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人は何といってグローバルを嫌がったか

 私は在職期間の最後の方で「グローバル」を推進することに気を使った.教養学部内のグローバル対応に腐心したけれども,全学の中でも「グローバルを推進すべき」という意見を述べてきた.その「グローバル」を教員が何といって嫌がったかを書いてみたい.

大学でのグローバルの重要性

 一般論になるが,現在の大学の課題はイノベーションとグローバルの2つのカタカナ語にあるだろう.経団連のような大学の外野がその2つを強調することがそのことを物語る.大学が日本の国力の向上に寄与しようとするなら,この2つが重要だと私も思う.
 以前に書いたことだが,現政権では大学を,米国同様に,国力の基礎と位置付けている.日本では新開発の製品による収益が米国などと比べると低い.つまりイノベーションが乏しいのである.そのイノベーションの後押しが大学に期待されており,その期待には応える必要があるだろう.ただ,日本でイノベーションが乏しい最大の要因は大学にではなく企業にあるように思う.日本の研究機関の成果を特許につなげた件数は,日本企業より外国企業の方が高い,つまり日本の企業は研究成果をフォローしていないのである.だからイノベーションに関して大学ができることといったら,研究のコーディネイトくらいしかない.教育課程は決まった内容を伝えるために構成するから,イノベーションのための教育課程というのは存在自体矛盾(ないし冗談)のような話である.
 それに比べると「グローバル」は,研究はもちろんであるが,教育課程による部分は大きい.私の直感では,日本の研究力が低下している原因は,海外との比較において,国際戦略に後れを取っていることが大きい.だから研究上もグローバルは重要であり,そのことを後押しすすために教育課程が行うべき部分は大きいはずである.
 もともと私がグローバルといい始めたのは教養学部のテコ入れのためだった.グローバル事業の申請書をまとめたもともとの動機はそれ以外にはない.しかし,グローバル事業にかかわるうちに私自身は確信犯になっていったように思う.きっかけは,留学促進のヴィデオ作成のために留学経験の学生にインタヴューをしたことによる.教養学部に限らず埼大の学生はあまりものを話さないのであるが,インタヴューに参加した留学経験の学生はみな語るべき何かを持っていたのである.自分のこと,自分の進路のこと,留学先と日本の大学(埼大)とのシステムの相違,その長短,世の中の仕組みのこと.そうした事柄について彼らが自分の考えを述べることに私は瞠目せざるをえなかった.海外の未知のシステムの中に入ってそれなりの単位を取って来るという体験を経た彼らは,やはり多くのことを考える機会を得たのだ,と感じた.彼らは,日本にいれば他の活動でそれなりの達成をしたかも知れないが,総体的にはより多くのことを得て,しかも語学も上達させている.専門の研究者を育てるなら別の考えもあろうが,学士課程を学ぶ彼らにとって,1年ほど交換留学をした経験は日本にいて得るものより大きいと感じた.
 むろん留学することが誰にとってもプラスになる訳ではないし,マイナスになる留学もある.そこは適切なアドヴァイジングがあることが前提である.

「英語教育は必要ない」

 さて,そのグローバル事業の推進を考えながら(本来考えるのは全学の役職者なのであるが)私が気づいたことは,英語教育の重要性を私自身が過小評価していた点である.Global Youth(以下GY)プログラムで使っている留学用の英語授業を他学生にも拡張すれば足りるとしか,当初は考えていなかった.が,それでは不十分なのである.GY用の英語授業は,英語センターのnativeの先生方がよくやってくださっていた.けれども,本格的に留学を可能にするだけの英語力を付けるには,それだけでは学習時間が足りない.ICUなどは,一般の学生に要求する英語の時間数が,埼大では考えにくいほど多いのである.
 だから私は機会を見つけて,英語の授業の拡充の必要性を述べていた.が,特に理工系が英語授業充実の考えには冷淡だった.
 理工系の先生方は学生を留学させることには関心が薄く,時折いうのは,「我々は研究に関心があり,学生が研究報告をするには,英語教育はそれほど必要ない」という発言だった.
 この発言を私が教養学部のスタッフの前で披露すると,すぐにツッコミが入った.

