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地方国立大学,帆高の祈り

 新海誠監督の劇場用アニメ『天気の子』は家出少年の帆高(ほだか)を主人公にした作品である.映画の後半で帆高は,少女の陽菜(ひな),その弟の凪(なぎ)と一緒に警察から追われ,ラブホテルに泊まって一瞬の安息を得る.そのときに帆高の,次の有名な台詞が独白として入るのである.

《もしも,神様がいるならば,お願いです.もう十分です.もう大丈夫です.僕たちは何とかやっていけます.だからこれ以上,僕たちに何も足さず,僕たちから何も引かないでください.神様,お願いです.僕たちを,ずっとこのままでいさせてください.》

 オタク王の岡田斗司夫の動画によれば,この台詞は新海監督がバカな観客をここで泣かすために入れた,実際,岡田斗司夫と一緒に映画を観ていた周辺の女子中学生はここでみんな泣いていた,という.私の意見では,この台詞の場面はまだ入り口であり,ここから先にもっと泣かせる場面がある.
 この「帆高の祈り」が念頭に浮かんだのは他でもない,「指定国立大学法人」のことを考えたからである.

 今から4年前(2017年)にこのブログで「指定国立大学法人」という題の記事を載せた.が,なぜか,つい最近その「指定国立大学法人」へのアクセスが続いたのである.何年も前の,しかも(確認してみたが)大したことを書いていない記事に今頃アクセスが続いたことが不思議だった.
 理由はたぶん,九州大学が最近,指定国立大学法人に選定されたためだ,と気がついた.確か昨年,指定国立大学法人に筑波大学は採択されたのに九大は落ちた.九大はかなりショックだったろうが,ニュアンスとしては「来年通すよ」だったと思う.そんな中で九大は何とか計画をさらに詰めて,今年の採択に漕ぎ着けた.
 そういっては悪いが,旧帝の中では九大と北大がビリ争いをしている.雰囲気的には九大の方が良いから,九大が入ったのはまあ順当なのだ.これで北大が一人取り残されたことになる.これから死に物狂いの北大の逆襲が始まるのだろうな,と思う.指定国立大学になるには大学のガバナンスの点で左翼が嫌がるかも知れず,全大協の強い北大でどうか,とも思うが,一人だけ落ちたままには出来ないから,全大協を蹴散らしてでも指定国立大学法人を取りに行くだろう.第4期中期における指定法人の「追加」という線かも知れない,と勝手に思う.

 埼大のように法人支援形態が①の大学は関係ない話なのだ.だから4年前に書いたように,こうも何度も何度も,上位大学と下位大学を区別する儀式を,これほどまでにくどく繰り返さないでくれよ,というのが私の中の自動的な感情である.
 しかしもし,基礎となる数字が揃っていて,もしかして挑戦するチャンスが(できる訳ないが)できたらどうであろうか? あえて挑戦するであろうか,ということも考えないではない.
 挑戦する目標はあった方がよい,と私は思う.挑戦があるから整理できない内部の問題も割り切って解決できて次に進める.やれればやった方がいいんでないの?という気分もある.
 しかし,である.現状で埼玉大学で研究ができないということはないだろう.特に文系は.現状で以前のように運営費交付金が下がる訳でもなく,下がっていてもいろんな経路からの研究費は(怠けていなければ)増えているはずである.だったら無理をしないで今のままで実をとった方がよいのではないか?
 確かに今のままでは支援①の大学は地方創生などと,土台無理なことを求められるかもしれない.が,大学に地方創生などできる訳がないのだから,その点はじっとしていればそのままになるしかないだろう.
 一部の人は無理をするべきと思うかも知れないが,普通の教員は上で書いた帆高の祈りではないのか? 僕たちに何も足さず,しかし何も引かないでください.このままでいさせてください,ではないのか? このままで自分のやりたいことをしていればいいんでないの,というのが本音なのではないだろうか.

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大学卒業に4年が必要か?

 日経の特集「教育岩盤」では飛び級,飛び入学が日本では少ない実態にも触れていた.天才的な若者が非常に若くして大学院に入る,といった伝説的な事例を日本ではほとんど見ない.20台で教授になるような例は日本であるのかどうか分からぬが,あっても少ないだろう.実際には日本にも天才的な人は結構いるのではないか,という気もする.
 なぜ飛び級や飛び入学が少ないか? 日本の6・3・3・4制の教育課程では,実質的には,一貫して「履修主義」が採られている.文科省も履修主義を前提に指導しているからであろう,と私は思う.

