だけは今後も確保されるだろう.だから「必ず起きる」ともいえない.
 この学生定員の縮小は,理論上は,各国立大学に一律にかけられる可能性もあるし,いくつかの国立大学を潰すことで実現させる可能性もある.常識的には,メリハリを付けるとしても,何れの国立大学にも課されるだろう.
 各国立大学は学生定員の縮小を,各部局に定率で割り振ることもあれば,メリハリを付けることもあり得る.定率縮小は理屈を付けにくいので,文科省はメリハリをつけるよう求めるだろう.学生定員が縮小すれば,財政上,教職員も減る.だから学内再編が必要になる可能性は高い.

1.2 アンブレラ統合
 アンブレラ統合は,散々語られているけれど,その制度の中身はまだ出てこない.形式的にアンブレラにするだけのアンブレラごっこなのか,アンブレラにした新法人に実質的な経営権限が生じるか,まだ分からない.アンブレラにした新法人に理事長のような法人長ができ,その法人長が強い経営権限を行使するシナリオもあり得る.なんとなく,各大学には「アンブレラは形式ですよ」といい,世間向けは強い経営権を法人長に与えるという二枚舌を使うような気がする.
 もし経営権を法人長に集約する制度設計になれば,国立大学ではじめて経営が可能になる素地ができることになるだろう.むろん法人長に独自財源がなければ,法人長は何もできない.
 宇都宮大学と群馬大学は2020年度から共同で教育学部を開設する.両大学のホームページを見る限り,実際は名目的な「共同」に過ぎないような気もする.しかし本格的に「共同」を開始すれば,両大学には学生定員と教員定員の余剰ができるはずであり,新たな展開の原資にはなり得る.共同学部ができる範囲の大学がアンブレラを作るのかどうかは,まだ分からない.

1.3 高等教育の無償化
 2020年度から政府は高等教育(主に大学)の「無償化」を始める.「無償化」は授業料等の減免と給付型奨学金による.「無償化」の対象となる学生は収入の低い世帯の者に限るから,それほど多くはない.給付される額は,最ももらえる場合(世帯収入270万以下)で国立大学の授業料等すべての免除と若干の奨学金である.私大の場合は給付額はある程度増える.不十分としても方向としては結構なことである.
 ここで国立大学の立場になると,「無償化」対象の学生にとっては私大と国公立大との価格差(授業料等の差)が若干縮まる.これまで国立大学(特に地方国立大学)が志願者を確保できた第1の要因は私大との価格差だった.今回の「無償化」措置で,国公立大に入学する場合と比べたときに,若干の効果であるが,私大に行きやすくなる.ただし対象者が限定され給付金もそれほどではないから,受験市場に影響を及ぼすほどではないだろう.
 「無償化」の対象と給付金額が限定されるのは税金を財源とするからである.しかしここで「教育国債」という議論が出ている.教育で国債を出すことは現実的である可能性が高い,と思う.もし教育国債が実施され,給付が教育バウチャーで支給されるとすれば,無償化の範囲と程度は高まる.その場合,国立大学(特に地方国立大学)を保護していた国公私大間の価格差はより縮まることになるだろう.
 無償化は,国公私大をequal-footingの方向に移行させる要因になり得る.つまり,国立大学が学生を今よりも大事にしなければならない事情を作る可能性がある.かつて法人化後初代の田隅学長は,「私大になってもやっていける埼玉大学を目指すべき」と仰ったことがある.その考えが正しかったというべき時が来るかも知れない.

