東工大と医科歯科大の統合基本合意

 本日(10/14)付で東工大と東京医科歯科大は「統合に向けた基本合意書を締結」したと公表した.統合のための協議を始めると公表したのは8月の初旬だったので,協議を始めて2か月程度で統合するという決意を示したことになる.思ったより早いな,と感じた.
 今回明らかにされた点は,統合は一大学一法人を目指す,つまりアンブレラ統合でない点である.その意味では踏み込んだ統合といえる.もっとも,両大学は統合して国際卓越研究大学を目指すのであるから当然といえる.アンブレラでは卓越研究大学の対象にはならないだろう.
 今の時点でこの合意を公表したのは,今から新大学の設置申請書類を書き始め,来年度に設置申請をすることを目指すためだろう.だとすると理論上は,最速で2024年度開始時点で新大学が発足することになる.両大学は「統合時期は2024(令和6)年度中を目途として、できる限り早期の統合を目指します。」としているので,2024年度開始時点よりは若干遅れる可能性を,文科省との折衝でいわれているのかも知れない.

 ただ,「一大学一法人」以外の点では,8月の協議開始時点より明らかになった点はないような気がする.まず新法人・新大学の名称は公表されていない.芸のないネーミングをすれば「東京医科歯科工業大学」ないし「東京医科工業大学」であるが,そりゃいくら何でも止めておくような気がする.ただ,両大学が合わさった大学名称は,結構難しい話だな,と思う.一橋でも誘いこめば総合大学になるかも知れないが,それでは国際卓越研究大学になるには障害になるかも知れない.笑える名称になったら拍手を送りたい気分だ.

 統合しただけでは評価されない.統合して何をするか,何をすると説明するかが重要になる.しかし,今回の基本合意でも統合して具体的に何をするかは明らかにならない.手掛かりは「両大学の尖った研究をさらに推進」といいつつ「総合知に基づき未来を切り拓く」といっていることである.そこまでいえば具体策を例示できるように思うけれど,特に明らかにしていないので,期限のうちに設置申請が書けるのかどうかは,よく分からない.
 過去の例を見ると,正式に設置が認められる以前に新組織の概要が公表されることもよくある.だから2023年度になれば,もう少し具体的な事柄が公表されることになるのだろう.

 なお,国際卓越研究大学は,今年度(2022)末から次年度(2023)にかけて指定され,2024年度には支援が開始するはずである.だから新大学は最速に設置されても,普通に考えれば国際卓越研究大学には,支援開始時点では入っていないように思う.だからおそらく,遅れて追加されることを狙うのだと思う.が,それほど簡単には国際卓越研究大学にはなれないのでは,と想像する.

 東工大と医科歯科大との統合は上位大学の話である.ここであらためて思うのは,話の展開は銀行と同じだな,という点である.何れのレベルの銀行も統合しないと経営が難しくなるのは明らかであるけれど,実際は都市銀行だけが率先して統合していった.地方銀行はいつまでもグズグズしている.統合しないと次第に危うくなってゆくのは見えるだろうに,地方国立大学は一県一国大にしがみついて動かない.
 何れ大学の規模を縮小する段階に入ると思うが,埼玉大学などは,今の規模のまま縮小局面に入ったらどうなるのか,とは考えないんですかね?
 もっとも,在職中,私は埼大はリベラルアーツ大学になればいいや,と思っていたので,「縮小上等」という思いがあった.

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数理・データサイエンス・AI

多くの大学が認定を受けた

 昨年度から今年度にかけて,文科省は大学等の「数理・データサイエンス・AI教育プログラム」の認定を行っている.認定されるプログラムは「リテラシー」レヴェルと「応用基礎」レヴェルに分かれ,特に良いプログラムには「プラス」の称号を与えている.
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/suuri_datascience_ai/1413155_00011.htm

 上記の文科省サイトを眺めると,実に多くの国公私立大学がプログラム認定されている.見たところ,全国の総合・複合型の地方国立大学もほとんど認定されているように思える.
 ちなみに,東北・関東地方の国立大学に限って認定された大学をリストアップしてみた.次の表である.

  表:東北・関東地方の認定を受けた国立大学

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 単科大学と思える国立大学はプログラム認定を受けていない.が,ある程度の数の部局を持つ国立大学は軒並みプログラム認定されている.多くは全学で行うリテラシーのプログラムであるが,情報関連の層が厚い大学は応用基礎でも認定を受けている.
 東北・関東地方の総合・複合型の国立大学のうち,認定プログラムを持っていないのは,ずばり,埼玉大学だけである.

埼玉大学はなぜ遅れているのか?

 この点が分からない.
 確か私が退職する少し前,2016年度と思うが,教育学部から削減した学生定員を何に使うかという話の中で,私が何らかの仕方で「データサイエンス」と発言したことがある.実現はむろんしないが,真に受けてくださった方もおられた.だから2016年段階で,データサイエンスは今後伸びると目された領域だったはずである.
 私が在職中に「数理・データサイエンス・AI」のプログラムを議論したかどうかは記憶が定かではない.しかし今の学長さんが選ばれる頃には話題になっていた.おそらく,AI等のプログラムを作りますとは経営協議会には言っており,「今調整中です,もう少し」ぐらいの説明をしていただろう.
 だから,今の段階で文科省に何も認定されていないことが,不思議でならない.何をしていたんだろう.
 念のため,埼大の現在の中期目標・中期計画を埼大サイトで閲覧してみた.計画の【3-1】として「○全学的な数理・データサイエンス・AIのリテラシー教育を実施するとともに、学部間連携により文理横断的なより高度なデータサイエンスを学ぶ科目を提供する。」と載っている.ただし,評価指標の【3-1-①】として「(リテラシー教育としては、全学部学生(昼間)が受講する。より高度なデータサイエンスについて学ぶ科目を、第4期中期目標期間終了時までに、5科目開講し、受講者250名とする。)」とある.
 ええー,第4期の終了時って,それまで埼大はあるのかい?(まああるでしょうがw)気が長過ぎね? しかも「より高度」が5科目開設で,受講者250名って,ショボくね?
 まあ,数理・データサイエンス・AIを議論した挙句にこの結論だったのでしょうな.しかし,政府が骨太の方針にまでデータサイエンス等を書き,文科省が促しているのだから,上記のような中期計画だとはいえ,計画を前倒し,拡大するのは当たり前であり,実際埼大以外はみなそうした訳でしょう.
 たぶん,例によって,「誰が担当するのか問題」でもめたんでしょうな.しかし,社会的需要は明確なのだから,新規ポストはそこに使うしかないでしょう.むろん理工系だけの話ではない.経済学部であれば,数理(ゲーム理論を含む)・計量・計算以外で新規人事をする必要はないでしょう.それ以外はもう需要はないですよ.だから計算社会科学で人事をすればよい.教養学部にしても「計算人文学」で人事をすればよい.そのようにして,担当の教員を文系を含めて捻出する判断をすべきなのですよ,経営者が.

  まあともかく,今年度中にもまた認定があるかも知れず,来年度はあるだろうから,これから無理してでも申請して認定してもらうしかないでしょうね.

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東工大と医科歯科大の統合協議,と聞いて思うアレとコレ

 たぶん昨日(2022/8/8)辺りからと思うが,東工大と東京医科歯科大が統合協議を始めることに合意したというニュースが流れた.国際卓越研究大学への指名を目指すためという憶測も書いてあった.
 このニュースを眺めてあれこれと,自動思考で私の脳裏に巡った点を書いてみよう.むろん私にいえるのは,誰でも思いつく程度のことである.両大学について私に特段の情報はない.

1.統合の成否は分からない

 東工大のサイトには学長が教職員向けに行った説明の文章が載っている(https://www.titech.ac.jp/news/2022/064662).ご覧のようにごく一般的な理念をいっている.締めの言葉は次のごとくである:≪最終決定は今後の両法人における協議に委ねられており、現時点では何も決定したことはありません。今後、本法人内でもより多くの構成員の意見を聞きながら集中的に協議を進めて参ります。≫ だから現時点では,埼玉大学と群馬大学が統合協議を始めるというニュースが出た時点と同じようなものである.これまで国立大学同士の統合がなった事例は,大学側が文科省に弱みを握られている場合か(?大学),強者が弱者を吸収し弱者もうれしい場合か(阪大が外大を吸収),行政が強く介入した場合か(大阪公立大学),アンブレラ方式で元の大学が維持される場合だけだった.静岡大学にいたっては,いったん静岡県立大学と統合するようなことをアナウンスしながら土壇場で統合を破棄し,浜松医科大学と統合するするといいながら,どうなるかはいまだにはっきりしない.今回の東工大と医科歯科大の場合はまだ何も決まっていない.単なるアンブレラなら簡単だが,それではあまり評価されないだろう.

2.国際卓越研究大学の制度運用開始にはたぶん間に合わない

 ニュースでは国際卓越研究大学への採択を狙っているという憶測が書いてある.確かに国際卓越研究大学への採択は背景にあるだろうが,卓越の制度運用開始時にこの統合が間に合うという訳ではないと思う.
 国際卓越研究大学のスケジュールは既に公表されている.対象大学の選定は次年度2023年度であり,その対象大学を卓越研究大学として制度運用を開始するのは2024年度である.だから制度運用開始時に統合は実現していないだろう.卓越研究大学が逐次的に追加されるとして,当該大学が卓越研究大学になるとしても,後のことだろう.
 両大学が統合の決定をすぐにするとは思えない.両大学が決定しても法改正が必要になる.すぐにはできないだろう.
 また,今の両大学の部局をそのままにして統合するとも思えない.評価される統合計画を持ってはじめて統合に意味が生じる.常識的には統合と同時に新部局(何らかの研究院)を作るとして,新部局には設置申請が必要になる.もし新部局を2024年までに発足させようと思えば,今まさに設置の申請書を書き始めなければならないだろう.2023年度に設置申請をして,2024年度から新部局発足である.まず無理と思う.
 また,新部局を作ったとしての,その成果を出すためには一定の時間がかかる.
 そう考えると,今回の統合協議は,少なくとも中期的な視点で行われるはずである.卓越研究大学の制度の運用が始まった後,追加で卓越研究大学に採択されることを狙うのだと思う.

3.ある意味「弱者連合」である

 メディアのニュースの一部にはこの東工大と医科歯科大の統合を「勝ち組連合」と形容することがあった.確かに一般の大学にとって,両大学とも勝ち組である.しかし両大学は,一般の大学は眼中にない.統合するのはあくまで,指定国立大学群内部での競争を想定したためだろう.その指定国立大学群の中では両大学とも弱者である.統合は強者,つまり東大,京大,東北大,阪大あたりに近づくための戦略と考えるべきだろう.
 指定国立大学は,一橋を除いて,当初の目標をクリアしている.したがって東工大も医科歯科大もしかるべき成果は示しているはずである.しかし,私は東工大は指定国立大学の中でもっと目立つ成果を出すと思っていたが,実際はそれほど目立たず,やはり旧帝大の上位には勝てていない.
 研究が盛んであることを一番示すのは,若手,助教クラスとか博士後期院生の中で優秀な人をどれほど揃えているか,だろうと思う.その若手を対象とした支援プログラムに,創発的研究支援事業や次世代研究者挑戦的研究プログラム,大学フェローシップ創出事業があり,このブログでも取り上げてきた.その支援事業の中で支援を獲得した数が多いのは,やはり旧帝の上位大学である.これらのプログラムで東工大は採択を取りやすいのではないかと思ったのだが,大学の規模を勘案しても,やはりそれほど目立たない.医科歯科大学に至っては採択数が一般大学並みである.だからまだ,ちょっと力が弱いのかな,という気がしていた.
 ちなみに,であるが,私は大学の規模を教員数で見るのがよいと思う.教員数で見ると,東工大は1050名(教員表には1105名と出ていたが,高校の教諭などは除いた),医科歯科大で847名である.この数は,埼大の教員数411名よりはずっと多いけれど,東大は3937名,東北大3203名,阪大3293名なのである.だから東工大と医科歯科が一緒になって,筑波大学くらいになると考えてよいだろう.単に一緒になっただけではまだ強者にはなれない.統合してどのような組織を作るかが重要になる.
 研究者ないし研究グループはある程度独立に,並列的に研究を行う.だから,その中から新機軸が生まれる可能性は,ある程度の規模があることで高まるのだろうと思う.

4.1つの注目点はリベラルアーツをどうするか

 先の東工大の学長説明の中に「さらにそこに両大学が重視するリベラルアーツの発想も活かすことで、社会の課題解決に直接貢献する新たな学術分野を生み出せるとの確信を持つに至りました。」という表現があったのが私の記憶に残った.東工大にはリベラルアーツ研究教育院という組織があり,教員表では51名の教員がいるらしい.もともとは教養部的な組織だったと思うが,今は部局化している.他方,医科歯科大は,国立大の中で教養部という組織を残した唯一の大学である(普通の医科大は医学部の中に教養の教員を含める).その教養部の教員数は30名弱である.
 もし統合を進めるなら,おそらくリベラルアーツ研究教育院と教養部を合体させ,より大きなリベラルアーツ部局を作って特別な役割を担わせるだろう,と私は予想する.どのような部局を構想し,何をさせるかは重要な工夫の対象であり,注目すべきだろう.

5.地方銀行,いや埼玉大学はどうすんの?

 政府の大学政策を見ていると銀行への行政指導と似ているなと思ったことがある.メガ銀行と地方銀行,その下の信用組合を分け,それぞれに役割を与える.実際,銀行はそのランクに応じて行動も違っている.都市銀行は自発的に統合による強化に走り,結果3つほどのメガ銀行が出来た.しかし,従来のビジネスモデルが成り立たないのが分かっているのに地方銀行は動きが鈍い.持ち株会社のような組織を作って銀行のアンブレラを作るのが精一杯なのだろう.同じように,上位大学は東工大と医科歯科大のように統合などの手を打ってくるようになるのかも知れない.他方,地方銀行のような地方国立大学は,18歳人口の低下とともに存立基盤が危うくなる可能性があるのは分かっていて,何もしない.いや実際,特に都市部に近い埼玉大学などは,巨大化した都内の私大に食われて行くにもかかわらず,特に動きもしないのではないのか?という気がしてくる.
 地方銀行はこれからバタバタ倒れて行くかも知れないのであるが,地方国立大学も同じなのだろうか,などと考えてしまう.
 埼玉大学も動くべきだろう.

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学生数の理系比率は上げられるか?

 このブログの少し前の記事で今年度の骨太の方針2022について触れた.その際に私が一番記憶に残ったのが,理系(自然科学)の学生の比率を上げる意向が書いてあることだった.あらためてその記述個所を探すと,次のごとくである.

現在 35%にとどまっている自然科学(理系)分野の学問を専攻する学生の割合についてOECD諸国で最も高い水準である5割程度を目指すなど具体的な目標を設定し、今後5~10 年程度の期間に集中的に意欲ある大学の主体性をいかした取組を推進する。

 理系の比率の5割程度を目指す目標を今後設定する(したい)という話であるから,実際にその目標を設定するかどうかも未確定なのだと思う.しかしそもそも,日本全体の学生比率をそれほど変えることが可能であろうか? 変えるとすれば具体的にどうするのか?という疑問が残る.

日本の学生数の分野別比率

 学生数に関する統計は文科省が毎年度行っている学校基本調査に掲載されている.あらためて,その学生数の令和3年度の確定値をネットで調べてみた.
 まず設置形態別(国公私立)の比率をまとめると次の図1のごとくである.この比率は人が抱く直感に近いだろう.学生の78%は私立であり,日本の大学生の大多数は私大生である.このことから考えると,国公立大学をいじっても全体の比率に影響はほとんど与えないことが分かる.

220807fig1

 設置形態を通して学生の分野別比率を求めると図2のようになる.よく文系vs理系で考えるが,実は文系とも理系ともいえない分野も存在する.ここでは,文系,理系,教育系,家政学,その他に分けてみた.

220807fig2

 骨太の方針2022では,理系の現在の比率を35%と書いていた.図2では34%である.ほぼ同じといえるが,実はどのように分類するかによって変わってくる.
 教育学部は,文系vs理系で分けるときは文系に入れることが多い.しかし理数などの教員養成をする部分は明らかに理系であり,学部全体で文理の別をいうことは難しい.ここでは教育系は文系,理系とは別として考える.なお体育系はほぼ,この教育に入っていると思う.
 家政学は,英語では Home Economics であるので,文字面では文系である.しかし中身は理系的なものが多い.そこで家政学も文系,理系別にした.
 「その他」に以下を含めた.芸術(計,音楽美術等),その他-総合科学,その他-教養課程(その他),その他-その他,である.
 あらためて,「文系」には次を含めた:人文科学(計),社会科学(計),その他-教養学関係,その他-教養課程(文科),その他-人文・社会科学関係,その他-国際関係学関係,その他-人間関係科学関係.
 「理系」は次の合計である:理学(計),工学(計),保健(計,医学など),商船(計),その他-教養課程(理科).
 このように分類したとき,全体の48%は文系であるから,教育系などを含めると,実質は過半数が文系学生であることになる.
 また,文系の中で「社会科学学生数/人文科学学生数」の比をとると,全体で2.3,国立と公立で2.1,私立で2.3となる.つまり社会科学学生は人文の2倍強になる.

国立大学の学生の分野

 学生全体の17%に過ぎない国立大学の分野別分布を次の図3に示す.予想通り理系が一番多く,全体の学生数の半数を超える.文系は理系の半分以下になる.教育の学生数は文系全体の半分を超え,公立や私立の場合より教育の学生の多さが国立で目立つ.教育の学生の大半は教員養成課程だと思う.教員を採用するのは地方自治体であるから,教員養成課程を持つのが公立大ではなく国立大であることは妙な話だとあらためて実感してしまう.

220807fig3

公立大学の学生の分野

 公立大学学生の分野別の分布は,上記の国立大と次の私大の中間的な傾向を示す.「その他」に入る芸術関係の比率,「保健」の中の看護系の比率が国立や私立より多い.

220807fig4

私立大学の学生の分野

 私大は半数超が文系であり,教育や芸術系なども文系色が強い.だから私大は文系中心の構成である.他方,私大の理系は私の直感的予想よりも高かった.地方には〇〇工大や日大の工学部など,工学系は実は多い.それらの工学系は地域の人材養成に貢献している.その点が私の予想以上に理系が多かった結果になっているのだろうと思う.

220807fig5

理系学生比率の増大は可能か?

 理系の学生比率を上げることは明らかに困難である.具体的なプロセスを想定して骨太方針に「5割への増大を目指す」旨を書いた訳ではないだろう,と私は思う.
 まず,権限からいって,政府が直接指揮できるのは設置者が国である国立大学しかない.しかしその国立大学は全学生の17%を収容するに過ぎない.仮に国立大学の文系学生をすべて理系に転換するという極端なことをしたとしても,全学生の4%程度しか理系学生は増えない.実際はどんなに頑張っても文系学生の1/3程度を理系に転換できる程度だろう.もともと国立大学,特に地方国立大学では文系比率は低い.今以上に文系を減らした場合,当然教員も減る訳であるから,国立大学の文系は部局として意味をなさなくなる.同じく骨太の方針に書いた「文理横断的な大学入学者選抜や学びへの転換を進め、文系・理系の枠を超えた人材育成を加速する」ことも不可能になる.
 学生の理系比率を全体で上げるためには私大を動かすしかない.しかし私学にとって文系,特に法経分野は,少ない投資で学生納付金を集める最重要部分である.そういっては悪いが,伝統的には,法律経済系は授業の多くが大教室授業であり,芋を洗うような教育をするのが常だった.だから設備の経費も少なく経営上はコスパがよい.だからあえて文系を減らすことは自発的にはしないだろう.

具体的に取れる方策

 政府が取るべき政策として私の念頭に上るのは次である.
 第1は経済を成長軌道に乗せることである.そのために(今のように)需給ギャップがあるときはギャップを埋める財政出動をし,インフレ率に応じて金融政策を継続し,規制緩和をしてイノベーションを起こしやすくすることである.そうでないと技術革新に挑戦する企業は限られるし,大学が輩出した人材の雇用も確保できない.成長のための政策をとらずに理系比率を上げることは考えるべきではない.
 第2は,本当に理系人材への需要が見込めるなら(政府の需要予測は普通外れるが),国立大学の交付金なり私学助成金のうち,理系分を割増しで配分することである.理系は経費がかかるので,理系を増やしたい大学も増設を抑制してしまう可能性がある.理系補助の割増しでインセンティヴをつけることで,国立にしろ私立にしろ,新設の部局を理系にする可能性は高い.
 第3は,理系部局の新設を政府が直接行うことである.政府主導で可能なのは国立大学においてになるだろう.もともと日本では研究成果の低下が問題になっていた.研究成果(論文数)を説明する最大の要因は,豊田長康先生の以前の分析では,研究者数だった.研究者数が多いから研究成果が出るという,当たり前の話である.実は論文数の停滞が話題になっていた時期,研究者数は先進国に比して横ばいに過ぎず,フルタイム換算の研究者数にいたっては低下していたのである.本気で科学技術の研究成果を上げるなら研究者数そのものを増やすことは考えるべきことなのだ.研究者増への投資は公共事業のコスパ基準を軽くクリアするはずである.
 以上の方策が望ましいと思うけれど,政府はまあやらないかな,という気がする.代わりに政府がやりそうなことは次の2つかなぁ,と思う.
 第1は,私学に対し,新設は原則理系以外を認めない,とすることである(国立では原則新設なしが続いている).政府が民間の大学に対してこのような政策をとることは,専制国家的ないし社会主義的であり,自由主義の下では望ましいことでないように私は思う.
 第2は,政府が国立大学に対し「理系イニシアティヴ・プログラム」みたいな感じの公募計画を提示し,多少の新設ポストを餌にして,文系から理系への学生定員・教員の転換を求めることである.多少の新設ポストに目がくらんだ大学は学内の文系を理系に転換する計画を作るかも知れない.ただ,既に雇用した教員の首を切らないという従来の慣行を維持するなら(維持することになると思うが),この種の転換は完成年度が長くかかるので,退職者で空きポストを多くひねり出せる大大学を除いては,計画の作成は難しいだろう.
 と書いてみたけれど,「政府は結局何もしなかった」というのが,一番ありそうなシナリオのような気がする.

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大学に注文する前に政府にはやるべきことがある

 最近のこのブログでも繰り返し書いていることであるが,政府は大学に対して様々な期待を寄せて大学行政を試みている.単に「学校」として存在すればよかった大学に対し,社会の成長の中核であると言わんばかりの表現を政府はしている.このことは大学にとって有難いことである.期待されるということは見捨てられないことであり,今後投資の対象になることを意味するからである.
 しかし政府の期待の仕方は,見ていてヤレヤレと思う面がある.

 第1は,だから悪いという訳ではないが,従来の産業政策の手法がそのまま適用されていることである.国際卓越研究大学は,「社会変革を牽引する中核」と持ち上げられ,「知・イノベーションの創出」,「新産業の創出」,「グローバル課題の解決」などがミッションとされる.要するに大きな変革の担い手と想定されている.何となく国際卓越研究大学が,銀行で言えばメガバンクなのだろう.そして地域中核大学というのが,地方国立大学はこの類型と思うが,メガバンクよりランク下の顧客を想定しているようで,地域創生(地域の産業創出・雇用創出),地域産業の「第二創業的なイノベーション」(中小企業の代替わりで行うイノベーション)を担わせることを考えている.茨城県でいえば常陽銀行のようなものをイメージしているように見える.さらに小ぶりな地方大学が信用金庫という見立てなのだろうな,と感じる(地方国立大学が信用金庫相当かもしれないが).
 繰り返すが,だから悪いという訳ではない.でも何か,笑っちゃいますよね.

 ヤレヤレの第2は,政府の期待は,虫が良過ぎるんじゃないの,という点である.
 政府が大学に期待していることの多くは,考えてみると日本経済が成長軌道に乗るかどうかにかかっている.学術上のイノベーションであれば研究予算があればできると思うが,技術のイノベーションや新産業の創出は,経済の成長,そのための各種の規制の改革が必要だろう.例えば農業は先端のハイテク産業になる可能性を秘めると思うが,農業に企業が参入することをブロックしているようでは難しいように思う.国際卓越研究大学に事業予算の3%を政府は要求するようであり,その数字は米国のトップ大学の数字だと思うのだが,米国はちゃんと経済成長しているからその数字を出せる.規制改革をし適宜財政出動もする必要があるところをしていないのに,そんな都合のよいことを大学に一方的に求めるというのは何のこっちゃ,という気分にさせる.
 地方大学に求める地域の産業創出,雇用創出も同様である.経済成長の恩恵が地方に波及しないのに大学が頑張ってどうなることではない.
 要するに,政府は,大学に期待することをやらせる以前に,自らやるべきことがいろいろあるのに,何もしていないんじゃないの,という感想を,私は政府の文書を見ながら感じざるを得なかった.政府がまずやるべきことをやらないと,大学の方も内心は「てやんでぇ」と考えざるを得ないように思える.

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岩盤規制に回帰する大学行政

 先日(2022/7/19)の読売ニュースに「2025年以降は薬学部の新設を認めない」という文科省方針を伝える記事が載った.
https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20220719-OYT1T50166/

規制改革が望ましいと思う私はヤレヤレと思った.例によって既存業界の保護のために文科省が動いたと見るべきだと思う.「薬剤師余り」があるという理由なのだが,投資する側がその通りと思えば新薬学部は自ずとできない.が,自由主義社会では,政府が許認可権で作らせないと決める話でないのである.
 この種の岩盤規制は既存業界のうちの競争力のない部分を保護するように働く.その結果として業界の代謝が行われず,イノベーションも生じにくくなり,業界全体の競争力を停滞させることになる.そういうと「新自由主義」といって批判する向きも多いのであるが,その程度のことは経済成長している自由主義国ならどこでもやっていることであり,同じような岩盤規制が社会の中に張り巡らされているから日本は経済成長できない.そして岩盤規制があることによって官庁側は保護した団体に天下り先を確保する.
 大学の岩盤規制は医学部と獣医学部で強い.安倍内閣では(医学部は既存業界が強すぎるので)獣医学部について岩盤規制を崩そうと思い,特区という仕組みを作って新設を認めさせようとした.その試みに岩盤派の既存業界と文科省が抵抗し,野党が岩盤派に味方したのが「加計問題」の本質だった.本来なら加計学園に続いて獣医学部の参入があって良いのであるが,できていないのはそれだけ抵抗が強いということなのだろう.医学部については,菅内閣が東北復興という名目で1つだけ新設を認めさせたが,その後が続かない.
 読売の記事が出た後,高橋洋一,原英史,岸博幸など改革派が,この問題を取り上げる動画をYouTubeにアップしていた.話を聞いていて「そりゃそうだよな」と思った.
 その動画には私が考えなかった論点も入っていた.第1が,薬剤師の役割が医師に都合よく制限されているので仕事も少なくなっている,という点である.いわれてみれば.米国では薬剤師がコロナワクチンの注射をしている.同じことは日本ではできなくされている.こうした規制を外していけば自ずと薬剤師の需要も多くなるのである.
 第2が,政府は業界の保護ばかりを考え(票になるからであるが),競争力のない部分の市場からの退出Exitを図らない点である.定員を充足できない薬学部は少なからずある.それらの薬学部の統合や退出を促すことをしていない.
 規制を改革し,異業種からの参入を促さないと,産業の競争力は上がらないし,新たな結合によるイノベーションも起こらない.要するに社会の活力は上がらない.日本社会のいろんな側面に同じ問題があるのだろうな,と思ってしまう.

 薬学部だけでなく,大学一般についてもいえることのように思う.もう少し動きがないと日本は沈んでいくのではないか.

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「魅力ある地方大学」は魅力的か?

国際卓越研究大学と魅力ある地方大学

 現状で国立大学に対し,政府は2つのタイプの大学像を提示しているように見える.1つは国際卓越研究大学,もう1つは地方大学(ないし地域の中核の大学)である.たぶんこの両者に属さぬ大学も想定しているとは思うが(例えば「強みのある研究大学」),「地方大学」とどう違うかは政府の出す文書でははっきりしない.国際卓越研究大学と地方大学の二択が提示されているようにも思える.骨太の方針2022を見ると,この2タイプ以外は想定していないように感じる.

 国際卓越研究大学の方の政府側規定は明瞭である.文科省や総合科学技術・イノベーション会議を見るなら,国際卓越研究大学は「社会変革を牽引する中核」であり,「知・イノベーションの創出」,「新産業の創出」,「グローバル課題の解決」などがミッションとなる.
(https://www.mext.go.jp/kaigisiryo/content/20220208-mxt_koutou01-000020496_ex1.pdf)

 対して魅力ある地方大学に期待されているのは,(地方自治体や地域の諸組織との連携を前提にすると思うが),地域創生,より明確には地域の産業創出・雇用創出ということになる.また,イノベーションについても,国際卓越研究大学に対して求めるイノベーションとはニュアンスが異なり,(地域産業の)「第二創業的なイノベーション」と明言される.「第二創業」とは「比較的規模の小さい中小企業などににおいて,新しい経営者を就任させ別の分野に進出すること」であり,国際卓越研究大学がなすべきイノベーションとは次元が異なる.
(例:https://www.mext.go.jp/content/20211020-mxt_hojinka-000018545_1.pdf)

魅力ある地方大学に人は行きたがるか?

 「魅力ある地方大学」の中身としては,中教審の大学分科会の資料が最も詳しいだろう(https://www.mext.go.jp/content/20210827-mxt_koutou01-000017637_1_2.pdf).私は何か月か前にこの文書を見て溜息が出た.確かに,米国の場合でも州トップでない州立大学はこの雰囲気なのである.だから仕方ないと思う反面,このような大学像に人は夢を抱くだろうか? 私が今,研究者志望の大学院生なら,国立とはいえ地方大学に行くよりは都会の私大に行きたいと思うだろう.私が当該地域の受験生であれば,そのような地方国立大学に行くよりはやはり都会の私大に行きたいと思うだろう.研究にしろ教育にしろ,知の価値はその中身の普遍性にあるのに,ここまで地域地域といいつつリアル過ぎる目標を突きつけられると興ざめしてしてしまう.
 人に夢を与えない構想は,できれば頓挫してもらいたい.

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埼玉大学は研究力第2グループに入れるか?

 現在,政府は国際卓越研究大学という制度を作り,日本のトップ大学に手厚い支援を行おうとしているように見える.下の方の大学への支援がどうなのかははっきりしない.しかし何れ,2番手の大学群を支援し,研究力の層の厚みを作ることを目指すようになるだろうと,私は希望的に予想している.ここで私の関心は,その2番手に埼玉大学が入れるかどうかという点である.この私的な関心について,ここでは茶飲み話的に意見を書いてみたい.

科学技術・学術政策研究所の分析

 2018年にこのブログで「国立大学の研究力」という記事を書いた(http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2018/04/post-989c.html).この記事は文科省の科学技術・学術政策研究所が2018年3月に公表した「日本の大学システムのアウトプット構造:論文シェアに基づく大学グループ別の論文算出の詳細分析」(https://www.nistep.go.jp/wp/wp-content/uploads/NISTEP-RM271-FullJ.pdf)を参照した.その当時,日本の研究力(理系だけだが)が低下したという議論がよくなされていた.従来は印象論で語られていた「研究力の低下」について,この報告書はかなり綿密な検討を行っていた.この研究所は良い仕事をしている.
 さらについ最近,このブログで国際卓越研究大学や総合振興パッケージについて触れた.その際に私が感じたのは,今のところ政府は国際卓越研究大学(ほとんど指定国立大学法人と重なると思うが)の支援しか考えていないのではないか,という点である.
 しかし,国際卓越研究大学や総合振興パッケージについて文科省が出している文書を眺めるうちに,おそらく国際卓越研究大学に続く大学群の育成が課題になってくると感じさせる要素もあると思った.もともと,2018年当時から,トップに続く層の厚みを作るべきという論調は一部マスコミには出ていた(つまりそのような解説者もいた)のである.
 同研究所は2021年12月1日付で「大学の研究力の現状と課題」という資料を出している(https://www.mext.go.jp/kaigisiryo/content/000148080.pdf).この資料の中には2018年3月の報告書にない分析を含んでいる.その1つが日英独の大学の比較である.

日英独の比較

 日本を英独と比較したのは適切と思う.人口でいえば英国は日本の半分強,ドイツは日本の2/3程度であり,したがってGDPでも日本の方が大国である.しかし日本を米国や中国と比較しても仕方ない.英独は日本より研究面では光っており(質の高い論文の比率では英>独>日),科学面では先進国と見なければならないだろう.そして英独ができることなら,おそらく日本にも可能であろうと思わせる面がある.
 同研究所は一貫して,世界における論文シェアで大学を第1~4グループに分けている.同じ基準で見たときのグループの該当大学数は次の表でまとめられている(この表は2018年の報告書のままであり,基にしたデータはやや古い).
 念のために書けば,日英独で短大を含めた大学進学率は6割強であり,ほぼ等しい.しかし文科省の資料(OECD比較)では,4年制大学への進学率は日本が51%,英国はやや高く63%,ドイツはやや低く42%,と出ていた.大学総数が3か国でかなり異なるけれど,人口差を勘案すると,日本の大学が平均的に規模が小さく,英国が規模が大きいのではないかと思う.

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      (「大学の研究力の現状と課題」より)


 第1グループに属する大学(日本では東大,京大,東北大,阪大)のい数は,日本と英国で同じ4であり,ドイツは1つしかない.しかし,日本と英独でかなり異なっている.日本は下に行くほど数が多く,ピラミッド型の分布になる.しかし英国やドイツは第2グループの数が多い.日本では第4グループがかなり多い(埼大も第4グループ).
 図1で第1~第4グループの大学数と大学の国別比率をグラフにした.特徴的なのはドイツであり,第2グループがかなり大きいのである.英国は日本とドイツの中間であるけれど,第2グループの比率はやはり日本より大きい.

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 図2では第4グループより下の大学を含めた大学数と大学比率をグラフ化してみた.この底辺大学は,日本だと主として文系中心の私大になるだろう.英国は底辺大学が少なく,日本とドイツは底辺大学が多いことになる.

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 ただ,日本やドイツで「底辺大学」が多いのは,大学の規模が小さいからだろう.データは大学の論文数から出しているので,規模が小さければ,研究者は優秀でも,論文数は少なくなるしかない.
 規模のこの効果は埼玉大学の状況もよく物語るだろう.埼大が第4グループに過ぎないのは,理工の規模が小さいからである.単純に,埼大に医学部があれば,それだけで第3グループになると思う.埼大が同じ規模の大学と統合すれば,パフォーマンスが同じでも,自動的に第3グループになるだろう.
 だから,大学ごとの論文数で比較するのではなく,所属研究者1人当たりの論文数でデータを出すべきだ,と思う人もいるかも知れない.旧帝大は規模が大きいから,どうしても研究量は多くなる.
 しかし,仕方ないだろう.単に人数が多いことが原因であっても,論文総数が多ければ,世の中にとってその大学の研究の存在は大きいからである.
 ここでごく自然に,「第2グループの重要性」が示唆される.同研究所の資料によれば,英国では第2グループの論文数が最も大きく,第1と第2グループの論文数は全体の8割になる.ドイツでは第2グループが大きく,第2グループだけで論文の8割を生んでいる.対して日本では,第1グループの論文数は全体の22%,第1と第2グループを足した論文数でも5割弱にとどまる.
 もう一つ注目してよいのは,同研究所の上記資料が「日本の場合、全分野の上位10大学と各分野の上位10位に入る大学の顔ぶれがほぼ固定されている。」と記載している点である.資料を見ると,特にドイツで特定分野で抜きんでている大学が多いのが目立つ.第2グループの中にはそのような大学が多い.対して日本では,大学はどの分野でも強いかどの分野でも弱くなる傾向がある,つまり両極化するため,第2グループに該当する大学数が少なくなる.
 研究が第1,第2グループに集中することが良いことか悪いことかは一概にはいえない.しかし国が特に支援する大学を限定するとすれば,第1,第2グループに集中していた方が支援はやりやすい.その点を考えると,国際卓越研究大学以外を支援するとすれば,広く浅く支援するよりは第2グループに支援を集中することになると考えるのが自然だろう.

埼玉大学は第2グループに入れるか?

 埼玉大学の経営者は,可能なら研究力の第2グループに入ることを狙うべきだろう.どのようにして可能であろうか?
 第1は大学の理系規模を大きくすることである.そのためには統合しかないように思う.
 統合の場合考えるべきは,同じ立場(規模)の大学の合併だと合併後が落ち着かないことである.嫌かも知れないが大きな大学に吸収されるのがよい.できれば既に第2グループにある大学に吸収されるのが手っ取り早い.埼大の近くにある第2グループの大学とは,千葉大,筑波大,東工大,早慶と日大である.
 第3グループと合併しても第2グループになれるかも知れない.埼大の近くの第3グループの大学とは,群馬大学,東京医科歯科大,東京農工大,私大でよければ東京理大である.医系大学でよければ北里,順天堂,東京女子医大があるけれど,ちょっとピンと来ないだろう.
 第2は強みを強化することである.実際に常勤のポストを強みとなる分野に再配置する必要がある.同研究所の資料では,埼大は基礎生命科学分野がやや強いことになっている(私には確認できないが).もしそうなら,単にその分野を重点領域とよぶだけではなく,ポストを付けて行く必要がある(既にやっているかどうか?).
 強みを強化するためにも,大学の規模が大きい方が有利なのは明らかである.かつて群玉統合が話題になったときにも,統合の利点は強みの強化に使える資源を確保することにあった.
 と書いてみたが,この程度のことは誰でもいえることであるから,わざわざ書くべきだったか,と疑うべきかも知れない.しかしここで書いた類のことを戦略として練ることは,埼大の経営者に必要なことであり,既にやっているなら幸いだ.

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学校教育法から乖離する大学行政

 表題は,大学行政が学校教育法から乖離してけしからんというのが趣旨ではない.逆である.「乖離することが望ましい」が本意である.

大学を主として学校と位置づけてきた従来

 大学の必須の要件は教育(人材養成)をすることである.もし研究をするだけなら研究所であって大学ではない.しかしこれまで,大学教員を含めて多くの人は大学を主として学校であると考えていたように思う.
 1995年のことだったが,私は埼大教養学部の教授会で,学部の力点を研究に置くべきことを主張したことがある.その経緯を以前,私は次の記事として書いた.
http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2018/08/post-61e0.html
 上記の記事でも書いたことであるが,教授会では「いや,学校だ」という反応がほとんどだった.それだけ皆さん,大学を学校と位置づけていたのである.
 よく考えてみると,日本では大学を「主として学校」と位置づけてきたきらいがある.まず大学の成立根拠になっているのが法的には学校教育法である.学校教育法では幼稚園から小中高校の目的を定め,次に大学の目的を定めている.
 学校教育法は成立した1947年の当時,次のように目的を定めている.

第五十二条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。

 「教授研究」という表現で研究の文字を入れているが,素人の私には「教授研究」が「教育と研究」を指すのか(そうならそう書けよ),「教授法を研究する」ことなのか,よく分からない.

 2020年の改訂でも,大学の目標規定の文言はそのまま維持されている(ただし第八十三条となる).が,次の第2項が加えられている.

② 大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

第1項では「教授研究」なのに第2項ではじめて「教育研究」という言葉が出てくる.ただ第1項の「目的を実現するため」という条件が入っているので,あくまで教えるために研究している感が強くなる.
 また,「社会の発展に寄与するものとする」という言葉が入っているので,いろんな活動によって社会の発展に寄与するもの」ともとれるけれども,第1項が教育中心に書いてあるため,あくまで「人材養成を通じて社会の発展に寄与する」ことをいっていると考えた方が自然と思う.

 なお,同じく1947年にできた教育基本法では,当初,大学に関する記載はなかった.しかし2006年に改訂された教育基本法では大学に関する条文が次のように追加された.

第7条 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

 この教育基本法だと研究が大学の目的として明記されている(深く真理を探究して新たな知見を創造し).学校教育法は2020年の改訂であるので,大学の目的は教育基本法のこの条文に入れ替えればよさそうなのに,なぜかそうはならなかった.
 ここまでが現状である.この現状に慣れてきた大学教員にとって,例えば,「イノベーション? そんなの大学とは関係ねぇ」と思うのではないか?

縦割り行政が大学を制約してきた

 ちゃんと調べていないで間違っているかも知れないが,日本と米国では大学の存立基盤がかなり異なっていて,そのことが日本の大学の存在を小さくしてきたように感じている.
 印象として,米国では,大学(少なくとも州立大学)は広い意味での社会資本ないし公共財であって,単なる学校ではない.米国にも連邦政府に Department of Education はあるけれども,日本の文科省のように大学を直接規制することはない.もともと(特に州立)大学は州の存立のために設置された.多くの州の主要産業は農業であったから,農学のCollege は歴史がある.日本だと農業試験場のようなものが昔からあったが,管轄は今の農水省であるから,文科省管轄の大学とは別にできる.また別の省が作る高等教育相当の機関は文科省の大学にはなれずに「大学校」と称することになった.米国の場合,日本のような縦割り行政がないので,何かを作るときはまず大学に作ることになるように思う.大学は大きなスタジアムや陸上競技施設を持つ.日本の大学が大学での体育の授業をする程度の体育施設しか持たないのとは対象的である.また,企業が研究に投資する場合も,自前の研究所を作ることもあるだろうが,お金を大学に出して研究所を作らせる,ということが起きやすい.その結果,大学が大きな社会資本ないし公共財として成長してきた.日本は大学が学校の規模のままであり,文科省管轄の世界以外からは切り離された世界になり,学校として小さく成長して現在に至った,ということではないかと思う.
 法的には,日本では各省庁が扱う事項を省ごとの設置法で決めてしまっている.大学を文部科学省が管轄することは文部科学省設置法の所掌事務としてまとめられている.そして大学は,小中高校と同じ発想で管理される結果になったのではないか,という印象を私はずっと受けている.
 私は2017年に埼大を退職したけれども,当時よく,文科省主導で「高大接続」が叫ばれた.私は内心やれやれと思った.高校と大学をなぜ接続させる必要があるか? 高校の校長は高大接続を願うらしいが,昔高校を卒業した人が遅れて大学に入学することもある.高校は高校で目的があり,大学もそれぞれに目的があるのだから,高校でやっていることに制約されることなく大学は入試をやってよいのだと思う(出題範囲を明示する必要はあるとしても).高大接続などという発想が出てくるのも,文科省が「学校」を一括して管轄する結果だろう.
 高橋洋一氏のYouTube動画を見ると,省ごとに所掌事務を法律で決めている国は日本以外にないらしい.政府の所掌事務は決まってても法的に省に分けてはおらず,どこが扱うかは政府(政権)が決めるらしい.したがって日本においてきわめて縦割り行政が強く,その結果大学の存在が狭い範囲に限られる結果になった可能性がある.

今生じていることの意味

 この縦割り行政の制約を政府が崩そうとしている,という現実を,今,われわれは目にしているのだと私は思う.私がそのように思うようになったのは,このブログで少し前に扱った,大学への総合振興パッケージの資料を目にしたときである.大学支援の補助金として,文科省の補助金以外に経産省や内閣府,総務省の補助金が例示されていた.大学の支援は文科省だけでなく,関連他省庁が関与し,その「連合軍」を内閣府でまとめている感がある.最終的に大学の世話をするのは法的に文科省になるのであるが,政府が全体でかかわるようになったといってよい.
 大学への行政の関与が「連合軍」になって来たのは第2次安倍政権になってからと思う.ちょうどその頃に文科省も「グローバル人材」といい始めたのであるが,私が今確認できたことでいうと,2014年の骨太の方針で「大学の徹底した国際化、理工系人材の育成、教育研究基盤の確立」と書き始めている.この頃から大学の研究を日本の成長戦略の要と位置づけ始めたのである.この傾向が現在の国際卓越研究大学,総合振興パッケージ(その中身の評価は別にして)によって,より明確になったというべきだろう.
 総合振興パッケージでは,新産業の創出や地域創生,イノベーションといった,学校教育法による大学の規定からは飛躍する課題が大学に対して向けられるようになった.そして大学の振興は文科省だけに任せるのではなく,複数省庁が関与する方向が明確になってきたように思う.この大学振興策の発想の元にあるのは,米国の大学の姿なのではないかと思う.

象徴としての加計問題
 
 安倍政権時代に騒いでいた加計問題は,実は象徴的な出来事だったと見るべきだろう.当時(実は今も),大学の認可は法的根拠もなく文科省が握っていた.大学の認可は文科省の専管事項であり,獣医学部1つを総理大臣でも作らせることはできなかった.文科省が既存業界と談合して半世紀に渡って獣医学部を作らせなかった.医学部についても同じことがいえる.
 だから獣医学部を作らせるために官庁の支配の例外を許す「特区」を設定したのが加計問題だった.「特区」は内閣府が主導する枠組みだった.加計学園の獣医学部は,文科省の専管事項を侵害する出来事である.だから当時,文科省(文科大臣は除く)は組織として安倍政権と争った.前川喜平が安倍総理を批判しつつ主張したのは「大学のことは文科省が決める,政治が口出すのはおかしい」という点だった.前川の主張は権限を既存省庁が握り続け,それによって天下り先を確保する官庁固有の行動だったというべきだろう.
 その後,政府は東北地方に例外的に医学部を1つ新設させたけれども,その新設も「東北復興」という名目を使って例外的に行ったことだった.
 このように,文科省(など既存官庁)による岩盤を崩す試みが,不十分ながら行われる事例があった.それらは何れも既存官庁の縦割りによる専管事項を崩す試みだったといえる.現状での大学行政は,内閣府にいくつかの官庁が関与しつつ連合軍として文科省を主導するという方式になったのだと思う.

この変化は望ましいのではないか?

 今の大学行政に生じている変化は,左翼勢力が大学で繁殖させて来た勢力を温存したい立場からすると改悪であるが,この国と大学の将来にとっては望ましいことであると私は思う.今後の知識社会において大学が産業や社会一般を牽引することは必然である.大学が官民の投資を受けられるようにすることで,社会の中で大学の存在は「学校」を超えて大きくなる.政府はなぜか,大学により強いガバナンスを求めているが,個別の是非はともかく,方向性としては仕方ないことと思う.教員の選挙によって学長が決まり,学長によって大学の方針が変わるようでは,大学は投資の対象にはなりにくい.個別の学長の意向を超えて「合議体」が学長と経営方針を決めるようでないと(うまく行くかどうかはともかく),大学は広い投資の対象にはならない.クーデターの多い国が投資を呼び込めないのと同じである.
 より大きな存在の大学を出現させることが,今の大学の課題であろうと感じる.

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国際卓越研究大学の行方

 少し前に「国際卓越研究大学」について触れた.ここではこの国際卓越研究大学の行方について,素人の私の感想,ないし予想を書いてみよう.「行方」とは2つの意味がある.1つは国際卓越研究大学がどのように規定されるか,2つ目は実際のどの大学が国際卓越研究大学になるか,である.私の予想を予め書けば,CSTI(総合科学技術・イノベーション会議)が言っていたような格好で,指定国立大学法人が中心になって,2024年度から国際卓越研究大学という制度が発足することになるだろう.

国際卓越研究大学が毒饅頭でも上位大学は食べるだろう

 国際卓越研究大学は大学にとって毒饅頭かも知れない.大学ファンドからの支援は欲しいものの,大学の体制を変えることが求められる.大学はできればその体制変更をしたくない.そこでどうなるかという問題である.だから国際卓越研究大学の制度導入には,特に左翼陣営から反対論が出ていた.
 国際卓越研究大学にCSTIが求めた事柄のうち,特に問題にすべきは次の2点であるように思う.第1は学長の上に「合議体」を置くことである.この合議体(何れ別の名称になると思う)が学長を選び,また経営方針を決めることになる.学長を中心に学内で合議(悪く言えば談合)して決定をしていた大学としては嫌であろうし,教員による学長選挙はキッパリ消えるだろうから,大学教員に根を張ってきた左翼陣営は嫌なことは間違いない.そして何れの大学でも左翼は根強い.第2は,CSTIが大学の事業規模(たぶん予算額)に年率3%程度の成長を求めたことである.委託研究費などは各大学ともかなりの成長率があると思う.しかし大学の事業予算全体の3%成長とは,大学にもよろうが,難しいだろう.また,大学独自の基金設立を求める話もある.東大の場合は東大債を発行した.が,金額的には東大としては大きいとはいえないし,どれだけの大学が同じようにできるだろうか?
 とはいえ,国際卓越研究大学になりたい上位大学は,やはり毒饅頭は食べるだろう.そう思うのは次の理由による.

合議体

 国立大学の場合でいえば,この合議体は学長選考委員会のようなものである.たぶん評議会から教員代表が,経営協議会などから馴染みの学外委員が出て構成される.だから中身は従来の学長選考委員会と変わらない.
 学長選考委員会と新たな合議体が異なるのは,合議体が経営方針まで決める点である.
 ただ,想定されている合議体が具体的な経営方針を独自に作れるかというと,たぶんできない,と私は思う.これまでも学長選考委員会では,外部委員は一言はいいたいだろうが一言いえばそこから先は事務局が出したたたき台をそのまま飲んできた.自説にこだわる動機付けは薄い.私が直接知っている埼大の学長選考委員会はそうだったし,新聞報道を見る限り東大でも同様である.お客さんとして呼ばれた外部委員は,大学に詳しい方はおられるだろうが,大学の経営方針を作るために多くの労力を投入するとは思えない.やりたくても,方針策定のための検討作業などしないだろう.経営者として呼ばれた合議体構成員が,巨額の役員報酬を得,かつ大学の成績に応じて報酬額が上下するなら別であるが,そうはならないだろう.
 つまり合議体は,大学の事務局が作成したたたき台を飲む以外の選択はないだろう.だからこれまで通りに学内で作った計画を事務局を通して合議体向けのたたき台にしてもらうことで終わるような気がする.
 合議体を作るのが嫌で国際卓越研究大学にならない,ということは生じないように私は思う.しかし合議体を作ることで,旧来の教員の談合で物事を決めるルートは,かなり細くなる.

事業成長

 政府が国際卓越研究大学に事業規模3%程度の成長を求めた箇所を見たとき,私は思わず笑ってしまった.国の経済を成長させられない政府が,どの面下げて大学に成長を求められるのか,ということである.大学が事業成長できるのは,国として成長がある場合なんじゃないの?と思った.
 という考えが正しければ,大学は事業成長をそれほど心配する必要はないのでは,という気がする.結果は国の経済成長にかかわるから,ダメなときはどの大学もダメであり,それゆえに言い訳はできるだろうからである.
 もっとも,国際卓越研究大学に申請する大学は申請時に事業成長を見込めるという事業計画を作成して提出しなければならないだろう.その事業計画を作れるのか,大学債などの発行に目途が付けられるか,その辺が一番難しいところのような気がする.

国際卓越研究大学になる大学に意外性はないだろう

 国際卓越研究大学の根拠法案が今年の5/18に成立した.その成立と同時に,共同通信と朝日新聞は手を上げる意欲のあると回答した大学名を報道した.東北大,阪大,名古屋大,東京農工大,早稲田大である.東大,京大の名前は出なかった.
 ただ,これらの大学名は一体何なんだ,というべきだろう.国際卓越研究大学は事業計画の提出を経て選定されるから,公募になるだろう.が,公募要領も出ていないのに,手を上げるも何もないのである.「詳しいことは何ともいえない」以外の返事はないではないか? 
 ただ,名前が挙がった5大学は,何れも動機づけが高そうな大学だな,と私でも思う.まず東北大,阪大,名古屋大は,その順で,東大,京大の背中が見える位置にある.だから東大,京大を抜く意欲が高いはずなのだ.私大では,早稲田より慶応の方が実力はあると思うが,早稲田はこの何年か,研究力が高いという格好にすることに意欲を示してきたように私にも見える.
 東京農工大は法人支援では世界型(③)である(私には意外だったが).それだけでも意欲は高い.ただ論文シェアでは第2グループでもなく第3グループ(埼大は第4グループ)である(埼大と同様におそらく大学の規模が小さいためだろう).だから存在感は大きくなく,現状で投資の対象にはならないような気がする.
 早稲田についてはよく分からない.
 国際卓越研究大学になる大学は,研究成果を示せるか,成長する事業計画を作れるか,ということにかかる.その2点について,指定国立大学法人は準備運動をしていたようなものであるから,指定国立大学法人を中心に国際卓越研究大学が出ることになるとしか思えない.そう見たとき,国際卓越研究大学になるのは東大,京大,東北大,阪大,名古屋大とプラスアルファ,計7,8大学ではないか,と考えるのが自然と思う.

東京農工大と埼大

 話は横道に逸れるけれども,上で触れた東京農工大と埼大を比較すると面白い.財務諸表を見ると,両大学とも予算規模は非常に近い.国からもらう運営費交付金の額もほぼ同じ(東京農工大が少し多い).違いは,授業料収入が埼大の方が多いこと.埼大は文系が多く,文系は教員数の割に学生数を抑制して設置されるので,授業料収入は埼大の方が多いことになる.しかし委託研究費は東京農工大の方がずっと多い.結果として予算規模が同じになる.
 東京農工大と埼大は同じくらいの規模の大学なのであるけれど,東京農工大は農学系と工学系だけの大学なのに対し,埼大の方は理工の規模が小さい.論文シェアで東京農工大が第3グループなのに埼大が第4グループなのは,その理系スタッフの規模の違いによるのだろう.なお埼大は,医学部を持っていれば確実に第3グループに入るだろう.
 私の先入観では,理系が多い大学はイケイケになるように思う.17大学人文系学部長会議の範囲では,徳島大学が理系が多く,結構イケイケだった.
 東京農工大は埼大が協力関係を作るのに良い相手なのかも知れない.

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大学への「総合振興パッケージ」の薄情

(「薄情」は「うすなさけ」と発音してください.)

CSTI

 今年(2022)の2月1日付で,CSTI(総合科学技術・イノベーション会議,内閣府)は「世界と伍する研究大学の在り方について」という最終まとめを公表した.
https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/sekai/kenkyudai_arikata_p.pdf
と同時に,同じ日付で「地域中核・特色ある研究大学総合振興パッケージ」を公表している.
https://www8.cao.go.jp/cstp/output/kenkyudai_pkg_p.pdf
 2022/6/7閣議決定した骨太の方針2022では,「世界と伍する研究大学の在り方について」が「大学ファンドから支援を受ける国際卓越研究大学」に対する措置であり,「地域中核・特色ある研究大学総合振興パッケージ」は「地域の中核大学等が、特色ある強みを発揮し、地域の経済社会の発展等への貢献を通じて切磋琢磨できるよう、産学官連携など戦略的経営の抜本強化を図る」ためのものと表現されている.たぶん,「地域の中核大学等」は,この時点では,大学ファンドの支援対象とは想定されていないのだろう.

 CSTIは議長が岸田首相であり,重要閣僚が名を連ね,有識者のトップとしてよく名前が出る上山隆大氏が入っている.議論の実質は会議の下にあるいろんなワーキンググループでなされており,通して出ているのは上山隆大氏であるから,同氏の意見が多く反映されるものと思う.しかしこれだけ複雑な会議であると出席委員は一言いって満足して終わるだろうから,結論の中身は事務方(岸田内閣では財務省・経産省の官僚)が取りまとめたものがそのまま通るのではないかと想像する.

 私見では,世界と伍する研究大学,つまり国際卓越研究大学については今さら見聞して新しいことはない.が,「地域中核・特色ある研究大学総合振興パッケージ」(以下,「総合振興パッケージ」と略)については政府筋が何を考えているかについて興味を喚起する面がある.
 以下,その総合振興パッケージについて,私がざっと見た感じを茶飲み話として書いてみたい.不正確な点はご勘弁願いたい.

総合振興パッケージが想定する大学階層

 パッケージの対象は「地域中核・特色ある研究大学」である.略さずに書けば「特色ある研究大学」と「地域中核(研究)大学」なのだろう.「特色ある研究大学」は,国際卓越研究大学には届かないけれども限定した分野の研究で世界的水準にある大学を指していると思う.典型例は金沢大学のような国立大学,ないし早慶あたりだろう.「地域中核大学」は,地方国立大学はみな該当するものと想像する.
 「地域中核・特色ある研究大学」については3つの類型が書かれているのが面白い.第1類型は「特定分野で世界トップレベルの研究拠点」を持つ大学である.第2類型は,世界トップレベルの研究拠点を持ちつつ大型の産学連携を推進する大学である.第3類型は,世界トップレベルの研究拠点は内部に持たないけれども,学外拠点と連携しつつ地域の産業振興・課題解決に貢献する大学である.
 CSTIの資料では,国際卓越大学とこの3類型が1次元で上下に位置する階層構造が描かれている.むろん上から,国際卓越,第1類型,第2類型,第3類型である.
 ここで気になるは,3類型で出てくる「世界トップレベルの研究拠点」が何を指すか,という点である.同資料では「世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)」が例示されている.しかしWPIはほとんど指定国立大学法人で認定されており,例外は金沢大学くらいしかない.だから総合振興パッケージの対象大学にWPIはないだろう.単なる「強みのある分野」ということかも知れない.
 たぶん,国際卓越研究大学を含めた4類型の下にかなり多くの弱小大学があることになるのだろう.

総合振興パッケージは何をいっているか?

 細かく検討した訳ではない私がいうのは気が引けるが,大まかにこの総合振興パッケージが何をいっているかについては,次のようなことであろうと思う.
 第1は,大学に対して上から目線で訓を垂れている.大学は研究の強みを作るべきだとか,大学間の連携をすべきだ,地域でネットワークを作るべきだといった,一般論としてはその通りであり誰も理解していることをいっている.個別の大学に対して具体的にいってくれないと,大学の方も困るだろう.
 第2に,新たに財源を動員して支援しますという印象はなく,既にあるいろんな補助金をまとめて表示することで大学の便宜を図る,という考えのように読める.「総合振興」の「総合」というのは,その補助金枠をまとめて示す,ということのように読める.いや,おそらく補助金の枠は大学の事務方は把握しているはずだから,そんなの,まとめて書いて何かプラスなのか? しかも,例示される補助金枠には既に募集を終了しているものもあるではないか?
 という訳で,この総合振興パッケージって何なのさ? 各大学に気合を入れる,という趣旨なのかも知れない.あるいは,ファンドを使わないけれども皆さんのことも考えています,といういい訳なのかも知れない.
 国際卓越研究大学にはファンドで支援しますといいつつ,その他の大学には気合だけ.嗚呼この薄情け.

 美空ひばりの晩年の名曲「乱れ髪」風にいうと:

  失せたファンドの 配分を
  祈る教員の 性(さが)悲し
  辛らや重たや 本学ながら
  沖の瀬をゆく 底曳き網の
  舟にのせたい この薄情け

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骨太の方針2022 での大学言及

 今年の『骨太の方針2022(経済財政運営と改革の基本方針2022)』がネット上で話題になった.ネット上の話題とは,骨太の方針でのプライマリー・バランスの扱いを巡る財務省(岸田)と積極財政派(安倍)の抗争のことである.という訳で,今年の骨太の方針がどんなものか,どれどれ,とネットで検索してみた.
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2022/decision0607.html

 ここで話題にするのは骨太の方針2022での大学への言及についてである.
 以下,私が気になった点を書いてみる.

 第1に,大学に関する言及が減った.昨年の骨太の方針2021(菅内閣)では「大学」という単語が33か所で出てきたのに対し,今年は23か所である.文章自体が変わったので理由は複雑でよく分からない.ちなみに,「イノベーション」という言葉は昨年度が25,今年が24であるから,変わらない.文章全体の長さもほぼ変わらない.

 第2に,「現在 35%にとどまっている自然科学(理系)分野の学問を専攻する学生の割合についてOECD諸国で最も高い水準である5割程度を目指すなど具体的な目標を設定し、」という記載が今年は入った.昨年度まではなかった表現である.
 現状で自然科学分野が35%という数字は,大学生の私大割合が高いことから,直感的にそんなものかと思う.国立大学,特に地方国立大学では文系部局は少ないので,理系割合が高いような気がする(埼大は地方国大では例外的に文系比率が高い).また,「OECD諸国で最も高い水準」で5割に過ぎないというのは意外な気がする.
 実際に理系を増やすって,どうするのかね?と疑問に思う.私大に対して費用がかかる理系を増やすように命令することもできないし,国立大学の少ない文系部局を理系に転換しても割合は全体ではそんなに増えないだろう.
 理系を増やすこと自体は正しいと思う.文系の場合,何も勉強していない学生が多いはずである.(文系でちゃんと勉強しているのは外国語を学ぶ分野くらいのように私は思う.)

 第3に,昨年度まで何年か続けて骨太の方針に記載されていた「国立大学との新たな自律的契約関係」という表現が,今年から消えたことが目を引いた.この「新たな自律的契約関係」というのは刺激的な表現であり,国立大学のあり方そのものを大きく変えるようなニュアンスがあったので,私は注目していた.むろん,左派が嫌う方向への変化である.
 ただ,確か菅内閣の萩生田文科大臣が,この「自律的契約関係」というのは大した意味はないといった回答をしていたように思う.「自律的契約関係」という言葉は,構造改革派が国立大学の国立色を払しょくしようと考えた痕跡ではないかという気がしている.しかし岸田内閣になって社会主義色が強まったので消えたのだろう.「自律的」に変わって「教育・研究・ガバナンスの一体的改革を推進し」と,支配色が増したことの表裏かも知れない.

 第4に,10兆円ファンドについては,昨年度は「研究の生産性を高めるため、研究DXを推進するとともに、研究を支える専門職人材の配置を促進する。」といった書き方だったのに,今年は国際卓越研究大学だけにファンドを使うような書き方に変わった.
 10兆円ファンドは,安倍内閣で種を撒いた話であり,菅内閣ではファンドの運用(収益の上げ方)の検討をしていたと思う.岸田内閣になって国際卓越研究大学に限定してファンドを使うような考えになったのだろう.財務省は下々の大学に金を使わせるとろくなことはない,と考えている.ただ,10兆円ファンドの使途については,まだ綱引きの余地があるのだろうと期待する.

 蛇足であるが,昨年の骨太の方針では「安定的な財源(の確保)」という表現が少子化対策の箇所だけで使われていた.「増税をすれば対策をしてやるよ」という意味だろう.今年は「安定的な財源(の確保)」という言葉が奨学金の返還の箇所で追加された.岸田内閣は「人への投資」といい,奨学金を付けるようなことをいうけれど,「それは増税が前提」という財務省の主張を反映したのだろう.積極財政派なら「教育国債で賄う」と考える所ではないかと思う.
 やはりダメだな,岸田内閣.

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調子良過ぎて笑いを誘う国大協

 2つ前の記事で,10兆円ファンドを国際卓越研究大学に使う,という話を書いた.ここで国大協が何といっているかと思い,国大協のサイトを眺めてみた.2022/05/27付で「地域中核・特色ある研究大学の強みやその特色を伸ばすための取組について(中間まとめ)―我が国の大学の研究力及び国際競争力強化への7つの提言」というのが出ているのが目に留まった.
https://www.janu.jp/news/10611/
 案の定の動きであろう,と思った.国際卓越研究大学にファンドのお金を使うことの根拠法が両院を通って成立したのが5/18である.時を移さず国大協は上記提言を出したのだろう.綱引き(の1つ)が始まったのである.下々の国立大学も金が欲しいということである.
 この「7つの提言」をざっと見てみた.「これは厚かましい!」と思わず笑ってしまった.
 7つの提言のうち,6つは「支援拡充」,つまり「金をくれ」である.「金をくれ」でない提言2は「使いたいところに金を使える自由をくれ」であるから,まあこれも「金をくれ」みたいなものである.
 国立大学に務めていれば何れもいいたいことではあるが,職を離れた一般人の私には「少しは自前で稼ぐことを考えろ」といいたくもなる.
 重要なのは,地方国立大学が金が必要だという根拠を述べると,公立はむろん,多くの私立大学にも当てはまってしまうことである.バラマキをやりだすと広く薄くばら撒く他はない.たぶん,私立大学の方も政府へのおねだりを始めるのだろうな,と思ってしまう.いろんなレヴェルで綱引きがあるのだろう.

 どのような大学にせよ,10兆円ファンドで大学という機関に金を配るのは私は良くないと思っている.研究者個人に研究費として渡すべきなのだ.たぶん間接経費もつくだろうから,その間接経費で支援体制の構築に充てればよい.

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日本学術会議,「軍民両用」研究を否定せず

 2022/05/17のニュース(https://news.yahoo.co.jp/articles/a6cd8f38fb007c8d733bb78523ef81eb1a40a568)で「安保環境の激変で大転換 日本学術会議「軍民両用」研究を否定せず」という記事が載った.重要なことであるけれどもそれほど周知がされていない.
 参議院の内閣委員会で学術会議事務方トップ(事務局長)が自民党有村治子議員の質問に「(日本学術会議が2017年に公表した『科学者は軍事研究を行わない』という)『声明』は、デュアルユースのような安全保障に資する研究を、一律に禁止する趣旨のものではございません」と答弁したというのである.
 1つの進歩ではある.この学術会議の2017年の声明がベラボーであることはこのブログでも以前に書いた(http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2020/11/post-178407.html).
 ただ,もともと2017年の日本学術会議の声明は内容が曖昧であり,子細に読めば軍民共用の研究に反対なのかどうかが明確ではない(http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2018/09/post-cadf.html).だからその事務局長が「安全保障に資する研究を、一律に禁止する趣旨のものではございません」という程度の答弁をしても,それほど不思議ではない.ではどうなのかと問い詰めるとすれば,たぶん混乱した回答が返ってくるのではないかと思う.
 問題は,この学術会議の声明は大学に下駄を預けている点である.学術会議が大学に対し,軍民共用の研究への申請を審査する制度を作ることを求めているからである.大学の方は学術会議が軍民共用禁止の考えと忖度してそのような審査制度の規程を作った.そんな申請をしなければならないとすれば(したらしたで日共系の主に文系教員が騒ぐ),面倒で申請はしない.だからそのような審査の規程を作った大学に対し,どのような考えの審査制度なのかを政府が問い合わせるのが正しいだろう,と思う.大学の方は責任は学術会議にあると思って審査制度を作ったはずである.
 すぐには正常化はしないだろう.

 埼玉大学は軍民共用の研究への申請を審査するというバカ規程を作っただろうか? 埼大の規程をネットで確認すると見当たらないと思ったが….
 前の山口学長が Dual Use 研究を否定しない発言があったような話を聞いた気がする.が,その後のことは私は存じ上げない.作っていないなら山口学長の慧眼である.上井学長なら作ったかも知れないw

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10兆円ファンドで国際卓越研究大学の支援,という愚劣

10兆円ファンドのもともと

 研究促進のための10兆円ファンドという話が出たのは安倍政権の末期であった.その時に事務方で政権に入っていた高橋洋一氏がいい出したことであると,本人がYouTubeの動画で話していたのを覚えている.その趣旨は研究費をバラまいて落ち込んだ日本の研究に活気を与えることにあった.大変結構なことと思った.
 高橋氏は研究を選ぶのではなく研究費をバラまけ,といった.何がどのような成果につながるかは事前には分からないのだからバラまけということである.それ正解だろうな,と私も思った.こういう研究がよい式の議論はよくあるけれど,その種の議論は言っている人の自己正当化に過ぎないように私は思う.実は分からないのである.バラまく方が簡単なのだ.
 国立大学の法人化前は,国立大学は講座費として研究費を受け取っていた.実験講座であれば,科研費が通らなくても最低の研究はできた.それが国立大学法人の運営費交付金の減額に伴い,固定的な研究費は著しく低下した.固定的な研究費は無駄が多いという考えもあろうが,それ以外のお金は何らかの(広い意味での)政治的配慮から配分される.だから政治的に不遇であっても固定的な研究費があることは有難い.固定的な研究費で何とかつないでいた研究は多いだろう.この固定的な研究費がなくなるとともに日本における研究の地盤沈下が叫ばれるようになった.だから10兆円ファンドは政治的に不遇な人たちの研究を復活させるために重要だろう,と私は感じていた.
 また,10兆円ファンドから研究費を受け取るのは個人の研究者であると私は思っていた.お金は,受け取る人に直接渡すのがロスがない.大学がいかに酷かろうが,個人研究者にお金が渡れば研究はできる.中間搾取は少ない方がよい.

しかし官僚主導だとこうなる

 最近になってこの10兆円ファンドのことが再び話題として出てきた.しかしなんかすごく話が違ってしまったな,というのが私の印象である.例えば朝日新聞は「10兆円大学ファンド、「選択と集中」懸念 国際卓越研究大法成立」というニュースを2022/5/18付で流した.研究費をバラまくはずが国際卓越研究大学を作って支援する,という話に化けたのである.
 調べてみると,「国際卓越研究大学の研究及び研究成果の活用のための体制の強化に関する法律案」が,この4/28に衆議院で,5/18に参議院で可決され,成立した.上記の朝日の記事はその法案成立に合わせて出たものである.
 政府がやったことは,10兆円ファンドを政府予算のように使うという発想である,と私には思える.政府予算が増えれば財務省が文科省を使ってやりたいことをやった,ということだろう.岸田政権らしい.
 私がダメだと思うのは次の点である.
 第1は,もともとは研究者個人への予算配分であったものが機関配分になったことである.だから研究者への朗報となるかどうかは分からない.
 第2は,予算の配分を受けるのは主として「国際卓越研究大学」になることである.その予定される数からいって,「国際卓越研究大学」は指定国立大学法人とほぼ重なるだろう.むろん「国際卓越研究大学」は国公私大を通した枠組みであるから,早慶辺りは入ってくるような気がする.国立に比べて私大は天下りポストを作りやすいから,役人は私大を入れたがるはずである.その代わり,指定国立大学法人のいくつか(少なくとも東京医科歯科大と一橋)は抜けるのだろう.
 指定国立大学法人という制度は,実は財政的メリットは少ない.「国際卓越研究大学」によって財政的メリットを付加するのではないか,と思う.
 だがこのような措置は日本の研究を盛んにする道といえるのか? 意見では,いえない.
 資源配分の最適解は(通常の前提では),限界生産性が高い部門に多くの資源を配分することである.この観点からするなら,多くの予算を得るべきは例えば埼玉大学であって東大ではない.研究費当たりの論文数は埼玉大学は日本一と判定されたことがある.少ない予算でより成果を上げているのであるから,全体の研究を高めるためには埼大などに予算を配分するのがよい.逆に東大などは予算当たりの業績数は少ない(業績は多いが予算が大き過ぎる).はっきりいって東大などは金の使い道に苦労している程であるはずだ.
 第3に,配分される予算の使途は政府公開の文書ではほとんど言及されていない.だから,研究費にもなるかも知れないが,そうとは限らないのだと思う.確かに,研究支援体制や成果の活用の体制を作るには予算はいるだろうが,ファンドの運用益を研究費として配れば,間接経費もつくだろうから,「体制作り」もその範囲でできるだろう.緊要なのは研究費であって組織作りではない,組織作りをしたいなら通常の政府予算で支援すればよい.わざわざファンドを設立したのは研究費そのものをバラまく必要があったからのはずである.

何を目標にするのか?

 私がこれまでに受けてきた印象は,官庁特に財務省はハーバード大学やオックスフォード大学のような大学を日本に作ることを目指してきた.指定国立大学法人がそうであり,今回の国際卓越研究大学もそうである.国際卓越研究大学を作るために他の大学が死屍累々となることを容認してきた.研究に意欲のある多くの大学の意欲を挫いてきた.
 でもハーバードやオックスフォードのような大学ってのは,お役人の趣味だよね.
 もともと組織文化が日本と西洋では異なる.最上位の大学が研究を切り開く面もあるが,平等主義の日本では多くの中堅大学の水準を上げる,という姿を目指してよいと私は思う.

地方国立大学は立ち上がるべきだろう

 この10兆円ファンドの運用がどうなるかはまだ流動的な部分があると私は考えている.例えば国大協の永田会長(筑波大学長)は広く配分すべきという考えを述べていると何かに書いてあった.国大協が広く配分しろと騒げば,国際卓越研究大学以外が受け取れる可能性も残っているのではないか,という気がする.
 研究に意欲のある地方国立大学は立ち上がるべきだろう.埼大の学長,理事などは,本部の3,4階にバリケードを築いて立て籠るべきではないか?

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教職大学院

 この(つまり2022年の)4月末のこと,私のiPadのgoogleのブラウザを開くと,他のニュースとともに教職大学院に関する記事が配信された.たぶん私がよく大学関係の記事を検索するので,googleが関連の記事を配信したのだろう.

教職大学院修了者のキャリアパス

 配信された記事は2つ,1つは「日本教育新聞」の記事,もう1つは「教育新聞」の記事だった.後者についてはが有料サイトの記事であり,契約しないと見られない.「日本教育新聞」の記事は無料の短い記事だった.「日本教育新聞」の記事を見てみた.普段であれば流し読みをして終わる.けれど,今回は中身が笑えるのでここで取り上げてみた.
https://www.kyoiku-press.com/post-243620/
 
 中教審のある小委員会で教員の新たなキャリアパスの提案があったという.提案の主語がはっきり書いていない.教職大学院では「実務家教員」が配置必須なのであるが,「教員養成大学の学部段階でも実務家教員の配置を増やし、教職大学院修了者が就くようにする。」うーん,これは筋の良くない話だなぁ,と思った.
 「実務家教員」とは一般的な定義はできていない代物であるが,教職大学院については教育委員会なり小中高校の現場で教師の経験がある大学教員を指すと思う.教職大学院ではその実務家教員を多数雇わねばならない.それだけで大変と思うけれど,学部段階でも雇えとなると,教員養成学部にとってはかなりのストレスになるだろうと想像する.
 そもそもこの話がなぜ出たかといえば,教職大学院がうまくいっていないからに決まっている.埼大などは学生定員をなんとか確保していると思うけれど,全国平均で見ると充足率は80%程度のようである.要するに「教職大学院在籍権」には商品価値が低い,ということである.その点が話の出発点であるが,この困難の克服のために禁じ手を使おうとしているように見える.つまり,修了生の市場価値を高めるのではなく,大学の実務家教員になれますよという特典をつけて客を集めようとしている.結果として大学に対して教職大学院修了者の雇用を強要するような話だよな,と思える.

 ただ上記はあくまで新聞記事であり,どこまで正確な話かは分からない.そこで文科省の審議会情報でどう出ているかを検索してみた.
 件の中教審の小委員会とは,「中央教育審議会『令和の日本型学校教育』を担う教師の在り方特別部会基本問題小委員会(第6回)」(2022/04/25)のようだ.
https://www.mext.go.jp/kaigisiryo/2022/1422489_00021.html

 この文科省のページではその回の小委員会での議論のまとめは出していない.しかし掲載された資料1-2と参考資料1-2はかなりの議論が書いてあり,この会議での内容はこの2つの資料にあると見るべきと思える.が,その2つの資料は,教員のキャリアパスを検討しろとは書いてあるが,それ以上は踏み込んでいない.
 上記の新聞記事の内容に対応すると思えるのは資料1-1の「たたき台」である.
https://www.mext.go.jp/kaigisiryo/content/20220425-mxt_kyoikujinzai01-000022121-2.pdf

 この「たたき台」には「学部段階においても教職経験を有する教員(実務家教員)の配置を促進し、教職大学院における実務家教員を含め、教育委員会等との人事交流を促進することについてどう考えるか。」とあり,「その際、教職大学院修了者をその中心的な対象者として位置づけ」としている.上記の新聞記事はこの「たたき台」の箇所を大きく取り上げたのだろう.
 誰が「たたき台」を作ったかは例によって文科省ページには書いていない.が,常識的には,この小委員会の委員ではなく,事務方のお役人が書いて委員会に出したのだろう.だから担当の文科省のお役人が記事のような「キャリアパス」を考えていて,そのお役人が教育新聞に情報を流して記事を書かせた,と考えるべきだろう.そのお役人は教職大学院を格好がつくようにしたいのだろう.

無理がある

 ただ,上記のお役人の願いにはやや無理があり,「たたき台」以上になるかどうかは何ともいえないように思う.
 まず,教職大学院修了者を教育委員会に付けたり実務教員にしたり,といったことは国に権限があることではない.教育委員会でどうするかは自治体の判断であり,大学で実務教員として誰を雇うかは大学の判断である.だから,中教審でそんなことまで踏み込むのはおかしな話である.
 一番重要な点は,教職大学院が出す学位は修士相当であり,専修免許を出すに過ぎないことである.教職大学院を出て取れる教員免許は専修免許であり,その点で(埼大で言えば)人社研や理工研(の理学系)で出す免許と変わらない.なのに教職大学院出身者を特別扱いする措置とる制度上の根拠があるかといえば,ないように思う.
 
