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学校教育法から乖離する大学行政

 表題は,大学行政が学校教育法から乖離してけしからんというのが趣旨ではない.逆である.「乖離することが望ましい」が本意である.

大学を主として学校と位置づけてきた従来

 大学の必須の要件は教育(人材養成)をすることである.もし研究をするだけなら研究所であって大学ではない.しかしこれまで,大学教員を含めて多くの人は大学を主として学校であると考えていたように思う.
 1995年のことだったが,私は埼大教養学部の教授会で,学部の力点を研究に置くべきことを主張したことがある.その経緯を以前,私は次の記事として書いた.
http://takagi.air-nifty.com/conbrio/2018/08/post-61e0.html
 上記の記事でも書いたことであるが,教授会では「いや,学校だ」という反応がほとんどだった.それだけ皆さん,大学を学校と位置づけていたのである.
 よく考えてみると,日本では大学を「主として学校」と位置づけてきたきらいがある.まず大学の成立根拠になっているのが法的には学校教育法である.学校教育法では幼稚園から小中高校の目的を定め,次に大学の目的を定めている.
 学校教育法は成立した1947年の当時,次のように目的を定めている.

第五十二条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。

 「教授研究」という表現で研究の文字を入れているが,素人の私には「教授研究」が「教育と研究」を指すのか(そうならそう書けよ),「教授法を研究する」ことなのか,よく分からない.

 2020年の改訂でも,大学の目標規定の文言はそのまま維持されている(ただし第八十三条となる).が,次の第2項が加えられている.

② 大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

第1項では「教授研究」なのに第2項ではじめて「教育研究」という言葉が出てくる.ただ第1項の「目的を実現するため」という条件が入っているので,あくまで教えるために研究している感が強くなる.
 また,「社会の発展に寄与するものとする」という言葉が入っているので,いろんな活動によって社会の発展に寄与するもの」ともとれるけれども,第1項が教育中心に書いてあるため,あくまで「人材養成を通じて社会の発展に寄与する」ことをいっていると考えた方が自然と思う.

 なお,同じく1947年にできた教育基本法では,当初,大学に関する記載はなかった.しかし2006年に改訂された教育基本法では大学に関する条文が次のように追加された.

第7条 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

 この教育基本法だと研究が大学の目的として明記されている(深く真理を探究して新たな知見を創造し).学校教育法は2020年の改訂であるので,大学の目的は教育基本法のこの条文に入れ替えればよさそうなのに,なぜかそうはならなかった.
 ここまでが現状である.この現状に慣れてきた大学教員にとって,例えば,「イノベーション? そんなの大学とは関係ねぇ」と思うのではないか?

縦割り行政が大学を制約してきた

 ちゃんと調べていないで間違っているかも知れないが,日本と米国では大学の存立基盤がかなり異なっていて,そのことが日本の大学の存在を小さくしてきたように感じている.
 印象として,米国では,大学(少なくとも州立大学)は広い意味での社会資本ないし公共財であって,単なる学校ではない.米国にも連邦政府に Department of Education はあるけれども,日本の文科省のように大学を直接規制することはない.もともと(特に州立)大学は州の存立のために設置された.多くの州の主要産業は農業であったから,農学のCollege は歴史がある.日本だと農業試験場のようなものが昔からあったが,管轄は今の農水省であるから,文科省管轄の大学とは別にできる.また別の省が作る高等教育相当の機関は文科省の大学にはなれずに「大学校」と称することになった.米国の場合,日本のような縦割り行政がないので,何かを作るときはまず大学に作ることになるように思う.大学は大きなスタジアムや陸上競技施設を持つ.日本の大学が大学での体育の授業をする程度の体育施設しか持たないのとは対象的である.また,企業が研究に投資する場合も,自前の研究所を作ることもあるだろうが,お金を大学に出して研究所を作らせる,ということが起きやすい.その結果,大学が大きな社会資本ないし公共財として成長してきた.日本は大学が学校の規模のままであり,文科省管轄の世界以外からは切り離された世界になり,学校として小さく成長して現在に至った,ということではないかと思う.
 法的には,日本では各省庁が扱う事項を省ごとの設置法で決めてしまっている.大学を文部科学省が管轄することは文部科学省設置法の所掌事務としてまとめられている.そして大学は,小中高校と同じ発想で管理される結果になったのではないか,という印象を私はずっと受けている.
 私は2017年に埼大を退職したけれども,当時よく,文科省主導で「高大接続」が叫ばれた.私は内心やれやれと思った.高校と大学をなぜ接続させる必要があるか? 高校の校長は高大接続を願うらしいが,昔高校を卒業した人が遅れて大学に入学することもある.高校は高校で目的があり,大学もそれぞれに目的があるのだから,高校でやっていることに制約されることなく大学は入試をやってよいのだと思う(出題範囲を明示する必要はあるとしても).高大接続などという発想が出てくるのも,文科省が「学校」を一括して管轄する結果だろう.
 高橋洋一氏のYouTube動画を見ると,省ごとに所掌事務を法律で決めている国は日本以外にないらしい.政府の所掌事務は決まってても法的に省に分けてはおらず,どこが扱うかは政府(政権)が決めるらしい.したがって日本においてきわめて縦割り行政が強く,その結果大学の存在が狭い範囲に限られる結果になった可能性がある.