2.内部構造

2.1 無意味なガバナンス改革
 文科省が国立大学に求めている「改革」の1つが「ガバナンス改革」である.文科省のいうガバナンス改革とは,学長権限を強めて教授会権限を限定し,(できれば)学部長も学長が選ぶようにする,代わりに学長評価と監事役割を強化する,ということを指す.小中高校における「校長」を「学長」に,「職員会議」を「教授会」に置き換えて文科省は発想している.
 この種の「改革」は,埼大では私が退職した時点でも進んでいた.まだ実施していないのは学部長を学長が指名することくらいであろうか(既に学長指名になっていたりして).
 このようなガバナンス改革は間違っていると私は思っている.小中学校であれば校長が全学を指揮することは可能と思うが,大学は規模も大きく機能も複雑である.少なくとも株式会社程度の意思決定構造は持つべきと思う.
 私は学部長のとき,学長選考会議で学長任期を一律6年にすることに一人で反対していた.反対した理由の肝は,学長権限が強すぎることである.株式会社であれば(小さな会社は除いて)意思決定機関は取締役会である.代表取締が一人で決められる訳ではない.しかも他の役員を学長が決められるというのは度が過ぎている.学長の権限が強すぎるなら任期は短く設定するのが常道である.
 学長が一人で決めることが悪いとはいわない.学長が一人で決定権,ないし拒否権を持つべき事項もあるし,そうする必要のない事項もあるように思う.どのような意思決定の仕組みにするかは,株式会社がそうであるように,(国立大学)法人が設計し決めればよいことである.
 社会心理学的にいえば,学長に権限が集中し,他の役員も学長が選べるという状況は,集団極性化(集団が個人より極端な判断をすること)や集団浅慮(集団状況で思慮が欠如すること)を生じやすくする状況なのである.むしろ異論が出るような状況を作り,議論を通じて共有できる判断を形成することが,時間がかかっても必要と思う.むろん緊急事態では権限を集中させるのが正しい.
 この種の「ガバナンス改革」を進めることを発想する点は,文科省が共産主義官庁である所以の1つだろう.旧ソ連のクレムリンにとって,衛星国の政治体制は独裁制である方が楽なのと同じである.

2.2 マネジメントごっこ改革
 「ガバナンス改革」と双璧なのが「マネジメント改革」である.今日,国立大学について「マネジメント改革」とはほとんど「人事給与マネジメント改革」を指す.「人事給与マネジメント改革」については後述の「給与崩壊」の項で触れたい.
 「人事給与マネジメント改革」以外の「マネジメント改革」とは,企業経営者を大学の役員に迎え入れるとか,上層部にマネジメント研修をするとか,まあそんな軽い話と思う.むろん進めて悪い話ではない.
 ただ,「人事給与」以外の「マネジメント改革」は,マネジメントしてますごっこで満足感を味わいましょう的な話のように思える.というのは,国立大学は本格的な「経営」をしているようには思えないからである.
 国立大学はほとんど,与えられた交付金や補助金を執行しているだけで,リスクのある経営判断はしていない(させてもらっていない).リスクは文科省で判断している.だから,給料(交付金)やボーナス(補助金)を使って生活するサラリーマンの家計と実質は同じようなものなのである.リスクを伴う経営判断をするには独自財源が必要であるが,その財源がなく,その日暮らしで給料やボーナスを使っているようなものである.そこが私大とは異なる.
 独自財源を作れるようになった時点で,マネジメントごっこは本格的なマネジメントに移行するように思える.