教職大学院という制度はどうなのか?

 教職大学院は中途半端な制度だなと私は思っている.以前,教職大学院ができると聞いたとき,教師になる者はすべて教職大学院を出るという制度であると私は思った.従来の複雑怪奇な教員養成システムが教職大学院によって一気にすっきりと整理されると思ったのである.しかしそうではなかった.現状の制度はほぼそのままにして教職大学院を別途作ったのである.これだと教職大学院の意味が不明確になる.単に専修免許を出すだけなら従来の教育学研究科でよいのである.
 教職大学院のホームページでカリキュラムを見ると,確かによくできているように見えるけれども,冷めて眺めると,その内容は実習付きの更新講習のようなことをしているように見えてしまう.それで意味がないとはいわないが,この中身だと大学院で学ぶというよりは,小中高校の教員の職域研修として定期的に実施すべきものではないか,という気がするのである.(といっても,教員の職域研究をちゃんと実施できる体制になっていない.それはそれで問題なのだ.)
 大学院は,あるsubjectを深く学ぶことが本義である.だから,国語・英語・社会の先生なら(埼大でいえば)人社研のようなところで科目に関する研究を深く行った方が望ましく,理数の先生であれば理学系の大学院で学んだ方がはるかに有益だろう.体育の先生であれば体育大学の研究科で,芸術系の先生であれば音大や美大の研究科で学ぶべきではないか? 養護や特別支援の先生であれば福祉系の研究科で学ぶべきであり,小学校の先生であれば児童心理学を深く学ぶ方が教職大学院で学ぶより望ましいように私には思える.さらにいえば,更新講習のような教職大学院のカリキュラムで学ぶことに,先生方は知的好奇心を抱くことができるのだろうか? 私が社会科の教員であれば,教職大学院よりは人社研で学びたいと思うだろう.
 国立大の教員養成系学部は教育学研究科を廃して教職大学院に移行したようであるが,教育学研究科のままの方が良かったんじゃね,と思えてならない.人様の商売にケチをつけて申し訳ないが.
 どうも私には,教員養成学部の研究科を教職大学院に移行したのは,教員養成系のポストを財務省から保護するための方便だったように見える.

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日本学術会議会長談話のお粗末

 ネットを見ていたら日本学術会議がロシアのウクライナ侵略について気のない声明を出していた,という話を目にした.どれどれと思って日本学術会議サイトで調べてみた.次のような「会長談話」を出した,ということであると分かった.

https://www.scj.go.jp/ja/head/pdf/20220228.pdf

 まあなるほど,これだと出すだけ恥ずかしい.
 素人の私が見て,少なくとも次の点を指摘できる.

1) 「侵略」と表現していない.この談話を出した2/28では,国内では,ロシアの行為を既に「侵攻」から「侵略」に変えるのが一般的だった.「侵攻」では表現が弱いのである.ちなみに,3/1の衆議院でのロシア非難決議は「ロシアによるウクライナ侵略」と明記しており,日本学術会議の上位組織である日本共産党も機関紙『赤旗』で2/25の日付で「侵略」と表現している.

2) ロシアを非難していない.この談話は「ロシアによるウクライナへの侵攻は、…、到底、受け入れられるものではありません。」と書いている.しかし事態を「受け入れられない」ことと,ロシアを非難することとは異なる.この談話のタイトルも「ロシアによるウクライナへの侵攻について」であり,「侵攻について」何をいっているかを明示しない.対して衆議院の非難決議では「(ロシアの)力による一方的な現状変更は断じて認められない。」といった上で「ロシア軍による侵略を最も強い言葉で非難する。」としている.日本学術会議の上位組織である日本共産党も2/25の段階でロシアによる侵略を「糾弾する」といっている.
 「糾弾」と「非難」がどう違うかは私は存じ上げない.私の感覚だと,「非難」とは「遠くで言うだけ」,「糾弾」は「筵旗を立てて押しかける」というニュアンスなので,「糾弾」の方が強いのかな?

3) ロシア軍の撤退を求めていない.学術会議の談話は「対話と交渉による平和的解決を強く望みます。」と書くのみである.これだと,「ウクライナが軍事的に屈服する」ことも含んでしまう.まずロシア軍を撤退させて原状に戻したうえでの「対話と交渉」でないと,侵略が成功したことになってしまう.衆議院の決議では「ロシアに対し、即時に攻撃を停止し、部隊をロシア国内に撤収するよう強く求める。」と明記している.まず重要なのはロシア側の攻撃停止と軍の撤退である.

4) 日本学術会議は機関決定をせず,会長談話とするのみである.これだと,日本学術会議が機関としてロシアによる侵略を非難する形になっていない.
 日本学術会議にはれいわ新選組のようにアメリカが悪いとかいい出す人が多いだろうから,機関決定はできないのだろう.下手な声明を出して後で困るより,内部から突き上げが出ない程度の弱い談話を出そうと考えたのだろう.今後,日本学術会議が強いロシア非難声明を機関決定する可能性は理論上はあるけれども,もし強い声明を出せばこの弱い談話との整合性を突っ込まれる可能性があるから,強い機関決定はしないのではないか,という気がする.

 ロシアの侵略の非難はこの程度なのに,安全保障研究の禁止はえらく周到な機関決定をしている,というこの差が日本学術会議の本質と思える.日本学術会議による安全保障研究妨害がどれほどべらぼうな話であるかは,以前にこのブログで書いたのでここでは繰り返さない.
http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2020/11/post-178407.html

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東大入学式の例の祝辞

東大での祝辞

 東大の入学式で,河瀨直美という著名な映画監督が話した祝辞の中身がネット上で炎上した.今回のウクライナ侵略について,ロシアが悪いとはいえないようにいったのが侵略者ロシアの擁護論ではないか,という趣旨の批判のようである.私が眺めた限りで,この祝辞に問題はないという発言もネットでは出ていた.どれどれ,と思って東大サイトでその祝辞の文面を探すと見つかった.次である.
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message2022_03.html

 読んでみるとスピリチュアルな内容というか,感性主体の文面であり,積み上げ式に組み立てた話ではない.祝辞であるからそれでよいのだろう.この感性からすると何もロシア,ウクライナに言及する必然性はなかったように感じる.それだけに,そのロシアとウクライナに言及した箇所は何か浮いた印象がある.
 ともかく表現の自由があるのであるから,祝辞でこの内容であったことが悪いとは思えない.しかし私の意見でも,このロシア,ウクライナに言及した箇所はいただけないな,と思う.

 まず私が読んでおかしいと感じた点が1つある.ロシア,ウクライナに言及する箇所の少し前に,金峯山寺の管長さんが「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」と言ったことが引用される.「あれらの国」が何を指すか私には分からなかった.どうもロシアとウクライナのことであると感づくのはその後にロシアとウクライナが出て来たからである.が,文章としては「あれらの国」がどの国を指すかは前に出て来ないとおかしい.
 文章を読むと少し前に「残念ながら、世界は小さな言葉を聞いてくれません。そう思わざるを得ない出来事が起こっています。」とある.だから,この2センテンスにロシアとウクライナが隠れていると読むべきなのかも知れない.が,学生がそんな文章を書いたら私なら指摘する.紛れのない文章が科学の前提だから.そこは感性の世界の故なのかも知れない.
 前段落の解釈をする前に私が思いついた第1の可能性は,この管長さんの話の前にロシアとウクライナに関して述べた段落がもともとはあったけれど後に削除し,「あれらの国」という言葉だけが修正されなかったことである.だから削除する前に何が書いてあったのか,と気になった.第2の可能性もある.管長さんの話はロシアとウクライナが出て来る箇所の後にもともとは置かれていたけれど,後に順番を変え,「あれらの国」を修正しなかった,という可能性である.
 さらに気になるのは,この管長さんの言葉の意味が曖昧と認めつつも,特に確認もせずに引用していることである.引用するなら確認するでしょう,普通.確認できないなら引用しないでしょう.

 その,ロシアとウクライナに言及した箇所について,私は次のように「まずい」と考える.
 第1に,批判的指摘のように,この文面ではロシアの悪行について「どっちも論」を持ち出し,ロシアの悪を曖昧にしてしまっている.「例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、」というのであるが,ぶつかっているのは両国の正義ではなくロシアと国際秩序の正義である.河瀨氏の表現は典型的な「どっちも論」であり,レイプ加害者と被害者を「どっちも」というに等しい.
 第2に,ロシアと日本にダブルスタンダードを適用し,日本をロシア以上の悪と断じた点である.氏は次のようにいう.「そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。」どこかの国への日本の侵攻を拒否するということは,日本の侵攻は悪のはずだ.しかしロシアの侵攻は悪とはいわない.まるで,米国の核は悪だがソ連の核は正義の核だといった昔の左翼と同じ論法を使っている.全体の論旨からこの部分は逸れていて,そもそも書くのは不自然と映る.

 河瀬氏はロシアの侵略が深刻な問題であることを理解していないのだろう.
 ロシアによる侵略への対応は,ゲーム論的には規範ゲーム Norm Game で理解すべきと思う.違反国の出現を抑えるためには違反国に他の国が制裁するシステムが必要になる.今回,欧米の民主主義国はその制裁をすることを決意した,それは良いことだ.が,この制裁システムは,違反国を制裁しない者も制裁しない限り,崩壊してしまう(Norm Game).概して欧米の政府や企業が制裁に厳しい態度をとるのはそのためである.だから,平和を実現するためには,制裁を見逃すことも悪としなければならない.この観点からすると,「どっちも論」はロシアと同じ立場,ということなのである.

埼大の入学式はどうだったか?

 それにしても,入学式の祝辞などという細かい話がマスコミに出るというのは,それだけ東大さんへの世間の注目が高いということなんだろうな,と思った.そこで,わが埼大の入学式(入学生歓迎式)はどうだったのか,と興味を覚え,埼大サイトを眺めてみた.
 埼大でも入学式をやっており,3年ぶりであるようだ.式次第が次のように出ていた.

一、開式の辞
一、学長式辞
一、理事等紹介
一、学部長等祝辞
一、学生代表宣誓
一、閉式の辞

 あっ,来賓の祝辞って,ないのね(汗).
 まあ,コロナ明けの移行期であるから,時間をかけずにやるってことなんでしょう.それに,私の在職中も,祝辞を誰に頼むかで,結構苦労していたようですし….
 来賓の祝辞の代わりに「学部長等祝辞」ってのが入っている.内輪で済ませたんですね.しかし,いや,これ,学部長さん,やりたくないんじゃないの,という気がした.
 まあ,こういう式の祝辞って,結婚式のスピーチと一緒で,短いほど喜ばれるんですよね.本来無意味なものだから.そういう意味では,「ワシが男塾塾長,江田嶋平八である!」でいいんでないの,と思う次第であります.

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大学の国際ランキング:京大前総長殿のわがまま

 ネットの記事を見ていたら,京大前総長の山極氏が「世界大学ランキング」に噛み付いたという趣旨のタイトルの記事があった.次である.
https://news.yahoo.co.jp/articles/42ae9b990d5d0b2dbaccdcefa9764ab891eedbe3

 やれやれ,と思った.
 世界大学ランキングとはTHE(Times Higher Education)の世界大学ランキングのことと思うが,実はランキング自体はいろいろある.でもTHEのことであろうと仮定しよう.
 この種の大学ランキングには以前から批判があるのは分かっている.欧米の大学の経営上の都合から作られた,日本で重視する必要はない,という趣旨の批判である.THEについていえば,ご指摘のような邪な動機からできたというのはその通りかも知れない.
 また,ルール作りとは一面できわめて政治的であり,ルール作りの決定権が欧米に握られ,日本が低く評価されているということは,たぶんあるだろう.
 そういう異論に対応するためと思うが,文科省も,既存のランキングの欠点は認めながらも,参考に使うことの意義を述べる文書を,どこかで出していたと記憶している.
 ただ,邪で身勝手な動機からできたとはいえ,それだけなら世界で流通するとは考えにくい.ランキングの結果が多くの関係者の納得をある程度得ているから多くの人が受け入れていると考えるべきだろう.この種のランキングは,勝手に指標を定義して計算した場合,その結果は誰が見ても首をかしげる結果になることが多いはずである.もっともらしく映るランキングを作るのは,実は簡単なことではない.THEにしても,作成過程では試行錯誤があったろうと想像する.
 大学ランキングに対して異論が出る背景は,そのランキングを根拠に大学が文科省や財務省からいじめられるからだろう.地方国立大学がランキングで責めらえることはないが,京大などの指定国立大学法人については,いろいろやっているようではあるがランキングが上がってないんでないの,とチクチク責められているはずである.
 企業がいろんな指標で評価されているように,大学も何らかの評価を受けることが望ましいことは否定できないだろう.特に税金を使わせてもらっているならそうである.
 だから,既存のランキングが駄目であるというなら,日本の大学が上位に来るような,別の指標に基づくランキングを提案すればよいだけなのだ.ただ,THEよりももっともらしいランキングはたぶん作れない.作っても流通しないだろう.ドルが基軸通貨であることと同じで,日本は既存の,現に通用している国際ルールの中で何とかやって努力して行く以外にないのが現実のように思える.むろん,努力するのは今のところ,指定国立大学法人だけで,地方国立大学は幸か不幸かあまり気にしないでよい.
 さらに,THEなどのランキングを参照することの利点は,国内の権力関係から相対的に自由になれる点にあるだろう.日本独自のランキングを作った場合,日本国内の学界の(旧帝中心の)権力関係を反映する結果になりかねない.国際的なランキングを使うことで,日本国内の特殊な権力関係から自由になれる面もある.

 大学ランキング以外に,どの研究を高く評価すべきか,という点も政治的であり,同じようなバイアスはあるのではないか,という気がする.研究の評価も,「民主的」に決まるとすれば,各分野の研究者によるreputation(指標は引用数)に依存せざるを得ない.主要分野の中心は欧米にあったから,欧米で関心が高いテーマの研究が高く評価されるというバイアスが存在しても不思議はない.ノーベル賞を欧米の研究者が取りやすいのはそのためもあるだろう.日本の研究者が実は高く評価されるべき研究をしても,人的ネットワークの周辺にいるために,あまり評価されない,ということは,結構起こり得るような気がする.
 周辺的な国で生まれた研究が高く評価されやすいのは,恩恵が大きい技術の開発につながるような研究をした場合だろう.日本で応用分野の研究でノーベル賞をとることが多かったのはそのせいかも知れない.

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第4期中期目標・中期計画の親方日の丸

 文科省のサイトに,国立大学が提出した第4期の中期目標と中期計画が載っていた.
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/houjin/detail/1386151_00007.htm
文科省サイトのこのページは今年の3月30日の日付になっている.だから正式な中期目標・中期計画が確定したのは3月終わりだったのだろう.現実には夏にはできていたと思うけれども,その後も多少の修正があったようである.私は埼大サイトで時折チェックしていたが,埼大サイトでは途中の案は出していなかった(少なくとも私は見つけられなかった).
 2020年の9月に「埼玉大学発展・変革ビジョン」というのが出ていた.このビジョンを見て,埼玉大学は何もしないつもりか,と私が思った次第を,このブログの次のページに書いたことがある.
http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2021/01/post-efbbd5.html
埼大の4期目の中期目標・中期計画はこのビジョンに基づくだろうから,その意味で中期目標・中期計画にはそう目立ったことは書かないだろう,と想像した.大まかにはこの想像は当たったように思う.
 私がいうことでもないけれど,埼大の今回の中期目標・中期計画について,私が感じた点を以下に書いてみたい.

全体の印象

 埼大の中期目標・計画をざっと眺めた印象は次の3点である.

1) 悪くない
 全体に無難にまとまっている.特に事務方の筆になるだろう箇所はそつがない.少し変なところもあるけれども,同レベルの他大学の目標・計画にも似たようなところがあるので,決して悪いとはいえない.

2) 成果で目標を定義しないところが親方日の丸
 組織の目標は普通は「成果」で定義する.企業であればどれだけ売り上げをあげるとか収益をあげるかが目標であり,どんな製品を出しますとかどんなキャンペーンをしますとかは目標を達成するために手段ないし措置であって目標ではない.ところがこの中期目標・計画では成果で目標を定義することがほとんどなく,どんな措置をとります,というのが目標のように書かれている.措置として何かやっていれば許してあげますよ,という環境の中に,有難くも文科省が置いてくれている,ということだろう.
 だからこの中期目標・計画とは,やってますというアリバイの文書に過ぎないように見える.この点が「親方日の丸」的であろうと私は思う.
 大学の成果とは,研究であれば研究成果,教育なら教育成果である.研究成果の指標は論文数およびTOP10%論文数だけでよい.教育成果とは,私の考えでは,在学中に現れるのは学生が実際に習得した程度,卒業/修了後に現れるのは社会でどれほど活躍したか,である.授業の満足度などは本質的には無意味と思う.ここでは書かないが,特に教育成果を測るのは難しい.とはいえ,できないことではない.
 例えば,何とかの教育プログラムを実施します,とは,成果を上げるための手段に過ぎない.本来目指すのは成果そのものであるはずである.

3) 何となく脱力して書いている印象
 中期目標・計画は以前のものも本質的には無意味な文書であることに変わりはないが,以前は必死に書いている感があったような気がする.今回の目標・計画はやや軽く,脱力して書いているんじゃないの,という印象を,なぜか私は受けてしまう.
 例えば「2 教育」に属する目標記載【2】に対応する計画記載は【2-1】なのだが,【2】と【2-1】がなぜ紐づけされているのか,と思ってしまう.しかも【2-1】の評価指標であがる【2-1-①】や【2-1-②】が【2-1】と対応しているのか,という点は,私が文書作成者なら悩んでしまうだろう.以前であれば目標・計画の作成に没入する人がいて,この種の問題は納得するまで修文したのではないか,という気がする.
 中期目標・計画の持つ重みが低下した,という背景があるのかも知れない.中期目標・計画について,マスコミもほとんど取り上げない.世間の関心は低いのだろう.

 暇つぶしのようではあるが,いろいろ考えたこともあるので,以下で個別のポイントについて少し書いてみよう.

中期目標・計画の「書かせ方」は進歩したかも

 第4期の中期目標・計画の文科省による「書かせ方」には進歩があったかも知れない.第3期までの中期計画では,研究や教育についてどのような措置をとるかを書いていたけれど,書いていることが現状の記載なのか,新たにやることの記載なのかが必ずしもはっきりしないことが多かった(少なくとも埼大の場合).数値目標を書くことは少なかったように思う.それに対し,今回の第4期では従来から差分を明示する書き方をするように指示が出ていたのだろう.数値目標が書いてある事項も増えた.現状から何を踏み出すかをはっきりさせることを求めたのだろう.この点は進歩に見える.
 また「Ⅰ 教育研究の質の向上に関する事項」の最初の「1」を「社会との共創」にしたのは意表を突くものであるような気がする.大学が一般社会とどのようにかかわるかを最初に書け,ということである.それだけ国立大学の社会的機能を重視する立場を文科省がとった,ということのように思う.「1 社会との共創」は「2 教育」,「3 研究」と重複するから,2や3と別に書くのは混乱の要因にもなりかねない.が,あえてこのようにしてみるのも良いのかも知れない.

前文は従来継承:それでよい

 埼大の目標・計画の前文はこれまで,以前の上井学長が就任直後に出した3つの基本方針を書いてきた.その点は今回の中期目標・計画の前文も同じだった.正しいだろう.おかげで埼大の中期目標・計画の前文は他の大学の前文より中身が単純構造になっていて分かりやすい.
 3つの基本方針は上井学長時代に理事だった加藤先生(加藤泰建氏)が取りまとめたと思う.実際,その前の兵頭学長と上井学長のとき,学長の頭脳になっていたのは加藤先生であり,その間の彼の手腕は神がかっていた.

埼大は「社会との共創」では苦労した?

 この「社会との共創」の項は,地方国立大学の中では地域連携を進めてきた大学は書きやすいだろう.例に宇都宮大学をあげれば,宇大はこの項の評価指標として,すっきりと次を掲げた.

1)地域(県内企業、自治体、コミュニティ)との共同研究・連携プロジェクト等の年間件数:第3期平均の20%増(第4期中期目標期間最終年度)
2)社会実装に至った地域関連プロジェクトの第4期累計件数:第3期実績の50%増
3)社会に対する学術的知見の提供件数:第3期平均の35%増(第4期中期目標期間平均)
4)提供した学術的知見の満足度:毎年80%超を維持

 このように書けるのは地域関連のプロジェクトをやっているからである.
 対して,文面を見ると,埼大は「社会との共創」の項を書くのに苦労したのではないかという気がする.共同研究・受託件数を増やす(ただし増分が少ない)のはよいのだが,実装に至るプロジェクトは考えている風ではない.他は,実務家による授業を設定する,など,社会との共創そのものとも言えない.政策提言というが,知事と学生の意見交換会での提言など,学芸会のようなものではないか.大学の研究の延長で行う提言が書けないのは見劣りする.
 埼大には工学部があるのに,この「社会との共創」の項をちゃんと書けないのは今後の課題なのだろう.

「教育」の記載は無難だが

 「1 社会との共創」に比べて「2 教育」の項は無難に書かれている.次の2点については気になった.

1) 【3-1-①】で数理・データサイエンス・AIの教育に言及している.この記載だけではよく分からない.が,もし,全員必修のリテラシー教育(以前の「情報基礎」相当)と5科目だけ,ということであれば,かなりショボい.長々と検討していたはずなのに結果がこれなのか?
 データサイエンス等の重要性は特に文系課程にある.今のままだと文系の課程は何の付加価値も付けない.もっと大きく舵を切るべきと前から思っている.

2) 思わず笑ってしまったのはAL(アクティブ・ラーニング)科目の件【3-3-①】である.社会主義でこんな馬鹿なことが起こってますという冗談かと思った.アクティブ・ラーニングは普通の授業をAL化することに意味がある.仮に私が今授業を担当するなら,大教室授業でないなら反転授業にするだろう.教師が学生に講義をするなど無意味な儀式,ただの時間の浪費に過ぎない.ところが埼大では,普通の授業を手つかずのままに保存して,AL科目というラベルを貼った授業を別途開くことで「アクティブ・ラーニング」やってます,ということなんでしょう.しかもそのAL科目の実態は,例えば教養学部の先生の普通の授業じゃないですか.要するにやる気ないんですねw

他方,「研究」の記載は

 埼大の中期目標・計画では「研究」においても「教育」と同じように書いていて,その意味で無難である.ただ私の感覚からは余計なことを書きすぎているように思える.ちなみに,宇都宮大学は「研究」について,次の3つを評価指標とする簡潔な記載をするのみである(番号は評価指標番号).宇大方式でよいのではないか? というより,宇大方式の方が重要な点が浮かび上がってよいだろう.いろいろ措置をやっても研究成果が出なければ意味がない.また,何の措置もしなくても研究成果が出れば十分である.

20)国際的に著名な学術誌への年間掲載件数:第3期平均の20%増(第4期中期目標期間最終年度)
21)共同研究・受託研究等の年間件数:第3期平均の15%増(第4期中期目標期間最終年度)
22)社会実装に至ったプロジェクトの第4期累計件数:第3期実績の50%増

 枝葉末節であるが,埼大の中期目標・計画における研究実績評価の【7-1-①】で,業績の数え方が部局によって統一できなかったのは,部局から上がって来たものを並べただけ感があって,美しくない.

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教養学部の入試に変更の余地はあるか?

学部の入学定員の配分

  私が退職した2017年の時点では,埼大教養学部の学部入試は前期日程と後期日程に定員を割り振るだけだった.しかし2017年度の時点で推薦入試を始める(導入せざるを得ない)状況であったと記憶している.2018年度入試以後は,(3年次編入学を除く)学部生定員の160名分を,前期日程115名,後期日程25名,学校推薦20名に割り振っていると思う.

 私の在職中の認識からするとこの入試定員の配分は妥当なものである.というより,教養学部を含めて多くの国立大学の学部は,前期日程中心が基本であり,教養学部もこの基本線を外れることは念頭になかったように思う.

 ただ,国立大学を広く見渡せば,もっと違った定員の割り振り方もある.

 例として私が思い浮かべるのは宇都宮大学の国際学部である.宇大国際学部は学部定員90名を,前期日程40名,学校推薦36名,帰国生4名,社会人4名,私費外国人6名に振り分けている.宇都宮大学が文科省に出している部局の実績評価の文書(同大学による記載部分)を見ると,そのように定員を分散させてことに積極的な意義を見出す方向の書き方をしている.宇大国際学部は埼大教養学部などよりははるかに考えて部局運営をしているのは事実と思うが,私の立場からは,それだけ学生の確保の苦労があるのだろうと想像してしまう.たぶん埼大教養学部の人が宇大国際学部の入学定員の配分を見ると,かなり奇抜なやり方のように感じるだろう.

 実は埼大の中でも,理学部と工学部は後期日程の方により定員を割いている.両学部とも学科によって配分の様相は異なるけれども,理学部は合計すると前期より後期の方が定員が多く,工学部は前期と後期にほぼ同規模の定員を割いている.たぶん,前期に上位の大学を受けた優秀な学生を後期で拾うことに利点を見出しているのだろう.

 ここでいいたいのは,埼大教養学部のように伝統的な入学定員の配分から別の配分方法を変えることは,検討に値するかも知れない,という点である.たぶん地方国立大学の入試では,長期的には倍率が低落傾向になる恐れがある.その場合,結果として望ましい学生確保のやり方を変えなければ,学生の質の確保が難しくなる恐れもあるからである.

 入試実施の一般論

  入試のやり方の2要素は,上記のような入学定員の配分と,入試方法(学力試験,小論文等)だろう.ここで話を単純化し,入試方法については最適な方法が選ばれると仮定して,入学定員の配分に限って議論してみよう.入試単位の入学定員の全体規模をCとおき,前期日程,後期日程,学校推薦の定員をそれぞれ x1, x2, x3 としよう(x1+x2+x3 = C ).さらに,入試の望ましさ(評価)v とおくなら,v = f( x1, x2, x3 )と書くことができる.埼大教養学部の場合,C=160 であり,すべての日程について最低10名を割かないといけないという制約があるとするなら,今問題とすべきことは,

    140≧x1≧10, 140≧x2≧10, 140≧x3≧10, x1+x2+x3 = 160.
    という制約の下で v = f( x1, x2, x3 ) を最大化する定員配分を求める.

という問題に帰着する(概念を整理しただけで,こんな表記をすることに実質的な意味はない).

 入試の評価関数

  上では入試の評価関数をと書いた.この評価関数をどう決めるかは議論を要するだろう.

 私が教員として部内の先生方を眺めた感想として,大学の先生方はこうした評価関数を判断するのが得意ではないと感じている.そもそも人は自分を高く評価するバイアスを持つ.その点は大学教員も同じであり,大学の先生方は自分と同じような人間が望ましいと考えている.よく本を読まれる先生は学生が本を読むことを求めるが,私のように本を読まない人間は本を読むことよりは自分の頭で考えることを学生に求める.数学が好きであるかできる先生は学生が数学に強いことを求めたがるが,数学がお嫌いな先生方は入試科目に数学が入ると怒り出す.教養学部はかつて論文試験というのを実施したけれど,あの論文試験も,素材になるような古目の文章を読んで考えをこねくり回すことがお好きそうな先生方が主導者だった.最近の教養学部入試の小論文に出て来る文章は左翼論調の感性一本鎗の文章が多いと感じるが,出題する先生方はそのような方なのだろう.出題者は同じ感性を持つ学生に囲まれていたいと願っているのだろうなと,私は想像して失笑したものである.

 評価関数は教員による晦渋な思考を反映するのではなく,より即物的に割り切ることが重要な気がする.大学の教育評価指標として財務省などが求めているのは教育のアウトプットの簡単な指標,例えば就職率などである.今後はその方向に集約されるかも知れない.入学時点での試験スコア(例えば共通テストスコア)を重視すべきかどうかは,それらのスコアがアウトプットを反映しているかどうかを確認して判断すべきだろう.

 まず学業の指標として,入学後のGPAを何らかの形で使うべきだろう.私が退職間際に知ったことであるが,教養学部では,単位修得状況やGPAの点で成績不良者を特定し,学修指導することになっていた.私が印象的だったのは(そのときに確認した学年についてであるが),成績不良者が後期日程の学生からは出ていなかったことである.同じ観測が安定的に確認できるなら,後期日程からより多く学生をとるべきと思える.また,就職や院進学もアウトプット指標として使われる可能性が高い.何を学んでいるから良い,悪いと考えるのではなく,即物的に,良いアウトプットを期待できる層から多く入学させるべきだろう.

 よくある2つの解

  私の今までの経験では,上記のような最大化問題を考えるとき,よくある「解」のパターンは2つある.

 第1はいわば端点解(corner solution)であり,配分可能な定員を一か所に集中させることである.解を定員配分で表せば,配分可能な定員をすべて,例えば前期日程に集める場合である.この場合,解は(140,10,10)になる.教養学部は(115,25,20)であるから,実はこの解に近い.

 第2は教科書的な解であり,複数の配分先に資源(この場合は入学定員)を適度に配分させる場合である.この解の場合,通常,各配分先(入試日程)による評価への貢献がほぼ等しくなり,配分を変更しても評価は上がらない,という均衡になっている.

 例えば,推薦入試は貢献が少ないので最低の配分とするが,残りの定員は前期と後期で折半する(75,75,10),といった場合である.この場合,後期を増やして前期を減らしても,前期での評価の減少分が後期の利益増大分を上回るので,得にはならない,といった状況になっている.埼大の理工系の場合,前期と後期で分散して定員を配している.志願者倍率では後期の方が前期より高い.しかし,私が以前に確認したところ,志願者倍率ではなく実際に受験する人数で受験者倍率をとると,前期と後期はほぼ同じ倍率になっていた.たぶん,前期の利益と後期の利益(正確にはその限界値)がほぼ等しくなる均衡配分をしているのだろうと思う.

 埼大教養学部を含め,文系の多くの学部では,現状で,第1の端点解のような定員配分で入試をしている.しかしこの判断はこれまで前期日程で良い学生が確保できる程度の志願倍率が見込めたためかも知れない.受験者数の状況によっては新たな可能性を模索する必要があるかも知れない.

分析すべきだろう

  教養学部が現状の定員配分で入試を始めたのは2018年からだった.ということは,そろそろその形の入試の入学生のデータがすべての学年で収集できるようになるだろう.だから入学者のデータを分析することで,現状の配分でよいのか,状況の変化に応じて別の配分が合理的になり得るかを検討できる段階になるだろう.

 むろん,データを分析する人がいれば,の話である.

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大学受験の地理的要因

 大学入試についてネット検索していたら面白いサイトに出会った.次の「統計情報リサーチ statresearch.jp」というサイトである.
https://statresearch.jp/school/university/index.html

 このサイトでは,全国の(主として)国立大学の情報をいろいろ出している.私が参照して感心したのは入学者の出身都道府県(たぶん高校所在地だと思うが)ごとの入学者の分布を出している点である.大学はしばしば出身地ごとの入学者数を公開しているが,実はその数字だけを見ると地理的パターンが分かりにくい.このサイトでは17歳人口の中でどのくらいが当該大学に入学しているかの比率を出しており,その比率を地図として表示している.例えば,ある県から埼玉大学に多く入学したとしても,その県の人口が多ければ確率的に当り前なのである.人口当りの入学者の率を出すことで,その県の受験生が埼大にどのくらい入学しているかが分かる.いわば,人口当たりの入学者の率は,当該大学に対するその地域の受験生の魅力の強さを表している.
 この「人口当たりの入学者の率」を図示することで,当該大学にどの都道府県の受験者が入学しやすいかのパターンが明らかになる.指摘すべきは,基本的に近接性の効果が明瞭なこと,つまり,多くは所在する都道府県からの入学者が多く,次いで隣接する都道府県の学生を吸収しているというパターンが明確なことである.
 次の図は信州大学の入学者率を図示したものである.この図は典型的であり,信州大学は隣接した県から入学者を出していることがよく分かる.ただし関東地方から信州大学に行く学生が少ないのは,関東地方の受験生にとって東京の魅力が強いからだろう.
22021608go_g_02
 次の埼玉大学の入学者のパターンは特徴的であり,私の実感と符合する.
22021608go_g_02_20220216232601 
 人数からいうと埼玉大学には東京から多く入学している.しかし東京は人口が多いので,実は東京からの入学傾向が強いとはいえない.この図からは,東北新幹線,上越新幹線(ないし東北自動車道,関越自動車道)沿いに学生を引きつけていることが分かる.
 埼玉大学は東京の北の玄関口に位置し,交通の要衝になっている点がプラスなのだろう.しかし東京の近いことは,東京に多くのライバル大学があるためにマイナスにもなっていると思う.
 また,上の例とは逆に狭い地域に特化した大学もある.埼大に近い所でいうと群馬大学である.群馬大学は群馬県と栃木県からの入学者が多い.両毛として両県の行き来に歴史があるからだと思うが,交通の流れからは群馬大学は外れている.

 概して地方国立大学は近隣の都道府県から入学者を集め,上位の大学は入学者の範囲が拡散しているような印象である.とはいいながら,上位の大学でも入学者の範囲は地域に制約される.次のグラフ群は,平成28年度の北海道大学が公表したファクトブックのある7頁目である.
https://www.hokudai.ac.jp/pr/HU28_factbook_all.pdf

記載された旧帝大の入学者の出身地を表す円グラフは,旧帝大でも入学者に地域の偏りがあることを示す.
220216

 東大や京大は全国から広く入学者を集めるような印象があるけれど,東大の場合でも東京都から37.5%,関東地方全体で約6割の入学者となっている.東京,関東は人口が多いのは事実であるが,人口比率を越えて近隣から学生が来ている.京大でも58%が近畿地方出身なのである.他の旧帝大にも同じことがいえる.
 この北大資料の上の方に,北海道出身の北大入学者は35.9%であり,他の旧帝大より地元率が低い,それだけ全国から入学している,と書いている.が,この記載は誤りである.北海道の人口は520万人くらいであり,埼玉県の730万人よりずっと少ない.その北海道で35.9%確保しているというのは,立派に地元率が高いのである.(ちなみに,同じ記載は,北大の後のファクトブックからは消えた.)

 上記の「統計情報リサーチ statresearch.jp」は,運営主体を表記していない.だから誰がこの資料を作ったのか不思議であり,怪しいといえば怪しい.ただ,この記載の数字を素人が自力で集めるのは,かなり労力が要る.
 このような数字を容易に手に入れられるのは文科省のお役人,ないし文科省傘下の機関の研究員なのではないか,という気がしている.サイト全体で考えると,他省庁に関するデータも入っているので,さらに謎が深まる.
 調べてみると,このサイトの所在地はあるサーバホスティング会社のサーバであるようだ.だからその会社のサーバで有料でサイトを立ち上げているようである.

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国立大学の親方日の丸入試

 1つ前の記載で埼大教養学部の入試倍率に触れた.その際に他の国立大学の倍率も眺めたのであるが,そうするうちにある感慨が湧いた.地方国立大学はどこも(前期日程,人文系で)倍率が2倍ちょっとのところで揃っている.上位の大学になると3倍くらいのところで揃っている.年度によって多少の増減はあるだろうが,数字は割と安定しているように思える.そうなるように,各大学には志願者が「配給」されているのではないか? いいかえると,私大であれば個々の大学が経営体として判断して競争しながら入試をするのであるが,国立大学の場合は国立大学であることによって上記のような志願者が全体システムとして調整されるようになっている,ということである.だから特段に(平均すれば)倍率が高くなることもなく,低くなることもないのではないか?

特定の国立大学への志願意識は生じにくい

 今の大学入学共通テストが「共通一次試験」として始まって以来,国立大学入試は私が受験生だった頃とは大きく変わった.合否は共通テストと個別試験の点数で決まるが,共通テストについては受験者は事前に自己の成績を把握し,その上で合格可能な国立大学を選んで受験する.個別試験の成績は「賭け」になるけれども,基本となる共通テストの成績が分かっている分だけ,リスクを低減させて受験する.
 先般,文科省が入試改革と称して共通テストに論述式などを導入しようとして挫折したのは,論述式などによって自己採点の正確性が担保されず,リスク低減に支障があることを生徒・学校側が嫌ったからである.
 実際に志望大学を受験生が選択するのは共通テストの後である.となると,特定の上位大学(東大や京大)をあくまで目指す人は別にして,事前に特定の大学を志望するという考えはおきにくい.国立大学は受験生にとって互換的なのである.共通テストの後に各受験生には,予備校による合格判定が配られる.その判定を見て適度な大学を選ぶだけのことである.入試の方法はどの国立大学も似たようなものであるから,自己の共通テストスコアからして可能な大学を選ぶだけのことになる.

国立大学には志願者が「配給」される

 一方で上記のような入試方法の類似性があり,他方で,多少の凸凹はあるにせよ,教育と研究で似たような実績になるように文科省から指導されている結果として,志願者が継続的に少ない国立大学がある場合は志願者が流れて来るようなシステムになっている,と考えるべきだろう.ガチに競争してどこかが潰れるということがないように,温情的なシステムになっている.そういう意味では,地方国立大学は相互に競争している面もあるけれど,結果として似たような倍率を確保できる結果になっている.例えば埼大教養学部は全国から毎年,判で押したように,平均的には300名ちょっとの志願者を集めている.この一貫性は考えてみれば驚くべきことのように思う.この結果はいろんな受験指導者による指導が組み合わさって出来上がっている,ということだろう.受験関係者の「集合知」によって(つまり結果として),この結果が生じるような体制が全国的に出来上がっている,としか考えられない.だから各地方国立大学にとって志願者は,競争して獲得するというより,上位大学,平民大学(地方国立大学)別に,この親方日の丸体制によって「配給」されているようなものなのではないかと思う.
 例えば鳥取県の人口は埼玉県の13分の1程度であり,高知県の人口は埼玉県の11分の1程度である.だからこれらの大学で志願者が確保できるのは,考えようでは不思議でならない.けれども,周囲の県から,例えば鳥取大学であれば人口の多い兵庫県から,鳥取県より多くの志願者を得ている.一般に周辺の県から志願者が流れてきて,どこの国立大学も穏便に,似たような倍率を達成できる,ということなのだ.むろん個別には特殊な事情があり,苦労されている地域の大学もあるが,大勢では学生確保は何とかなっている.

この親方日の丸方式が崩れるとき

 入試におけるこの親方日の丸方式は,むろん崩れる可能性はあるのだと思う.私の素人考えでは,常識論であるが,次の2要因が考えられる.
 第1は18歳人口の減少である.あと20年もすれば18歳人口は2割程度は減少する.進学率が同じで国立大学志願率も同じと考えると,この人口減少によって志願者減が危惧されるのは,上位大学より地方国立大学だろう.受験者人口が減って競争が弱まれば偏差値レヴェルでより低い層が上位大学を受験するだろうが,志願者が少なくなる訳ではないと思う.しかし上位大学志願を除く地方国立大学志願者は減って行かざるを得ない.だから18歳人口の減少の影響を倍率面で強く受け,実質的な選別が出来なくなる可能性があるのは地方国立大学であると考えるべきだろう.
 第2の要因は受験者層の中で国立大学志願率が今より減って行く可能性も考えられる.まず,大手私大の場合は似たような学部が複数あって,受験できる学科が複数あり得るので,何れかの学科に合格できる可能性は比較的高く,志願対象になりやすい.しかし国立の場合は,基本的には前期と後期日程の2回しか機会がなく,後期の場合は可能性がそもそも低い.そう考えると,国立大学志願というのは,戦略としてリスクが高い.だから初めから私大志願にする傾向は今後も強まる,という可能性はあるだろう.さらに,今後は大学生への経済的な公的支援が高まることが考えらる.それ自体は良いことだが,経済的支援が高まることは,相対的に国立大学を志願するメリットが現在より小さくなることを意味している.
 だから,国立大学の中でも地方国立大学が,その存立基盤が危なくなる可能性が高いと考えるべきだろう.
 大学は教育だけではなく研究もしている.しかし地方国立大学の場合は教育面,特に学生が確保できるかどうかで将来のあり方が決められるような気がする.受験者人口が減ったとき,地方国立大学は競争によって潰れる大学を出すことになるのか,あるいは,全体が並んで規模を縮小する道を選ぶのか? 規模を縮小する場合,一部の部局だけを残すことになるのか,全体が現状の比率で縮小させるのか?といった点が不安な要素になるだろう.
 私は早めに大学間の統合の計画を考え,然るべき規模と分野を持った大学の将来像を模索した方がよいと思うが,そのような展開になれるかどうかは,何ともいえない.

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教養学部の入試倍率

 この1/24(月)~2/4(金)が国立大学の学部入試の出願期間だった.この時期になると私は気になって埼大サイトで教養学部の出願数を確認するのが常になった.今年も出願期間中は毎日出願数を確認していた.
 文科省は2/4の午後の時点で,全国の国公立大学の出願数を公表している.ただ,その時点での出願数は確定値ではない.2/7の現時点でもまだ確定とはいえない.理論上は今後も多少の増減はある可能性がある.しかし2/7の公表値を使って問題なかろう,と考えて以下を書き進める.また,主に問題にするのは主日程である前期入試である.後期入試については,定員が少なく年度によってブレが大きく倍率が安定しない面がある.

 今年の教養学部の前期日程の出願数は(2/7公表時で)294名であり,倍率は2.55だった.昨年度は2.42だったので少し改善した.しかし昨年度はコロナ禍で地方回帰がささやかれ,しかも理高文低傾向であり,今年は文系が好調という前評判があったので,もう少し上がっても良かった気がする.
 下のグラフは,2015年度から今年2022年度の8年間での教養学部の前期倍率の推移を表す.周期的な上下があるような気もするが(推定で周期性は検定できる),その上下の範囲内に今年の数字も入っているといえるだろう.ただし,2015-2021年の7年間の平均値は2.73なので,わずかに今年は悪い方ではある.
220207fug1  

図1:埼大教養学部の前期入試倍率の推移

 ただし,この2.55(2.6)という倍率は,横並びで考えると「こんなもの」と考えるべきである.下の表は埼大教養学部と類似した国立大学文系学部の今年の前期倍率(2/7で公表の数字)をまとめている.まあ,大体は埼大教養学部と同じくらいといえる.ただし,埼大教養学部は,人口が多い都会の地域にある割には,特段良くもない.
 なお,下表の中では宇都宮大学の国際学部だけが4.6倍と突出して高くなっている.しかし同学部は昨年度は半分の2.3倍だった.募集定員が40名と小さく,何らかの偶然的に事情で多くなったものと思う.むろん,宇都宮大学国際学部は実によく頑張っている学部である.

表1:類似学部の前期入試倍率(地方国大)
220207table1  

 参考までに,埼大教養学部よりちょっと上の同類学部の倍率を次の表に示す.上の表にくらべ,平均的に少し倍率が高い.この「少し」が実は越え難い格差を表すのだろう.

表2:類似学部の前期入試倍率(上位大学)
220207table2

 出願期間中に出願数の累積数がどのように変わったかを次のグラフに示す.例年の癖で,参照点として千葉大の文学部と国際教養学部も一緒に観測していた.
220207fug2  

図2:出願期間中の累積出願数の推移

 このグラフで気が付くのは,千葉大の両学部のグラフがズレたことである.これまでの何年かは,千葉大の文学部と国際教養学部のグラフはほとんど重なり,両学部の倍率は申し合わせたように近い数字だった.今年は国際教養学部の倍率が文学部に比べて低かった.理由は分からない.
 最初の1週間の推移では,埼大教養学部と千葉大の2学部との違いはほとんどない.しかし週明けから千葉大の2学部は倍率を伸ばした.私もこの経過を見ながら,週明けに埼大教養学部の倍率が伸びないな,と思った.週明け直後の時点では,埼大教養学部の倍率はもう少し伸びると私は予想したけれど,2週目にあまり伸びなかった,というのが実感である.

 ここまでの結果を見ると,埼大教養学部は「何かをすべきだ」と考えるほどひどくはない.が,「このままで大丈夫だ」と考えられるほど良くもない.なんとなく中途半端な結果だな,このまま生殺しかな,などと考えてしまうこの頃である.

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上位大学優遇は合理的なのか?

若手研究者支援における大学間格差

 このブログで最近,政府による若手研究者への経済的支援策を実施していることを書いた.具体的には,若手研究者(標準は助教クラスと思う)を対象にした創発的研究支援事業,博士後期課程学生を対象にした大学フェローシップ創出事業と次世代研究者挑戦的研究プログラムである.若手研究者を支援することは重要なことであり,まだ不十分と思うけれども,今後の日本の科学技術を補強する上で必要な措置であると評価すべきだろう.
 ただ気になったのは,これらの支援において大学間の階層性が非常に明確だったことである.上位大学がその支援資源において多くのシェアを占めている.具体的には指定国立大学法人が,創発的研究支援事業(2回目)とた大学フェローシップ創出事業で56%,次世代研究者挑戦的研究プログラムで58%のシェアを占めていた.シェアの数字がプログラム間で一貫しているので,フェアな査定をしたというより,指定国立大学法人の受け取るシェアが予め決まっているのか,という印象さえ受ける.対して地方国立大学は一貫してシェアが低い.
 例えば,次世代研究者挑戦的研究プログラムの受給対象者(予定)は,東大で600名であるが,埼大と並びになると思えるところでは,信州大が25名,群馬大が14名,島根大が12名である.埼大は申請していないようなのだが(なぜ?),信州大などの数字を見れば,埼大は取れてもせいぜい20名くらいだろう,と思う.

東大と埼大ではこんなに違う

 しかし,指定国立大学法人は当然,院生数が多い.だから院生を対象にした支援であれば受給者は自動的に増える,というだけなのかも知れない.
 そこで,東大と埼大の学生数の内訳を確認してみた.次の表である.数字は2021.5.1の数字から取った.

220124

 分かっているつもりだったが,あらためて数字を見ると埼大と東大の違いを思い知る.学部生だけからすると埼大は東大の半分近くある.東大は大大学であるから,埼大も学部生ではかなり大きな大学といえる.しかし東大の場合,院生の数は学部生数とあまり変わらない.院生率(=院生数/(学部生数+院生数)x100)で48.7%である.大学院重点化したのであるから,このくらいの数字なのだろう.対して埼大は院生数は東大の1/9であり,院生率は18.2%である.埼大でも大学院重点化ごっこはしているけれど,学部生中心の大学であることは明かなのだ.
 さらに,院生数の中で博士後期課程の学生数が占める比率(博士後期率)は,東大の場合は45.1%であり,修士/専門職課程と博士後期課程の比重はほぼ同じなのである.埼大の場合,博士後期率は18.0%であり,修士中心の大学院であることが分かる.東大の博士後期課程学生数は埼大の22.5倍である.
 ここで先述の次世代研究者挑戦的研究プログラムの受給対象者数の例に戻ろう.東大の場合,対象者数は600人だった.埼大は申請していないのであるが,申請して通れば,私の丼勘定では20人名くらいだろう,と書いた.博士後期課程学生数は東大が埼大の22.5倍であるから,学生数に比例して受給者数を決めるなら,東大が600人なら埼大は26.7人になる.つまり20よりは少し多くなるべきであるけれど,諸般の事情を考えると埼大で20人というのは仕方ない,まあフェアな数字ではないか?という気がする.
 というか,実態を考えると,埼大で20人分の枠を確保できたとすれば,東大に比べて埼大が優遇されたと考えるべきではないか?

追記:埼大の大学院重点化

 埼大では理工が田隅学長時代に大学院重点化をした.理工の先生方は大学院教授を称するようになったのである.理工で院重点化をするという話を私は加藤先生から伺った.私は,えっと思った.加藤先生の言では,大学院教授を名乗らないと理工は他と張り合えないといっている,という.私はへぇ~と,冷ややかに眺めたのを覚えている.
 国立大学が法人化する直前辺りに,10くらいの上位国立大学が院重点化を行った.そのときは予算措置がつき,当の大学は財政的に豊かになった.その後,予算は付けないけれども院重点化を称することを文科省は止めなくなった.
 後に山口先生が学長になることが決まっていた段階で,教養学部も人社研として院重点化をすることになった.山口先生も大学院重点化に思い入れがあったようであるが,私はやれやれと思ったものである.この程度の院の学生定員でよくも院重点化などといえたものだ.ただ,大学院教授と名乗ることになったことを喜ぶ同僚もいた.
 ほとんど詐欺だろう,恥ずかしくないのか,と私は思っていた.
 私が退職するときは,だから大学院人社研教授だった.どうも馴染めないなぁと思ったものである.

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次世代研究者挑戦的研究プログラム

 1つ前の記載で「科学技術イノベーション創出に向けた大学フェローシップ創出事業」を取り上げた。その事業は文科省が行っている。が、別途JSTが「次世代研究者挑戦的研究プログラム」というのをやっており、博士後期課程学生に対して経済的支援をしている。上位の国立大学は両方に採択されているので、支援を受ける範囲も大きいと思う。(埼大は両方に入っていないようなので、早めに対応しないとまずい。)
 少し前に「創発的研究支援事業」という話題を取り上げた。この事業は若手研究者、多くは助教クラスの研究者を対象としていたと思う。それに対し前の2つの事業は博士後期課程の学生を対象にする。だから最近、若手研究者に対してはいろいろ経済的支援をする枠組みが出来て来た、と考えるべきだろう。

次世代研究者挑戦的研究プログラム:https://www.jst.go.jp/jisedai/index.html
A日程選考結果:https://www.jst.go.jp/pr/info/info1519/pdf/info1519.pdf
B日程選考結果:https://www.jst.go.jp/pr/info/info1542/pdf/info1542.pdf

 今年度のA、Bの両日程を合わせて、支援を受ける博士後期課程の学生の総数(予定)は5,811名のようである。暇なので、1つ前の記載と同じ大学の分類で採択学生数の比率を出してみた。次の図である。

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 見れば分かる通り、大学種別ごとの比率の分布は「大学フェローシップ創出事業」での比率とよく似ている。ちょっと笑ってしまいますねぇ。ちなみにいうと、主として地方国立大学である「その他の国立大学」(22大学)の採択学生数が計453名なのだが、東大だけで600名なのである。しかも東大の、この切りの良い数字は何なんだ。
 1つの事業だけで見ても指定国立大学法人は厚い援助を得ているが、実は2つの事業で2重に手厚く支援されている。より詳しく見るならばさらに手厚く遇されているはずである。前の記載同様に、シラーっとするというしかない。

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大学フェローシップ創出事業

 最近、「科学技術イノベーション創出に向けた大学フェローシップ創出事業」という代物が文科省から出ていることを知った。博士後期課程の学生の経済的支援策の1つのようである。学生がフェローに採択されれば結構なお金が支給される。が、学生個人が文科省なり学振に申請するのではなく、学生を支援する大学を選択する格好になっている。
 フェローシップはボトムアップ型と分野指定型に分かれ、後者の分野とは情報・AI/マテリアル/量子の3つである。分野指定は明らかに理系であるが、ボトムアップ型で文系(人文・社会系)も理論上は入る。ただキャリアパスの整備が入っているので、官民の研究所勤務のある理系に比べ、文系では難しいだろう。そもそも名称からして文系学生は心理的に排除されている。
 令和3年分の採択結果が次のように載っていた。
https://www.mext.go.jp/content/20210224-mxt_kiban03-000013022_1.pdf
 採択された学生は総数で1,065名、うちボトムアップ型が36%、情報・AIが25%、マテリアルが24%、量子が14%である。たぶん、文系はほとんどいないだろう。
 採択学生数を大学種別でグラフ化したのが下図である。

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なお、大学種別のうち、「上位国立大学」とは支援③の国立大学を指す。「その他の国立大学」はほとんどが地方国立大学である。この前このブログに書いた「創発的研究支援事業」の大学種別によるシェアと酷似している。指定国立大学法人と国立上位大学が中身のほとんどを占めており、地方国立大学は、大学数は多いものの1大学当りの学生数は少ない。
 指定国立大学法人など、上位の国立大学の取り分は予め決まっているのではないか?と考えたくなる。またシラーっとした気分になった。

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大学の授業料は実質値下げになっていく?

コロナ禍での学生支援

 私の家には埼大のニューズレターが時折送られてくる.ざっと眺めて埼大の最近の状況を把握するのによい.コロナ禍以降は困窮学生に対して支援金を出すとか,学食で安い食事を提供するといった大学側の試みが紹介されているのが目立つ.むろん結構なことである.同様の学生支援は全国の国公私立大学で行われているように思う.いろんな大学が,OBなどからの寄附を募って困窮学生への支援を行っている.
 実は私は,コロナ禍に対応した,こうした学生への補助的支援が,これほど長く続くとは思わなかった.コロナ禍が当初の想定より長く続くのと同様に,大学のコロナ禍支援も思ったより長く続いている.素朴な疑問として,これ,ずっとやるんだろうか?と思ってしまう.コロナ禍がキッパリと終わる,その区切りはハッキリするとは限らない.だから,止めるタイミングを見つけるのは難しい気もする.
 そういうと冷たく映ると思うが,困窮者への支援は社会政策であり,大学は研究教育機関であって社会政策のための機関ではない.だから大学が困窮学生に行うというよりは,国なり自治体が学生と否とにかかわらず行うべきことではないのか,と思う.はっきりいって,大学周辺にも,学生以上に,食事に事欠いている児童は実は結構いるだろう.私の住所付近には困窮児童の例がよくあるらしく,篤志家的に何とかしようとしている商工会議所の方もおられる.

学生確保の競争という背景

 ただ,大学がこうした学生支援を行うのは,単にコロナ禍だから生じていることではないかも知れない,と思うこともある.
 学生に対して大学が財政的補助をすることは,学生側が払う授業料からキックバックすることと見ることができる.キックバック分があるということは,形式的に授業料は同じでも,実質的に授業料を(その学生に対して)値下げしていると見てもよいだろう.
 確か2000年より少し前,国立大学の法人化が決まる頃のことと思う.埼大の政策科学系の先生が当時の経済企画庁で教育経済学の研究会に参加しておられた.その先生から立ち話で聞いたことなのだが,教育市場が競争的であれば,大学の授業料は3~4割り下がるというシミュレーション結果だったという.そのシミュレーションがどういう前提で計算したものか,設置基準も緩和する前提だったのかは分からない.が,原理的には,市場が競争的であれば大学の授業料は下がるということだったようだ.
 大学は文科省による護送船団方式のままであり,今も競争的ではない.例えば文科省は設置基準によって参入障壁を作っており,海外大学の参入をブロックしている.コロナ禍でもオンライン授業による単位数の規制を緩和しない.もしオンライン授業の規制を緩和すれば,例えば海外大学が日本で大きなキャンパスを持たなくても日本の大学市場に参入しやすくなるだろう.
 という訳で授業料が安くなることはないのであるが,現下の受験者人口の減少の中では大学間の競争は生じて来る.だから授業料を低くする誘因は存在するだろう.
 比較的最近,私大の中には独自の奨学金(ないし授業料減免)の拡充を謳う動きがあった.対象者は低所得層の中で成績が良い学生であったと思う.大学の出口で実績を出そうとすれば,良い教育をするよりも優秀な学生を確保する方が早い.だから出来る学生に給付を与えるのは合理的である.その支援の金額分を全員の授業料の引き下げに使っても目立った引き下げにはならないから,ターゲットを絞って財政支援をするのは賢い.しかし,金額は小さいが,こうした措置は平均的には授業料を安くする方向の措置なのである.
 
学生支援の拡大はあるのか?

 コロナ禍は学生への大学による財政支援を拡大するきっかけになったろう.特に,設備費などの名目で授業料以外の料金をとっている私大である.コロナで登校できず,設備も使えないのだから設備費を返せ,という運動があちこちで起きた.むろん,案の定,大学は返金には応じなかったが,代わりに若干の財政援助をする破目になった.
 国立大の場合,設備費などはとっていないから,私大のような援助をする必要もないかと思えた.が,意外といろんな国立大学が,一生懸命お金を集めて学生への支援を競った感がある.よくやったなぁ,偉い,と私は思う.
 最近起こった学生への支援は,コロナ禍が終わるとやめることになるのか,続くのか,という点は見物だろうと思う.私は続くような気がする.背景として,学生確保の競争状態に徐々に入って行くからである.
 もし背景に学生確保を巡る大学間の競争があるなら,これから,学生支援はより拡大することになると思う.大学は一生懸命に寄附を集め,あるいは大学の経費を節減して,学生支援に回す時代になるかも知れない.大学によっては教職員の給与をカットしてでも学生支援をすることになるかも知れない.(以前,キリスト教精神をもってボーナスを学生のために拠出させた大学もあった.)

あるべき姿

 どうあるべきかの私見を述べるなら,大学が個別に学生への財政支援を行うのは,程々にしておいた方がよい,と私は思う.緊急避難的な一時金の貸与・給付は常に行ってもよいが,原則として大学は社会政策を業とする機関ではないからである.そして,社会政策を個別の大学がやってしまうことは,社会の設計のあり方を曖昧にしてしまうような気がする.
 望ましいのは,経済的に苦しい学生には政府から給付型の奨学金が行き渡ることである.その財源は教育国債によるしかないだろう.だから国大協などは率先して,教育国債による下層学生への奨学金拡張を提起すべきなのだ.大学で集めたお金は教育研究事業に使うべきだろう.
 私が学生なら,100円ランチなどより,ちゃんと授業料の減免をしろよ,と思うだろう.

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創発的研究支援事業 2回目

 JSTが募集をした創発的研究支援事業の2回目の採択結果(2021年度)が先日公表された.理系の若手を対象にした事業と思う.研究者がこの事業に採択されると長期的に支援が期待できるようである.2020年度の募集の結果は以前にこのブログで取り上げた(http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2021/02/post-642227.html).今回が2回目である.どちらも倍率が10倍程度であり,若手研究者にとっては魅力があるけれども競争は厳しい.
 この2回目の採択結果は前回1回目と同じような感じだった.

採択状況

 採択259件の所属機関の上位をあげると次の表のごとくである.採択件数が2以上の機関を表にした.

                                          表:採択件数の機関ランキング
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 採択が多い順番で1位の東大から8位の九大までは,すべて指定国立大学法人である.東大の採択数は全採択数の1割以上になる.指定国立大学法人のうち東京医科歯科大学は採択件数が2に留まっているが,単科大学なのでしかたないのだろう.もう1つの指定国立大学である一橋大は,文系大学なので採択はゼロである.
 次のグラフは機関の種別の採択数シェアを表す.指定国立大学法人の10大学だけで全体の56%を占め,指定国立大学法人以外の世界型の国立大学(法人支援類型が③)をあわせると,全採択の2/3ほどになる.私大の比重は1割に満たない.東京都立大を含めて公立大学は影が薄い.多数の地方国立大学は11%に過ぎず,全部合わせても東大に及ばない.

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                           図:機関種別ごとの採択数のシェア

なお,「他の③」:北大,広島大,千葉大,神戸大,岡山大,東京農工大,金沢大
   「研究機関」:理研,産総研など

 なお,埼玉大学は1回目の採択時と同様に1名の採択者を出している.通算で2名の採択者を出しているのは,地方国立大学としては健闘したといってよい.

日本の大学の状況の縮図

 以上は露骨な結果だった.日本の大学の状況の縮図といってよい.
 日本の命運を握る(理系の)研究面でいうと,重点化大学(現状の指定国立大学法人)は主となっており,地方国立大学のプレゼンスは残念ながら低い.
 公立大学は地域の人材育成をしている建前であるからよいのであるが,東京都立大学を含めて,研究上の存在感は低い.大阪府立大学と大阪市立大学が統合すると規模では阪大より大きくなるが,研究面では阪大に遠く及ばない,という話があったことを思い出す.公立大学と地方国立大学はある意味で似ているのかも知れない.
 私立大学は,トップの慶応,早稲田が国立の③の大学に並ぶくらいである.文系が多いこともあって,研究面での私大の存在感は学生数に比べると小さいのが現状なのだろう.

この配分でよいのか?

 この研究支援の応募要項を見ると,現状の制約の中で合理的な選考が行われているように思う.申請者の分野の専門家による面接を経ているので,お手盛りでやっている訳ではない.
 ただ,たぶん審査する側と近しい申請者が採択されている,という結果にはなっているだろう.審査に贔屓が働くことがあるのか,贔屓はなくても上位大学の申請者が受け入れられやすい自己呈示ができる,ということがあるのか? その辺は長期的な調査を経ないと分からないことのように思える.
 さらに,研究支援の資金配分をこのように「競争的」に決めるのがよいのかどうか,という点も私には分からない.例の10兆円の研究ファンド,という件で安倍政権の中で推進側だったらしい高橋洋一氏は,「選ばずにばらまけ」と何度も発言している.どのような研究が成果に繋がるかは分からないのだから,考えても仕方ない,人を選ばずにばら撒け.というのである.ばら撒くということは,以前の,運営費交付金として国立大学の研究費を配分していた,その方式に近い.実際,競争的に配分を決めて,その結果がどうなのか,果たして研究の良し悪しを事前に判定できるのもなのか,その辺が怪しいと思えば,バラマキに戻した方が結果が良いのかも知れないな,と思う.

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地方国立大学,帆高の祈り

 新海誠監督の劇場用アニメ『天気の子』は家出少年の帆高(ほだか)を主人公にした作品である.映画の後半で帆高は,少女の陽菜(ひな),その弟の凪(なぎ)と一緒に警察から追われ,ラブホテルに泊まって一瞬の安息を得る.そのときに帆高の,次の有名な台詞が独白として入るのである.

《もしも,神様がいるならば,お願いです.もう十分です.もう大丈夫です.僕たちは何とかやっていけます.だからこれ以上,僕たちに何も足さず,僕たちから何も引かないでください.神様,お願いです.僕たちを,ずっとこのままでいさせてください.》

 オタク王の岡田斗司夫の動画によれば,この台詞は新海監督がバカな観客をここで泣かすために入れた,実際,岡田斗司夫と一緒に映画を観ていた周辺の女子中学生はここでみんな泣いていた,という.私の意見では,この台詞の場面はまだ入り口であり,ここから先にもっと泣かせる場面がある.
 この「帆高の祈り」が念頭に浮かんだのは他でもない,「指定国立大学法人」のことを考えたからである.

 今から4年前(2017年)にこのブログで「指定国立大学法人」という題の記事を載せた.が,なぜか,つい最近その「指定国立大学法人」へのアクセスが続いたのである.何年も前の,しかも(確認してみたが)大したことを書いていない記事に今頃アクセスが続いたことが不思議だった.
 理由はたぶん,九州大学が最近,指定国立大学法人に選定されたためだ,と気がついた.確か昨年,指定国立大学法人に筑波大学は採択されたのに九大は落ちた.九大はかなりショックだったろうが,ニュアンスとしては「来年通すよ」だったと思う.そんな中で九大は何とか計画をさらに詰めて,今年の採択に漕ぎ着けた.
 そういっては悪いが,旧帝の中では九大と北大がビリ争いをしている.雰囲気的には九大の方が良いから,九大が入ったのはまあ順当なのだ.これで北大が一人取り残されたことになる.これから死に物狂いの北大の逆襲が始まるのだろうな,と思う.指定国立大学になるには大学のガバナンスの点で左翼が嫌がるかも知れず,全大協の強い北大でどうか,とも思うが,一人だけ落ちたままには出来ないから,全大協を蹴散らしてでも指定国立大学法人を取りに行くだろう.第4期中期における指定法人の「追加」という線かも知れない,と勝手に思う.

 埼大のように法人支援形態が①の大学は関係ない話なのだ.だから4年前に書いたように,こうも何度も何度も,上位大学と下位大学を区別する儀式を,これほどまでにくどく繰り返さないでくれよ,というのが私の中の自動的な感情である.
 しかしもし,基礎となる数字が揃っていて,もしかして挑戦するチャンスが(できる訳ないが)できたらどうであろうか? あえて挑戦するであろうか,ということも考えないではない.
 挑戦する目標はあった方がよい,と私は思う.挑戦があるから整理できない内部の問題も割り切って解決できて次に進める.やれればやった方がいいんでないの?という気分もある.
 しかし,である.現状で埼玉大学で研究ができないということはないだろう.特に文系は.現状で以前のように運営費交付金が下がる訳でもなく,下がっていてもいろんな経路からの研究費は(怠けていなければ)増えているはずである.だったら無理をしないで今のままで実をとった方がよいのではないか?
 確かに今のままでは支援①の大学は地方創生などと,土台無理なことを求められるかもしれない.が,大学に地方創生などできる訳がないのだから,その点はじっとしていればそのままになるしかないだろう.
 一部の人は無理をするべきと思うかも知れないが,普通の教員は上で書いた帆高の祈りではないのか? 僕たちに何も足さず,しかし何も引かないでください.このままでいさせてください,ではないのか? このままで自分のやりたいことをしていればいいんでないの,というのが本音なのではないだろうか.

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大学卒業に4年が必要か?

 日経の特集「教育岩盤」では飛び級,飛び入学が日本では少ない実態にも触れていた.天才的な若者が非常に若くして大学院に入る,といった伝説的な事例を日本ではほとんど見ない.20台で教授になるような例は日本であるのかどうか分からぬが,あっても少ないだろう.実際には日本にも天才的な人は結構いるのではないか,という気もする.
 なぜ飛び級や飛び入学が少ないか? 日本の6・3・3・4制の教育課程では,実質的には,一貫して「履修主義」が採られている.文科省も履修主義を前提に指導しているからであろう,と私は思う.

実態としての履修主義

 公式には,日本の義務教育(小中学校)は「履修主義」によっている.履修主義とは,課程の修了は所定の授業を履修したかどうかで判定し,履修した成績にはよらない,ということである.つまり授業に出ていればよい.だから「落第」は,あるとすれば授業日数の不足によるだけである.高校になると,少なくとも単位制をとっている高校では「修得主義」になる.ただ,単位制をとっていても規定の就業年限(3年)での卒業が通例であり,実質的には履修主義と同じであるのが実態だろう.
 大学は,建前は修得主義のはずである.しかし実態はほとんど履修主義によっているといってよいだろう.実は,日本の大学は義務教育とは異なる建前を持ちながら,微妙に義務教育と同じ履修主義で運営されているのではないか?と思う.
 そもそも,大学が修得主義なら修業年限を4年などと決める必要はない.学生は必要な単位を取得し,単位が揃ったところで卒業する.だから,標準4年を想定した課程であっても,4年を越える期間をかけることもあれば,4より早く卒業できることもある.米国の大学などはこのような修得主義であろうと思う.
 しかし日本の大学の場合,早期卒業が導入されるまでは学生は4年在籍しなければならなかった.現状でも早期卒業は希であるから,小学生が小学校に6年在籍するように,大学生は普通,4年在籍する.4年を過ぎた留年が生じてはじめて,「単位が揃ったところで卒業する」という本来の修得主義に戻る.
 文科省は大学に対し,履修主義の小中学校を指導するような指導を行っている.例えば文科省は学科別の学生定員管理を大学に強く求める.具体的には入学者数が学生定員の人数から外れるとペナルティをかけている.この定員管理は入学者定員には限らない.例えば教養学部が3年次編入試験をする際にも,当該学年の学生数が学生定員から外れないように調整しないといけない.また,卒業者数も学生定員から離れない(留年者が少ない)ことを求めている.つまり,全ての学年について学生定員付近に学生数が収まることを求めている.そのことは,履修主義の小中学校と同じように,入学させた学生はそのまま進級させて卒業させろ,ということである.

大学の履修主義のもたらす効果

 履修主義には良い所がある.例えば小中学校に修得主義を適用できるかというと,難しいことはすぐに想像できる.修得できない生徒は多数に上り,彼らを進級させないとすれば学校現場をどのように収拾できるか? 履修主義でないと整然とした学校運営はできないだろう.履修主義は一面で修得していない生徒の存在を容認するが,それでも日本の小中学校が外国に劣ることはないはずであり,有能な人材を上の学校に送り出すことにも成功していると思う.だから履修主義でよいのである.
 大学における履修主義も同じことがいえるだろう.実質履修主義であることで,大学教育という人材育成工程のプロセス管理は少ない不規則性で制御されている.小中学校と同じように,学生はある年の4月にまとまって入学し,学生の多くが4年後の3月にまとまって卒業する.この安定感の上で学生も自分の学生生活を設計しやすくなる.
 しかし学生を自動的に進級させることを想定する履修主義では,学生を勉学に向かわせる誘因は低い.高校までなら上に進学するという圧力があるから履修主義の下でも勉強するが,同じ圧力は大学では低い.だから大学では成績が悪ければ不可をつける,落第させることが理想であるのだが,履修主義の下で学生を落第させることが出来なくなっているのである.
 おそらく,大学では概して成績は甘くなり,できない学生にも単位は出ているだろう.ちなみに,私は埼大在職中に,本来の採点をすれば受講生の少なくとも半分には不可を出すべきだったが,実際にはほとんど不可を出していない.ちゃんと数値で粗点を出せる形式の授業に限っていうと,受講生の粗点の平均は100点満点で50点行かなかったと思う.ゲーム理論の授業でいうと,粗点の平均は20~30点だった.その粗点を線形変換して提出用の点数を出し,不可は極力抑えた.が,単位を出している受講生の平均的な答案を考えると,ちゃんと理解しているとは実は言い難い.
 学生はほとんど勉強はしておらず,簡単に単位を取れている,と私は思う.実際,私が学生の時も,まじめに聴いていた授業は履修中の授業の中で1つか2つだったろう.
 また,私の教養学部での記憶では,CAP制(登録授業数制限制)が導入される以前は,多くの学生が3年次の前半で卒論以外の卒業単位をほとんど取れていた.また,卒業時にやたらと取得単位が多い(例えば180単位)学生もよくいたように思う.
 だから,CAP制が導入される以前なら,学生は普通にやっていれば,卒論を含めて,教養学部を3年で早期卒業できたはずである.
 CAP制に相当する制限は米国の大学にもあるから仕方ないだろう.しかし本来はCAP制の存在は変だと私は思う.もし多くの授業を同時に登録して単位が取れてしまえば,多くを登録して何がまずいのか? 問題は勉強しないでも単位が取れてしまう授業のシステムにあるのであり,授業がしかるべき難易度を持てばCAP制など存在する必要はないのである.
 授業の単位を学修時間の長さに関連づけることも,大学が履修主義に基づくことの1つの表れであるように私には思える.授業の1単位につき45時間の学修,という条項が埼大の「単位修得の認定に関する規則」に入ったとき,全学の会議で私が「何でそんな下らないことをするのか?」といった覚えがある.時の山口学長はお怒りになった.その時は大した議論はしなかったが,1単位を学修時間と結び付けているのは大学設置基準であり,同様の規則が米国にあることも存じている.しかし,そりゃぁ授業を設定するときの目安として書いているだけであり,実際の学修時間を問題にしていると考えるのは馬鹿げている.頭が良ければ学修時間は短いし,逆なら長いだろう.時間をかけるかどうかは本質ではなく,肝心なのは学生が理解を達成したかどうかである.時間そのものはどうでもよく,どの程度の達成があったかを測定すべきだ,とその会議では申し上げたがダメだった.設置基準という上位規則に書いてあることをわざわざ学内の規則で繰り返すのか,という問題もあっただろう.
 学修時間規程を学内規則に書くことは全国一斉だと思うので,文科省が指示したのだろう.この学修時間主義は,修得ではなく履修していること(=学修時間)で単位を出す履修主義精神の発露なんだろうな,と思う.

教養学部における早期卒業への抵抗

 Wさんが北大文学部における早期卒業の第1号であったという話をWさんの口から伺ったのは,埼大が早期卒業を導入するより前のことだった.Wさんは一生懸命単位をとって卒論もちゃんと書きました,と仰っていた.さすがWさん,早期卒業は是非導入すべきと私は思った.私には,実際は4年かからない程度の教育しかしていないのだから,早く卒業させるのはよいことだ,という発想があった.
 何時かは忘れたが,教養学部で早期卒業制度を導入したのは,私が学部長のときだった.まずカリキュラム委員会で原案を作ってもらったと思うが,カリ委員会に任せたのが間違いだったかも知れない.出てきた原案が「3年で卒業」ではなく「3年半で卒業」であったのを見て「やれやれ」と思った.やはり大勢では,教授会の皆さん,早期卒業が嫌なんだ,と思ったものである.なぜ「3年半」となったかの理屈は忘れた.
 教授会での審議でも早期卒業の導入に抵抗する意見が随分あったと記憶している.〇年の年季奉公が必要だと仰る意見もあったが,合理的な理由があるというより,早期卒業を認めるとしても現状との違いが小さい方が良い,という当時の教授会の感覚の故だったろうと思う.
 卒業する3月に早期卒業であるから,就職活動なども通常の卒業の学生と合わせて行うことができる.しかし3年半で,9月に早期卒業になっても,早めた半年分の使い道がないから(留学する場合を除いて),学生の方も早期卒業を希望しないだろう.
 それでも,早期卒業に手を挙げる学生が1人出た.私が指導する学生だった.その学生は出来が良く,私の授業では受講生の多少にかかわらず常に1番の学生だった.
 その学生が形式的な基準を充たしたので,教授会に出す前にカリキュラム委員会の承認を求めたのであるが,その会議の場で「早期卒業を希望する理由」に対する難癖が委員から出た.オイオイと思った.早期卒業自体が嫌だったとしか思えなかった.
 私が学部長だったので,いろんな段階での抵抗はあったけれどもその学生には早期卒業をして頂けた.それにしても早期卒業という簡単なことにひどく抵抗が出たな,と思わざるを得なかった.
 今,埼大の規則を見ると,早期卒業の時期は次のようである.

教養学部:4年次の前期終了時
経済学部:3年次終了時ないし4年次の前期終了時
教育学部:早期卒業なし
理学部 :3年次終了時ないし4年次の前期終了時
工学部 :4年次の前期終了時

 経済学部と理学部の規程が正常のように思う.4年次の途中でもよいが,3年次終了が自然である.工学部が教養学部と同じだった.メンタリティが同じなのか,授業の要求水準が高いからなのか.教育学部に早期卒業がないのは,上位規則によってカリキュラムががんじがらめであるからだろうと思う.
 話は逸れるが,経済学部の規程の早期卒業要件に「大学院人文社会科学研究科博士前期課程国際日本アジア専攻又は経済経営専攻に進学すること。」とあったのは驚いた.経済学部は院への内部進学者確保に苦労しているのは分かるが,自分の所の院進学を早期卒業の要件とするのは露骨すぎるし,理屈は立たないように感じる.教養学部の「学士・博士前期5年一貫コース規程」は,その点でより洗練されている.

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大学入学に高卒資格は必要か?

 日経に「教育岩盤」という題名のシリーズ記事が出ている.目を通すと結構面白いことが書いてある.大学を中心とした挑戦的な教育のいろんな試みが書いてある.文系科目が出来なかった生徒に東大並みの理工系教育をする大学設置を目指すとか,オンライン授業の比率が卒業単位の半分程度に抑えられている現状とか,秋入学を前提にした一貫校の設置を目指すとか,飛び級,飛び入学が進まない現状とかの話である.言わんとすることは,教育の多様性が望ましいのに,現状が岩盤のように動かない,という点にあるのだろう.
 この特集の意図は好ましいとは思うのであるが,何となくいろんな現象を書き連ねているだけなので私は読みながらイライラ感を募らせた.大学の設置基準,ある程度は学校教育法,そして文科省の裁量的指導によって現在の教育界が保護されており,その結果として教育の現状が岩盤になっているのは明かなことではないか? 論ずべきことがあるとすれば,そのような規制を取り去ったとき生じて来る問題がある世界と,現状の岩盤規制の世界のどちらがよいかを比較検討することではないか? 岩盤規制のマイナス面を記述するというのは,なんとなく芸がないのではないか? と思ったのである.