実態としての履修主義

 公式には,日本の義務教育(小中学校)は「履修主義」によっている.履修主義とは,課程の修了は所定の授業を履修したかどうかで判定し,履修した成績にはよらない,ということである.つまり授業に出ていればよい.だから「落第」は,あるとすれば授業日数の不足によるだけである.高校になると,少なくとも単位制をとっている高校では「修得主義」になる.ただ,単位制をとっていても規定の就業年限(3年)での卒業が通例であり,実質的には履修主義と同じであるのが実態だろう.
 大学は,建前は修得主義のはずである.しかし実態はほとんど履修主義によっているといってよいだろう.実は,日本の大学は義務教育とは異なる建前を持ちながら,微妙に義務教育と同じ履修主義で運営されているのではないか?と思う.
 そもそも,大学が修得主義なら修業年限を4年などと決める必要はない.学生は必要な単位を取得し,単位が揃ったところで卒業する.だから,標準4年を想定した課程であっても,4年を越える期間をかけることもあれば,4より早く卒業できることもある.米国の大学などはこのような修得主義であろうと思う.
 しかし日本の大学の場合,早期卒業が導入されるまでは学生は4年在籍しなければならなかった.現状でも早期卒業は希であるから,小学生が小学校に6年在籍するように,大学生は普通,4年在籍する.4年を過ぎた留年が生じてはじめて,「単位が揃ったところで卒業する」という本来の修得主義に戻る.
 文科省は大学に対し,履修主義の小中学校を指導するような指導を行っている.例えば文科省は学科別の学生定員管理を大学に強く求める.具体的には入学者数が学生定員の人数から外れるとペナルティをかけている.この定員管理は入学者定員には限らない.例えば教養学部が3年次編入試験をする際にも,当該学年の学生数が学生定員から外れないように調整しないといけない.また,卒業者数も学生定員から離れない(留年者が少ない)ことを求めている.つまり,全ての学年について学生定員付近に学生数が収まることを求めている.そのことは,履修主義の小中学校と同じように,入学させた学生はそのまま進級させて卒業させろ,ということである.

大学の履修主義のもたらす効果

 履修主義には良い所がある.例えば小中学校に修得主義を適用できるかというと,難しいことはすぐに想像できる.修得できない生徒は多数に上り,彼らを進級させないとすれば学校現場をどのように収拾できるか? 履修主義でないと整然とした学校運営はできないだろう.履修主義は一面で修得していない生徒の存在を容認するが,それでも日本の小中学校が外国に劣ることはないはずであり,有能な人材を上の学校に送り出すことにも成功していると思う.だから履修主義でよいのである.
 大学における履修主義も同じことがいえるだろう.実質履修主義であることで,大学教育という人材育成工程のプロセス管理は少ない不規則性で制御されている.小中学校と同じように,学生はある年の4月にまとまって入学し,学生の多くが4年後の3月にまとまって卒業する.この安定感の上で学生も自分の学生生活を設計しやすくなる.
 しかし学生を自動的に進級させることを想定する履修主義では,学生を勉学に向かわせる誘因は低い.高校までなら上に進学するという圧力があるから履修主義の下でも勉強するが,同じ圧力は大学では低い.だから大学では成績が悪ければ不可をつける,落第させることが理想であるのだが,履修主義の下で学生を落第させることが出来なくなっているのである.
 おそらく,大学では概して成績は甘くなり,できない学生にも単位は出ているだろう.ちなみに,私は埼大在職中に,本来の採点をすれば受講生の少なくとも半分には不可を出すべきだったが,実際にはほとんど不可を出していない.ちゃんと数値で粗点を出せる形式の授業に限っていうと,受講生の粗点の平均は100点満点で50点行かなかったと思う.ゲーム理論の授業でいうと,粗点の平均は20~30点だった.その粗点を線形変換して提出用の点数を出し,不可は極力抑えた.が,単位を出している受講生の平均的な答案を考えると,ちゃんと理解しているとは実は言い難い.
 学生はほとんど勉強はしておらず,簡単に単位を取れている,と私は思う.実際,私が学生の時も,まじめに聴いていた授業は履修中の授業の中で1つか2つだったろう.
 また,私の教養学部での記憶では,CAP制(登録授業数制限制)が導入される以前は,多くの学生が3年次の前半で卒論以外の卒業単位をほとんど取れていた.また,卒業時にやたらと取得単位が多い(例えば180単位)学生もよくいたように思う.
 だから,CAP制が導入される以前なら,学生は普通にやっていれば,卒論を含めて,教養学部を3年で早期卒業できたはずである.
 CAP制に相当する制限は米国の大学にもあるから仕方ないだろう.しかし本来はCAP制の存在は変だと私は思う.もし多くの授業を同時に登録して単位が取れてしまえば,多くを登録して何がまずいのか? 問題は勉強しないでも単位が取れてしまう授業のシステムにあるのであり,授業がしかるべき難易度を持てばCAP制など存在する必要はないのである.
 授業の単位を学修時間の長さに関連づけることも,大学が履修主義に基づくことの1つの表れであるように私には思える.授業の1単位につき45時間の学修,という条項が埼大の「単位修得の認定に関する規則」に入ったとき,全学の会議で私が「何でそんな下らないことをするのか?」といった覚えがある.時の山口学長はお怒りになった.その時は大した議論はしなかったが,1単位を学修時間と結び付けているのは大学設置基準であり,同様の規則が米国にあることも存じている.しかし,そりゃぁ授業を設定するときの目安として書いているだけであり,実際の学修時間を問題にしていると考えるのは馬鹿げている.頭が良ければ学修時間は短いし,逆なら長いだろう.時間をかけるかどうかは本質ではなく,肝心なのは学生が理解を達成したかどうかである.時間そのものはどうでもよく,どの程度の達成があったかを測定すべきだ,とその会議では申し上げたがダメだった.設置基準という上位規則に書いてあることをわざわざ学内の規則で繰り返すのか,という問題もあっただろう.
 学修時間規程を学内規則に書くことは全国一斉だと思うので,文科省が指示したのだろう.この学修時間主義は,修得ではなく履修していること(=学修時間)で単位を出す履修主義精神の発露なんだろうな,と思う.