今生じていることの意味

 この縦割り行政の制約を政府が崩そうとしている,という現実を,今,われわれは目にしているのだと私は思う.私がそのように思うようになったのは,このブログで少し前に扱った,大学への総合振興パッケージの資料を目にしたときである.大学支援の補助金として,文科省の補助金以外に経産省や内閣府,総務省の補助金が例示されていた.大学の支援は文科省だけでなく,関連他省庁が関与し,その「連合軍」を内閣府でまとめている感がある.最終的に大学の世話をするのは法的に文科省になるのであるが,政府が全体でかかわるようになったといってよい.
 大学への行政の関与が「連合軍」になって来たのは第2次安倍政権になってからと思う.ちょうどその頃に文科省も「グローバル人材」といい始めたのであるが,私が今確認できたことでいうと,2014年の骨太の方針で「大学の徹底した国際化、理工系人材の育成、教育研究基盤の確立」と書き始めている.この頃から大学の研究を日本の成長戦略の要と位置づけ始めたのである.この傾向が現在の国際卓越研究大学,総合振興パッケージ(その中身の評価は別にして)によって,より明確になったというべきだろう.
 総合振興パッケージでは,新産業の創出や地域創生,イノベーションといった,学校教育法による大学の規定からは飛躍する課題が大学に対して向けられるようになった.そして大学の振興は文科省だけに任せるのではなく,複数省庁が関与する方向が明確になってきたように思う.この大学振興策の発想の元にあるのは,米国の大学の姿なのではないかと思う.

象徴としての加計問題
 
 安倍政権時代に騒いでいた加計問題は,実は象徴的な出来事だったと見るべきだろう.当時(実は今も),大学の認可は法的根拠もなく文科省が握っていた.大学の認可は文科省の専管事項であり,獣医学部1つを総理大臣でも作らせることはできなかった.文科省が既存業界と談合して半世紀に渡って獣医学部を作らせなかった.医学部についても同じことがいえる.
 だから獣医学部を作らせるために官庁の支配の例外を許す「特区」を設定したのが加計問題だった.「特区」は内閣府が主導する枠組みだった.加計学園の獣医学部は,文科省の専管事項を侵害する出来事である.だから当時,文科省(文科大臣は除く)は組織として安倍政権と争った.前川喜平が安倍総理を批判しつつ主張したのは「大学のことは文科省が決める,政治が口出すのはおかしい」という点だった.前川の主張は権限を既存省庁が握り続け,それによって天下り先を確保する官庁固有の行動だったというべきだろう.
 その後,政府は東北地方に例外的に医学部を1つ新設させたけれども,その新設も「東北復興」という名目を使って例外的に行ったことだった.
 このように,文科省(など既存官庁)による岩盤を崩す試みが,不十分ながら行われる事例があった.それらは何れも既存官庁の縦割りによる専管事項を崩す試みだったといえる.現状での大学行政は,内閣府にいくつかの官庁が関与しつつ連合軍として文科省を主導するという方式になったのだと思う.

この変化は望ましいのではないか?

 今の大学行政に生じている変化は,左翼勢力が大学で繁殖させて来た勢力を温存したい立場からすると改悪であるが,この国と大学の将来にとっては望ましいことであると私は思う.今後の知識社会において大学が産業や社会一般を牽引することは必然である.大学が官民の投資を受けられるようにすることで,社会の中で大学の存在は「学校」を超えて大きくなる.政府はなぜか,大学により強いガバナンスを求めているが,個別の是非はともかく,方向性としては仕方ないことと思う.教員の選挙によって学長が決まり,学長によって大学の方針が変わるようでは,大学は投資の対象にはなりにくい.個別の学長の意向を超えて「合議体」が学長と経営方針を決めるようでないと(うまく行くかどうかはともかく),大学は広い投資の対象にはならない.クーデターの多い国が投資を呼び込めないのと同じである.
 より大きな存在の大学を出現させることが,今の大学の課題であろうと感じる.

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