 私自身はいろんな教育上の規制はほとんど無くてよい,と埼大在職中から思っていた(口にしたことはたまにしかなかったが).規制を外せばいろんな変な事例が出るのであろうが,そこは事前規制ではなく事後評価に委ねるだけではないか?と思っていた.
 例えば,である.現状では飛び入学は例外的な法令上の事例であり,標準的には1年早く大学に入学できるに過ぎない.ただ,例えば1年早く千葉大に入れるだけなら,1年遅れても東大に行けた方がよいと人は考えるだろう.だから1年程度の飛び進学に人が興味を示さないのは自然なのだ.
 というより,大学に入学するのに高卒の資格(高卒認定試験を含む)は必要であろうか? 露骨にいうと,一部の私大文系のように入試に国語と英語しかなければ,合格できる中学生は多いだろう.なら,そういう中学卒の生徒は,希望するなら大学に入学させればよいではないか.家庭の教育費負担も軽減できて親孝行ではないか.上では明かな例として私大文系と書いたが,理大理系でも国立大でも,出来る中学生がある程度の予備校での準備をすれば,高校をスキップして大学に行けるのではないか,と思える.Fラン大学なら有名小学校を受験する幼稚園生でも合格ラインに達するかも知れない.

 現状では,小・中・高校・大学・大学院という人材育成工程プランを政府が持っており,その順の工程ステップを経なければ次に行かせない規制をしている.しかし,この工程を一律に規制で守ることに合理性があるのか?ということである.
 むろん,もし私が大学の経営者であるなら,特殊な大学でない限り,私は入学者に高卒資格を求めるだろう.なぜなら,高卒資格を求めないとすればかなり多岐にわたる入試を実施しないといけない.その労力を負担するコストが高過ぎると考えるからである.
 しかし,私が高卒資格を求めたいのは教養学部のようなアーツ&サイエンスの課程を前提とするからである.いろんな大学があり得ると考えれば,必ずしも同様に考える必要はないだろう.大学によっては,数学さえできれば他はどうでもよい,ということはあってよい.そして,数学力だけを見るなら,入試も実施可能であろうと思う.
 埼大の学生の中にも,ルネサンスと中世のどちらが古いかを知らない学生もいた.ルネサンスと中世というなら,高校以前の中学,いや小学校で習っていたように思う.でも知らない学生もいる,それで問題ないのである.

 私の在職中の最後の頃,文科省は「高大接続」といい出した.時の埼大の学長さんも高大接続で頑張ります的な発言をしていた.しかし内心,私は「高大接続」という言葉が嫌いだった.文科省的には高校と大学を連続した工程と考えるから「高大接続」という.しかし「別に接続していなくても,大学は独立に存在すればよい」と私は考えていた.
 高校と大学が接続しているという発想から,大学入試では高校の学習指導要領外の事項を入試で出題させないことになっていた.しかし入試で何を出題するかは大学の裁量で決めるべき事項だろう,と私には思えた.むろん何が出題範囲かは受験者に知らせるべきであるから,習得しておくべき事項が(もしあれば),表にして事前に知らせることが望ましい.しかし大学のすることを高校の指導要領で制約する必要はない,と思う.

 後で在学期間(学部・院)を定める必要があるか,という点を述べてみたい.私はないように思う.

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京大霊長類研究所解体,マジか?

 京大の霊長類研究所が解体されるという見出しのニュースが流れた.マジかと思った.京大サイトを見ると次の広報が掲示されていた.

https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news/2021-10-26-1

掲載された「霊長類研究所の在り方に係る方向性について」のポンチ絵を見ると,「解体」ではなく「改編」である.既存の分野はほぼ分散されて残る.若干整理される部分はあるが,たぶん実質がない部分だろう.だから研究に影響が出る訳ではなさそうである.ざっと眺めると,管理が開放的になる,ということのようだ.
 最初に指摘された研究費不正については,気持ちは分かるような話であったが,確かに,例えば埼玉大学ならまず事務が許さないようなものだった.そうした不正が起こり得たのは,「研究所」が部局として独立性が高く,全学のガバナンスが効いていなかったためのように思う.今回の改編によって管理がよりオープンになり,ガバナンスが効きやすくなることを狙った改編なのだろう.
 この研究所が高い独立性を持ち得たのは,優れた実績があったためのように思う.過去のパフォーマンスの高さが負の結果をもたらした実例がこの例であるかも知れない.
 多くの大学は,こういう研究所を持ちたいなぁ,と思っているような気がする.

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イノベーション力

 私の家には近所の小学校から学校便りのような1枚紙の文書が定期的に送られてくる.カミさんが民生委員をしていて,その小学校の関係者ということになっているからだと思う.この文書は主に校長先生が名前を出して書いてある.その時々で文科省が標語のように出しているキーワードを持ち上げていることが多い.文科省が「生きる力」といっていた時には「生きる力」云々,「多様性」などと文科省がいっているときにはLGBTアゲの文面を書いていた.最近よく書いて来るテーマは「イノベーション」である.確かにここしばらくは,政府はイノベーションとよく口にして来たし,文科省もいっていたように思う.
 私が離職したときには山口学長であったが,そういえば山口学長もイノベーションといろいろ仰っていたし,文科省に合わせて盛んに文理融合がどうたらと発言されていたように思う.
 学長や校長にもよるかも知れないが,長とつく方は文科省がいっていることをそのまま我が使命と受け取ることが多いのだろう.
 最近送られてきた小学校の文書では,授業研究に小学校として取り組んでいるという紹介があり,よくあるPDCAサイクルで頑張るぞ的なことが書いてあった.その文の直後に,やや唐突に,小学校のモットーを「イノベーション力」にした,と書いてあった.文書には「イノベーション力」という揮毫の写真まで載っていたので,オイオイと思った.
 かつて通った学校のモットーはある程度,私は今も覚えている.小学校は忘れたが,中学校は「力のある人間になれ」だった.高校のモットーは「至誠一貫,堅忍力行」である.大学にモットーがあったかどうかは分からぬが,埼玉大学のモットーは「研け知と技」だった(笑).これらは何れも,モットーらしいモットーだった.
 しかし,「イノベーション力」って,学校のモットーというような代物かい? というか,小学生に「イノベーション」といって,何か意味があるのか? まさかPDCAサイクルでイノベーションだぁ,という訳でもないのだろう.
 成長戦略の関連で日本でイノベーションを起こすことは重要なことは論をまたない.が,イノベーションって,個人の心がけで,イノベーション精神で頑張りましょうという話ではないだろう.イノベーションは個人の精神の問題ではなく,成長の見込みの上に新規参入をし易くして,その新規参入によって引き起こすものである.イノベーションを進めるならイノベーション精神の注入ではなく,規制緩和などの措置を政府がとるかどうかの問題でしょうに.
 ではあるが,小学校の校長先生にせよ大学の学長にせよ,上の方でいっていることを鸚鵡返しにする習性があるのだろう,と思ってやや笑った.

 そういえば,であるが,在職中,私の指導の学生が教育実習をしたときに,実習の総評の席に出席させて頂いたことがある.教養学部の場合,学生は普通,地元の出身校に自ら頼んで教育実習に行く.その場合,実習の評価をする場に指導教員が陪席することを求められることはなかった.しかし今の例は浦和市内(当時)の学校での実習であるから,教育学部の手配で実習に行かせて頂いたケースであったかも知れない.指導した学生を囲んで,教科の社会科の先生方が集まっていろんなコメントをしていた.一人の教育実習生の受入れに対して学校側は相当な労力を払うものだな,と実感した.
 この評価の場は会議室ではなく校長室だった.社会科の先生方が着席していたデスクとは離れた所に校長のデスクがあった.校長デスクの校長先生が「自ら学ぶ」という当時の文科省のモットーを長々と講釈していた.その話は件の学生の教育実習とは関係がなく,社会科の先生方は校長の話が終わるのを黙って待っていたように思う.校長だけ一人浮いていた.なかなかの見物だった.
 私の近所の小学校の場合も,校長先生はなぜか「イノベーション力」などをいうけれど,他の先生方はシラーっとして何もいわずに下を向いている,ということもあるのかな,と想像した.大学の学長の場合も,似たような光景を呈することがあるのかも知れない.
 ただ大学が小学校と違うのは,先端的な研究をすることで産業社会のイノベーションを直接引き起こせる点にある.イノベーションという言葉自体は産業社会のあり様を経済成長との関連で表す言葉であるから,大学のレヴェルではイノベーションではなくより平易に「先端的な研究を目指す」というべきと思うが,イノベーションといって悪い訳ではない.

 第2次安倍政権以降は政府が絶えず成長戦略をうたい,イノベーションといってきた.このことは実は国立大学にとっては順風だった.大学,特に理系に比重がある国立大学を政府が成長の要と位置づけたからである.運営費交付金が増えたか減ったかはともかく,政府から大学に研究費として渡る金額は増え,まだ不十分とはいえ10兆円の研究ファンドも立ち上がった.
 しかし岸田政権になって,成長戦略会議も廃され,今後どうなるかはまだ分からないな,という気がする.科学技術への投資は増やす以外にないと思うのだが,まだ形が見えない.
 これまで,政府の経済運営の方針は「骨太の方針」として毎年6月頃に公表されてきた.骨太の方針が出たのは小泉内閣以後であり,基本的に改革路線をとってきたことの表現でもあった.今後も骨太の方針,ないしそれに変わる方針が出るのか,出るとして,その中で国立大学がどのように位置づけられるかは,国立大学関係者は気にしてよいことのように思える.

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総裁選は学長選と同じかな?

 先日,自民党の総裁選があった.自民党員でもない私に選挙権はないが,どうなるかと思い世間並みに関心をはらって眺めていた.岸田総裁が選出されて新人事が公表されたのがつい昨日か一昨日である.
 ここまで眺めながら,総裁選って大学の学長選と同じかな,とふと思った.

獲得を目指すもの
 総裁選や欧州での連立政権作りは学長選と同じように,形式的には特殊な協力ゲーム(Coalition Game)として位置づけられる.この種のゲームでは分け合う報酬を閣僚ポストと考えることが多いが,実際には「集団意思決定におけるポジション」を争っていると見るべきだろう.そのポジションに付随して役得が生じる.トップを目指す人にとって直接的な動機づけの源泉は総裁や学長にともなう役得だろう.が,支持者グループにとっては政府なり大学において意思決定を有利に導くことを可能にするポジショニングだろうと思う.
 例えば,経済学部出身の上井学長のときには「全学運営会議には経済学部長が2人いる」と(おそらく事務方上層部の誰かが)いっていた.学長を押さえていれば何かと有利なのである.
 大学でいうなら,報酬への選好度が強い部局が学長選に強く関わる.その点では教養学部は学長選には強く関与することは少なかった.教養学部は母体が小さいから自ら学長を出す可能性が低い上に,学長のいかんで学部の立場が良くも悪くもならない可能性が高かったからである.この考えをやや変えざるを得ない経験が田隅学長の就任時におこった.「旧教養部ポストの全学化」という,教養学部に負担の大半を押し付ける決定が大学上層部でなされたことである.この時には,大学上層部には教養学部だけが人を出していなかった.大学内の決定のポジションにおいて決定的に不利な立場にあったのである.
 伝統的に学長選に強く関わって来たのは理工や教育学部だと思う.
 理工はどうしてもお金が要る.既存設備の維持をするだけでも大変だという事情がある.文系とは異なる.交付金以外の予算要求機会には優先順位を上げて欲しいし,大学の予算をどれだけ食おうが,電子ジャーナルを止めるような事態は避けないといけない.
 教育学部は,国の政策にその立場が依存し,従来通り存続できるかどうかが大学の方針にかかっている.特に兵藤学長時代に教育学部包囲網が出来かかったことで,学長を抑えておくことへの関心は強まったように思う.法人化の前後から.教育学部は自ら学長を出すのではなく,学長の与党になって不利益を回避する戦略をとった.その戦略性という点で,教養学部など教育学部の足元にも及ばなかった.

派閥/部局
 総裁選の場合,争う単位はしばしば派閥であり,学長選の場合は部局である.単純には派閥/部局が自分の親分を候補者にして争うけれども,派閥や部局が複数の候補者の間で票を分割させる場合も多い.しかし,強力に動く中心は候補者を出す派閥/部局であり,その中心に他派閥/部局の協力者が集って陣営ができるのが普通である.今回の総裁選の場合,派閥の親分だったのは岸田候補だけだったから,最終的に岸田氏が勝利したのは定石の通りだった気がする.
 私が在職中に学長選の陣営の中に入っていたのは,上井先生を推した2回の学長選だけだった.ちなみに,その2回目より後には埼大で学長選挙は行われていない.
 陣営にいたといっても,私がやったのは自学部内の票の取りまとめくらいであり,微妙なことには関わっていない.ただスキルのある方は他陣営の切り崩しなども行っているから,総裁選と同じようなことは起こっていただろう.
 非常に興味深かったのはその1回目の学長選の折のことだった.そのときは教育学部が独自候補を立てて争っていた.その際,教育学部の切り崩しというか,票の食い込みを図った方々がいたと思うのであるが,私の見たところ何れも失敗している.教育学部は組織が強固であり,私は当時「教育学部は旧帝国陸軍」といっていた.教育学部は不利な条件で戦いをしたのであるが,組織は強固であり,見事な戦いぶりだった.教育学部に比べると教養学部は,良くも悪くも,軟弱文士の寄合のようなものだった.
 総裁選を見ていると教養学部は自民党内の小派閥と立場が同じだなぁ,と思わずにはいられない.教養学部は人数も少ないし凝集性が弱いと見られる.だから票読みの段階で「教養学部はせいぜい35票」という読みになる.存在が軽いのである.

論功行賞
 政争を経て権力が決まる場合,決まった後に勝者(winning coalition)のメンバーがポストで優遇され敗者(losing coalition)メンバーが冷遇される.この点は争って権力を得る場合の必然であり,露骨に見えて嫌でも変えることはできないだろう.
 自民党の総裁選出では,重要ポストは選出された総裁の陣営の議員が重要ポストを占め,誰でもよいポストは広くバラまく.今回の岸田政権の場合,人事を見ると岸田派議員が得た重要ポストの数はそれほど多くない.この点は岸田総裁選出に当たって他派閥の協力が大きかったからだろう.ただ内閣の布陣は一か月先の衆議院議員選挙の後に変わるので,最終的に岸田政権のポストの配置がどうなるかはまだ分からない.
 大学の場合も,選挙の有無にかかわらず学長選出にあたって貢献が最も大きい人がNo.2の理事に就くのが普通である.相対的に重要でないポストは部局間のバランスを考えて振り分ける.埼大では私が存じ上げる法人化後の学長の例(現学長については分からない)ではその通りだった(上井学長の2期目は特殊事情によって変則的).私が知る限り他大学も同様である.
 そう書いていて思い出したが,そういえば,上井学長が1期目から2期目に移るとき,私は学部長の任期が終わるときだったが,何かのポストを提示されたことがある.時間も経っているのでいってもよいだろう.職名はナントカ(忘れた)か「副学長でもよい」といわれた.その場で断った.明らかにやることがなく,権限も有さぬ仕事だったからである.確かその頃私は教養学部のためにグローバル事業の申請準備をしていたので,そんなことに関わりたくなかった.今から思えば,あれって一種の論功行賞だったのかも知れない.
 実は私が提示されたのと同じような仕事が山口学長の初期に存在し,ある副学長さんが兼任で担当した.しかし,経緯は分からぬがその副学長さんは邪険にされ,なぜか消えてしまい,その仕事もなくなった.そりゃ,やることないからそうなるよ,と思った.
 上井学長の時期にしょうもない仕事を担当する名目で副学長さんがおかれたことがあった.そのために学部にも余計な仕事が降られ,私は内心迷惑に思っていた.あの頃の副学長任命は論功行賞か,単にお友だちを近くに置きたかったからか,だろう.
 こう書きながら,もしあの時にその仕事を副学長あたりで私が引き受けていたらどうなったかと,今頃ふと考えてみた.不確実性はあるが,まずグローバル事業の申請は通らなかったろう.また,学長の執行部に入ったから,学長の方針には逆らえず,結果として上井学長期の最後に出てきた「人社研での合併案」には反対できなかったろう.とすれば,私が2度目の学部長になることもなかったろうし,(自惚れかも知れぬが)人社研のシステムが複雑なままになっていたかも知れないな,と思う.ただ,私個人にとっては,その方が自分の仕事ができてハッピィだったかも知れない.

学長選挙をしないのも悪くない

 自民党総裁選の場合,総裁は投票で決める規程になっているだろうから,どのみち投票は行われる.ただ大学の場合,候補者がはじめから1人であれば,たぶん多くの大学で投票はしないだろう.埼大の場合,従来の学長選を闘ったのは上井学長の2期目就任の時(2012年)が最後だった.その後の山口学長就任時は候補者が1人だった.規程上投票はやることになっていたので意味のない投票は行ったけれど,事実上無投票だった.その後,候補者1人の時は投票をしない規程に変わったと思う.現学長選出の際は候補者1人で事前調整されたと聴いているので,投票は無かっただろう.
 投票のある学長選がないと寂しいと思う方もおられる.しかし,事前調整できるなら,選挙無しの学長選考は悪くないだろうと私は思う.
 学内の陣営の持ち票が分かっているという前提で,各陣営が交渉で合意を探るゲームを考えてみよう.このとき,ゲーム理論でいえば,合意が形成できない場合の結果は投票して決まる結果になるから,投票結果が「交渉の不一致点」になる(私の学生の頃は Threat Solution と呼んでいた).合意可能な解の集合はこの交渉の不一致点を前提に決まって来るので,最終的な陣営間の合意は,交渉スキルによって多少は変動するとしても,交渉の不一致点とそれほど変わらない領域になるはずである.投票で自動的に決めない分,最終合意はよりパレート効率化され,各陣営の要求を盛り込んだものになる可能性がある.
 そう考えれば,昔ながらの学長選を懐かしく思う方はおられるだろうが,選挙をしない学長選考は悪いとはいえない.選挙をやってみっともない姿を晒さずに済むことも良いのではないかと思う.

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埼玉大学はコロナ休眠中なのか?

新たな挑戦が外からは見えない

 私の家には埼玉大学の News Letter が定期的に紙で送られて来る.最近は私から埼大サイトにアクセスすることも少なくなったので,埼玉大学の様子を知るにはよい.
 この News Letter を見て思うのは,埼玉大学が新しい挑戦をするという記事がないことである.少なくとも記憶に残っていない.特にコロナ禍になってからは,学生支援で頑張っています,という記事が多くなった.まあどこでもやっていることだし,良いことには違いないのだが,大学が本気でやることではないような気もする.
 あえていうなら埼玉医大との連携協定を結んだことが目立った進展だった.が,協定はポテンシャルであって何かを成し遂げたということではない.何年か前に近くの某大学と共同課程を作るという議論があると聞いたが,その後 News Letter にも載っていなかったように思う.むろん,共同教育学部ならともかく,院の小さい共同課程ならそれほどのポイントにはならない.
 埼大には動きがないな,という感想をこの間に抱いていた.
 実際,このブログでも以前書いたが,昨年出た「埼玉大学変革・発展ビジョン」を見ても,目立った挑戦の記載はなかったように思う.むろん改善は書き込んである.しかし5,6年のスパンで考えるなら,その程度の改善は当然に組み込まれるべきものである.挑戦とはいわないだろう.
 むろん,世間に公表するのは話がまとまった段階であり,今は密かに何か大きな企画が進行中なのかも知れない.しかし多くの大学では,進行中のことでも積極的な話なら何らかの形で外に出しているような気がする.

目立つ挑戦は無意味かも知れない

 ただ,何かを新規に作ります的な目立った企画は実は意味がない可能性もある.そのような所にエネルギーを使うのではなく,まさに研究そのものの推進を埼玉大学は図っているのかも知れない.
 前の山口学長が学長になられた頃,山口学長はリサーチ・ユニヴァーシティを目指すと口にされていた.文脈は忘れたが,学長になられた山口先生に,全学の会議で,埼大はもっと教育に力を入れてよいと思っていると私は発言したことがある.ただ大学の本質が研究であることは正論であり,学長がそうお考えである限りそれでよい,とも思った.
 確か山口学長が全学の会議で,大学支援形態として世界型ではなく地域型を選ぶと発言されたとき,教員側出席者の多くが世界型がよいと発言された.それだけ教員側はリサーチ・ユニヴァーシティを志向していたのだろう.当時理工の部局長だった現学長は,これまで世界型を目指してきたのに残念だ,という趣旨のご発言をされた.経済学部長も地域型になるのは残念,という発言だった.地域型で妥当,と発言したのは教養学部長だった私くらいだったろう(他にいるとすれば教育学部長か).
 それだけ埼大は研究へのこだわりが強いのかも知れない.思えば,私の在職中は,理工の先生は「我々はノーベル賞をとるような研究をしている」と仰っていたことを思い出す.(そんなことはノーベル賞をとってからいえ,と私は心で思いながら口にはできなかった.)

NIADの学部・研究科等の現況分析(教育/研究)ではどうか?

 埼大の研究状況の評価値をどうやって見るか,であるが,簡易に大学改革支援・学位授与機構(NIAD)の学部・研究科等の現況分析(教育/研究)の結果を参照してみた.第3期中期の評価結果である.同じファイルは各大学が,自大学の分を,自身のサイトに掲示していると思う.

https://www.niad.ac.jp/evaluation/research_evaluation/kokuritukyoudou/hyoukakekka_R3/

 まず埼玉大学について.研究評価は研究科別になるので,評価単位は人社研,教育研,理工研の3つである.「研究活動の状況」と「研究成果の状況」の2面につき,全部局ともすべて「相応の質にある」だった.この評価は4値(「特筆すべき高い質にある」「高い質にある」「相応の質にある」「質の向上が求められる」)であり,最下位の「質の向上が求められる」に該当する例は全国にほとんどない.分布はカイ二乗分布のように左に傾斜しており,「相応の質」が53.6%,59.7%になる.だからこの評価では,埼大は悪くはない.でも良いとはいえない.
 教育評価は「教育活動の状況」,「教育成果の状況」の2面からなる.評価単位は学部と研究科である.多くは「相応の質」であるが,いくつかで「高い質」の評価がなされた.「教育活動の状況」で,人社研,工学部,理工研が「高い質」,「教育成果の状況」で教育研が「高い質」になっている.
 こう見ると,NIADの評価では,埼大は教育の方で見込みが大きいように見える.「高い質」になる率は,研究より教育の方が厳しいのに,いくつかで「高い質」になっているからである.
 比較のために茨城大学を見てみた.評価の単位は人社研,教育研,理工研,農研である.人社研と教育研は研究の2面で「相応の質」だった.しかし理工研は2面でともに「高い質」であり,農研は「研究活動の状況」で「高い質」だった.茨大よりダメじゃん,埼大.教育の評価では,「高い質」を結構とっている.特に,理学部は教育活動で「特筆される高い質」,教育成果で「高い質」だった.農学部は,教育活動で「高い質」,教育成果で「特質される高い質」だった.
 ついでなので宇都宮大も見てみた.研究評価を見ると,地域デザイン,国際,教育はみな「相応の質」だった.しかし工学研は「研究活動」で「高い質」,農学部(農学研は共同院)は「研究活動」が「特筆される高い質」,「研究成果」が「高い質」である.地域創生科学研究科は2側面で「高い質」だった.だからまあ,この研究評価では宇大が埼大に勝る.教育評価に目を転じると,結構「高い質」や「特筆される高い質」をとっている.例えば国際学部は,「教育活動」が「高い質」,「教育成果」が「特筆される高い質」をとっている.埼大教養学部は,宇大国際学部に,この評価で負けている.
 さらに,旧帝などの上位大学を見てみると,さすがに,多くが「高い質」ないし「特筆される高い質」になっている.そこは出来レースだと思うのであるが.

埼大はコロナ休眠中なのか?

 以上のようにNIADの評価を信頼するとすれば,研究面で(教育面でも)埼大は高い評価にはならない.では,埼大はこの間,新たな挑戦をしない間に何をしてきたのだろうか? コロナ禍の中で休眠していたのだろうか? 答えは分からない.埼大は突如,温めていた驚きの新企画を発表することになるのかも知れないのである.

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文系問題いろいろ:萩生田大臣の鈴木寛斬り

2015年の「文系問題」

 このブログの1つ前の記事で某部局の小論文入試問題の論評をした.論評した小論文問題は『「文系学部廃止」の衝撃』という本から受験者に提示する文章を抽出したものだった.この小論文問題がどうかという点はおいておくが,この記事を書くうちに2015年に起きた「文系学部廃止」論のことを思い出した.
 2015年の6月に文科省が国立大学に対して組織再編を促す通知文を送った.その通知の中に教員養成系学部・研究科,人文社会系学部・研究科について「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」という文が入ったのである.常識的にいえば理系に変えろということである.この通知は大学,特に国立大学に大きな波紋をもたらした.
 その年の10月に17大学人文系学部長会議が開かれた.その中でこの通知に「強く抗議する」という共同声明を出したのである.念のため,共同声明を末尾に付けておく.

 私はその会議に出ていた.実は,内心,この共同声明を出すことに私は積極的ではなかった.件の文科省通知は変なことをいうとある文科省参与/補佐官から出たことであり,実際に大学で文系をどうするかは国立大学法人の判断に過ぎないからである.波風を立てず,単に無視すればよい,という頭だった.また,その時点で経団連が「我々の考えは文科省の対極にある」という文系支持の見解を公表しており,文科省自体,この通知の火消しをする状態だったのである.ただ,この会議ではある程度の学部長さんから積極論が出て,あえて反対する理由もないので,私も賛同して名を連ねている.
 この通知の「火消し」で文科省は醜態を晒した,と思う.私は学部長会議後の全学運営会議に,この学部長会議の報告文書を資料として出したのであるが,全学,より正確にいえば当時の総務部長が私の文書を資料に入れて残すことを拒否した.その次第は次で書いてあるので,興味があればご覧いただきたい.
http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2017/12/2015-53fb.html
 埼大はこの程度だったが,この声明に深く関与した大学ではもっとすったもんだがあったと聴いている.人文学部長会議も要らぬ声明を出した面もあるが,文科省の忖度役人も「無かったことにする」ためにあちこちの大学で無様なことをしたものだ,と私は思う.

 さて,前に挙げた『「文系学部廃止」の衝撃』という本は,件の文科省通知に非難する立場で文系を擁護するために書いたものだろうと思う.読んでないので「思う」としか書けない.

とある文科省参与/補佐官

 私が上で「変なことをいうとある文科省参与/補佐官」と書いたのは鈴木寛という方のことである.この方はもともと通産省のお役人だったらしく,民主党の衆議院議員をし,民主党政権時代に文科副大臣をしている.その頃の埼大は上井学長時代だった.
 上井学長はこの鈴木寛氏と波長が合うらしく,かなり長い期間,全学会議でこの鈴木氏が何をいったかを説明し続けていた.そのお話を聴かされていたので,私も鈴木なる方が何をいっているか分かってきたのである.鈴木氏は国立大と私大との棲み分けを考えているようであり,国立大は理系,私大は文系,という区分けをしたかったように思う.また,国立大は院中心,私大は学部中心,という発想もあると見えた(勘違いもあるかも知れない).
 上井学長時代の最後に改組の話が出てきたのを,覚えている方は覚えているだろう.教育学部(教員養成学部)の学生定員を理工の院の定員に振り返ること,また教養学部と経済学部を合わせて人社研を設置することが大きな柱だった.定員を教育の学部から理工の院に移すことは鈴木寛氏の考えが下地にあったろうと私は思う.人社研の設置でも院の定員を増やすことを学長らがいったのも,同様の筋であるだろう.
 2015年の例の文系廃止通知もこの鈴木氏の考えだと思う.文科省は「文系を廃止しろという意図はない」という釈明文を出しているが,鈴木氏の名を出した文書だった.この文書は,「文系を廃止しろといった覚えはない」と書きつつも,終わりの方で「文系を転換しろ」と書くという,変な文書だったので笑えた.
 この鈴木氏は民主党政権が倒れると同時に選挙で議席を失った.私はざまあみろと思って喜んだ.しかしその後の安倍政権で文科省参与となり,続いて文科大臣補佐官を長く勤めていたのである.要するにいろんなことをしており,最近の「入試改革」(英語民間試験の導入,論述問題の共通試験への導入)をリードしたのもこの方である.
 鈴木氏が文科省の役を終えたのは萩生田光一氏が文科大臣になった前後と思う.萩生田大臣が前任者から引き継いだ英語民間試験や記述式問題の導入を平気で止めたのは,鈴木氏が離れたからだろう.萩生田大臣は慧眼だった.

文系に価値がないと誰がいうものか

 鈴木寛という方はそういう方であり,上井学長とも波長があったのだろう.
 ただ,まず私は鈴木氏の考えが文科省全体の考えを表しているとは最初から思えなかった.文科省本体はそれほど複雑なことは考えない.国立大学とはうまくやっていきたい,というのが文科省の本音と思う.
 また,見識のあるお役人が文系を廃止しろなどというとも思えない.神田眞人氏は国立大学に厳しいことをいう,よく名前が出る財務官僚である.が,彼はオックスフォードで学んだ方であり,大学のことはよく理解している.神田氏など財務省側は,教員が研究をすること,学生がしっかり勉強することは求めているけれども,文系は要らんなどとはいわない.大学で学ぶことの意味をクリティカル・シンキングができるようになることに求める発言をしている.クリティカル・シンキングを研く上で文系がなくてよいはずはないではないか.
 たぶん,今後も鈴木氏のようなバカな方は出るだろうし,そのバカに波長を合わせるアホ学長が出ることもあるかも知れない.しかし,文系は自らの存在にもっと自信を持ち,堂々とすべきだろう.
 自らの存在に自信を持てとは,亡くなった阿部先生が(文化政策騒動の頃)よくいっておられたことだなぁ,と思い出す.

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埼大教養学部入試の小論文に私は解答できない

 埼大サイトで今年2021年の入試問題の中身が公開されているのに気が付いた.気になっていた教養学部の小論文試験を見てみた.
 私は1年近く前に,このブログで「小論文試験問題を論評する」という記事を載せた.ここで「小論文試験問題」とは埼大教養学部の後期試験の小論文のことである.その記事で,教養学部の小論文の答案を書くことは私には難しい,と書いた.教養学部の小論文試験とはある程度の長さの文章を読ませて解答を求める形式である.読ませる文章なしで設問だけを提示する教育学部の小論文の形式にした方がよい,という意見も書いた.
 今回も同じことを,2021年度入試の小論文の問題を例にして述べたい.試験問題そのものは「埼玉大学 過去問」でググれば誰でも辿り着ける.

読ませる文章の中身がどうも…

 2021年度の教養学部の小論文試験はある文章を読ませて受験者に解答を求める形式である.この問題を眺めて,良い問題とはいえない,と思った.読ませる文章がよく構成されていないし,解答を求めるリード文も指示が曖昧なのだ.

 読ませる文章は『「文系学部廃止」の衝撃』という本の一部(おそらく序文か前置き部分)である.この文章は文系(人文社会科学)の教育研究に有用性があると論じている.
 ただ文章の構成がド文系らしく混乱している.この文章の趣旨からすれば,次の3点を論じることになると思う.

1) 文系の学問は「価値」を解明するものである.
2) 「価値」の意味はこれこれこうである.
3) だから文系の学問には有用性がある.

 文章を構造化するなら,この3点の各々について,その順番に,1段落か2段落で書くべきだろう.ただ当の文章は論点が入り組んでいて,整理されていない.その文章の読者も文章の混乱を引き継いで考えることになるだろう.中身についても論述が出来ていない文章と思う.
 まず1)について.文章の筆者は,19世紀末以来の人文社会科学は「価値とは何か?」を問う学問だった,その価値を「問い,観察し,分析し,批判し,創造していく視座や方法」として人文社会科学の知が形成されてきた,という.が,そういわれて「なるほど」とは,私は思わない.例えば上代の日本語における助詞の使い方を研究する,という場合,「価値とは何か?」などと問うていない.何がしか価値と関わる領域は多いと思うが,価値とは何かなどと問う学問領域は文系の中にも滅多にないと私は思う.
 私の身近を探すなら,人が抱く価値システムがどうなっているかという一部の心理学研究,あるいは,各国の一般サンプルの調査データを使って価値観が国や地域でどのように違うか,例えば日本人の価値観はどのような点で西欧と類似し,どのような点で西欧とは離れるかを扱う社会心理学の分野の研究,などがある.あるいは,「名誉の文化」といったテーマも人の価値を扱うともいえる.が,そのような研究は(社会)心理学の研究の中でもごく一部に過ぎず,まして広く人文社会科学に共通とは言い難い.また,上記の研究も価値を分析するにしても「批判し,創造」などはしない.批判や創造は文士や思想家の仕事であり,学問とは別である.
 2)についても,文章が「価値」を定義せずに使っているのが気になる.「価値」は経済学では根本的な問いだったと文章は書いているので,おそらく昔のマルクス経済学を念頭に入れ,経済学はみんな価値を扱っている,といいたいようである.ただマルクス経済学は短命だった過去の変異種に過ぎず,普通の経済学は「価値」などとはいわずに行為者の選択基準として仮定する効用ないし選好水準という言葉を使うだろう.マル経の価値は効用などとは同じ意味ではない.さらにこの文章が「価値」の例示とする皇帝(への服従?)や神聖性と,マル経の価値や効用とも同じ意味ではない.
 文章を構造化し2)についてまとめて論述していれば,文章の筆者も「価値」を整理せずに書いていることに気づくように思う.
 最後に3)である.文章は価値を問うことが有用とは書いているが,なぜどのように有用であるかは特に論じていない.有用であるからには価値を問うことで何ができるかをいわないといけないけれども,特に述べていないのである.また,「有用性」とは何かをきちんと書くことも必要だったろう.文脈的には社会的な有用性を指すと思うが,軽く読む人は個人にとっての有用性のこと(でもよい)と思うかも知れない.社会的な有用性なら「有用性」とはいわず「効果」などというからである.
 以前,駒場のサイトを眺めたとき,鶴見太郎氏は自身のイスラエル建国に至る思想研究が,現在の民族紛争の解明に寄与するとして,研究の有用性を述べた文書を掲載していた.鶴見氏の議論は,紛争解決の方途を見つけるという点で,ある程度は説得性を持つ.しかし同じことは小論文の文章には当てはまらない.
 蛇足であるが,普通は,人文社会科学は人間や人間が作り出す社会,文化の諸側面を扱う,くらいにいっておき,だから人文社会系を学ぶことは市民社会の成熟に必要なのだ,といった論点で文系の学問を擁護するように思う.小論文の文章が出た頃に文系の価値を主張した17大学人文系学部長会議のアピール文(文科省批判文)もそんなことを書いていたように記憶している.「人間,社会,文化」くらいの広いいい方なら間違いにはならない.しかし「価値」を問うのが文系という,より限定された論拠で主張するなら,その通りかどうかのエヴィデンスを示さないといけないだろう.電子化されている最近のジャーナルから論文を無作為抽出して文章解析にかければ,ある程度の結果は出るように思う.この小論文問題の文章のように特徴的な主張をするなら,そのくらいのリサーチが必要に思える.
 簡単にいってしまえば,小論文で出した文章を読まされた受験者は,その文章の混乱を引き継いで思考することを強いられる.だからお題の「文系は役に立つか」という論点について,適切な出発点となる素材ではなかったように思う.

設問の指定が曖昧

 試験で読む文章が上記のごとくであるとしても,設問の仕方によっては問題ないかも知れない.しかし小論文問題のリード文の指定に曖昧さがあるため,私が解答することを求められると悩むことになるだろう.
 設問は単に次のようにいう.

次の文章において筆者は「文系は役に立つか」という問に対して,価値の探求を持ち出すことによって肯定的に答えようと試みている.「文系は役に立つか」という問いに対するあなたなりの答えを八00字以上,一二〇〇字以内で述べなさい.

 つまり,提示された文章の内容を受け入れて書く必要があるのか,文章の中身に反する文章でもよいのか,その文章への論評でよいのか,あるいは文章には一切触れずに自分の考えで「文系は役に立つか」を論じればよいのか? その指定がないのである.だから私が受験者なら解答の仕方に悩むだろう.入試問題にわざわざ出るのであるから,埼大教養学部はその文章を肯定していると受験生は仮定するだろう.だから大事をとるなら,卑怯であっても,意に反して「文章に書いてあることはその通りだ」という趣旨で解答して採点者のご機嫌をとるしかないだろう.人として裏表があることを嫌う気持ちが起きれば,そのような機嫌取りの解答はできないかも知れない.
 「文系は役立つ」を肯定する結論でも否定する結論でもよいことは明示した方がよい.
 さらにいえば,どのように解答を書くかについて少し文言を加えないとまずいように思える.入試問題で何を見るかは事前に公表している建前になっており,「論理力,…」を見ると公表しているはずである.だから「あなたの結論の根拠を述べることが重要であり,その根拠のためにこれまで読んだ書籍等があれば明示することが望ましい.」くらいのことは加えた方がよい.

私が無難と思う小論文形式

 あくまで私見に過ぎないが,望ましい小論文の形は次のようであると思う.

1) 文章を読ませて解答させる場合,以前に論じたように,教養学部の2018年の小論文問題はよく出来ていた.提示された志賀直哉の文章がツッコミどころ満載で,誰もそのまま受け入れるべき内容とは見ないからである.論理的に構成された文章だと受験者は解答を書きにくいだろう.2018年のような問題が作れるなら,文章を読ませて解答させる形式で結構だと思う.

2) 工学部の小論文の文章のように,レトリックに走らぬ,無理のない内容の文章を使うなら,同様に結構だろう.

3) 適当な文章が見出せないなら,教育学部の小論文問題のように,文章を読ませずにお題だけを提示して自由に書かせる小論文が妥当と思える.その方が出題も楽だし,受験者の頭の中がより分かりやすいと思える.

重要なのは入学後の成績などを分析すること

 以上,面倒なことを書いた.が,以上書いたような考慮よりは,入試時点の科目や成績と入学後の成績を調べることの方が重要だと私は思う.
 第1は,入試科目の点数間の相関を,私ならまず調べる.この場合,分析するのは共通試験科目と個別試験の相関になる.その分析で個別入試科目が何を測っているかがある程度分かる.個別が小論文である入学者は数が少なく,入学者はデータのselectionを経るので,統計的な分析はし難い面がある.それでも,小サンプル向けの分析することである程度の情報が引き出せる可能性はある.
 第2は,入学後の成績と入試成績の関連を調べてみるべきだろう.私の経験では,この関連はハッキリしないことが多い.
 第3に,前期学生と後期学生の入学後の成績の差が,小論文試験を導入してからどのように変わったかもチェックすべきだろう.前期学生と後期学生の差は,私の以前の分析では,年度によって変異した(報告書は学部長室の本棚に挟んであったと思うが).ただし,多くの年度では後期の学生の方が入学後の成績は良かった.その傾向が変化したかどうかを見ることも1つの参考データになるだろう.むろん推薦学生に関する分析も重要である.

 実は教養学部の推薦入試の小論文の方も私には肯定的評価はしにくい問題だった.が,そちらの方が論じると長い話になるので,ここでは書かない.

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更新講習,思い出いろいろ

教員免許更新制の廃止

 少し前に文科省の小委員会が更新講習,というより教員免許更新制を廃止するとりまとめを公表した.この廃止は既定の事実のように扱われてきたが,文科省が廃止の意思を正式に確認したことになる.だからそのまま,廃止を盛り込んだ法案があと少しで通ることになるだろう.
 廃止という結論は意外ではなかった.私は文科大臣の記者会見をずっと動画で観ていた.その限りで,萩生田文科大臣は,いかにも廃止が結論であるというニュアンスで発言し続けていたからである.
 最近の次のネット記事が問題を簡潔に整理している,と思った.
http://www.zakzak.co.jp/soc/news/210828/dom2108280004-n1.html
 米国では全州で教員免許更新制が導入されており,教員免許の更新のためには一定期間内に一定時間の研修受講が義務化されているという.対して英独仏では,教員免許の更新はないが,各種の研修が揃えられているという.日本の教員免許更新制は米国型を真似たということであり,実は特段変な制度ではなかったのだろう.今後は教員免許の更新制を廃止した上で,英独仏のように研修を揃えるようになる,ということのようである.

私は導入時に無理筋と思った

 教員免許更新制の法案は2007年に成立し,2009年から導入された.更新講習が埼大でも始まったのは2009年だったろう.私事であるが,私が教養学部で最初に学部長になったのは2008年である.だから更新講習にはいろんな思い出がある.思い出というより,私には大きな危機に見えた.
 更新講習を埼大でも行う,という連絡は全学の会議で出ていたと思うが,具体的な話が伝わったのは教育学部長経由であったと思う.問題は,その内容が教養学部には受け入れ難いものだったことである.
 教育学部長経由で伝えられた点は次のようなものだった.まず,教員免許の課程申請をしている学部は更新講習の実施に責任を持たなければならない.責任の負担量は免許の種類の数による.負担できなければ教員免許の課程を廃止すべきだ.更新講習は,必修科目以外の選択科目であっても,単に教員の専門の講義をするのではなく,教育指導要領に沿った内容でなければならない.
 埼大は当時,全学部が教員免許の課程申請をしていた.しかし経済学部と工学部は免許の数が少なく,免許を取得する学生も極めて少ない.両学部とも,本音では課程から外れても構わなかった.理学部は教員免許の種類は理科と数学だったろう.理学部は教員免許に深く関与している.しかし熱心な先生もおられたし,無理な要求があっても聞く気はなかったろう.実は優秀校では理数の教員を理学部出身学生に求める根強い傾向がある(その点を教育学部も認めている)ので,理学部は立場が強かった.
 それに対して,困るのが教養学部だった.教養学部,というより一般的に地方国立大の人文系学部は教員免許にしがみついて生きている.教養学部も同じである.問題は,教員免許の数は国英社(地歴と公民に分けていたかどうか?)と多く,教免関係で名前を入れていた教員数も多い(私も含む).しかも,一部の教員を除けば指導要領など全く理解していない(私も).理解したとして,そこで求められる授業が設計できるかどうかは何ともいえない.
 この問題は学部長補佐会(三役)でまず協議したと思う.当初の認識は三人揃って「こりゃていへんだ」ということである.受け持つ講座数を,教員学部から伝わった方式で算出してみた.その数字を通常の授業時間換算にするとかなり負担が大きい.こりゃ無理だ,と思った.大学教員は,決められた教育研究の業務があり,その業務をこなす程度の教員数がついている.この更新講習を国立大学が主体で実施するなら,その分の教員の純増がないと建前上も無理である.だから,更新講習をすると決めて,その更新講習を主に国立大学に投げること自体が無理筋だ,と私は思った.
 そこで,確か評議員だった伊藤先生と一緒に,他学部に「更新講習は無理だ」という趣旨の根回しもしてみた(と思う).ただ工学部と経済学部は問題を軽く考えているし,理学部はある種悠然としているので,波長は合わなかったと思う.むしろ人文系17大学の中では,教養学部と同様の深刻な受け止め方が多かったように思う.

事態の深刻さは急に低下した

 2008年の後半になると,更新講習の深刻さの印象は急激に変わってきたように思う.その間に文科省で更新講習の手筈が整理されたのかも知れない.少なくとも埼大の中で話は現実的に整理されていた.
 私は当初は聴いていなかったが,まず,更新講習の費用は受講者の私費で賄われる,だから,更新講習という業務は従来の大学の業務の外側のような位置づけになったことである.だから更新講習の担当は大学の本務以外になり,従って別途給与が出ると分かった.同時に,担当は非常勤でもよくなった(受講者の負担分から払うのだろう).そして何より大きかったのは,選択科目は原則,内容は何でもよくなったのである(表向きはそのようにはいわないと思うが).また,新たに教免センターを作り,関連業務はそのセンター(主力は事務方)が追うことになった.だから負担感は急に低下し,無難に実施できると思えるようになったのである.
 当初伝わって事柄は建前であり,実施を計画する段階でかなりの現実的な調整がなされたものと思う.
 もっとも,実は建前は建前として堅持されており,埼大の教免センターが間に入って何とかしていたのかも知れない.ある年度に,私は「集団の社会心理学」という講座を選択科目としてやることになっていた.ところが,何れかの文科省の担当者から,「この科目はなぜ更新講習で行うのか,教員対象の講習として行う理由を説明せよ」といった内容の連絡が入ったのである.教免センターのセンター長だった教育学部の斎藤先生(山口学長時代の斎藤理事)とどこかでお会いした折,私は「そういわれるんなら,私はやめますよ」と申し上げると,斎藤先生は「この件はこちらで処理します(あなたは関わらないでよい)」と告げられた.実際,その件は消えた.想像であるが,選択科目も教育要領との関連がはっきりしていなければならないという点は原則としてどこかで維持されていて,その原則通りに反応したお役人がいた,(でも教免センターが何とかしていた)というのが実態だったのかもしれない.

無難に推移した更新講習

 という訳で,実際に更新講習の準備作業が始まってからは,当初のような悲観論は消えた.その後も,少なくとも私の在職期間中は,更新講習に困難はなかったと思う.裏方の免許センターがよくやって下さったという印象である.
 教養学部教員の場合,選択科目の更新講習だけを受け持ったので,内容に制約は事実上なかった.各教員とも授業ネタや講演ネタのストックをお持ちだったから,担当した先生方で苦労されることはなかったと思う.その概要だけを眺めると,なかなか魅力的な内容で講習を行う例が多いと感じた.
 1つの講習は(少なくとも私が担当した期間では),2時間のコマ3つを1日で行った.計6時間であり,1日で行うのは時間的にはきつい.ただ,集中講義1日分と割り切れば,それほど負担感はなかった.受講者は現職の先生方であり,普通の学生とは異質には違いないが,その違いは適度な刺激であり,悪くはなかったと思う.
 さらにいえば,更新講習では事実上の不文律として,成績で不可は出さない.だから教員が成績のgradingで悩む,という,普通の授業では起こることがまずないのである.
 更新講習が始まった最初の方の年度のことだと思うが,埼大で1人の受講者の1つの授業で不可が出た.普通の授業であれば不可はあるべきものであり,何も問題ないのであるが,この時は文科省は「なぜ不可が出たのか?」と面倒な問合せがあり,対応が大変だったと聴いた.文科省の方は,「不可を出さないように指導することがなぜ出来なかったのか?」といういい方だったという話を聴いた.そのことがあって以来,更新講習では合格点を付けることが不文律となった.この不文律があった方が,教員にとっては楽なのである.
 この形での実施となると,更新講習は教員にとって有難いものと見なす向きもあった.講習を担当する非常勤枠も配分されたからである.(教養学部に限らないと思うが)教員は,非常勤給与を収入源とする同業者の知人を抱えていることが多く,そういう方には講習の担当は有難いものであることが少なくなかったのである.

更新講習に意味はあったか?

 更新講習を評価するためのデータとしては,受講者の先生方に対するアンケート結果しか私は観たことがない.講習の客観的な効果を測定することは,かなり複雑な実験計画が必要であり,そのような評価研究の実施はまずできないだろう.アンケート結果を見る限り,受講者は更新講習に対してまずまずの評価を与えていたように記憶している.この結果は私が実際に講習を担当したときの実感とも異ならない.
 ただ,この講習に意味があったかどうかには疑問が残る.通常の授業は授業の間にある程度の時間間隔があり,その間に受講者は頭の中にある授業内容に対する自動思考を働かせる.つまり意図せずとも,授業内容が念頭にのぼってある程度の思考を働かせ,理解の整理をする.授業に間隔をあけることの意味はその点にあるだろう.しかし更新講習は1塊りの知識を間隔無しで提示し,しかも講習が終わった最後にすぐに試験をする.だから受講者が思考を働かせて自分なりの内容を咀嚼する機会がない.ごく短期の記憶だけを回答させるだけであり,かなり不十分な評価をすることにしかならない.
 だから,確かに講習の時間だけはある程度確保しているが,実質的な意味がどれほどあるのかな,という点は疑問に思っていた.むろん,私が担当したのは選択科目であり,必修科目の方は大いに意味があったんだろう,と思う.
 ただ,更新講習をすることで,受講者の先生方には「授業はやるよりも受ける方が辛い」ことを実感して頂けただろう.その点は少なくとも有意義だったように思う.

今後の教員向け研修はどうするのか?

 更新講習はなくなるとして,その後の研修をどのように設計するかは,これから文科省のいずれかの会議で検討を始めているのだろうと思う.
 実は更新講習が始まる前,埼玉県では10年研修/20年研修というのがあり,更新講習のような講義を埼大でも行っていた(私も担当したことがある).ただ,その研修は義務だったかどうかは私には分からない.また,授業の数は更新講習よりはるかに少数だった.大学がヴォランティアで出せる講習となると,そのような講習に留まるだろう.だから,今後の講習を,どのような財政基盤で,どこが行うようにするのか,というのは,ちょっと注目してよいのかな,と思う.
 本当に実になる研修を行うのであれば,短期間の詰め込み研修はおそらく意味がない.10年ごとに1年間,大学(ないし大学院)で20~30単位をとるような研修期間を設けるべきだろう.通常の授業の中に新たに学生が加わる余地は,実はかなりあるように思う.

教員の質を高かめるなら待遇改善が第1

 私の持論であるが,目的が「教員の質を高める」ことにあるなら,なすべきことは優秀な人材を教育界に呼び込むことである.そのために有効なのは,研修で教員を押さえつけることではない.教員の待遇を改善することである.具体的には給与と暇を増やすことである.例えば夏休みはマルマル休めて,地域の遺跡の研究などが自由にできるようにすべきだろう.地域の歴史の研究は,実際,小中高校の先生方が担っている実績がある.そのように,好きなことができるようにすることが重要だろう.
 教員の待遇が良くなれば競争率も高まる.すると自然と教員の質は上がる.今のように更新制にしたり研修で押さえつけると,教員になること自体の魅力が下がり,結果としては教員の質は低下する.低下した教員に研修をしても無意味なのだ.
 同じことは大学教員にもいえる.研究が大事というなら待遇を改善することが第1になすべきことと思う.

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文科省Scheem-Dを眺めて思う若干のこと

新企画Scheem-D

 文科省が略称スキーム-D(Scheem-D)という企画を始めたという話を私は少し前に知った.Scheem-Dとは「大学教育のデジタライゼーション・イニシアティブ(Scheem-D)」であり,Student-centered higher education ecosystem through Digitalizationの頭文字をとった企画の名称である.文科省サイトの本体は次である.
https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/mext_00242.html
この文科省サイトのページは2020年6月24日の日付で出ている.ということは,昨年度からこのScheem-Dの企画は立ち上がっていたのだろう.
 中身については次のサイトでまとめて収録している.
https://scheemd.mext.go.jp/
 このScheem-Dは大学の学びをデジタライゼーションで促進することを目指している.大学教育のイノベーションを目指しているともいえるし,大学発の起業を促進しようとしているような気もする.
 ざっとサイトの記載を眺めると,この企画は大学教育に関して文科省がやって来たこととは趣が異なっているように思う.通常,文科省は予算を用意して公募要領を出し,大学に計画の応募を求め,審査を経て採択して大学の事業に予算を付けて来た.が,このScheem-Dはお金をバラまくのではない.大学関係者(教職役員)や技術を持つ企業,投資家などに呼びかけ,自分たちのアイディアを語るピッチ(短時間のプレゼンをする場)を主催し,大学関係者や起業家の間の協力関係のマッチング(の手伝い)をすることを目指しているようだ.マッチングを経て開発をし,結果のfeasibility test を経た企画の中で有望なものを表彰するようなことを考えているようである.文科省が出てきた企画に予算を付けるのかどうかはハッキリせず,付けるかも知れないが付けないかも知れない.予算の有無は企画の本質ではなく,あくまでマッチングされた当事者の努力を期待するのだろうと思う.

どんな話が進行しているのか?

 Scheem-Dの企画でどのような試みが進行しているかについては,当面,上記Scheem-Dサイトの記載しか手がかりがない.
 上記サイトでは 'Idea' のページで「昨年度のアイディア」が掲載されている.表の記載の文章は曖昧でイメージはつかみにくい.しかしアイディアのいくつかはYoutubeの動画にリンクされていて,その動画を見ると少し分かりやすい.また,’Event'のページでは今年7月のイヴェント(シンポジウムのようなもの)の紹介が動画付きで載っている.このイヴェントの動画中で3つの提案が出ているが,何れも昨年度のアイディアの中に入っているものだった.提案自体も昨年度のアイディアとあまり変わらない.
 これらの動画を見ると,提案者は真面目に考えているようであり,Scheem-Dのコメンテーターも,間接的な言い方をしているので分かりにくさもあるけれど,もっともな指摘をされているように感じる.
 ただ,あえてDXと呼ぶほどの企画はそんなにある訳でない.既存アプリに詳しければ解決しそうなものであったり,単に学務情報の拡張程度のものだったりする.企業からの提案は自社製品のただの宣伝のようにも見えることもある.
 あえてDXと呼ぶべき企画は次の2つの要素に帰着するように思う.第1は多様な学生が参加する実習へのVA/AR/MRの適用である.特に医学では意味がありそうに見える.VA/AR/MRが現時点で実際にどの程度出来るかについては私は no iddea である.第2はブレーンストーミングなどの場面で学生の発言にAIを適用してアドヴァイスを出せるようなシステムの開発である.ただアドヴァイスといっても発言の中からキーワードを取り出して関連する語句を「示唆」として出す程度であり,それでどの程度役立つかは実際の適用場面を見ないと分からない.例えば研究企画のブレーンストーミングをするといった場合にAIの補助が出るとすればよいとは思うが,私の感想では,関連するキーワードを出すだけではそんなに役に立たないような気がする.発話と同じ考えは何とかの研究でも使ってますよといった示唆なら大いに役立つし,あなたの主張は論理的におかしいといった示唆なら立派なものであるが,そこまで到達できるかどうかは難しい.

Scheem-Dの企画は成功するか?

 大した根拠はないが,Scheem-Dが直接的に大きな成果を生むことはないような気がする.
 上記のScheem-Dサイトでもあまり情報を出していない.何か成果らしいことやその中間的なアウトプットの報告がない.Youtubeに出た動画についても視聴履歴が少ない.だから多くの人を動かしているという事実がないのだろう.
 また製品化という点でもハードルは大きい.提案の中では「市場規模」を示しているものもあるけれど,どれほど普及するかは性能-価格比の問題であり,採算が取れると期待する根拠は少ないように思える.中心であるべきVA/AR/MRやAIにしても,大学教育という局面で特に発達するものでもないように思う.
 ただ,文科省としても成果をそれほど期待するほど非現実的ではないような気もする.問題は教育改善に対して知恵を出す人を少しでも増やせればよいのかも知れない.
 提案された昨年度のアイディアを見ていると,埼玉大学でも3組くらいはアイディアを出す人がいても不思議はないな,と思う(もしかしたら今年度提案しているかも知れない).多少とも考える人がいるなら,何かの機会にアイディアは活きる可能性はある,と考えておきたい.

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「自律的契約関係」とは何だったのか?

 何年か前から,政府の骨太の方針(正式には経済財政運営と改革の基本方針)の中に,国が国立大学法人と「自律的契約関係」を結ぶ,という文言が書いてあった.その法的な整備を今年度末までに行う,と何年も続けて書いていたのである(笑).
 あえて「自律的契約関係」と書く訳であるから,国立大学は大きく変わるんだろうな,と私は思っていた.が,以下に書くように,どうも大した話ではなかった.国立大学関係者は安堵したのだろう.

 私は気づかなかったが,文科省の「国立大学法人の戦略的経営実現に向けた検討会議」が最終とりまとめを,昨2020年の12月に出していたと知った.この最終とりまとめのキーワードが「(国と国立大学の間の)自律的契約関係」である.

参考:国立大学法人の戦略的な経営実現に向けて~社会変革を駆動する真の経営体へ~ 最終とりまとめ
概要 https://www.mext.go.jp/content/20210114-mxt_hojinka-000011934_1.pdf
本文 https://www.mext.go.jp/content/20201225-mxt_hojinka-000011934_2.pdf

 どれどれと思って見てみた.正直バカバカしいと思った.「自律的契約関係」という目を引く言葉を使ったのであるから,当初は国立大学のあり方を根本的に変えるのだろうと私は想像し,期待した.が,これだと事実上,ほとんど変わらないだろう.根本的な変化は,上記概要の2頁目に図示される通りであり,要は中期計画の項目を文科省の出す一覧の中から選べるようにする,ということである.形式的には変化といえるが,実質的には変わりはない.国立大学で,まさかウチは教育を止めますとか,研究はしませんといい出す所は無いからである.これまででも,国立大学はやりたくない事項は気のないことだけ書いておけばよかった.
 しかも本文を読むとダメ押しのように,《公共的価値の創出を期待されている国立大学法人に対する国からの財政的支援の重要性を否定し、法人が「自立」することを表現しているものではない》と書いてある。
 むろん,上記「とりまとめ」に書いてあるのは中期目標の書き方だけではない.付随的にはより柔軟性を持たせることも歌っている.ただ,定員の変更は法人でできるようにするとはいっても総定員の上限の存在はそのままであり,国立大学が出資出来る範囲を増やすといっても,実際に増やすお金があるのは指定国立大学法人に限られるだろう.自由があるといってもお金が無ければ意味がない.
 想像(邪推)であるが,もともと内閣府が国立大学のあり方を根本的に変えることを考えて骨太の方針に「自律的契約関係」と書き入れたのに,文科省が骨抜きにしたのではないか,と思えて来る.
 ちなみに,同検討会議が昨年7月にまとめた「自律的契約関係」の説明資料が次である.
参考 自律的契約関係
https://www.mext.go.jp/content/20200729-mxt_hojinka-000009077_8.pdf

 この「とりまとめ」は文科省の中の検討会議の結論であり,まだ政府の結論ではない.念のため,より後に出た今年6月の骨太の方針を確認してみた.

骨太の方針2021
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2021/2021_basicpolicies_ja.pdf

すると,例年通り,「国立大学との新たな自律的契約関係の法的枠組みにつき、年内に結論を得る。」とまだ書いてあった.どうなるのか?

 私見であるが,国立大学が自由に運営することと,従来の国立大学のあり方とは両立しないだろう.例えば,中期目標の作成に自由度があるなら,運営費交付金の額はどう決めるのか? 国立大学の要望通りに国立大学間の相対評価を回避するだけになるのではないか? 自律的契約関係というのであれば,政策目標にある事項を請け負う分は金を出すが,それ以外は自前で資金調達させる,と考えるのが自然に思える.
 何れにせよ,国立大学は文科省の傘下にある限り,変わらないだろうな,という気がする.

 勝手なことをいうなら,国立大学には次の2択を迫るのが正しいのではないか?

1) 運営費交付金を3倍にする代わりに,〇年以内に国際ランキング〇〇位以内ランクインを目標をする.失敗したときには潰す.
2) 運営費交付金を現状の7割程度に5年以内に減らす.

 多くの国立大学は2)を選ぶと思うが,地方国立大学の中でもある程度,1)を選んで生き残る大学が出るだろう.潰れた大学分の予算は私大に投入すれば,潰れた分の補填はできるように思う.

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日本学術会議による変な忖度要請文書

日本学術会議の変な文書

 気にする話ではないかも知れないが,日本社会心理学会からのニュースメールに「シンポジウム等の登壇者等における性別の偏りについて」という表題のメールがあった.いつもと雰囲気が異なるメールなので「どれどれ」と思って見てみた.シンポジウム等の登壇者等に性別の偏り(女性が少ないという意味だろう)がないよう,留意するようお願いする,との内容だった.
 何か変な雰囲気だと感じた.
 普通はないことがあると変に勘ぐりたくなる悪い癖であるが,いろんな要請の可能性がある中で「シンポジウムの登壇者」の件だけが出て来るのも変だし,(他の学会のメールにはないけれど)社会心理学会がわざわざ学会メールで流すのも何か唐突な感じがある.何れかの具体的に案件に影響を与えるために流したのだろうか,などと考えたくもなる.
 さらに,変だなと感じたのは,学術会議自体が「偏りがある」と判断しているという記述がなく,政府がいっているから,という文章になっている点である.忖度しろ,といっている格好なのだ.その政府がいっているのは(同メール中に記載があるが),内閣了承の「女性活躍・男女共同参画の重点方針2021」の文面なのだが,あくまで政府主催の催し物を対象としており,派生して地方公共団体にも(各省庁が)要請すると記している.しかし学会等は,何らかの認証を政府から受けているかもしれないが,あくまで非政府の任意団体である.だから学会宛に送るなら内閣了承事項を任意団体にも拡張する旨の判断を学術会議がしたと書かないと変なのだ.
 また,「偏りがある」のは何も男女だけではなく,出身大学,所属大学.居住地域でもだいぶ偏りがあると思うのだが,話が男女だけで唐突に出ている感じがした.
 男女の偏りの是正を妙に強調するのは学術会議の特性にもよるのだろう.旧ソ連では理系分野の研究者が男女同数になるように強制したことがあった.日本学術会議は日本共産党の支配力が強く,日本共産党はコミンテルンの日本支部として発足した経緯がある.だから男女同数にすることが根幹の理念なのだろう.
 また,学術会議が「偏りがある」という自らの判断を書いていないのも気になる.書くためにはデータを揃える責任が生じるが,手抜きしたかったのだろう.なお,文科省なら,傘下に学術政策の研究機関を持っているので,その気になればデータは揃うと思う.
 むろん,男女に偏りがあるなら,私の考えでも,是正されることが望ましい.

曖昧にすべきでない2点

 ただ,日本学術会議のような曖昧な忖度要請を受けた現場は,一般論として,その要請に従おうとした場合,困難に直面するかも知れない,と思う.
 曖昧さは2点にある.第1は「偏り」の定義であり,第2は「留意(ないし配慮)」=対処方針の中身である.

 「偏り」は何らかの基準からの乖離を意味する.では何を基準にするのか? 素人の私がちょっと考えても(少なくとも)次の可能性がある.
1) 男女の出生比率(男が少し高い)を基準とする.常識的にはほぼ1:1とすること.
2) 当該研究分野の研究者の男女比を基準とする.
3) 当該研究分野の優秀研究者の比率を基準とする.優秀研究者とは,例えば被引用数上位論文の主要著者,などと定義する,などである.
 単純に「男女平等」というと1)を思い浮かべるが,研究者の男女比率に現状で差があるなら,単純な「男女平等」だと,多い方の性別の研究者が冷遇されることになる.だから2)か3)で考える方が,常識的に思える.

 「留意」,つまり何をすべきかも明確にすべき事柄であり,実際の現場では判断に幅があるだろう.私がちょっと考えただけでも,次の対処方針が選択可能と思える.
① 性別を考慮せず能力・実績だけで選ぶ.
② 能力・実績が同じなら女性(ないし少ない方の性別の研究者)を選ぶ.
③ 能力・実績が劣っていても女性(ないし少ない方の性別の研究者)を選ぶ.
 普通,①なら「公平」であり,多くの方は①でよいと思うかも知れない.しかし「公平」を口実にして実際は女性差別をしている,ということは大いに考えられる.だから一歩進めて②にすることはあり得る.また,Affirmative Action の考え方からすると,現状で耐えがたいほどの差別があると思うなら,負の効果が大きいとしても,明確に③を選ぶこともあり得るだろう.

 日本学術会議は,上記のように曖昧で責任を取らない文書を出すのではなく,「偏り」とは何であり,現状の正義としてどのような対処方針を採るべきかを,責任をもって明言すべきだったろう.明言できるほど意見にまとまりがないなら,それこそ研究者全体の衆議で合意すべきことではないか?

 私の在職中,山口学長の時代に教員の男女比の改善(女性を増やす)がしばしば全学会議で話題に上った.男女共同参画でお金がついたという事情もあったかも知れない.山口学長は女性教員を増やす方向で発言されていたように思う.当時(おそらく今も),女性比率が高いのは第1に教育学部,次に教養学部だった.むろん,特に努力した訳ではなく,女性研究者が多い分野を持っていただけのことである.女性比率が低いのは(その後改善したと思うが)理工系だった.
 全学の会議では,理工系の出席者からは,当方はそもそも研究者の女性比率が低い,というご意見も出たように記憶している.しかし女性比率を高めることは目下の世間的な要請であるから,増やすように頑張る,ということだった.部局ごとに,どんぶり勘定でどれくらい増やせるかを出してもらって女性教員比率の目標値を作ったように思う.ただ,文科省にはデータはあったろうから,例えば2)の数字をもらって目標値を作ってもよかったかも知れない.
 実際にどうすべきかの議論になったとき,山口学長は②の方針を口にされたと記憶している.①では現状に変化がないだろうし,③はやり過ぎ感があるから,山口学長の発言は適切な線だったように思う.
 何れにせよ,「偏り」の定義と対処方針を明確にしたうえで,外部に説明できるようにしておくのが,あるべき対処だろうと思う.

[資料] 日本社会心理学会からのメール(2021/07/14)
[JSSP_NEWS:2700]シンポジウム等の登壇者等における性別の偏りについて

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日本社会心理学会ニュース No.2700

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日本社会心理学会の皆様,

日本学術会議より以下の連絡がありました。
ご確認くださいますようお願いいたします。

日本社会心理学会 事務局担当

----------------------- Original Message -----------------------
From: 日本学術会議事務局 <scj.shinsa.r8j@cao.go.jp>
To: jssp-post@bunken.co.jp
Date: Mon, 12 Jul 2021 17:45:00 +0900
Subject: [学術会議]シンポジウム等の登壇者等における性別の偏りについて
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シンポジウム等の登壇者等における性別の偏りについて

                       2021年7月12日
                      日本学術会議事務局

平素よりお世話になっております。
この度、全閣僚により構成される、すべての女性が輝く社会づくり本部・男女共同参画推進本部合同会議において「女性活躍・男女共同参画の重点方針2021」が決定されました。
この決定では、「政府が主催又は後援するシンポジウムや各種行事において、登壇者や発言者等の性別に偏りがないよう努めることとする。」とされておりますので、学術フォーラムやシンポジウム等を企画される際には、御留意くださいますよう、お願い申し上げます。

「女性活躍・男女共同参画の重点方針2021」(令和3年6月16日すべての女性が輝く社会づくり本部・男女共同参画推進本部決定)(抄)
3 女性が尊厳と誇りを持って生きられる社会の実現
(5)ジェンダー平等に関する社会全体の機運の醸成
○政府が主催・後援する行事等への男女共同参画の視点の反映
政府が主催又は後援するシンポジウムや各種行事において、登壇者や発言者等
の性別に偏りがないよう努めることとする。その際、各府省において、後援等名
義に関する規程等に明記するとともに、地方公共団体に対して、各地方公共団体
が主催・後援する行事等への男女共同参画の視点の反映について要請を行う。
【各府省】
--------------------- Original Message Ends --------------------

 

 

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知識集約型社会を支える人材育成

 昨年の11月にも同じ「知識集約型社会を支える」ネタでこのブログに記載を上げたことがある.その続きのような話である.

知識集約型社会を支える人材育成事業

 この令和3年度も2年度と同様に文科省の「知識集約型社会を支える人材育成事業」の公募があったという.令和2年度については,埼大も考えていたはずのことだから,申請を出せばよいと思い,私が話した人からの回答では埼大の上層部も前向きに検討していると聴いていた.しかし採択件の中には埼大は入っておらず,調べると申請もしていなかった.昨年の11月のこのブログの記載とは,その次第への感想を書いたものだった.
 この6月の後半に令和3年度「知識集約型社会を支える人材育成事業」への申請状況が文科省サイトに載っていた.
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/kaikaku/intelligence.htm
観てみたのであるが,国立大学で申請したのは千葉大だけであり,埼大はまたも申請見送りのようだった.
 今の段階で分かる「知識集約型社会を支える」の概要は次の表1のごとくである.

210711table1

  この「知識集約型…」事業とは,AIやデータサイエンス教育を求める公募と私は思っていた.が,文科省の説明を見るとそうではない.まあ,中身は何でもいいからパッとした教育企画を出してよ,といった趣旨のようである.
 「知識集約型社会を支える人材育成事業」にはこれまで3つのメニューがあり,令和2年度にはメニューⅠとⅡの公募が,令和3年度にはメニューⅢの公募があったことになる.メニューⅠは広く全学の学生にアクセスできる教育プログラムを求めているようである.メニューⅡは優れた学生をさらに伸ばすことを求めている.メニューⅢはインテンシブ教育のプログラムを求めていた.たぶん,同じ科目で週に複数回の授業を設定するようなプログラムなら,工夫して申請できるように思う.同じ科目で授業が複数回なのは米国などでは標準形式なので,日本でもやってやれないはずはない.ただ,米国の場合は週複数回でも,異なった形式の授業を複数回行う.埼大でもクォーターの授業は週2回であるが,週1半年の授業を2回するだけのことが,少なくとも私の在職中は普通だった.当然,週複数回に適した授業授業の工夫をすることが求められるだろう.
 この3つのメニューは,私の浅はかな認識では,米国の大学がよくやっていることである.結構なことだから日本でもやんなさいよ,というのが文科省の考えなのだろう.もっともな発想のように思う.
 表1にある採択大学のうち,国立の3大学のプログラムは,教養教育の中にデータサイエンスなどの科目を入れ込んだり,全員必修ではないにせよ希望者は全学生が参加できるようにしたプログラムである.メニューⅢで今年申請した千葉大のプログラムは,現時点で千葉大サイトにも掲載されておらず,概要は分からない.
 表1を見て感じるのは,私立大学の場合は,そういっては悪いが,大手よりは「限界的」な大学がこの種の申請に応募している事例が見られる点である.申請する動機づけが働いて頑張っているのだろう.努力が報われればと私も思う.対して,国立の方は,放っておいても存続は保証されるうえに,何らかの事情で全学展開が出来ない大学が多いのだろう.埼大も,動機づけはともかく,全学展開に困難が伴う国立大学の1つなんだろうな,と思う.

平成30年度~令和2年度の採択状況

 上記は令和2,3年度の「知識集約型社会を支える人材育成事業」の状況だった.ここで視野をちょっと広げて,平成30年度から令和2年度にかけての,文科省の教育系資金の採択状況をまとめてみた.平成30年度からとしたのは,その年度に埼大も採択されたからである.
 抜けがあるかも知れないが,私が調べた限りでの状況を次の表2にまとめた.採択された国立大学だけを表に含めた.

210711table2

 8つの資金のうち,3つは世界展開力の採択である.こう見ると,スーパーグローバルでないのに世界展開で頑張っている国立大学はあるんだな,と気づく.アフリカとの交流では獣医学を持っている大学が強いように思うが,工学だけで何とかしている大学もある.埼大は国際展開はどうしているのか,進めているのだろうか?
 埼大は平成30年度のエコシステム拠点で採択されている.「エコシステム」というから,素人の私は省エネルギー技術開発の話かと思い込んでいたけれど,今回書類を見ると,「エコシステム」は社会の中での協業を指し,ここでは要するに産学共同を指しているようだった.また,埼大の採択は工学部部分と経済の合同と思っていたけれど,運営主体に経済学部は入っておらず,経済学部は授業を貸しているだけ,主として工学系のプログラムであるようだ.だから,事業評価はAAと高いのであるが,次のような,学内でも経営協議会などから指摘されそうなことが書かれていたのは興味深い.

・…分野の異なる学生が相互に学び合う文理融合型の協学に向けた検討を行うこと。
・…経済学部との双方向型の取組を行うこと。

この点は,埼大における(だけではないが)全学展開の難しさを示しているのかな,という気がする.工学系だけで動くときはそれなりの成果をあげるのであるが,全学で何かをする,というのが難しいのだろう.

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まだやっているとは京大熊野寮

そういう寮がまだあるのか!

 YouTube を見ていたら,家宅捜査で機動隊・警察が京大の熊野寮に入った,というTVニュースが出ていたので,見てみた.中核派の活動家が何かで逮捕され,その活動家が熊野寮に出入りしていたので家宅捜査になったという.逮捕された中核派の活動家とは京大の学生ではないそうだが,まあ,昔から大学の寮にはいろんな人が出入りしていて,特に活動家はいろんな大学を掛け持ちしているのが普通だった.大学の寮への家宅捜査は私が学生の頃にはよく聴く話だったが,そもそも活動家が日共を含めて高齢化したままいなくなったので,今さらこんなことが起こっているとは珍しい.とはいえ,ネットを見ると京大熊野寮では家宅捜査が年中行事であるらしい.時間が何十年か止まっているような感想を私は抱いた.まあ,懐かしいといえば懐かしい.
 この動画を見ていると,警察側が入る際に寮生側が捜査令状の提示を求め,警察側はそれに応じたようだった.なんか変だな,と思う.
 家宅捜査に令状を確認するのは当然であるが,確認すべき立場にあるのは寮の管理責任者である.寮生は入居者に過ぎず,令状云々というべき立場にはない.
 半世紀ほど前,私が駒場の学生の頃,駒場寮に警察が家宅捜査に入ったけれど,令状を寮の入り口で確認したのは東大教養学部長であり,寮生ではなかった.寮の管理責任者が学長ではなく教養学部長でよかったかどうかは分からないが,駒場の一番偉い人であるから,まあ,理にかなっている.今回の熊野寮の場合,警察は公式の寮の管理者に令状を確認してもらって許可を得ていると思う.だから寮生が令状確認を求めても警察は拒否してよかったろう.あえて令状確認に応じたのはトラブルを避けようとしたためだろう.しかし,筋を通して令状など提示しない方がよかったと思う.
 人によっては「寮の管理は寮生に任せている」というかも知れないが,じゃあ火事などの事故があって被害が出たとき,寮生が責任をとるかというと,その能力もないし,意欲もないだろう.寮生は利用者であり管理者ではない.その筋はちゃんと通した方が後々のためになる.
 それにしても,半世紀前の東大でさえ上記のごとくなのだから,京大って,相当なもんですな.自治に任せるといえば聞こえは良いが,単に管理者が無責任でガバナンスがない,ってことじゃないの?という気がする.

埼大でさえ昔は変だった

 大学の格の問題かどうかは分からないが,埼大では上記の熊野寮のようなことは起きないと思う.管理の筋は通しているだろう.
 ただ,やはり埼大でも以前は変だったようだ.私が埼大に着任したのは1983年であり,その時点で埼大には昔懐かしの「大学紛争」の痕跡は一切感じられなかった.学内にある学生運動の組織は日共民青くらいであったと思う.けれども,古い先生方からは埼大でも大学紛争で大変だった時期があったという.
 しいていうならばその痕跡は少しあった.
 私が着任した当時,教養学部棟の2階か3階の北側の2,3の部屋は,教養学部とは公式に関係のない学生の団体に占拠されていた.新聞研究会とかなんとか,そんな感じの名前の団体だった.その部屋から退去してもらったのは1990年頃ではないかと思う.大学紛争の名残であったのだろう.
 さらにいうと,このブログでも,警察は埼玉大学の校内に立ち入れなかったという次第を私は書いたことがある.

大学の自治

私は教養学部棟内で財布を(おそらく)盗まれ,警察を呼ぼうとして「学生自治会の承認がないと警察は埼大構内に入れない」という事実を知ったのである.埼大には,むつめ祭実行委員会はあるかも知れないが,学生自治会など姿を見たことは一度もない.今も警察が入れないか,その点は確認していない.

 普通の大学関係者,一般国民にとっては,大学は世間一般の管理秩序に従った方が楽である.今後の米中対立という構図を考えると,科学技術の海外への不正流出への監視が厳しくなるから,大学を治外法権にしない配慮が必要になって来るだろう.

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落ち着くべき処に落ち着きそうな旭川医大学長

 旭川医大の学長選考会議が学長解任を文科省に申し出たというニュースがあった.旭川医大の学長を巡っては騒動があることが以前から報道されていた.学長は先手を打って辞任を申し出たそうであるが,学長選考会議は辞任ではなく「解任」を求めたようである.
 今年の1月にこのブログで「旭川医大の件は鑑賞すべきレベルではないか?」という記載を載せた.このときは当の学長さんが病院長を解任するという事件が起きた.学長には病院長を解任する権限がある.が,その経過を伝えるニュースを見ると,この学長さんは相当なものだなと思えたのである.
 今回,同大の学長選考会議が学長解任を決定したというのは,周辺の事情を見ると「落ち着くべき処に落ち着いた」成り行きだな,という感が強い.
 朝日新聞のニュースによると,解任の事由としてあがったのは「付属病院長への解任処分や教職員へのパワハラ、コロナ患者受け入れの際の対応、任期切れの学長特別補佐への報酬支払い、執務時間中の飲酒」であるという.1月の時点で私がニュースで目にしていたのは病院長解任くらいだったが,その後に事由が追加されたのだろう.「学長特別補佐への報酬支払い」のような指摘は,会計法上の違反であるなら,その一事だけで解任するに十分な事由であるように思う.
 文科省は,北大の学長解任と同じく,大学や学長への聞き取りを経て解任の是非を判断するのだと思う.まあ,解任を決定するだろう.旭川医大の事務方には文科省から人が行っているから,文科省との下交渉はあるのが普通と思う.