教養学部における早期卒業への抵抗

 Wさんが北大文学部における早期卒業の第1号であったという話をWさんの口から伺ったのは,埼大が早期卒業を導入するより前のことだった.Wさんは一生懸命単位をとって卒論もちゃんと書きました,と仰っていた.さすがWさん,早期卒業は是非導入すべきと私は思った.私には,実際は4年かからない程度の教育しかしていないのだから,早く卒業させるのはよいことだ,という発想があった.
 何時かは忘れたが,教養学部で早期卒業制度を導入したのは,私が学部長のときだった.まずカリキュラム委員会で原案を作ってもらったと思うが,カリ委員会に任せたのが間違いだったかも知れない.出てきた原案が「3年で卒業」ではなく「3年半で卒業」であったのを見て「やれやれ」と思った.やはり大勢では,教授会の皆さん,早期卒業が嫌なんだ,と思ったものである.なぜ「3年半」となったかの理屈は忘れた.
 教授会での審議でも早期卒業の導入に抵抗する意見が随分あったと記憶している.〇年の年季奉公が必要だと仰る意見もあったが,合理的な理由があるというより,早期卒業を認めるとしても現状との違いが小さい方が良い,という当時の教授会の感覚の故だったろうと思う.
 卒業する3月に早期卒業であるから,就職活動なども通常の卒業の学生と合わせて行うことができる.しかし3年半で,9月に早期卒業になっても,早めた半年分の使い道がないから(留学する場合を除いて),学生の方も早期卒業を希望しないだろう.
 それでも,早期卒業に手を挙げる学生が1人出た.私が指導する学生だった.その学生は出来が良く,私の授業では受講生の多少にかかわらず常に1番の学生だった.
 その学生が形式的な基準を充たしたので,教授会に出す前にカリキュラム委員会の承認を求めたのであるが,その会議の場で「早期卒業を希望する理由」に対する難癖が委員から出た.オイオイと思った.早期卒業自体が嫌だったとしか思えなかった.
 私が学部長だったので,いろんな段階での抵抗はあったけれどもその学生には早期卒業をして頂けた.それにしても早期卒業という簡単なことにひどく抵抗が出たな,と思わざるを得なかった.
 今,埼大の規則を見ると,早期卒業の時期は次のようである.

教養学部:4年次の前期終了時
経済学部:3年次終了時ないし4年次の前期終了時
教育学部:早期卒業なし
理学部 :3年次終了時ないし4年次の前期終了時
工学部 :4年次の前期終了時

 経済学部と理学部の規程が正常のように思う.4年次の途中でもよいが,3年次終了が自然である.工学部が教養学部と同じだった.メンタリティが同じなのか,授業の要求水準が高いからなのか.教育学部に早期卒業がないのは,上位規則によってカリキュラムががんじがらめであるからだろうと思う.
 話は逸れるが,経済学部の規程の早期卒業要件に「大学院人文社会科学研究科博士前期課程国際日本アジア専攻又は経済経営専攻に進学すること。」とあったのは驚いた.経済学部は院への内部進学者確保に苦労しているのは分かるが,自分の所の院進学を早期卒業の要件とするのは露骨すぎるし,理屈は立たないように感じる.教養学部の「学士・博士前期5年一貫コース規程」は,その点でより洗練されている.

