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私の大学の教養教育がダメであるのには101の理由があってだな

 どこの大学とは言わぬが、私が勤めている大学の教養教育は惨めなものである。どの大学も苦しいのが内情とはいえ、ウチの場合は水準が低い。教養教育の消滅を回避するのが精いっぱいといってよい。実態として教養教育の部分が次第に、軽く薄くなっている。法人化の当初は教養教育の特色をアピールしたものであるが、今は何もアピールできない。他の多くの大学では、教養教育を超えた新たなプログラムを競いつつあるが、同じことができる状態ではない。外部委員も教養教育の計画が大学の公式計画に書いていないことに不満を漏らすほどである。

 なぜこうなったのか? 偶然的要因と構造的な要因がある。
 偶然的要因とは、第1に学士課程の教育が大学としての重点から外されてきたことである。だから教養教育は、資源削減の対象にはなっても投資の対象にはならない。第2は、平たくいえば担当の責任者にセンスないし才覚がなかったことである。前者はある意味、構造的要因のように見えるかも知れない。が、同じ立場を将来的に長く保持できるはずはないので、あえて偶然的要因に数えておく。
 構造的要因とは、教養教育を担うべき教員ポストが法人化の初年に全学吸い上げと決まったことである。いわゆる「教員定数の再定義」がそれである。全学に吸い上げられたポストは削減などに使われたはずであるが、その実態は知られてはいない。そこで教養教育の担い手が曖昧なままになり、教養教育に充てる人的資源が不安定になることを余儀なくされた。既存部局は教養教育分のポストを持たずに教養教育の負担を抱え込んでいる。
 多くの大学では、旧教養部の教員定員は、既存部局に分属になるか、新たに作った別組織に配属されることが多かった。しかし旧教養部の定員ポストを継承した部局は、そのポストの分だけ教養教育の担当を引き続き負っていることが多い。そのために、問題はあるにせよ、教養教育を担当する教員ポストは結果として確保されている。むろんその上で部局には教員ポストの削減が多かれ少なかれ起こり、全体として教員ポストは削減されているだろう。しかし教養教育担当分の人的資源は他と同率で削減にはなるだろうが、なおも捻出できる状態が続いている。

 法人化の初年にこの教員定数の再定義を提起した時、間抜けにも、それで教養教育に問題が生じることに時の全学執行部は気づいていなかった。正式に教員定数の再定義を決める段階になると気づいたようであるが、既に遅かった。学内のいろんな所が、全学に吸い上げたポストに目を輝かせ始めてしまったからである。教養教育を考えるべき理性は、欲の前にかき消されてしまったというべきである。
 かくして、教養教育は担当の負担をどうするかの問題に常に直面することになった。社会的ディレンマ(特に公共財供給)のゲーム実験のような経過が展開したのは不思議ではない。当初こそ人は協力意志があるものの、協力は漸減する運命に見舞われた。そのため、時が経過するに従い、教養教育は軽く、薄く変化している。大学の財政のひっ迫が追い打ちをかける。頼みの非常勤枠にも余裕はなくなるからである。じきに、負担を軽くするために大学教育とは呼べない代物になるのではと、私などは危惧してしまう。

 何とかする方法はあるにはある。が、何とかするだけの企画力と実行を促すリーダーシップが発揮されることがあるかといえば、これまでの経過を考えると難しいように思う。

(この記載は2020年代を想定したフィクションです。)

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