 学長選考会議が解任の申立てをするのは北大に続いて2例目となる.是非はともかく,今回の解任申立てがあることによって,手続き上ほぼ不可能と思えた学長解任が国立大学にとっての現実的な選択肢になって来たというべきだろう.
 2例とも北海道であるのは,まあ,偶然から起きる確率はあることと思う.

 ついでに感じる疑問であるが,今回の旭川医大のケースで指摘された会計上の不正(学長特別補佐への報酬支払い)がなぜ生じるのか,と不思議に思う.手続き書類が揃わなければ,人事課ないし経理が支出をしないと思えるからである.埼大であれば,学長が何をいおうが,事務方は支出をしないだろう.時折報道される「教授の不正支出」も,書類の偽造でもしない限りあり得ないように思える.この辺の不思議さは私には分からない.

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接種拠点の大学

 コロナワクチンの接種予約が回って来たので,私もすぐに接種の予約を入れた.来週,1回目の接種をする予定である.職域接種が導入されたので,接種は飛躍的に進みそうである.
 職域接種(職場接種)の対象に大学は最初から数えられていた.が,6月上旬に文科省が入って来て,大学は地域の接種に貢献する接種拠点にするという枠組みで動くことになった.文科省は余計なことをしたとも見えるが,大学の社会的評価を上げようと考えてくれている文科省には感謝すべきなのだろう.文科大臣が萩生田になってから,文科省が良いことをする率が上がったように思う.

 川越の方にある東京国際大学が,埼玉県で大学を拠点接種にする最初の例となったようである.東京国際大は医療系の小学部を持っているので,医療人材とのつながりがあるのだろう.私が知る範囲では,東大宮にある芝浦工業大学キャンパスも職域接種を7月上旬から始める.気になって埼大はどうするかと埼大サイトを眺めると,拠点となる申請を見合わせると出ていた.医療人材を確保することが困難だったから,という理由が書いてあった.
 ただ,埼大は,今後も検討を続けるとも書いている.そうだろう.「埼玉県唯一の国立大学」といっている埼大が接種拠点にならずにどうするか.本日の文科大臣の会見を視聴すると,他から医療人材の派遣を受ける際の費用補助をする仕組みを作ったという.だから,あとは提携する他大学を探すだけのことである.なるべく大きな提携を作って申請にこぎつけるだけのことだろう.経営者が対外的にどれだけ迫力を持って行動するかの問題である.
 宇都宮大学は早々に職域接種をするような話が6月初めにニュースになった.しかし客観的事情は埼大と同じであり,その後,宇大に進展があるというニュースはなく,宇大サイトにも接種の件は全く出ていない.たぶん医療人材の制約という,埼大と同じ理由で止まったままなのだろう.しかし宇大は周辺大学との連携に実績がある.大学の数を揃えて申請に漕ぎ着けそうな気がする.埼大も同じ手を追及すべきだろう.

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「文化政策」とは何であったか?(下)

 1つ前の記載で教養学部(文化科学研究科)で1999年に生じた「文化政策騒動」がどんなものであったかを述べてみた.この記載では当時の文化科学構想をどのように評価すべきであるかについて,私見を述べたい.

文化政策構想の何が変だったか?

 文化政策構想は1999年5月に最初に阿部学部長から見せられたときから,私は止めて欲しいと思っていた.その最大の理由は「やりたい人がやるのはよいけど,他の人を巻き込まないでよ」ということである.「文化政策」という,私が入りようがない看板の下に入れといわれたら,私の立場はない.「文化構造」とか「文化環境」といった,何のことかわからない漠然とした看板であれば,中に社会学グループがあることもある,と思われるだろう.しかし「文化政策」という狭い内容の看板の下に多様な領域の人を包摂するというのは,土台無理な話である.
 文化政策構想は,上記の点を除いても支持すべきものとは私には思えなかった.その理由を書いてみよう.

 第1に,「文化政策」という看板を掲げても教養学部の構成では商売にならないとしか思えなかったことである.
 埼大の政策科学研究科は,毀誉褒貶はともかく,商売としては成功例と目された.だから埼大から独立した大学として再出発できたのである.しかし同じことは教養学部にはできない.政策科学研究科(独立研究科)は,私が知る埼大時代は,2つのプログラムで商売をしていた.正式名称は忘れたが,国内プログラムとASEANプログラムと呼んでおこう.両方とも,学生はお役人であり,普通の学生ではない.ASEANプログラムはASEAN諸国の偉い方のお役人を受け入れる.たぶん政府経由での派遣だろう.国内プログラムは主に日本の地方公務員が学生である.ASEANプログラムの方は政府経由で受入れができていたと思うのであるが,国内プログラムの方は,県庁が大学院で学ばせるために職員を休ませないといけないので,学生定員の確保は難しかった.当時の自治省(2001年から総務省)官僚だった教授が年中各地の県庁を回って学生の呼び込みに奔走していた.自治省の高級官僚であれば県庁には強い権力を持っていたと思うが,それでも学生の確保は困難だった.
 政策科学研究科には「〇〇政策」という講座ないし授業科目が並んでいたが,その「〇〇」は特定の省庁に対応していた.金融政策なら金融庁ないし大蔵省,科学技術政策なら科学技術庁に対応し,かなりの数,その対応する省庁の方を教授陣として受け入れていたのである.いくつもの省庁が政策科学研究科に中に縄張りを持っていたようなものである.文科省(・文化庁)に対応する授業科目の1つとして「文化政策」があった.当然,人気のない政策科目である.
 それでも,いろんな「〇〇政策」の授業が並んでいれば,少しは履修する学生もいるかも知れない.が,政策としては相対的に重要度の低い文化政策だけで教養学部の院が店を開いて,誰が来るというのか? 学部卒の学生は,通常,学士課程で学んだ科目で院の進学を目指す.学部で政策を,まして文化政策を学んだ普通の学生などほとんどいない.お役人でも,わざわざ文化政策を学ぶために大学院に来る方は,いても希だろう.そういう希人がいるなら,まず英米の大学院に行く.教養学部の先生が県庁回りなどして学生を呼べる訳がない.
 「文化政策士」といった国家資格があるとか,専門職公務員の試験に文化政策という種目があるなら別であるが,そうではない.仮に文化政策に携わりたいと思う場合でも,まず公務員になることが優先である.公務員になるためなら法学や経済学を学ぶのが早く,文化政策を学んで公務員になりやすい訳ではない.

 第2は,その点は詳しく存じ上げないのだが,おそらく案らしい案が例の人事投票までに出来ていなかったように思えてならない.
 確か秋頃と思うが,私は当時の岡崎学部長に面会を申し入れて面談したことがある.「文化政策構想を進めるなら私を大学院担当から外してくれないか?」とお願いに行ったのである.文化政策を掲げた専攻で私が設置審を通るとは思えなかった.通ったとしても文化政策の看板の下で商売するのは本意ではない.
 ただ,その折は岡崎先生からあまりお言葉はなかった.担当から外れることはできない,という返事があっただけである.「教養学部の講座は修士講座であるから,在職する限り修士を担当することが前提になっている」ということか? といったことを私の方からお尋ねした.そうだ,という返事だったように思うが,正確なお言葉はなかったかも知れない.
 このときの面談結果は私には意外だった.これこれこういう訳だから,文化政策専攻になっても,あなたは今まで通りの授業をやっていればよいのだよ,といった返事をしてなだめられるだろうと私は予想した.そのようにいって欲しかったのである.私が不安を覚えていたのは,文化政策専攻に入ることになったらどうする必要があるか,ないかがハッキリしなかったからでもある.
 今から思えば,岡崎先生は私に説明をしなかった訳ではなく,何がどうなるか,まだ分からなかっただけではないか,という気がする.文科省から何かいわれればそれで決まるけれども,具体的な授業科目群構成を検討するところまで行っていなかった(でもそうはいえない),ということだったかも知れない.

 第3に,今から眺めると,文化政策構想は実現するための資源を時の学部執行部から与えらえていなかった,そのために潰れるべくして潰れた,というのが真相ではないか,という気がしてくる.つまり,学部教員の半分(おそらく半分以上)を擁することになる文化政策専攻に,新ポストを2つまでしか与えようとしなかった,という点である.ハッキリいって当時の教養学部教員に,まともに文化政策を担当できる(その実績を示せる)方はいなかった.では新規2ポストで文化政策専攻ができるかというと,まあ無理だったろう.それで文科省がOKというのかも知れないが,外部に公表する(例えば入試説明会で説明する)のはあまりに恥ずかしい.

 第4に,文化政策の推進においては学部内の「縦のライン」が奇妙であると映った.学部内に確か「改革推進委員会」という組織があり,そこに推進を主張する方々が集まっていた.ただ通常の将来計画委員会は別にある.私には頭が2つあるように見えた.その光景はなんとも不思議だった.
 改革推進委員会といった組織が将来計画委員会とは別途にあるとすれば,実務的な作業を行うWGのようなものであるはずだろう.判断は学部長と将来計画委員会が行い,実務的な作業を改革推進委員会がやる,同委員会は判断はしない,というのであれば「縦のライン」はすっきりする.が,両方の委員会が判断をしていたような感じがあった.
 例えば,私は2014年に再び学部長になり,人社研の設置の作業をした.2014年の2月と3月に,4月からの次期学部長予定者という立場で,次期三役+α(権先生や松原先生)で経済学部との間で人社研の内部規程類の協議をし,設置のための作業は主に4月5月に行った.その間,とりまとめは三役+αで行っており,その他の方々には,各自の個人調書の作成をお願いする以外はほとんど作業をして頂いていないと思う.実務的な作業は三役+αで行っており,実は実務のほとんどは事務方(ほぼ高松事務長)が行った.文科省との折衝も経済学部長と私+αが担っている.部内の縦のラインは単純明快だった.だから一層,文化政策の折になぜあんな格好のラインで話が進んでいたのか,不思議である.
 
文化政策構想の功

 私は文化政策構想にはネガティヴな気持ちを持っていた.しかし後から振り返ると,文化政策構想には功があったような気がする.よくいえば学問的,悪くいえば浮世離れした教養学部の中に実践的志向を持ち込んだことである.文化政策構想そのものは潰れたけれども,その「精神」は継承された.つまり,2001年度の修士改組で文化環境専攻を作ることで実践的志向が教養学部の中に導入された.
 このときに出来た実践的志向は,2007年,私が副学部長のときに案を取りまとめた大学院GP(当初の呼び名は「学院教育改革支援プログラム」)の「人文学諸領域の職業的スキルアップのために」の中で一応の形になった.このGPでは6つのプログラム(「日本語教育プログラム」,「埋蔵文化財保全教育プログラム」など)を設定した.三浦先生に多くのプログラムを発案してもらったことが印象に残っている.
 そのGPがなんじゃといわれればそれまでではあるが,2004年に大量削減を喰らって気分が落ち込んだ教養学部の気分を明るくするための公共事業としては役立ったのである(その後に私が仕掛けた公共事業の予算がグローバル事業だった).一時ではあるが贅沢ができた.
 当時,多くの地方国大の人文系では,地域貢献という形で実践的志向を持ち込んだと思う.埼大教養学部は,職業的なスキルアップという形で実践的志向を表面に出すことになった.その実質は問われてよいが,同じ方向での努力は今後も必要になる情勢だろうと私は思う.

文化政策構想時点で積み残した問題

 功があれば罪もあるのが普通であるが,文化政策構想には罪はない.構想が実現しなかったからである.しかし文化政策構想の後に出来た新たな3専攻体制は,後から考えると問題を残していたようにも思える.
 1996年発足の3専攻体制から新たな文化環境研究専攻を含む2001年発足の3専攻体制に移行するとき,誰が文化環境専攻に入るかは教員の希望で決めるしかなかった.この点で問題が生じていたのであるが,その点に気づくのは少し後のことである.
 問題とは,第1に同じ領域の教員が院の別専攻に属することが生じたこと,第2に院の専攻間の志願者のバラツキの問題が顕在化したことである.
 1番目の問題について.教養学部の領域構成は学士課程の構成が基本であり,学士課程では同じ領域は同じコース(後に専修-専攻)に収まっていた.しかし院の専攻所属は,文化環境研究専攻を作ったときに個人の希望で決まったから,学士課程では同じコースの教員が院の別専攻に属することが生じた.そのため,大学院での分野構成が分かりにくくなっていた.例えば,ある先生が外国に出るのに同じ分野の先生に指導教員をお願いするという場合,新たな指導教員は別専攻になる,といったことが生じた.すると学生を転専攻させないといけない.転専攻自体はよいとしても,特定専攻に入学したはずなのに教員の都合で学生の専攻名が途中で変わることになるから,学生にとっては割り切れない思いが残る.履歴書に説明を要することになりかねない.ただ,この点は相対的に小さい問題だった.
 2番目の問題はそれ以前にも存在したが,顕在化したのは私が最初に学部長(研究科長)になった2008年だった.その頃中期評価と認証評価の作業が入ったけれども,文化構造研究専攻で定員不充足であることが強く指摘されてしまった.
 実はその指摘が出るまで,教養学部執行部は研究科全体で定員を充足していればよいという認識だった.文化構造研究の充足率は前から低かったが,日本アジア専攻の特に日本語教育部分で多くの入学者を受け入れていたので,研究科全体は学生を充足していたのである.が,定員充足率は定員を定義する専攻別で算出される,と分かった.いわれてみれば理屈である.評価で現れた問題点はこの問題だけではなかったけれど,この問題が一番大きかった.私はこの問題の対処に追われることになった.
 当時私が調べたことの記憶では,文化科学研究科発足当時と2008年当時では,修士の定員も志願者数も同じであり,以前は問題はなかった.しかし2点で変化が生じていた.
 まず,以前は定員を充足させなくてよいという認識だった.定員より少ない入学者を受入れ,他は「レベルに達していない」といって入学させなかったのである.「こんな学生を入学させると苦労する」といういい方がよくなされていた.しかし2008年当時になると,定員は充足させることが求められたのである.
 もうひとつの変化は,志願者数自体は変わらなかったが,日本人学生,特に学部進学者の受験比率が落ち,留学生比率が増えたことである.だから関口学部長時代に,院アドミッション委員長だった加地先生の進言で,それまで外数だった留学生入学者を内数に変えていたのである.
 留学生(多くは中国出身者)はそれまで基本的に日本語を学んできた学生である.だから多くの留学生はそのまま日本語分野を受験した.また,そういっては悪いが,日常的に馴染みのある事柄を扱う分野,例えば社会学やメディアといった分野で受験した.留学生は,ドイツ語を学んだ上にドイツ文学に親しむ必要のあるドイツ文化とか,政治経済の基礎的な勉強が前提になる国際関係論は,まず受けられない.
 この問題に対して私がとったのは2つの弥縫策だった.第1は,文化構造研究専攻の先生方には入試で合格者を出すよう促すことである.第2は,他専攻におられた同一分野の先生に文化構造専攻に移るようお願いしたことである.
 第1の弥縫策に対しては,教員側から当初,強い抵抗があった.当時,レベルに達さない学生を落すことが正義だったからである.何度も入試判定で教員側から拒否された.しかし私も諦めずにいい続けた.次第に,入学者を増やすようになってきた.第2の弥縫策もある程度は実現した.その結果,「文化構造研究の充足率はV字回復した」という趣旨の報告書を書くことができ,評価をなんとかクリアした.
 その間,「できない学生は取りたくない」といって「文化構造研究専攻の定員を減らすように申請しろ」と私に迫る先生もいた.しかし自ら学生定員減を申請することは白旗を上げるに等しい.自ら白旗を上げることは学外,学内政治への考慮から出来なかった.
 実は17大学人文系学部長会議の17大学の人文系の中で,教養学部修士の学生定員は群を抜いて多かった.しかも他大学の場合,そういっては申し訳ないが,志願者と合格者と入学者の数はほぼ同じ,つまり受験した学生はほとんど入学させていたのが実態なのである.しかも,埼大の場合は留学生の日本語受験資格N1を維持していたが,結構多くの大学はN2だった.つまり,東京という大きな人口を抱える場所に隣接していたがために,埼大は結構贅沢なことをいえたのである.

問題の根源

 問題の根源は明らかだった.この程度の学生定員で3専攻は多過ぎるのである.その意味で問題は1996年から始まっていた.どのように専攻分けをしても,3専攻の各々で正確な定員管理をすることは難しい.1専攻にするのがベスト,悪くても2専攻であるべきだった.しかし文科省に申請すれば設置審を課せられて面倒になる可能性があった.申請時に文科省から面倒な宿題を課される恐れもあった.だから設置をいじることは私は避けたかった.
 しかし,望まぬことであったが,設置申請をする機会が,私が再び学部長になった2014年に訪れた.経済学研究科と統合して人社研を設置することを学長から課せられたときである.この人社研設置には私は最後まで抵抗したが,予算も通ってしまったので抵抗しようがなかった.そのとき,残念ながら設置はするけれども積年の問題を少しでも解決する方向で考えた.都合よく,教養学部教員が入るのは2専攻だった.
 その際,上記の問題への対処として私は2点を発案し,教授会と全学から了承を得た.第1は,学部5専修に対応する5つのコースを修士課程に作ることである.そのことによって,学部と院との関係を整理したかった.ただし日本史,東洋史の先生の所属など,一部には例外は出た.
 第2は,新研究科の研究組織を常識的な学問分野,つまり科研費領域区分で定義したことである.このときの学問分野は米国大学であればdepartmentの名称に相当する.この研究組織は当面は利用する目算はなかったけれど,次に述べるように,将来的な展開の中で整合的な組織を作るときには利用される可能性があると思えた.
 研究組織を科研費分野で定義することを提唱したとき,時の山口理事(次期学長)と加藤理事から即座に支持があった.ご両名とも私と同じ目算を抱いたのかもしれない.

 このブログでも論じたことがあるが,日本の大学制度は米国に比べると奇妙で複雑な点があると私は思う.ここで論じた文化政策騒動などは,その奇妙さから生じたのではないか,という気がしている.
 米国の普通の大学は,研究分野ごとに department があり,その department が学士課程プログラム(Undergraduate program)や大学院教育プログラム(Master/Ph.D. program)を提供する.deparnment は日本の制度では研究組織(の単位)といえるだろう.だから,学士課程と大学院とで性格が乖離することは原則としてないと思う.
 ところが日本の場合,大学(の部局)は教育課程として設置される.しかも,大学(学士課程)と大学院とが法令上別になり,学士課程と大学院とでそれぞれ別個の設置を経る.だから学士課程と大学院とで異なったことをやるという変異が生じる余地が出てしまうように私は思う.
 米国の流儀なら,文化政策を大学でやるとすれば,そのようなdepartmentを新たに作るか,特定のdepartmentを持たない学際的な教育プログラムとして文化政策プログラムを発足させるか,という選択になるだろう.少なくとも既存の教育プログラムやdepartmentの性格に影響が出ないだろう.しかし日本の場合,学士課程の設置を考えずに院の設置する余地が出てしまうから,その結果学士課程が維持できるのか,という懸念が生まれてしまう.文化政策騒動という奇妙な出来事は,この日本の大学制度の奇妙さから生じたことではないか,という気がするのである.

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「文化政策」とは何であったか?(上)

 1つ前の記載で「文明動態研究センター」について書いた.その頃のことは私は覚えていなかったけれど,当時のメールや日記が残っているので,ある程度のことは再現できた.過去の出来事に対する人の記憶は歪む.私の場合も例外ではない.やはり同時進行で残した記録を見ないと実際のことは分からない.
 2000年の同センターについて記録を調べるにあたって,その前年1999年の日記なども眺めた.1999年とは,埼大教養学部が「文化政策」の問題で揺れた年である.だからついでにその「文化政策」についても語ってみたくなった.やはり日記等を眺めると,私が記憶していた,と思っていたことがやや違っていることを実感した.
 「文化政策」の問題とは,教養学部の大学院(今の人社研の前の文化科学研究科)を「文化政策」を中心にまとめようとする動きがあったことを指す.この件は,1999年の2月に教養学部と経済学部が合同の博士課程構想を文科省に持って行った(らしい)ことから始まり,同年の12月20日にとある人事が教授会で否決されたことで終わった,ある意味異様な騒動である.
 当時,私は,教授会には出席していたけれども,実は在籍時間は短かった(教授会が長過ぎたのだ).だから公式の話はあまり知らないのが本当の所である.いまだによく分からないことが多い.ただ,どんな話であったかという点を日記などに残した当時の記録から分かる範囲で書いてみたい.あくまで私が残した記録からの経緯であり,別の人は別の像を描いて不思議はない.

私の目に映った文化政策騒動始末

 どの程度正確か分からぬが,私が人づてに聞いた話では,1999年の2月に経済学部と教養学部で,合同の博士課程構想というのを文科省に持っていって相談したらしい.そのときに「博士課程以前に修士課程を何とかしなはれ」といわれたらしい.教養学部は,私が着任した1980年代当時から,日本文化を中心に据える方針があった.だから博士課程構想も日本文化中心と私は思っていた.しかしなぜか「文化政策」をやるんだ,という方向性で学部の執行部は考えているらしい,という話を漏れ聞いていた.
 修士課程を「文化政策」中心にする,という話は,公式には,5月19日の臨時教授会(以下,研究科委員会も教授会と書いておく)で出てきた.その2日前に私は当時の阿部学部長に呼び出され,その案をいきなり見せられて意見を聞かれた.そのときが「文化政策案」の初見である.修士課程を文化政策専攻と国際ナントカ専攻にする案だった.もともとは2つのプログラムを導入する案で考えていたが,2つの専攻にする,ということだった.私は文化政策専攻に属するらしい.唐突なので驚いた.「文化政策なんて需要がないでしょう」と答えたと日記には書いてある.
 実は文化科学研究科は1996年にそれまでの2専攻(社会文化論/言語文化論)を3専攻(文化構造研究/日本・アジア研究/国際文化研究)に改組している.その完成年度が1998年であるから,1999年にまた改組をいい出すのは常識的ではないのである.
 5/19の臨時教授会でこの案が説明された.さして反対論はなかったが,冷めた意見がかなり出た.その2日後の教授会で条件付きでこの案は承認された.条件とは,専攻の中に従来型のコースを作る,ということだった.

 詳しいことは省略するけれども,この文化政策案はその後も夏から秋にかけて何かの節目には審議され,その都度承認されていたと思う.ただし変更があり得るという付帯条件が付いていたので,その「承認」の意味は人によって解釈があった.
 ただ,時間の経過とともに学部内では冷めた空気が広がったように思う.最初の5月の教授会では,挙手で反対したのは私一人だった.反対のように話していた人も反対できなかった,といっていた.時間の経過とともに反対できない雰囲気は薄まったと感じた.次の要因が働いたように思う(私の見方である).
 第1に,博士課程設置と文化政策の話の関係が曖昧になってきたことである.当初は博士課程設置のために文化政策,という話であったけれど,夏休み前の文化省折衝では「ドクターのない研究科の意義」を文科省の担当官が口にしたという話が,公式にも非公式にも流れて来た.だから博士課程設置とは違う方向の話になっているという感触が強くなった.
 第2は,文化政策の主導者の先生方が次々と転出するための割愛を申請し始めたことである.おそらく,その年は転出する人数が教養学部史上最も多かったように思う.転出する方の多くが文化政策の賛同者であり,特に大きかったのは最も中心の人物だった先生と,「改革派」評議員の先生が転出することが伝わったことである.普通,転出を表明したら学部改組の話からは身を引くと思うのだが,転出する身でありながら「改革」を主張する,という一風変わった光景が生じた.当然,白け始める人が増えたのである.
 第3は,文化政策というポストの新規採用教員の人事が,転出者が出る中で同時に進んだことである.経緯は分からぬが,文化政策推進者がある方を採用するつもりだという情報が流れた.前の年まで文科省高等教育局のポストにいた方である.ついでにいえばその方は政策科学研究科の教員歴もある.文化政策推進者側から「その方が文科省ともパイプになってよい」という発言があったことが伝わった.反発も出た.
 そんな中で,人事委員会から最終的に教授会に提示された候補者がまさにその方だった.そこで,なんか変な背景のある話ではないか,という憶測が広がった.また,転出者が出たことからその後任人事をどうするかが議論になった.後任が取れない部署があるなかで,なんでその人事を進めなければならないのかという恨みのこもった意見まで流れるようになった.

 かくして,当初は反対できない雰囲気であったものが,段々と不満をいう人が増えてきた.また,学部上層部でも,文化政策のために使うポストは多くて2つ,という判断があるという噂が流れ,後に学部長や将来計画委員長がそのことを会議で確認する発言をするようになっていた.学部の上部の会議(将来計画委員会など)でも,その人事の投票結果によって今後の方針を考え直すような合意になったという話が伝わった(真偽は分からぬが,その後の経過を見るとその通りになった).
 そんな訳で,文化政策に関する学部の判断は,政策科学ポストの人事の投票の一点にかかるようになった.文化政策の人事の投票結果がどうなるかは私は no idea だったが,根回しがあるのは存じていた.だから否決になるという観測をいう人もいた.問題の投票は12月20日の,編入試験1日目の後の教授会で行われた.
 投票の結果,この人事は否決された.票数を私は日記に記していた.最も多かったのが「×(反対)」,次が「〇(賛成)」,次が「白票」である.反対と白票を合わせると賛成のちょうど倍だった.人事の表決では白票は×と同じである.社会科学系を中心に強く反発した人たちが反対,推進論者が賛成,眺めていて白けた人たちが白票だったと思う.
 文化政策騒動はこの投票で終わったといってよい.私の関与もこの時点で終わった.加藤先生(後の加藤理事)が動き出したので彼の剛腕に任せるだけだった.
 新たな改組案が出てきた.これまでの3専攻のうち「国際文化研究専攻」を「文化環境研究専攻」とし,これまで文化政策を叫んでいた人たちのやりたそうなことを「文化環境研究専攻」にまとめる,ということだった(しかし文化政策の推進者が必ずしも文化環境研究専攻に入った訳でもない).旧「国際文化研究専攻」の構成員で文学系などの方々は「文化構造研究専攻」に移る,という案である.
 この案は妥当な落し処だった.文化政策に反対した人も,別に文化政策を止めさせようとした訳ではない.社会学などを含め,多くの分野が文化政策専攻に入る,という無理を止めて欲しかっただけである.また「日本・アジア研究専攻」が残ることで,日本研究を中心に博士課程構想を進めるという従来路線も継承できた.しかも1専攻の名称変更で済むので,設置審を通すという面倒さも回避できた.この1999年はこの件でずっと争いがあったけれど,普通のやり方をしていれば,夏頃にこのような落し処で落ち着いていたように思う.

時代背景

 大げさにいうなら,教養学部の文化政策騒動は,いくつかの要因が歴史的に偶然重なった時期に生じたといえるように私は思う.要因とは次の3つである.

 第1は,その時期は国立大学で博士課程設置の可能性が高かったときであり,それゆえに設置熱が高まったことである.1990年から2000年までの間に,国立の上位大学の大学院の補強がはかられた.具体的には旧7帝大と東工大,一橋が,その(ほぼ)全部局を大学院重点化し,それに伴う予算措置を得た.この重点化により,法人化を前に上位大学は下駄を履かせてもらったような所がある.その9大学に東京医科歯科あたりを加えたのが,公式の,元祖重点化大学だったような気がする(いろんな重点化大学がその後定義され,現在は指定国立大学法人が公式の重点化大学の地位になっているように思う).
 重点化大学が出現すると,それ以下の大学も大学院の充実を追うようになってきた.その場合,博士課程を持つことが大きな目標になっていった.定員が充たせる(広義の)理系は早くから博士課程を持った.ちなみに埼大の理工が博士課程を設置したのは1989年である.遅れて,定員を充たせる文系部局は博士課程設置に動くようになった.埼大の近隣で調べてみると,千葉大の文学系が博士課程を設置したのが1995年である.1996年には学芸大に埼大・千葉大・横国大が加わる形で連合大学院の博士課程が出来た.形の上では,埼大の文系では教育学部が最初に「上に博士課程がある」格好になった.埼大と同じ新制大学の横国大は,1999年,つまり文化政策騒動の年に経済と経営の研究科で博士課程を設置している.だから新制の地方国大の文系では最初かも知れない.横国が設置したということは,同時期に埼大にもチャンスがあっただろう.実際,2002年には埼大の経済が,2003年には教養学部が,博士課程を設置した.宇都宮大学の国際学研究科は,2004年に修士定員を10名増やし(その結果,埼大教養と同じくらいの定員30名となった),続く2007年に博士課程を設置している.つまり30名規模の修士定員を持ち,充足させている文系部局は,新制大学でも博士課程設置の目はあったというべきである.文化政策騒動はそんな状況の中で生じた一コマだったろう.

 第2は中央省庁の再編の時期と重なったという要因である.この当時は中央省庁の再編が検討され,その結果2001年に再編がなされ,文部省と科学技術庁が統合されて文部科学省が発足した.文化庁はもともと文部省の外局であり,引き続き文化庁を文科省の外局にするのが文科省の考えだった.そのために文化政策という言葉を使い始めた,ということは,1999年当時,私が調べて認識したことである.だから,その時期,文科省は文化政策という言葉をさかんに使ったと思う.
 ちなみに,1999年当時私がネットで調べると,桜美林大学が文化政策の名を冠する課程をもっていた(と私の記録にはある).ただし今調べると,ない.たぶんどこかで止めたのだろう.また,2000年に発足した静岡文化芸術大学は,まさに文化政策学部を作って発足した(今もある).ただ,以後の展開を見れば,喉元を過ぎれば文科省も文化政策という言葉を特段有難がらなくなったかも知れない.

 第3は,当時,埼大にはまだ政策科学研究科があったことである.政策科学研究科では少なくとも1995年には文化政策を教えており,現在も政策科学大学院大学では2人の文化政策担当教授がおられる.文化政策人事で話題になった方も政策科学研究科で助教授をされていたらしい.政策科学研究科は埼大から独立し,政策科学大学院大学を1997年に発足させているが,同大学院大学が学生を受け入れたのは2000年からであり,埼大の政策科学研究科が廃止になったのは2001年である.つまり実際には1999年当時,政策科学研究科は埼大に存在していた.
 政策科学研究科は,吉村先生という方が永代の研究科長だった(一時,文部省OBの有名教授が研究科長だったときもある).吉村先生には毀誉褒貶があるが,おおまかにいえば埼大はいろんな意味でお世話になっている.ちなみに,教養学部は1977年の文化科学研究科(修士)を発足させた.新制大学の文系としては異例の早さであり,経済学部が研究科を作るのは1993年,つまり理工が博士課程を設置する後なのである.文化科学研究科を設置できたのは教養学部が偉かったからでなく,政策科学研究科を発足させるときに,ついでに文化科学研究科も吉村先生に作って頂いた,というのが実際だろうと思う.理工が理研と連携する際にもお世話になったと聞いている.だから,法人化とともに就任された田隅学長は,吉村先生に埼大の顧問をお願いしている.
 文化政策騒動があったときは政策科学が埼大に関与する最後の時期だった.そのことがこの問題の1つの偶然的要因だったように思う.政策科学研究科が変なことをしたという意味ではない.しかし政策科学研究科は教員や,特に事務方上層部が頼りにすることはあるから,展開によっては意見を聞かれることもあり得る.それがなくても,政策科学研究科という「成功例」がぶら下がっているということは,何がなくても影響力を及ぼす余地はあっただろう.
 ちなみに,教養学部の哲学領域は文化政策推進者が多かったように思うが,哲学の方々の多くは東大文学部哲学科のご出身であり,偶々吉村先生の後輩であったことは,何かの縁であったかも知れない.

 この文化政策構想にいかなる問題があったか,どのような功績があったかについて,次回で述べたい.

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文明動態研究センター

研究センター案の記憶

 在職中のちょうど2000年の頃と思う.私は「文明動態研究センター」という企画を考えたことがある,と記憶している.その時は埼大教養学部の研究のあり様について,私なりに真面目に考えた時だったように思う.ただ,私にも詳しいことの記憶は今はない.
 そのセンター案がどんな案だったかと思い,古いファイルのストックを探してみた.私のことであるから,企画書のようなものを残しているだろうと思った.
 しかしどうも,企画書のファイルは見つからなかった.いろいろ調べてみるとメールの中でそのセンターに言及している文章があった.断片的に残った同センター案の痕跡を並べてみると次のようなものだった.

■名称と研究領域

〇名称:文明動態研究センター
(Saitama Univ. Center for Civilization Dynamics、SUCCD:サクシード)
〇趣旨
 ここで文明と呼ぶのは、人間の社会的活動、文化的活動、およびそれらを支える科学技術体系を含めた総体である。文明は空間的な広がりの中にあるだけでなく時間的には歴史の中で進化する。この研究センターは文明に関わる広範な人文・社会事象を多面的な視覚から研究することを目的とする。

〇領域
(1)比較文明研究(Comparative Studies of Civilizations)
様々な文明は人類を通じた共通性と文明の独自性によって彩られている。そうした文明の共通性と独自性を、文化的、社会的諸側面に焦点を当てながら、必要に応じて理工学の研究者、技術者の協力を得つつ、比較の視点で研究することを目的とする。
(テーマ例示)「芸術など表象文化」、「アンデス」、「芸術コンテンツのマルチメディア・プロジェクト」、「考古学」、「中国古代研究」など

(2)国際日本研究(Japanese Studies in International Perspectives)
特に日本という文明の社会的、制度的、文化的基盤を実証的あるいは理論的に解明することを目的とする。
(テーマ例示)「日本の哲学思想」、「制度の日本的特質の研究」など

(3)制度情報解析(Socio-Informational Studies of Institutions)
文明の存立を可能ならしめる社会制度の機能や成立基盤を学際的に研究する。従来の計量的・数理的手法はもとより、コンピュータによる計算アプローチの導入を促進する。
(テーマ例示)「医療経済学」、情報科学関連、Artificial Society(コンピュータシミュレーション)」、「制度の経済学(ゲーム理論とか社会的選択理論を含む)」、「動物行動学、生態学との協力に基づく社会の基本メカニズムのシミュレーション研究」など

(4) 社会動態解析(Socio-Dynamics Studies)
文明の成立・変容は様々な社会変動の過程を通して生まれ、また文明特有の社会問題を伴う。そうした社会変動の過程を分析するとともに、社会問題に対する有効な政策対応を科学的に解明することを目指す。
(テーマ例示)「政策関連の研究」、「人権問題」、「都市計画」、「環境・開発問題」、「紛争解決」など

■業務

 研究機関は次を業務とする。
(1) 研究
 上記の4部門ごとにいくつかの研究プロジェクトを行う。

(2) 研究アイディアの集約
 当研究機関は研究プロジェクトを推進しながら、同時に次の期間に行うプロジェクトの候補となるような研究のアイディアを開発する業務を行う。第1に応募されたプロジェクトの候補について担当者のワークショップを開設し、研究のアイディアの促進をはかるとともに、その将来性を評価する。第2に、学内外の研究会と連絡をとりつつ、その研究会と当機関との研究上の交流をはかる。

(3) 研究成果の普及
 研究成果の普及は当機関の中心的な業務である。第1に研究成果は機関名・研究員制度等を明示した上で学会誌に投稿することを義務とする。第2に成果を研究所の報告書としてまとめることに加え、単行本への企画を支援する。第3に研究成果に基づく、研究者向け、および市民向けのセミナーを定期的に開催する。第4に、当機関の研究成果はプロジェクトの進行に合わせてすべてインターネット上の当機関サイトにおいて公開する。プロジェクトの事後評価もすべて公開する。著作権上の問題がない限り成果をダウンロードできるようにする。

(4) 独自の資料の収集
 埼玉大学が資産とすべき歴史的な資料の収集に努める。資料収集の長期的な方針は運営委員会で別途作成する。資料は市民の閲覧に供するとともに、インターネット上の当機関サイトにおいて概要を公開する。

■ 運営組織

〇運営委員会:
・内部委員と外部委員。(7名程度、任期3年程度で毎年一部ずつ入れ替える)
・機能:研究所の予算、人事
〇事務局:
・常勤事務員(補助職員、派遣職員)、1~2名
〇研究交流室(セミナーコーディネイター、レセプショニスト)
〇情報公開室(情報公開)
〇資料室

■ 運営方針

 当機関は大学改革への積極的な意欲に基づき、大学組織の現状での硬直性を克服することを目的として設立するものである。この目的のために次の運営方針を掲げ、状況に応じ柔軟に研究を進めつつその業務を遂行しようと考える。

・萌芽的アイディアの支援
・学際性
・流動性
・開放性(外部委員による審査委員会)
・競争性
・潜在的研究戦力の活用

〇萌芽的アイディアの支援
 日本の研究状況に現状で必要なことは新たなアスペクトに基づく研究を立ち上げることである。新たなアスペクトを生み出し国際的な研究の流れに影響を与えるような成果を生み出さない限り、日本が研究面で尊敬を集めることは難しい。そのために、当機関は萌芽的なアイディアの発掘に努め、そのプロジェクトを積極的に推進することをその方針とする。

〇 学際性
 革新的な研究の方向性は学際的な研究の協力によって、相互に未知の発想が出会うことによって生み出される。そのため、当機関は学際的な研究を積極的に評価することにより、研究プロジェクトに新たな刺激を与えることを方針とする。


〇 流動性
 現状の大学組織の問題点の1つは人員の流動性の低さである。流動性の低さは研究者の研究への動機づけを抑制する可能性があるとともに、研究上のアイディアの交流をも抑制してしまう。研究への高い動機づけを維持しつつ斬新なアイディアを生み出すためには人員の流動性は不可欠である。当機関では研究プロジェクトを短期的に評価しつつ、柔軟に人員を交代することを方針とする。研究部門の設定や当機関の方針自体も5年ごとに見直して行く。

〇 開放性
 研究水準を維持・促進し適切な流動性を確保するためには、機関が絶えず外部の評価に反応することが必要になる。当機関では研究プロジェクトの評価・採択を外部委員を含めた審査委員会に委ねるとともに、継続的に研究内容を公開することを方針とする。また、埼玉大学外の研究者の参加を積極的に促進する。

〇 競争性
 研究活動の活性化のためには競争原理の導入が不可欠となる。当機関では、研究プロジェクトの採択や資源配分には実績と将来性に基づく徹底した競争原理を審査委員会において採用し、「持ち回り」ないし「平等主義的」な研究プロジェクトの採択は極力排除することを方針とする。

〇 潜在的研究戦力の活用
 活発な研究活動の展開のためには、若く、新鮮なアイディアに富んだ人材の活用が望ましい。当機関ではそのため、十分な能力を持ちながら現状では十分な活動の場が得られない研究者層、すなわちポスドク、オーヴァードクターを、独特の研究員制度によって活用することを考える。この研究員制度は単に当機関の生産性を高めるだけでなく、日本の研究状況の活性化にも貢献するものと見込まれる。

同センター案を出した状況

 上記のセンター案記載は,2000.5.7に私が永田先生に送ったメールにあった記載の切り貼りである.メールの表題は「追加・修正個所の提案」であるから,この記載以前の原案があったのだと思うが,原案のファイルは出て来なかった.
 メールを調べると私の思い込みが不正確であったことが分かった.まず,私は「文明動態センター」という案を出して,西村先生から誉められたと記憶していた.しかしメール記載を調べると,1996年に「文明動態研究科」という研究科名称を考え,西村先生から誉められた,と載っていた.だから上記のセンター案を出す前に,当時の文化科学研究科という名称に替えて「文明動態研究科」という名称を(どこかで)提案し,西村先生から誉められた,ということがあったのだと思う.
 このセンター案のメールであるが,直接メールをやり取りした相手は永田先生と加藤先生に限られていた.永田先生が入るのは,彼が企画を考えるのが好きだったからだろう.当時,兵藤学長の下で副学長だった加藤先生が入っていたのは,全学で研究センターを作ることを模索する動きがあったためだろうと思う.
 「文明動態研究センター」というコンセプトは,教養学部がやっていることを研究面で押し出すためのコンセプトだった.教養学部が好きな「文化」ではなく「文明」にしたのは,その方が含むものが大きいからである.「文化」はどうしても,文学系の人の発想を代表してしまう.中心に置きたかったのは人類学だった.上記で想定した研究領域の設定も,教養学部的に売り物になる部分をどのように表現するか,という思考の結果だったはずである.しかし加藤先生からは「領域は重要ではない,仕組みが重要」というコメントがあった.だから,仮に全学で進めることになるときは,私が想定した研究領域はすっぽり抜かれることになったかも知れない.結局,埼大の研究機構の,少しだけ金が出て部屋を提供するという月並みなプロジェクト制度の中に,このセンター案のアイディアは消えていったのだろう.
 2000年というタイミングは,教養学部で「文化政策騒動」があった直後である.2000年の3月頃には修士課程の改組計画の骨子が決まり,2001年度には実際に改組した.また2001年度には教養教育の問題が全学で浮かび上がり始め,私もかかわるようにかった.同時に,2001年度からは教養学部の学部組織をコース制から専修制(当初は学科制)に切り替える作業が入り,私は将来計画委員長になって2003年度までに専修制を取りまとめた.2001年度の末には群玉統合の話が持ち上がった.2002年度には教養学部に博士課程を作る話が文科省から舞い込み,実際に博士課程を2003年度に設置した.そういう慌ただしい中で一瞬ヒマが生じたときの出来事だった.

どこに夢があったか?

 このセンター案に夢を感じたのは,その少し前にオランダのハーグ近郊 WassenaarにあるNIASキャンパスで,とあるConferenceがあり,出席したことによる.NIAS(Netherlands Institute for Advanced Study in the Humanities and Social Sciences)の本拠はアムステルダムらしいが,ハーグとライデンの間にあるワッセナーにも小ぎれいなキャンパスがあったのである.いろんな分野の方が研究のために滞在していて,感じが良かった.そういうNIASのような環境を身近に作れないかと考えたのが,私の直接の動機だった.
 その頃は博士課程の設置を巡って経済学部と教養学部がつまらない意地を張り合っていた頃である.博士課程を作れれば体面は良いのかも知れないが,私には魅力のない話に映った.旧帝大なら博士課程にある程度優秀な学生が集まるけれども,埼大では無理と思えたのである.旧帝の場合,確かに,院生を組織することで研究を進めることができる.ただ,理系は別と思うが,また分野によって異なるかも知れないが,埼大の場合,博士課程を持っても自分の研究にはプラスになるとは思えなかった.自分が研究する環境を作ることの方に夢が持てたのである.
 当初は教養学部で研究機関を作れないかと私は思ったのであるが,結局は無理だった.埼大の立場と規模では無理なのだろうと思った.私が当時の群玉統合が良いと思った理由の1つは,大学の規模が大きくなることで,研究機関を作る余力が出来るのではないかと思ったことがある.
 大学らしくあるためには,研究に専念できる機関を持ち,ある程度の時間そこに属する可能性を持てるようにすべきなのではないか? そのような研究機関を持つことで,大学としての独自性も発揮できるようになるのではないか?

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大学の「内部統制システム」とは何かの冗談か?

 国立大学で「内部統制システム」が出来た,という話をどこかで見かけた.いや,大学で「内部統制」なんて言葉を使うかね,と一瞬疑った.念のためググってみると,いろんな国立大学で内部統制システムの規程というのが出て来る.埼大サイトを見てみると,規則の最後に「内部統制システム運用規則」というのが載っていた.ああマジなんだ,と知って驚いた.
 埼大のその規程は今年の3月18日の制定とある.ちゃんとは調べていないが,他の国立大学でも制定日は同じ頃だったような気がする.つまり,文科省が内部統制システムの規程を作れといい,仕方なしにみんな揃って作ったんだろう.
 埼大のその規程を眺めても,何のことかはよく分からなかった.要は,法令・規則通りにやることを監視する体制を作れということのような気がする.法令や規則は遵守するのが当たり前であり,監事もいる.だから,いまさら内部統制はないだろうと思えた.遵守の確認は業務の中で行うのが当たり前のはずである.
 要は綱紀粛正しろ,という「気合」の問題だったのだろう.気合であるなら「綱紀粛正宣言」でもよかったろうが,それではあまりに漫画みたいなので,内部統制システムを明示して「気合」を示すことになったんだろうな,と思えた.

 それにしても呆れた.内閣府の骨太の方針では,国立大学は自律的な組織にする,国との新たな契約関係を構築する,と書いてあった.だから内閣府的には,国立大学は国とは独立に動く組織であることを目指すことにしたと私は理解した.でも文科省は違う.
 以前にもこのブログで書いたが,文科省はクレムリン型の共産主義官庁である.日共から送り込まれた役人も多いだろうし,チュチェ思想の方々も多いと思う.しかしこの「内部統制」という言語感覚には驚く.この言葉,「内部統制と粛清」とか,「内部統制とシベリア抑留」などと使うノリではないか? 大学は「馬鹿馬鹿しいから止めませんか?」といえなかったのか? せめて「もう少しエレガントな言葉を選べませんか?」といえなかったものか?
 文科省文書で内部統制システム関連を検索してみると,「相互監視」とか「通報しやすいような内部通報制度」といった事項が載っている.それって,密告による監視体制そのものではないの? 恐れ入る.
 社会心理学の以前の知見から想像するに,「内部統制」などという言葉を顕現化すると,規則遵守への内発的動機づけは低下しますよね.すると監視がかかりにくい所で違反行為が多くなり,そのことによってさらなる監視強化が導かれる.相互監視,密告,統制強化という増幅的なサイクルに入って行く….ほっほっほ.

 たぶん国立大学は,埼大を含めて,内部統制システム規程を作って気合を見せた.けれども実質は何もしないだろう.それで健全なのだが,年1回の無用な形式的会議を増やしたのは無駄だったように思える.

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入学式中止と聞いて妄想するあれこれ

 私のカミさんに近所の小学校と中学校から「入学式への配慮のお願い」といった趣旨の紙が回ってきた.カミさんは民生委員をしているので,例年,入学式などには一応声がかかる(行っていないと思うが).今年は,入学式を縮小して実施するので,配慮(要するに遠慮)願いたい,という内容である.コロナ禍で入学式も新入生だけでやるようだった.
 埼玉大学の入学式はどうなっているかな,とふと思って埼大サイトに入って入学式の記事を探した.中止とあった.えっ,マジ? 意外だった.さいたま市は感染数が多いとはいえ,蔓延防止措置の対象地域でもないから,大事をとるなら縮小して実施する,くらいだろうと思った.
 入学式なんてものは実質的な意味はないのは私もよく分かっている.海外の大学で入学式なんてやることはあまりないだろう.だから廃止してもよいだろうと私は思う.しかし実施する建前になっている以上,何か格好をつけるものと思えた.特に今年は大学のスケジュールを正常化する(必ずしも以前に戻る,ではない)意思を見せるべきだろう.そのためには,入学式をやってみるのもメッセージ性があるように思えた.

 念のため,埼大の近隣にある国立大学の入学式がどうなったか,ネットで検索してみた.次のごとく,どこも入学式を実施していた.

宇都宮大学:入学者を学部で2分して開催,院は別開催 宇都宮文化会館
茨城大学:新入生代表の参列による小規模式典,ライブ配信 水戸キャンパス講堂
群馬大学:2分して開催 ALSOKアリーナ
千葉大学:新入生のみ参加の式典,ライブ配信 千葉ポートアリーナ
筑波大学:新入生のみ,2分して開催 大学会館講堂 ライブ配信

 まあ,埼大的には,例によって,上記の大学は何れも田舎の大学であり,都心に位置する埼大は違う,といい出すかも知れない.そこで東京の有名どころをついでに検索してみた.次である.何れも,何らかの形でしっかり実施している.東大は日本武道館でやるって,ええっ,金あるなぁ.

東大:新入生のみ 日本武道館 ライブ配信
東工大:新入生代表のみ 東工大蔵前会館 ライブ配信
一橋大:学部別開催 昨年度入学生も対象 兼松講堂 ライブ配信
早稲田大学:分散開催 早稲田アリーナ

 目立った大学は入学式をする中で埼大が中止にしたというのはどういう事情があったのか? という点について私の中で自動思考が働いた.自動思考は自動的であって,私の意思で生じたことではないから許して頂きたい.
 
1.Hグループの貧乏
 実は追加で検索してみて,入学式を中止したことが分かったのは,お茶大と横国大だった.埼大,横国,お茶の水と並べると,何れも文科省の財務分析上のHグループに属する.Hグループというのは,領域特化がなく,資源をもらえる学部(医系)がなく,学部数も多くない国立大学のグループである(残余概念といってよい).このグループの大学は,見た目に増して金がない.すべての国大には必要な予算が手当されている建前とは思うが,予算の規模が小さければ糊代がないので資金を捻出する余力がない.だから貧乏感が強い.金がないと,教員数以上に職員数が下がる.また,単純に入学式のための支出に制約が出ることもあるかも知れない.

2.労力の制約
 金がないことで労力に余裕がなくなる.例えば1-2月の入試志願者数は,普通の大学では即日公表するのであるが,私が見た東日本の国大の中では,埼大だけが即日公表が出来ていなかった.やりくりが苦しいのだろう.確かお茶大も職員数が少なかった.新学期で労力を使う時期に,新たな方式で実施する手配を出来る状態ではなかったかも知れない.
 私も経験したことがあるが,労力に制約があるとき,なんだかんだとやるべきことが時間的に後ろ倒しになり,会計上の問題で年度末前後が忙しくなることがある.だから入学式などは止めたくなるかも知れない.東大などは金余りのはずだから,何とでもなるのである.

3.会場使用料が出せない
 もろにお金の問題もあるかも知れない.例えばコロナ対応で入学式を分散開催すると,会場の使用時間が長くなるから使用料も跳ね上がるかも知れない.長い使用時間で予約していなかったので,後から時間の追加が難しいこともあるだろう.Hグループというと,入学式を実施した茨大と宇大も同様であるが,この両大学については会場の使用料が安いかも知れず,茨大は自前の会場で小さくやっている.

4.合意が取れない
 学長の決定権が強ければクリアされるけれども,そうではなく,合意を時間内に取ることができなかった,ということもあるかも知れない.まあ例えば,新入生の学部別の代表を決めるには,教授会決定でなければならないなどといい出す人もいるかも知れず(入学者を決める訳でないから法令上は学長=事務方が代表を決めるのは可と思うが),その教授会が時間内に開けない,といったポテチンな事情もあるのかも知れない.

 みんなビンボが悪いのやぁ.ただ,以上の自動思考はみんな外れているだろうなぁw

 コロナが気になるなら野外でやってもよかったかも知れないですよね.換気は万全.雨天順延で実施するときは花火を上げる.学長が出てきて「わしが学長の江田島平八である」で終わる.

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授業対面中心6割

日経の記事

 1週間ほどの前(3/24)の日経の記事に「6割の大学で対面授業 新年度,正常化手探り」という記事が載った.記事を見ると「主要大学30校」を日経が調査した結果だという.主要大学30校とは,
  国立:旧帝,筑波,一橋,神戸,東工
  公立:東京都立,大阪府立,国際教養
  私立:早慶上智,MARCH,東海,学習院,日本,関関同立,近畿
である.そのうち,「対面中心」が18,「遠隔中心など」が3,「半々」が9だったという.30大学中18大学が「対面中心」との回答だったから「6割」ということのようだ.
 「対面中心」とはどういうことかと疑問に思うが,記事では,「授業に占める対面の目安」が9割が立命,近畿,関学,8割が都立,府立,関大,上智,7割が早稲田,明治,というから,各大学は授業数の比率(の目標値だろうと思うが)を答えたようである.詳細は書いておらず,真偽は分からない.「ほんまかね?」と思った.いうだけタダで気合で目標値をいっただけじゃね?という気もするが,根拠はない.

埼大は?

 日経がこの種の調査をするときは埼大は入らない.今回もそうだった.では埼大はそんなもんかね,という興味で埼大サイトに入ってみた.「【受験生の皆様へ】令和3年度の授業について」というページが出てきた(http://www.saitama-u.ac.jp/exam_archives/2021-0122-1349-9.html).「対面授業の開講数も増やす」,「令和3年度の授業は対面授業と遠隔授業の両方で実施されます」と,控えめな表現をしている.正直だなぁと思った.さらにリンクを辿ると「【入学予定者・在学生各位】令和3年度第1・第2ターム及び前期の開講科目一覧表の公表について」というページが出てきた(http://www.saitama-u.ac.jp/news_archives/2021-0316-1034-9.html).
 このページの内容を見ると,埼大では対面授業と遠隔授業が混ざっているようであり,上記の日経的分類だと「半々」になるように想像する.授業の数だと英語など語学が多いはずであり,それらは原則対面なので,数でいうと少なくとも半分は対面が確保されているだろう,と私は想像した.
 大学でのコロナ対応が難しいのはクラスの規模が多様だからだろう.小中高校であればクラスの規模が固定されているから,対応は単純にできる.しかし大学の場合,小さいクラスもあるが大きなクラスもある.学生の席間の距離をとって授業を行うとすると,ある程度大きなクラスは教室が確保できるかどうかが分からない.遠隔授業が多くなるのは,そうした教室の確保の問題があるのだろうと想像する.だから大きくなると分かっているクラスは遠隔で実施するしかないのだろう.
 埼大の全学開講部分の授業形態は合理的に見える.少人数で行える語学のような授業は一律に対面にしているし,人数が多くなりそうな基盤科目はオンデマンドで統一している.対面と遠隔を混ぜるなら遠隔をオンデマンドにするのが正しいと思える.同じ日に対面授業と遠隔授業が入った場合,登校して対面授業に出て,遠隔は自宅に戻ってから各自の都合に合わせて受けられるのが楽である.対面とオンライン授業が同じ日にあると,面倒なことになるように思える.その意味で授業形態は考えて設定されていると感じる.
 ただ,学部開設授業の方はどうなっているのか,あまりよく分からない.
(余計な話であるが,埼大でいう「ハイフレックス」の意味がよく分からない.ネットで調べると「ハイフレックス」とは,対面授業をオンラインでも送信し,対面かオンラインかは受講者が決める場合のようである.例えば京都大学https://www.highedu.kyoto-u.ac.jp/connect/teachingonline/hybrid.php)ただ,埼大の資料ではハイフレックスを「対面と遠隔の組み合わせにより、隔週で交互に授業を受講」としている.1週目は対面,2週目は遠隔,3週目はまた対面… ということだろうか?)

学部の違いが面白い

「開講科目一覧表の公表について」のページに掲載された学部別の授業形態も念のため眺めてみた.学部によって差があるな,という印象を受けた.そこで,文字列検索を使って(授業形態の欄以外の記載は除いて),授業形態の分布をとってみた.この集計はいい加減な面がある.例えば教養学部のアカデミックスキルズの授業は対面であるが,その数はハッキリしないのでカウントから外した.同様に他学部でも同様の授業は表に並んでいないことがある.だから以下の分布は正確は期し難い.ただ,大勢では各学部の特徴は出ていると思う.
 授業形態の学部ごとの分布は次のグラフのようになった.縦軸は授業数であり,授業の比率にはあえてしなかった.経済学部については昼間と夜間主の合計である.
(なお,この集計をした時には教育学部のデータが掲載されていなかった.4/1になって教育学部のデータが掲載されたけれど,追加集計は面倒なので教育学部は除く.)

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 まず教養学部は,最も学生数が少ない学部であるにもかかわらず授業数が最も多い.教養学部は多品種少量生産の学部なのである.人文系は実は領域がかなり異なる多数の少数派分野の集合体であり,それぞれが体系的であろうとするなら,授業数が多くならざるを得ないのである.理学部とともに対面授業が多い.しかし対面以上に,オンデマンドではなくオンラインの授業が多い.たぶん,であるが,パワポを使ってプレゼンのような授業をするならオンデマンドになるように思う.オンラインの授業というのは,対面で前の方で教員がボツボツ話しているという授業を,オンラインでそのまま流すことが多いのだろう.私の在職中の印象では,教養学部の先生の授業は吉田松陰が長々と孟子の講釈をするような授業が多かった.良くも悪くも古式ゆかしい文化なのである.ネットを介してなお授業の発想が変わらないのである.
 ただ,同じ日に対面の授業とオンラインの授業があると学生は辛いんじゃないの,なんでオンラインをオンデマンドにしないの,と思う.

 経済学部は,教養学部より学生数がはるかに多いにもかかわらず授業数が少ない.実は経済学部は教員の授業負担の半分が「ゼミ」であり,そのゼミが授業形態の表には(一部を除いて)入っていないからだろう,と想像する.ゼミというのは,指導の学生以外は触れることはない.そのゼミの割合が高いために,みんなが受講できる授業は少なくなる.結果,普通の授業については,1つの授業当たりの学生数が多くなる,ということである.この格好は私大文系で一般的といえる.普通の授業では(悪くいうと)芋を洗うような授業をし,他方で濃密な「ゼミ」を配して埋め合わせる.
 教養学部の教員は国立の文学部出身者が多いと思う.国立の普通の文学部は基本構造は似ており,学生指導は複数教員が属する「研究室」で行う.指導教員を決めるとしても,原則,みんなで指導するのであり,個人ゼミにはしない.だから経済学部的な(ないし私大の法経的な)ゼミは,教養学部の先生方の多くは感覚として分からないだろう.国立文学部出身の私も同様である.このゼミというのは,うまく行けば生産的な家内工業のようになるかも知れないが,下手するとタコ部屋とか蟹工船とかサティアンのようになるんじゃないの,という気もしている.
 教養学部と経済学部は,同じ文系とはいっても,カルチャーはかなり異なるのである.
 グラフの分布を見ると理学部は最も古式ゆかしいと見える.最も対面中心であり,コロ禍にあっても伝統的な授業形態を頑なに維持しようとしているのかも知れない.ある面で教養学部と似ている.

 工学部はハイフレックスという形式が際立って多い.理学部と同様に対面にしてもよいけれど,コロナ感染状況に応じてオンラインに切り替える可能性を考慮してハイフレックスが多くなっているのかも知れない.理学部に比べて工学部は学生数がかなり多いはずであるが,授業数は理学部とそれほど変わらない.とすると1授業当たりの学生数が理学部より多く,その分,コロナ感染を理学部以上に気にする必要があるのかも知れない.

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四国の国立5大学

四国地域大学ネットワーク機構

 教育系のサイトに,四国の国立5大学(徳島大,鳴門教育大,香川大,高知大)が一般社団法人として「四国地域大学ネットワーク機構」を設立したというニュースが載っていた.この機構を,最近文科省が創設した「大学等連携推進法人」としてこれから申請するという.

一般社団法人四国地域大学ネットワーク機構
https://www.kagawa-u.ac.jp/files/6516/1603/2667/114.pdf
大学等連携推進法人
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/daigakurenkei/index.html
https://www.mext.go.jp/content/20210226-koutou01-000011127_003.pdf

 四国の国立大側が掲示している情報を見ると,5大学で連携の教員養成課程を作るのがこのネットワーク機構の主目的らしい.しかも実技系の科目で連携することが話の中心らしいから,しみじみ考えるとしょぼい.その他の設立目的も書いてあるが,連携推進法人を作らないとできない話ではない.このネットワーク機構を法人登録した場所が徳島県鳴門市なので,中心は鳴門教育大学ということだろう.
 この連携推進法人から始まって四国5大学が統合に向かうその端緒であるなら,この話は大きい.しかし当面は大きな話ではないだろう.
 以前,国立大の地域統合はどこで生じるか,という点が時折話題になった.私の主観では,地域統合があって不思議がないと思えたのは北海道,北東北,東海,四国,九州である.そのうち,北海道では北見工大,帯広畜産大,小樽商大がアンブレラ統合をした.東海では名大と岐阜大がアンブレラ統合をした.そして四国でこの程度の連携に進むことは何も不思議はなかった.本来はアンブレラ統合をしてよいのである.

共同教育課程には限界がある

 教員養成課程としては,群馬大学と宇都宮大学が共同教員養成課程を作っている.その共同教員養成課程で従来の教育学部の資源を(あくまでその気になればの話だが)全学化することができる.次の展開にも使えるし,大学の規模の適正化をいわれたときの削減分に使えるかも知れない.
 実は埼大を含めて北関東4大学(4U:茨城大,宇都宮大,群馬大,埼玉大)の大学院レベルで協議したとき,工学系の共同教育課程は検討されたことがある.私も文化科学研究科長として協議には出席していた.が,結局はダメだった.当時の法令では(今も基本は同じと思うが),共同教育課程は連携先で取得すべき単位要件があり,その数字があくまで2大学間の連携を前提としていたのである.4Uでやった場合,必要単位が多くなり過ぎた.その一事でその件はそれ以上検討する必要がない,と私はすぐに割り切った.
 四国の国大が使う連携による教育課程の枠組みは,共同教育課程よりは柔軟なようである.四国国大側の資料によると,当面は実技系の科目の融通が中心かも知れないけれど,その気になれば各大学が教育学部を維持しつつ,かなりの教員の削減も可能なようである.特に5大学での連携となると,この枠組み以外は使えないのだろう.
 教員養成課程だけのこの連携は,小さい話といえばそれまでではあるが,その小さい話でも当の大学にはメリットはかなりあるだろう.まず中心になるだろう鳴門教育大学は四国の教員養成のハブのようになるので,存在感を確保できる.国立大学に規模適正化の要請があっても,そのままの存続が保証されるかも知れない.他の4つの複合型大学についていえば,当面の教育学部の規模は持続させるとしても,将来的には,その気になればかなり縮小できる.各大学とも,1つの新学部程度は捻出できるかも知れず,規模削減が求められればそのときに教育学部分を削減すればよいのかも知れない.少なくとも何もしない場合よりは,将来の選択の幅は大きくなる.

埼玉大学は踏んだり蹴ったりかも知れない

 私が教養学部長だった期間,17大学人文学部長会議に出ていると,四国の学部長さんからは「埼玉大学は何をやっても学生が来るでしょう.我々の所はそもそも人口が小さいから大変です.」といったことをいわれた.差し障りのないように,「いや,埼玉は強い私大との競争が大変なんですよ.」と答えていたように思う.差し障りがあってよいなら,もっと他のいい方もできたかも知れない,と今は思う.
 何がいいたいのかといえば,四国の国大は保護された立場にあるのである.だから状況としては四国の方が恵まれているかもしれないな,と思う.
 下の表に四国4県と埼玉県の人口を示す.四国4県の人口の合計は380万程度である.人口最大の愛媛県ですらさいたま市くらいの人口しかない.高知県,徳島県に至っては,私が今住んでいる田舎市の5つ分しかない.対して埼玉県は1県で四国全体の1.89倍,つまり倍近くの人口がある.

県名 人口(2015)
徳島県    755,733
香川県         976,263
愛媛県      1,385,262
高知県         728,276
四国合計      3,845,534
埼玉県      7,266,534

 埼玉県の人口は倍近くなのに,四国には国立大学が5つある.鳴門教育大を除けばすべて医学部を持っている.四国の国立5大学と埼玉大学の学生数と教職員数を下の表に示す.埼玉県唯一の国立大学である埼玉大学の学生数(学部+院生)は,四国5大学の学生数の27%に過ぎない.教職員数では,埼大は四国5大学の8%に過ぎないのである.教職員数でこれだけ差があるのは,四国の4大学がすべて医学部を持っていることによる.しかし医学部がなくても,学生数くらいの差があるのである.

  学部学生数 院生数 教員数 職員数
徳島大学           5,579             1,459           1,011            1,439
鳴門教育大学              400                600              138                 99
香川大学           5,318                692              601            1,316
愛媛大学           7,533             1,060              820            1,322
高知大学           4,605                558              685            1,072
四国国大合計         23,435             4,369           3,255            5,248
埼玉大学           6,305             1,316              455               216

 何がいいたいかというと,四国は埼玉に比べると過剰に国立大学が手当されているのである.埼玉の感覚でいうと,四国の国立大学は1つでよい.
 四国選出の議員なら,四国は私大が出店しないから国立大学が必要だというかも知れない.しかし時間順序を考えれば,四国は私大がないから国立大学が手当された訳ではない.国立大学の方が先にあったのだから,四国で私大が少ないのは国立大学が過剰に存在していて出店できなかっただけのことである.対して埼玉県では,国立は規模が小さい埼玉大学しかないから過剰に私大が生まれた.需要があれば埼玉大学の規模を拡大できた訳ではない.結果として埼玉県は一様に私大志向になり,特に埼玉大学は強力な東京の私大との競争を余儀なくされた.価格(授業料)差のある理系はよいが,文系だと価格差は小さいから,価格で保護されている訳ではない.結果として四国の国大の方がぬくぬくと商売が出来ているというのが実態ではなかろうか?
 もし国立大の規模縮小が日程に上がるなら,埼玉は人口比で国立大が措置されていない点をもって縮小に抵抗してよいように思える.

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デジタル活用高度化プラン

 文科省が「デジタルを活用した大学・高専教育高度化プラン」を公募し,採択機関をこの3/11に決定したというニュースを見かけた.趣旨は大学等の教育におけるDX(Digital Transformation)の促進である.コロナ禍で遠隔授業が導入されたことをきっかけにして多くの大学で教育設備を充実する必要があったのだろう.どれどれと思って文科省の当該サイトを眺めてみた.次である.
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/sankangaku/1413155_00006.htm
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/sankangaku/1413155_00008.htm
この件は小さい話であるが,今の文科省の大学への温情をよく示しているように思えた.

プランの公募

 この時期にお金を配るというのは予算が余ったからかと私は最初思った.以前,グローバル事業に採択された時の初年度の年度末に追加配分が来たことがあったからである.しかし文科省サイトの資料を見ると,令和2年度の第3次補正予算に滑り込ませた予算のようである.補正予算ならコロナ禍で困窮する学生への補助を予算化するもののように思えたけれど,コロナ禍で大学は遠隔授業への投資が必要になったろうから,まあこういう予算もありか,と思った.
 2020年の12/23に第1回の公募説明会をしている.だからアナウンスをしたのは12月の初め頃なのだろう.第2回目の公募説明会が2021年の1/14で,公募期間が1/15~2/1,採択結果の公表が3/11と慌ただしい.しかも,事業は3月中に実施する必要がある.たぶん採択の内示は3/11より前にあると思うが,それにしても3週間で金を使えというのが凄い.面白いのは,公募要領に評価等という記載があり,「事業については、必要に応じて実績等に関する調査を実施することがあります。」と書いてある.つまり,原則,評価はしないのだろう.
 この公募への申請が時間との競争であったことは想像に難くない.第1回の公募説明会から1カ月で計画案を造り,業者と接触してどの程度の金額が必要かを検討しないといけない.しかも3月中の3週間程度で予算を執行するのであるから,段取りを申請時点で業者とかなり詰めている必要がある.とはいいながら,ハッキリいえば,この手の計画は業者に丸投げしても作ってもらえるだろう.だからハードルは低い.むろん,もともとデジタルのシステムに熱心だった大学は計画が作りやすかったに違いない.

申請と採択

 申請できるプランは2種類の取り組みに分かれる.取組①「学修者本位の教育の実現」は学修管理システムの充実,取組②「学びの質の向上」は,例えば Virtual Reality を用いた実験・実習の導入などを考えていたらしい.①の方が参加しやすい.①は1億円が上限で採択は30件程度,②は3億円が上限で10件程度,という.
 申請した大学,短大,高専の総計は202機関(うち50機関が①②を両方申請)であるから,申請は多かった.国立大学の申請率は8割超と思う.
 採択されたのは取組①が44件,②が10件である.国立大は17大学が採択された(うち7大学は①②両方で採択).
 国立大を見ると,

①と②で採択:北大,東海国立大学機構(名古屋大,岐阜大),神戸大,広島大,山口大,九州大,熊本大
①だけで採択:北海道教育大,宇都宮大,東大,東京学芸大,山梨大,滋賀医大,奈良先端大,鳥取大,岡山大,九州工大

である.ご近所の宇都宮大も頑張っている.東北地方で採択がないのが目を引く.
 国公私立の採択校を眺めると,(東大を除いて)トップの大学はもらっておらず,ちょっと引いて追いかける位置にある大学がもらっているような気がする.よくいえば改善の余地があるところにお金が出ているような気がする.

裏がある?

 なんか裏があるのかな,という気がしないではない.教育上のDXを担う企業は,会食はしないとしても,少なくともお役人個人とはよく交流しているだろう.大学の実態は文科省より,そういう企業の方が分かっているだろう.だから,ちょっとお金が無くてDXを進められない,少しお金が出ると助かる大学がある(結果として企業も助かる)という情報が文科省に伝わっていて,文科省もこのプランを進めたのかも知れない.採択をする事業委員会の委員にも,そういう企業とお付き合いがありそうな方が入っているように思う.ただ,企業にしても委員の先生方にしても,不正をしたということはないだろう.文科省が大学の事情を直に知る術は限られている.関連の企業の知見がないと,文科省も動けないという事情がある.その点は,入試に関して文科省がベネッセと近かったことと似ている.ベネッセも決して不正をした訳ではないはずである.
 ただ,関連の企業はこの予算配分で儲けたんだろうな,とは思う.

埼大はどうだったのか?

 埼大がこのプランでどうしたかは存じ上げないが,自動思考で私の中で想像は生じてしまう.国立大学の申請率は高いので,埼大が申請しなかったということはないだろう(もし申請していなければかなり問題).宇大は通したけれど,埼大は通らなかった.ある意味順当である.教育上の競争的資金を,埼大はずっと取れずにいる.
 私の在職中の観測では,全学で資金を取ろうとするとうまくプランを作れないのである.全学の所でつまづいてしまう.そうだよねと思う方も多いだろう.以前,競争的資金を部局中心で進めていた時には,結構取れていたと思う.財務の西袋さん(旦那の方)が取りまとめていた頃の話である.私も大学院GPやグローバル事業などで計画をまとめて採択されたけれど,その頃,工学部の方でも大学院GPなどをいろいろ取っていた.しかし全学でプランをまとめる時代になって,取れなくなったような気がする.そこは何とか考えた方がよい.

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グローバル教育大学ランキング

こういうランキングがあった

 iPadでgoogleのブラウザを使ったら「グローバル教育に力を入れている大学ランキング2020(全国編)」という記事が配信された.「大学通信online」というサイトである.
https://univ-online.com/article/education/15733/
 実施した機関から考えて気にするようなランキングではないと思うが,一応目を通した.このランキングは全国の進学校2000校の進路指導の先生の回答から集計している.回答の詳しい手続きは書いていない.5校上げてもらって1位であれば5ポイント,2位なら4ポイント,などとしてポイントを加算するようである.
 ぶっちぎりの1位が国際教養大,2位が国際基督教大,3位が上智大,ということであるから,まあ順当な気がする.
 国立大学を取り上げて上位から並べると,東京外語大,東大,千葉大,東北大,九大,阪大,筑波大と名古屋大(同順位),京大,広島大,宇都宮大,岡山大と熊本大(同順位),神戸大,金沢大,九州工業大学の順である.
(最後の「九州工業大学」は「九州大学」の表記ミスではないかという気がするが,根拠はない.九州工業大学は良い大学であるが,九大はスーパーグローバルに入っている.)

風評ベースのランキング

 一応順当な結果を出しているように見えるが,このランキングの出し方には疑問がある.
 第1に,調査の仕方や集計の方法をこの記事ではハッキリ書いていない.全国2000の進学校にアンケートを出したというが,回収率が明記されていない.2000から回答があれば総ポイントは2000x(5+4+3+2+1)=30000である.しかしぶっちぎり1位の国際教養大のポイント894は数字が小さすぎる.各高校から5位で指名されてもポイントは2000ないといけない勘定になる.おそらく回収出来たのは多くて半分だろう.
 第2に,ポイントは進路指導教員間のreputationである.進路指導をしているといっても大学の中身は分からないだろう.このランキングは進路指導の先生方がどう思っているかの評価であり,世間の風評を再現するだけである.そのようなランキングだと割り切って見る必要がある.なぜこのランキングの算出法をとったかというと,この会社にとって最も安上がりな方法だったからだろう.客観指標を調べるのはかなり面倒である.ポイントの出し方の検討も必要になる.
 THE(Time Higher Education)の日本版の大学ランキングで用いる国際性の指標は,外国人学生比率,外国人教員比率,日本人学生の留学比率,外国語で行われる講座比率という4つの客観指標である.THEのような客観指標を用いるれば結果は変わって来るだろう.この風評ランキングでポイントの分布が上位に固まっているのは,風評ランキングである所以である.結果として,実態は別にしてスーパーグローバルに指定された大学が上位になっている.
 第3に,この風評ランキングで信用できるのは上位10大学程度ではないかと思う.トップの国際教養大学が894ポイントとして,10位の関学は81ポイントである.その辺まではまあよいが,例えば35位の宇都宮大学は18ポイントである.18ポイントということは,このポイントシステムでは,宇都宮近くの6つの高校の進路指導の先生が宇都宮大学を3位に上げれば得られる点数である.この辺になるとどういう経緯でポイントが得られたか分からない.

埼大の考えるべきこと

 いろんな会社がいろんな大学ランキングを出している.その結果をいちいち気にするのはアホらしい.けれども,埼玉大学もこうしたランキングから汲み取るべき事柄もあるのではないか,という気もする.
 このランキングでは埼玉大学はランキング外だった.宇都宮大学はランキングに入っているけれども,私の予想では,国際化の実質では埼玉大学が宇都宮大学より悪いということはないだろう,と思う.だから汲み取るべき事柄とは,宇都宮大学がランキング入りして埼大がランキング外であるのはなぜか,と考えることだろう.
 第1に思うのは,宇都宮大学は「国際学部」という学部を持っている点である.つまり「国際」を外目にも明らかにしている.同じく国際を冠した学部を持っている千葉大は国立大学の3位に入っている.ある分野で認知されるためにはやはり部局を持っていることが大きい.その点をあらためて考えてもよいのではないか.埼大が今さら国際の学部を作ることはないだろうが,例えばAIとかデータサイエンスというなら,どうするか,という話である.
 第2に思うのは,このポイントシステムで宇都宮大学が18ポイントを取ったのは,おそらく近隣の高校で義理で入れてくれた所が数校あったということではないか? このポイントシステムでは10ポイント取れば最下位でランクインしたのであるが,10ポイントとは,例えば4位で入れてくれる高校が5校あれば取れる.その5校が埼大には存在しなかったことが問題なのである.
 まあそうだろうなぁ,と私も思う.田隅学長の頃,受験者確保のために高校に挨拶回りをすることになり,その挨拶回りの仕事が副学部長だった私に回ってきたことがある.例えば浦和市立高校に資料を持って私は行ったのであるが,玄関先で追い返されて終わった(トホホ).まあ,近隣の高校による埼大への扱いもそんなものだったのである.今さら同じことをやっても仕方ないと思うけれども,やはり,近隣でご贔屓にしてくれる高校があるようでないと,ダメなんじゃないの,という気がする.埼玉県に入り込め,というのが田隅学長の頃の目標だったのであるが,何らかの形で高校に接近するプロジェクトを,例えば事務方で立ち上げてくれてもよいのではないの?(教員はどうせダメ),という気がしている.埼玉は人口が多い.米国の州の中でも真ん中くらいになるだろう.その埼玉を地盤に出来れば強いのであるが….
 第3に,reputationという要素はTHEの場合も入っている.だから,もしランキングを気にするなら,地域内での評判を超えて,いろんな側面でのreputationを考えないといけない.ただ,前の山口学長はランキングを上げることに関心をお持ちだったので(現体制については存じ上げない),ランキングを上げる方法も検討していて不思議ではない.ただ,今の埼大の構造のままでは特に手はないのかも知れない.
 とまあ,以上のように宇都宮大学との対比でいくつか考えてみた.ただ,宇都宮大学は埼大と同様に,良い大学である.また,最近,宇大は埼大よりはいろんな手を打てている.別記事で触れるかも知れないが,最近の「デジタルを活用した大学・高専教育高度化プラン」にも採択された.そんな活動の差がこの「グローバル」にも現れているという方もおられるかも知れない.