2.3 教員組織の一元化
 教員組織の一元化もいろんな大学で進んでいる.だから是非にかかわらず埼大でも早晩やることになるように思う.
 ただ,教員組織の一元化をなぜするのかは,私には分からない.文科省が考えそうなことは部局の力を弱めることだろう.つまり教員を部局を通さずに学長が直接支配し,部局が学長権限に逆らう抵抗力を奪うことのように思う.既存の部局をどうとでも変更しやすくするため,という動機もあるかも知れない.
 一元化をすると教員の研究領域が一目で分かり,共同研究のマッチングによい,といった話もあるかも知れない.が,それなら教員の科研費申請領域を調べてエクセルにでも入力し,研究領域でソートしてどこかの壁に貼っておけば済む話である.わざわざ組織にする必要はない.
 また,この点は私も分からないことなのだが,文科省が部局ごとに設置を認可しているという大学の基本制度と,教員組織の一元化が制度の考え方として整合しているかどうか,私は疑問に思う.部局ごとの設置は,医学部など,国がお金を投下する程度の高い学部もあることから,止められないだろう.しかし教員組織を一元化するということは,全学で学士課程は1学部,大学院は1研究科として設置し直すのが,理屈としてはすっきりする.むろん,医学部などがあるから,大学を1つの部局として設置することはできないだろう.全学を1部局として設置し直さないなら,一元化された教員組織と部局との関係は法令上どのようになるのか?と疑問に思う.
 おそらく,一元化すると,大学の組織がどうなっているのか分からなくなるのではないか,という気がしている.
 教員組織の一元化にどのような理屈を付けるのか,一度詳しい方に聞いてみたいところである.
 なお,私の理解では,米国の大学は通常の学問分野を有する college では教員組織の一元化はあるのだろうと思う.一元化されている上で,教員は研究分野ごとに,物理学などの department(学科といおうか?) に分かれている.そのdepartmentが学士課程プログラム,大学院のプログラムを出している.そしてdepartmentが実質の下位単位(意思決定の単位)として機能する.日本の大学とは制度上の作りが異なるのであるが,米国と同じような制度に作り変えるなら,教員組織は自ずと一元化されることになる.それはそれですっきりした制度であると思う.しかし,日本の大学の基本制度に手を付けずに,教員組織の一元化があり得るのか,というのが私の疑問である.

2.4 給与崩壊
 他の「大学改革」の項目に比べ,「人事給与マネジメント」の項目はその推進者の文書を読んで危なさを感じる面がある.私のように退職した者や,先が見えている人は影響を受けない.しかし先が長い人は大変だな,と感じた.下手すると給与崩壊が生じかねない.私の基本的な考えは,このブログの以前の記載に書いた通りである(年俸制の拡大実施は給与崩壊をもたらすのではないか? http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2018/07/post-5a51.html).言い換えて要点を書くと次のような懸念である.

・定年を延ばすとすれば定年前の一定期間給与が下がるのは仕方ない.しかし今の議論はより不安材料が多い.
・定年前の一定期間より前,つまり中年以降の教員の給与水準を成果給によって,結果として下げる話になる懸念がある.
・しかも,中年以降の教員の給与を下げた分で研究に必要な若い人を(例えば助教などで)多く採用するようなニュアンスがある.その若い人たちの先々のポストが用意されるかどうかも疑問である.つまり現実に人事の流動性が確保されていなければ適用が難しい話ではないか?
・成果給で給与水準の期待値を下げようとしている感じがある.仮に成果給で給与水準の期待値が以前と同じ水準であったとしても,成果給によって不確実性が増すとすれば,給与水準に対する本人の評価(福祉)は下がる.つまり,成果給の大幅な導入は給与水準の期待値の一般的上昇があって初めて可能なことではないのか?
・研究者の給与体系だけが一般社会の体系と異なることは望ましくない.研究者は特殊な人かも知れないが,その人生設計は特殊ではないからである.
・新たな給与体系を作るとすれば,かなり慎重な検討が必要になる.組合がその検討にかかわるしかないように思う.

2.5 学長の道楽
 法人化後,国立大学では学長の権限が増してきた.そのせいか,学長はどこの大学でも殿様になりがちである.以前,私が学部長会議に出ていると,他大学の方から「うちでは学長がこんなことをはじめたんですよ」式の話を聞くことがあった.それほど害はないかも知れないが,話だけからは殿の道楽のように思えることがあった.
 学長権限を強化する,という流れの中では,そういった道楽が結構生じるのではないか,という気がする.むろん,多くの場合実害はないのであるが,それでも下々にとっては付き合うのが面倒な道楽であることもあると思えてならない.

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今年の埼大の入試

 一般入試の出願が始まった1/28から最終日の2/6まで,私は毎日,その日までの出願数が掲示される17時以降に埼大サイトの出願状況のページに入り,結果を眺めていた.古巣の教養学部の前期入試(重点)の出願倍率が昨