─ 英語教育をしないでなぜ研究発表ができるのか?
─ コピペでもするのか? コピペを埼玉名物にするつもりか?
─ 東大で最初にwritingの教育に力を入れたのは工学系だ.理工系が英語教育が要らないというのは考えられない.

 これらの同僚の言を聞いて,なるほどねと思ったものである.
 もっとも,口の悪い同僚は以前から次のようにいっていた.

─ 理工系の論文って,数字だけを入れ替えればよいものが多いんじゃない? だから英語教育が必要じゃないんだよ.

まさかぁ,とは思う(本当だったりして).
 まあ,数字だけ入れ替えるだけのような研究をするなら別であるが,自らのアイディアを英語で表現するとすれば高度な英語教育が必要になって来るように私は思う.
 語学は英語に限らない.何れの語学も教育すべきなのは確かである.が,まず共通語である英語なのである.

「留学せずに日本で勉強していればもっと伸びた」

 教養学部の教員は学生の留学に概して好意的である.ただし時折,好意的でない意見にも出会った.その一つは(特定の学生が)「留学せずに日本で勉強していればもっと伸びた」というご意見である.趣旨は,日本でもっと勉強して基礎を固めてから留学すべきだった,ということだろう.
 理解できる意見である.が,そうおっしゃる方は,従来の研究者の多くがそうであるように,学部までは,ないし修士課程までは日本で基礎を積み,その後で留学するというパタンが念頭にあったように思う.しかし学生の多くは(教養学部では)研究者を目指さない.学士課程から社会に出る学生が多い.そして学士課程は基本的に広い事柄を学ぶのが目的である.だから,日本にいて基礎を積めばその分のプラスはあるのは分かるが,そこで得られる以上のプラスを,留学した学生は学士課程で得ていたように私には思える.
 似ているが別の否定的なご意見にも出くわした.意外であるが,多くの学生が留学していたグローバル・ガバナンス専修で先生による否定的なご意見が時たま出たのである.「あんなできない奴を留学させるべきではない」という趣旨のご意見である.
 そこで言及された学生の中には,確かに,海外渡航マニアのような学生もいた.私の意見でも,お金があまりかからぬ交換留学まではよいとして,それ以上の海外渡航を,親に経済的負担をかけてやるものか,私が親なら行かせないだろう,と思う事例もあった.ただ,言及された学生の多くについては,シニカルにいえば,勉強はできないかも知れないが,留学しなければ勉強をしたという訳でもなかったように思う.相対的には,勉強はダメでも留学してプラスはあったと思えることが多かったろう.
 なお,グローバル事業の期間に交換留学のシステムが整備され,交換留学の機会をえるための要因にGPAが導入されるようになった.だから,教員には不満かも知れないが,ある程度の成績を前提に留学するようなシステムにはなったのである.
 
「外国の大学の科目は日本にもあるから留学は意味がない」

 何かの会合の折,工系の先生から出た言葉である.このお言葉の前段はその通りだろう.広く理系の場合は授業の構成は国によって異なることはない.文系でも Science 色の強い分野では同様である.昔留学とは,外国に行かねば学べぬことを学ぶのが普通であったが,現在はそうではない.
 しかし前段が後段の結論に「から」で結び付ける点は,私の考えとは異なる.日本と外国とで同じような授業が出ていることは,外国の大学との単位互換が容易であることを意味するからである.要するに留学はし易い.そして,同じ科目を学んだとして,未知の環境に適応したり外国語力がつくといった付加価値を考えれば,留学させるのが望ましいという結論にしかならないように思う.国際的な調整力を持ったエンジニアを育てる.よいではないか.
 だから,理(工)系の先生方が海外留学を促進しない理由は,私には理解できないのである.