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国立大学法人法改正 2021

 数日前,googleサイトに入ると国立大学法人法改正のニュースが私に配信された.私の閲覧履歴からAIが判断し,私にそのニュースを配信したのだろう.同じニュースをいくつかの新聞サイトが記事にしていた.ちなみに,日経の記事(3/2)のタイトルは「選考会議の学長影響力を排除 国立大学法人法の改正案」だった.朝日なども同じようなタイトルであったように思う.日経の記事では,「一部の国立大では同会議に現職学長が委員として参加したり、教授ら学内の委員が過半数を占めたりするケースがあり、学長の権限が肥大化しかねないと指摘されていた。」と書いてある.また,大学ジャーナルonlineというサイトの記事では,「学長選考会議に選考後の職務執行状況をチェックする機能を持たせ、学長の暴走をストップさせる役割を任せる」という表現も見える.このように書くと,改正の趣旨は「学長の権限肥大化」や「学長の暴走」を止めることだと読める.
 この改正の件は3/2の文科大臣記者会見でも萩生田大臣から説明があったのを,私はYouTubeで見ていた.私の記憶では「選考会議の学長影響力を排除」などの論点はなかったと思う.文科省サイトの大臣会見の記事を確認しても,「学長選考会議に学長の職務執行の状況について報告を求める権限を追加することや監事の体制を強化することなど」とはあるが,「選考会議の学長影響力を排除」,「学長の権限肥大化」,「学長の暴走」といったニュアンスの話はない.記者から出た質問も北海道の3国大の統合についてだけだった.
 念のため,文科省サイトに入って今回の国立大学法人法改正の資料を見てみた.結論を先にいえば,今回の改正のポイントは上記メディア記事とはややズレている.
https://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/detail/mext_00013.html
 
 改正の要綱に従って述べるなら,改正の趣旨は次の1)~5)である.

1) 中期計画に基づく年度計画・評価を廃止する.代わりに中期計画に改善措置を追記する.
 メディアでは触れられていないのだが,この1)が普通の教員には大きい.明かな改善である.私は在職中,年度計画とそのための評価作業が無駄としか思えなかった.たぶん国立大学の教職員は喜んでいるだろう.「共通の成果指標に基づく相対評価」と「重点支援評価」があれば,既に中期評価は意味がない.内閣が出した骨太の方針は国立大学の評価の簡素化を目指すと書いている.「共通の成果指標に基づく相対評価」の導入と年度評価の廃止は,その動きの結果だろう.

2) 学長選考会議を学長選考・監察会議とすること.
2-1) 監事は学長の不正等を学長選考・監察会議に報告する.
2-2) 学長選考・監察会議に学長は加えない.理事を加えるときは評議会選出枠に含める.
2-3) 学長選考・監察会議は学長に職務遂行状況の報告を求めることができる.

 文科大臣が会見で述べた「学長選考会議に学長の職務執行の状況について報告を求める権限を追加することや監事の体制を強化することなど」にあたるのがこの2)である.上記メディアもこの2)をもって「学長の権限肥大化」や「学長の暴走」を止める動きを文科省がした,といったのだろう.
 ただ,このメディアの解釈は妄想に近い.この2)は法人法にある考えの中で条文でハッキリしないところをあらためて明記しただけと思える.
 まず,学長選考会議が学長を選考するだけでなく監視もすることは,これまで通りである.埼大でも学長選考時期以外では選考会議は学長の評価をしていた.あらためて「学長選考・監察会議」と改称したのは名称を実態に合わせただけである.法人法では,学長を監視するのは監事と選考委員会であり,2-1)と2-3)は選考会議と監事の関係を明文化したのだろう.
 2-2)は選考会議に学長を加えないとしている.大学の人事選考では,普通,前任者を選考会議に加えることはしない.加えていた大学があったのかも知れないが,例は希だろう.2-2)も本来入れるべき条項が抜けていたので明文化しただけと思える.理事は学長が選任するから,理事が選考に入れば現学長の意向が及ぶかもしれない.が,2-2)は理事が選考会議に入ることを禁じていない.入れてもよいが,あくまで教員側の員数に入れろ(外部委員を少なくするな)ということである.
 注意すべきは,学長選考・監察会議や監事が学長を監視することの意味である.第1に,学長選考・監察会議や監事の学長監視は学長に権限が集まることとセットであり,学長に裁量があることを前提にしている.それが国立大学法人法の建付けであることにメディアは気づいていない.第2に,学長を監視するのは同会議や監事の仕事であって教員や教授会の仕事でないことである.教員の「何とかを考える会」が学長の裁量に介入することは,法人法は考えていない.メディアの妄想は法人法の建付けを理解しないところから発生しているように見える.

 上記1),2)以外の改正点は次の3つである.今はコメントを要さないと思う.何れも結構な話である.

3) 複数大学法人設置の監事および指定大学法人の理事の員数の増加(省略)
4) 国立大学法人による出資の範囲の拡大(省略)
5) 国立大学法人の統廃合
・国立大学法人北海道国立大学機構(小樽商大,帯広畜産大,北見工大)
・国立大学法人奈良国立大学機構(奈良教育大,奈良女子大)

 やはりメディアの書くことで状況を理解するのは無理だなぁ,とあらためて思った.

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一歩踏み込んだ関大の遠隔授業アンケート分析

 2020年度はコロナ禍のため,日本全国で遠隔授業が一気に普及した.これまで,一般には特殊な状況でしか適用されなかった遠隔授業が短期間のうちに実施に移されたのであるから,大変なことである.米国であれば随分前からオンラインの授業が教育の中に組み込まれ,大学教員はオンライン授業の経験をある程度はしていることが多かったと思う.が,その点で遅れていた日本が短期間のうちにこれほどの実施率を達成したのであるから,革命的なことが起こったといってよいように思う.2つのこと,第1にこの経験から何を汲み取るか,第2に汲み取ったことをいかに実施して行くか,が大学の革新にとって重要なのだろうと思う.
 遠隔授業が実施されてほどなく,多くの大学で,実施した遠隔授業を評価するためのアンケート調査を実施していた.このブログの2020/08/07の記載で,いくつかの大学が公表したアンケート調査の結果に触れた.対面授業と遠隔授業にはそれぞれ別の長所と短所があるけれども,遠隔授業がなかなか優れた授業形態であるという結果が出ていたように思う.

 その後も遠隔授業に関するアンケート分析は続いており,いくつか公表されている.例えば埼大は前期までの授業経験を前提にしたアンケート結果の分析を,FDの一環として公表しているのに気が付いた.教養学部の松原先生が教育推進室長の肩書でアンケート結果をもとに講演しており,ああ頑張っているなぁと思った.きめの細かい分析結果を述べておられる.指摘された注意事項は遠隔授業を円滑に行うための有効なアドヴァイスになるはずである.

 最近,関西大学が公表したアンケート結果が一歩踏み込んだ内容であることが注意を引いた.
関西大学 2020年度秋学期実施「対面授業に関する学生アンケート」(ダイジェスト版)

 このアンケートでは,遠隔授業と対面授業を並列的に調べている.遠隔授業と対面授業それぞれの長所と短所は従来のアンケートで示されたこととたぶん変わらないだろう.しかし,対面授業より遠隔授業の方が学生の満足度は高いのである.そして講義科目については,何らかの形の遠隔授業の方を学生が望んでおり,特に受講者50名以上だと遠隔授業,特にオンデマンド配信授業が圧倒的に好まれている.逆に対面授業が好まれるのは実習,演習,実技科目,ということになる.
 この報告書では,「教育」について次のように総括している.

・遠隔授業によって対面授業が相対化され、そのあり方が問われることとなった。
・知識伝達・習得であれば遠隔授業が効果を発揮し、対面授業ではそれ以外の資質・能力の育成に寄与しうる授業デザイン(双方向性の確保、アクティブラーニングの推進等)が求められる

 この総括を見て私は「ああ,踏み込んだなぁ」と感心した.遠隔授業をより良くやりましょう,ではなく,遠隔授業のその次を考えているように見える.やるなぁ,と思った.
 遠隔授業の利点が大きいことは,昨年8月に私が眺めたアンケート分析の中でも,慶応SFCの分析が強調していた.しかし慶応SFCはITに長じた特殊なキャンパスである.関大のような普通の,大きな私立大学が上記の総括のような認識を持つことの意味は,より大きい.
 重要なのは,遠隔授業の大幅な導入によって,従来の国立大学の教育における潜在的な優位性が霧散しかねないことである.国立大学は教員当りの学生数が少ないというその単純な事実によって,教育面で潜在的な優位性を持てた(顕在的な優位性であったかどうかは国立大学によるだろう).ある意味,国立大学の教育成果は高くて当然だったのである.ところが,仮に私大で知識伝達型の講義を遠隔授業に移行した場合,この優位性は消えるだろう.私大でも演習,卒論などは教員当たりの学生数を制限しているので,演習,卒論には実質的な問題はないのである.
 では国立大学は次の一手を考えているだろうか?

 コロナ禍による遠隔授業の導入は日本の大学にとって大きな経験だった.その経験を活かした一手を打って来る大学が出て来るだろう.その一手によって後の大学の勢力図が変わって来ることもあるかも知れない.

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国立大学の評価は合理的になって来た

 ネット検索をしていたら,財務省による文教・科学技術関連の資料(2020/10/16付)に出会った.次である.

参考資料:文教・科学技術 

 この資料の28-56ページが国立大学に充てられている.この資料が提供する数字は文科省が出す資料にも出ているとは思うが,財務省の資料だとコンパクトにまとまっているから便利である.
 この資料を見ると,国立大学に対する「評価に基づく配分」は比較的に合理的になったように思う.「比較的」とは,私が在職していた2017年以前の状況との比較である.私が在職している当時から,国立大学への予算配分は評価による建前だった.ただ,予算が関わるから真剣に対応するしかないのは分かるのであるが,それにしても評価への対応としてやっていたのは下らないことばかりだった.学部長だった時にも,私はあまり真面目に評価の仕事をやる気がしなかった.国立大学を保護するつもりの文科省が,どうでもよいような評価作業をさせていた,単なる改革ごっこだった,という印象を私は持っていた.しかし,2019年度から導入された「共通の成果指標に基づく相対評価」あたりから,ちゃんとした評価になったのではないか,という気がする.

共通の成果指標に基づく相対評価

 上記資料の46頁目に国立大学への予算配分の内訳が簡便な図で解説されている(下図).
04 

大きく分けると国立大学への国の予算は機能強化経費・特殊要因経費,基幹経費,重点支援評価による配分,に3分される.2019~2020年度の実績から見ると,配分額は次のような比率になっている.

機能強化経費・特殊要因経費:12%強
基幹経費:約85%
重点支援評価による配分:3%弱

要するに,全体から見るとほとんどが基幹経費であり,重点支援評価による分は極めて少ない.
 ここで,2019年度から基幹経費の1割未満の範囲が「共通の成果指標に基づく相対評価」による分となったのである.額からすると「共通の成果指標に基づく相対評価」による分は,2020年度に19年度より増えている(基幹経費の7.5%→9.1%).といっても,国立大学がもらう予算のうち,評価による分はせいぜい1割に過ぎない.
 「共通の成果指標に基づく相対評価」は財務省の言葉である.文科省サイトを調べると,同じことを「成果を中心とする実績状況に基づく配分」といっている.ただ「実績」というなら「重点評価分」もやはり実績評価であろうし,「共通の成果指標」の中には成果(outcomes)とはやや異なる要素もある.ポイントは「共通の指標」による点と(中期評価や重点支援評価は各大学が設定した目標への作業の評価である),「相対評価」による点にある.だから財務省のいう「共通の成果指標に基づく相対評価」の方がポイントを突いた表現といえる.
 「共通の成果指標に基づく相対評価」は,教育,研究,経営にわたる13の評価指標(2019年度では5つの指標)を使う.教育だと例えば「卒業・修了者の就職・進学等の状況」,研究だと例えば「常勤教員当たり研究業績数」.経営だと例えば「人事給与マネジメント改革状況」である.その各指標ごとに国立大全体の予算額を定め,各大学への配分額は±15%(2019年度では±10%)の範囲で増減することになる.
 もともと,文科省が主導した評価は妙な評価だった.まるでゆとり教育のように,目標を各大学が独自に設定するのだから,評価らしい評価にはならない.しかも,成果を出さなくても「取り組み」をしていれば評価する,式の評価であるから,結果として何のためにやっているか分からなかった.明らかに「差をつけない」ための評価方式だった.
 私の理解では,財務省は,第1に取り組みではなく成果で評価することを求めていた.第2に,メリハリがつくように共通の指標で評価することを求めていた.現在行っている「共通の成果指標に基づく相対評価」は,財務省の主張と,これまでの文科省方式の折衷のような方式であると思う.ただ,財務省の主張の方向に動いた,ということだろう.結果として,差をつけることの合理性が高まったように思える.

よく出来ている

 まず,この「共通の成果指標に基づく相対評価」という枠組みはよく出来ていると思える.教育研究に関する指標は学系別に偏差値を求め,各大学の学系人員数で加重平均をしている.だから大学間の学系構成の偏りは原則として結果を左右しない.コスト当たりTOP10%論文数などは重点支援③の大学に限定している.以前目にした研究実績の分析では,単純な論文数でも大学間に階層差があるが,上位論文となるとさらに差が大きい.だから重点支援③に限定するのは仕方ないだろう.また,経営に関する指標では重点支援類型別の比較になっている.経営面では大学間の階層化が顕著であろうから,この措置も考えたものだろうと思う.

厳しくはない

 「成果指標で相対評価をする」,「予算の増減幅は±15%」,とだけ聞けば厳しい競争を強いられるように思える.が,実際には厳しいとはいえないと思う.
 第1に,競争で増減する予算は全体の予算のほんの一部である.埼玉大学などは,歴代の学長が大学の裁量で使える分の予算がほとんどないといっていた.その意味では予算の一部が増減するだけでも深刻な事態が考えられる.けれども,一般の企業に比べればこの程度は耐えないといけない.
 第2に,増減の幅は±15%(2019年度は±10%)に限定されており,いわばヘッジをかけてもらっている.どんなに悪くても-15%で済むのである.
 第3に,±15%の増減は個別評価次元で生じることである.13の次元があり,総合的な増減幅はいわば個別次元の(加重)平均のようになる.中心極限定理から考えると,個別次元で評価のバラツキが大きくても,平均値のバラツキは小さくなる.だから結果として得る予算のバラツキは,±15%といわれて連想するよりはるかに小さくなると思う.特に2019年度で評価次元は5個だったが2020年度では13個に増えた.評価次元の増加は中心極限定理でのサンプル数の増加と同じであるから,バラツキを減らすはずである.増減幅は±10%から±15%に増えたけれども,評価次元が増えているので,総合的結果のバラツキは大きくはなっていないだろう.それでも予算減に苦しむ大学が出ることはあろうが,よほどダメな大学(か運が悪い大学)なのだから仕方ない.
 第4に,評価次元によっては重点支援類型別の評価になるので,上位大学との比較を回避できる面もある.
 このように考えると,この評価体系の中にいる限りかなり楽な商売といえるだろう.

政府が何を重視しているか?

 この評価方式では,評価次元に割り振った予算の額によって政府が何を重視しているかが分かるようになっている.2020年度の評価を見ると,最も重視されているのは「若手研究者を増やすこと」と「独自財源を確保すること」であるといえるだろう.前者は研究レベルそのものではないけれど,研究レベルのポテンシャルといえる.後者は「国立大学法人を自律的な組織にすること」であり,よく人がいうような「政府に縛られる大学」とは逆方向であることは注意してよい.
 また,経営に関する評価次元が重点支援類型ごとの評価である点も興味深い.おそらく,東大などの上位大学と埼大などの下位大学では,大学の存立基盤を同一にすることは考えていない,ということだろう.この点は米国の大学も同様だろうと思う.州立大学でも州内トップの大学と下のランクの州立大学ではおそらく別であり,下のランクの州立大学の場合は独自財源で展開するというよりは,州政府予算で運営される面が強いだろう.経営のあり方で国立大学が分化することを政府は容認しているのではないかと思える.

この状態は悪くない

 まとめるならば,「共通の成果指標に基づく相対評価」は評価すべき方式であると私は思う.2004年の法人化されて以降,私の感想としては,国立大学にはろくな評価方式がなかった.実に馬鹿なことをやって来た.法人化後15年を経て,やっと落ち着くべきところに落ち着きつつあるといってよいと思う.
 政府の中には国立大学に対して意見のあるエージェントとして3つの勢力があるように思う.文科省,財務省,そして内閣府である.文科省は国立大学が立ちゆくことを専ら考え,国立大学を保護してきた.財務省は国立大学にコスパに厳しい意見を述べてきた.ただ財務省は意地悪をしていたのではなく,国民の利益をある面で代弁していたと見るべきと思う.そして内閣府は,国力の基盤として国立大学を重視し,研究力の拡張策を考えてきたように思う.今回の「共通の成果指標に基づく相対評価」は,この3つの勢力が適度なブレンドで作り上げたように思える.評価次元は状況によって変わって来ると思うけれども,今後の基本形になるととらえるべきだろう.この結果は悪くない.どの勢力も国立大学を潰そうとは考えていないのである.
 この評価方式を眺めると,国立大学が学長を中心に運営されなければならないのは必然だと思える.同時に,一般の教員は大学の「経営ごっこ」からは離れ,教育研究に専念する存在として位置づけられることになるだろう.むろん改善すべきことはまだ多い.

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新学部設置をパスしてきた埼玉大学

 何年か前の埼大の経営評議会で新学部を設置した大学の例が話題に出た折,外部委員の中から「こんなに新学部が出来ていたのか?」,「埼大はやらないの?」といった感想が出た,という風聞があった.実際がどうかは確認していない.が,世間の人間は新組織ができることを大学の進展と見る面があるから,その種の感想が実際に出ても不思議はないと私は感じた.
 思えば,埼玉大学は不思議と,工学部を新規に設置した1963年以降,新学部を作るという流れにはならなかった.ずっと5学部体制が続いている.新制大学の中でも希な例のような気がする.

埼玉大学における経過

 新学部を作る契機は過去に,少なくとも法人化の前後に1つずつあったろう.
 1つは1990年代前半にほとんどの国立大学で教養部を廃止したときである.廃止した旧教養部の教員ポストを使って多くの「新構想学部」が出来た.宇都宮大学なら国際学部,群馬大学なら社会情報学部である.
 しかし埼大では新構想学部はできなかった.旧教養部からは構想が出ていただろうと思う.前にこのブログ内で書いたが,実は私も教養学部と教養部を一緒にして「社会情報学部」と「国際文化学部」を作るという案を作り,教授会で議論してもらったことがある.しかし賛同者はいなかった.そして全学で何の積極案もないままに,なぜか「学長裁定」で教養部教員の「分属」という案で決まった.何のプランもないまま分属を決めることに私は反対したが,「学長裁定だからしょうがないだろう」という言い方をされたものである.
 詳しくは存じ上げないが,教養学部が新構想学部に反対していたかも知れない.新構想学部はどうしても教養学部と中身がかぶるからである.ならば教養学部と教養部で2つの新学部を作るという私の案は,悪くないように思うのだが,実は教養部から人が来て欲しくなかったというのが当時の教養学部の本音だったろうと思う.他学部もそこは同様だった.
 法人化後すぐにその教養部分のポストを召し上げる(全学化する)という話になった.その全学化したポストで新学部を作るということは,理論上はあり得たろう.しかし当時の学長さんの考えは「5学部が銘々に頑張る」路線であったから,新学部という方向の話は全くなかった.全学化したポストは削減して交付金減に当てようとする一方,皆さん,全学化したポストを自分たちが使いたいという下心もあった.理工のことは分からぬが,少なくとも教養学部以外の複数の文系学部は,自分たちがポストを使わせてもらうことを期待していたようだった.
 もう1つの契機は法人化後,教員養成課程の縮小的再編が進んだことである.縮小させた分の教員・学生定員を使って新学部を作る動きがいろんな大学で起きた.埼大では法人化前の兵藤学長の頃から教育学部の削減というアイディアは全学執行部の中にあった.しかし埼大の教育学部は大きく強かったので教育学部削減は政治的に難しかった.陰のバトルの末に教育学部は学長候補としての田隅候補に寄り添う戦略をとった.その結果,法人化と同時に田隅学長が出現し,政治的に教育学部が勝利したのである.その結果生じたのが「教養部分ポストの全学化」であり,割を喰ったのが教養学部,という経過だった.
 教育学部の削減がやっと実現したのは上井学長の末期,いわゆる機能強化案が出てきたときだった.この時はさすがに,文科省が教員養成課程の縮小再編を求めていた.そこで学生定員100名を教育学部が吐き出すことになったが,対応する教員数の縮小幅が小さかったのは,やはり教育学部の強さのせいだったろうと思う.
 教育学部削減の際の学生定員と教員定員を使って新学部を作るということを多くの大学が行った.当時は文科省も埼大に国際系の新学部設置を示唆したらしい.しかし埼大の執行部は新学部を見送り,定員を理工の院に付けたのである.新学部の方向に行かなかったのは,当時の学長さんが経済学部出身であった(教養学部がからむ新学部を嫌った)からであろうと私には思えたが,証拠はない.
 なお,教育学部拠出の学生定員は(学部換算で)100名であるが,理工の院に当初付いたのは50名分だった.後の50名分は何年か後に付ける予定だった.しかし全学の会議の中で,理工の院のさらなる学生定員増は無理,という意見が出て予定の定員増は困難になった.この時点でも,50名分の学生定員を原資の1つにして新学部は作ろうと思えば作れたろう.しかし結局,この時点でも話は新学部には向かわなかった.
 つまり,考えられるあらゆる機会で新学部を作らない方向の選択をし続けたのである.確率が低い事象が起きたなぁ,と私は思ったものである.

世間の国立大学はどうなのか?

 下の表は東日本(北陸は除いた)に国立の新制大学の,法人化(2004)以降の部局設置をまとめた表である.既存の学部の上に新設された研究科は除いた.名称変更だけと思える設置も除いた.学科,専攻などの追加も省いた.千葉大は旧六で新制大学ではないが,埼大の近くなので含めた.西日本も新学部等は同様に出現しているはずである.

    表:法人化(2004)後の学部設置

大学名 設置内容
弘前大学 保健学研究科(博士)(2007) 食料科学研究所(2014) 地域共創科学研究科(修士)(2020)
秋田大学 国際資源学部(2014)
福島大学 理工学群(2004) 農学群(2019)
宇都宮大学 地域デザイン科学部(2016) (共同教育学部 2020)
群馬大学 情報学部(2021) (共同教育学部 2020)
千葉大学 国際教養学部(2016)
横浜国立大学 都市科学部(2017)
山梨大学 生命環境学部(2012)
静岡大学 光医工学研究科(浜松医大との共同教育課程,2018)
岐阜大学 連合創薬医療情報研究科(2007) 自然科学技術研究科(2017)
三重大学 地域イノベーション研究科(2009)
滋賀大学 データサイエンス学部(2017)
和歌山大学 観光学部(2008)

 法人化以降だけでも結構多くの大学で新学部が設置されている.秋田大学の新学部は旧鉱山学部(理工学部に改組)と教育文化学部の一部から作った新学部である.宇都宮大学の地域デザイン科学部は工学部の一部と教員養成課程削減で出来た学部だろう.群馬大学の場合,新設の情報学部の以前から社会情報学部があったけれど,情報工学科が学部になった点が大きいので含めた.静岡大学の新研究科は浜松医大との統合話の中で出てきた共同課程のための研究科である(もっとも静岡大学と浜松医大の統合は延期になっている.静岡大学は以前にも静岡県立大学との統合を途中放棄しているので,今回もわからん).滋賀と和歌山の新学部は経済学部からの派生である.福島大学の例は特殊な事情を反映しているのだろう.
 何れの例も,新学部はその大学が目指す方向性の表現だといえるように思う.弘前,宇都宮,山梨,岐阜,三重,和歌山大学の新学部/研究科は地域産業重視の大学の姿勢を示しているだろう.横国の新学部は同大学が都市型の大学であることの宣言であるように見える.学部を作らなければ,外部には大学が何を考えているのか,ようわからん.
 最も注目すべきは滋賀大学のデータサイエンス学部である.主導した佐和隆光が流石だった.一橋も後追いで今,ソーシャル・データサイエンス学部の計画を持っている.経済学部,特に経営の部分はAIによって駆逐されやすい職種の人材を養成している訳だから,この転換は必然に思える.埼大も同じ見識を持てるとよい.

新学部設置は望ましいのか?

 以上,新学部設置について見てきた.ここまで私は,新学部設置を望ましいことのように書いてきた.が,新学部設置が望ましいのか,部局構成は変えずにやるのがよいのか,という点については,考え方によるだろうと思う.
 ちゃんとした計画が組めるなら,という前提付きではあるが,私は新学部設置が望ましいと思っている.組織は時代とともに適応的に変わるのが当たり前だろう.新学部設置は大学にストレスをかけるけれども,ある程度のストレスの存在は大学運営にとって必要なことと思える.また,何らかの動きがあれば広がる未来も,動かなければ開かないままになるように思える.動きを作ることではじめて,「しょうもない部分」を整理できるという面もある.
 ただ,あえて変わらずに力を蓄えるのがよい,組織いじりは本質的な進歩をもたらさない,という考え方もある.また,改善すべき事項は目の前にぶら下がっており,その改善を優先すべきという考え方もあるだろう.私は自分で労力を払わないから勝手にいえるが,在職していれば,組織改編ではない点に労力を割くべきと思うかもしれない.

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筑波大学の学長選考を考える会:こ,これは…

 私はよく,YouTube で外務大臣記者会見と文科大臣記者会見を視聴する.本日,文科大臣の記者会見を観ると,最初に朝日の記者が質問した.1つは森元首相の件であるが,2つ目が筑波大学の件だった.筑波大学の件というのは先日,どこかのニュースでタイトルだけを眺めたことがあった.筑波大学が指定国立大学法人を申請する書類の中に書いた国際交流の実績人数が実際より水増しされていると,「筑波大学の学長選考を考える会」が文科省に訴えたことである.萩生田文科大臣がいうには,その訴えの書類を一昨日受け取ったので文科省が筑波大学に問い合わせたという.結局,国際交流の該当者の定義の問題だと分かったという.「考える会」の方はJASSOを経由した学生数を見ていたが,筑波大学の方はそれ以外の交流実績も加えているので,数字が違っていた,文科省の求めていたのは全国一律で筑波大学の定義でよい,ということだった.「考える会」に与している朝日の記者もそれ以上は何もいわなかった.その様子を見るとこの会見で出た文科大臣の返答は初出だったのだろう.いつものように,朝日新聞は「疑わしい」方は記事にしたけれど,「それでよい」方は記事にしないだろう.
 この「筑波大学の学長選考を考える会」というのは,昨夏あたりに学長選考方法を巡って大学当局に疑義を提示していたと思う.その代表者のようにニュースで名前が出ていた先生は,例によって文系だったと記憶している(東大でも同様である).左翼はド文系が多い.ただ,学長選考は学長選考会議で決めるものなので,教員の皆さんが関与することは制度の建前からは想定していない.学長選考について教員が株主のようなつもりでいることはただの勘違いなのである.

 あらためて「筑波大学の学長選考を考える会」なる団体がどんなんか,と思って検索してみた.その会のサイトを見て「こ,これはぁ…」と思った.サイトがプロ仕様なのである.通常,素人教員がこの種の会を立ち上げると,発起人が誰それと書いておく.しかしこのサイトは弁護士の名前しか出ていない.職業的な戦闘集団であるという印象なのだ.
 指定国立大学法人の申請書類の記載がおかしい,という話であれば,普通は大学当局に確認するだろう.たぶん今回の文科大臣の返答と同じ答えが返ってきて,そこで終わるだろう.しかし大学当局にではなく直接文科省に申し入れるというのは素人のやることとは考えにくい.
 この会の弁護士さんがどういう系統の方かと,調べなくてもわかるように思うが念のためググってみた.旧総評系の法律家団体にいる方で,その団体の関係先はいろいろある.系譜としては旧社会党系なのであるが,現状で一番影響が強いのは日本共産党のように思う.それ以上調べる必要もないか,と思った.
 不正があれば糺すのは正義であるとはいえ,筑波大学の発展を願うというよりいかに評判を落とすかに労力を使っている,という点が異様に映る.考えてみると日本の政界の野党も同じようなことをしている,ともいえる.

 こういう会が埼玉大学にないのは幸いだった.埼玉大学の組合は軟弱で,私は本城先生が退職なさるときに組合はこの先大丈夫かと思ったほどである.組合としての立場はお持ちであるが,それでも関係者は埼大の足を引っ張ることは本意ではない方々である.埼玉大学はなんだかんだといいながら程よい所で運営されているのが幸いだ,とあらためて思った.

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埼大教養学部の出願倍率を眺めて思うあれこれ

 今年の国立大学(学部)の出願期間は1/25(月)~2/5(金)だった.例年のように私は埼大教養学部の出願状況を眺めていた.国立大学の定員見直しが示唆される昨今である.定員で直接的に関係するのは入試の倍率であるから,どうしても気になるところである.
 入学定員が多く倍率が安定している前期日程だけを問題にしよう.2月5日最終日までの集計で,教養学部の出願倍率は2.4(2.37)だった.倍率は最終的に若干変わる可能性があるが,違いは僅かなのでこの数字を使う.昨年度が3.0(2.97)だったから,埼大教養の倍率は下がった.低い倍率といえる.ただ,この結果をどう見るかは要求水準によって違ってくる.あくまで上を目指そうと考えるなら(私は考えているが),この結果は失望すべき結果である.私が学部長だったときの2015年度の入試で倍率が2.4に落ち込んだとき,私はかなり焦った.ただ,世間の見方の標準に合わせて評価するなら,「今どき,まあこんなもの」というべきだろう.

こんなものさ

 まあこんなものと思う根拠を以下に書いてみよう.
 第1に,この2.4倍という数字は,最近の実績としては3年に1度生じる悪い結果なのである.埼大サイトに出ている過去の倍率(2015年度は私の手持ち資料)から,最近の教養学部一般入試前期日程の出願倍率をグラフにすると下図のようになる.このところ,2015,2018, 今年2021年と,3年に1度は2倍台の下の方に落ち込むのである.だから「あり得る範囲の出来事だ」と考えるのが普通だろう.

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 第2に,埼大教養学部と同じ人文系学部長会議に属している東日本の大学の人文系学部の前期日程倍率は次にごとくであり(ただしシステムが複雑な福島大学は除いた),今年の埼大教養学部の数字と同じくらいである.

前期日程倍率(新制地方大学)
  弘前大学 人文社会科学部 1.9
  岩手大学 人文社会科学部 2.4
  山形大学 人文社会科学部 2.1
  茨城大学 人文社会科学部 2.6
  信州大学 人文学部    2.6
  静岡大学 人文社会科学部 2.4
(参考 宇都宮大学 国際学部 2.3 )

 ついでに,格としては上の旧六の大学の倍率も書いてみよう.
  千葉大学 国際教養学部  3.8
  千葉大学 文学部     3.8
  新潟大学 人文学部    2.4
  金沢大学 人文学類    1.9
  岡山大学 文学部     2.3
  長崎大学 多文化社会学部 1.8
  熊本大学 文学部     2.4

 さらに,東日本の上位大学を書いてみれば,
  東京大学 文科Ⅲ類    3.1
  東北大学 文学部     2.7
  筑波大学 人文学類    3.3

 このように見てみると,埼大教養学部の2.4倍は,良いとはいえぬが悪いともいえない.千葉大や筑波は倍率的にも上の層にあるのだが,埼大としては,まあ,こんなものなのだ.

 第3に,受験生が集めにくくなると推薦入試に定員を振り向けることになるが,埼大教養学部は国立大の推薦定員率の標準よりやや低い水準であり,千葉大文学部とほぼ同じである.茨大などは推薦率がやや高く,宇都宮大学国際学部になるとさらに高い.だからまだ,埼大教養学部は余裕を残しているといってよいように思う.

出願期間の経過

 前期日程の埼大教養学部(定員115),千葉大学文学部(定員125),千葉大学国際教養学部(定員83)の3つにつき,出願期間内で出願倍率がどう変化したかを見てみよう.次のグラフである.

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 今年は出願期間がまる2週間あった.また,受験業界人の説明によると,今回の共通テストは事前の難化予想よりも出来がよく,思ったより点数が取れた受験生と取れなかった受験生の二山ができた,という説がある.そのため,受験生の判断が遅れたらしい.この説明の通りに,期間の第1週目では上記3学部の出願数は例年よりかなり低かった.第1週の時点では3学部とも横一線であり,一時は埼大教養の方が千葉2学部より良かったのである.ところが第2週に入って目立って差がついた.2週目に入ってからの経過は従来の出願期間の2週目のパターンとよく似ている.ただし千葉の2学部の上がる勾配は高いのに,埼大の方は上がり方が緩慢だった.過去2年間は千葉と埼玉の倍率差は1倍だったけれど,今年度はより大きな差が出来てしまった.例年そうなのだが,千葉の文学部と国際教養学部は,最終倍率が同じようであるところが不思議である.
 千葉大の方は,2学部とも,昨年ほどではないが一昨年の水準で落ち着いた.埼大教養の方は3年前の低水準に戻った感がある.この違いが何によるかは,想像はできるが根拠がない.
 2019~2021の3年度の,出願期間内での倍率の推移を次のグラフに示す.2021年度は出願期間が2日伸びたけれども,従来より1日当りの出願到着数が薄まった形である.全体のパタンは従来と変わらない.週明けの月曜の数字を見た段階で,最終倍率が2倍台の前半であることは読めた.

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千葉大との比較

 私は以前から,埼大教養学部は千葉大の文学部を戦略的なターゲットにすべきと感じていた.集客の構造が異なるので,埼大は私大と比較しても仕方ないだろうと思う.そしてなぜ,千葉大文学部は埼大教養よりよいのか? 千葉大は旧1期校,旧六であり,特に医療系の学部を全部持っている稀有な大学である.しかし大学の基盤をいえば千葉より上の大学は多い.なのに,国立の中で最も受験生を集める学部と考えられている.
 千葉大は埼大より受験市場でレベルが高いだろう.しかしよりレベルの高い大学も千葉大ほどは受験生を集めない.そこはどういう理屈か?
 根拠のない想像であるが,共通テスト受験生のうち実際に国立大に入学する層の成績分布を求めたとき,一番確率密度というか,層が厚い所に千葉大が位置しているのだろう,と思う.よりレベルが高いと受験生は固定して増えない.埼大レベルの新制国立大だと,同じ層の受験生をうまく均分して受け取るような構造になっていてやはり増えない.千葉大はその中間にあり,実際には一番層の厚い受験生を対象にし,その層に対応する国立大が首都圏内では他にない,ということではないか? だから,埼大との相違は,ごく僅かな立場の相違だけなのではないか,という気がしている.ただ,その「僅かな立場の相違」が結構厚い壁なのだろう.
 その壁を超える工夫があってよい.

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創発的研究支援事業(2020年度)

 文科大臣の記者会見のYouTube動画を見ていたら,科学技術振興機構(JST)が「創発的研究支援事業」の2020年度分の採択をした,と文科大臣がいっていた.この事業は日本の研究の落ち込みという文脈の中で,若手の研究環境が苦しいという苦情を大学側が申し立てていたことへの政府の反応だと私は認識している.財務省の言い方だと財政的支援は出来ている,ということであるが,研究の振興に重点を置く政府が果敢に措置したものであろうと思う.評価すべきだ.
 実際にどんな風に採択されたのかと,JSTサイトに入ってみた.採択された課題(と研究者)を眺めてみた.やけに旧帝大が多いなと感じた.が,この点は実態からすると必然かも知れない.私は以前に研究論文の状況をまとめた報告書を眺めてみたが,科学技術分野では国立大学が中心であり,特に旧帝を中心に上位大学の論文シェアと上位〇%論文のシェアが際立って高いことが印象に残っている.
 何となく気になったので,採択された252課題(252名)の所属機関を数えてみた.まあ,ヒマだから.
 何点か予想が外れたところはあるが,大まかには思った通りの結果だった.JSTは研究に関する情報を集積しているので,採択の判断はフェアだったろうと思う.

 まず下表は採択数を機関ごとに私が集計した結果である.

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 採択数が2以上の機関は33ある.日本の大学の研究力は,一般には,東大,京大,東北大の順と思われている.この表では東北大がダントツに1位であるが,意外とはいえない.大学の順番も私の偏見とは大きく異ならない.やはり旧帝では北大が崖っぷちだろうと思う.
 旧六大学の中では金沢大と熊本大が良かった.千葉大と岡山大は意外と振るわなかった.長崎と新潟は仕方がない.
 論文のシェアでは理研などの研究所,研究機構のシェアが大きかったと思うが,この採択では私の予想より低かったように思う.

 採択研究者の所属機関の種別で集計すると次のグラフのごとくである.まず全採択のうちの約半数を旧帝大等(旧帝+東工大)が占める.偏っているといえば偏っている.しかしこれが現実なのだろう.その他の国立大は全部足しても旧帝大等の約半分である.なお,埼玉大学も1件採択され,面目を保った.採択無しの国立大が多いのであるから,1件でも有難いのである.横国などはゼロである.
 私立大学は文系中心とはいえ,研究者の数は理系も多いだろうと思う.けれども採択数では振るわない.

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 この明確な階層差を受け入れた上で,埼大など「その他の国立大学」が何をビジョンとするかが問題なのだろう.常識的には2つの選択がある.第1は,研究はするにせよ教育中心に洗練して行くという道である.第2は,統合で規模を整えた上で上位に挑戦する道である.私は昔から第2を選ぶべきと思っていたが,皆さまどうなさるのか?

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埼玉大学発展・変革ビジョンw

 埼大は今何を考えているのかと思い,何気に埼大サイトを眺めてみた.「埼玉大学発展・変革ビジョン」なるものがあると知った.
http://153.127.197.67/guide/pdf/vision.pdf
 埼大サイトを検索して調べると,昨年(2020年)の9月に,教育研究評議会,経営協議会,役員会の順で承認を得て決まったようだ.実は次年度に次期中期計画を決めるはずだから,以前の通りなら,今頃は中期計画も大体は出来ていてよい.

 その「埼玉大学発展・変革ビジョン」を眺めてみた.「これ,何もしないということか?」とまず思った.

 気付いたことを4点書いてみよう.

 第1に,記載内容が「縦割り」であり,全体構想があったようには見えない.5つのミッションと5つのビジョンが書いてある.短い方のビジョンを次に書き出してみよう.

1.いかなる社会状況においても学生たちの学びの場を継続するとともに、新たな社会課題の解決の担い手となる人材を育成します。
2.新たな知の発見・創出と予測不能で激変する社会が抱える課題の解決とを目指します。
3.新たな脅威に直面する社会に寄り添い、地域社会・行政・産業界・非営利活動団体等と協働し、「知の府」として社会に貢献します。
4.国際社会の激しい変化に対応しつつ、世界各地域との知の交流を進め、国際社会に貢献します。
5.急速に進む社会変化を既存業務の変革の好機と捉えて、新たな働き方を確立します。


 この5つのミッションの各々に対応してヴィジョンが続くのである.
 この5つは,事項としては上から順に教育,研究,社会貢献/連携,国際連携,業務である.それぞれの担当理事なり副学長に振って,上がってきたものをそのまま書いているように見える.
 1世代前だと上井学長の末期に機能強化プランが出てきたけれども,そのときは山口理事(後の山口学長)の考えが色濃く反映されていた.山口学長の治世が終わった今,同じようなリーダーシップはないのだろうか.現学長の選ばれ方から考えてそうなるのかなぁ,と思わず納得した.

 第2に,この項目の並びからすると,第1優先は教育のように見える.山口学長(理事)のプランが出てきた時の雰囲気からすると,第1優先は研究だった.実際,同プランの後のバージョンでも第1戦略は「イノベーションの創出と地域活性を目指した融合科学研究・開発の推進と人材育成」である.「と人材育成」と教育も後ろに引っかけてはいるけれど,精神的な重点は研究・開発にあった.
 当時,私は研究をそこまで押し出すのは現実的でないと思っていた.けれども山口理事/学長の案には良くも悪くも志の高さがある.だから内心はまあいいかな,と思ったものである.

 第3はチャレンジする側面がほとんどないことである.際どい話を避けている.
 例えば,少し古いが,次の例は2019年に群馬大学が決めたビジョンである.「既存学部・研究科等の見直し・改組」,「新学部構想」,「新たな年俸制,教員評価導入」,「定員適正規模見直し」など,際どい話がいろいろ書いてある.というより,この程度は書くものではないか,という気がする.
https://www.gunma-u.ac.jp/outline/out006/g80909

 第4に,以上の総括であるが,「基本的に今のままです」が,この「埼玉大学発展・変革ビジョン」の行間に書かれたメッセージだろう.よくいえば「今のままですが高度化します」だろうけれど,評価があるから高度化はどのみちするのである.ただ,ビジョンとは本来,将来的に目指す大学のイメージだと思うのであるが,このビジョンを読んで今と違うイメージは浮かび上がらない.現教員の福祉を優先するならこうなる,という見本のような計画といえる.それで悪いかといわれると「まあ,いいんじゃない?」と笑って答えるしかない.やらねばならぬことは結局は避けられないのであるから,自ら頑張ってプランを書いても結果は同じかも知れない.

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旭川医大の件は鑑賞すべきレベルではないか?

 旭川医大の病院長が同学長から解任されたという件が,先日,全国紙に載った.私は存じなかったが,そのニュース以前に当の病院長が学長にコロナ患者を入院させることを提案して「受け入れるならお前が辞めろ」といわれた,という件が文春から報じられたらしい.「お前が辞めろ」の件はパワハラになる可能性があるので文科省が旭川医大に問合せを出し,書面回答を精査中,と文科相が先日の記者会見で述べていた.
 全国紙ではその後の報道はないと思うが,北海道新聞には続報も載っている.学長が変なんじゃないの,という趣旨の記事だった.
 この種のことは一般論として,誰が良いの悪いのは外部からは分かりにくい.メディアは学長専制を糾弾したがるし,コロナ患者の受入れは世間的には正義であるから,人は病院長に同情する.SNS上でも圧倒的に病院長に同情が集まっている.が,学長を支持する意見もある.実際のところは,おそらく,文科省と同医大とのやり取りの結果を文科相が説明することで,ある程度分かるのだろう.
 善悪はここでの話題ではない.私にとり,この件の注目点は旭川医大の学長側の洗練度の低さである.この洗練度の低さは鑑賞すべきレベルではないか?
 まず確認しておくべきは,旭川医大は「小さい大学」ではないことである.規模としては単科の国立医科大の標準である.令和元年度の旭川医大の財務諸表によると,(専任で)教員数は335人,職員が1011人,支出が295億円である.対応する年度で埼大は教員が540人,職員219人,支出が126億円である.教員数こそ埼大の方が大きいけれど,予算規模では旭川医大が埼大の2.34倍である.病院付きの医科大だから仕方ないが,事業規模という点では旭川医大の方がずっと大きい(旭川医大に埼大をくっつけると群馬大学の規模になる).医大であるから水準の高い人材が多いだろう.
 その立派な旭川医大にして,この洗練度の低さは目を引くレベルである.
 第1に,流布された学長のヴィジュアルが人の記憶に残るだろう.全国紙は載せないが,文春が変な写真を選んで出しているのだろう.選んだとはいえ,埼大の歴代学長さんなら,そんな写真を残していることはないだろう.
 第2に,「コロナ患者を受け入れるならお前が辞めろ」なんて,子供でもない限りいいますかね?(その言葉自体はいったと当人も認めているらしい.) 「コロナ患者を受け入れる」と「お前が辞めろ」とは筋として繋がらないから,理屈にならない.
 第3に,文春に出て変に注目されているときにわざわざ,病院長を解任するなんて,しますかね? 世間には病院長を解任したい学長は沢山いるかも知れないけれど,普通はしないでしょう.それもこんな時期を選んで.

 なんだかんだと大学は世間に話題を提供してくれる.同じくらいの洗練度で世間に話題を振り撒いたのは,体育会系?の理事長さんの件(中身は忘れたが)を提供してくれた日大さんくらいではないかと,ふと思った.

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突然の個別試験中止公表で妄想してしまう

 宇都宮大学が1/21に入試の個別試験を中止する(共通試験だけで選抜する)と公表したというニュースが朝日新聞に載っていた.宇都宮大学は「受験者の健康と安全を守ることを最優先に判断した」と説明したという.
 ええ,1/21って,1/25から出願期間だから,遅過ぎね?と思った.中止してもよいが,このタイミングは唐突に感じる.唐突であるが故に,私の中の自動思考はいろんな妄想を生み出す.以下に書くことは私の自動思考が生み出した妄想であるので,失礼かも知れないがお許し願いたい.私の自動思考は私であって私ではない.私の意思は介在していないのだ.

 まあ,栃木県はなぜかコロナで緊急事態宣言を出しているので,宇大のこの措置もあるのかも知れない.しかしコロナが流行っているといえば埼玉の方が流行っているだろう.念のため埼大サイトを眺めてみた.宇大の公表の1日後の1/22の日付で,「個別学力検査を前期日程・後期日程ともに学生募集要項のとおりで実施する予定でおります。」と書いてある.常識的である.「政府からの強い要請などにより」実施できない場合もあると書いてあるが,その点は書くまでもない.ただ,共通試験も予定通り実施した政府が今頃強い中止要請をする確率は低い.
 栃木県ってそんなにコロナが流行っているのかと栃木県庁サイトを眺めた.まあ,確かに正月頃に新規感染者は増えている.が,正月頃がピークであり,共通試験のときや,宇大が公表したという1/21頃には既にかなり沈静化している.正月頃に中止を公表するなら分かるが,正月頃はお休みしていて,後になって正月頃の資料を見て中止を判断したんだろうか? そもそも緊急事態宣言は2/7日に終わる予定である.その予定は変わることがあるとはいえ,2月後半の個別試験をやらないという判断は,普通しないだろう,という気がする.

 宇大はなぜ中止判断をこの時期に公表したのか? この点が妄想の中心である.
 実際にコロナが厳しいのかも知れない.感染者数だけなら埼玉の方がひどいと思うが,病床数に逼迫感がある,ということはあるのかも知れない.しかし受験生世代は感染があっても重症化することは希だから,何か変な気がする.
 こういうと怒られるだろうが,宇都宮(大学)ってさぁ,「首都圏」だという点にこだわるんですよね.東京の人は宇都宮を首都圏とは思わないだろうけど.そんなんで,埼玉が東京と一緒に非常事態宣言をするのに,首都圏の栃木が宣言しない訳にはいかない,とか思ったりしてね.それで,個別試験中止を宣言することで「やった,埼玉を抜いたぞ」という感覚だったりしてw

 この間,大学は遠隔授業に注力していて対面授業が低調なことに文科省も苛立っている.けれど,この点は私の率直な妄想であるが,遠隔授業で学生も教員も,大学に出向かなくてよいので,実はハッピィで,対面授業やらないでいいんじゃね,と思っているんじゃないか.特に文系の先生方はそうでしょうね.研究に実験設備を使う理工系や,現業部門と密接な医学系は大学に行くしかないだろう.しかし文系の先生って,多くは本読むだけだから,家でいいんですよね.私も在職中は通勤往復で3時間を要していました.だからオンラインでいいですっていわれたら,やったぜぃ,ラッキー,と思ったでしょうね.
 埼大もそうだけど,宇大の先生方って,実は東京辺りから通勤している人が多いですよ.通勤が大変.するとオンライン授業でハッピィ.逆に,入試やりますって,嫌でしょうね.大学まで行かないといけない.すると個別試験止めましょうといいたくなるでしょうね.だから宇大で,個別止めたいという先生方(主に文系の先生方)と,そりゃあんまりだから個別試験はやりましょうという大学本部側との攻防があったりしないか,なんて考えてしまいますよね.
 朝日新聞によると,信州大学も「2月8日以降、緊急事態宣言が引き続き出ている場合には、人文学部と経法学部で個別試験を中止し」とあった.ね.個別中止するのは人文学部と経法学部,つまりド文系.
 文系の場合,本音では個別試験をそもそもやりたくないだろう.センターだけでいいんですよ,本音は.文科省が個別ちゃんとやれというから従うだけで,どう考えてもセンター試験の方がよく出来てますもんね.
 理系は個別の中止には抵抗するような気がする.センター試験時代は数学Ⅲをセンター試験で扱わなかった.数学Ⅲを課すとすれば個別試験になる.共通試験も同じではないか? それに,理系の場合は先生方はどっちみち大学に行かないと仕事にならない分野の方が多いから,「個別止めて休もうぜ」にはなり難いような気がする.
 宇大は埼大より文系比率は低いような気がする.けれども,文系の先生方が入試で出動する比率が高いとすると(例えば英語の試験の採点などで),入試止めましょう,というのはあり得るのかなぁ,と思えてしまう.

 といろいろ書いたけれど,宇大が個別中止を決めて受験生が迷惑するかというと,まず迷惑しないでしょうね.宇大や埼大に入りたいとずっと思っていた受験生など,いるはずがないですよ.そういっては自虐的であるが,一部上位の国立大学を除けば,共通試験から合格圏とわかった大学の中から選ぶだけであり,出願時点で出願する国立大学の個別試験の対策までしている受験生はほとんどいないだろう.むしろ宇大は個別試験を止めることで,志願者が増え,入学者の共通試験の点数も上がるだろうと私は思う.そのために中止したりしてw

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大学の「ゆとり教育」?

 このブログの1つ前の記載で日経の記事「転換期の社会と大学(上)」に触れた.この「転換期の社会と大学」には既に「中」と「下」が出ている.そこで「中」を読んでみたのであるが,結構とんでもないことが書いてあったのでここで取り上げてみる.
 この「転換期の社会と大学」は上で国大協会長,中で私大(法政大)の総長,下で公立大学協会長が書いており,ちょうど国公私立大学の代表が意見を述べる形になっている. さて,その「中」を書いているのは法政大の田中優子総長である.実はこの「中」も「上」と同じように簡単な談話程度の中身であり,詰めた議論はない.それだけにかえって,考えていることが自由に出て来るのかも知れない.

田中総長の説

 田中総長は大学での真に必要な「学びのしくみ」を提言する.第1に大学は他者と関わる機会を積極的に作るべきといい,第2に教えることから学ぶことへ学生評価の視点を移すべきことをいう.ここでの力点は第2点の方にあるようだ.
 そのために次の点をあげて大学設置基準を考え直すべきという.
1) 学ぶ側に軸足を置いた単位認定の方法の開発
2) 上記1)の実質化のために卒業単位を減らす
3) 定員管理基準を「入学定員から収容定員へ」,「学部単位から大学全体へ」

大学版の「ゆとり教育」か?

 私にも異論がないのは3)である.ただ,定員管理は現状でも入学定員だけではないし,標準的な管理の単位は学部ではなく学科であるから,いっていることが不正確な気はする.
 しかしまず1)が分からない.そもそも詳しく書いていないのであるが,文面を読むと具体的には次のようなことであるようだ.従来は出席回数,試験・リポートで単位認定をしていた.この方法をやめて,学ぶ側が教員と相談しながら自分の目標と学び方を決め,その目標の達成によって単位を認定する,ということらしい(レポートの提出もないのか?).
 問題は次の2)である.1)をするために卒業単位(現状で124単位)を減らすということなのだ.
 馬鹿馬鹿しいにもほどがある.ただ,見方によってはこれって「ゆとり教育」の大学版であるから,左巻きの文科相官僚と波長が合って変なことにならないかという危惧も覚える.
 まず1)についてであるが,「学ぶ側が目標と学び方を決める」というのは,やることが望ましいけれど,基本的には授業外の勉強としてやることなのだ.私の学生時代を考えると,多くの同級生は大学の単位外で何かを勉強していた.お金のある人はアテネフランセに通いながらフランス語を伸ばす,といったことをする.金のない人は自分で文学作品とか古典を読むとか,数学のある部分を勉強するとか,である.そういう部分を卒業単位に繰り込めれば楽ではあるが,それだけでよいなら大学に通うべきではない.私学でも税金から援助が出ているのである.学びは大学で学ぶことだけではなく,大学で学ぶべきことは所定の課程である.
 2)も論外である.例えば理系だと,解析学,(線形/その他の)代数学,幾何学などでそれぞれ学年ごとに学ぶべき事項があり,その単位を合算すれば124単位にはなってしまう.それだけ教えることのない分野であるなら,大学に置く課程からは外すのが正しい.
 現実的にいうと,実は文系って,田中総長のような世界であるという実態はあるように思う.例えば私は,東大文学部社会学を卒業した.この社会学って,授業らしい授業は概論だけである(しかも駒場の概論が最もまともだった).社会学の授業は,教授が「今私が考えていること」を述べる講演のような授業なのである.本来授業で教えるべきは学界で定着した事項であるべきだが,そうではなかった.だから卒業のために単位を取る必要はあったけれど,本来的に聴く必要のある授業ではなかったように思う.基礎的な事項は受験参考書のような本で各自が勉強するしかなかった.後に英語版International Edition のSociology のテキストを見てみて,外国はちゃんとしたことを授業で扱っていると知って驚いた.
 東大文学部も心理学は理系に近かったけれど,それ以外は社会学と同じようだったかも知れない.今も同様かどうかは知らぬが,当時はそうだった.
 ただ,この点では(一部の?)文系が異常なだけである.その異常さが一部文系だけであるなら放置してよいと思うが,大学の授業一般に拡張させる訳にはいかない.田中総長がいうようにするのは理系では無理であり,まして医学系でその通りにしたら大災害である.
 法政だけが勝手に落ちてゆくのは結構と思うけれど,埼大のように有用な人材を輩出せんとする大学は真似るべきではない.

大学設置基準

 この日経記事では「上」と同様に,末尾に編集部のコメントを書いている.そのコメントには「大学像の再設計 熟議が必要に」という見出しが付く.見直すべき(かも)と編集部が書いているのは次の点だった.

(a) 単位当りの学修時間指定
(b) 校地面積,備えるべき施設
(c) 学生定員

 このうち,(c)は今の情勢で見直しになるだろう.(a)と(b)は大学設置基準の問題である.編集部は「熟議が必要」というだけだから気軽なのだろうが,そう書く前に少しは考えろといいたくなる.
 まず(a)は,実は米国の単位換算と合わせた結果であるはずだ.変えない方がよいだろう.日本だけがバカになる訳にはいかない.
 (b)についてであるが,実は(b)のような設置基準要件は,海外大学の日本進出を阻止するための非関税障壁として機能している.海外大学は日本に進出したくても良い場所で校地を取得するのが高過ぎて,日本に進出しない.気軽に変えると海外有名大学が簡単に出店できてしまい,まず被害を受けそうなのは法政大学のようなタイプの大学であろうと思う.それでいいの?(私はよいと思うが.)

追記:上記で書き忘れた点:日米間でほぼ同じなのは「単位当りの学修時間指定」だけではない.卒業単位数もほぼ同じである.だから学修時間指定や卒業単位を減らしたら,日本だけバカだと宣伝するようなものだ.

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国立大の再編はあるのか?

 1/3の日付で日経に「転換期の社会と大学(上) 国立大,将来ビジョン明確に」という記事が載った.国大協の永田恭介会長の文章である.どれどれと思ってさっと眺めてみた.詰めた文章ではなく,軽く書いた談話のようである.何となく,学内の新年の挨拶を文章にしたような文面だった.
 あえて世間に公表するような水準ではないように思えた.中身も月並みである.2022年度から第4期の中期が始まるので国立大は将来ビジョンを明確にする必要がある.国立大には研究・開発を牽引する役割,地域の核となる役割がある,と書く.今さら感が強い.上位国立大の大学院大学化(学士課程放棄)については「異論がある」と書いて拒否しているのも,従来の論点の繰返しである.

国立大再編?
 ただ一か所,私の目を引いたのは「学生定員の規模についても検討しなければならない.」とある箇所だった.数年前に出したビジョンでは,定員規模は現状のままを国大協は要望していた.しかしここで定員規模の見直しに向けて踏み込んだのか,と一瞬思った.
 しかしよく考えると「検討しなければならない」であって,「規模の見直しをしなければならない」ではない.だから,検討に前向きな立場を示したのかも知れないが,役人用語で「検討します」は「やらない」という意味である.
 同じパラグラフで,「それぞれの地域に及ぼす影響を考えると,一大学の事情だけで判断してよい問題ではない」といって,結論を出すことのハードルを上げている.その後の「例えば」で始まるセンテンスが謎である.

「例えば一つの大学がある分野の定員を減らした場合,隣接する国立大がその分野の定員を増やして補うといった方法を考える必要があるかも知れない.」

 はっ? 何の意味があるの?と,分からなくなった.
 A大学が工学系の定員を減らしたら隣のB大学はその分の工学系の定員を増やす,ということなら,総体では定員規模の変更にならない.そういうことをいっているのであれば,「見直すけれども規模は今のままです」ということでしかない.B大学の定員の増加はA大学の減少分より小さくします,少し規模を見直します,という意味なのかも知れない.最大限うがった解釈をするなら,永田会長は各大学が主とする領域を決めて特化し,隣接する国立大間で連携する形で規模の縮小を果たす,と考えているかも知れない.ただ,他大学と領域の調整をする余地があるのは新制の地方国立大(平たくいうと駅弁大学)であり,上位の大規模国立大学は他大学と領域の調整をする必要性はないだろう.
 領域の調整を国立大間でやるのであれば,国立大のグルーピングが不可欠だろう.例えば埼玉県は東京都,千葉県,茨城県,栃木県,群馬県,山梨県と境を接している.それら6都道府県と調整しますといったら,やらないといったも同じことである.例えば群馬大,宇都宮大,茨城大を同じグループと考え,それらの間で調整を行うというのが現実的だろう.できればそのままナントカ大学機構というアンブレラにするのがよい.調整に伴うポストの移動は簡単になる.ただ,国立大は抵抗するだろうw.

国立大学の定員見直しは必要なのか?
 多くの国立大学関係者と同様に,私は国立大学の定員規模縮小をする必要はないと思っている.先進国の中でパブリックな大学のシェアは,日本は低い方だろう.人為的に低くする必要はない.学生になる人口が減っても,全体では上位の方にある国立大を小さくする必要はないように思えるのである.
 大学の経営は次第に苦しくなって行く.そのとき,増え過ぎた私立大学を中心に弱小の大学が消えて行くはずである.その自然な淘汰に任せた場合,結果として国立大学は残るだろう.そういう意味では競争原理に任せればよいだけだろうと思える.そもそも産業の規模を政府が決めるというのは自由主義体制の発想ではない.政府がやるべきことは,消える大学が出て卒業に支障が出る学生へのセイフティネットを作ることくらいではないか?
 しかし政治的には競争原理では済まないかも知れない.

国立大:競争原理による淘汰に任せればよい.
私立大:競争原理は equal footing が前提だ.競争原理というなら国立大学を民営化しろ.
国立大:やはり縮小の仕方をみんなで考えましょう.

で終わる,とかねw(情けねぇ) 政治的なプロセスによって国立大学は縮小を考える他はなくなる可能性が高いような気がしてしまう.

教員の定員はどうなるか?
 上の永田会長が書いたのは「学生」定員の話だった.教員定員の方はどうなっているのか,と以前から気になる.
 現在は学生になる人口が減ることが口実になっているので,話はまず学生定員の話になる.しかし従来,教員定員と学生定員はリンクしていた.だから「学生定員」の縮小は「教員定員」の縮小を伴う,というのが普通の理解だろう.少なくとも財務省はそのようにいうだろう.
 ただ,教員の定員を総体で減らすことは研究・開発能力を縮小させることである.科学技術に賭けるしかない日本で,しかも研究のシェアの大きい国立大学の教員定数を減らすという選択はありなのか? その点は疑問に思える.
 学生が減れば教員も減るのは道理である.なら教育負荷のない研究所を従来の駅弁大学の中にも作り,研究開発の層を維持するというのは1つの選択であるような気がする.議論すべき,ないし政府と交渉すべきはその点ではないかという気がする.教育業務のない研究職であれば,勤務様態は教員の場合より窮屈だろうが,仕方ないだろう.なお,理研と同じように,大学に作る研究所の研究員には院生を指導する資格を与えるのが常識的である.地位の名称も教授,准教授ではないか?

私立大との役割分担
 永田会長の談話を載せた日経記事は最後に編集部のコメントを載せている.そのコメントで日経は,私大との役割分担の積極議論が必要と述べている.やはりこう来たか,と思わず笑った.
 読売や日経のように政府筋からの情報で記事を書くメディアが「私大との役割分担」を口にするときは,学士課程は私大に任せろ,国立大(の上位)は大学院大学になれ,という主張が腹の内と考えてよいと思う.財務省の意向だろう.むろん大学院大学と想定されるのは上位の大規模大学であり,埼大を含む駅弁大学は対象ではない.国大上位を大学院大学にしたとき,一番喜ぶのは上位私大であるけれど,埼大なども学部入学者の質が上がるという恩恵はあるかも知れない.
 先述のように,大学院大学化には国大協は拒否の態度をとっている.上記の永田会長も同様である.ただ,国大協の言い分は何れも説得的ではない.「私大なんてダメでしょう」とは,いいたくても口にできないからだろう.ただ,表の議論になったときに今の言い分では通らないので,もう少し考えた方がよさそうだ.
 このブログで私も以前に書いたことだが,国立大の大学院大学化はやめた方がよいと思っている.学士課程でも良い教育をする体制をとれるのは上位の国立大学であり,その上位国立大を学士課程から排除してわざわざレベルの低い大学に教育を任せるというのは,教育のことを考えた結果とは思えないからである.国立大学の中でも,残念ながら,上位大学の方が駅弁大学より,良い体制がとれているのである.また,海外の規模の大きい有名大学で,大学院だけの大学というのはほとんどないだろう.大学院だけのSchoolを内部に多数持つとしても,基本領域の学士課程は持つのが普通である.

役割分担論の思い出
 国立大学と私立大学との役割分担論の話に触れるたびに,私に嫌な思い出が蘇る.上井学長の末期で,実質的には山口理事が学長だった頃,機能強化案というのが出て,経済学部と教養学部には大学院中心の部局合併案が提示された.結果として害を小さくして実現させたけれども,両学部とも嫌だった.
 このとき,合併案を求める時の(公式の)学長は教養学部の三役に,私大と比べたときの国立大学の役割は何だと思うんだといって詰め寄った.三役も,そりゃ答えられる訳がなかった.学長としては,だから大学院中心に強化するんだ,といいたかったのだろう.
 しかし,国立大といっても東大や京大があり,他方で駅弁大学がある.私大の方も似たように一様ではない.それらを一緒にして国大vs私大の特色化などといって意味がある訳がない.大学院中心というのは上位大学の話である.つまらないレトリックを持ち出したものである.
 当時,文科省関係の有力者でその種の役割論を主張する人はいたのである.誰という訳ではないが,民主党政権で文科副大臣をして,その後東京の選挙区から落選したけれど,自民党に擦り寄って文科相関係者でい続けたような,まあそういう感じの方が役割論をいっていた.国立大で文系学部は要らん,転換させろといったのもそいつであり,同様に国立=理系,私立=文系の役割論を吹きまくった(文系理系の役割論はその後,経団連等が否定的な見解を出してくれたので消えたと思う).ウチの学長はそういうカスのような奴に引っかかったのだろう.やはり左翼はダメだと思ったものだ.
 国立大学をひとくくりにするのではなく,例えば財務上の分類ごとに役割を考えるのは意味があるかも知れない.実際,その方向で議論は進むだろう.ちなみに,埼大は8分類のうちの最後のHグループである.Hグループとは「中小・医無し・領域特化無し」であり,具体的には次の9大学である.

財務上のHグループ:岩手大学、茨城大学、宇都宮大学、埼玉大学、お茶の水女子大学、横浜国立大学、静岡大学、奈良女子大学、和歌山大学
(このリストで分かるように,和歌山大学から西の地方国立大学にはすべて医学部がある.)

国立大学の役割
 国立大学の役割を,設置者である国=政府でなく設置された国立大学が考えるというのは,実は奇妙なことである.国立大学が国立大学法人として設置され直したとき,国は国立大学の位置づけもしておくべきだった.上井学長の時代に全学運営会議メンバーを対象に文科のお役人の講演会/懇談会が行われた.そのときに私は,私大と比べたときの国立大学の位置づけをどう考えているか,と質問した.お役人の答えは,それぞれ設置者が違う,という,聞くまでもない内容だったので,何も考えていないんだなと実感した.
 本来なら国立大学が政府に対して「国立大学の役割とは何なんだ,お前らがいえーっ」といいたいところであるが,やはり政治プロセスの問題として,そうはいえないのだろう.

国立大:国立大の役割が何かは設置者である国,つまり政府がいえ.
政府:ほんとに政府がいっていいのか?
国立大:いえ,私たちにいわせてください(しょぼん).

という落ちになるのではないかw(情けねぇ)
 国立大学の役割を考える場合,国立大学法人法の規定に依拠する必要があるだろう.法人法は第一条で法律を設ける意義を述べているが,その意義とは「大学の教育研究に対する国民の要請にこたえるとともに、我が国の高等教育及び学術研究の水準の向上と均衡ある発展を図るため、」とある.この文言から推察すると,国民的に合意できる大学機能の最低線をバランスよく揃えることが国立大の使命のように思える.対して私大は国民的合意でなく建学の理念に基づいて設置されるはずであるから,自ずと意義は分化するだろう.最低線が国立,プラスアルファで私大,ということでいいような気がする.
 そのうえで,具体的な意義を問われれば,上記で永田学長がいったように,国立大学が総体として「研究開発を牽引する」こと,「地域の核になる」こと,と説明するしかないような気がする.
 何れ国立大学の意義や役割を言い争いの中で短く説明する破目になる.だから,短いメッセージで伝わる表現を事前に考えておくことは重要ではないかと思う.

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東大総長選考に関する日経の論評

 昨年末12/29の日経に「学長選考で浮かんだ東大の課題 世界で競う意欲見えず」という記事が載った.タイトルが挑戦的であるから興味を覚えて読んでみた.

東大の選考システム
 念のため東大の総長選考システムがどうなっているかを書いてみよう.日経と『アエラ』の記事をもとにまとめると(その程度で申し訳ない)次のような3ステップでなっているらしい.

1) 178人の代議員からなる代議員会が選挙で10名くらいの候補者を選ぶ.さらに経営協議会が推薦する2名くらいの候補者を加えて第1次候補者とする.今回は代議員会から11名,経営協議会から1名が推薦されたらしい.
2) 学長選考会議(学内教員=教育研究評議会からの8名,経営協議会からの8名からなる)が第1次候補者にインタヴューをして第2次候補者3~5名を選ぶ.今回は3名(工学系2名,医学系1名)が選ばれたらしい.
3) 第2次候補者の中から学内の意向投票によって最終的な1名の総長候補を選ぶ.

 意外と月並みな選考システムだった.言い訳めいた面が強い点は思わず笑ってしまう.よく言えば両義的な制度なのである.候補者の多くを教員(教職員?)が選び,最終的には教職員の投票に判断を投げているので,その意味では昔ながらの「大学自治型の総長選考」システムであると,教員に向けてはいえる.あくまで選考委員会が選んだ人しか最後の投票の対象にならないという意味では,選考委員会が決めていますと政府にはいえる.両方に良い顔をするための苦渋の選択なのだろう.
 今回の選考過程については,教員側がやり方の不透明さを訴えてメディアの取り上げるところとなった.それで調査委員会を立ち上げて検証した,というニュースがしばらく前にあった.検証結果は選考に問題はなかった,という差し障りのないものだった.まあ,どっちでもいいような話である.

日経の指摘
 さて,日経は以上の学長選考過程について2点を指摘していた.
 第1は選考会議議長が,外部委員として入っている前総長の小宮山氏であった点である.前総長は,形式的には「外部」に違いない.が,実態は「外部」といえないだろう.
 第2は「結局は投票頼みで学長を決めた」という点である.
 日経の趣旨は,外部者を入れた学長選考会議が主導して学長を選ぶべきであるのに,結局は昔ながらに内部者が取り仕切って内輪の投票で決めた,それでは世界の一流大学と競い合うことにはならないでしょう,という点にあるのだろう.

日経の指摘は正論であるが…
 日経の指摘はもっともである.前総長だった小宮山氏を「外部」とは,普通はいわない.また投票の通りに決めたのであればやはり内輪の世界でやっているのか,といわれて仕方ない.
 ただ私は「どっちでもいいんじゃね?」と思う.この学長選考の仕組みの中で選考委員会が主導して人選をしても,結果は同じようなものだろうし,選考委員会主導によって「世界で競う意欲」を見せることにはならないだろう.
 理由は単純である.第1に国立大学法人というのはいろんな文書を既に文科省に出しており,そこで記載したことを大きく外れる計画を新規に作れるようにはなっていない.第2に,新学長がかなりの数のスタッフを引き連れて着任する訳でもなく,結局は部局間の協議(談合)に依存せざるを得ないのだから,表向き通りの権限は学長にはない.第3に,第1次の候補者からして内部からの推薦を経るので,経営委員会からの推薦者を除けば,結局は内部志向の候補者の中からの選択になるのである.東北大学は意向投票を行わないけれども,候補者の決め方は他大学と同じであるから,意向投票を経ないからといって結果が他大学と変わることは,おそらくない.だから誰を選ぼうが,大した違いはないだろう.
 そもそも,「世界で競える」かどうかは金の問題であり,学長の人選の話ではない.新学長に相当なお金とスタッフ(やはりお金)が付かない限り,現状の国立大学で新たな展開はないだろう.
 そういう意味では,条件が今のままなら「皆さんがいいようにやればいいんじゃない?」というのが私の感想である.
 あまり表には出ないが,国立大学に対する政府筋の考えは,学長が主導権を握って大学を改革することである.教職員が意向投票をすることにはかなり否定的である.ただ,学長に期待するだけというのは考え方が間違っている.政府がすべきことはまず金を用意することであり,10兆円の研究基金(のような基金)をいかに上積みするかが最大の課題だろう.

埼大の学長選考で感じた事柄
 私は埼大にいても学長選考にはずっと関心がなく,選挙にもほとんど行かなかったように思う(よく覚えていない).私が学長選考を割と詳しく眺めるようになったのは,法人化の少し前,兵藤学長を選ぶ辺りからだった.学部長だったときには学長選考会議で実際に学長を選ぶ機会も目撃した.そんな訳で,法人化の少し前からの見聞の感想をついでに書いてみよう.

1) 外部委員の役割には限界あり
 経営協議会やら学長選考会議には半数の外部委員がおられる.現制度では,外部委員の存在はシステムの透明性を担保する重要な要素である.私が見た範囲で,埼大の外部委員の方々は非常によく,良心的に議論されていたと思う.非常に適切な指摘をされていることも多いのである.しかしやはり限界がある.どうしても,大学の中身のイメージがおありにならないと見える局面が出てしまう.あの状況だと,事務局(総務部)に説得されて終わってしまっても仕方ない.
 企業なら,業種が違っても収益を上げるという要請は一緒だから外部委員の関与に意味が大きいのだろう.京セラの会長が日航に乗り込んで経営を立て直すこともできるのだろう.ただ大学のような業種の場合,具体的な事柄に関する判断ができる外部委員の確保は難しいような気がする.上記の日経の記事でいうと,確かに小宮山氏の外部委員というのは変なのだが,では彼の代わりに本当の外部の方であれば良かったかというと,実は小宮山氏で良かったのではないか,という気もする.外部委員の確保については考えるべきことが多いのではないか?
2) 「経営」という発想はまだない
 学長はその大学の先生がなる場合が多い.大学の先生は大学の「管理」はおできになる.しかし新たなビジネスモデルを見出すような「経営」は,まず出来ないだろう.学長と理事長を分離し,経営の責任・権限を理事長に置くようなシステムが必要ではないか?先生方に経営は無理だろう.
3) 部局内序列の呪縛
 埼大の場合,教養学部には部局内序列などというものは無いのであるが,他の部局は違うな,という感触を受けたことがある.教育学部は部内序列が明確だった,と思う.問題は理工研なのである.理工で一緒か,理と工で別かはどの時点の話かによるが,理工は部内序列が明確で,序列トップ以外を学長候補にしないような雰囲気を感じた.そこが厄介なのである.
 私が間違っているかも知れないが,例えば,法人化前に選挙で選ばれながらその後で問題の申立てがあって学長を辞退された先生がおられた.A先生としておこう.そのときはA先生の出身学部の理学部がとある問題を申し立てて難色を示した.が,私には,A先生が理学部内の序列がそんなに高くないことが真の理由であるように見えた.この件は物証はなく,私の勘違いかも知れない.
 田隅学長のときの学長選考で上井先生が新学長に選出されたときのことである.その頃,工学部長だったB先生が主導して学長をどうするかの話し合いが部局長間で持たれたのである.このとき,教養学部長の関口先生や,経済学部長の上井先生は,もしB先生が学長選考に手を上げればB先生を推す意向があったと思う.しかしB先生は学長に名乗りをあげることはなく,ために候補者選びが遅れた.B先生が名乗りを上げない理由は後に理工側と候補の一本化の話し合いをする中で浮かび上がった.理工には理工の序列がある.しかし文系側は合意形成に誰がよいかと考える.その食い違いがあったのである.そのときは何とか上井先生を候補とすることで落ち着いた.しかし理工の序列問題は後に尾を引いたように思う.
 部局内の序列は部局間で合意を作る際にハードルになることもある.

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北大総長解任経過は野次馬の私にどう映るか?

 解任された北大の前総長が国と北大を相手に裁判を起こすらしい.野次馬に過ぎない私にこの件がどう見えるかを以下で書いてみたい.ことわっておけば,この件は判断し難い経過を辿っており,何が正しいかを判断する客観的な根拠を私は持っていない.北大にいれば分かるだろう情報も持ち合わせていない.私の主たる情報源は北大職組サイトである.だからこの記事でいいたいのは,「部分的な情報が私の脳内でどのような像を作ったか」であり,しかも私一人の受け取り方である.

国立大では珍しい上層部内の内ゲバ

 結構多くの大学でお家騒動,つまり上層部内の争いが起こってきたように思う.ただ,その種のお家騒動は普通は私立大学での話である.失礼ながら,起こっている大学名を見ると「まあありそうだ」と思うことが多かった.
 しかし北大は国立大,それも名門の国立大である.だから目立つ.
 国立大学で起きる騒動の多くは,経営陣=執行部と教員の間の論争であるように思う.現状の国立大学は,法人化前の「親方日の丸自主管理組織」から普通の経営体への転換期にあるだろう.従来の自主管理組織理論からすると「親方日の丸で大学は安泰という前提で学内民主主義を守る」という理屈になるが,大学法人の組織そのものの法的な在り方はむろん自主管理組織ではない.大学の経営陣が経営体としての体裁を整えようとする一方で,一部教員が自主管理組織でなければならないと叫んで対立し,左派系マスコミが自主管理派を応援する,という構図が,このところあちこちの国立大で起こってきた.
 しかし北大の例は,上層部内での内ゲバである点で,国立大学としては珍しい.

陰謀めいて見える前総長解任

 北大の総長解任の話がメディアに出たとき,私は少しネットで調べた.「陰謀で解任されたように見える」が私の第一印象だった.むろん根拠はない.そう見えてしまうというだけである.
 8月に,このブログで北大総長解任劇に言及した.この解任劇について私には理解しがたい点は次のブログ記事にまとめてある.

北大総長解任劇を見て笑うべきか泣くべきか?
北大総長解任劇は何が妄想を掻き立てるのか?


 この記載ではもっと単純にいってしまおう.前総長には約30件のハラスメントまがいの不適切行為が指摘された.既定のハラスメント処理や公益通報のルートで告発が出て,審議の結果問題ありとされ解任されたなら,「ありそうな話」で終わる.が,既定のルートを経ずに告発情報が学長選考委員会にもたらされ,既定のハラスメント処理を経ずに学長選考委員会が調査して不適切と判断して解任を決めている.だから前総長を解任する目的で選考委員会なり事務局が前総長の身辺調査をして解任に持ち込んだのではないか,という印象になる.しかも指摘された不適切行為はどれ一つとっても学長を解任するには不十分であるので,数を揃えたような印象になる.
 身辺調査結果は自然に集まったようではなく,組織的に調べた結果に見える.自然に集まるならかなりの数の告発が既定のハラスメント対応部署を経るはずである.あるいは組合に苦情が集まりそうに思う.
 もし組織的に身辺調査をするなら会計上の不正があったかどうかをまず調べるだろう.会計上の不正があれば,悪質さにもよるが,普通はそれ一つで解任できる.が,会計上の不正は見つからなかったのだろう.セクハラ,パワハラの事例があれば同様であるが,なかったのだろう.だからパワハラより要件の低い「不適切行為」を,1つではダメなので集められるだけ組織的に集めたのではないか? 事実は分からないのであるが,この経過を見るとそんな風に見えてしまう.