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大学入学に高卒資格は必要か?

 日経に「教育岩盤」という題名のシリーズ記事が出ている.目を通すと結構面白いことが書いてある.大学を中心とした挑戦的な教育のいろんな試みが書いてある.文系科目が出来なかった生徒に東大並みの理工系教育をする大学設置を目指すとか,オンライン授業の比率が卒業単位の半分程度に抑えられている現状とか,秋入学を前提にした一貫校の設置を目指すとか,飛び級,飛び入学が進まない現状とかの話である.言わんとすることは,教育の多様性が望ましいのに,現状が岩盤のように動かない,という点にあるのだろう.
 この特集の意図は好ましいとは思うのであるが,何となくいろんな現象を書き連ねているだけなので私は読みながらイライラ感を募らせた.大学の設置基準,ある程度は学校教育法,そして文科省の裁量的指導によって現在の教育界が保護されており,その結果として教育の現状が岩盤になっているのは明かなことではないか? 論ずべきことがあるとすれば,そのような規制を取り去ったとき生じて来る問題がある世界と,現状の岩盤規制の世界のどちらがよいかを比較検討することではないか? 岩盤規制のマイナス面を記述するというのは,なんとなく芸がないのではないか? と思ったのである.

 私自身はいろんな教育上の規制はほとんど無くてよい,と埼大在職中から思っていた(口にしたことはたまにしかなかったが).規制を外せばいろんな変な事例が出るのであろうが,そこは事前規制ではなく事後評価に委ねるだけではないか?と思っていた.
 例えば,である.現状では飛び入学は例外的な法令上の事例であり,標準的には1年早く大学に入学できるに過ぎない.ただ,例えば1年早く千葉大に入れるだけなら,1年遅れても東大に行けた方がよいと人は考えるだろう.だから1年程度の飛び進学に人が興味を示さないのは自然なのだ.
 というより,大学に入学するのに高卒の資格(高卒認定試験を含む)は必要であろうか? 露骨にいうと,一部の私大文系のように入試に国語と英語しかなければ,合格できる中学生は多いだろう.なら,そういう中学卒の生徒は,希望するなら大学に入学させればよいではないか.家庭の教育費負担も軽減できて親孝行ではないか.上では明かな例として私大文系と書いたが,理大理系でも国立大でも,出来る中学生がある程度の予備校での準備をすれば,高校をスキップして大学に行けるのではないか,と思える.Fラン大学なら有名小学校を受験する幼稚園生でも合格ラインに達するかも知れない.

 現状では,小・中・高校・大学・大学院という人材育成工程プランを政府が持っており,その順の工程ステップを経なければ次に行かせない規制をしている.しかし,この工程を一律に規制で守ることに合理性があるのか?ということである.
 むろん,もし私が大学の経営者であるなら,特殊な大学でない限り,私は入学者に高卒資格を求めるだろう.なぜなら,高卒資格を求めないとすればかなり多岐にわたる入試を実施しないといけない.その労力を負担するコストが高過ぎると考えるからである.
 しかし,私が高卒資格を求めたいのは教養学部のようなアーツ&サイエンスの課程を前提とするからである.いろんな大学があり得ると考えれば,必ずしも同様に考える必要はないだろう.大学によっては,数学さえできれば他はどうでもよい,ということはあってよい.そして,数学力だけを見るなら,入試も実施可能であろうと思う.
 埼大の学生の中にも,ルネサンスと中世のどちらが古いかを知らない学生もいた.ルネサンスと中世というなら,高校以前の中学,いや小学校で習っていたように思う.でも知らない学生もいる,それで問題ないのである.

 私の在職中の最後の頃,文科省は「高大接続」といい出した.時の埼大の学長さんも高大接続で頑張ります的な発言をしていた.しかし内心,私は「高大接続」という言葉が嫌いだった.文科省的には高校と大学を連続した工程と考えるから「高大接続」という.しかし「別に接続していなくても,大学は独立に存在すればよい」と私は考えていた.
 高校と大学が接続しているという発想から,大学入試では高校の学習指導要領外の事項を入試で出題させないことになっていた.しかし入試で何を出題するかは大学の裁量で決めるべき事項だろう,と私には思えた.むろん何が出題範囲かは受験者に知らせるべきであるから,習得しておくべき事項が(もしあれば),表にして事前に知らせることが望ましい.しかし大学のすることを高校の指導要領で制約する必要はない,と思う.

 後で在学期間(学部・院)を定める必要があるか,という点を述べてみたい.私はないように思う.

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