「留学する学生はできない」

 ある会合での理系の先生の発言である.立派な先生が仰るのであるから「留学」と「できない」との間に相関関係があることは事実なのだろう.だが因果関係,つまりどちらが原因でどちらが結果か,別の要因があってこの相関関係が生じるのか,その点は分からない.
 あくまで憶測であるが,前出の口の悪い同僚がいっていたことを思い出す.理系では学生に研究室で仕事をさせるから,できの良い学生に留学されては困る,引き留めるそうだ,という.事実かどうかは知らないが,確かに理工系では「研究室に入る」がかなり大事なのである.(学部生ででも)研究室に入って努めなければものにならない,などとよくいう.この「研究室奉公」は諸外国にはない.
 この研究室奉公主義が,日本の研究力が伸びない理由の1つだろう,と私は以前から思っている.以前私が調べたときは,埼大の理工研では(文系より),コースワークの単位要件が少なく研究指導の比率が高い.たぶん日本の理系の大学院一般にいえるだろう.実は文科省は若手研究者の研究力の促進を考え,その点の是正を求めているのである.コースワークを欧米並みに増やし,研究室張り付きを弱くする(専門の変更の余地を作る)ことである.
 以前,図書館長をされていた理学部の先生に欧米の大学院はどうか,とご意見を伺ったことがある.欧米の院では広い分野を院で学ぶ(日本では研究室にのめり込む)から知識が広い.そういう点はかなわないねぇ,というご意見であった.なるほどなと思った.
 研究室奉公が強いために,研究室では有能な,使える助手になるが,研究室を出て研究者として独り立ちすると弱いのではないか? 学生たちが貼り付いた先生の縮小コピィにしかなれないのではないか? 狭い範囲のことしか学ばないから融合的な研究に行き着かないのではないか? 海外経験が少ないから国際的な研究ネットワークから外れ気味になるのではないか? 就職先として日本の研究機関のポストばかり考えるから就職難が生じるのではないか? まとめるなら,世界の,特にアジアの研究者の国際化が進んでいるのに,日本では伝統的な研究室奉公が続いている,そのことが日本の研究力の相対的低下の一因になっているのではないか,と私は以前から思っている.
 話を戻そう.留学する学生はできないのは事実かも知れない.が,できる学生に留学させたらどうなのか? 研究室に仕事があるなら助手を金で雇うのが筋だろう.

埼大のグローバルの今後

 2016年度は私の最後の在職年度だった.この年度では私は学部長を辞めたので,それ以降の全学の事情は直接的には分からない.この年度に私が教養学部の執行部の方から伺ったのは「金がないから海外への学生の送り出しはやれない.今後は受入れだ」と学長がいっていた,ということだった.
 それが行き着く先なのかなぁ,と思わぬでもなかった.北関東の国立大学も,グローバルといいつつ,行き着く先は同様,ないし「地域と地域の外国人との共生」といった国内事業になっている感があった.埼大も同じ所に行き着いているといえば,それまでかも知れない.
 グローバルのナントカセンターという構想の話も学部執行部経由で伺ったような気がする.説明のポンチ絵を見ると,理工研に来ている海外からの留学生への世話が主業務のように見える.まあ,学長の支持母体は理工であるから,そういう金の使い方になるのかな,という感想を持ったものである.
 受け入れた海外からの留学生と共修することも国際化の重要な契機である.けれども,日本人が多数派の環境で外国からの留学生と接するという状況は,日本人学生の国際化への貢献は限定的である.やはり海外の環境の中に少数派として飛び込む留学体験を積むことの価値が大きい.金がないというなら仕方ないが,金がないなりにやるべきことは多いように感じている.お金の負担は基本的に学生本人負担になるだろう.しかし大学として揃えるべきもの,例えば英語学習環境などは,大学として投資すべきことのように思う.
 グローバル事業の予算が切れて,確かに使えるお金は少なくなった.しかし,もともとグローバル予算とはスタートアップ資金であり,時間の経過とともに支出は内部化するのが前提だったのである.
 むろん,お金の使い道は大学の方針による.賢明な使い道がなされるとよいとは思う.

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