親方日の丸体質に見える

 この総長解任劇を見ると,その舞台である大学が大阪市役所のような親方日の丸組織であり,だからこそ外部からは理解しにくい展開になるのではないか,という印象を抱いてしまう.
 まず事務局が強そうである.国大協の資料を見ると,大学の教員数に比して職員数がかなり多い.手を付けることが無理なほど強いのではないか? そしてその強い事務局が総長解任を主導した格好になっている.大阪市役所が大阪市長に平気で対立する闇の構図を連想させる.
 全大協系(日共系)の組合も強そうなのだ.北大職組のサイトは大したものである.頻繁に記載が加わっており,活動の種類も内容の水準も高い.そして組合の質問への総長候補者の回答を見ると候補者は一様に組合の意向に忖度している感がある.総長選出の意向投票への影響力も強いのだろう.この点も親方日の丸組織の目安であるように見える.
 また,経営陣つまり理事等の配置を見ると,学長が動ける体制でもなかったように見えた.埼大であれば新任の学長は筆頭理事に自分の友軍となる教員を指名する.事務方も多少は新学長に配慮した配置になる.そうでなければ学長としては動けないからそれでよい.しかし北大前総長の場合,理事の中に味方になる人がいたようには見えない.要するにトップが思うように動くための手足がない配置になっていたように見える.それではガバナンスは伝統的な談合に委ねられるような気がする.
 以上の点は親方日の丸組織の兆候に見える.親方日の丸組織は,うまく回ればみんな仲良しの組織であろうが,一つ間違うと伏魔殿になりかねない.そんな中で前学長はもがきながら職務を遂行しようとしたかも知れない.だから事務方と諍いを起こすような結果になっているのではないか,などと私は連想してしまうのである.

退路を塞がれた前総長の意地
 
 普通,上位者を解任する場合,自発的に職を辞するように工作するのが上策である.埼大の場合も,昔,学長選挙で当選した人を学長から排除するという事態があった.その是非はおくが,その折は当選者の先生に自ら辞退して頂いていた.この方法が常道である.追い込んでしまうと窮鼠猫を噛むかも知れず,リスクも大きい.
 しかしこの総長解任劇では,前総長の退路を断って追い込んでしまったような感がある.前総長がいったん辞表を出したのに,大学側(総長代行側)がなぜか辞表を受け取らなかったのである.この点は不思議な展開なのだ.前総長は体面を保って職を辞することができなかった.恨みが残って不思議はない.
 この経緯を考えると,前総長が裁判に訴えようとする気持ちはよく分かる.人には意地というものがある.

巻き添えを食らった文科省

 私は普段,文科省をよく思わない.けれど,前総長が提訴した件では文科省は気の毒だなと感じる.文科省は北大から出た解任の申請を処理し,最終的な判断をしないといけなかった.大筋で北大の申請通りにしたのであるから,そこから先は北大が手前で尻を拭けよ,というのが本音だろう.しかし手続き上は裁判で矢面に立たざるを得ない.
 北大の解任申請後の文科相記者会見を私はよく眺めていた.文科相が気にしていたのは北大で総長が長く宙ぶらりんのままであることであり,その点を早く解消したい,ということだった.前総長の解任を認めれば北大は正常軌道に戻るけれども認めなければさらに混乱が続く訳だから,文科省としては解任する方向で調整したい動機づけが働いて不思議はない.どのみち,騒動が起きたときのトップには責任をとってもらうしかない.
 解任を決めた結果,前総長側からは文科省と北大執行部が協力したように見えたことも,仕方なかったろう.
 前総長は解任された後,文科省が解任ありきで動いたと主張している.また,前総長の下で加計学園獣医学部に否定的な発言を用意したので解任された,という趣旨のこともいっていた.
 しかし,この前総長の言は当てはまらないように思う.文科省が省として特定大学の学長を解任する工作をするというのは考えられない.天下り先が増えるのなら別かも知れないが,そんなことをする動機はない.また,加計学園の獣医学部のことは,既得権を守ろうとして既存の獣医学部はみな潰したがっており,北大ももとより反対に決まっていた.だから北大の反対など文科省には関心がなかったはずである.そもそも,本音では文科省は加計学園の獣医学部を潰したかったから,反対してくれれば内心は嬉しかったろう.
 省として文科省が公平であっても,個人レヴェルでいうと,北大にいる文科省お役人の北大事務局高官と本省の担当官とは人的なつながりがあって不思議はない.だから文科省の担当官が前総長解任の方向で動いたという可能性がないともいえない.こうした可能性は片方の当事者が文科省から来ているという事情から,どうしても生じてしまう.

北大の立場

 北大は大学の決定として前総長解任の申請をしている.だからその申請が間違っていたと今さらいうことはできない.間違いだとすれば,新総長の決定など,前総長解任後に決めたことを今から修正する術が果たしてあるのか? 混乱は長引く.文科省を裏切ることにもなる.
 裁判の場合,北大は新総長の責任で動くことになるのだろう.新総長は前総長解任には関与していないし,総長選考時点では真相解明の必要性を表明していた.それが急に,解任は適切であったという立場になれるものかどうか,その辺は見どころのように思える.ただ「解任は適切」という以外にないのが北大の立場だろう.
 裁判になって北大執行部が「解任が正しかったかどうかは調査しないと分かりません」などといい出したら,野次馬的には面白いけれど,対外的には相手にされなくなるだろう.
 北大としては第1に,新総長に旧来の立場への理解を求めるのだろう.第2に,組合などは真相究明を要求していたという事情があるから,対内的に「解任は適切」という立場の説明を再度行うことになるのだろう.前総長解任時点での総長代行が新総長になったなら,その辺はより簡単だった.

 裁判がどうなるかは私は no idea である.忘れた頃に判決が報道されるのではないかと思う.

追記(2020/12/11)

 12/10の夜になって,一部のメディアで札幌地裁での提訴のニュースが出ていた.予告通りだった.ついでに関連のニュース記事を眺めて2つの点が気になった.

 1つ目.文科大臣が記者会見で裁判について問われ,「大学との調整したので問題ないと思う.」と答えていたらしい.この大臣発言は私がネットで見ていた大臣記者会見の一幕であったかも知れない.しかしこの言い方がちょっと気になる.

 第1に,北大と調整したというけれど,北大が文科省で伝えていなかったことが出て来たらどうなのかね?

 第2に,この点が大きいが,「双方から事情を確認したので問題ないと思う」ではなく「大学と調整したので」といっているので,北大の解任を求めた側と文科省が協力しているという言い方になっている.片方にあからさまに肩入れしたようなことをいってよかったのか?

 2つ目.ある記事によれば,北大の現総長さんが解任手続きは問題がなかったと発言しているらしい.総長選挙を前にして現総長さんは候補者として調査の必要をいっていたのであるが,意外と簡単に手のひらを返してしまったな,と思って私は笑った.解任手続きが問題ないと選挙のときにいっていれば,たぶん現総長さんは選ばれなかったろう.また,解任が正しければ総長に選ばれるのはその時点での総長代行でよかったのである.北大の民度もそんなものなのか.やはり学長選びに選挙をするのは馬鹿げているのではないかと思わせる一コマだなと感じた.

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北大前総長による提訴で現総長はどうするのかw

 北大の前総長は不適切な行為を理由に6月末に解任された.その前総長が,北大と国(つまり文科省)を相手に提訴する(予定)というニュースがメディアに出た.前総長側の弁護士が記者会見しているので,まあやるのだろう.提訴するというのは前総長が予告していたことだった.けれども,本当に提訴するかどうかは私は疑問だった.エネルギーも使うしお金も使う.何よりも北大の騒動を長引かせることになるから,北大愛があれば提訴を控えることも選択だと思った.しかし提訴するという.よほど腹に据えかねたのだろう.野次馬的には面白いが,国立大学の立場からすると暗くなる話かも知れない.
 裁判となるとまず当事者間の協議があるように思う.しかし手続きの瑕疵を争うようなので,協議で折り合えるとも思えない.
 文科省は受けて立つ以外の選択はない.まさか「確かに手続きがダメでした」とはいえない.もし「ダメでした」といったら解任後に決めた事柄の始末をつけようがなくなる.組織をあげて争うだろう.
 北大は,文科省と異なった立場はとれる立場ではないだろう.何より,前総長解任は北大から文科省にお願いした形なので,解任の責任は文科省以上に北大にある.だから普通なら,北大は文科省と並んで裁判で争う立場である.普通なら.

 ここで面白いと私が野次馬的に思うのは,「現総長さんはそうするのかね?」という点である.
 現総長は前総長解任後の総長選考で選出され,文科省に承認された.だから今さら前総長が復権するような流れは嫌だろう.しかし,総長選考時では,総長代行以外の2候補者は,現総長を含め,前総長解任に至る経緯の解明の必要を口にしていたのである.3人の総長候補者に提示された北大職組からの質問には解任の真相究明に関する質問が含まれ,その質問に現総長は次のように回答している.

本件は、全体として、私を含めて北大の構成員が納得できる解明がなされていないことについて、同感です。訴訟への進展も含めて、扱いの難しい案件であることは事実です。しかし、北大の名誉、北大の一般職員の利益、北大の学生の利益が損なわれない方向で、可能な限り、全体像の調査を考えています。

 北大職組は現総長の就任後も総長解任の真相究明を現総長に求めている.現総長に真相究明の意思が本当にあるなら,就任してすぐに解明に乗り出したろう.しかし調査の件は曖昧にしている.やる気はなかったのだろう.ここで前総長による提訴の事態となった.前総長の提訴の可能性は周知のことだったから,もし現総長に手を打つ意思があれば,すぐに事情を確認するとともに,前総長と話し合うことも選択肢だったろう.しかし報道を見る限り,現総長は何もしなかったようである.
 常識的にいえば,提訴された北大は文科省とともに「解任は妥当であった」といって手続きの正当性を主張するしかない.解任が不当であるなら,現総長の選出を含め,学長解任後に大学として決定した事柄はどうするのか? そう考えれば北大は「あの解任は手続き上も正しかった」というしかない.「真相を究明します」というのは「正しいかどうか分からない」ということであるから,真相を究明しますという現学長の当初の立場と,裁判で争う北大の立場とは相容れない.
 そもそも前総長解任を申し出て文科省を引き入れながら,今になって文科省の梯子を外して自らを行司のような第三者の立場に置くことなど,文科省が許すはずはない.
 組織は,いったん外部に表明した立場は,トップが変わっても履行する責務を負う.大統領が変わったから前大統領が結んだ条約には拘束されない,などといえないのと同じである.トップを目指すなら,それまでの執行部が表明した事柄を引き継ぐ覚悟をしないといけない.仮に「前総長解任が正しいかどうか分からない」というなら,批判者の立場を貫くべきであり,トップになろうと手をあげるのは間違いだった.それでもトップに就くなら,面倒で時間のかかるプロセスを経る覚悟が必要になる.
 北大の現総長は,「全体像の調査」という総長選考時点での意向の手のひらを返し,「前総長解任は正しい」と表明することになるだろう.今後の見どころは,本当に現総長が手のひらを返すか,どの時点で手のひらを返すか,何といって手のひらを返すか,である.
 「手のひらを返す」でよいと私は思う.大学が解任の決定をしたことは今さら動かしようがない.真相は裁判で解明されるべきであり,それでまずい結果になったら組織として責任をとるだけである.

 総長選考の時点で,北大職組は3人の候補者に質問を提示している.その回答を私は以前に眺めたが,候補者はほとんど職組の質問にYesで答えているのが印象的だった.北大職組のサイトを見ると,埼大の組合に比べて北大の組合は活動量が多いと感じた.それだけ北大では組合が強いのだろう.また,意向投票の票数を見たとき,北大の教職員数の割に票数が少ないと感じた.埼大の方が投票率は高いように思う.もしそうなら,意向投票結果は組合シンパの組織票の決定力が強いことになる.それだけの観察に過ぎないが,北大の総長選考は全大協系(ほぼ日共系)の意向が反映されやすいよう見える.悪くいうと経営の独立性がないのである.
 大学の経営が教職員の意向から独立して経営の観点で行えるように改変することが,現状の大学には必要なことである.そうでなければ社会の中で大学が責任ある動きをできない.民主主義は全体の社会では必須であるけれど,組織では正義とはいえない.
 対比するなら,埼大の組合は適度な存在のあり方をしていると評価すべきかも知れない.

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今年アクセスが多かった2つの記載(Conbrio)

 このブログConbrioで今年アクセスが多かったのは次の2つである.今年はまだひと月近く残っている.が,この上位2つが抜かれることはないと思う.

1位:北大総長解任劇を見て笑うべきか泣くべきか?(8月)
http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2020/08/post-ff5b03.html
2位:埼玉大学は左翼の巣窟か?(11月)
http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2020/11/post-093833.html

 アクセス数で見るなら,このブログでは記載による差はあまりない.多いというのは,通常はアクセスしないような方のアクセスがあったからだろう.上記は題名が週刊誌的である点が共通である.

 第1位は全国初の国立大学の学長解任劇の話である.ニュースを見ながら不思議に思ったことがあった.ネットで分かる範囲のことを調べたら,やはり変な展開だと思えたために書いた.どなたがアクセスしたのかは分からない.北海道からもいつもより多くのアクセスがあったけれども,北海道から多かったとはいえない.
 こんな記載を書いたけれども,やはり「実際は何が問題だったのか?」は私には分からなかった.大学での騒動など,所詮は愚かな話であろうと思う.研究者は研究と教育に専念するのが正しい.なお,この件で総長を解任された名和前総長が,国と北大を提訴するというニュースが本日(2020/12/03)流れた.

 第2位はネットでサーフしているうちに「こんな分析は簡単にできる」と浮かび,簡単な分析をして急ぎ書いた記事である.全部の手間が2時間くらいだったろう.埼大を論じることは意図ではない.ただ煽情的なタイトルにしてみただけである.
 見込みでものをいって恐縮だが,各大学の教員の文系比率を求めれば,左翼の程度は文系比率と強く相関するだろう.私の直感では,(都会の)私大の方が国立大より左翼感が強い.文系が多いからだろう.

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知識集約型社会を支える人材育成事業

選定結果

 文科省による「知識集約型社会を支える人材育成事業」公募の選定結果が公表されたことを,リアセックの灘さんのfacebookで知った.この公募については私も気になっていて,お節介を承知で現教養学部長殿に「申請を出したら?」という趣旨のメールを以前に送っていた.頂いた返事では全学側も積極的だと聴いていた.公募の趣旨はAI・データサイエンスといったことに全学的に取り組めということと思えた.埼大もその方向を以前に検討しただろう.せっかくだから申請したらどうか?と思ったのである.
 AI・データサイエンスというかICTというかは分からぬが,その方向を全学的に目指すことは特に,教養学部のような文系学部に意味があると私は思っている.教養学部は良い教育研究をしていると思う.しかし学生の就職先を見ていた私の経験では,学んだことをそのまま生かすようなところにはほとんど就職していない.正直いって今のままでは戦力になり難く,労働市場で買い手が付きにくくなるという懸念を私は持っていた.社会の変化に応じて益々懸念が強まるように思える.
 文科省が公表した結果を見ると埼大は採択されておらず,さらに申請状況を見ると埼大は申請もしていなかった.予想の範囲であるが,あれま,と思った.
 いろんな理由が考えられようが,まあ例によって労力配分の合意が付きにくかったのかな,と勝手に思った.ただ,全学生に必修を課す体制が整えられないとしても,意欲があれば全学部の学生が参加できるプログラムは作れたろうに,という気がした.
 この事業は,金額的には大して旨味はないのは分かっている.しかしやれば実質的な意味はあるから,金額が低くてもやってみたら,と思えた.
 このような予算の公募は一時期より少なくなった印象がある.もう段々となくなるのかも知れない.はっきりいってこの種の予算は文科省によるバラマキであり,次第にバラマキをする段階でなくなるかも知れない.だからもらえるうちはもらった方がよい.多少でもお金があれば普段はできないことで冒険ができる.経験値も上がる.

結果は意外

 文科省サイトの選定結果を見てみると,私には意外に思えたことが2点あった.
 第1は,採択されたテーマが結構バラバラで,私が当初考えたAI・データサイエンスといった計画ではなかったことである.印象としては何のテーマでもよかったように見える.これだと,何かの申請で落ちた計画や,作ったけれども日の目を今まで見なかった計画をあらためて集めたような印象である.この選定でよいなら「知識集約型」なんていうなよ,と思った.題名だけを見ての判断であるが,落ちた申請の中にAI・データサイエンスの方向性を持った申請があるのが,何となく変だなと思える.
 第2は,思ったより申請が少なかったことである.特に私大については,そういっては失礼だが,ICU(落ちた)を除けば有名どころや大手の申請がない.この点は金額的な旨味が少ないことによるのかも知れない.
 印象としては,かなり盛り下がった公募だった.

文系学生の使い道

 お金がもらえないとしても,埼大はAI・データサイエンスの基礎を教えるプログラムを全学的に展開した方がよい,と私は思う.将来の人材需要は明らかであり,旧来の伝統的ホワイトカラー職種はAI(と呼ぶかどうかも問題はあるが)にとって代わられるからである.ただの文系では生きられない.従来の専門を維持しながらも,副プログラムのような学びをする必要があるだろう.
 AI・データサイエンスという言葉に比して初歩的過ぎる問題の例で恐縮だが,私の経験を1つ述べておきたい.
 教養学部では2010年頃まで,同じ授業を専修ごとに別の授業名・講義番号を付けていた.そのため,学生に登録する講義番号を間違わないように指示する必要があり,成績提出も講義番号別という不便があった.なぜそうするのかは私には長く不可解だった.当時は学務業務の主のような先生がおられ(その先生は実に公平無私な方であるのはよく理解しているが),その先生の趣味かな,と私はずっと思っていたのである.
 私が学部長になったときにカリキュラム改訂をして,同じ授業なら授業名・講義番号を一本化することを含めて,計画を教授会で通した.米国大学のカリキュラムならそうする.教授会で通した後に学務係には,忘れないように念を押してみた.
 しかし時の学務係長は「それでは卒業単位の処理ができない」という.コンピュータで卒業判定をするのに,専修別に講義番号がないと処理できない,というのである.私の常識では,コンピュータ処理でそんな問題が生じるはずはなかった.
 例えば,通常のプログラミング言語では変数に集合型がある.その集合にある対象が属するか否かを判定する関数は標準でついており,その関数がもしなければ作ればよい.だから例えば,現代社会専修の基礎科目群の授業でどの科目が卒業単位になるかは,その科目群の卒業要件の集合に科目番号を入れればよく(履修表を見ればすぐできる),どこの専修の科目であるかなど関係ない.同じことはリレーショナル・データベースでも必ずできる.
 という訳で,私と学務係長との間で,できるできないで押し問答になった.決着がつかないので,学務電算処理の神だった三浦さんに来てもらって話をきいて頂いた.三浦さんが「学部長が正しい」といってくれたのでやっと決着した.
 ということは,教養学部で同じ科目を専修ごとに科目名・講義番号を付けるという,長く続いた慣習は,実は誰かの特殊な趣味だった訳ではなく,コンピュータ処理に関する誤った認識が長く学務係で受け継がれた結果だった,としか考えられない.
 だから,まあ,プログラミングくらい知っていないとまずいよな,と私は強く思った.
 現状で伝統的なホワイトカラー職種の仕事は機械に置き換わりつつある.ここで問題は,現場の人が機械にやらせる作業をコンピュータに移行するときに,作業のシステムのイメージを持てるか,という点だろう.ネットを見ていたら,確定申告で使うe-taxは2000年頃に自分が作った,と高橋洋一がいっていた.プログラミングが得意な彼は,確定申告の作業をコンピュータにやらせるときの全体作業がイメージできたということである.彼が自分でコードを書いたかどうかは分からぬが,全体のフローチャートに当たる概念図を頭に描けた,ということである.
 日本はコンピュータへの移行がすごく遅れているけれど,その主たる原因はそのイメージが持てない者が上司であり,移行を妨げていることだろう.e-taxの場合は,学務情報の処理と同じで,利用者がデータを入力し,簡単な計算をするだけのシステムだった.が,今後は,既存データに学習機能を働かせるシステムに移行するのだろう.法律や会計の業務はコンピュータに移行しやすい部分なので,そういった伝統的な文系領域の知識を人間が実際に使う機会は少なくなる.必要なのはコンピュータや今後導入されてくるAIの作業のイメージを,現場の人が持てるかどうかになるように思う.全部外部発注,というのは無理なのである.実際のコード化は外部に委託するにしても,基本システムの大まかな設定は現場の人がやるしかない.現場にそのセンスがないと組織は機能しなくなる.
 だから,ド文系の課程でも情報系の教育をしておかないと危ないよ,と私は思う.

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「自助」批判という笑い種

 旧聞に属する話で恐縮だが,菅首相が就任時の会見で「自助」という言葉を使ったので立憲民主党の党首(枝野)などが批判するということがあった.菅首相は具体的で否定しがたい政策を並べたので,政策について批判することがなかった,そこでどうでもよいことを批判してみたのだろう.枝野氏も民主党時代に「自助」といっていたという動画がすぐに流れ,この件は笑話で終わった.自助がダメだといったら,社会主義にしてみんな仲良く貧しくなる以外にないから,自助批判というのは正気の沙汰ではない.
 ただその頃,この「自助」批判が結構あったのは事実と思う.やれやれと思って私は眺めていた.google を開いたときに私のiPadに学者の批判記事らしいのが配信された.あらためて検索してみたが,次の記事だと思う.
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/278859
記事を見ると批判しているのは埼玉大学経済学部准教授殿とあるから,重ねてやれやれと思った.おそらく,私のiPadの位置情報を使って埼玉県にゆかりの記事を配信したのだろう.後から思えば,埼玉大学は左翼10傑の面目躍如だったのかも知れないw.

 自助批判の何がおかしいのか.例えば,であるが,上記の埼大准教授殿の記事では次のようにいう.

>スローガンのメッセージをそのまま解せば、公助、つまり、
>政府の役割は限定していくので期待しないでくださいと
>いうことでしょう。

この言い方はよくあるのであるが,発想が素人過ぎる.間違っているのは政府の役割を公助に限定していることである.今日の主要な民主主義国の経済政策は雇用の確保(失業率の抑制)を最優先するのが普通だ.その普通の,当たり前のことを我が国で最初に,アベノミクスと称して明示的に行ったのが安倍政権である.だから安倍政権になってすぐに株価は上がり,雇用が上昇し,学生は就職しやすくなった.雇用の確保とは「自助する人を増やす」ことに他ならない.自助する人が増えてはじめて,ほんとうに援助を必要とする人に多くを援助できるようになる.つまり自助こそは公助の基礎である.そして自助する人を増やす経済政策をうつことが政府の最重要課題である.そうでない場合の選択肢は社会主義であるが,社会主義にするともっと悲惨であることは歴史の教訓だろう.
 ふと,ふた昔前の田隅学長のことを思い出した.田隅学長という方はいろいろ悪口をいわれた学長さんであり,実際私も散々悪口をいった.特に田隅学長の式辞がつまらないと,主に教育学部の先生方からいわれていた.教育学部では校長先生が感動的な演説をしなければならないという発想があるから,商売柄,そのような点が気になったのかも知れない.1つのエピソードは,卒業式で田隅学長が「税金をちゃんと払え」などと変なことをいっていたと揶揄されたことである.脈絡もなく式辞で税金を払えといったとすれば,そりゃ変である.
 ただ,そこは田隅学長の発言の一部を,マスコミ的に,切り出して難癖をつけたのではないか,と私は想像するようになった(根拠はない).卒業する学生に向かって,これから社会に出て自立して行ってほしい,自立していれば,税金を払うから,それで皆さんは自然と社会に貢献するのである.大事なことは志をもって自立して行くことである.頑張れ.といったことを田隅学長は述べたのではないのかな,と,私は好意的に思うようになった(齢をとって丸くなる高木).

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日本学術会議「軍学共同研究反対」のベラボー

 表題の表現には若干のウソがある.「軍学共同研究反対」といういい方は,日本学術会議が出した声明を根拠に大学・研究機関に防衛装備庁の研究費公募をやめさせるよう圧力をかけている日本共産党系の団体のいい方である.学術会議が使った言葉そのものではない.ただそれらの団体と学術会議は結果として一体で動いた訳であるので,分かりやすさのために表題のように表現にした.
 日本学術会議は「軍事的安全保障研究」に否定的な声明を出している.この声明はベラボーなものと私は思っている.私見では,ベラボーなのは 1) 科学技術政策,2) 学問の自由の侵害,3) 国民の安全への効果,4) 政治手続き,の4点においてである.

1) 科学技術政策としておかしい

 正確にはややこしいのであるが,簡単にいうと日本学術会議の立場は次のように変遷してきた.日本学術会議は終戦直後の1950年に「戦争のための研究をしない」旨の声明を出した.この声明は後に「軍事研究をしない」に変化し,「軍事」の中には「防衛」も含めることにしてしまった.そして軍民共用(Dual Use)の研究もダメとした(少なくともそのように解された)のが2017年の声明である.
 軍民共用の研究を問題にし始めたのは2015年に始まる防衛整備庁の研究費公募(安全保障技術研究推進制度)がきっかけだった.日本学術会議はこの公募への応募を禁じるように動いたのである.
 安全保障技術研究推進制度は,防衛省の予算から研究費を出す制度であるが,公募する研究テーマは軍民共用であり,しかも基礎研究だった.だから常識的には軍事研究ではない.その研究を日共系団体は「軍事研究」といって指弾してきた.しかし,実際の公募研究テーマは次のようなものなのである(ある年度の公募テーマであるが,別の年度でも感じは変わらない).「軍事研究反対」と叫ぶ方々(主としてアホな文系教員)はその辺を見ていないだろう.

(1)量子通信・量子暗号に関する基礎研究
(2)ソフトウェア耐タンパー技術に関する基礎研究
(3)意図的に組み込まれたぜい弱性に対するサイバー防護技術に関する基礎研究
(4)人と人工知能との協働に関する基礎研究

(28)革新的なモータの実現に資する基礎研究

 これを「軍事研究」というか? 科研費でも応募できるテーマである.
 学術会議会員への任命見送りの件に関し北大の事例が話題になった.軍事研究として日共系団体から非難され,研究辞退をするに至った北大の研究の話である.その研究は次の研究である.

課題名:マイクロバブルの乱流境界層中への混入による摩擦抵抗の低減
概要:本研究は、水槽実験及び数値解析を通じて、マイクロバブルコーティングによる船体の摩擦抵抗低減効果のメカニズム解明を目指すものです。
(https://www.mod.go.jp/atla/funding/kadai/h28kadai.pdf)

船体の摩擦抵抗低減というから,自衛艦にも使えようが,使途が一般の船舶と共通なのは明らかである.
 この北大の研究については,最近,ある YouTube 番組で,辞退後に科研費で採択された,という話を聞いた.調べると事実であるようだ.
(https://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/37_topics/data/00044-10101-80273001.pdf)

防衛装備庁でなくても科研費でも採択されるような普通の研究なのである.日共系団体が辞退に圧力をかけたのは,狂っている.
 最近では,筑波大学でその筋の団体が「軍事研究」だとして辞退するように圧力をかけていた件が話題になった.ターゲットになった「軍事研究」とは次である.

課題名:高強度CNTを母材とした耐衝撃緩和機構の解明と超耐衝撃材の創出
概要:本研究では,破壊緩衝現象の計算解析,実験的なナノレベルでの破壊現象の計測解析及び複合CNT材料の合成を通じ,耐衝撃緩和機構の学理的な解明を行うとともに,次世代炭素系超耐衝撃材を創出します.
注 CNT:Carbon Nano Tube(カーボンナノチューブ)
(https://www.mod.go.jp/atla/funding/kadai/r01kadai_2.pdf)

常識的には普通の基礎研究である.こういう研究がその方面の団体が「軍事研究」といってやめさせようとしていたのである.いかにアホなことか.

 理工系の方であれば経産省が安全保障貿易管理といって多くの品目の輸出規制を行っていることをご存じだろう.埼大を含め,大学はこの安全保障管理にしたがって規制をしいている.
http://www.meti.go.jp/policy/anpo/seminer/shiryo/setsumei_anpokanri.pdf
この安全保障貿易管理で輸出規制がかかる品目は実に多い.規制の1つであるリスト規制でリストアップされる品目の大カテゴリーだけ並べると次のようになる.

1.武器 2.原子力 3.化学兵器 3の2.生物兵器
4.ミサイル  5.先端素材 6.材料加工 7.エレクトロニクス
8.電子計算機 9.通信   10.センサ  11.航法装置
12.海洋関連 13.推進装置 14.その他 15.機微品目

もともと軍関係で発達したコンピュータ,原子力,計測機会,GPSを始め,分野として「工学」,「材料科学」の技術を使う品目は網羅される.規制する技術を何と定義するかによるが,「軍事につながる」という基準で考えれば,主要な科学技術の多くは含まれる.
 軍民共用がダメというならそれらの品目に関わる研究ができない.それでは日本の国力にどれだけ大きなダメージを与えることか.
 日本学術会議の声明は,科学技術政策としてあり得ない.

2) 明確な学問の自由の侵害

 学術会議と日共系団体が行った「軍事技術禁止」の方針はあきならに学問の自由,研究の自由の侵害である.なぜそんなことをしてよいと考えたのか,その神経が理解できない.
 むろん世の中にはルールがあるから,なんでも自由とは行かないこともあるだろう.しかし自由を侵害するのであれば,国民の代表が作る国会を経た法律(ないし民主的に選ばれた政府の出す政令や省令)による以外にない.日本学術会議はショートカットして各研究機関に圧力をかけるのではなく,日本共産党に頼んで「軍事研究禁止法案」を国会に提出することを考えるべきだった.
 なお,学術会議は「軍事」という点以外にも,政府が研究に介入しているとか研究が不便だという点を防衛装備庁非難の論拠として挙げている.しかし公金を使うなら中間評価があるのは自然であり,その点を持って政府の介入というのはおかしい.研究に不便があるという点は防衛装備庁も改善している点であるが,不便だからやめるかどうかは申請者本人が判断することことである.製品購入は消費者の判断であり,「この製品は不便だから買うな」というのは余計なお世話であるのと同じである.
 日共は大学等で勢力を植え付けてきた.その象徴が大学の教職員組合が全大協(ほぼ日共系)傘下であることである.彼らは,憲法上は一言もない「大学の自治」を,憲法に言及がある「学問の自由」に由来するという無理な理屈を作ってきた.「大学の自治」とは社会の大勢に自己の勢力が従わないでよいというための方便である.しかし学問の自由とは,本来は学問する個人の意思の尊重である.手段として「学問の自由」を使ってきた日共系は,学術会議の声明によって本来の学問の自由を侵害することを平気でやってしまったというべきだろう.この点は共産主義者(つまり全体主義者)の宿命だろう.

3) 平然と国民の安全を危険に晒している

 日本学術会議の声明がベラボーなのは,中国が異例の軍事費増大を背景に日本近海を脅かし,北朝鮮が日本方面にミサイルを撃って威嚇する時期に出ている点である.学術会議は日本の主権を棄損し,国民の安全を脅かして北朝鮮や中国を支援していることになる.
 学術会議は何を考えているのか?と私は以前はいぶかった.科学者は協力しないから,国民は竹槍ででも国防しろ,ということか? しかし科学者が国防に協力すべきでないとすれば,国民も国防すべきでないという結論になるしかないだろう.昔の社会党のように,学術会議は非武装中立論なのか?
 しかし,菅首相が学術会議会員の何名かの任命見送りを決めたことで,私もやっと気がついた.任命を見送られた学者がテレビに出てきて,軍事による安全保障ではなく対話による安全保障といっていたらしいからである(私はテレビを観ないので,YouTube番組による).確かに,軍学共同反対といって騒いでいる集団は「軍事による安全保障ではなく対話による安全保障」という趣旨のことをよく書いている.そして何より,日本共産党がいろんなところで「軍事による安全保障ではなく対話による安全保障」と表現している.考えてみれば,日本学術会議がいい出した「軍事的安全保障」という聴き慣れない言葉そのものが日本共産党用語だった.日共の指令で学術会議もその筋の団体も動いているということだろう.
 「軍事による安全保障ではなく対話による安全保障」といういい方は詐術的なレトリックである.詐術の核心は「軍事による安全保障」と「対話による安全保障」を排他的な選択肢であるかのようにいう点にある.国と国の関係には「対話」も「軍事」も,選択肢として常にある.いろんな選択肢があることを前提にした展開形ゲームとして国と国の関係は描ける.「侵略に対して軍事的に有効に反撃できる」という能力がなければ,対話でも主権は守れない.中国やロシアの周辺を見れば明らかである.この何十年もの間,東南アジア諸国が軍備を整えてきたのも,中国の桁違いの軍事的膨張に対処するためだった.
 「侵略に対して軍事的に有効に反撃できる」ためには,素材や機材の基礎研究を含めた科学技術の優位性が確保されねばならない.その優位性を阻止して北朝鮮や中国を利するのが学術会議の真意だろう.朝鮮戦争時に日本共産党が行った火炎瓶闘争と同じことを,学術会議やその筋の団体は今やっている.許してよいことではない.
 
4) 政治手続き

 「軍事的安全保障」研究に関して学術会議がとった手続きが,私には大変奇異なものに映る.学術会議は提言や勧告をすることを通常の業とするから,安全保障についても,意見があるなら政府に提言なり勧告をするのが普通の動き方だった.ところが学術会議は提言や勧告の形をとらずに直接研究機関に働きかけてしまったのである.
 学術会議の声明は現状で政府がとっている安全保障政策とは異なった方向性を持っている.しかも学術会議の声明がもたらす効果を得るのは,研究者に限らず国民一般である.だから学術会議は彼らの判断を実施するかどうかを国民の判断に委ねるのが良心的だった.国民の判断とは,憲法の手続きで選ばれた政府なり,国民の代表からなる国会の判断である.学術会議の意図は研究の自由を制限するものであるから,国会承認を経た法律か,最低でも政令,省令の形をとるべきだったろう.政府や自民党が取り合わないなら日本共産党に法案提出を依頼してもよかった.しかし学術会議は国民の判断を仰ぐ手続きをスキップしてしまったのである.結果として行ったことは,一般社会の判断を通らずに,日本共産党の支持勢力の多い大学等の世界で問題を処理してしまったことだった.良心があるならこのようなやり方は考え付かなかっただろう.

終わりに

 以上,4種類の観点から「軍事的安全保障」に関する日本学術会議の声明の問題点を考えてみた.この声明の扱いは国民の視点から見直されるべきだろうと私は思う.
 この文章を書きながら,あらためて,日本学術会議の問題は大学,特に国立大学の問題とパラレルであるという印象を私は抱いた.日本学術会議は身勝手な行動をした.が,考えてみると,国(したがって国民)が設置者である国立大学も,公金を使いながら内輪の教職員で勝手に運営しようとしていた,そうすることが正義だといっていた.問題の根は実は同じなのではないかと思えて来る.

 補足として付け加えたいのは,日本学術会議のこの声明は,実は内容が曖昧だという点である.この曖昧さについては,このブログの2018年の記事として書いてある.
http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2018/09/post-cadf.html
つまりこの声明を正確に読めば,「軍事的安全保障研究」を否定しているのかどうかがはっきりしない.この曖昧さは,声明をまとめる過程で意見がまとまらなかった結果かも知れないし,責任逃れの余地を残す意図があったためかも知れない.しかしこの声明は「軍事的安全保障研究」を否定するものとして受け取られており,社会的には否定する根拠として使われてきた.だからあらためて,この声明の真意が何かは何れかの機会に明確化されるべきだろうと思う.

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米大統領選

 2,3日前に私がネットに入って得た感想であるが,米大統領選につき,トランプ推し,バイデン推しの意見が日本国内で熱く飛び交い,ガラ悪くいがみ合っているように見えた.米大統領は米国民の選択の問題であるから,日本人としては静かに眺めるしかないではないか.日本は米国に強く影響されるから,気にするのはよいのだけれど,選挙権もないのにいがみ合ってまでどちらかを推すというのは滑稽なことである.
 まあそれだけ,米国は日本人にとって身近なものになっているということかも知れない.

 ただ,この奇っ怪な熱さは今回だけかというと,必ずしもそうではないように思う.ふと思い出したのは息子のブッシュ(共和党)とゴア(民主党)が争った2000年の大統領選である.あのときはフロリダで票の数え直しがあった.今ネットで確認すると,その件が決着したのは12月12日であるという.今回がどうなるか分からぬが,2000年の場合も結構長く決着がつかなかったのである.
 その間,当然米国は熱くなっていたと思うが,なぜか日本でも熱くなる向きがあった.
 ふと思い出したのであるが,ちょうどその2000年のもめ事の頃,どことは言わず日本のある大学の3年次編入試験のとある出題単位の入試問題を私は偶々眺めた.時期も今くらいだと思う.その入試問題では読むべき英文が載っていた.目を通すと,「これってゴア側の主張の文章じゃない?」フロリダの票の数え直しのときにゴア側は民主主義原理主義のような論理を展開したのであるが,まさにその文章ではないか.
 まあ,熱くなるのは分かるのだが,入試の問題に片方の主張を出すかね?
 しかしそれだけ,2000年に,熱くなる人がいたのである.

 だから,まあ,今回もしょうがないのかな?と思って笑う私であった.

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埼玉大学は左翼の巣窟か?

安全保障関連法に反対する学者の会

 表題は刺激的だが,注意を引くためである.学術会議関連でネットで検索していると,「安全保障関連法に反対する学者の会」というサイトに出くわした.そういえば,少し前に安全保障関連法がどうしたと騒いでいた時があったなぁ,と懐かしく思った.私が在職中のことと思う.集団自衛権がなんたらといっていたときだろう.私は同僚に,「個別自衛権でも集団自衛権でも,選択肢が多い方が安全は確保できるではないか」と話したのを記憶している.同法案に反対するという発想は私には理解できなかった.
 このページの中にこの会(の声明)への賛同者リストが載っていた.どれどれと見てみた.面白半分に埼玉大学関係者がどれほどいるか検索してみた.結構多かった.出て来る名前はほとんど私が認識している方であり,多くは納得できた.賛同してもよさそうなのに名前が載っていない方も多いなぁ,という気がした.
 ついでに埼大周辺の国立大学で賛同者がどれほどいるかを検索してみた.すると,周辺では埼玉大学より左翼率が高い大学がない.ということは,埼玉大学って,実は左翼の巣窟なのだろうか,と思えてきた.

「左翼率」を計算すると

 今年の2月頃に国立大学の教員数,職員数を分析した.そのときに使ったデータがファイルで残っている.データの出所は国大協が配ったパンフレットに記載された数字(教員数,職員数)である.そこで,よせばよいのに,国立大学ごとに,「安全保障関連法に反対する学者の会」への賛同者数を数え,
  左翼率 = 賛同者数/教員数×100
を計算してみた.私大もやると面白いが,教員数を調べるのが面倒なのでやめた.
 実は賛同者には名誉教授など,元職も含まれている.が,区別するのは手間なので,機械的に上記の式で左翼率を求めた.だから左翼率とは,現職教員数に占める賛同者の比率そのものではない.

 左翼率を従属変数とし,独立変数に4つのダミー変数を入れて重回帰分析を,私としてはほとんど脊髄反射的に実施してみた.4つのダミー変数とは,医学部の有る無し,技術系大学か否か(例えば何とか工業大学),教育系大学か否か,旧帝大か否か,である.左翼率に有意な説明力を持ったのは「医学部の有る無し」と「技術系大学か否か」だけだった.まず医学部のある大学は左翼率が低い.医学部や大学病院の先生が左翼にならないからだろう.また,技術系の大学は左翼率が低い.教育系大学が左翼率に有意に影響しないのは意外だった.常識的には左翼は教育学部に多い.大学名を見ると教育系の大学は左翼率上位が多いのであるが.

どこが左翼の巣窟か?

 面白半分で恐縮だが,左翼率が高い上位10国立大学を書き出すと表1のごとくである.埼玉大学は堂々,この左翼10傑の10位に滑り込んだ.

20110310_20201103233501

 1位が一橋なのは納得である.一橋は,華やかな部分もあるが,反対に僻み根性で固まっている部分も多いので,大学全体としては左翼率が高くて不思議はない.2位の東京外語大については,私にはイメージがないけれど,ド文系中心だからこの数字は納得だろう.地方国立大学で埼大より左翼率が高いのは福島,和歌山,滋賀大学であるが,この辺は失礼ながら地域的にこうなるだろう.そして理系比率が低く教育学部の比率は高い.
 埼玉大学は,総じて文系比率が高いので上位になって不思議はない.まず教育学部が大きい.また,経済学部は概して,少し前までマル経だった所が看板を掛け変えたような部分があるから,仕方ないのである.思えば埼大経済学部にはチュチェ思想の大家がおられた.実は教養学部も相当だった.

 逆に左翼率の低い右翼10傑をあげると次の表2である.体育大学,医科大学,技術系大学が並ぶ.いずれもヒマな文系とは文化が異なる.

20110310_20201105211101

注:上記の表2の「教員数」に間違って「職員数」を入れていました.修正しました.「左翼率」は同じです.

 

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盲腸としての日本学術会議

 日本学術会議と他組織との関連をネットで検索してみた.その結果として得た私の印象は次のごとくである:日本学術会議はあってもなくてもよい盲腸のような存在だろう.害がなければ放置してもよいが,炎症があるなら切除(廃止)した方がよい.政府側の受け止めはそんなところではないか?

 日本学術会議は1949年に政府機関として設置された.日本学術会議法は前年1948年の施行である.よくいわれるようにその頃はGHQの占領下であり,GHQは日本の旧体制抑制のため日本共産党を利用する考えだったろう.が,もし設置が1年遅ければ,学術会議は今日のようではなかったかもしれない.その直後に急展開があったからである.
 1950年になると米ソ対立が厳しくなり,特に朝鮮半島では北朝鮮がスターリンに南朝鮮への侵攻の許可を求めるようになった.その情勢の中で1950年5月にはGHQがレッドパージを始めた.北朝鮮の南朝鮮侵攻によって朝鮮戦争が始まったのが一月後の6月である.その年のうちに中国が朝鮮戦争に加わった.翌1951年に日本共産党の火炎瓶闘争があったのは,北朝鮮・中国軍支援のための後方かく乱だったろう.1952年には日本で破防法ができ,日本共産党は公安の監視対象になった.
 つまり日本学術会議は設置してすぐに「使えない組織」になったと見るべきだろう.
 1956年には科学技術庁ができる.科学技術庁は法令上の日本学術会議と業務がかぶった組織である.同じ1956年に,それまで日本学術会議の付置だった日本学士院が文部省の管轄に変わった.要するに政府は日本学術会議から科学技術振興機能と日本学士院とを引き離したのである.科学技術庁は2001年に文部省(文部科学省)に吸収され,一部の業務は内閣府に回った.科学技術担当相がいるのはそのためである.法的な日本学術会議の仕事は主に文部科学省と内閣府が担う体制になった.
 もう1つ重要な組織は,日本学術会議と名称が似た日本学術振興会である.日本学術振興会は昭和天皇の下賜金をもとに1932年に設立された財団法人であり,政府予算ももらって学術振興の仕事をしていた.ただ天皇由来の組織であるから,終戦後の1947年に政府予算は打ち切られている.ところが1959年から政府予算が復活し,1967年には特殊法人となった.以後,文科省の科研費業務をはじめ,学術振興のためにお金を配る仕事は日本学術振興会に移って行く.日本学術会議の10年後の見直しを決めた2003年には,日本学術振興会は独法としてあらためて設置された.海外アカデミーとの連携も担っている.近年の予算額を見ると,日本学術振興会の予算は日本学術会議の250倍以上である.お金を配る機関であるから日本学術振興会の予算額が大きいのは仕方ないが,展開によっては日本学術会議が担う仕事であったかも知れない.
 政府は日本学術会議をあってもなくてもよい組織として捨扶持を与えて存続させた,といってよい.だから盲腸なのだ.

 しかし日本学術会議は盲腸でよいという状況では次第になくなって来たのだろう,という気がする.安倍内閣以来,政府は成長戦略を考えるようになった.今の菅政権は安倍内閣がやらなかった3本目の矢に集中しているように見える.この成長戦略の中で成長の基盤と位置づけられるのが科学技術である.科学技術が従来より強く投資の対象として意識されるようになった.この点は国立大学には神風である.国立大学は,運営費交付金という形では減額になったかも知れないが,政府のお金は以前よりも投入されている(財務省報告).その是非はともかく,大学のガバナンスを政府が強くいうようになったのも,大学への投資が今後増えることと裏腹と考えるべきだろう.
 その状況の中で,日本学術会議は無害な存在だから放置すればよい,という訳にも行かなくなってきたと考えるのが自然に思える.例えば大学が軍事研究をしないのはよいとしても,軍民のDual Use の研究もしてはいけないというのはベラボー過ぎる.額面通りに解すればコンピュータもロボットもITも軍民 Dual Use に決まっているからである.また目立つところでは,学術会議がリニアコライダー計画に否定的であったことも,多くの人を唖然とさせただろう.次第に学術会議の害が認識されて不思議はない.
 盲腸を切除(廃止)する判断がどこであるか,という話ではないか?

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日本学術会議が選んでいない定番の選択肢

 例の日本学術会議の件はまだ明らかになっていないことが多い.学術会議側に焦点を当てて考えるなら,最大の謎は,山極前会長が次期会員の名簿を提出した際に学術会議側の事務局が何をしていたのか,だと私は思う.政府への提出は事務局を通しているはずであるが,そのときに事務局はどう対応したか.
 一般に,学者や大学の先生はかなりとんでもないことを考えるのが常である.そこを現実に引き戻すのが事務局の役割といえる.大学も同じだろう.私が埼大の中で見聞した範囲でも,教授会側が勝手なことを決めて後で笑話になることもあった(教養学部の話ではない).いいたいけれど,まだ10年は差し障るだろうから,やめておこう.
 前々の学術会議会長は政府側の要望に応じて委員の調整に同意していたので,事務的に考えると今回も同様であるのが自然と思う.想像に過ぎないが,今回は山極前会長が「やっちゃったぁー」という話ではないか.そのときに学術会議側の事務局はどうしてたのだろう,という点に興味が湧く.
 ともあれ,その「やっちゃったぁー」の後の学術会議側の対応はといえば,よく分からない.一見すると梶田現会長が政府に融和的であるように見えるけれども,学術会議側も内部は色々だろう.学術会議としてどうまとまるかは分からない.
 この間,学術会議側の対応が分かりにくく見えたのは,定番の反応をしていないからではないか,と私は感じた.
 私が「定番」の反応と思うのは,「差し障りがある-ない」の尺度で順序づけられる.差し障りのない方からある方に,「これが定番でしょう」と私が思うことを,茶飲み話として書いてみる.

1.当該会員の必要性を説明に行く
 採用を見送られた候補者に関して「この人はウチの組織にこういう訳で必要なんですよ」と政府に説明に行くのが,一番差し障りのない反応であり,類似の場面ではよくやることではないかと私は思う.「理由を説明しろ」は頭が高いいい方に過ぎる.人事不採用については,理由なんて何を出してもその後に押し問答になるしかない.私なら間違っても理由などいわないだろう.教員人事で不採用にする場合と同じである.問われても「優秀な方と思うが,職務に適切であるという確信を持つには至らなった」というしかない.
 今回の学術会議の件では,不採用者がいることを事前に学術会議側に事務ルートで内示していたのかどうか,私にはよく分からない.もし内示があったなら学術会議側はすぐに説明に行くべきだろう.正式決定の後に知ったとしても,欠員があるのだから,次の採用のために説明に行くことはやるべきことと思う.
 「この人が必要である理由」とは,理屈からいって学術会議法にある組織業務(次の2つ)との関連での説明になる.

第三条 日本学術会議は、独立して左の職務を行う。
一 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
二 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

学術会議は今まで,必要があるからこの人にするという発想が,そもそもなかったかも知れない.ただ,話を通すためには説明が必要なのは当たり前である.実際に説明がつく方であるかどうか,私には状況が分からないのであるが,ちゃんと説明できれば,それだけで状況は変わる.通ることもあるように思う.

2.民間の別組織を立ち上げる
 学術会議が政府機関をやめて非政府の組織を立ち上げればそれで解決,という考えは問題が出た当初から指摘された点だった.通常,別組織を立ち上げるのは差し障りのある方の反応であるが,学術会議については2003年に暫定的に政府機関とすると決めたときにも,民間に移行することが理想としていた.だから政府にとっても嫌がる理由はない.民間組織になれば首相の人事権があるはずはないので,任命が見送られた人を会員にできる.会員を自分たちで決めることが重要であるなら,例えば「日本学術協会」などと銘打った別組織に移行することは有力な選択肢である.政府としても行革の実績になるから,Win-Winではないか?
 非政府にすると政府の金を当てにできないと思うかもしれない.が,政府は補助金を出すだろう.政府機関のときと違うのは,お金が渡し切りではなく,事業別に補助金が付き,評価が入ることだろう.実質は従来と変わらないのではないか.むろん,寄付金を募るなどして財源を確保するのが正しい.

3.抗議のため辞任する
 不本意なことがあると抗議のため辞任するのは1つの定番である.が,今回は学術会議のメンバーが抗議の辞任をしたという話は聞かないのが情けない.人数が多いのである程度は出てよい.よほど会員であることに魅力があるのだろう.辞めても収入の道がなくなる人はいないと思うので,ハードルはない.
 私も気に入らないことがあって何らかの役を辞めたことは,大学内外で何度かあった.給料に影響はないから「辞めるだけタダでしょう」といわれればその通りであるが,それでも迷惑をかける方はいるので,多少のハードルはある.抗議する気持ちの強さの問題である.

4.法的な手段に訴える
 首相が任命を見送るのは法律違反であるという話はよく出る.だから違法と思えば訴訟を起こすのは定番であるが,やはりまだ生じていない.かつては家永裁判などがあった.
 法律違反云々は法解釈と法の運用指針とを混同した議論と私は思う.が,法に反すると思えば法的手段,例えば地位確認の訴訟などはできる.法律違反と思うのであれば国会などで議論するのではなく裁判所に委ねるのが正しい.

 学術会議側も内部の調整を経た政府への態度に応じて,今後,上記定番の何れかを選ぶのかも知れないなぁ,見ものだなぁ,と思っている.
 かつて明治の先人は官学に抗して自前で私学を設立する気概があった.時が経過して今は学者の皆さんは公金に頼る癖が身についてしまったかのようだ.あるいは共産主義者がすべてを公金で賄うのが正しいと考える結果なのだろうか?

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筑波大学の下克上

 先日ネットを眺めていたら,朝日か毎日か東京新聞の左派系メディアが筑波大学の学長選考について記事を書いているのを見かけた.学長選考規則を学長選考の前に変えたことに教員の有志が異議を唱えているという趣旨の記事だった.朝日などはよくこの種の記事を書く.「学内民主主義」云々を問題にしたいのだろう.私も以前なら「問題だ」といったかも知れないが,少なくとも退職した今は冷めた見方をする.そもそも教員は学長選考に承認を与える職種ではない.いまだに教授会自治の感覚で騒ぐのは,明治10年頃にちょんまげを結っているようなものだと思うのである.いい加減,昔の管理者ごっこから抜け出したらどうかと思う.
 筑波大学の学長選考に関する記事とほぼ同時期に私が目にしたのは,筑波大学が東京医科歯科大とともに指定国立大学法人に選ばれた,というニュースだった.「えっ」と思った.こちらの方が話が大きい.

 指定国立大学法人とは,ご存じのように,選ばれた上位の国立大学であり,今後政府による投資の対象になる公算が大きい.2017年に最初に選ばれたのは東大,京大,東北大の3つだった.この3つが選ばれたのは驚きではない.その頃,文科省傘下の研究所が大学の論文シェアをまとめていたのだが,シェアの大きな第1グループはこの3大学に阪大を加えた4大学だった.論文数でジニ係数を計算すればわれわれの想像以上に格差があることが分かると思うが,その一握りの上位大学である.
 指定国立大学法人はその後徐々に増え,筑波と東京医科歯科を入れて9大学になった.調べると,2018年3月に東工大と名古屋大学が加わった.阪大より名古屋大が先に入ったのはやや意外な感があったけれど,名古屋大としては欠点だった規模の小ささを岐阜大学との統合計画で乗り切ったのである.東工大も仕方ないだろう.論文上位の阪大はその数か月後に指定国立大学法人に追加された.そして2019年には一橋大学が追加された.一橋はド文系の大学なので指定する意味があるか疑問があるが,まあ世間は納得するかもしれない.その後に追加されたのが東京医科歯科と筑波である.
 東京医科歯科大学は国立大で最初に重点化大学を決めたときにも選ばれているので,順当な面もある.しかし旧帝の九大が申請して落ちたのに筑波が入ったのは下克上ではないか?
 筑波大学も,論文シェアでは第2グループの13大学に入っている.だから不思議はないともいえるが,一般には筑波と広島大がトントンと思われていたから,やはりニュースである.
 
 筑波大の学長選考話に戻そう.これまで筑波大は永田学長という方だったが,その永田学長が今回の選考の結果,引き続き学長を務めることになった.永田学長は国大協の会長にして,日本学術会議による軍民Dual Use 研究の迫害に否定的である.朝日などが永田学長を引きずり下ろしたかった理由はその点にあるだろう.しかし,筑波を指定国立大学法人にした功績は永田学長にある.指定される前提は学長のリーダーシップへの支持が学内にあることであるから,筑波大学としてはこの時期に学長を変えることができる訳がないではないか.学長選考規程を変えたのも,下心の話ではなく,指定を得るための措置の1つであるだろう.そのくらい考えてやれよといいたくなる.
 そして永田学長という方の考えを前提にすると,根拠はないが,筑波大学は今後政府の投資の対象になる可能性が高いのではないか,という気がする.その通りであれば,さらに下克上があり,日本の大学の勢力図に変動があるかも知れない.
 実は私の師匠筋の先生は,旧の東京教育大学にいて筑波大学に移ることを拒否した一人である.だから私も元来は,筑波大学には良いイメージはない.しかし,いろいろと変化があるとするなら愉しいではないか.期待してしまう.

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日本学術会議は見直すべきだろう

よく知らなかった日本学術会議

 少し前に,菅首相が日本学術会議のメンバーを何名か任命しなかったという出来事があった.その件についてはまだ議論がある.が,任命の件とは別に,日本学術会議のあり方の議論が政府で始まった.2003年に日本学術会議を政府機関にすることを暫定的に決めたらしく,10年をめどにあり方を見直すという話が元々だったという.既に17年経っている.安倍政権のときは行政改革は事実上放棄されていたが,菅内閣では行政改革がテーマになる.だから自動的に日本学術会議のあり方の見直しが進む,ということだと思う.
 私にとり,学術会議がいう「軍事的安全保障研究」の件,つまり学術会議が研究者にDual Use の安全保障技術研究をも禁止する方向で働きかけたこと以外には,学術会議が念頭にのぼることはなかった.何の団体かも認識がなかった.今回,ニュースを見て,学術会議が政府機関であると知って驚いた.学術会議は,国大協と同じように民間の非政府組織であると私は思っていた.学術会議の会員が公務員になるというのも意外だった.公務員なら,なるほど任用するかどうかの政府判断はあるだろう.
 「軍事的安全保障研究」の件では,2018年9月に,私はこのブログに次の記事(を含めて5つの記事)を書いた.学術会議は間違っているというのが私の考えである.
軍事的安全保障研究 http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2018/09/post-cadf.html
が,「軍事的安全保障研究」はこの記事のテーマではない.

日本学術会議の法令上の業務

 学術会議が何をする組織なのかを,そもそも私は知らなかった.そこで調べてみようと思った.細かいこともあるので,実際に何をやっているかは外部からは分からないことが多いだろう.まず法令上は何をすることになっているか,という点を抑えようと思った.
 「日本学術会議法」では次の第三条で主たる業務を規定している.

第三条 日本学術会議は、独立して左の職務を行う。
一 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
二 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

 なるほど,この業務(職務)ならいかにも政府機関である.ただ,この業務は明らかに文科省+学振,内閣府とかぶっている.例えばこの数年間,日本の研究論文の量と質が落ちているという議論があるが,そのための基礎的な資料まとめと分析をしていたのは文科省傘下の専門の研究機関である.この分析作業は今も続いていると思うが,この間,ある程度実態が明らかになってきた.そのような分析は専門性のある専従の研究者でなければできない.日本学術会議の出る幕は,実際になかったのではないか? 学術会議も何かしたかも知れないが,ニュースになったという記憶がない.財務省ですらものを言っているのに.
 学術会議の役割は第三条にある「独立に」にあるのかも知れないが,独立して何もできていないだろう.文科省や内閣府の作業はオープンな議論であるので,外部の意見は入ってきており,今さら独立機関の存在意義はない.

 第三条に続く次の第四条~第六条で日本学術会議に関する「できる」規定が入る.

第四条 政府は、左の事項について、日本学術会議に諮問することができる。
一 科学に関する研究、試験等の助成、その他科学の振興を図るために政府の支出する交付金、補助金等の予算及びその配分
二 政府所管の研究所、試験所及び委託研究費等に関する予算編成の方針
三 特に専門科学者の検討を要する重要施策
四 その他日本学術会議に諮問することを適当と認める事項
第五条 日本学術会議は、左の事項について、政府に勧告することができる。
一 科学の振興及び技術の発達に関する方策
二 科学に関する研究成果の活用に関する方策
三 科学研究者の養成に関する方策
四 科学を行政に反映させる方策
五 科学を産業及び国民生活に浸透させる方策
六 その他日本学術会議の目的の遂行に適当な事項
第六条 政府は、日本学術会議の求に応じて、資料の提出、意見の開陳又は説明をすることができる。
第六条の二 日本学術会議は、第三条第二号の職務を達成するため、学術に関する国際団体に加入することができる。
2 前項の規定により学術に関する国際団体に加入する場合において、政府が新たに義務を負担することとなるときは、あらかじめ内閣総理大臣の承認を経るものとする。

 この「できる」で何かをしたというニュースは,寡聞にして接したことがない.諮問であれば政府は別途専門の会議を招集して試問するだろうし,「勧告」については永く何もなかったというニュースもあった.少なくともニュースは聞いたことがない.猪口邦子はコロナ禍でも何を発信しなかったでしょう,といっている(発信しないでくれてよかったと思うが).
 ネットの記事で,学術会議の安全保障の部会?という話題があった.安全保障の専門家が全くいない,という落ちである.学術会議のメンバーはそれぞれの分野で学識は高いのだろうが,個別の問題については個別に専門家を集めて協議するしかないから,学術会議が安全保障を検討するとしたら井戸端会議のようなものでしかないだろう.

実際何をやっているか?

 日本学術会議が何を発信しているかを日本学術会議サイトで眺めてみた.

 まず日本学術会議法の第三条にある職務については,分からなかった.

 第四条にある政府からの諮問については,同サイトの「答申」が該当するのだろう.しかしこの「答申」に記されているのは3つだけであり,最後の答申は2010年のもの(「地球規模の自然災害の増大に対する安全・安心社会の構築」)である.ほとんど答申はしていないようだ.
 なお,別途「回答」というページがあり,その回答では「関係機関から審議依頼(政府からの問いかけを除く。)事項に対する回答」と記してある.この「回答」ページには2006年から2020年までで11の回答が載っている.2020年の回答はスポーツ庁からの審議依頼に基づくから政府からの試問といってもよさそうに思うけれども,区別してある.しかしそれでも数は少ない.

 日本学術会議法の第五条に基づく政府への勧告については,1949年以来数多くの勧告が載っている.しかし最近になるほど数が減り,2009年以降は2010年の勧告を最後に,絶えている.最近は勧告をまったくしていないようである.
 その他,「要望」という項目があり,この「要望」が勧告とどう違うかは分からない.同様に昔は多くの要望の記録を残しているが,2009年を最後に絶えている.

 という訳で,日本学術会議法に記載のある事項での発信は,特に近年になるほどやっていない,というのが実情のようである.
 日本学術会議法上の位置づけははっきりしないが,「提言」や「報告」というページがあり,そこではかなり多くの提言・報告が記録されている.2020年のものも多い.私に分かりそうな提言を見てみたが,まともな提言のように思える.が,これらの提言・報告は分科会でまとめたものなので,学会もしくは学会連合でまとめるべきものがほとんどであると思える.実態としては学会ないし学会連合でやったも同然だろう.

私なりにまとめると

 以上,ダラダラと書いたことを私なりにまとめると,次のようにいうべきと思う.
 日本学術会議の業務を日本学術会議法で規定するなら,日本学術会議の仕事は現状の文科省+学振,内閣府で現実に,それなりに効率的に行っており,日本学術会議が出る幕はないだろう.実際にやっている作業を見ても,日本学術会議法の通りとはいえない.
 日本学術会議の活動で意味がありそうなのは,学会ないし学会連合としての提言・報告の部分(だけ)だろう.こういう活動はあってよい,あるべきとは思うけれども,実態は,学会関係者が東京などに赴く交通費の財布として日本学術会議が使われているのが実態であるように,私には見える.今どきオンライン会議があるのであるから,わざわざ交通費を使う必要はない(それ以上に紙を印刷することはない)けれども,ある程度の交通費は政府が補助してよいのだろう.
 こう考えると,日本学術会議は学会の大連合として定義し直した方が実態に近いのではないかと思えて来る.例えば,学術会議の正規会員は,変な推薦を入れるよりも,主要学会の学会長が自動的に就任するようにした方がすっきりするだろう.会長はちゃんと選挙で選ばれる.主要学会とは,会員規模,海外学会とのつながりなどで判断すればよく,文科省なら判断できると思う.主要でない学会については,複数学会で1人の会員を出せばよいのだろう(おそらく持ち回り).だから日本社会学会や日本心理学会の長は自動的に学術会議メンバー,小学会の会長は時折回って来る,ということである.
 そのうえで,学会連合で作業する人はすべて連携会員に指定できるようにし,必要に応じて交通費を支給するよう政府が予算を措置すれば,それでよいのではないのか? 学会は政府機関ではないから,学術会議も政府機関でないのがむろん正しい.
 なんか,偉そうに書いてしまったw

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大学支援ファンド:で,地方国立大はどうなるの?

 大学の研究支援のための,最大10兆円規模のファンドを政府が作るというニュースが流れた.前々から小出しになっていた話と思う.

 政府は国立大学に対して自律的な経営体になれといってきた.でも,それ,無理なんですよね.お金ないから.予算はそれなりにもらっているけれど,予算はフローでありストックがない訳ですね.国立大学時代は毎年度ごとの予算をもらって消化していればよかった訳だから,いわばその日暮らしだった訳ですよね.以前,ある政府系の審議会の委員が,学長のリーダーシップなんていっても独自の資金がないんじゃしょうがないでしょう,という趣旨のことをいっていた.まあその通り.で,確かに東大などは受託研究費を埼大より二桁多くとっていたと思うけれども,それでも,欧米有名大学のようなストックができる訳ではない.だから今回のようなファンドを,とりあえず政府が作るしかないのだろう.米国の有名大学の収入の内訳を見ると,大学にもよるけれど,伝統ある上位大学は運用益の比率が結構高い.そうでなければ動けませんよね.
 10兆円といってもすぐにその規模になる訳でもなく,運用益を出して使う訳だからすぐに使える訳でもないだろう.何年かして少しずつ稼働するということのように思う.運用は民間に委託するのだろうし,何れは政府から独立した財団にするんだろう.
 ニュースでは,対象は東大や京大など,という書き方だった.想像であるが,法令で線引きするなら指定国立大学法人に対象を限定することになるんじゃないか,と私は勝手に思う.指定国立大学法人は入れ替えがあり得る.

 この大学支援ファンドは,日本にとっては良いことに違いない.けれども,埼大という地方国立大学に縁があった私としては,いろいろひっかかる.
 まず,数大学しか対象にならないこと.10兆円ということなら,3~5大学くらいだろう.しかしそれだと,米国に比べてトップ大学の数が少な過ぎないか? 日本は人口で,以前は米国の1/2,今は1/3くらいかも知れない.もともと,日米で指標を比べると,だいたい日本は米国の1/3~1/2だった.しかし,3~5大学くらいとなると,米国に比べてトップ大学の数が少な過ぎるのではないか?
 つまり,今考えている大学への策は,トップ大学の回りに裾野が広がる,というよりは,下位大学の累々たる屍の上にトップ大学がちょっと乗っている,という風景ではないか? 金がないから仕方ないといわれるとそれまでなのだが,トップでない大学,特に地方国立大学は放置プレイの対象にしかならないのだろうか? という思いが浮かんでしまう.ある程度のファンドは有名私大は持っていると思うが,それでも額は少ない.しかし地方国立大学は,埼玉大学基金程度のものしかないのではないか?

 今回のようなファンドを地方国立大学が作るためにはどうするのか,と考えるべきなのだろう.そのためには,規模を大きくして(つまり統合して),お金を集められる将来的な計画を提示するしかないのだろう.それと同時に,旧来の「大学の自治」風のあり方ではなく,かなり厳しい経営のあり方が大学に求められるようになるのだろう.
 地方銀行は県に1つは要らない,という記事が最近載る.その話,地方国立大学の話かといつも思ってしまう.

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なんとなくパラレル:日本学術会議と国立大学

 先日,日本学術会議会員の任命問題で話題があった.ニュースを見ると,過去に学術会議側は首相の任命権に応じる反応をしていたという.だからこの件は済だな,と感じた.
 この件の経緯の報道を見ながら,なんとなく,日本学術会議は国立大学と似ていると思えてきた.似ているのは発足時の経緯と今後のあり方についてである.

発足時の経緯:国にしがみつくことが第1だった

 私が Twitter でフォローしている高橋洋一(嘉悦大学)という人は,元財務官僚であり,2003年に学術会議のあり方を決めるときには学術会議から彼自身が陳情を受けていたと語っている.当時は民営化の検討が盛んな時期であり,学術会議も政府組織から切り離す(民営化)ことが検討事項だったようだ.国立大学と同じである.政府組織に残れば政府の権限に服することになるが,お金は国から出る.学術会議は国にしがみついてお金をもらうことの方を優先したという.つまりは,任命権は国に行ってもお金の確保を優先したのだろう.だから2003年当時の事情を思えば,首相が任命権を行使しても文句をいう話ではない.

 国立大学については,1990年代の末に,民営化を含めてあり方の議論があった.私個人は「民営化でよい」と当時は思っていた.国の干渉を受けないことの方が重要だからである.民営化しても私大になるだけの話であり,国立大学だったという看板があるのだからやって行ける,と考えた.むろん,教員数に対する学生定員は私大並みを認めてもらうことが前提である.大変かも知れないが,新しい局面に夢を持つべきではないかと思った.
 しかし国立大学関係者の大勢は,私の周囲を含めて,国にしがみつくことが強い願望だった.たぶん日本学術会議と同じような陳情をしていたのだろう.
 国立大学の独法化は免れない,という官庁経由の情報を私が聞いたのは,1999年か2000年の年末であったと思う.独法は民営化に比べるとかなり国の組織に近い.だから内心,私はがっかりしたのである.逆に多くの国立大学関係者は一安心だったろう.
 埼大でも独法化に関する全学会議ができ,教養学部からは私ともうお一方が出席して,独法化後の対応を協議していた.ただこの会議,独法化しても国立大学の現状とほとんど変わらない話ばかりしていた.実質は国立のまま形だけ独法化にするにはどうするか,と話していたのである.
 民営化を回避して独法化になっただけでも国立大学は有難かったはずである.が,その後,国立大学法人という設置形態になるという話が出てきた.国立大学法人は独法より管理が緩い.だからその間に国立大学が陳情を続けたのだろう.力になってもらったのは文科省と文教族の議員先生方である.この時点で,国立大学法人で収まったことは,国立大学にとってはかなり有難いことだったはずである.
 法人化の少し前に文科省のお役人の説明(講演?)が今の研究機構棟の7階会議室で行われた.フロアからはお定まりの,大学が政府の評価に左右されるのは大学の自治ガー,学問の自由ガーという発言もあった.そのときお役人が「学長を文科大臣の任命にしないでもいいんですよ」というと,みんな黙ってしまった.国との関係を切るというのは殺し文句だったのである.
 そんなことであるから,国立大学法人の発足の経緯を考えると,国立大学法人で収めて頂いたことには国立大学関係者は感謝しないといけない.その後,最近になって「国立大学法人化は誤りだ」という発言が時折出るのであるが,そりゃ,国立大学法人発足時の経緯を無視しているな,と感じる.
 日本学術会議と似ているのである.

今後のあり方:国にしがみつき続けるのか?

 日本学術会議については,最近,自民党の中で組織見直し論が出てきた.任命の件で悶着があったということより,2003年に学術会議を政府組織にしたとき,10年をめどに見直す,理想は欧米のアカデミー(つまり非政府組織),というまとめをしていたことによる.既に10年を過ぎており,この間見直しをしていなかったので,見直しは自然なのである.当然,政府組織から外すことも選択肢になる.
 この見直しに学術会議がどのように対応するかは面白い.橋下徹氏がいうように非政府組織にして会員の会費で費用を賄うのが正しいだろう.ただ,日本学術会議は何があっても政府のお金にしがみつくような気がする.見ものである.

 国立大学にも組織の見直しがあるかどうかは私には分からない.在職していれば何かの情報があるかも知れない.ただ何かあるかも知れないな,と思うのは次の点である.
 昨年2019年の政府の骨太の方針(「経済財政運営と改革の基本方針2019」)は,国立大学を含め,大学に多くの言及をしていたのが目を引いた.安倍内閣になってから成長戦略を考えるようになり,政府は大学,特に理系比重の高い国立大学を経済成長の基盤と位置づけるようになった.予算面でいえばこの点は大学にとって神風になっただろう.
 昨年の骨太の方針で特に私が気になったのは次の表現である.

  国は国立大学との自律的契約関係を再定義し、真の自律的経営に
  相応しい法的枠組みの再検討を行う。

 「自律的な契約関係」とは何だろう?
 勝手な想像であるが,米国型の政府と大学の関係であろうか,と思った.米国の場合,州立大学は州の産業振興や人材育成に役割を果たす.そのために予算が付く面がある(日本でも公立大学は同様かもしれない).そのように,この仕事をするからこれだけの補助を出します,という契約関係を結ぶ,ということかも知れないと思った.積算ベース(に近い金額)で予算を国立大学に出すのとは,考え方が異なる.
 今年の骨太の方針2020は,コロナ関係の対応に多くのスペースを割いているので,昨年ほどは大学に関する記述はないように思う.しかし「大学改革等」の項で次のように書いているのである.

  国立大学法人改革について、戦略的な大学経営を可能とする新たな
  法的枠組みを検討し、年内に結論を得る。国と新たな自律的契約関係を
  結ぶ国立大学法人は、…

 昨年度の骨太の方針で出た「自律的契約関係」がここでも出て来る.そして,おそらくそのような契約関係の基礎となる法整備の結論を年内に得る,と書いている.「年内」というだけ,昨年より踏み込んでいる.
 いったい何があるのだろうか? 波乱があれば嬉しいと思う私としては,期待してしまう.

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小論文試験問題を論評する

 私は受験生の時に小論文を経験したことはなく,大学教員になってからも小論文の採点をしたことがない.私の在職期間には,属していた教養学部には小論文はなかった.だから,小論文については私には実感がない.小論文試験に解答するということがどんな感じか,小論文試験の答案が実際はどんなものか,その辺の感覚がない.小論文はちゃんと採点できるものなのか,という点もよく分からない.
 前の記載で私は大学での入試採点について触れた.その記載を書いていて一番気になったのが,「正解」が想定できる学科の試験に比べて,小論文の採点というのは謎である点である.
 そこで教養学部が始めた小論文試験の問題を眺めてみた.いろいろ思う所があったので,よせばよいのにという気持ちもあるのだけれど,以下に書いてみたいと思った.

ひとつの想い出

 教養学部の試験問題を論じる前に,私のひとつの想い出を書いておきたい.20年以上前のことなので,まあいいかと思う.
 正確な年度の記憶はないが,1990年代のことである.私は全学の入試管理委員をしていた.その委員には入試問題の点検という業務があった.どのような問題を点検したかは覚えていないが,通常の学科であれば私に点検ができる訳がない.1つ覚えてるのは,某学部の小さな入試単位が出題する小論文試験の問題での出来事である.
 その問題は,世論調査(のような調査)の結果の表を解説文とともに提示し,小論文で解答を求める問題だった.気の利いた問題に思えた.けれども,設問を見て引っかかったのである.「この問題はダメではないか?」と出題者殿に私は問いかけた.よくいえたな,と思う.
 私の意見は書生的である.設問ではある現象がなぜ起きるかの解答,つまり因果関係の解答を求めていた.しかし設問で示してあるのは調査結果である.調査結果が示すのは相関関係でしかない.原則として,相関関係を示しても因果関係を知ることはできない.つまり本来は分からないことを解答で求めているのではないか?というのが私の論点である.因果関係を検証するなら実験するしかない.
 私が申し上げたことを出題者殿は理解しなかったと思う.押し問答が続いた.出題者殿としても,今さらダメといわれてそうですかと持って帰ることは,今思えば,できなかったろう.だから時間をかけたけれども,問題は手付かずで終わった.
 私の指摘が正当であったかどうかは,今の段階で,問題が目の前にないので分からない.私も,そのような議論をしたという記憶しかない.ただ,私の指摘が正しかった可能性はあるだろう.調査結果を使うのであれば,あくまで相関関係の話として論じるべきであり,因果関係に踏み込むのは正しくない.
 そのときに私が思ったのは,実際にミスがあるかどうかは別にして,可能性として,小論文にもミス,ないし不適切な設問はあり得る,ということである.
 小論文は,本音をいえば安上がりに入試問題を作る必要があるときの策である.だから小さな入試単位が自前で問題を作らなければならないときに選択されることが多かったように思う.原則として小論文なら入試ミスはない.提示した文章の中にミスがあっても責任は原著者に押し付けられる,という気楽さもある.だから気楽に作っていることもあると思うのであるが,科学の基準で問題を問い直す必要は,潜在的にはあるのだろうと思う.その検討をちゃんとしているか,という点は,私は小論文の出題に関わったことがないので,分からない.

2018年の小論文:教養学部・後期

 埼大サイトに入ると学部入試問題の原文をネット経由で閲覧できる.
http://www.cybercollege.jp/saitama/index.php
ファイルにはパスワードがかかっているけれど,ページの右上を見れば閲覧できることが分かる.
 現時点で2018~2020年度の入試問題を見ることができる.そこで,その3年度の,教養学部の後期試験の小論文試験の問題を眺めてみた.
 まず2018年度の問題である.結論を先にいえば,この問題は実によく出来ていた.
 終戦直後(1946年)に志賀直哉が書いた文章が提示される.(実際に問題文を見て頂くべきであるが,)要旨は,国語改革はできそうにない,それよりは外国語を国語にした方がよい,フランス語を国語にするのがよいだろう,という趣旨の文章である.晦渋さのない,分かりやすい文章であるのもよい.
 浅学にしてこのような文章を志賀直哉が書いていたとは私は知らなかった.読めば受験生も驚くのではないか? そして設問とは,「筆者の『国語』についての意見に対するあなたの考えを,…述べなさい.」である.この設問の書き方もよく整っている.
 この問題が優れているのは,提示した志賀直哉の文章内容があまりに荒唐無稽であり,受験者は出題者を忖度して文章内容に同意する圧力を感じないで済む点である.自由に解答できる.つっこみ処は満載であるから,書けるポイントも多い.
 私ならどう解答するか,と考えた.志賀直哉は国語を外国語(英語)にすることの利点を書いているが,コストは書いていない.だからフランス語を国語にすることのコストを書くだろう.見たところ,一番の問題はどのように(外国語への)移行期間を設定するか,どれほどの移行コストを覚悟するか,である.最終的にどうするかは価値観の問題である.価値観の問題ということは,カレーがよいかハヤシライスがよいか,という話であるから,どうすべきかと書くのは野暮な気がする.私なら,最終的には価値観の選択であると書いて終わりにするだろう.
 一瞬迷うのは,志賀直哉のいう「国語」とは「公用語」の意味なのか,という点だった.実際,複数の言語が公用語である国は多い.おそらくフランス語だけを公用語にする,という趣旨と思うが,それでよかったか?

2019年の小論文:教養学部・後期

 2019年度の問題は,貧困と「自己責任」を論じた文章を提示した問題である.私の意見を最初にいうと,私がこの問題に解答するのは難しい.
 設問は「現代の日本社会で用いられる『自己責任』という概念についてのあなたの考えを,…述べなさい.」である.文の形式は2018年度問題と同じに見えるが,2018年の設問には隙がなかった.この年度では「日本社会で用いられる」と書くが,「用いる」の主語は何なのか?
 少なくとも2つの可能性がある.1つは,「日本国民の多くが自己責任の観念を抱いている」である.もう1つは,「日本社会の制度が自己責任論を原理として成り立っている」である.どちらであるかで話は異なる.
 また,この小論文問題の難点は,解答を求めている「自己責任」の概念を文章がまともに議論していないことである.「日本社会では自己責任の観念が強い」は「意見」であり,その意見が基づくはずの「事実」を(少なくとも提示した文章では)示していない.だから受験者は「自己責任」の意味がよく分からぬままに解答を迫られるだろう.
 私見では,自己責任の1つの可能性は「成果本人帰属主義」とでもいうべき理念である.もう1つは,自己責任が貧困者への援助義務を否定するという考えである.日本社会は一方で成果本人帰属主義を基本とするが,貧困者への援助義務はある程度取り入れている.

 まず「日本社会で用いられる」が「日本国民の多くが(自己責任論を)抱いている」である場合を見てみよう.日本社会の人々は自己責任論が強いという点を述べるのに最もよく引用されてきたのは,SSM調査(Social Stratification and Mobility,日本の社会調査で最も信頼される調査の1つ)で「チャンスが平等に与えられているなら、競争で貧富の差がついてもしかたがない」という質問に対し,肯定的な回答が多い,という事実である.SSM調査のこの質問は,いわば「成果本人帰属主義」を測っている.だから貧乏なのは本人が悪いという含意も含んでいるけれど,例えば「イチローが平均的な選手より報酬が多い」を肯定するという意味もある.
 他方で,日本国民は貧困者への援助義務を否定する傾向があるという調査データもある.ただ大多数が否定している訳ではない.
 「日本社会で用いられる」が「日本社会の制度が自己責任論を原理として成り立っている」であるときの事実とは何か? まず憲法で「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を規定し,法体系で(いわば)自助,共助(近い親族による扶養義務),公助(生活保護など)を規定しているのは事実である.この小論文の文章の著者は実際にホームレスをしていたと書いてあるのであるが,この著者が本当にお金がなくてホームレスをしていたなら,役所に申し出れば住居は与えらえるはずだし,(支給金額が低いことはあるけれども)生活保護も受けられたはずである.生活保護が受けられることは義務教育で教えている.が,この著者の問題内の文章ではその点が明記されていないので,受験者はホームレスが見捨てられると誤解したかも知れない.
 なお,困窮者に対して人が冷たいように見えるのも,ある程度,仕方ない面がある点も考慮すべきだろう.私のカミさんが民生委員をしているので聴いていることであるが,行政の側から困窮者に生活保護を受けるように促すことは,クレームを引き起こすので,できない.それでも役所は,困った人が相談に来やすいように丁寧に広報している.
 さらに,貧困を問題にするなら貧困の統計を厚労省が計算して公表している.そうした統計を見ずに貧困の議論はできないだろう.

 「自己責任」の概念を受験者に論じさせるのであれば,あの小論文問題のような煽情的な文章を示すのではなく,少なくとも以上のような事実を出題者が問題の中で情報提供した上で解答を求めるべきだったように思う.事実の把握なしに貧困や自己責任の議論を求めるのは無茶である.
 私がこの試験を受けたなら何を書くだろうか? 本音を書けばよいなら「この問題はここがおかしい」と書くだろう.合格を目指すなら,出題者に忖度して「自己責任論を許さないぞぉ―」と,アベガー的に書くしかないのかな,と思う.
 この年度の小論文で提示された文章が格調が低いのも気になる.かつての教養学部の論文試験時代の文章はずっと上品だった.比べてみて欲しい.

2020年の小論文:教養学部・後期

 2020年度の問題は,若者論・世代論を語る文章を提示している.私の意見を最初にいうと,この問題で何を解答すべきか,私には分からない.
 まず,「若者」や「世代」という言葉の扱いが雑なのが気になる.特定の期間(例えば 1971-1980年)に生まれた人々の統計的集団をコーホートと呼ぶことがある.特定のコーホートが時間の経過を経ても一定の傾向があるとすれば,その傾向が「世代」の特色である.例えば若い時に黄金期に育った世代は,時間を経ても一定の消費傾向を持つ,といったことの議論があり得る.また複数のコーホートが特定の年齢階層にときに一定の傾向があるなら,その傾向が「若者」や「高齢者」などの特色である.ただ複数時点でのコーホートの傾向には年齢,世代,時代という3つの効果が混在し,そのそれぞれの効果を推定することはできないという識別問題が存在している.この識別問題は,推定式に一定の制約条件を仮定することで回避することがよくあるけれども,そうした仮定が妥当かどうかは分析時の判断である.要するに,「世代」や「若者」は分析するのが簡単ではない.
 この小論文の説明文は,「若者」や「世代」といった概念を何も考えずに互換的に使っているように見える.おそらく,この説明文は,1時点での調査結果で回答者を年齢階層に分けたときの年齢階層集団を「世代」と呼び,若年「世代」を「若者」と呼んでいるだけなのだろう.語法がやや素人くさい.
 さて,この小論文は説明文で,まず,「世代」(年齢階層)の隣接世代との相違は年齢を下るほど小さくなると指摘する.その根拠として定期的に実施された世論調査の結果を引用する.さらに,「世代」以外の分類がより重要(同質性がある)になるかも知れないと説く.
 ただ,「隣接世代との相違は年齢を下るほど小さくなる」件は,上記のコーホート分析の対象のように思える.説明文にある結論は「(本来の)世代の効果が無い」と仮定する場合のように思えるが,そのように仮定してよいかどうかは,この説明文では判断できない.また,「『世代」』以外の分類」については,引用する事実(データ)が何もない.
 この小論文の設問は「『若者』や『世代間の違い』をめぐる著者の見解に対するあなたの考えを,…述べなさい.」である.私が受験者であれば解答に困る.本音で解答してよければ次のような趣旨で書くだろう:年齢階層以外の基準で分類した方が級間分散に対する級内分散の比率は高くなるかも知れない.が,かも知れないであって,根拠は問題文では示されておらず,何ともいえない.
 これで点数がもらえるだろうか?
 私が受験生としてどうしても合格したければ,上記のようなことは書かずに,出題者に忖度して次のような趣旨で書くだろう:世代以外の要因でまとまりができつつあるという指摘によって目から鱗が落ちる思いがした.こんな素晴らしい問題を出す埼玉大学に是非入りたい.
 が,これで「800字以上」の要件を満たせすように書くためには,どうでもよいことを書き加えるしかないかも知れない.
 この小論文問題で実際にどのような答案が提出されたのか? 見てみたい.

さて

 以上,3つの小論文問題に感想を書いてみた.教養学部学部入試の小論文は,少なくとも他に推薦入試の小論文がある(私の在職中は推薦入試はやっていなかったと思う).推薦の方の3年度分の問題もついでに眺めてみた.いいたいことは多いが,書くのはやめておこう.計6つの問題を見て,良かったのは志賀直哉の問題だけだったような気がする.
 おそらく,小論文で読ませる文章はない方がよいだろう.中途半端な文章を読ませることは思考の邪魔になる.今日的な研究水準からは外れた文章もある(推薦入試の方).
 ちなみに,私が見た中では,教育学部の小論文が,読ませる文章無しの小論文である.この方がよいだろう.受験者の知的水準はより明確に出る.説明文が導く変な忖度も少ないだろう.文章付きの小論文は受験者を洗脳するようなものである.
 また,前の記載でも書いたことであるが,小論文試験のスコアと共通試験等の科目のスコアとの相関をとって,小論文のスコアの意味を推測する作業は必要だろうな,と感じる.

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大学の入試採点はどうなのか?

入試採点に厳格さが求められた

 このブログの少し前の記載(「大学入試を巡るこの1年のゴタゴタ」)で,英語民間試験の導入延期と論述式問題の見送りの判断について触れた.この2つに関しては正論が通った事例だと私は思う.英語民間試験については東大が早々に導入への疑問を表明していた.東大の検討チームの主査が副学長であったとすれば,その方は計量心理学の大家であり,チーム内には英語教育の専門家もおられただろう.だからいろんな民間試験でCEFRの段階判定をする根拠がないという指摘は学術的に正論であったと思う.論述式の件については大学入試センターで厳密な検証がなされたようだった.入試センターには同じく計量心理学やテスト理論の専門家がおられるはずであり,大臣会見の内容から推察するだけであるが,採点者間の採点の信頼性や採点結果を受験者がどれほど予測できるかを真面目に検証した様子が伺える.センター試験(共通試験)に求められる厳しい基準に照らして導入の延期や見送りを決めたのは,やはり正論が通ったケースといってよいと思う.
 想像であるが,文科省の中ではあくまで実施しようとする係官と慎重な係官がいるのが普通だろう.それを萩生田文科大臣が常識の線でまとめたとすれば,大臣には手腕があったように思う.
 ただ,この点は前の記載でも書いたのだが,論述式問題は大学の個別入試で多く行っている.同じ基準を適用して個々の大学がクリアできるか,という点は私は疑問である.センター試験(共通試験)は注目が高く非難も受けやすいから厳格に検討したけれど,個別の大学の入試は大目に見られているから非難されないだけかも知れない.
 実は入試だけではなく,大学での試験でも,論述式問題が基本である.だから,大学で実施している試験の採点はどうなのよ,という点も,センター試験の基準と対比するなら,結構難しいものがあるんじゃないか,という気がしている.

論述式の採点は内容分析と同じ

 心理学,社会学等で内容分析(Content Analysis)という手法がある.何らかのメッセージ,録画した映像などを分析するときに使う.実は論述式問題の採点は,この内容分析での評定(rating)と同じではないか,という点が私の頭をよぎった.
 内容分析について,例えば集団討議をしている人の発話を,予め決められたカテゴリー
(情報提供,相手への支持,…)に当てはめるということをするとしよう.この場合,各カテゴリーに該当させるときの目安,基準を書き出しておく.そして基準に従って評定者が特定の発話行動をカテゴリーに分類する.あるいは,政治家の発言が現実の複雑性をどれだけ認識しているかの程度を評定者が評定し記録する.この場合もその程度(段階)ごとの該当の目安をルーブリックのように事前に書き出しておく.評定の観点が複数ある場合は観点ごとのルーブリックをつくることになるだろう.このようにして評定者が対象をカテゴリーに分類したり,程度を評定する.
 こういえば,論述式問題で文章を評価することは,あるいは面接で受験者を採点することは,内容分析と同じと思える.
 この内容分析は,いったんデータを得てしまえばそこから先の分析は調査や実験と同じであり,難しいことはない.内容分析が難いのは,評定者の評定の信頼性のチェックをクリアする必要があることである.内容分析では,複数の評定者が独立に(つまり他の評定者の判断の手がかりを得ることなく)評定を行い,評定者間の評定の一致度係数なり信頼性係数を算出し,満足すべき係数が得られたときだけデータが使える.実際やってみれば分かるが,思った以上に一致しない.一致しなければデータは捨てないといけない.ひとによっては評定スコアの評定者間の合計や平均を出せばよいと思うかもしれないが,それはなしである.データが必要なら,ルーブリックのようなものを作り直し,評定者間で見解のすり合わせをした上で,再度評定をやり直す.やり直してOKになるか否かは賭けであり,保証はされない.

テストスコアの信頼性は一度検証する価値がある

 一般論であるが,試験の採点とは,データ(答案)を所与として,そのデータにテストスコアをつけることである.ここで概念的には

  テストスコア = 真のスコア + 誤差

と考えることになるだろう.つまりテストスコアには採点者による誤差が入ると考える(他はない).仮に誤差が真のスコアと確率的に独立であると仮定すれば(仮定できなければ純粋な意味での誤差ではない),

 テストスコアの変動 = 真のスコアの変動 + 誤差の変動

という関係が成り立つはずである.そして,

 テストスコアの信頼性 = 真のスコアの変動/テストスコアの変動

と考えらえる.この信頼性は,真のスコアとテストスコアの相関係数の二乗になるはずである.つまり,信頼性(つまりテストスコア変動中の真のスコアの変動)が81%(.81)であれば,テストスコアと真のスコアの相関係数(正確にはその下限)は .9 となる.
 この信頼性自体は直接測定できない(なぜなら真のスコアが分からないのであるから).が,間接的に推論する方法はいろいろある.単純には同じデータに独立した測定を繰り返してテストスコアの安定性を見ることである.その単純な代替が複数の採点者の結果を比較することである.
 入試の採点を含め,大学での試験の採点にどれほど信頼性があるかは検討してみる価値がある.仮に信頼性が劣る方法が見つかれば,他の試験方法に切り替えるべきだからである.
 入試の採点を例にすると差し障りがあるので,私が在職中に行ってきた期末試験等の採点を例にとろう.直感的に,私の採点には誤差があると思う(いや,ないはずはない).私は私なりに真面目に,時間をかけて採点していた.けれども,採点者は私だけであり,採点の信頼性の検証はできていない(された先生がおられるか).原則として採点は,問いに対するルーブリック(のような基準表)を作り,その基準に従って答案各問の回答内容を分類する.この分類は,例えば3段階であるとしよう.この3段階への分類も,私の内容分析の試行経験からすると,誤差がないとは思えない.さらに,3段階に分類しても,記述に応じて加点や減点をするけれども,その加点/減点の判断も確率的だろう.答案は私自身が見直すので独立した判断にはならない.人間の認知であるから「係留と調整」のメカニズムが働く.以前の判断結果を基準にして点数を調整するという見直ししかできないのが普通である.つまり以前の採点結果に引きずられることになり,独立した判断ではあり得ない.
 仮に複数の優秀なTAがいて,彼らに詳細な採点のルーブリックを示し,独立に採点させたらどうなるであろうか? それでも採点結果の一致はなかなか得られないと思う.
 不一致があることが問題ではない.問題はどの程度の不一致があるか,である.そこは判定者間の信頼性係数を算出する.その数値で評定がかけ離れていると分かれば,内容分析的には,この採点は使えないと判断するのである.評定結果の平均点や合計点を使えばよい,という話ではない.
 おそらく,数学の問題や英文解釈のように,「正解」がはっきりしている問題については,採点上の信頼性問題はあっても小さいだろう.だが試験には面接,小論文なども含む.これらの採点にどれほどの信頼性があるのか?

1回の入試の信頼性だけが問題ではない

 上記は1回の試験答案の採点の信頼性を問題にした.しかし入試の場合は,1回の試験の採点だけの問題でもないような気がする.
 例えば小論文試験で「理解力,論理的な考察力,記述力,表現力,主体性」の5点で評価する,と募集要項に書いていたとしよう(教養学部の例である).この場合,その5点について,採点の基準をルーブリックにすることになるだろう.この5点はある程度年度を越えて募集要項に記載されるだろうから,もし同じ受験者が受験すれば一貫したテストスコアがつかないとおかしい.ある年度の試験の高得点者は別の年度の問題でも高得点でなければおかしいのである(違うなら募集要項の記載を毎年変えないといけない).
 実は,複数回の試験に渡るスコアの信頼性は,センター試験(共通試験)ではある程度担保されている.センター試験では本試験の他に別問題で追試験をやるけれども,両者は原則同等と扱える.試験とは本来,そのようなものである.同じことが大学の個別入試問題,特に小論文や面接で担保されているか? 

 前に文科省が論述式問題の見送りを表明したとき,文科省(というより大学入試センター)はえらく真面目に検証を行った,という印象を私は抱いた.大学入試センターがあそこまでやるなら,各国立大学も,個別試験について上記のような検証を行ってもよいような気がする.

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オンライン授業の方が良くないか?

 今年度は当初から全国の大学でオンラインの授業が拡大した.この間,オンライン授業に対する学生・教員の評価がいろんなところから出ていた.私が見た限りでは,オンライン授業に致命的な欠点があるという話は見当たらない.総じて,オンラインの授業は良い,という結果になっているように思う.欠点として指摘されるのは友人ができない,課題がキツイ,といったことであるが,課題についてはきついのは結構ではないか? 利点としては移動に時間をとられない,といったことである.学生の満足度,学習時間,学習効果などの指標で,オンラインの授業は対面授業より劣っていない.
 つまりオンライン授業は思ったよりうまく稼働しているという印象を受ける.
 確かに実技系の課程では,対面授業でないとできないことが多いだろう.美術,音楽,体育などである.理系の多くも,同様の面があるかも知れない.
 ただ,座学中心の課程では,普通に授業をするよりもオンライン授業の方が良いのではないか,という気が私にはしている.埼玉大学でいえば,教養学部,経済学部,理学部(の特に数学科)などである.その他の学部も,時間的には座学が多いはずである.

 私の考えでは,オンライン授業が対面授業より優れるところは2つある.
 第1はオンライン授業が個々の学生に「特等席」を与えることである.
 教室内の着席位置と成績との関係については,欧米に昔から研究がある.簡単にいうと前方正面辺りに席を占める学生の成績が良いのである.その理由には2つの可能性がある.1つは,授業に意欲がある,ないし教員が好きな学生が教員の近くに席を占める,という可能性である.つまりできる学生が前の方に座る.原因は成績,結果は着席位置であり,そのため,できる学生が前の方にいるという相関関係が生まれる.2つ目は,学生が偶々教員の近くに席を占めることにより,教員の言うことがよく分かり,出来るようになる,という可能性である.この場合,着席位置が原因で成績が結果になる.私が読んだ文献だと,この2つの可能性はどちらもあるのである.
 一般に,学生の多くは教員から離れて着席する.教室は後ろの方から埋まって行く.この傾向は埼大教養学部でも,他大学で非常勤で授業を受け持った場合でも,所謂偏差値に関係なく妥当したように思う.遠くにいると,教員の姿や声が届く度合いも小さい.何を強調しているか,いつどんな表情でいるかも分かりにくい.
 ところが,オンライン授業では,個々の学生は一番良い席,かぶりつきの位置にいるようなものなのである.それなら教育効果は高いだろう.
 第2のオンライン授業の利点は,学生がひとりでいられることである.社会的促進/阻害の研究によれば,人は他者が傍にいると生理的な興奮があって,新たな事項の学習は阻害される.新しいことを学ぶときにはひとりでいた方がよいのである.文科省が「主体性」について,多様な人と協働して学ぶ,などということがナンセンスなのはそのためである.だから学習の効率はオンライン授業の方が高い可能性がある.

 特にこれまで大教室でやっていた授業は,オンラインにすることによって学習成果が上がるのではないだろうか? また,大教室授業とセットにすべき少人数での討論の機会も,TAをうまく使えれば,オンラインでやると良いのではないかと思う.

 オンライン授業を活用して,広い範囲に分散した多数の方々が聴講する授業を容易に構築できることも大きな可能性だろう.少人数による討論の機会を何とかすれば,これまで考えられなかった人数で講義を行うことも可能なはずである.そう考えると,大学という場所に限定されない教育機会を大学が提供する余地は大きくなるようになるように思える.
 結構なことではないか?

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教養学部における入試科目のポリティックス

 1つ前の記載で文科省の大学入試の仕切りがダメではないか,という趣旨の文章を書いた.他方で大学,部局は合理的に入試に対応したかというと,大学,部局によるだろう.私が属していた埼大教養学部について記憶を掘り起こすと,結構ドタバタしていた印象が浮かぶ.この件,有益な教訓を含む話ではないが,面白いので書いてみよう.

3つの時期

 私が教養学部に着任したのは1983年だった.だから記憶があるのは1983年からである.その1983年から現在までの間は学部入試の主たるやり方で3つに区分できる.まとめれば次のごとくである(配点については,私が持つメモの記載で分かる年度だけ書いた).

1.(少なくとも)1983年~1988年
 共通1次試験と個別試験
 個別試験は2教科:英語は必須,国語か数学の1教科選択
 配点 1986 共通1次 1000点 vs 個別 400点
    1987 共通1次 800点 vs 個別 400点
    1988 共通1次 900点 vs 個別 400点

2.1989年~1997年
 共通1次試験(1990年からセンター試験)と個別試験
 個別試験は「論文試験」
 配点 1989 共通1次 800点 vs 個別 600点
    1990 センター700点 vs 個別 500点
   その後 センター700点 vs 個別 300点

3.1998年以降
 前期日程 センター試験と個別試験,個別試験は「外国語(英語)」
      配点 センター 900点 vs 個別 300点
 後期日程 センター試験のみ (配点は?)
      2017年から センター試験と個別試験,個別試験は「小論文」
      配点 センター 1000点 vs 個別 200点

1.の時期(1988年まで)の経過

 この時期の教養学部の入試は国立文系の典型だったように思う.印象に過ぎないが,入学者数で見ると,個別での国語選択者は数学選択者の2~3倍だったろう.
 この時期,学部内の人文系の先生方はずっと,入学者に占める国語選択学生と数学選択学生の比率が気になっていたようである.教養学部の日本文化,中国文化の先生方は,国語の入試問題の作成にかかわっていたけれども,数学選択をする学生の入学を嫌がっておられた.入試の採点をする期間,途中で「数学試験の点数が高くなるようだ」という情報が入ると,国語の点数を高めにするように手配をしていたのを私は目にしていた.
 教授会でも「国語と数学の選択では,国語受験者が不利ではないか? 数学受験の学生の方が入りやすくなっているのではないか?」という意見をよく聞いた.本来データを調べて示すべきであるが,その頃はデータで示すという発想はなく,私はデータを見たことは一度もない.私は新任であるから「そんなことはデータを示してからいえよ」ともいえなかった.が,特に根拠がないままに「国語と数学の選択は不公平」ということが事実のように語られていた.
 ある先生は,「数学受験者の点数は国語より分散が高いだろう」と発言された.分散が高いから上位得点者の中で数学受験者が多くなる,ということだろう.むろんその発言にもデータが付いていなかったが,あり得る話だった.
 確かに学生の中に,「自分は共通1次の点が低かったので,(数学は得意ではないけれど)数学に賭けました」という成功談を語る者がいた.ただ「賭け」であるなら不公平ともいえない.失敗する確率も同じように高いのである.数学ができても賭けをしたくなければ国語を選んだろう.
 「国語と数学の選択は不公平」と仰る先生方は,個別試験から数学を外すように主張し始めた.この主張に対しては社会系から反論が出る.私も反論した.私の意見は,選択で不公平が生じるなら国語・数学・英語の3教科で入試をすればよい,である.私の意見に対しては,「入試の科目を増やす訳にはいかない」という主張があった(根拠は分からない).ともかく,長きにわたって数学を外すかどうかの押し問答が続いたのである.

 この時期を理解する上で重要なことの第1は,人文系(の中でも独・仏・中国コース)の先生方は学生の少なさを何とかしたかったことである.入試科目に数学があるから自分たちのところに学生が来ない,と思っておられたふしがある.
 ただ,おそらく,学生の寡多は入試科目とは関係なかったろう.
 あるとき,宮原先生(独文)が学生にコース志望についてアンケートをし,結果を教授会で報告されたことがある.そのアンケートとは,第1希望だけでなく第2(・3?)希望も聞いていた.披露された結果を私がメモで集計し直し,結果を黒板に書いて解説したことがある(出過ぎたまねを).要点は:
(1) 第1希望でも第2希望でも,人文系コースより社会系コースが多い.
(2) 社会系第1志望の学生は第2志望も社会系である.
(3) 人文系第1志望の学生は第2志望は主に社会系である.
 以上から,「どう転んでも社会系の学生が多くなる(仕方ないよ)」が結論である.おそらく,コースの受入れ学生数に上限を設けても,社会系コースにあぶれた学生は他の社会系コースに行くだけだったろう.

 重要なことの第2は,当時の教養学部教員の研究分野の分布が現在の教員の分布とは異なっていたことである.当時は「政策科学系」(大学院は政策科学研究科所属)の先生方(コースとしては「社会システム・コース」)が多かった.数えていないが,十数名から二十名くらいだったろう.政策科学のディシプリンは3本柱,政治学,経済学,数理科学(数理計画法など)である.経済学者はみな数理・計量をやり,政治学の先生も数学に強かった(というか,経済学をよくご存じだった).
 当時の学生の中には,「自分は文章を読んだりするのは嫌いだが,データをいじるのは好きだ」という学生がおり,そのような学生は政策系の先生に付くことが多かったように思う.私自身も,訳のかからぬ口先のレトリックに走るひねた学生より,データをいじるのが好きな学生の方が良かった.彼らの中には優秀な学生も多く,日銀に入ったり,京大の先生になった人もいた.
 当時の教養学部の研究分野の分布は,「教養学部」として理想的であったと今も私は思う.後に「文系原理主義」が台頭するのは,政策系の先生方がいなくなった後のことである.
 実はこの期間の後の方では政策系の教員が教養学部を出て政策科学研究科専属になる方向性が出てきた.その点が次の大きな地殻変動の下地になっただろうと思う.

2の時期:論文試験時代

 1989年から教養学部は個別試験を「論文試験」に切り替えた.論文試験とは,長めの文章を読ませて設問に回答させる試験である.「小論文」との違いは,読ませる文章が長いこと,試験時間も3時間ほどと長かったことである.
 実は個別試験を論文試験に切り替える経緯は私の記憶にあまりない.私は1986~1987年にかけての1年近く,在外研究で滞米していた.論文試験が1989年から開始とすれば,試験の概要は1987年には公表したと思う.だから私が帰国した時点では論文試験にすることの議論は既に終わり,論文試験が学部内のコンセンサスになっていたように思う.私は反対したけれど,反対してどうなる段階ではなかった.
 論文試験にすることの意味の第1は数学排除に成功したことだろう.これまでの個別試験を「国語」にするよりは,「論文試験」にした方が抵抗が少なかったのだろうと思う.
 意味の第2はより積極的なものであったかも知れない.論文試験を導入するときには教養学部内にある種の熱狂があったことを思い出す.およそ教員たる者の宿業は,自分と同じような人間を育てようとすることである.自分ができることは学生に求め,出来ないことは学生にも求めない.この点は進化の過程で自分のコピィをより増やす利己的遺伝子が繁殖することと似ている.(ちなみに,私の師匠筋の先生は,大学教授は教育で自己の劣化コピィを作ろうとする,だから本人よりバカが後を継ぐ,といっておられた.)教養学部の教員,特に人文系の教員は,難解な著作を読み込んで思索を巡らせ,最後に感想文(のようなもの)を書くことをもって研究とする.だから高校までで学ぶ科目より,まさに教養学部的な研究をすることの適性を,入試で直接求めようとしたような気がする.ある種の原理主義の台頭であったろう.
 ただ,この論文試験は,受験生にとっての国立大学受験の仕組みに反していた.受験生は基本的に,共通1次/センター試験の自分の点数を把握し,その点数で入れる可能性のあるレヴェルの大学を選ぶ.共通1次/センター試験の点数の高い学生は,個別試験を経ても自己の有利さを維持できる大学を選ぶ.だから第1に,個別試験が「論文試験」という前例のない科目名では,共通1次/センター試験の点数の良い学生にとっては不確実性が高過ぎるのである.また,埼大教養学部を受験するのに論文試験対策という,埼大教養学部受験でしか使えない対応を余儀なくされる.それでは埼大教養学部を避ける受験生が出て来るだろう.第2に,論文試験を始めた当初は個別試験である論文試験の配点が高過ぎた.これでは共通1次/センター試験の点数の高い学生は受験を避け,点数が低く一発逆転狙いの受験生を呼び込むことになるだろう.
 論文試験で受験生に読ませる文章は,当初は日本語の文章だった.が,後に英語の文章になったような気がするが,私の記憶ははっきりしない.また,論文試験への配点は後に低めに修正されることとなった.何れも反省したうえでの修正であったように思う.

3の時期:個別試験が英語になる

 1998年に教養学部は個別試験を論文試験から外国語(実質は英語)に切り替えた.切り替えのとりまとめをしたのは私である.正確にいえば,その頃,私と小川先生が交代で部内の委員長になり(当時,委員長は1年任期だった),重要事項を取りまとめた.大きな事項の第1は個別試験を外国語に切り替えたこと,第2はコース制から専修制に切り替えたことである.
 熱狂をもって開始した論文試験であったが,数年経つと疲れが出てきた.背景にあったのは高校卒業者数の減少である.教養学部の志願者数は落ちてきた.教養学部は規模が小さいので統計の数字は不安定であるが,志願倍率の落ち込みは学内の他学部や近隣県の国立大より大きかった.次第に,論文試験をやっている場合ではないのではないか,という意見が増えた.
 論文試験を止めるにあたって教授会でも議論した.論文試験支持派の反論もあった.が,論文試験にトドメを刺したのは奥本先生の発言であったように思う.「論文試験は立派な問題であり,どこに出しても恥ずかしくない.が,例えれば,立派な手術だったが患者は死んだ,である.この間に学生の質は落ちてきた.」この発言が全体の考えを要約していただろう.
 とりまとめのもう1つのポイントは,個別試験の配点を小さくすることだった.個別試験の配点が高ければ,受験者が同じでも,入学者のセンター試験の平均点は低くなる.(低くなる程度はセンター試験スコアと個別試験スコアの間の相関係数による.どれくらいの影響があるかも試算した.)私見では,入学者はセンター試験の点数が高い方がよい.センター試験は科目が多いので,数値としての信頼性(繰返し測定の一貫性)は相対的に高い.試験時間の少ない試験に大きな配点をするとスコアに占める誤差の比率は高くなる.また,入学者のセンター試験が高い方が,学部の偏差値も高く表示されるだろう.
 科目を絞るなら外国語(英語)しかないと考えた.論文試験で英語の文章を読ませていたので,英語への変更は抵抗が少なかった.また入試のスコアを分析すると,英語は他の科目の点数との相関が相対的に高い.英語ができれば,傾向としては数学や社会もできるのである.対して国語は独自の因子であり,国語ができても他の科目もできるという程度は低い.(あくまで私が担当した時点での分析であり,現時点でどうかは再度分析するのがよいだろう.)
 後期日程で個別試験は無しとした.その理由は個別試験の配点は小さい方が良いからである.

4.その後

 1998年に個別試験を変更して20年が経過している.その間,ほとんど無風状態だった.微修正はあっただろうが,内発的な入試の変更の企てはなかった.平和でよかったろう.入試に労力をかけるなら,その労力で授業の1つでも増やした方が教育にはプラスだと,私は思う.
 その間の大きな変更を1つ挙げるなら,2017年から後期日程で小論文を導入したことだろう.後期日程は個別試験をやっておらず,その点で文句をいわれる可能性はあったのであるが,私はできるだけ知らぬふりをして触れないことにしていた.しかし後期日程で志願者の(正式な表現は忘れたが)受諾率が低いことで外部的な指摘が出てしまった.合格させたのに入学しない受験者が多いのである.理由は単純で,個別試験をしていないから,他大学に決めた学生も「受験者」になってしまうからである.そのために,合格者数の決定でも不確実性を抱え込んでいたのである.だから後期受験者には大学に出てきてもらって,後期受験の意思を表示してもらう必要があった.
 私は面接をやって,受験生の顔を見て,同じ点数を付ければよいと内心は思っていた.その時は私は退職まじかな学部長であり,後期の個別試験のあり方については副学部長殿の調整に預けた.入試の委員会と協議し,面接ではなく小論文にするとの報告を受けた.面接をするより小論文の方が動員する教員数が少なくて済む,という判断理由を副学部長殿から伺った.その理由はその通りかも知れないが,教養学部の先生には論文試験をやった血脈があるから,論文試験に近いことやりたかったも知れないと私には思えた.が,配点も低く抑えてあるので問題はないかな,と思った.
 私が退職した後,私は埼大サイトで実際の小論文の問題を眺める機会があった.省力化を優先した問題だな,と苦笑した.問題がよいかどうかは,出題の年度による(暇だから後に論じるかも知れない).
 問題の見た目は実はどうでもよい.できれば,小論文の試験スコアと,センター試験の科目別スコアの相関を分析してみるとよい.小論文のスコアが多くの科目とマイルドな相関を示せば理想的である.特定科目のスコアとの相関が高過ぎるときは小論文に歪みがあるかも知れない.どの科目とも相関がないのも,また別の問題である.

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高大接続は間違っている

 6月にこのブログで「入試で主体性評価w」という記事を書いた.そのときは大学入試で主体性を評価するという話があまりに荒唐無稽に思えたのである.その思いは今も続いている.なにげに埼大の新しい入試要項を眺めたら,調査書や小論文なので主体性(など)を評価するという文言が頻出していた.えっ,どうやって評価するの?とまたも思ったものである.
 私は詳しくない分野のことなので何か書くのは気が引ける.が,私が思っている限りのことを書いてみたい.

1.「主体性」や「学力の3要素」の出現の仕方が胡散臭い

 私も経緯が分からないのであるが,知らぬ間に,「学力の3要素」なる言葉が出回っており,その3番目に「主体性(等)」が入ってきた.そのような用語法があることは私は在職中は知らなかった.
 その「学力の3要素」が何の話かとググってみると,学校教育法に行き当たる.次が同法の第三十条であるが,その2項が「学力の3要素」論の源泉らしい.

学校教育法
第三十条 小学校における教育は、前条に規定する目的を実現するために必要な程度において第二十一条各号に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
○2 前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。

上記の第三十条二項は小学校の規定である.が,第三十条二項は中学校に関する条文,高校に関する条文で「準用」と書いてあるので,小学校~高校に適用される.(むろん大学は適用外である.)
つまり,
(1) 知識と技能
(2) 思考力,判断力,表現力
(3) 主体的に学習に取り組む態度
の3つに,小学校~高校は意を用いなければならない,ということのなる.ただ学校教育法はこの3つを「学力の3要素」などとはいっていない.
 最近よくいわれる「主体性」は3番目の事項に対応しているのが分かる.しかし学校教育法では,「主体的に」は「取り組む」の修飾語に過ぎず,事項本体(被修飾語句)は「学習に取り組む態度」である.この学校教育法の記載内容は,もっともなことではある.

 次に学習指導要領である.学習指導要領も小学校~高校(など)の学校種別ごとに分かれているが,小学校~高校の箇所の総則部分で共通に,次のように書いてある.

…次に掲げることが偏りなく実現できるようにするものとする。
(1) 知識及び技能が習得されるようにすること。
(2) 思考力,判断力,表現力等を育成すること。
(3) 学びに向かう力,人間性等を涵養すること。

 学校教育法と学習指導要領に挙げられている留意すべき3事項は,内容はほぼ対応している.そして,両方の書き方を見る限り,反発したくなる内容ではない.「結構ですね」というべき内容である.

 ところがこの3事項が,入試改革,および高大連携の文科省文書になると,急に飛躍するのである.
 文科省サイトの「大学入学者選抜改革推進委託事業」の説明文(https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/senbatsu/1397824.htm)では,上記の3事項が「学力の3要素」と祭り上げられ,内容は次になる.
(1)知識・技能
(2)思考力・判断力・表現力等
(3)主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度

(1)と(2)は学校教育法などと同じと思うが,(3) が「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」となる.「主体性」まではよいが,なぜか「多様な」とか「協働して」が付加される.そして高大接続の文書(例えば https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2016/06/02/1369232_01_2.pdf)になると,(3)はさらに「主体性・多様性・協働性」と表現されてしまう.
 実は「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」にしても,中身の本体は「学ぶ態度」であり,「主体」・「多様」・「協働」は「学ぶ態度」の修飾語句であるのに,本体は消えて修飾語の3つが本体に入れ替わる.このやり方は見え透いた詐術である.

2.「学力の3要素」が分からない

2.1.主体性
 学力の3要素のうち,特に3番目(主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度)が私には分からない.
 学校教育法の「主体的に学習に取り組む態度」,学習指導要領の「学びに向かう力」は,おそらく,「学習への内発的動機づけ(intrinsic motivation)」を指すだろう.ある学科を学ぶ内発的動機づけが高いとは,その学科が好き,ということである.内発的動機づけが高ければ学習を好んで行いやすいから,学力は高まるのは理屈である.
 しかし「協働して学ぶ」とは何なのか? まず「協働」とは「複数の主体が、何らかの目標を共有し、ともに力を合わせて活動することをいう」(Wikipedia).実は「協働」は私の修論テーマだったので,長くてよければいろいろいえる.ただ,「共同」や「協同」とは異なり,「働」の字が入っているので,単なる Cooperation に Co-production のニュアンスが入ると考えるべきだろう.(cooperationは社会心理学的には「協力」.)基本は共通の目標を持って作業することである.
 協働でも共同でもよいが,人と一緒にグループで学ぶことと,競争しながら学ぶことを比較してどちらが成果があるかは,心理学の古い研究テーマである.どちらがよいとは一概にはいえない.特に,漢字や数学などの新しい事項を学ぶときは,人と一緒に学ぶことは効率が落ちる.子供に勉強部屋を持たせた方がよい所以である.確かに,セールスの仕方を学ぶなら先輩と一緒に店頭で協働するのがよいかも知れないが(学習移転があるから),小学校~高校の学びはほぼ座学であるから,人と協働して学ぶ意味があるとは一般的にはいえない.
 たぶん,「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」とは,「主体性を持って生きなさい,多様な人と交わりなさい,競争ではなく仲良く行きましょう」という複合的なことをいっているのだろう.だから「主体性・多様性・協働性」といういい方になる.ただ,それって,元来の「学習に取り組む態度」や「学びに向かう力」とはかけ離れている.私には,全体主義的な,個人の自由への介入に見える.

2.2.主体性の測定問題
 「主体性・多様性・協働性」を入試に使うことの問題は測定が操作的に解決されていない(おそらく解決しようがない)ことである.たとえば埼大の入試要項でも調査書を「主体性・多様性・協働性」の観点で総合的に評価しますという趣旨のことを書いてあるけれども,たぶん「調査書を総合的に見ますけれど合否判定には使いません」という意味だろうと私は思う.そんなことをわざわざ要項に書くのはどうかと思う(合否判断には使わないとはっきり書くのが正しい).
 仮に,例えば同点の受験者の中の一部を合格させる,という場合に,「主体性・多様性・協働性」で選ぶということはあるのかも知れない.が,その場合もどうするのか? 面接の印象で決めるなら「嘘をついたもの勝ち」の世界になる.
 調査書(ないしportfolio)の記載から点数化して比較できるようにすることを文科省(ないしその委託先)は考えていたように思う.Japan e-Portfolio の仕様を見ると,学校行事,生徒会・委員会,部活動,学校外活動,などを書くことを想定していたようである.ではそういうデータを得て,大学は活動歴記載数でも数えるのか? どの活動も同じなのはまずいから重みづけをするのか? コンクール入賞といって近所のコンクールでもショパンコンクールも同じか? 違うならどの評点を付けるのか? 団体活動はどの団体でも,例えば統一教会の布教(勧誘)活動でもよいのか? カウントすべき団体でのリストでも作るのか? いろいろ考えると面倒であるが,そもそもそんなもの数えて何になるのかが根本問題である.試しに数えてみて,カウントした指標に何の意味があるかをまず研究すべきだろう.

2.3.思考力問題
「学力の3要素」については,主体性等以外にも私には理解できない面がある.「(1) 知識・技能」と「(2) 思考力,判断力,表現力等」の関係である.私は当初,(1)と(2)は混在するものであり,例えば数学の(中級以上の)問題を解く場合も,知識も使うが,思考力を働かせて解くものだと思っていた.
 が,文科省の考えでは,数学の問題を解くような思考力は(1)に入れるのかも知れない,という疑問を感じ始めた.高大連携の文書には次のような表現があるからである.

・知識・技能を活用して、自ら課題を発見し、その解決に向けて探究し、成果等を表現するために必要な思考力・判断力・表現力等の能力(以下、「思考力・判断力・表現力等」という。)
・(2)それら((十分な知識・技能)を基盤にして答えが一つに定まらない問題に自ら解を見いだしていく思考力・判断力・表現力等の能力

 要するに大仰なことを考えているのである.例えば「ある種の環境問題」という課題を見つけて,理科(科学)の知識を使って解決を探求する,といったことを考えているかも知れない.それって,大学の工学部が研究教育することであるから,小中高校生に求めるのはそもそも無理である.
 「答えが一つに定まらない問題に自ら解を見いだしていく」というのも,意味が分からない.「自ら」という語がなぜあるかは置くとして,数学の問題でも答えが一意であるのは特殊な場合である.一意性の証明を定理として見出せれば立派な業績だろう.「答えが一つに定まらない」というけれども,解集合が空集合であったり2つ以上の解を含む場合でも,その解集合を指定できれば答えは出したことになるのである.「答えが一つに定まらない」とは,何を考えているのか? そもそも答えを出すような定式化をしていない場合を想定しているのではないか? それって,混乱しているだけの話である.

2.4.「学力」の拡張解釈
 学力の3要素という議論の別の疑問は,主体性等を「学力」に含めて論じている点である.3要素まとめて「学力」と呼ぶために(1)を「基礎学力」と呼ぶのが,高大連携から派生した文科省用語であるようなのだ.主体性等も「学力」なのだから大学も重視せよ,というのは文科省側のメッセージだろう.
 もう一つの見え透いた詐術である.常識的には,主体性等は学力を規定する要因の1つではあろうが,学力そのものではない.定義は自由であるが,世間の用法とは異なる.
 学力とは何かを概念的にいうなら,いろんな人がいろんな定義をしているから,決着のしようがない.学力は操作的に定義するしかない,と私は思う.すなわち,学力のテストと社会的に合意された試験で示された受験者のアウトプット=成績(ないし成績を出す能力)ということだろう.重要なのは学力はアウトプットであることである.一方,主体性等はそのアウトプットのためのインプットの1つである.学力はいろんな要因(インプット)で規定されるだろうが,学力そのものはアウトプットで測るしかない.運動能力にはいろんなメソッドが貢献するだろうが,運動能力自体はアウトプットで測るしかないのと同じである.
 学力を規定する要因として想定されるのは主に次だろう.第1は知能(正確には数的推論,文章理解,音楽能力,などの下位知能に分かれる).第2は体力(病弱では学力は高めにくい).第3は勤勉さ(Work Habitsといってよい).第4は学習への内発的動機づけ.主体性などはその第4相当だろう.そして,もし主体性等を学力に含めるなら,第1~第3も学力に含めないと変である.
 主体性などと分からぬことをいうのではなく,学習への内発的動機づけというのが社会的にも正しいと私は思う.生徒/学生の主体性を高めろと言われても教師は戸惑う.しかし内発的動機づけを高めることには教師は実際に,日々,意を使っている.内発的動機づけが高いとは,学科の中身を面白いと思うことであり,学科の魅力を伝える努力を教師は必ずしているからである.

2.5.議論の混乱
 上記を一言でまとめるなら,学力の3要素論は,文科省の担当官の脳内混乱が生み出した誇大な妄想のように思えるのである.

3.高大接続は間違っている

 高大接続と称して大学の入試方法を文科省が規制するのは間違いだと私は思う.

3.1.大学が従う筋がない
 文科省が大学の入試方法を規制する根拠は,入試方法が法律上ないし社会通念上不正である場合を除いて,ないだろう.
 まず学校教育の上で,大学は小中高校とは別規定である.第三十条二項は大学では準用ではない.小中高校のように「学科及び教育課程に関する事項は、…、文部科学大臣が定める。」という規定はない.第三十条二項から派生する主体性等は,必要だとしても高校までで完了して生徒が習得している(から卒業できた)はずであり,大学は新たな学びをする建前である.大学は自らの教育課程の内容を前提に,アドミッションポリシーを定めて入試を行うだけのことである.高校以下の教育内容に合わせて大学が入試をしなければならないというはないだろう.人材を送り込みたい企業に対し,大学の教育の観点はこれこれなのでその観点で採用してくれ,と大学がいうようなものである.「ふざけるな」になるだろう.
 多くの大学は高校までの教育に範囲を絞って入試問題を出題しているのは確かである.しかしこの点は学生を確保するための合理的な判断の結果である.そうでないと,上位の大学を除けば,志願者を確保できない.ただ,上位の大学(現実には東大と京大)なら,高校の授業の範囲以外で出題することも原則ありではないか.

3.2.新手のゆとり教育
 文科省は最近,新手のゆとり教育を始めているように私には見える.新たな授業の方法と称する試みはゆとり教育の継続版になるだろう.特に思考力で「答えが一つに定まらない問題に自ら解を見いだしていく」などといい出すと,当事者では答えの見つからない問題を取り上げて,とりとめもなく雑談をすることになる可能性が高い.実は同じようなことは大学でも文系の中の,特に暇な分野ではやっていそうに思う.しかし,例えば経済学のように答えを出せる演習課題を用意できる分野なら,そんな無駄なことをする必要もないだろう.理系も同様ではないか?
 ゆとり自体が悪い訳ではない.しかしゆとりや「主体性」などといって確実に知識を習得する努力が薄まるなら,かつてのゆとり教育の二の舞になるだろう.科学技術立国で行くしかない日本にとっては痛手になる.
 以前書いたことだが,私は教養学部で「ゲーム理論」の授業を持っていたとき,小学生時代からゆとり教育だった学生の世代になると急に,四則演算等の,それまでになかった間違いをする学生が増えたことが忘れられない.また解を出すのに解き方だけを暗記する学生が増え,そのために解が出せないという例も目立った.それ以前にはないことだった.日本はもともとガリ勉が少ないのであるから,ゆとり教育に走るのは止めた方がよい,と思う.
 一連の文科省の動きは,高橋洋一がいう「文系バカが日本をダメにする」例のように思えるのである.

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見どころがあった北大総長選考

 昨日(2020/9/2)に北大で総長選考会議があったらしく,その結果,意向投票で1位の候補者が順当に次期総長と決まった.前総長の解任という出来事があったため,やじ馬に過ぎぬ私にも若干の興味があった.
 しかし私には実に意外な結果だった.やはり大学の内部にいないと分からぬことが多いのだな,と思った.
 一昨日(9/1),気になって,久しぶりに北大職組サイトを眺めた.総長選考の意向投票の結果が出たようだった.リンクのあった北海道新聞の記事を眺めたら,意向投票の票数まで載っていた.結果は私には意外だった.
 候補者は3人おり,意向投票の票数の順位で1位候補者,2位候補者,3位候補者と呼んでおこう.名和前総長の解任を主導し,現総長代行である方が当然1位であると私は思った.が,総長代行殿は最下位の3位だったのである.
 総長選考会議での経過は北大サイトに出ていた.会議で合意ができなかったので選考委員が投票したという.1位候補者が6票,2位と3位の候補者がそれぞれ2票という.現総長代行殿は2票だった.この結果も私の予想とはまったく違った.

 私が予想したのは次のごとくだった.第1に,総長代行殿は意向投票でかなりの票をとるだろう.実質的に総長だったのだから,現職に近い強みがある.また,前総長の解任を全理事と進めた訳だから,その理事の方々は少なくとも出身部局の票固めはするだろう.そこに事務局票が入るのだから,かなりの票はかたいと思ったのである.
 ところが票を取れなかった.あの票だと,出身部局の票固めもできていなかったように思うし,事務局票も固められなかったかも知れない.票固めができなかったということは,動く人があまりいなかったということである.それだけ,前総長解任の件かその他の何かで,支持が得られていなかったのかも知れない.
 票が取れなくても,総長代行殿を選考委員会が選ぶという筋はあり得ると考えていた.総長選考会議は,前総長解任を推進した訳だから,総長代行を次期総長に選びたいだろう.仮に別の総長のもとで解任の件を調査する流れになると困るはずだ.だから,意向投票の結果にかかわらず,選考会議は総長代行で決める,それで終わり,と私は予想していた.投票結果と異なる候補者を選考会議が選ぶことはよくある.
 埼玉大学で,ある学長さんを選んだとき,その学長さんの得票数はぶっちぎりで1位だった.しかしそれでも,1位の候補を選ぶか,3位の現職を選ぶかで,選考会議は長々と押し問答を続けたのである.現職を推す外部委員側と教員側が同数で分かれ,最後は外部委員側のお一人が折れた.教員側は「教員の仁義」を守り,別の候補を推していた委員も選考会議では投票結果にしたがった.しかし展開によっては3位の現職が選ばれたかも知れなかった.
 ただ,まっさらな総長選考で3位候補者を選ぶことはあり得るが,いろいろあった後で,この意向投票結果で,選考会議が3位候補者を選ぶ度胸があるか,という疑問もあった.露骨にいうと,投票で下位の候補者を学長に選ぶのは,どちらかというと下位の大学である.票数が少ないのに特殊事情で選ばれました,という総長では,学内外で人に会うのも難しいだろう.だからどうするかな,と私は思っていたのである.北大は,旧帝大としては崖っぷちかも知れないが,それでも日本の国立大学システムの上位にある.だから意向投票の結果に大きく外れることはしない可能性もあると思った.
 意地悪く言うと,どうするか見ものと思っていた.
 実際に起こったことは,常識的に意向投票1位の候補者を選んだ,ということである.このことによって北大は面子を保てたというべきだろう.それ以外の結果だと惨めだったかも知れない.

 私は元来,教職員の意向投票には懐疑的な意見を持っている.極論すれば,教職員の投票で学長を決めるのは,市役所職員の投票で市長を決めるようなものだからである.ただ,今回の北大の件を見ると,意向投票はちゃんとやった方がよいのかな,と思える.選考会議での票の分布は,意向投票結果があって出たものだろう.
 かなり前,上井学長の下で長く理事をされていた加藤先生と選挙について雑談したことがある.加藤先生も私も「選挙なんて下らないよね」という考えで一致していた.しかし加藤先生が最後に仰ったのは,「しかし選挙がないと革命が起こせないね」という言葉だった.「革命」とは,文字通りの革命ではなく,執行部が間違ったときにケリをつける方法のことである.選挙という正当化の手段がないと,変なことにケリを付けたくても付けられない.そのときは私も「そうですね」と応じた.

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大学入試を巡るこの1年のゴタゴタ

 この1年間,大学入試を巡って少なくとも3つのゴタゴタのような出来事があった.昨年の9月に萩生田文科大臣が就任するのであるが,第1に,就任当日から記者会見では英語民間試験の導入についての質問が出ていた.そして,萩生田大臣が共通試験での英語民間試験導入の延期を表明したのは11月1日である.第2に,12月17日にはセンター試験での記述式問題の導入見送りを同大臣は表明した.第3に,上2者ほどは目立たないニュースだったが,入試での「主体性」の評価に使うと思われていたe-portfolio を扱う教育情報管理機構の運営許可取り消しの方向が今年の7月末に萩生田大臣から表明された(審査結果が出たのは8月7日付).
 この3件のうち3番目の「教育情報管理機構」の件の含みがよく分からなかったので,私は気まぐれで文科省サイトの大臣記者会見の記録を眺めた.ついでに英語民間試験と記述式問題についても大臣記者会見のやりとりを見てみた.眺める過程で思ったのは,これら3つの件は単なる不手際の話ではなく,より本質的な問題の表れと思えたことである.
 より本質的な問題とは,大学入試にかかわる大きな企画を文科省が仕切ることはもはやできないだろう,という点である.
 以下,問題の3件について軽く触れてみる.

英語民間試験導入の延期

 俗に英語民間試験の導入延期というが,正確には,延期したのは「大学入試英語成績提供システム」の導入である.
 まず大臣の就任直後の記者会見(2019.9.11)でも,英語民間試験の問題は記者から質問が出ている.しかしこの段階では萩生田大臣は事情も分からなかったろう.前任の大臣から引き継いだことなので,スケジュール通りにやるつもりとしかいっていない.しかし英語民間試験の件は記者会見ごとに質問が出ており,そのたびごとにこの件に関する検討作業が進んでいることが読み取れる.
 萩生田文科相が英語民間試験の導入延期を発表したのは11月1日の記者会見である.(https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1422393.htm)「現時点において、経済的な状況や居住している地域に関わらず、等しく安心して試験を受けるられるような配慮など、文部科学大臣として、自信をもって受験生の皆さんにお薦めできるシステムにはなっていない」というのが延期の理由だった.
記者からはいろんな質問が出たけれど,特に次のやり取りが面白い.

記者:…導入に向けた議論が不十分だったのか、それとも導入が決まってからの手続きが不十分だったのか、どこに問題があるというふうにお考えでしょうか。
大臣:いずれも問題があったと私は申し上げざる得ないと思います。…試験が自分の県のどこで、いつ、どの会場で行われるかを、…確定することはできない、こういう状況にありましたので…

 大臣が理由としたのは主に調整の遅れである.「文部科学省と大学入試センターを通じて民間試験の実施団体との連携・調整が十分できなかった」ことである.その点は,作業主体の範囲が拡大し従来の組織では対応できなかったことを意味する.
 と同時に,延期は前任の大臣でも判断できた,判断すべきだった,かも知れない.萩生田大臣が就任したのは9月11日であり,延期の公表までの期間は就任後2か月に足らない.

記述式問題の導入の見送り

 萩生田文科大臣が共通試験での記述式問題の導入見送り(延期ではない)を表明したのは12月17日(2019年)での記者会見においてである(https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1423073_00001.htm).記述式の件を巡っては,記者会見においてその1か月前くらいから質疑が続いていた.なお,12/17の会見での大臣発言については,文科省が別ファイルを用意して,正確な伝達をしようとしている(https://www.mext.go.jp/content/20191217-mxt_kouhou01-000003280_2.pdf).
 導入見送りの判断の理由は,簡単にいうと次の3つである.
1) 実際の採点体制を現時点で明示できない.
2) 採点ミスをゼロにはできない.
3) 自己採点と実際の採点との不一致を格段に改善することは難しい.

 特に3)については,不安な受験者からの問合せに対応せざるを得ないという問題がある.会見では「これは多分多くの皆さんが問い合わせをしてくるということになるんだと思います。そうすると現実問題として、これ、システムとしては対応がしきれないということを判断をしたのが一番の要因です。」
 この3つを理由に挙げたということは,文科省,というより大学入試センターがかなり真面目に検証したということであるように思う.評価してよいと思う.
 実はこの3点はクリアできなくても仕方ない,と私は思う.1)については,採点者になる方の都合を考えると,早めに決める訳にも行かないだろう.また2)と3)については,かなり厳密な数値基準を適用した結果であり,その基準をクリアすることは現実問題としてまず無理だと私は思う.例えば,各大学が個別試験で課す記述式問題に同じ基準を適用すれば,たぶんクリアしない.しかし,各大学は批判を受けなくても,受験者規模の大きいセンター試験(共通試験)では批判にさらされるという現実がある.

 英語民間試験と記述式問題に関して文科省が犯した誤りは何であったか? 挙げれば切りがないかもしれないが,私の念頭にのぼる第1は,上記で引用した検討を早めに行わなかったことである.もっと早い段階で延期/見送りを判断してよかった.
 より大きな第2の誤りは,英語民間試験にせよ論述式問題にせよ,導入するなら各大学の個別試験で導入することにしなかったことである.センター試験(共通試験)は受験者数が多数になるから,処理するのが無理なのである.
 例えば,数学Ⅲは,(少なくとも国立の)理系では必須であるにもかかわらず,センター試験には数学Ⅲがない.数学Ⅲは個別試験に回している.なら英語の Speaking と Writing は必要なら個別試験で課す,でもよいはずだ.また論述式は普通に個別試験に入っているから,わざわざ実施困難な共通試験で導入する必要は初めからなかった.

教育情報管理機構の「JAPAN e-Portfolio」の運営許可取り消し

 この件は上記の延期/見送りに比べて世間に認知されていない地味な話である.ただ文科省の手際を評価する上ではより直接的な事例のように思える.
 教育情報管理機構とは,2019年4月から稼働し始めた一般社団法人であり,入試における主体性評価のための「JAPAN e-Portfolio」を運営することを目的としていた.正確には,2021年4月からスタートする本格的な機関へのつなぎの性格を持っていたようである.同機構のサイトを見ると,以下が役員である.

会長 山崎 光悦(金沢大学学長)
副会長 永田 恭介(筑波大学学長)
常務理事 村田 治(関西学院大学学長)
理事 上野 淳(東京都立大学学長)
理事 郡 健二郎(名古屋市立大学学長)
理事 田中 愛治(早稲田大学総長)
監事 松岡 敬(同志社大学教授)

この顔ぶれを見ても,文科省が手配したことがすぐわかる.
 時系列的にいえば,以前より入試改革のため,いくつかの大学が参加する文科省の委託事業が続いていた.その委託事業の過程で,入試での主体性評価に関する報告書(2017.5.30付)が出て,その報告書の中で e-Portfplio の使用が示唆された(https://www.mext.go.jp/content/1397824_005_01.pdf).そして2018年度には委託事業の中で「JAPAN e-Portfolio」が稼働し始めたという.その際の参画大学は113大学,ポートフォリオを利用する生徒数は約20万人,ということだった.
 この「JAPAN e-Portfolio」を運用する団体として上記の一般社団法人教育情報管理機構が,2019年の4月から発足した.
 しかしこの機構が事業を継続するには最初から条件が付されていたのである.条件とは,かいつまんでいうと,第1に債務超過でないこと,第2に「情報銀行」(ないし同等)の認定を受けることだった.情報銀行とは経産省のフレームによる制度であり,個人情報を扱う業者にセキュリティ上の要件を課す仕組みである(https://www.meti.go.jp/press/2019/10/20191008003/20191008003-3.pdf).しかし同機構は発足初年から債務超過に陥った.債務超過になると情報銀行にも認定されない.
 以上の成り行きの中で予定通り同機構への査定が入り,継続条件を満たしていないために自動的に運営許可取り消しになったという,単純といえば単純な経緯である.
 まず今年2020年7月30日の文科大臣の記者会見で,教育情報管理機構の「JAPAN e-Portfolio」の運営許可を取り消す方向で調整する旨のアナウンスがあった(https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/mext_00081.html).正式な書類が出たのは8月7日である.

 問題はなぜ同機構がいきなり債務超過になったかだろう.
 その点については文科省も同機構も同じようなことをいっている.むろん機構の方が文科省への恨みがあると感じる文面である.

文科省の説明 https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/senbatsu/1413458.htm
教育情報管理機構の説明 https://eimo.or.jp/

 要するに,同機構が2019年に発足するにあたって,委託事業の時に獲得した113大学,生徒数20万の契約をそのまま機構に移管することを文科省は拒んだ.法令上,文科省の名で得た契約を,非営利とはいえ民間団体に引き継がせることはできなかったのかも知れない.また,同機構への加盟を促す動きを文科省は取らなかった.役所である文科省が民間団体のための動くことはできなかった,ということかも知れない.法令の解釈では文科省は誤ることはないだろう.

 つまり,文科省の要請で教育情報管理機構を発足させたにもかかわらず,法令上の適否は別にして,文科省が特段の支援活動を行わなかったために同機構は活動停止になった,といえる.しかし,ここで生じた債務は,誰の責任でどうするんだろうか?
 文科省が委託事業で得た契約を同機構に引き継がせなかったことだけが原因かというと,そうでもないと私は思う.
 同機構サイトにある2019年度の決算書を見ると,同機構は参加する大学数を300と見込んでいる.委託事業時で参加大学は113であるから,委託事業のときより飛躍的に参加大学が増えることを見込んでいたのである.また参加する生徒(高校)については,実際は25校だったが,200校を見込んでいたのである.それだけの参加があって少し黒字が出る,という皮算用だった.だから,委託事業時の契約をそのまま引き継いだとしても債務超過になるのは同じだったろう.同機構のPortfolioが有意義だという観測が急速に広まらない限り(実際は逆だろうと思うが),もともとうまく行かない計画だったように私は思う.
 決算書を見て私が気になったのは,支出に人件費が入っていないことである.上記の役員様方が実働をする訳ないから,実働はどうしたのだろうか? 委託事業費で年間440万円を計上しているが,その金額だと週二十数時間働く派遣社員を,秘書兼受付とかで,2人雇える程度ではないか? 委託業務としてどこかの組織に委託したのかも知れないが,その金額でできることはほとんどないように思える.実働がない組織だったのではないか? (システム運用費で1億1千万円を計上しているので,システム運用の実働は別にやってもらっていたろうと思う.)

 この件について文科省のどこがおかしかったかは明らかである.「学力の三要素」などと「主体性」を持ち上げておきながら,その概念も測定方法も詰めずに入試に持ち込もうとした.苦し紛れにポートフォリオで内申書(調査書)の記載のような情報を集めるという,笑い話のようなことを考えたけれども,大学が引いているのも気づかずに甘い見込みで教育情報管理機構を先走って作ってしまった.同機構サイトの記載を見ると,このポートフォリオはしごく単純なデータベースであり,どこの大学でも使っている成績処理システム程度のものである.だから先行的に稼働させて実験してみる必要があるほどの代物ではない.
 このポートフォリオについては,萩生田文科大臣自身が2月の記者会見で疑問を述べているのが面白い.

2020.02.07 文科相会見(https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/mext_00031.html)
大臣:主体性を評価することは大事なんですけど、そもそもこのPortfolio、どのくらい利用されているのか、どういう評価として使っているのかが非常に不明な点がございますので、公開の場で一回、しっかり高校や大学の関係者の皆さんともう一回話し合いをしてみようと思っているんです。といいますのは、結局、このデータ化をしても、高校は、調査書は手書きあるいはパソコンで打ったものを大学入試のときに各学校、担任の先生が作っているわけですよね。それと学校によっては二重の手間になってしまっている可能性もありますので、こういうのも含めて、いい機会ですから、しっかり見直していきたいと思います。

2020.02.21 文科相会見(https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/mext_00035.html)
大臣:そういう意味では、当初描いてきたJAPAN e-Portfolioのような電子化っていうのは、本当に有効性があるのかなというのは、ちょっと私、大臣就任以来疑問に思っていましたので、是非、だからといって止めるということではないんですけど、是非、今日から始まる会議体の中で、どうしたら評価しやすいのか、さっき申し上げたようなことを是非、皆さんで話合いをしてもらいたいなと思っていますので、その議論の行方をしばらく見守りたいと思います。

文科省は大学入試を仕切れない

 ここまでの事例は,文科省が全国規模で大学入試を仕切ることが困難であることを示している,と私は思う.
 第1に,現実に照らした判断力がない.判断力があれば英語民間試験をセンター試験(共通試験)で一律に導入するのが無理であることは,早い段階で,机上でも分かるだろう.記述式問題は個別試験に回せばよいと早めに判断すべきだったろう.「主体性」を評価に使うことの是非は別にして,ポートフォリオが広く入試で使われるという判断はすべきではなかったろう.
 第2は,作業の範囲が子飼いの大学入試センター,(国立を中心とした)各大学の範囲を超える場合は,作業の手配がトロいことである.文科省はもともと審査や審議をする組織であり,実働は仕切れない.その点は他の省庁も同じと思う.
 第3は,作業の仕切りを実効的に行う法的基盤が実はないことである.例えばポートフォリオを持ち出したとしても,そこに加盟することを文科省は強制できない.国立大学は国費をもらっているとはいえ,政府から独立した法人格を持ち,入試は各大学がアドミッションポリシーを設定して大学の判断で実施するのが建前である.私大はさらに,政府に従属する法的根拠がない.文科省が実効性を担保できないが故に,各大学も文科省の提案に乗るのは見合わせがちになる.文科省は,もともと大学を直接指揮する立場にはない,ということである.
 各大学は他大学の反応を予測しながら独自の判断をするというゲーム的な状況が続くことになるように思う.

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北大総長解任劇は何が妄想を掻き立てるのか?

 今月8/4付で私はこのブログで「北大総長解任劇を見て笑うべきか泣くべきか?」という記事を書いた.この記事はこのブログとしてはアクセスが多かった.多少は北海道からのアクセスがあったが,大多数は東京からのアクセスである.
 気を良くしたから,という訳でもないが,追加で記事を書いてみる.よく分からない点が多いために,いろいろ妄想を掻き立てられる面がある,というのがポイントである.
 なお,先日の記事を書いた時点では,北大職組が7/31期限で大学側(理事・学長選考会議・顧問弁護士・事務局)に回答を求めていた質問への回答は北大職組サイトにはなかったと思う.今見てみるとその回答が掲載されていた.回答は若干の新「事実」を含むものの,大勢では以前と変わらない,と思う.調査委員会が前総長への聴聞をしなかった理由も,前総長の辞任願を受理しなかった理由も,事実上不明のままである.

この解任は北大の総長選考を「非民主的」にした

 この点は前回の記事では書かなかったが,今回の総長解任劇は北大における総長選考の性格を変える結果をもたらしたというのが笑える展開だった.
 北大はこれまで,教職員の意向投票に従って総長を選んできたようだ.2016年の12月の日経の記事(名和氏の意向投票「勝利」の記事)では,これまで北大では意向投票の通りに総長が決まっていたと書いてあった.その記事をここでは信じておこう.そのために意向投票は1回とは決まっていなかった.想像であるが,1人の候補者が過半数の票を獲得するまで投票を繰り返した,ということかも知れない.この方式は古典的である.昔は国立大学はみなこの方式だったが,今はこのような古典的な,よくいえば「民主的な」投票を行う大学は少数派だろう.その意向投票が,今回の解任劇と並行して1回限りとなったということは,学長選考の性格が大きく変わったことを意味する.意向投票では決めない,と宣言したに等しい.実際,意向投票で1位でない候補者が選ばれることは,今の国立大学でよくあることなのである.
 私は学長選考を教職員の投票で決めることが特に望ましいとは思っていない.このブログの過去の記事でも書いてきたことである.むろん投票で決めて悪いとも思わない.まあ,どちらも「あり」だろう,と考えている.ただ組合は,どこの大学でも「民主的に決めろ」という.だから学長選考が非民主的になることに北大職組が懸念を示すことは,組合として当然の反応と理解する.
 しかし,今回の総長選考方式の変更は仕方ない程度の内容と思う.多くの地方国立大学が従っている方式に並んだに過ぎない.
 意向投票を1回やるとして,得票数の順位を教職員に知らせるけれども,票数は知らせない,という方式が一番多いような気がする.しかし票数は普通,漏れる.下から漏れることもあるし,上がリークすることもある.何れもご愛敬である.
 なぜ総長選考の方式が変わったかというと,私の想像では,誰かが陰謀を巡らした結果というより,もっと下らない理由だろう.今回の学長解任については,大学側は早い段階で文科省に「相談」(どういうステータスの相談かはともかく)をしていたと考えるのが普通だろう.そしてこの解任は,「投票で選んだ結果が失敗でした」という建前の相談である.その相談の何れかの過程で,文科省の係官から「これからの総長選考はどうするんですか?」くらいのことは聞かれて不思議はない.このとき,文科省から具体的にこうしろという指示があった,と妄想することもできようが,明示的な指示はなかったという方が尤もらしいように私は思う.明示的な指示はなかったものの,選考方式を変えろというのが文科省の意向であると忖度した大学側が,急遽変えたのだろう.
 今回の変更の案は選考委員会にかかったとすれば,現案を作ったのは事務局のはずである.埼玉大学も同様であるが,選考委員会には案を作る能力はない(あるいは,誰もそれだけの労力は払わない).事務局に他意はなく,他大学の例と同じような「たたき台」を作り,そのたたき台通りに選考会議が決めたのではないか? 教員代表も入った選考会議でそのように決めたのであれば,北大の民度もその程度であったと笑って納得すべきだろう.

私の妄想を掻き立てるいくつかのポイント

 北大の総長解任劇は理解しにくい要素がいろいろある.1つには正確な情報が出ていないことによる.むろん部外者の私が正確な情報を得るべき筋はないから,文句をいうべきことではない.しかし2つ目に,この辺が常識だろうと私が思う線から逸れている事柄が多いような気がする.だからなぜなんだろうと思いめぐらし,妄想に発展する面がある.
 後学のためになどと尤もらしいことはいわぬ.ただ単に面白いので,私がどんな妄想を抱いたかを書いてみたい.あくまで情報がないための妄想であり,真実と主張する訳でない点は注意して頂きたい.

1) 北大の事務方はお坊ちゃま/お嬢ちゃまの集団か?

 名和氏の総長解任事由とされた点が28ある.詳細は分からぬが,その項目を眺めながらツッコミをいれたくなることが少なくなかった.

 例えば航空会社のカウンターで名和氏がみっともないことをした,という指摘があった.その指摘を見たとき私に浮かんだのは「そのとき秘書は何をしていたのか?」である.
 総長が何か交渉をしようとしたなら,秘書は割って入って自分がやるといわなければならない.秘書が同行していなかったなら,同行した事務方が秘書役をするのが当然である.総長にそんなことをさせてはいけない.たぶん北大事務方が目撃していたのだと思うが,黙って見ていたのだろうか? 北大の事務方は殿様なのか?
 埼玉大学でいうなら,法人化直前に兵藤先生という学長がおられた.この方は明るく陽気な方で,私が好きな学長だった.酒が入るとやはり明るく陽気で結構なのだが,陽気すぎて迷惑と思う方もいたかも知れない.だから秘書課長の今井さんが何とかしたのである.兵藤先生は大兵であったが,今井さんも腕力があるから何とかしただろう.それが例えば,酒が入って失敗するような場面があって,それを黙って傍で見ているなんてことは,埼大の職員ならしない.まして後になって「学長はこんなひどいことをして大学の名誉を傷つけました」などと密告するとは,考えられない.

 名和氏が「なぜ迎えに来ない」といって怒った,という話もあった.似たような話かなと思った.どこかに訪問するのに,エレベータの前とかどっち側のロビーとか東の改札前とかで会う,といった約束をすることはある.もし予定した時間に来るべき人が現れなければ,私なら可能性のある場所に自分が行くか誰かを行かせるかして確認をする(自分1人しかいない場合は別).相手が目上でも目下でも同じである.なぜなら,段取りなどはいくらでも記憶違いがあるからである.名和氏の例でいうと,名和氏が現れない状況で,北大の皆さんは何もしないで待っていたのだろうか? 総長が一番重要なのだから,総長をこちらから探しに行くのは当たり前である.
 なんか,北大の事務局の方は,自分がすんげぇー偉いと思っているんじゃない?

 指摘事項で多かったのが,何かの件で名和氏が理不尽に叱責する,といった話である.例えば日本ハムの球場の件.
 ただ,業務の手順,手際について総長は正当に文句をいえる立場にある.業務のすべてに権限を持つのは学長(総長)であり,学長の指示に従うのが法人法の基本である.埼大の田隅学長は叱責を「指導」といっていた.
 私は田隅学長時代にある件について人事課長と口論をしたことがある.そのときの人事課長殿の言によれば,文書になっていなくても学長から口頭で指示があれば業務命令になるとのことだった.その言にしたがえば,業務に関しては,学長から口頭ででも指示がどこかにあれば,学長の「指導」に従うしかない.だから名和総長の「叱責」が非違行為に当たるというのが,私には分かりにくい.よほどの人格攻撃を含む場合は該当するかもしれないが,問題が名和氏の人格に起因するというのであれば,(社会心理学の帰属理論的にいうと)総長になる前の工学院長時代や,秩父セメントに務めていたときから,同様の観測が得られていたはずだろう.また,職員や役員だけでなく,教員ともトラブルを抱えていないとおかしい.
 むろん,その「現場」を見ていない私には結論は出せない.
 とはいいながら,帰属理論的にいうと,名和氏のトラブルの相手が主に職員だったことから推論するなら,原因を事務局の職員さんに帰属するのも1つの自然な推論なのである.
 ここで私の妄想が始まる.

 法人化前のことであるが,気の弱い私には珍しくある件である女子学生に私は怒った.しかしその学生は逆切れし,「親からも怒られたことはないのに,私を怒るなんて」というのである.驚いた.「そりゃ,あんたの親がおかしいんだよ」といいたかったが,むろん口にはしなかった.後日その件を誰かに話したら,それってガンダムのアムロの台詞だね,と教えてくれた.アムロの台詞とは,今ネットで探すと次である.
 「ぶったね…」
 「二度もぶった…!!」
 「親父にもぶたれたことないのに!!!」
(この後に「誰が二度とガンダムなんかに乗ってやるもんか」になる.)
私がこの件でしみじみ思ったのは,最近の子供は親から怒られたことがないんだ,ということだった.私も親から怒られた記憶は少ないが,小中学校の教師からはずいぶんとぶたれた.
 考えてみると,今の中堅の職員さんの年齢は,ちょうど上記の女子学生と同じくらいではないか? だからそういう時代になっているのかも知れない.親からも先生からも怒られたことがない.下手に叱責すると,特に文科省から出向しているお役人の場合,
 「叱責したね.2度も叱責したね.文科大臣からも叱責されたことがないのに.リークしてやる.」
 という流れになってしまうのではないか?
 まあ,文科大臣は文科省の役人を叱責できないでしょうね.怖くて.下手に叱責すると変なメモを作って朝日新聞にリークしそうですよね.

2) 北大にはDeep Stateがあるのか?

 北大総長解任の経過を眺めながら私が思ったことの1つは,名和氏は役員や事務方の上層に身内の人がはじめからいなかったのではないか,という点である.その点が不思議でならない.
 埼玉大学の場合,役員は原則,新学長が選ぶ.慣例的に筆頭理事は研究担当理事であるが,法人化以来,学長選考で最も功のあった人(通常は部局長)が研究担当理事になってきた.また事務の上層にも学長に近い人が就任することがある.事務局長が気を利かせるのだろう.身びいきの人事に見えるかも知れないが,それでよいのである.そうしないと学長は身動きができない.そうでないと,むしろ周囲とトラブルを起こすことになる.私は学部長の経験しかないが,学部の事務長は密かに,学部長の考えに合わせる努力をして下さっていた.その事務長の貢献がなければ学部長すら仕事にならない.
 一方,名和総長のときの理事の陣容を見ると,理事として入っているのは有力部局(票田の大きさや伝統的な分野序列)のトップが理事になっているように,部外者の私には見える.見たところ,名和氏の側近のように見える人がいない.理事以外の副学長(つまり大した権限がない)でその他の部局にも色を付けているように見える.部局のバランスを考えた上に有力部局を重く用いるのは,どこの大学も同様である.しかし総長側近に見える人が権限の強い所にいない点は,私は気になった.ブレーンとして総長側近がいるということはあるかも知れないが,権限のないブレーンでは具体的な動きを作ることはできない.
 この状況で,仮に名和氏が総長のときに,例えば教員の削減を減らす策を実行するのは難しいのではないか,という気がするのである.結局,周囲の役職者と摩擦を起こしやすい状況に立ち至るのではないか?
 要するに,北大は学長を中心に動くようにできていないのではないか?というのが私の妄想である.理事の陣容にしても,どのように決まったのであろうか? などと妄想する.北大内にDeep State のようなものがあり,そのDeep State が決めているという陰謀論を言い出せば,説明は簡単になってしまう.
 ふと,名和氏が文科省お役人への陳述書の中で「解任を求める組織の存在」に言及していたことを思い出す.解任事由の「証拠」として秘密裏に名和氏の音声を録音していたらしいのであるが,総長室や総長車で録音されたというのであるから,秘書室(相当部署)が一丸とならなければ無理だろう.だからDeep Stateというか,ナチスにおける親衛隊のような組織があるんじゃないの,という陰謀論を名和氏が抱きたくなるのも,無理からぬことのように感じる.

3) 大学側が名和氏の辞任願を受理しなかったのかなぜか?

 北大の展開で私が一番首をかしげるのは,2018年の12月,つまり総長選考委員会が調査を始めた次の月に名和氏が辞任願を出したのに,大学側が受理しなかったことである.普通に考えれば,名和氏が辞任願いを出せば「やったぜ」ではないか? 北大職組への回答で大学側は名和氏に辞任の意思がないと思ったと述べているのであるが,理屈にならない.もし辞任するといって名和氏が後で撤回したなら,名和氏に不利な材料が揃うだけである.だから辞表を受理しない理由はない.
 一般に会社でも,辞めて欲しい人がいても解雇することはハードルが高い.辞めさせたい社員を適性のない部署に配置換えするとか,下らない仕事しか与えない,などして,当人が自発的に辞表を出すのを待つだろう.むろん露骨にやると法に抵触する.しかし,自発的に辞表を出してくれれば一番都合が良い.
 実際,大学側が辞任願を受理せず解任手続きに進んだために,辞任してもらったときより1年半の余計な時間がかかった.また解任申立ての書類をそろえるのに,おそらく新部局を設置するくらいの手間がかかったろう.それだけの手間を本来の仕事に回せば,多くの達成が得られたはずである.
 だから大学側が辞任願を受理しなかった点は妄想を掻き立てる.
 私の妄想では,思いつく理由は2つである.
 第1は,大学側特に事務局の名和氏への憎しみが強く,簡単に辞任させては気が済まず,すべての名誉をはく奪し,いたぶり抜いて放逐することにこだわった,という可能性である.普通はこの理由はないと思うが,『財界さっぽろ』は「背後に事務局の深い恨み」というから,あり得るのかも知れない.
 第2の思いつく理由はもっと事務的な性格のものである.名和氏が辞任願を出した時点で大学側は文科省に事前相談(どのようなステータスかは別にして)を開始しており,今更引っ込められないと考えた可能性である.学長解任の申立ては全国初であり,前例がない.大学側は,どのように申立書を書くべきか,どのような資料を揃えればよいか,分からないだろう.だから普通に考えれば,問題の時点で相談を開始していただろう.文科省としても,なにせ前例がないから,解任申立てが出ればどのような段取りで処理するかが不確かだったかも知れない.法令の確認も必要になる.文科省としても内々には検討を開始して不思議はない.通常,文科省に何かを言い出せば途中でやめることはできない.「辞任願が出たからあの件は無しです」といってくれた方が文科省も実は嬉しいかも知れないけれど,文科省相談のいつもの習性で,途中で話を変えることはできないと大学側は思いこんだかも知れない.
 事前相談は,普通,このように申し出ればOKですよという感触が出るまで続く.だからこのケースでも,「これでOKですよ」の感触を得た上で解任の申立をしていると私は思う.申し立てて「これではダメです」といわれたらすべてがパーである.そんな危険を誰が冒すか?

4) 文科省の回答はなぜ1年近くを要したのか?

 もし事前に相談していれば,大学側が解任申立てを出せば文科省はすぐにOKの回答を出して不思議はない.ところが正式な解任通知まで1年近くを要した.なぜ1年もかかったのか? 文科省も,北大で総長が宙ぶらりんであるのはまずい,早く決めないといけない,と分かっていたはずである.
 なぜ1年を要したかは妄想するしかない.ただ,文科省にはこの件の会議録はあるだろうし,メモもあるだろう.資料の開示請求をすれば出て来るだろうと思える.
 以下は私の勝手な妄想である.
 一般論として,大学の申請に対する文科省お役人の反応は,担当官による.埼玉大学が何か申請した場合も,好意的な担当官もいれば冷めた担当官もいる.そんなとき,埼玉大学は好意的な担当官に抱きつく戦略をとってきたように思う.この点は立場上,仕方ない.担当官が変わったために話が全く変わってしまったという話も他大学から伺ったことがある.
 北大の件に関しても,文科省の担当官の中で,意見の相違とはいわぬまでも受け取り方の濃淡があったような気がする.一般にメディアは,大学の問題をお役人のリークの通りに記事にする.大手のメディアの記事を見ると,今回の北大の件について,大学側の立場の担当官のリークで記事を書いていたような気がする.しかしメディアによってはニュアンスが異なることもあった.リーク元が違うのだろう.その濃淡の差の調整のために,えらく時間を要したのではないか?という気がしている.

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「論理国語」の設定は進歩である

 私の家でとっている日経の紙面を見たら「高校国語の科目再編 論理と文学 分断危うい」という主張が載っていた.慶応の先生が日本学術会議の見解を称して,(高校の学習指導要領で)「文学国語」と「論理国語」を切り離したことを批判している.
 私自身は「論理国語」を設定したことは不十分ながら進歩と思った.そもそも日本学術会議(を名を使う主張はほとんど)が怪しげである.(日経にもいろいろ問題があるのであるが,ここでの論点ではない.)
 「論理国語」は学習指導要領,国語編の中に記載がある.
https://www.mext.go.jp/content/1407073_02_1_2.pdf

 教科としての国語に関する私の考えは過激である.教科として国語が存在するのはよいが,国語を入試科目にする必要はない(入試科目にすべきでない)と思っている.
 まずセンター試験の「国語」がおかしい.数学や理科,社会があれだけ細分されているのに,「国語」は「古文」,「漢文」を含めて1科目にまとまっているが不自然である.数学・理科・社会を考えれば,「古文」,「漢文」はオプション化されてよい.
 埼大教養学部は国語系の先生が昔から多く,その辺の話題も時折伺っていた.「古文」,「漢文」が「現代国語」と切り離されるとその分野が廃れてしまい,本や参考書も売れなくなる.だから古文・漢文の業界人(学者)は国語一体化に必死だという.ありそうなことである.業界人(学者)が圧力団体になっている.(同じことは他の教科・科目,例えば日本史,世界史にもいえるが,あまり害はない.)
 一般には,入試で古文,漢文は必要ないと私は思う.必要と思う分野があればオプションで入れれば良いだけではないか.以前は,理系は現代国語だけの(古文・漢文の点数抜きの)センター試験スコアを使う所があったと聞いている.まあ,そうしたいだろう.しかし現在も同じことができているのか? オプション化した方が合理的だろう. 
 センター試験の現代国語も,漢字の読み書きのような設問はよいが,それ以外は疑問に思う.設問で引用された文章の中の傍線を引いたセンテンスの意味を問う選択問題がよくある.正解とされる選択肢は確かに,私が見ても「一番もっともらしい選択」であると思う.しかし,もっともらしくなくても,他の選択肢が誤りであることを示す明確な根拠は,引用された文章内では見出せないと思えることが多い.「一番もっともらしい選択」というのは感覚の問題に過ぎず,感覚で「正解」を決めてよいのか,と疑問に思う.サイエンスであれば「もっともらしくなくても」正しいことはある.つまりは,「現代国語」の問題文自体,論理で成り立つのではなく感覚と情緒で成り立っているのではないか?

 少し前,OECD諸国での学力試験の結果が話題になったことがある.日本の生徒は科学の知識はあるが,文章の読解力が劣る,と報道された.
 この結果を私は不思議に思った.あれだけ国語の試験をやっている日本の生徒が読解力が劣るというのは不自然と思えた.そもそも,国によって言語が違うのに,読解力のスコアをどうやって比較できるのか,が疑問だった.
 そこでOECDの試験問題をネットで探して見てみたのである.試験問題のすべては分からないが,サンプル問題は見ることができた.
 私が見た限りでは,OECDの試験問題とは事実を主体とした文章を読ませる問題だった.それなら言語が違っても比較して良いかな,と思う.そして設問は,何が事実で何が書き手の意見であるかを把握することを主体にしている.
 OECDの試験問題を見て,日本の生徒ができなかった理由が分かった気がした.日本の生徒は国語に時間を費やしているけれど,要は感覚と情緒でできた文を読んで感覚と情緒で答える訓練をしている.だから,科学の知識があるのに読解力がない,という結果になってしまうのだろう,と思った.
 このOECD調査で出た問題は,最近の日本人が文章離れをしていることを指すというより,国語業界人の邪な心によって国語教育が歪んでしまったことを意味するように思える.

 かなり前,私は全学の入試管理委員をしたことがある(アドミッションセンター員はその役の後継である).その折,経緯は忘れたが,高校の国語の教科書を調べたことがある.国語の教科書の中に「文章表現」?といった題名の教科書も入っていた.その中身は『理科系の作文技術』のようなもので,これいいんじゃない,学ぶ価値がある,と思ったものである.しかしそのような教科書を採用している高校はほとんどなかったと思う.おそらく,「論理国語」とは,私がよいと思った教科書のような内容だろうと思う.
 埼大でグローバル事業を進める上で,私自身は受験したことはないが,IELTSの教程の中身を見る機会があった.Writingにおいて,文章のStyle,Structure をちゃんと訓練していることが印象的であるとともに新鮮だった.日本語も同様であるべきだ.

 上で私は,論理国語の設定を「不十分ながら進歩」と書いた.何が不十分かというと,私は国語と文学は切り離すべきと思うのである.文学は,美術や音楽の並びで科目とすればよい.文学は学ぶべきであるが,美術や音楽も学ぶべきなのである.

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また,遠隔授業あれこれ

無難に実施された遠隔授業

 今年の3月前後に,コロナ禍対応のため,多くの大学が遠隔授業をする方針を決めた.遠隔授業を大規模に実施した経験がある大学は少ないはずである.だから,全国のあちこちで混乱が生じる可能性があるのではないか?と私は思った.
 しかし実際に遠隔授業が開始された後,少なくとも私がネットを眺める限りは,遠隔授業で不都合が生じたという情報に接することはなかった.SNSでは逆に,遠隔授業,うまくやってまっせ,といった書き込みを何度か見かけた.学生の不満で目にしたのは「遠隔授業で課題が多くなった」という指摘であるが,課題が多いことは良いことである.
 少なくとも3月の時点で私も確認していたのは,東大や慶応藤沢など,人的にも能力的にも余裕がある大学が遠隔授業に関するハウツー記載をアップしていたことである.大学によっては,東大などにクレジットを付けて教員向けの遠隔授業の解説をしていた.各大学が独自に遠隔授業の方法を模索していれば混乱も生じたかも知れないが,実際は余裕のある大学が提供した知識が3月4月に一気に普及した,と見るべきなのだろう.
 埼玉大学は適度な時点で遠隔授業の導入を決めたので,余裕で対応できたのだろうと思う.

遠隔授業の評価は悪くない

 先ほど,「大学 遠隔授業 アンケート」などと入れてググってみたところ,いくつかの大学で遠隔授業への教員・学生の評価アンケートの結果を出しているのを見つけた.googleで最初の方に出てきた事例には次がある.

慶応SFC 教員・学生アンケート 
     YouTube 

茨城大学 教員アンケート  
     学生アンケート  

岡山オルガノン 学生アンケート 
  15大学(代表:岡山理科大学)

武庫川女子大学 学生アンケート 

京都外語大 学生アンケート  

高等教育コンソーシアム信州 学生アンケート(少人数)


 上記のうち,京都外語大のアンケートは授業への総合的な評価を調べていない.高等教育コンソーシアム信州の報告は,回答する学生数がきわめて少ない.
 慶応SFCの結果は,教員も学生も上級者なので,どこの大学でも参考になるという訳でもないだろう.埼玉大学からすると最も参考になるのは茨大の結果である.結果はなにやら大本営発表風で,学生も教員も遠隔授業をポジティヴにとらえていることを示す.何よりも,同じ期間(第1クォーター)での学生評価を昨年度と比較し,むしろ今年の方が良いことを示している点が大きい.
 岡山オルガノンとは岡山県の15大学のコンソーシアムのような機関で,共同で遠隔授業を提供している.中心は岡山理大,つまり朝日新聞とバカ野党が目の敵にしている加計学園である.遠隔授業を使えばこのような試みが可能になる(埼玉大学も考えたらぁ)という点が大きいだろう(高等教育コンソーシアム信州についても同様).
 武庫川女子大学の結果も,一般の大学にも共通するであろう遠隔授業の利点と欠点を浮かび上がらせているように思う.
 これらの結果を私の印象として述べるなら,遠隔授業は必ずしも「対面授業の代用」ではなく,1つの特色をもった授業形態であることだろう.その点を一番強く出しているのが慶応SFCである.だからコロナ禍だから遠隔授業を仕方なしにやるのではなく,目的に応じて遠隔授業という選択肢を選ぶべき,と考えるべきだと思う.茨城大学の教員アンケートでも,今後も遠隔授業を使うことを考えると回答する教員が多いのは,立派なものだと思う.

 私自身の経験をいうと,大学教員になって50歳くらいまではよいが,そこから先になると若い学生の前に我が身を晒すのはどうか,と感じるようになった.だから授業はネット経由にして,教員は実物を写すのではなくアバターを出せるようにできないか,と思ったものである.たぶん今なら,教員のアニメキャラを表示させて,発話に合わせて動くようにできるのではないか,と思う.だから,「今学期は,女性,アラサーで巨乳で行こう」という風にカスタマイズできるようにすると,楽しいのではないか?

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北大総長解任劇を見て笑うべきか泣くべきか?

総長解任

 北海道大学の名和豊春総長が今年2020年の6月30日付で解任された.国立大学の学長を任期途中で解任するという,記念すべき?初の事例である.この騒動は当初マスコミでパワハラによると報道されていて,多くの人は,私を含め,パワハラが原因と記憶したと思う.しかし解任を決めた文科省は「(総長の)不適切な行為を認定した」といい,「一般的なパワハラとして認定したのではない」といういい方をしている(北海道新聞等).だから最近は,この件を語るにパワハラという言葉は出ていない.一体どういうことなのか,という点が私も気になった.
 気になったので簡単にネット検索で調べられることをざっと調べてみると,話はなかなかややこしい.悪者は誰だとはなかなか判断しにくい事例だなと思う.
 まず名和総長解任に関する大まかな出来事を私が調べた範囲で時間順に書いてみると,以下のようになる.なお,2018年12月以降は理事,学長選考会議,顧問弁護士,事務局上層部は一体化して総長抜きで大学を運営しているので,理事・学長選考会議・顧問弁護士・事務局を「大学側」と呼んでおく.

2016年12月 意向投票で現職を破った名和氏が学長選考会議でも次期総長と決まる.
2017年4月 名和総長就任
2018年9月29日 学長選考会議議長,大学顧問弁護士,理事らによる,名和氏への総長辞任の働きかけが始まる.(名和氏の主張)
2018年10月 北大の顧問弁護士が理事に,名和総長の非違行為に係る通報があったという情報をもたらす(大学側の主張).
2018年11月 学長選考会議が名和総長に対する調査を開始(2019年2月まで)
2018年12月9日 名和氏が学長選考委員長に辞任願(文科相宛)を出す(受理されず)
2018年12月10日 名和氏は体調不良で休職,入院.以後,笠原理事が名和総長解任まで総長代行を務める.
2019年2月7日 退院した名和氏が復職を願い出る.2/10に役員会が拒否(拒否する法規上の根拠を私は未確認)
2019年7月10日 北大が文科省に対し,名和総長の解任を申し出る.
2020年3月16日 文科省による名和氏聴聞
2020年6月30日 文科省が同日付で名和総長の解任を通知する.

 問題が表面化したのは2018の10月,北大が文科省に総長解任の申し出をしたのが2019年7月10日である.つまり申出に8カ月強を要している.さらに文科省が解任を決めたのが2020年6月30日であるから,文科省の判断もほぼ1年を要した.この時間の長さがまず異様と感じる.
 大学側と名和氏側では言い分が大いに異なる.しかし,この件での情報発信は主に名和氏の側からなされた.朝日のような大新聞も地元ローカル紙/誌も,大学側は口を閉ざしているといういい方をしている.
 私が見た中では,北大職組(北海道大学教職員組合)のサイトが,この件で公表された情報をうまくまとめている.関心のある方は北大職組サイトをご覧になるべきだろう.基本的な資料は次の2つであろうと思う.

大学側の主張:2020.7.1付 総長解任を受けた大学側の説明
https://www.hokudai.ac.jp/news/pdf/20200701_newsDismissal.pdf

名和氏側の主張:文科省お役人への名和氏の陳述書
https://hokudai-shokuso.sakura.ne.jp/htm/20200316nawa.pdf

普通の展開とはどこが違うか?

 上記と同じ展開が例えば埼玉大学であるかといえば,ないと私は思う.
 少なくとも国立大学は公益通報やハラスメントの規則とともに処理法が決めているから,学長を含め大学構成員に何か問題があることが通報やら訴えで分かれば,その定められた規則・処理法で調査・審議され,一定の結論を得る.学長選考委員会がその通報や訴えの情報を判断に利用するときは,規則に従って処理された調査結果を受け取って判断に使うことになるだろう.例えば,東北大の以前の総長は研究不正の訴えを受けたけれども,不正の有無は大学で設けた調査委員会で審議されている.東北大では学長選考会議は登場しないけれども,学長選考会議は,もし必要なら,その定められた方式で得られた結論および調査結果を使うことになるだろう.学長選考会議は,調査をしてもよいであろうが,調査を専門とする機関ではないからである.
 しかし北大の上記の例では,大学が定めた規則は適用されていない.学長選考会議が直接調査をしている.大学が定めた規則を適用するなら,被害者とされる者と加害者とされる者から調査委員会が事情を調査し,両者の主張を対照して判断することになるだろう.しかし北大の例では大学の定めた規則が適用にならないので,加害者とされる名和氏への反論を聞くことなく結論を出したのである.
 また大学の通常の管理システムでは監事が学長に強い意見をいえる立場であるが,監事には何の情報提供もないままに,解任相当の非が学長にあったという結論を学長選考委員会が出し,解任へ動いたようである.

名和氏に何が指摘されたのか?

 名和氏が行ったと非難される行為とは何か? が当然気になる.大学側は30個の不適切行為を指摘し,うち28個を文科省が不適切と判断した.しかし具体的に何かは公表されていない.個人情報を伴うから公表は難しい面があるだろう.名和氏側の主張の中では部分的に出て来る.
 本格的な情報は大学側が文科省に提出した陳述書の中にある.その陳述書95頁を地元誌『財界さっぽろ』が入手したらしく,今年の5月号に載っている.項目だけを眺めると,大体が,総長が職員や役員を理不尽に叱責した,という話だった.
 だから判断は難しいだろうと思う.
 パワハラとは,定義にもよるが,一般的には継続的に上位者が下位者を苦しめる場合を指すと思う.ただ,指摘事項はほぼ一回起的であり,世間のパワハラの例とはちょっと違うように思える.さらに,事実認定は難しいだろう.一般には,回顧的に過去の経験を想起するとき,人はないこともあったと考え,あったことをなかったと思うことはある.法廷心理学では,本人に嘘をつく気がなくても,事実とは異なる記憶を呼び起こすことがある.証言には証拠能力の判断が付きまとい,物証が重視される所以である.そう考えると,「名和氏が足を踏み鳴らした」という陳述があったとして,名和氏が「そんなことはしたことがない」といえば,どう判断しようがあるのだろうか?

大学側の何が問題か?

 先述の北大職組サイトには,北大職組が大学側に総長解任について質問状を出している.その質問事項はよく出来ていると私は思う.北大職組はレヴェルが高い.関心のある方はその質問状に目を通すとよいと思う.
 質問は3点である.
 第1は,名和氏の問題行動をどの時点で把握したのか,という点である.大学側は当初,2018年10月に通報があって初めて知った,という説明をしてきた.一方,名和氏は9月末の時点で通報があったとして辞任を求められたと書いている.ここに説明の相違があったのであるが,大学側はあるとき9月に知ったという説明をしたのである.どうも大学側の説明にほころびが出ているのではないか,と思うのは職組だけではないだろう.この時期の問題を職組は重ねて問うている.
 第2は,学長選考会議が名和氏への弁解の聴取を行わなかったのはなぜか,という点である.この点については大学側は説得力に欠ける返事をしているので,職組は再度問いただしている.
 第3は,2018年12月に名和氏が辞任願を出したのは本当か? という点である.この辞任願の件は名和氏の発信で表に出たことであるが,確かに辞任願が出ることは出たと大学側は認めたのである.いうまでもなく,その辞任願を受理していれば,2019年の新学期には新総長を選出できただろう.大学側が辞任願を受け取らないことによって1年半が無駄になったことになる.職組は,その辞任願を誰の判断で,どのような理由で受け取らなかったのかを再度問いただしている.
 辞任願を受け取らなかったことについて,名和氏は「辞任させずに解任したかったのだろう」という趣旨の感想を述べている.また『財界さっぽろ』が《深層に事務局の「恨み」》と書くのは,こういう点を指しているかも知れない.

本当はどんな背景があったのかと妄想してしまう

 名和豊春氏の研究領域は建築工学・土木だという(Wikipedia).コンクリート関係の研究で受賞歴が多い.北大の工学院長を経て学長になっている.
 ネット検索していたら名和氏に関する2016.12.6の日経の記事に出会った.前日の北大総長選考意向投票で726票を獲得し,現職440票を上回ったという記事である.まだ選考委員会の結論が出ていない段階でこの記事が出るのは変である.おそらく建設関係の業界人が名和氏の就任を歓迎したから日経が記事にしたのだろうと思う.ちなみに,埼大の山口学長(建設)が埼大学長に決まったときにはゼネコン業界に速報メールが流れたというから,同じようなことかも知れない.
 しかし現職総長を相手にこの得票数は,大勝といってよい.ポピュリストとして総長になったといってよいのだろう.名和氏の陳述書から,大勝の理由はよく分かった.現職総長が「医学部、歯学部、小部局以外では一律14.4%、教授相当で205人の人件費を削減」する人員削減を打ち出したらしく,名和氏はその削減幅の圧縮を掲げたらしい.教員にとっては救世主に映っただろう.
 名和氏の教員削減圧縮方針はどう見ても正しい.
 私は当ブログの2月の記載で,「埼大は教職員が少ないのか?」を書いてみた.その折に計算したデータを改めて眺めてみた.上位大学を基盤とした回帰式から推定すると,北大は学生・院生数の割に教員が200名弱足りない.教員の不足数最大なのは東工大であるが,東工大が不足と出るのは医学部がなく大学病院関連の教員がないことによる.その東工大を除くと,国立の上位大学の中で北大は最も教員の不足数が多い.対して,北大の職員は300名強が過剰なのである.私の計算だけからすると,北大は職員ポストを教員に振り替えてもよい.
 ちなみに,東北大は北大より学部生が若干少なく,院生は北大よりやや多い.しかし教員数では北大は東北大より740名少ない.こう考えると,北大で当初の削減案を実施すれば,北大は研究水準で旧帝リーグから脱落しかねない.
 ここで私の念頭に浮かぶのは,教員削減の圧縮という名和氏の方針が大学内でどのような軋轢を生んだか,生まなかったのか,という点である.
 まず,当初の教員削減案を作ったのは事務局だろう.また,「医学部、歯学部、小部局以外では一律14.4%、教授相当で205人の人件費を削減」が当初案だったと名和氏は書くが,この表現の中には事務局の削減への言及がない.当初案で事務局の削減がどれほど見込まれたか? 先述のように北大の事務局人員は肥大しているから,削減分の事務局負担が多くてもよいが,実際はどうしたのか? 医学部・歯学部の削減免除はそのままにするのか? また物件費の削減はどのように見込むか? 案の作り方によっては,名和氏の教員削減圧縮の方針は大学内の既得権益に触る要素を持っている.だから学内のあちこちで軋轢を生む可能性ははらんでいるように思える.現実的には,そういった路線対立がことの本質ではなかったのか,などと私は妄想してしまう.

文科省の出向者がいることの不透明さ

 文科省が名和氏の解任を通知して以後も名和氏の発言は続いているようであり,何かのサイトには「黒幕は文科省だ」という発言もあったと書いてあった(私は未確認).文科省が組織として一国立大学の学長を辞めさせようと動くことはまずないだろう(辞めさせたい学長は沢山いるかもしれないが,お役人はリスクはとらない).
 ただ,名和氏がそのようにいいたい気持ちは分からぬでもない.
 まず,今回は5名の理事が名和氏解任に動いたのであるが,5人の理事うち2人は文科省から出向のお役人である.名和氏の被害者というナントカ部長なども文科省人事の出向者かも知れない.つまり解任に動いた当事者はかなりの文科省のお役人を含んでおり,その状況で解任の判断を文科省に仰いでいるというのは明朗といえるのか? 文科省が組織として働きかけることはないと思うけれど,文科省の判断は担当官の判断によるところが大きい.当事者になっている出向した方々とその担当官が懇意であって不思議はないのである.
 経過を眺めて私が気になったのは,2人目の出向した理事が着任したのが2018年の10月1日であり,最初に選考委員会議長が名和氏に辞任を求めたのがその2日前(名和氏の主張),また出向者2名を含めた理事が名和氏に辞任を求めに行ったのが10月に入ってからだという点である(名和氏の主張).つまり,2人目の方が来てから事態に動きがあったのは,偶然か?
 国立大学が文科省に支配されているという現実が,事実は分からぬが,不明朗な印象を与えてしまう.

学長選考は宮廷政治になってゆく

 今回の北大の件をネットで眺めながら,結末が残虐な処刑であるような前近代中国の宮廷政治を私は連想してしまった.三国志の最初の方のストーリーでいうなら,一方で名和氏は暴虐な董卓のようであるかも知れない.他方で,名和氏解任に動いた側は,陰謀を巡らす宦官集団の十常侍のようであるかも知れない.実際のところは情報がないので判断できないのであるが,いろんな連想を生む余地のある展開だなと思う.
 現実問題,権限と情報が偏在する故に,学長選びは宮廷政治になって行くのだろう.それで悪くはないのであるが,妥当な選択がなされているかのチェックが現実的にできないところが問題だろう.外部委員が関与するとしても,私の実際の見聞では,その方々は個別大学の行く末に深くコミットする訳でもないのである.例えば,埼大で学長任期を一律6年とすることに賛成された外部委員の方々の弁は,今思い出しても笑ってしまう.
 学長選びが宮廷政治になってしまっても透明性を求める方法は,大学の経営に対する発言権で法的な根拠を持つ組合を強くすることしかないのだろうと私は思う.
 ついでに申せば,北大で名和氏後の総長に立候補しているのは3名であり,総長代行をされていた理事殿が結局総長になられるだろう.そう推論する根拠はあえて書かない.

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学長が教授を選ぶ?

大分大学の話題

 先日,水害のため熊本県で大被害が出た.その次の日くらいに大分の日田でも被害が出たという報道があった.そこで大分県に関するニュースも眺めてみた.
 コロナも大変なことではあるが,水害の被害はより直接的である.私の住んでいる市は利根川が決壊しても荒川が決壊しても危なくなる.昨年の台風で利根川が決壊寸前になった記憶が新しいので,私も気になって利根川河川事務所のサイトで利根川の水位をチェックするモードになった.
 大分県のニュースを眺めていて,なぜか大分大学話が目に留まった.
 大分大学で経済学部教授会が選んだ方以外を学長が経済学部長に選んだ,という事例があった.その件に関しては少し前にこのブログでも言及した.「まあ,それはありだよ」というのが私の意見だった.
 今回目にした話は,大分大学の医学部の事例である.私が最初に目にしたのは Business Journal というサイトの記事である(信用できるサイトかどうか,未確認).

https://biz-journal.jp/2020/07/post_166153.html

 記事では,「…昨年9月の医学部の教授採用では、教授会が選んだ候補者を学長が覆し、必要な手続きも経ずに別の人物を採用した。」とある.「必要な手続きを経ずに」がその通りとすれば確かに問題である.追加で検索すると,今年1月24日付の朝日新聞にも同趣旨の記事が載っていた.

記事では判断がつかない

 ただ記事を見ながら不明点が思い当り始めた.記事の書き手が人事に関する規則を理解しているのかどうか,という点である.

 埼玉大学の例でいうと,人事に関する学部等の会議には3つがある.人事選考会議(採用すべき候補者を選ぶ),人事委員会(選考委員会が提案する人事案を教授会にかけるかどうかを判断する.機構では「人事管理委員会」),資格審査委員会(候補者の設置基準上の資格を判断する.選考とは別)である.教養学部の場合,後二者を続けて開くので,会議は2つと思う人もいるかも知れない.
 埼玉大学の場合,人事選考会議,人事委員会,資格審査委員会,教授会の順で人事の審議は進む.候補者の人選をするのは人事選考会議だけであり,その後の会議は選考会議が選んだ1人の諾否を決めるだけである.選んだ1人以外の候補者の名前は出ない.どこかで否決されれば人事選考会議をやり直す(あるいは人事選考が流れる).学部等で人事を決める場合とは,人事委員会を経て教授会の判断が出る場合である.「学部長等は…直ちに学長に上申」し,「学長は、前項の上申を経て、教員の人事を決定する」ことになっている.学長の決定はその上申を「経て」なされるのであって「基づいて」なされる訳ではない.「経て」の意味は,学長は上申に拘束されることなく決定する権限があることである.むろん埼玉大学の場合,「基づかない」決定を学長はしないと思う(人情のある大学ですから).
 というか,埼大の場合,少なくとも私が学部長/副学部長をしていたときの期間では,新規採用人事をするときは人事選考会議が結論を出した後,人事委員会・教授会に提案する前に,採用候補者の業績書類持参で学長に事前承認をもらいにいっていた.実際に学長が承認しないことはなかったが,承認しないこともあり得る,という理解だった.この程度のやり取りは多くの大学であって不思議はない.

 大分大学の事例に戻ると,上記のBusiness Journal の記事では,「教授会が選んだ」とも書いてある反面,「医学部の教授候補者選定委員会の選考、教授審査委員会の投票を経て、昨年9月の人事会議で次期教授候補者に決定していた」とある.だから教授会を経たのかどうかが分からない.また,人事会議や教授会は,その審議を経たとしても,人は選んでいないだろう.大分大学も埼大と同じではないか?
 朝日新聞の記事には新たに次の2点が書いてあった.第1に,教授任用を審議するのは教育研究評議会であり,その評議会にかかる前に元の候補者の審議は止まったらしいことである.第2に,医学部側が選んだ候補者は「教授選挙」(朝日記事では次の段落で「候補者選考投票」と書くが,同じことなのだろう)で最多票を獲得した人であり,その後学長が選んだのは同選挙で次点の人だったらしい.この「教授選挙」が教授会での選挙なのか,「人事会議」での選挙なのかがはっきりしない.朝日の記事では「その後にあった学部の人事会議でも」とあるから,投票があったのは人事会議以前の会議(つまり埼大の人事選考会議)である可能性が高い.また,学長が次点の人を選んだということは,次点の人を含めて候補者のリストが学長に示されていた可能性もある.その場合,リストに得票数が書いてあっても,最多票の人に決定したという意味にはならないかも知れない.

 この件に関する私の意見をいうと,「分からない」が正直なところである.一方で大分大学の学長は変なことをしているという可能性はある.他方で,Business Journal や朝日の記事の書き手が大分大学の人事システム(というより大学の人事システムそのもの)を理解していなかっただけ,という可能性もある.印象としては後者の可能性の方が強いのではないか.ほぼ同じ時期の出来事である経済学部長選考の件では,大分の学長さんは公式ルールの遵守を旗印に話を進めているので,その時期に公式ルールに反することを学長さんがしたとは考えにくい.ついでにいうと,大分大学のサイトには履修規則は掲載されていても人事等の管理規則は掲載されていない.すべての規則をそのまま誰でもアクセスできるようにしてある埼玉大学とは大きく違う(再度いうが,埼玉大学は透明性が高い).
 埼玉大学の場合,学部等が1人の候補者を教授会で決めて学長に上申する.学長は,規則上はその上申を拒否することもできるが,よほどのことがない限りそのまま承認する.上記のように,学長が拒否しないで済むように学長の事前承認が学部等の教授会の前に入っているのである.
 大分大学の場合,学部等が人事選考作業はするけれど,学部等の教授会は経ず,選考資料をもとに人事が評議会で審議され,学長が決定する,というシステムかも知れない.また同様に学長による事前承認の機会があっても不思議はなく,問題の事例は事前承認の時点でひっくり返っただけの話かも知れない.真相は大分大の人事規則の文面を精査しないと分からない.
(人事が教授会の事項であるか否かは微妙である.埼玉大学でも,教授会事項として人事は明記されていない.建前上は,学務系を除くと,学長から諮問されない限り教授会事項にはならない.)

 大分大学医学部のケースでは,投票で最多票を得たのは教授ポストの下の准教授の方だった.次点の方は外部の人である.私は大学院生のとき,当時のある教授から「医学部では助教授(今の准教授)を教授に上げることはしない.他から選ぶ」と聞いていた.だから今回のケースを見て,「下から選ぶこともあるんだぁ」と最初に思ったのである.
 「下からは上げない」ことには,少なくとも医学部の場合は合理性があると私は思う.第1に,他部門の教授と異なり,医学部教授は格段に権限が大きい.地方国立大学の医学部教授であれば,その診療科目について県内の頂点,ないし頂点に準ずる立場ではないか.医学部であれば営業の規模も大きい.そのような強い権限を持つポストに同じ人を長くつかせることは避けるのが正しいように思う.第2に,医学部の場合,人員の流動性の余地が大きい.人文系の教授であれば,大学を首になればなかなか行き場がないと思うが,医学部の先生方の場合,傘下の病院が多いから,普通は行き場があるのである.大学教授に人事の流動性があることは一般論として好ましいが,医学の場合,その流動性が可能なのである.
 また,最多票を得たという方は,その医学部の内部の方であるから,内部の方々による投票では外部の人より票は集まるだろう.内部,外部の人を並べて人選する場合,内部の人たちの投票で決めるのがよいのか,という問題もあるように思う.
 選考情報の流れが規則上適正であったかどうかも疑問である.記事の文面からは選考の情報が最多票だった候補者に流れていたことが予想できる.ただ同じ情報を外部候補者にも提供するとは思えない.また,記事が関係者の人権に配慮したかという点にも疑問がある.「次点なのに選ばれた人」は,記事の情報をもとに大学サイトを調べれば容易に特定できてしまうだろう.個人情報が保護されたとはいえない.
 大分大学の人事で最も重要な点は,最終的に教授になった方を選んだことが実質的に合理的であったかどうかだろう.無能な人間を学長が強引に押し込んだのなら問題であるが,その辺の検討は記事にはない.実質的な合理性を担保することは学長の責務である.

私の経験では学長は人事に口出しすべきである

 上記のように,埼大で私が学部長/副学部長をしている期間,新規の人事があるときは教授会にかける前に学長に候補者を説明し,了解を求めていた.このやり方は(おそらく)田隅学長のときにはじまり,私が副学部長だったときの関口学部長は遵守していた.私が学部長になったのは上井学長の時であり,同じやり方を上井学長も踏襲していた.
 学長に新規人事の案を持っていってひっくり返されることは,関口学部長のときも私が学部長の時もなかった.しかし時折文句をいわれた.また,関口学部長は厳しいことをいわれたこともあると聞いていた.ただ,学長からいわれることは,厳しいかも知れないけれども正論である,と私は思った.学者としてちゃんとした方が学長になっていたと思う.
 教授会とは内輪の世界,村社会である.話し合いで進める,といえばきれいごとであるが,悪くいえば談合の世界である.だから変なこともあるのである.学長から文句をいわれることがある,という点は,正論を通すためには必要だろうと私は感じていた.
 埼大教養学部は一般に実に公正に運営される学部であったが,それでも変なことはたまにあった.既に時効と思うから書くけれども,私の学部長の期間に,学部の人事選考会議が選んだ候補者を私がひっくり返したことが2度ある.むろん普通はそんなことはしない.
 1つは人事選考会議が選んだ最終候補者の報告を見て,公募で応募者が多かったのに最終候補者の業績が少なかったことが気になったときである.調べてみると,業績の多さや受賞歴から候補者と考えるべき方が少なくとも5名いたが,何れも選考から外れていた.応募者の業績は一覧表になっていたが,最終候補者の隣の応募者は,学歴と年齢が全く同じなのに業績は倍なのである.
 もう1つの事例は最終候補者の研究領域が「違うだろう」と思えたケースである.日本のある面の文化で人事をしているのに,どうして北朝鮮文学専門の人を選ぶのか? 日帝批判という点で日本とかかわっていたのであるが,日本の作家を論じるに作家(夏目)の原文も参照していない.だから候補にはならないレヴェルと思えた.むろん,領域がズレていても業績が立派ならそれでよかったかだろうし,他に人がいなければ仕方ない.が,そうではなかった.
 この2件については,まず学長に事情を説明して再選考を目指すことの了解をとった.それから選考委員に根回しした.選考委員によっては苦労した.関係者には嫌われた(人によっては尾を引いた)けれども仕方ない.選考会議には選び直して頂いた.この2つのケースとも,学長の監視下にあるということを前提にして行えたことだった.
 上記の例に限らず,私が人事選考を見てきた中では,時折,結構笑える事例もあった(書けば面白いがやめておこう).一番利害関心のある方が「この人がいい」という理屈(と膏薬)はどこにでも付くのである.誰かがいい出せば,他の人は自分の番で同様にして欲しいから「それでいいです」になる.だから,学長とは限らないけれど,利害関心の圏外にある人が一定の判断をすることは,規律を守るためには必要なことと思える.

人事のやり方は変えてよいだろう

 上記にある朝日新聞や類似のメディアの記者はしばしば,教授会自治こそが善であり,そこに介入する権力者(学長)は悪であるという図式に従っているように見える.ただそのような図式は,現実を虚心に眺めたことのない者が脳内に描いたお花畑に過ぎないだろう,と時折感じる.教授会自治で私が連想するのはゲーム理論にいうフォーク定理である.相互の不合理な行いを認め合うという慣行が,明示的な合意を経ずとも,慣例的に,部内の人にはパレート効率的な暗黙の協調(要するに談合)として生じることである.こういう慣行の世界は一面で暖かい世界であるが,考えようでは互いの顔色を見ながらいいたいこともいわぬような,窮屈な村社会なのだ.だから権限は上に任せて自分たちはもっと自由になった方がいいんじゃね,と思ったことは何度かある.
 問題は,この暗黙の協調の世界は通常はわれわれにやさしいけれど,組織の規律を徐々に棄損し,大学としてのパフォーマンスを下げてしまう点だろう.
 今日,大学にパフォーマンスを上げ,同時に人事給与マネジメントをするという「改革」が厄介な課題として押し付けられつつあるように見える.私がもし在職していれば,教員福祉の観点から,この「改革」には抵抗しようとするだろう.ただ,組織を良くするという観点からは,実はかなり必要な改革ではないかという気がする.この「改革」は部内談合とは両立しない面が多い.だから,大学の牧歌的な姿は次第に影が薄くなることは予想できることである.大変だろうが,仕方ないんじゃないか.
 話を採用人事に戻すと,一般の教員人事は通常のように学部等の人事選考の通りで問題ないはずである.学長がいちいち人事選考をすることなど,できる訳がない.しかし一般論として,場合によっては学部の判断とは異なる判断を学長(など上位者)がすることが妥当な場合もあるだろう.学長にはその権限があり,その時々の判断で人事に介入することはあってもよいのではないか,というのが私見である.むろん学長がひどいことをすることはあり得るし,上記の大分大学の事例がどうなのかは,判断するだけの情報が私にはない.
 大分大学の学長さんは,よほど強引な方と見ることもできるし,旧来の部内談合モードから法人化モードに移行するための改革者であると見ることもできる.後者であれば幸いだ.

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このブログには何処からアクセスがあるか?

 このブログはNiftyのココログというシステムに乗っている.ココログにはアクセス解析があるにはある.ただあまり使えない.特にアクセスの地域については事実上機能していない.そこで3月上旬から今までの4カ月弱の期間について,ある方法でどこからアクセスがあったかを調べてみた.ここでいうアクセスとは日ごとの訪問者数であり,1人の訪問者のPageView数は無視した.
 比率だけを書けば次のごとくだった.

埼玉大学ネット:23.1%
埼玉県    :15.0%
東京都    :29.9%
その他    :32.0%

 埼玉大学でアクセスしてもスマホを通じてアクセスすれば「埼玉県」になるだろう.また,「東京都」は埼大の教職員が自宅からアクセスした件数を多く含んでいると思う.「その他」は北海道から九州まで,国外も含む.件数からいえば神奈川,千葉が多い.ネット検索でひっかけてアクセスする「いちげんさん」が「その他」で多いだろう.

 ちなみに,であるが,同じ期間でアクセス(今度はPageView回数)が多かった記事は次である.多い順であるけれど,数はあまり違わない.記事閲覧はアップして1月くらいが多いので,3月からの観察期間にアップした記事が上位になる(つまらない結果だ).

遠隔授業あれこれ
大学によるコロナ禍対応
有馬朗人「法人化は失敗だった」の今さら
医学部のこと
改革強化推進補助金

 実はこのブログは大台の500記載目をもって終了するつもりでいた.一時頻繁に記事をアップしていたのは,早く500記載目に到達しようと思っていた時である.その500記載目は「埼大は教員・職員が少ないのか?」だった.この記事は続編をアップすることになったので,500記載で打ち止めにはならず,以後,まだ時折アップしている.この記事は510記載目である.ブログを消す必要もないので,気が向いたら時折アップする,という状態はまだ続くかも知れない.

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入試で主体性評価w

 この6月19日付で共通テストの日程が文科省から公表された.今年度は特例追試験が加わり,計3回共通テストを実施するという.ただ3回目は2/13,14 であるため,その受験者は従来の前期日程の受験に間に合うのかどうか疑問に思った.前期日程の受験日を遅らせるのかどうかと思い,埼大サイトの入試に関するページを眺めてみた.当の疑問については埼大サイトではよく分からなかった.学年暦を見ても個別入試の日にちは書いていなかった.今度の入試日程は状況を見てこれから決めるのかも知れない.

 当初の目的ではなかったが,「大学入学共通テスト記述式問題導入見送りに伴う《令和 3 年度(2021 年度)埼玉大学入学者選抜における各学部の主な変更点(予告)」の見直しについて》という長ったらしい表題の文書ファイルが目に入った.何気なく開いてみた.何の考えもなく眺めたけれど,教養学部の一般選抜・後期日程について「個別学力検査における小論文において、「主体性」についても評価します。」と出ていたので,思わずエッと思った.主体性?

 昔,学生運動華やかな頃に口角泡を飛ばして「主体性ガー」という人はいたように思うが,今どき主体性などという野暮で大仰な言葉を使う人は,特殊な思想信条か宗教に染まった人以外にいないのではないか,という気がした.なんか,チュチェ(主体)思想とか,毛主席思想活学活用頑張るぞぉ―,といった世界ではないか.意思に反して私の中で自動思考が生じた.「巨人の星」の主題歌が流れ,瞳孔がやたら大きい星飛雄馬の顔が現れて,
  真っ赤に燃える王者の印 主体の星をつかむまで~
とか.
 話を戻すが,教養学部の後期日程の小論文とは,短い文章を読ませて何か考えを書かせるという,よくある形式である.それで「主体性」を測る余地は,過去問を見る限りありそうにない(問題の格好を変えるのかも知れないが).
 文科省からの強い指導で入試の見直しが行われ,仕方なく「主体性」を書き入れたのかも知れない,と思った.けれどそうでもなさそうだ.上記文書における小論文の記載は学部別に次のごとくであり,教養学部以外は「主体性」などとは書いていない(書かない方が正解だろう).

教養学部:小論文(理解力,論理的な考察力・構成力,表現力,主体性を判定する。)
経済学部:小論文(国内外の社会に関する関心と論理的思考力,表現力を評価する。)」(前期・国際プログラム枠)
     小論文(論理的思考力,表現力を評価する。)(後期)
教育学部:小論文(社会的事象に対する関心,論理的思考力等を評価する。)
理学部と工学部:単に「小論文」

 その後,ネットで検索してみると,文科省は入試で主体性評価をしろといっているということをはじめて知った.日経ビジネスに次のような記事も出ていた.

河合薫:大学入試改革「主体性等評価」の意味不明、平等はどこへ?

 この河合氏の記事によると,主体性等の評価を検討する委託事業の報告書が出て,その報告書でベネッセのeポートフォリオの利用が示唆され,そのeポートフォリオで生徒の活動記録を残して主体性等の評価に使うことを文科省は考えているらしい.
 ただ,上記報告書を眺めると,「主体性」概念は,そもそもその内包も外延もはっきりせず,具体的な測度の提案がある訳でもなく,当然ながら測度の信頼性(測定値の一貫性,誤差の少なさ)や妥当性(現実的には基準関連妥当性)の検討とは無縁である.だから通常の学力試験や英語試験などのように入試に使い得る代物と考えるのは,少なくとも現段階では無理である.あえてやろうとすれば上記の河合氏の批判が妥当することになるだろう.

 上で主体性概念の内包と外延と書いたけれど,おそらく「主体性とは何か?」を(例えば面接者や小論文採点者間で)話し合えば,いろんな意見が出てしまうだろう.主体性とは何かを私が自問すると,思いつくのは次の2つである.第1は自己の判断が自分のアイディアに基づくことである.しかし,「自分のアイディア」を多くの大学受験者に求めるのは難しいだろう.誰かの考えに「いいね」をするくらいなら誰でもするが,自分のアイディアを持つのはある程度の研究歴か,哲学的な思索歴がないと無理だろう.第2に,主体性とは内発的な動機づけ(intrinsic motivation)だと考えることである.内発的動機づけを持って学習するなら学習の進度は高いはずである.ただ,この第1と第2は一緒にまとめて「主体性」というべきでもないような気がする.また,ビジネスで主体性を問題にするときは,単に覇気とかガッツのようなものを指しているような気がする.
 実は文科省がいう主体性とは,「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」である.だから話はさらにややこしい.「多様でない人々と協働して学ぶ態度」は主体性ではないのか? 自分一人で学ぶことは主体性にならないのか?(心理学的には,新たなことを学ぶときは他者と一緒に学ぶより一人で学んだ方が効率的である.)協働ではなく競争して学ぶときに主体性はないのか?(学習における競争と協働は古い研究テーマである) 学ばず協働するときの主体性は主体性ではないのか? いろんな人とつるんでいるときって,主体性がないときではないのか?

 例えば入試で面接を行ったとしても,私は一貫した方法で対象者の主体性を評価することは難しいように思う.面接者ごとに違った基準で判断することになり,面接室によって合格率が違ってしまう結果が起きることもあるだろう.まして小論文では,何を書かせようと,一貫した方法で,少ない誤差で,主体性を判断できるとは思えない.

 どんな学びをするかは人の内面の問題である.その内面に踏み込むことは自由主義社会にとって望ましいことではない,と私は思う.

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有馬朗人「法人化は失敗だった」の今さら

 先日(2020/5/21),『日経ビジネス』のメール配信で《「国立大学法人化は失敗だった」 有馬朗人元東大総長・文相の悔恨》という記事の記載があった.見た瞬間にオイオイと思った.読んでみたがやはりオイオイだった.今さらこの程度の議論だと,神田眞人氏のような財務官僚に理屈で負けるだろう.

 言及した『日経ビジネス』の記事は有馬朗人氏へのインタヴュー記事である.有馬朗人氏は著名な学者であり,同時に自民党選出の参議院議員として文科大臣も経験している.このインタヴュー記事で有馬朗人氏は,概ね次のようなことをいっていた.

・「文科省でも検討委員会を作って議論した結果,法人化した方が良い面があるという結論が出ました.それで私は法人化を決定したんです.」
・運営費交付金は減らさない約束だったが,無視された.
・法人化して良くなった面もある.
・東大は「経営」して生み出したお金で若手研究者を雇用している.しかし規模の小さい大学は同じことができない.だから交付金を増やす,少なくとも元に戻す必要がある.

 この議論を見ると,要するに「規模の小さい」国立大学,つまり地方国立大学の運営費交付金を増やせということなのだろう(規模の大きい大学も増やせ,といいたいのかも知れないが,その解釈だと筋が通らない).その結論には,私を含めて,特に地方国立大学関係者は賛成に決まっている.しかしあまりに月並みな議論で,今さら,である.それでなんとかなれば国大協がなんとかしている.
 私のような素人でも,有馬氏程度の議論にはすぐに反論できる.政府のお金を大学に配分するやり方は自動的な機関配分(交付金)ではなく成果による配分に重点が移っているだけのことであり,国立大学に付ける政府の予算は総額では増えている.そもそも地方国大以外の上位国立大学は,定年を延長したのに(特に中高年の)給与に手をつけていないから,自動的に若手が雇えなくなっているだけではないか.この辺は財務省の理屈である.経済政策という点では,財務省は解体した方が日本のためだと私は思うけれども,大学に対する財務省の分析は正鵠を射た面が多いように思う.
 拙見でも,大学に人を付けることがよいのかどうか,という問題はあるだろう.大学の教員数はどうしても学生数と連動するけれども,今後学生数の減が予想されるなら,国立大学の教員数を増やすことにはためらいも出るだろう.日本として研究者数を増やすのであれば(増やすべきだが),独法で研究機関を作って研究者を雇用し,その所属研究者が状況に応じて大学の研究室とジョイントの研究(および学生指導)をできるようにした方がよくないか? 独法と国大法人の違いは評価方法にあり,もし新規研究機関を大学に呼び込むのであれば,独法並みの評価方式を大学がとることを求められるのではないか?

 有馬氏のように,「交付金を増やせ」の話を「法人化は失敗」と表現することはミスリーディングだろうと私は思う.
 2年前に京大の山極総長が読売系のインタヴュー記事で「法人化は失敗」といって注目された.有馬氏は同じ線を狙ったのだろう.しかし,法人化は国立大学に法人格を与えて独自の方針をとることを可能にし,それと同時に評価を導入したことが本質である.金を減らすことは法人化そのものの話ではない.だから問題を「法人化(の失敗)」と呼ぶことには論点をぼやけさせる.元の国立大学に戻してお金をつけ,自治と称して資源配分を内部の談合に任せた場合,ろくなことは起きないだろう.
 「法人化は失敗」というと「じゃ,今の国立大学は失敗作ですか?」という話になりそうなのも気になる.「法人化は失敗」は,文科省一家の内輪の言説としては構わないけれど,世間に向かって店を出している国立大学が世間に聞かせる話として口にしてはいけないだろう.国立大学はあくまで,立派にやっている,安心して来て下さい,なのである.
 世間に向かって国立大学に金をもっとつけろというなら,「これだけの成果を上げるからお金をください」と訴えるしかないだろう.今どきは家計も企業も金は欲しいというに決まっている.その「これだけ」として何をいうか,その知恵を有馬氏らはいうべきだった.
 勝手にいうなら,「地方国立大学からノーベル賞受賞者を年平均で1人以上出します.さらに,THEの世界ランキングの100位以内に地方国立大学から5年以内に5校を入れます」といえば(信憑性があるなら),お金は出るだろう.また,「規模の小さい大学は同じことができない」というなら,規模を大きくする(統合する)ことをなぜ提唱しないのか,と思う.

 記事に載った有馬氏の議論が事実経過を正確に表現しているかどうかも気になる.どうもリア充オヤジの自慢話のように聞こえる面がある.
 まず有馬氏は「それで私は法人化を決定したんです.」という.まるで有馬氏が国立大学の法人化を決めたような書き方になっている.けれど,そりゃ変なのである.
 有馬氏は時の橋本龍太郎総理に請われて参議院選挙比例代表名簿の自民党一位に入り,1998年に参議院議員になった.続く小渕内閣で文部大臣になっている.しかしこの時期は国立大学法人化という話ではなく「独法化」だったはずである.国立大学を独法化する方向の検討が公式に始まったのは1999年の11月であり,その時点の文部大臣は中曽根弘文でであって有馬氏ではない.
 続く森内閣の2000年7月に国立大学に関する調査検討会議が発足し,その後の小泉内閣の2002年に「新しい国立大学法人」像に関するまとめが出て「国立大学法人化」が閣議決定されている.つまり独法化が国立大学法人化になったのは小泉内閣の時であり,独法と国立大学法人とは仕組みが異なるから,文部大臣としての有馬氏が「決めた」などはありそうにない.2003年に国立大学法人法の関連法が提出され採決されて,次の2004年に国立大学法人が発足している(埼大では田隅学長が就任).少なくとも埼玉大学では,国立大学法人の仕組みが学内で説明されたのは,実際に法人に移行する数か月前に過ぎなかった.その数か月前に説明(講演)に来た文部省のお役人様の脅し文句を私は今も覚えている.それくらいだから,有馬氏が文部大臣のときに国立大学法人のイメージができていたとは考えにくい.有馬文部大臣のときにあったのは独法化を含めた選択肢の検討程度だったように思う.
 インタヴューで交付金の金額を法律に書くように求めて拒否されたという逸話が紹介されていたけれど,法人法がまとまった時期を考えると,そのようなやり取りは参議院議員としての有馬氏がした可能性はあるけれど,文部大臣の時期にはあったとは思えない(有馬氏は法人化の直後まで議員だった).
 有馬氏は参議院議員として国立大学の立場のために働いたかも知れない.しかし国立大学の現状を擁護するために目立った活躍をしたのは,西岡議員など,自民党の力のある文教族議員だった.有馬氏は,法人法に交付金の金額を書き込むような未熟なことを口にしたとするなら,交渉者としては力を発揮しなかったろう.
 文部大臣として有馬氏が明確に行ったのは,自ら「ゆとり教育」を主張し,ゆとり教育を学習指導要領のスローガンに書き入れたことである.後に有馬氏は自説を官僚に曲げて利用されたと主張なさっているらしい.
 当時の有馬氏の存在意義は,政治家,というよりお役人が作ったシナリオの神輿となることだったろう.むろん神輿になれるのは大家の故であるから功績は大きいけれども,政治家・行政家としてはズレていたという気がする.

 有馬朗人氏は1990年代,自民党議員になる前に,埼大で学長候補になったことがあることを,埼大の若い方はご存じないかも知れない.当時,学長選挙で当選した理学部所属の先生に某理学部から難色が出て,おおもめにもめたのである.私の感想では異常な確執と見えたが,私は一次情報を持っていないのでここでは論評しない.その当選者の先生が学長就任を辞退し,もう一度学長選挙をすることになった.私の記憶の通りなら,そのときに工学部を中心として有馬氏を学長に推す動きがあった.他学部は知らないが,教養学部ではその動きに強く反発する先生がおられた.結果として,反有馬票が集まり,兵藤学長が選出されたのである.私も部内の流れに従い兵藤先生に投票した.
 このときはいろんな噂があった.そもそも有馬氏は学長候補となることを承認していない,という噂があった.いや,実は学長になりたがっている,という噂もあった.埼大の学長では有馬氏のプライドが許さないのではないか,という意見もあった.何が真実かはよく分からない.
 ただ,結果として兵藤学長が当選して埼大のためには良かった,と私は思う.詳述はしないが,兵藤学長は酒癖は悪いが明るく良い学長だった.上記の『日経ビジネス』の記事を眺める限り,有馬氏は自慢話が多く,法人化にせよ「ゆとり教育」にせよ,後日になってからの言い訳が多過ぎるように見える.
 
 『日経ビジネス』の有馬氏インタヴューは「東大の突破力 『知』はコロナ後の日本を救えるか」というシリーズものの1つの記事である.『日経ビジネス』はなぜ東大をそれほど持ち上げるのか,と思う点は別にして,このシリーズの中で「法人化は失敗」というのは浮いた話題だった.ページ数も他の記事より少ない.いうべきことが少なかったのだろう.現役の山極総長とは比べられない.

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大学によるコロナ禍対応

 大学の外にいる私であるが,ニュースを見ていると,今の武漢コロナ禍に対する大学の対応のニュースを見かける.なかなか興味深いと思う.この状況で埼玉大学は妥当な判断をしていると感じる.

学費問題

 多くの大学がコロナ禍で遠隔授業を決めた4月,学費減額を求める署名活動があちこちの大学で起こっている,というニュースが入ってきた.中身の詳細は大学によって異なる.が,大まかにいうと,原則入構できず施設が使えないのであるから,施設の分の学費を返還して欲しい,という要求だったと思う.むろん,授業料以外に設備費/施設費を徴収する私学の場合である.国公立に比べて学費が2~3倍なのだから,金を返して欲しいと言い出す気持ちはよく分かる.
 しかし大学は設備費を減額できないだろう.施設を学生が使えないとしても,施設を維持管理する費用はほとんど変わらないからである.蔵書や設備は揃えねばならず,ライセンス料なども大学は払わなければならない.だから学生が使わないとしても,ほぼ同じように大学は設備のために支出を余儀なくされる.
 実際,大学が学費を減免することはほとんどなかったように思う.遠隔授業のための通信費補助,といった名目で学費を若干減額する(名目上は奨学金/支援金を出すとして学費減免で清算するのかも知れない)という例があった程度と思う.この結果も仕方ないだろう.
 もちろん,学生が使用しない期間の設備経費は,大学の独自資産から支出し,学生納付金には頼らない,という判断も理屈としてはある.だからなぜ設備費を減額しないかについて,本来なら大学が学生(・父兄)に丁寧に説明する必要があるのだろう.ネットに出ていた話では,ICUなどは学生に対し,長々と説明していた様子がうかがえる.

 もっとも,学生が施設を使わないで軽減される経費は,あるにはあるだろう.例えば光熱水費である.学生が使わなければ光熱水料は下がるように思う.埼大の経験では,夏場のエアコン使用時の電気代で大学はガタガタしていた.掃除費用も下がるだろう.だからその下がった分を学生に還元することは合理的である.実際,上記のような若干の学費減額分は,そのように節約される経費の分かも知れない.
 経費問題は教職員にも存在するように思える.教職員,特に教員は,4月以後,継続的ないし断続的に自宅勤務する格好をとっているだろう.だとすると,今までは職場に負わせていた光熱水料が自宅の経費となっているはずである.だから在宅勤務で損をしている.私も退職することで,自宅の光熱水料は若干上がったような気がする.
 他方で,自宅勤務の日が増えると通勤手当がどうなるのかなぁ,などと考えてしまう.法人化後,定期券の購入確認を受けるようになるという細かさを経験したので,また細かい措置を受けても不思議ではない.週の半分程度は出勤していれば通勤手当はそのまま付くように思うが,在宅勤務の日が多ければどうなるのか?
 念のため,在宅勤務期間の通勤費がどういう扱いになるか,ネットを検索してみた.あるサイトでは,就業規則に「通勤手当は,…通勤定期券の実費を支給する」という程度しか書いていなければ,実際の出勤日数にかかわらず通勤手当を丸々支給しなければならない,とあった.
 埼大の場合どうか?「国立大学法人埼玉大学教職員給与規則」の第21条が通勤手当を規定している.通勤手当の額はその第2項にある.電車・バス通勤の場合は「その者の支給単位期間の通勤に要する運賃等の額に相当する額」,自動車通勤の場合は「次に掲げる自動車等の使用距離の区分に応じ、支給単位期間につき、それぞれに定める額 ア 片道5キロメートル未満 2,000円 …」といった表現になる.自動車通勤の場合は,出勤日にかかわらず月額が決まる書き方である.だから電車・バス通勤の場合も,釣り合い上,通勤手当はそのまま出す以外になくなるように思う.
 大学が通勤手当を過分に支払ったとしても,家計分となる光熱水料の補てんと考えるべきかも知れない.

大学による学生への経済的支援

 5月に入り,5月5日(6日更新)の日経ニュースに「コロナ禍で学費減免,対策は国立5校のみ 30大学調査」という記事が出ていた.国公立大学と私大の,学生数上位各15大学に調査した記事という.メディアによる大学の記事は不正確なことが多いが,中身を信じるなら,結果は次のように表にまとめられていた.

学費減免制度の新設・拡充:東大,九大,阪大,東北大,広島大(院生だけ)計5校
学費納付期限を猶予:明治,法政,北大など19校
現金給付・全学生:日大,東洋大,東海大など9校
現金給付・困窮学生:早稲田(10万),立命(上限9万),九大(3万)など12校
貸与型奨学金の新設・拡充:近大,関大,同志社など10校
遠隔授業の環境整備:16校

 この結果を見ると「学費減免制度の新設・拡充」が最もハードルが高いようだ.採用した5校とは何れも,多額の交付金をもらった上に自己資金を集めやすい重点支援3の大学である.規模も大きいから,対象者が学生の一部であれば資金を拠出する余裕がある.
 文科省経由で学費減免の新制度が導入されているはずなので,学費減免措置はどの大学にもある.上記の「新設・拡充」とは,その新制度以外に大学独自の学費減免制度を揃えている,ということである.おそらく,政府の新制度で対象から漏れた学生を大学独自の制度で拾う,ということだと思う.
 埼大はどうかなと思って埼大サイトを眺めてみた.「本学独自の緊急支援奨学金給付制度を始めました」と出ていたので,おお,頑張ったなと思った.立派なものである.額が大きいとはいえないが,本当に困窮しているときはその額で十分嬉しいだろう.
 私の在職中,学生の家庭事情のデータはなかった(あるいは見られなかった)けれど,直感的には経済的に苦しい家庭の学生が多いと思った.同じ思いは同僚も共有しており,たぶん,学生への緊急支援に関しては教養学部の執行部は強く推進する立場であったろうと思う.
 埼大は能力の範囲で十分にやった.が,埼大ができることはここまでと思う.次に述べるように,身銭を切って支援に乗り出すのはどうか,と私は思う.

学生の経済的支援は大学の仕事ではない

 今回のコロナ禍のことを眺めて,私は3.11の震災のときの経過をふと思い出した.あの震災があったとき,埼大では教職員に募金の呼びかけがあった.その募金が被災地に送る募金だったか,埼大生被災者のための募金であったか,記憶が曖昧である.多くの方,特に職員の方は募金されたように記憶している.
 しかし,申し訳ないが,私は募金で金を出さなかった.釈然としない気持ちがあったからである.
 つい先日,三橋貴明という経済評論家がうまく話をまとめているのを目にした.私が3.11のときに釈然としなかった気持ちをよく整理しているように思えた.
 あの震災の時,「被災者のために募金しましょう」の後,公務員給与の減額があった(国立大にも適用され,しばらく続いた).復興のために我慢しましょう,になったのである.その後,同じ流れで復興税という名目の所得税の増税があった.当時は悪夢の民主党政権であったが,その最後っ屁が消費増税の法案だった.つまり財務省は,震災を口実に所得税と消費税の増税を勝ち取ったのである.その結果が景気の低迷であり,学生も就職しにくくなった.この一連の財務省の対応により,日本経済を落ち込み,多少救われるにはアベノミクスを待つ必要があったのである(所得は上がらなかったが株価が上がったので学生は就職しやすくなった).
 三橋貴明氏のポイントは,震災の時は消費を伸ばすように税を軽くすべきだったのに,その逆をやった,このコロナ禍でも同じようなことを狙うだろうけれど,阻止しなければならない,という点である.
 上記の日経の記事もそうだが,メディアがコロナ禍での大学による支援を報じるとき,大学がそうすることが望ましいというニュアンスで述べる.特に日経は財務省の意向通りに記事を書くが,他のメディアも同様である.しかし,「学生の経済的支援は大学の仕事だよね」になることは回避する必要がある.元来が無理である.
 学生の経済的支援は社会政策である.社会政策は個々の大学の仕事ではない.地方も地方債を出せるし大学も大学債を出せるには出せる.しかしお札を刷れるのは国であるから,国債によって賄うしかないのである.現状で公明党が文科省に学生支援を申し入れているので,おそらく国による追加の学生支援措置があるだろう.また,10万円の特別給付金のように,学生を含めての給付は追加で生じるだろう.学生を助けます,ではなく,国民を広く助けますという枠組みの拡充を求めるべきと思える.高橋洋一氏がいうように,国債の追加発行をためらう事情はないのである.
 新聞に軽減税率を適用することと引き換えに,メディア(TVも新聞系列)は消費増税を容認してきた.朝日の論説委員のように,現時点でコロナ増税を言い出す人もいる.しかしここで増税になったら,日本の経済は長く落ち込む.学生の就職難の時期も長引くだろう.
 埼大が導入した支援のように,緊急避難的に一定額を給付する制度は望ましい.しかし学生支援の本道があることを大学は同時に明確に主張しておく必要があるだろう.教育国債を発行して学費を教育バウチャーとして支給する制度の導入を,この機会に国大協などが打ち出すのが正しいように思える.

コロナ経済支援に見える大学の戦略

 コロナ禍での学生への経済支援を見ながら,その支援には各大学の戦略が隠れているように思えた.18歳人口は減るので大学は学生の取り合いに入って行く.普通に考えればここで価格低下(学費軽減)がありそうであるが,一部の私大は一律に学費を下げるのではなく,優秀な学生への奨学金を拡充するという方策をとった.なるほど,一律に学費を下げるよりその方が合理的である.上位の国立大学も実は似たような対応をしている.今回の各大学の対応にはそのような戦略的側面もあるように思える.大学の規模が大きければ学生支援に回せる資源を捻り出すことは比較的に容易である上に,本音で学費を下げられる分を奨学金に回すだろう.ここで問題は,規模も小さく財源の多様化もない地方国立大学にどのような対応策があるか,ということだろう.
 この点は目前の課題ではないけれども,どのような学生支援策をとるかを地方国大の経営者は考えておく必要があるのだろうと思う.

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改革強化推進補助金

 文科省サイトにある資料をもとに,国立大学改革強化推進補助金をどこの大学がとっているかについて粗い分析(というより集計)をしてみた.以下に述べるように,重点支援3(世界)の大学は重点支援1(地域)の大学の3倍採択されている.この改革強化推進補助金は国立大学間の格差を持続させる1つのメカニズムであるといえる.

ニュースを見てふと気になった

 私のiPadはChromeを開くと最初にgoogleが配信するニュースが出て来るようになっている.確かそのニュースで,国立大学の改革強化推進補助金の採択に関するニュースが入っていた.たぶん私が大学に関するサイト情報を検索することが多いので,googleは私に大学に関するニュースを配信しているかも知れない.
 そのニュースを見ながら,ふと,国立の中でも上位の大学がその補助金を採択されやすくなっているのではないか,と感じた.そこで昨日,文科省サイトに入り,同補助金の情報を眺めてみた.

採択数のカウント

文科省サイトでは,平成24年から令和元年までの8年間の採択の情報が載っている.同補助金の採択に眺めているうちに情報を整理し集計したくなり,数時間をかけてどこの大学が何時補助金申請で採択されたかをエクセルでまとめてみた.詳しい情報は文科省サイトの公開情報では判別できないので,あくまで粗い集計である.特にもらった金額の情報は見つけられなかった.
 集計するうちに,採択数のカウントは論文数のカウントと同様の問題があることに気づいた.単著論文は1でカウントすればよいが,共著論文をどうカウントするか,である.この点については,私が以前見た文科省の研究所の扱いの通りにしようと思った.共著論文でも1人の執筆者に論文1と数えるカウント法と,共著者数で割った数値をカウントとする,という方法の2つを使うことにした.つまり,ある大学が単独で申請して採択されれば採択数はプラス1であるが,3つの大学が共同で申請して採択された場合,各大学の採択数はプラス1/3にする,という方法である.実は採択事例によっては,共同申請でも,明らかにある大学が中心であることが(直感的に)分かる場合もある.しかし今回程度の粗い調べでは形式的な確認方法がない.だから実態とはかけ離れるケースがあることは承知で,N大学で申請し採択された場合の個々の大学に帰属される採択数は1/Nと,機械的に計算することにした.
 以下の表にある「単純採択数」とは,単独申請でも共同申請でも,当該大学が関わって採択された申請の数のことである.単独申請と共同申請は区別しない.他方,「割引採択数」とは,単独申請の採択数はプラス1,N個の大学による共同申請の採択数はプラス1/Nとして割り引く採択数である.

大学ごとの採択数

 同補助金の募集のあった8年間で,単独申請ないし共同申請で採択された国立大学は56大学だった.国立大学は86あるから,65%の国立大学は何らかの形で採択された経験があることになる.採択経験のある56大学について,採択数を集計する表を作った.
 下の表1は単純採択数の大きい順に大学をソートした表である.8年間での単純採択数の最大値は4であり,北大,東大,京大がトップにある.この表でも概して有力大学が上位を占める傾向があるけれど,有力とはいえない大学も上の方にいる.表の内訳を見れば分かるように,地方国立大学が共同申請をしていることがあり,その共同申請でカウントを稼いでいるケースが多い.平成24年度の採択は連携をテーマにしたようであり,その折にカウントを稼いだ大学がカウントを多めに稼いでいるのである.
 表2は割引採択数で多い順に大学をソートした結果である.連携のカウントを割り引くので,表1では連携で上位に入った大学の順位が落ちる.表2の方が大学の実力を如実に反映する結果を示している.トップは東大と京大であり,8年間で単独で4回採択されている.オイオイといいたくなる.3位が東北大なので,上位3大学が同補助金でもトップ3なのである.上位9位までに旧帝の7大学が入り,旧帝の間に入ったのは滋賀大学と神戸大学である.神戸大学は重点支援3の大学であるから不思議はない.重点支援1の滋賀大学は単独で2回採択されているけれど,実は2回ともデータサイエンスのネタでの採択であるから,文科省によほど気に入られたのだろう.重点支援1で滋賀大学に続くのは静岡大学であるけれど,静岡大学は単独で採択された後に浜松医科大との統合がらみで共同で採択されている.20042812004282

重点支援ごとの採択数の相違
 
 表1でも表2でも,有力大学(重点支援3の大学)が採択される傾向は見て取れる.有力大学の採択されやすさは次の2つの方法で確認できる.
 第1は重点支援の3類型ごとの採択経験率を見ることである.重点支援1の地域大学は55大学あり,そのうち何らかの採択経験があるのは60%,33大学である.重点支援2(特色)の大学も,15大学あるうち,採択経験があるのは同じ60%,9大学である.しかし重点支援3(世界)では,16大学中88%の14大学が採択経験を持つ.
 重点支援3で採択されていないのは一橋大学と東京農工大である.ただ一橋大については,この間に指定国立大学法人に選定されているので,眠っている訳ではない.
 第2は,採択経験がない大学を含めて,1大学当りで平均いくつ採択されているかを計算することである.単純採択率と割引採択率の双方の数字で,重点支援類型ごとに採択数の平均を求めグラフにしたのが下の図1である.
 まず重点支援1の大学については,単純採択数で平均 0.891であり,1を割っている.単独採択に換算した割引採択率で見ると採択率平均値は半分以下の0.396になる.つまり3大学で1回の単独採択がある程度の実績なのである.重点支援2の大学も重点支援1と変わらないが,割引採択率では半分(0.5)に近づいている.
 しかし重点支援3の大学では,単純採択率で2を超えており,割引採択率でも1.8と,2に近い数字になる.つまり,単純採択率位で重点支援1の大学の2.67倍,割引採択率では4.5倍の採択経験を持っていることになる.

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補助金は大学間格差の維持装置か?

 国立大学改革強化推進補助金は補助金の1つに過ぎない.各大学が政府から得ている補助金の総体はここでの数字だけからは分からない.この補助金をとっていない大学も別の補助金をこまめに獲っている大学もある.また,新学部を設置するなど,見た目に進展のある大学も多い.
 とはいいながら,ここでの数字を見ていると,政府の補助金は,既存の大学間格差を維持,ないし拡大するための装置ではないかという,私の僻み心に火をつける結論に行き着くのである.有力大学はそもそも基盤の交付金レヴェルで優位な地位にあり(1つには大学院生の比重が高いことがある),受託研究費などが集めやすい(実際に集めている).その上で補助金まで差別的に突っ込んでいるのかよ,と思ってしまう.
 あるいは,補助金におけるこうした大学間格差はこれまでも指摘が(当然)あったかも知れない.そのせいかどうか,平成30年度からこの補助金にはわざとらしく「国立大学経営改革促進事業」という名称が付き,対象事業が地域枠と世界枠に分離された.この分離によって「地域大学にも配分する枠を確保しました」と文科省はいいたいのかも知れない.しかし,すぐに分かるように,重点支援1の地域大学は55あり(静岡大学と浜松医科大学が統合すると54大学),重点支援3の世界大学は16なのである.だからこの分離によっても採択の可能性は従来の格差の実績を継続させるだけになるだろう.しかも,重点支援2の大学が多くの場合地域枠になることを考えると,今までより悪いじゃん,という話である.
 さらに,ここで調べたのは採択数だけである.しかし1件当たりの補助金の額は(文科省サイトでは見えないのであるが),かなりの差があるだろう.
 (私の場合,議論は結局そこに行き着くのであるが)地域大学は統合して1大学の規模を大きくし,現状の重点支援3の大学に挑戦する立場を早く確保すべきではないのか,と思えてならない.

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遠隔授業あれこれ

 武漢コロナウィルス禍に対応して埼玉大学が遠隔授業を導入するというニュースを私が最初に見たのは,埼玉新聞サイトのニュースがgoogleページに配信されたときである.iPadの位置情報から私に埼玉新聞のニュースが選択的に配信されたように思う.その直前に日経か何かのサイトで群馬大学が新学期に遠隔授業をするというニュースが出ていた.最近確認すると,何時判断したかは確認していないが,茨城大学,宇都宮大学も同様に遠隔授業で新学期に対応するようだった.
 先ほどネットで見てみると,東京から遠い大学は,国立であっても,現時点で単に授業開始を遅らせる対応しかネットに出していない大学もある.ただ,ウィルス感染は何時どこで広がるか,まだ予測できない.場所はどこであれ,最初から遠隔授業を選択した方が安全・安心のような気がする.
 埼玉大学は,遠隔授業に対応できる時間的余裕をもって判断しているので,賢い選択をしたというべきだろう.単に授業開始を引き延ばすだけであれば,予定の開始時期に授業を開始できたかどうかは分からない.昨年の民間英語試験への対応についてもいえるけれど,学務系の事項については埼大は賢明な選択ができているように思う(学務系以外の情報は外からは分からない).

結構なことではないか

 今回,文科省は早々に遠隔授業の単位数の緩和を打ち出していた.その点については文科省の判断も良かっただろう.最近の文科省の判断以前にも,確か,遠隔授業のよる単位数は卒業要件の半分まで認められていたと思う.今回の「緩和」が時限的なものかどうかは分からないけれども,このウィルス禍を境に遠隔授業が普及することは,大学にとっては良いことだろう.
 私が埼大を退職した3年前までは,埼大は遠隔授業の導入は遅れていた.例えば宇都宮大学と群馬大学のように共同教育学部を作る場合,一定の遠隔授業は前提になっているだろう.国立大学によっては,茨大のように,地域の私大等と授業に関する協定を結んで遠隔授業の導入をはかるような事例もある.埼大はそのような交流をあまりしていなかっただろう.遠隔授業が授業形態の選択肢に入ることで,大学として行える事項が増えるように思える.そういう意味では,ウィルス禍がある時期だけ遠隔授業をするという頭ではなく,今後は遠隔授業を選択肢として対応するという気持ちを持つべきなのだろう.従来の一般の授業についても,遠隔授業の要素を入れる余地はあるはずなのである.
 今回遠隔授業を導入することで,失敗ないし困難に直面することもあるのかも知れない.しかし今回の遠隔授業の拡大実施によって遠隔授業の経験値は上がるだろうし,遠隔授業のシステムにどんな機能が必要か,といった知見も増えてゆくだろう.だから,ウィルス禍自体は嫌なことではあるけれど,遠隔授業の経験は有意義なものになるのではないか.

十数年前の幻の遠隔授業

 遠隔授業という言葉を聞いて古い話を思い出した.私が最初に学部長になったとき,教養学部(というより文化科学研究科)は一部で遠隔授業をやってみる可能性があったのである.当時は大学院GPで文科省から予算が付いていたので,その一部を使って大学院の遠隔授業用にテレビ会議システムの契約を何年間かしていた.
 当時,4大学(茨城・宇都宮・群馬・埼玉大学)を意味する4Uという枠組みがあった.確か関東経産局が主導した枠組みだったと思う.主に理工系の大学院の共同運用を協議する枠組みであり,私も文化科学研究科長として4Uの会合には出ていた.議題は主に理工研の話であったが,理論上は文系研究科も4Uでの協力の可能性はあったのである.
 在職中,内心で私が一番関心を払ったのは他大学と統合するか,統合はしないまでも高度な連携をすることだった.だから距離的にも近く,関口先生以来先方との顔も通じていた宇都宮大学の国際学部(国際学研究科)との間で単位互換をすることを目標に考えた.単位互換の1つの方法として遠隔授業も考えたのである.そのためのテレビ会議システムの契約だった.
 記憶では,実際にテレビ会議システムの挙動を試したところ,複数人の相手の顔をPC画面に音声とともに表示する以外に,資料ファイルの相互閲覧ができる,という程度のシステムだったように思う.今ならもっと性能は良いだろう.実は宇都宮大学にも遠隔授業の装置があるという話もあったので,実際に行ってみて確認しようしたこともある(機材がうまく動かず確認できなかった).ともかく,キープするだけならテレビ会議の契約は安かったので,契約だけは何年間かしていた.
 遠隔授業にしなくても,宇都宮の院生が埼大の授業に来ることもあるだろう,と私は思った.宇都宮の院生は(実は先生方も)東京在住の人が多い.だから宇都宮に行くよりも埼大に来ることもあるだろう,と思ったのである(ただし当時あった大宮サテライトの教室は,他部局の利用頻度が高く,使用できそうになかった).
 残念ながら,単位互換の実績はほとんど残せず,遠隔授業をすることにもならなかった.各分野に限れば授業の数は相互に乏しいにもかかわらず,相手方の授業を履修しようとする院生はほとんどいなかったのである.授業をとる機会を作るだけでは単位互換の実績は残せない,という苦い経験だけが残った.教員同士に交流があり,相互の授業が調整される必要があったけれども,そこまで人を動かす企画は作れなかった,というのが総括だろう.
 この十数年前の件はかくも間抜けな結末に終わったけれども,人的なリソースを共有化して行うべき企画は,今後もいろいろあるはずだと思う.だから遠隔授業の拡大実施を行える状態を維持することは意味のあることのように思える.

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